エルンスト・カルテンブルンナー
|
Ernst Kaltebrunner
|
|
|---|---|
| 生年月日 | 1903年10月4日 |
| 出生地 | リート・イム・インクライス |
| 没年月日 | 1946年10月16日(満43歳没) |
| 死没地 | バイエルン州、ニュルンベルク |
| 出身校 | グラーツ工科大学 |
| 前職 | 弁護士 |
| 所属政党 | |
| 称号 | 法学博士 親衛隊大将・警察大将・武装親衛隊大将 血盟勲章 |
| 配偶者 | エリーザベト・エーデル |
|
|
|
| 任期 | 1937年1月20日 - 1943年1月31日 |
|
|
|
| 任期 | 1938年9月11日 - 1943年1月31日 |
|
|
|
| 任期 | 1939年1月 - 1945年5月 |
|
|
|
| 任期 | 1943年1月30日 - 1945年5月 |
|
インターポール総裁
|
|
| 任期 | 1943年1月30日 - 1945年5月 |
エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner, 1903年10月4日 - 1946年10月16日)は、オーストリア及びドイツの法律家、政治家。親衛隊の幹部。オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)を経て、ラインハルト・ハイドリヒの死後の1943年にRSHA長官となり、ヨーロッパにおいてユダヤ人の絶滅政策の執行にあたった。ドイツ敗戦後にニュルンベルク国際軍事裁判において戦争犯罪人として起訴され、死刑宣告を受けて絞首刑に処せられた。最終階級は親衛隊大将、武装親衛隊大将及び警察大将。
目次 |
生涯 [編集]
前半生 [編集]
1903年、オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州の工業都市リート・イム・インクライス(de:Ried im Innkreis)に生まれる。父は弁護士のフーゴ・カルテンブルンナー(Hugo Kaltenbrunner)。母はその妻テレーゼ(Therese)。カルテンブルンナー家はカトリック家庭で祖父の代から弁護士だった[1][2]。
7歳までラープで育ち、1913年にリンツの実科ギムナジウムに入学。ギムナジウム在学中に汎ゲルマン主義的で反教権主義的なブルシェンシャフト「ホーエンスタウフェン」に加入している[1]。またこのギムナジウムにはアドルフ・アイヒマンも通っており、二人は友人だった[3][4]。
1921年秋にグラーツのグラーツ工科大学に入学した。はじめ化学を専攻したが、1923年に法学に転じた[1][5][4]。1926年夏に法学博士の学位を取得している[1][5]。カルテンブルンナー本人によれば彼の大学生活は、炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったといい、しばしば自分が労働者の友である事を強調していた[2]。大学在学中にブルシェンシャフト「アルミニア」に加わっている[4][6]。カルテンブルンナーは熱心な活動家であり、団体の中心的役割を占めた。汎ゲルマン主義、反教権主義、反ユダヤ主義、反自由主義思想などに影響され、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した[6]。
1926年にグラーツからリンツへ移り、リンツ地方裁判所において司法官試補の研修を受けた。1928年には弁護士の事務所に就職した[7]。
オーストリア・ナチ時代 [編集]
1928年に国粋主義的体操クラブ、1929年に護国団の準軍事活動に参加した[4][7]。しかしこれらの団体はカルテンブルンナーの主目的であったドイツによるオーストリア併合に充分熱心とは言えなかったため、彼は1930年10月18日にオーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党に入党した[4][5][7]。さらにヨーゼフ・ディートリヒの勧めで1931年8月31日に親衛隊に入隊した(隊員番号13039)[4][5][8]。オーストリアの親衛隊部隊はオーストリア・ナチ党の指揮下ではなく、ドイツの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの直接指揮下にあった[9]。
