オディロ・グロボクニク

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オディロ・グロボクニク
Odilo Globocnik
Bundesarchiv Bild 146-2007-0188, Odilo Globocnik.jpg
1938年、親衛隊大佐の頃のグロボクニク
生誕 1904年4月21日
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア・ハンガリー帝国
トリエステ
死没 1945年5月31日
Flag of German Reich (1935–1945).svg ナチス・ドイツ
パテルニオン
所属組織 Flag Schutzstaffel.svg 親衛隊(SS)
軍歴 1933年‐1945年
最終階級 親衛隊中将
警察中将
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オディロ・ロタール・ルドヴィクス・グロボクニク[1] (Odilo Lothar Ludovicus Globocnik、1904年4月21日1945年5月31日)は、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の将軍。第二次世界大戦中にポーランドルブリン地区の親衛隊及び警察指導者を務め、ラインハルト作戦(ユダヤ人のゲットーを解体して絶滅収容所へ移送する計画)の執行にあたった人物として知られる。最終階級は親衛隊中将および警察中将(SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Polizei)[2]。「グロボチニク」「グロボチュニク」「グロボツニク」などの表記も散見する。愛称はグローブス(Globus)。

経歴[編集]

オーストリア時代[編集]

当時オーストリア・ハンガリー帝国領だったトリエステにハプスブルク騎兵隊大尉フランツ・グロボクニクとその妻アンナの息子として生まれる。オディロも陸軍幼年学校に入ったが、第一次世界大戦の影響でケルンテンクラーゲンフルトへ移り、文官の高校へ入学した。

卒業後、ケルンテンで建築士の仕事をした。1922年にオーストリア・ナチ党に入党。1931年3月1日にはドイツ・ナチ党にも入党(党員番号412,938、後に442,939)している。また1932年9月1日に親衛隊(SS)の隊員となる(隊員番号292,776)。オーストリアでのグロボクニクは、オーストリア・ナチ党とドイツ・ナチ党との連絡役を務めていた。1934年末頃にはドイツ・ナチス党のSD長官ラインハルト・ハイドリヒのオーストリアでの密接な連絡者になっていた。1936年7月16日にはアドルフ・ヒトラーベルヒテスガーデンの山荘に招かれており、オーストリア・ナチ党が非合法活動から手を引くことを求められた。

グロボクニクは、フリードリヒ・ライナーen:Friedrich Rainer)やエルンスト・カルテンブルンナーに近い立場をとっており、オーストリア・ナチ党の合法化に固執しなかった。1933年から1935年にかけてグロボクニクは4度にわたりオーストリア警察から逮捕されている。しかしその後、ライナー・カルテンブルンナー・グロボクニクらは、合法路線のアルトゥル・ザイス=インクヴァルトらと連携し、ザイス=インクヴァルトのナチス党政権をつくることに尽力した。

ナチス・ドイツ時代[編集]

ウィーン大管区指導者時代のグロボクニク。1938年

アンシュルス(オーストリア併合)直後の1938年3月からウィーン地区のドイツ国会議員となる。3月12日には親衛隊大佐(SS-Standartenführer)に昇進し、親衛隊上級地区「ドナウ」(SS-Oberabschnitt "Donau")司令官エルンスト・カルテンブルンナーの幕僚となる。

1938年5月22日にアドルフ・ヒトラーは、グロボクニクをナチス党のウィーン大管区指導者に任じた。しかしグロボクニクはこの地位を利用して汚職ばかりに手を染めたため、ヒトラーも呆れ果て、1939年1月30日をもってグロボクニクからウィーン大管区指導者の職を取り上げ、ヨーゼフ・ビュルケルに変更した。

ところがSS長官ハインリヒ・ヒムラーはグロボクニクを許したため、彼がSSから追放されることはなかった。この後、グロボクニクは名誉回復の場を求めるようになり、親衛隊特務部隊に入隊を希望し、1939年3月から第2連隊「ゲルマニア」に入隊した。一般親衛隊での階級の継承は認められず、親衛隊少尉[3]としての勤務であった。

