パウル・ギースラー

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パウル・ギースラー

パウル・ギースラーPaul Giesler1895年6月15日-1945年5月8日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党の、南ヴェストファーレン大管区ミュンヘンオーバーバイエルン大管区大管区指導者バイエルン州首相。敗戦の直前、ヒトラーの遺書によって内務大臣に任命された。また突撃隊隊員でもあり最終階級は突撃隊大将

略歴[編集]

プロイセン王国ヴェストファーレン州ジーゲンにて建築家の息子として生まれる。弟にヘルマン・ギースラーがいる。

第一次世界大戦においては、1914年から1918年まで兵役につき、最終的には中尉にまで昇進している。

戦後の1919年に鉄兜団、前線兵士同盟に入り、1927年まで在籍した。同年、ダルムシュタットで建築学を学び、1922年から1933年まで建築家として働く。同時に1925年から1927年にかけてジーゲンの退役軍人協会の指導者でもあった。1922年に国家社会主義ドイツ労働者党に入党し、同時に突撃隊に入隊した。1924年にはナチ党の演説者として活躍した。1928年に再入党し(党員番号72,741)、1929年にはヴェストファーレン地区指導者(Ortsgruppenleiter)および大管区演説者を務めた。 1932年に突撃隊大佐に昇進。1933年11月の総選挙に当選し国会議員となる。1934年4月20日に突撃隊少将に昇進。同年の長いナイフの夜事件においては休暇中であったため粛清から難を逃れている。1935年5月には突撃隊旅団「オルデンブルク・オストフリースラント」指導者、1936年9月ミュンヘンの突撃隊集団「ホッホラント」幕僚長、1938年6月からは突撃隊集団「アルペンラント」指導者を歴任した。1937年11月には突撃隊中将に昇進している。ポーランド侵攻及びフランス侵攻には予備役将校として従軍した。

1941年に大管区指導者代理としてミュンヘンの党官房に派遣される。11月からは南ヴェストファーレン大管区指導者に任命される。1942年6月からは重度の脳卒中になり、ほとんど活動できなくなったミュンヘンオーバーバイエルン大管区指導者であるアドルフ・ワーグナーの政務代行を務めた。11月にバイエルン州首相であるルートヴィヒ・ジーヴェルトが死去すると州首相の座を引き継いだ。1943年1月30日、突撃隊大将に昇進。6月18日に南ヴェストファーレン大管区指導者の地位をアルベルト・ホフマンde:Albert Hoffmann)と交代している。

1944年4月12日にアドルフ・ワーグナーが死去すると、正式にミュンヘンオーバーバイエルン大管区指導者に就任する。9月25日からは国民突撃隊ミュンヘンオーバーバイエルン指導者に任命される。1945年3月にアメリカ軍が近づくとダッハウ強制収容所にいる収容者の殺害を計画し、拒否した「南」親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタインを党官房長マルティン・ボルマンの命令で「敗北主義者」として全官位を剥奪させた。4月29日に起こったバイエルン自由行動(de:Freiheitsaktion Bayern)の反乱を親衛隊の力を借りて鎮圧する。この時に反乱に加わった市民がヴェアヴォルフによって殺害される「ペンツベルクの殺戮の夜de:Penzberger Mordnacht)」事件が起こった。同日ミュンヘンから逃亡している。ヒトラーの遺書においては内務大臣に内定された。5月8日にベルヒテスガーデンにおいて妻と母親ともに自殺した。

参考文献[編集]