1932年から父の法律事務所で働き、ナチ党員の無料弁護活動に奉仕した[4]。1933年にドイツでナチ党が政権を取ると、オーストリアでもナチ党の活動が活発となり、政府の警戒心が高まり、1933年6月にエンゲルベルト・ドルフース首相によってオーストリアナチ党は禁止された。ドルフースはナチ党員を逮捕して強制収容所へ入れた[9]。カルテンブルンナーは1934年1月14日にはエリーザベト・エーデル(Elisabeth Eder)と結婚したが、この翌日にナチ党員として逮捕され、カイザーシュタインブルッフ収容所に収容された[10]。同年4月まで収容されていた[5]。
1934年6月15日にリンツの親衛隊第37連隊(37.SS-Standarte)司令官に任じられた[11][12]。1935年5月に国家反逆罪で再逮捕された[13]。禁固6ヶ月に処されるとともに弁護士資格をはく奪された[5][13][14]。ヒムラーはそれでもカルテンブルンナーにオーストリアに留まるよう命じ、1935年6月15日に彼を第37連隊司令官から親衛隊地区VIII区(本部リンツ)司令官に昇進させた(1938年3月12日まで在職)[15][16]。カルテンブルンナーはしばしばリンツから密入国でドイツに入り、ヒムラーやSD長官ラインハルト・ハイドリヒ、SD外国部長ハインツ・ヨストなどに報告を行った[15]。1936年以降、ドイツの「オーストリア救済事業局」から資金の流れる救済事業局基金を非合法で設置し、オーストリアの地下運動指導者にその資金を配分し、彼らを通じてドイツ政府からの秘密指令を伝達した[15]。
1936年7月11日に駐ウィーン・ドイツ公使フランツ・フォン・パーペンの仲介でオーストリア首相クルト・シュシュニックとドイツ総統アドルフ・ヒトラーの間に協定が成立した。ヒムラーからオーストリアの親衛隊にこの協定を破壊するような活動をしないよう命令が下り、1937年1月20日に急進派を抑えられる者としてカルテンブルンナーがオーストリア全域の親衛隊の総指揮者である親衛隊上級地区「エスターライヒ(オーストリア)(Österreich)」の司令官に任じられた[4][17][18]。カルテンブルンナーはオーストリアナチ党の中でケルンテンの党指導者フリードリヒ・ライナー(de)に近い立場を取っていた。すなわちシュシュニックがナチ党を合法化する見込みはなく、したがって非合法活動からの完全な撤収には反対するという立場だった。しかしライナーとカルテンブルンナーは、ヒムラーからの要請を受けいれて、穏健派のアルトゥール・ザイス=インクヴァルトの立場を支持するに至った[19]。カルテンブルンナーらはザイス=インクヴァルトと対立するナチ党下オーストリア大管区指導者ヨーゼフ・レオポルト(de)らを失脚させる事に成功し、オーストリア・ナチ党の党内抗争に勝利した[20]。
オーストリア併合 [編集]
1938年2月12日に行われたベルヒテスガーデンでのヒトラーとシュシュニックの会談に基づき、2月16日にザイス=インクヴァルトがオーストリア内相に任命された[20][21][22]。
しかしシュシュニックはなおもオーストリア独立にこだわったので、ヒトラーは、3月11日午前2時頃にドイツ軍部隊を国境に出動させた。ヒトラーやヘルマン・ゲーリングからの要求で同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任し、ヴィルヘルム・ミクラス(de)大統領は後任としてザイス=インクヴァルトを首相に任命した[23]。
ザイス=インクヴァルト新首相はシュシュニック時代からの保安担当国務長官(Staatssekretär für öffentliche Sicherheit)ミヒャエル・スクーブル博士(de)を留任させたが、ヒムラーから介入があり、スクーブルは辞職することになり、カルテンブルンナーがその後任となった[4][24]。3月13日にはオーストリアで「オーストリアとドイツ国との再統一に関する法律(合併法)」が制定され、オーストリアはドイツのオストマルク州となった[24]。
オーストリア併合後 [編集]
1938年3月13日のオーストリア併合後もオストマルク州国家代理官となったザイス=インクヴァルトのもとで1938年8月までオストマルク保安担当国務長官を引き続き務めた[5]。ヒムラーの命令でリンツの東方約20キロの場所に作られたマウトハウゼン強制収容所の創設に関与した。またオーストリアのゲシュタポ組織の創設にも関与した[4]。1939年1月にはドイツ国会の国会議員となる[5]。