第二次世界大戦中[編集]

ルブリン親衛隊及び警察指導者時代のグロボクニク(コートの人物)。当時は親衛隊少将。 1940年

ドイツ軍のポーランド侵攻の際にも「ゲルマニア」に従軍した。占領後の1939年11月9月、ヒムラーは、グロボクニクに再度チャンスを与えた。グロボクニクをポーランドルブリン地区の親衛隊及び警察指導者を命じたのであった。グロボクニクは名誉回復のためにもここで与えられることとなる任務ホロコーストを忠実に実行する。

ルブリン地区にベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所マイダネク強制収容所など悪名高いユダヤ人絶滅収容所を続々と設置。またルブリン地区ではないが、トレブリンカ強制収容所の設置にも携わった。グロボクニクの監督したこれらの収容所では、ラインハルト作戦(ポーランドのユダヤ人の絶滅収容所への移送作戦)に沿って移送されてきたユダヤ人をはじめ、ロマ同性愛者、共産主義者など大勢が虐殺された。その数は実に150万人にも及ぶ。1942年11月9日に親衛隊中将及び警察中将に昇進している[4]

ベニート・ムッソリーニが失脚し、ドイツ軍がイタリアへ侵攻した後の1943年9月にグロボクニクは、生まれ故郷のトリエステ(この頃はイタリアのフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州となっていた)に配属され、イタリアの親衛隊及び警察最高級指導者カール・ヴォルフの下でアドリア海岸作戦地域の親衛隊及び警察高級指導者となった。ここでの彼の任務はパルチザンの掃討が主であったが、同時にイタリア国内でユダヤ人狩りも行っている。しかし連合軍が接近してくるとグロボクニクは、オーストリアのケルンテン州へ逃亡。少数の親しい者と一緒にヴァイセンゼー(ケルンテン)ドイツ語版近くの山小屋に身を隠すようになった。

ドイツ敗戦後の1945年5月31日、グロボクニクはイギリス軍により見つけ出されて逮捕されたが、その日のうちにパテルニオンドイツ語版においてシアン化物のカプセルを服用して自殺したとされる。なお彼が死んだ証拠とされる写真には偽造説があり、グロボクニクは、金や宝石と引き換えにイギリス兵を買収して逃れたのではないかともいわれる。また他のナチ戦犯とともにシリアで生涯を終えたなどともいわれるが、真相は不明。本稿では死亡日は一般的な1945年5月31日とする。

キャリア[編集]

階級[5][編集]

  • 1937年11月9日、親衛隊少尉(SS-Untersturmführer)
  • 1938年5月23日、親衛隊大佐(SS-Standartenführer)
  • 1938年9月28日、親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)
  • 1939年6月3日、親衛隊特務部隊の予備役親衛隊兵長(SS-Rottenführer d.R. der SS-Verfügungstruppe)
  • 1939年不詳、親衛隊特務部隊の予備役親衛隊軍曹(SS-Unterscharführer d.R. der SS-Verfügungstruppe)
  • 1939年11月1日、親衛隊特務部隊の予備役親衛隊少尉(SS-Untersturmführer d.R. der SS-Verfügungstruppe)
  • 1939年11月18日、親衛隊少将(SS-Brigadeführer)
  • 1941年9月26日、警察少将(Generalmajor der Polizei)
  • 1942年11月9日、親衛隊中将及び警察中将(SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Polizei)

受章[6][編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ フルネームの情報源は『Leaders of the SS & German Police, Volume I』401ページ
  2. ^ 親衛隊中将の情報源は『Leaders of the SS & German Police, Volume I』401ページ
  3. ^ 『Allgemeine-SS』95ページ
  4. ^ 『Allgemeine-SS』95ページ
  5. ^ 『Leaders of the SS & German Police, Volume I』401ページ
  6. ^ 『Leaders of the SS & German Police, Volume I』401ページ

関連項目[編集]