バビロン
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バビロンはメソポタミア地方の古代都市。市域はバグダードの南方約90kmの地点にユーフラテス川をまたいで広がる。語義はアッカド語のバビリムBab-ilim(神の門)に由来し、マルドゥクを守護神とした。ウル第3王朝崩壊後のイシン・ラルサ時代の群雄割拠をこの都市に開かれたバビロン第1王朝第6代の王ハンムラビが制して以後、メソポタミア下流域の重要都市として浮上した。これ以後のメソポタミア下流域、すなわちシュメールとアッカドの地を、ギリシア語で「バビロンの地」を意味するバビロニアの地名で呼ぶ。
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[編集] 歴史
都市バビロンの記録は前3千年紀末に登場する。ここにアムル人がバビロン第1王朝を建設し、前18世紀に第6代の王ハンムラビがメソポタミアを統一した。
その後、カッシートやアッシリア帝国などの支配を経るが、一貫してメソポタミア地方の中心であった。貿易の商工業の中心であり、物資集積場であった。紀元前600年代の新バビロニア王国時代になって、その首都となるとイシュタル門や、今でも謎を残す空中庭園などの建造物が作られ、オリエント有数の大都会として栄えた。しかし、新バビロニアがアケメネス朝ペルシア王国に滅ぼされ、ペルシャの一都市となってからはその重要性が低下。度重なる洪水などによって破壊され、やがては大都市の面影をとどめないさびしい土地となってしまった。
その後、ペルシア王国を滅ぼしたアレクサンドロス大王がここを都としたが、紀元前323年のバビロンでの彼の死に伴ってバビロン会議が開催され、彼の遺将たち(ディアドコイ)によって権力と所領の分割協定が結ばれた。しかし、やがてディアドコイ戦争が勃発し、紆余曲折を経てディアドコイ一人セレウコス1世がバビロンとアジアの大部分の支配者となり、紀元前312年にセレウコス朝を開いた。しかし、幾人かの王の中興があったものの彼の時代をピークにセレウコス王朝は次第に領土を喪失していき、紀元前130年代にバビロンを含むバビロニアをパルティア王国に奪われた。
[編集] ユダヤ教・キリスト教における伝承と位置づけ
旧約聖書創世記ではバベルと表記され、バベルの塔の伝承にて混乱(バラル)を語源とすると伝える。創世記10章第2節によると、ノアの子ハムの子孫である地上で最初の勇士ニムロド(ニムロデ)の王国の主な町が、シンアルの地にあったバベル、ウルク、アッカドであったという。この直後の創世記11章がバベルの塔の伝承であり、ここで東方からシンアルの地へ移住した人々による都市バベル及びバベルの塔の建設が述べられているため、この建設事業をニムロドに帰する神学解釈がある。
新バビロニア王国時代のバビロンと周辺の数箇所の都市には、滅ぼされたユダ王国の指導者層が強制移住(バビロン捕囚)させられ、この事件がそれまで神殿宗教であったヤハヴェ信仰をユダヤ教に脱皮成長させる大きな契機となり、ひいてはユダヤ人の民族形成史上、大きな役割を果たした。
また、イラクにおけるユダヤ人コミュニティーの起源ともなったが、このようにユダヤ教の成立過程に深く関わったバビロンはユダヤ教やその系譜を引くキリスト教といったヤハヴェ信仰の一神教において正義の対抗概念のイメージを背負わされており、さらにイザヤ書とエレミヤ書の預言と新約聖書のヨハネの黙示録の故事から、ヨーロッパなどのキリスト教文化圏においては退廃した都市の象徴として扱われることが多い。
[編集] 宗教
50以上の神殿があり、主神はマルドゥク。他にも三位一体で黄道帯の支配者であるシン(月)、シャマシュ(太陽)、イシュタル(金星)などが祀られていた。
[編集] 都市の構造
二重構造の城壁で囲まれており、内側の塁壁は二列に並んでいて内側の壁は厚さ6.5メートル、外側の壁は厚さ約3.5メートルでその外には南と北にユーフラテス川から水を引いた堀があり、城門が八つあったという。またネブカドネザル2世によって付け加えられた外側の塁壁も二列に並んでいて、内側の壁の厚さは約7メートルあった。東部にはもう一組の二重城壁があった。いくつかの門から市内に街路が通っていて、主要な大通りの行列道路は舗装され両側の壁は神々の象徴であるライオンや竜ムシュフシュの像で飾られた。