また1938年3月に併合とともに親衛隊上級地区「エスターライヒ」の本部をリンツからウィーンに移し、続いて1938年5月には親衛隊上級地区「ドナウ」と名称を変更させた[25]。1938年9月11日にウィーンに本部を置く「ドナウ」親衛隊及び警察高級指導者職も与えられた[26]。カルテンブルンナーが務める親衛隊上級地区「ドナウ」指導者と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者は、はじめオーストリア全域の親衛隊と警察を支配する職位であったが、1939年にオーストリア地域の親衛隊と警察を二分割する再編成があり、「ドナウ」から分かれて「アルペンラント」という親衛隊及び警察高級指導者職と親衛隊上級地区が新設された。これによりザルツブルク、ティロル、フォアアールベルク、ケルンテン、シュタイアーマルク、ブルゲンラント南部は「アルペンラント」の管轄となった。ウィーン、オーバーエスターライヒ、ニーダーエスターライヒ、ブルゲンラント北部の親衛隊と警察のみがカルテンブルンナーの「ドナウ」の所管となった[27][28]。
親衛隊及び警察高級指導者は、ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊全国指導者、全ドイツ警察長官の地位を地域レベルで代行する職位であるので理論上はその管轄地域の親衛隊と警察に最高指揮権があるはずだが、ラインハルト・ハイドリヒの保安警察やクルト・ダリューゲの秩序警察は地方に保安警察監察官や秩序警察監察官を設け、地元の保安警察や秩序警察の指揮を取らせていた。保安警察監察官は保安警察長官(ハイドリヒ)、秩序警察監察官は秩序警察長官(ダリューゲ)に属し、親衛隊及び警察高級指導者の指揮下には事実上なかった。カルテンブルンナーの管轄する「ドナウ」でもこうした事態となり、カルテンブルンナーの地元の警察への指揮権はかなり制限されたものであった[29]。
ハイドリヒはオーストリア併合後すぐにウィーンにアドルフ・アイヒマンを派遣してユダヤ人国外移住本部を創設させ、オーストリア・ユダヤ人の国外追放を徹底的に行ったが、こうした活動にもカルテンブルンナーは一切関与していない[27]。
カルテンブルンナーは、親衛隊上級地区「ドナウ」指導者職と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者職に国家保安本部長官の職務にあたるようになった1943年1月31日まで在職している[30]。
国家保安本部長官 [編集]
1942年6月4日に国家保安本部(RSHA)長官ラインハルト・ハイドリヒがチェコ人工作員の襲撃で負った傷が原因で死去した。その後、ハインリヒ・ヒムラーが国家保安本部長官を兼務していたが(国家保安本部長官代理にブルーノ・シュトレッケンバッハが任じられていた)、1942年12月10日にヒムラーはヒトラーの同意を得て、カルテンブルンナーを後任の国家保安本部長官に内定した[31]。1943年1月30日にカルテンブルンナーは国家保安本部長官に任命された[4]。1月31日にヒトラーがカルテンブルンナーの国家保安本部長官任命を発表した[32]。
これによって彼はゲシュタポ、刑事警察、親衛隊情報部(SD)、および東部戦線後方で敗戦までに100万人を殺害したアインザッツグルッペンなどの責任者となった[4]。人種再定住計画や「ユダヤ人問題の最終的解決」の執行者となった[33]。カルテンブルンナーの督励により、ヨーロッパ中でユダヤ人狩りが組織的に実行され、数百万人が抹殺された[13]。しかし基本的にはカルテンブルンナーはヒムラーとハイドリヒがすでに敷いた路線を継承したにすぎなかった[33]。カルテンブルンナーがこれまでの路線に変更を施したところといえば、1943年春と夏にこれまで絶滅政策の対象外となっていたテレージエンシュタット・ゲットーの「特権的ドイツ系ユダヤ人」たちも絶滅過程に組み入れることを決定したことがある[34]。
1944年2月にはヴィルヘルム・カナリス提督の失脚に伴い、その指揮下だった国防軍諜報部「アプヴェーア」は、国家保安本部第VI局(局長ヴァルター・シェレンベルク)の下部組織にされた[4][13]。
1944年3月には「弾丸布告(Kugel-Erlaß)」を発令した。これによりアメリカ人とイギリス人を除く逃亡した戦争捕虜は国家保安本部の保安警察とSDに引き渡され、マウトハウゼン強制収容所で銃殺されることとなった[32]。
1944年3月にドイツ軍がハンガリーを占領。カルテンブルンナーは1944年3月22日にハンガリーに赴き、新しい首相に立てられた親独派ストーヤイ・デメと会見した。ハンガリー政府が国家保安本部が行う「ユダヤ人問題の迅速な解決」に協力し、ユダヤ人移送を妨害しない約束を取り付けた。その後も数日間ブダペストに留まり、ハンガリー当局とユダヤ人移送について協議し、実施の詳細についてはアドルフ・アイヒマンにゆだねた。アイヒマンの指揮のもとに1944年5月半ばから6月30日までのわずか一ヶ月半の間に38万1600人のユダヤ人がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られ、うち24万人がガス室へ送られて殺された[35]。
1944年6月にはドイツを空爆した連合国パイロットの取り扱いについて国防軍最高司令部作戦本部長代理ヴァルター・ヴァルリモントと協議した。連合国パイロットのうち、直接に市民やその財産を狙う機銃掃射をしたと認められるパイロットは、SDに引き渡されて「特別待遇」に処す事を決定した[33]。
ヒトラー暗殺未遂事件 [編集]
1944年7月20日12時40分過ぎ、東プロイセン・ラステンブルクにあった総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に参謀本部大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(国内予備軍参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者がでたが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった(ヒトラー暗殺計画)。
カルテンブルンナーは事件の際にベルリンの国家保安本部にあったが、彼の初動捜査はお世辞にも良かったとはいえなかった。会議室から一人姿を消したシュタウフェンベルク大佐を尋問するようカルテンブルンナーは電話で命令を受けた。ただちにゲシュタポ将校フンベルト・アッハマー・ピフラーダー親衛隊上級大佐(de:Humbert Achamer-Pifrader)を国内予備軍司令部があるベントラー街国防省に派遣したが、ピフラーダーはシュタウフェンベルク達に拘束されてしまった。ピフラーダーが戻ってこないのに気づいたカルテンブルンナーと国家保安本部は今度は敵を過大に見積もってしまい、麻痺状態に陥ってしまった。彼らは「ヴァルキューレ作戦」に従ってベルリンの官庁街を動き回る国防軍軍人たちに対して何ら有効な手立てを打てなかった[36]。
しかし7月20日のうちにベントラー街内部で反クーデター派軍人がクーデター派軍人を取り押さえた。国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将の命令でシュタウフェンベルクらクーデター派のリーダー格は銃殺刑に処せられた。カルテンブルンナーはすぐにベントラー街に急行し、捜査を行うのでそれ以上独断の銃殺刑を執行しないようフロムに指示した[37]。
その後の捜査は国家保安本部を本拠として行われ、カルテンブルンナーが指揮を執った[38][39]。国家保安本部ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーの下に「1944年7月20日特別委員会」を創設させて捜査を開始させ、その調査結果をまとめて党官房長マルティン・ボルマンに提出した[40]。捜査は徹底して行われ、7,000人近くが逮捕された。そのうちローラント・フライスラーの人民裁判所へ送られて処刑された者の数は少なくとも200人に及ぶという[41]。カルテンブルンナーは捜査の責任者として人民裁判所で裁判の様子を傍聴したが、フライスラーの裁判指揮に不快感を抱いた。「この三文役者は、無能な革命家や失敗した暗殺者さえも殉教者にしてしまう。」と不満を漏らしている[42]。マルティン・ボルマンへの報告書の中でもフライスラーのやり方を批判しているが、ヒトラーはフライスラーのやり方でよいと判断し、陰謀者たちの裁判をその後もフライスラーに任せた。カルテンブルンナーの報告書は空振りに終わった[43]。
大戦末期 [編集]
カルテンブルンナーは1945年3月半ばと4月半ばに独断で単独講和を企て、SD将校ヴィルヘルム・ヘットル親衛隊少佐(de)をスイスへ派遣してアメリカの情報機関OSS(CIAの前身)のヨーロッパ代表アレン・ウェルシュ・ダレスと交渉させるなどしている。しかし交渉は失敗に終わった[13][44][45]。
敗戦も間近になった1945年4月19日にカルテンブルンナーは側近とともにベルリンを離れ、ザルツブルクへ自らの司令部を映した。「アルプス国家要塞」に立て籠もり、ここで最後まで抵抗を支援するはずだった。多くのナチ党高官が強奪した貴重品を持ち込み戦後に備えた。5月1日にはアルトハウスゼー(de)へ移った。アドルフ・アイヒマンがアルトアウスゼーにユダヤ人移送の報告に現れたが、カルテンブルンナーはもはや何の関心も示さなかった[44]。
捕虜 [編集]
1945年5月11日にアメリカ陸軍CIC(en)対情報部がカルテンブルンナーの身柄を拘束した[44]。
カルテンブルンナーはノルトハウゼン近くのアメリカ軍の収容所に送られた。当初アメリカ軍は彼がカルテンブルンナーだと認知しておらず、単なるドイツ軍将校と思っていたが、あるドイツ人女性の密告でカルテンブルンナーであることがばれた。まもなくルクセンブルクのバート・モンドルフ(de)のパレス・ホテルに設けられた収容所へ送られた[46]。ここはナチスの最大の大物と見なされた捕虜が収容されていた場所で、ヘルマン・ゲーリング、カール・デーニッツ、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、アルベルト・シュペーア、ヴィルヘルム・カイテル、フランツ・フォン・パーペン、ヒャルマル・シャハト、アルフレート・ローゼンベルク、ユリウス・シュトライヒャーなど後にニュルンベルク裁判にかけられることになる者たちが収容されていた[47]。
ニュルンベルク裁判 [編集]
1945年9月に国際軍事裁判が開かれることとなったニュルンベルクの刑務所に送られた[44]。
国際軍事裁判で彼は米軍による不当な待遇について述べ、うちひしがれた様子だった。彼は第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」で起訴された[48]。起訴状を届けられた時、カルテンブルンナーは「家族に会わせてくれ」と泣き出した[49]。起訴状についてコメントを書くことを求められると「いかなる戦争犯罪についても私は無罪だと思っています。私は諜報員としての任務を果たしただけです。ヒムラーの代役を務めることは拒否します。」と書いた[50]。
被告人達の心理分析官グスタフ・ギルバート大尉はニュルンベルク裁判の被告全員を対象にウェクスラー・ベルビュー成人知能検査を行った。カルテンブルンナーのIQ値は113で、被告の中ではユリウス・シュトライヒャーに次いで2番目に低かった[51]。
裁判の開廷直前に彼はクモ膜下出血を起こして独房の中で卒倒し、病院へ担ぎ込まれた[52]。不安とストレスで血圧を押し上げて血管が破れたのだった[53]。ニュルンベルク裁判は1945年11月20日から開廷したが、彼は治療のためにしばらく欠席した。しかし12月10日からは出廷させられた[54]。
裁判が始まると彼はいかなる手段を用いてでも死刑を避けようとするようになった。自分を弁護する法廷戦術として彼が用いたのは、ゲシュタポをはじめとする彼の指揮下にある機関が重大な犯罪を犯したことを認めつつ、彼自身はその犯罪へいかなる関与もしていないと主張することだった。彼は、自分が実行犯というよりはただそのような機密業務について、ある種の名目的代表を務めただけだと主張し、実際には諜報活動以外には一切携わっていないと主張した[50]。犯罪は自分が国家保安本部に関わりあいになる以前に行われた行動の結果だと主張した。必要とあらば検察が提示した文書の自分のサインを否認しさえした[55]。
1946年10月1日、被告人全員に判決が言い渡された。まず被告人全員がそろった中、一人ずつ判決文が読み上げられた。カルテンブルンナーの判決文は「カルテンブルンナーが、侵略戦争遂行計画に関与した証拠はない。ドイツ・オーストリア併合は、侵略戦争とは非難されていない。」として彼を第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」について無罪とした[48]。一方、「カルテンブルンナーは強制収容所の状況をよく知っていた」「強制収容所内でのユダヤ人の殺害はRSHAの管轄事項であり、カルテンブルンナーはその長官である」「"ユダヤ人問題の最終的解決"に指導的役割を果たした。」「"弾丸布告"をはじめとする捕虜の虐待と殺害に関与した」として第三起訴事項「戦争犯罪」と第四起訴事項「人道に対する罪」について有罪とした[56][57]。その後、個別に言い渡される量刑判決で彼は絞首刑判決を受けた[58]。
処刑 [編集]
1946年10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。カルテンブルンナーはヨアヒム・フォン・リッベントロップとヴィルヘルム・カイテルに次いで三番目に刑執行を受けた[59][60]。
最期の言葉は「私は私の国民と私の祖国に、熱い心をもって仕えました。私は私の義務を、祖国の法律に従って果たしました。困難な時代に我が国民がもっぱら軍人的な人たちに率いられなかったことを私は残念に思います。犯罪が行われた事も残念ですが、私はそれに何の関わりもありません。ドイツよ、健やかに。」だった[61]。
自殺したゲーリングを含めてカルテンブルンナーら11人の遺体は、ミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨はイザール川の支流コンヴェンツ川に流された[62]。
キャリア[5] [編集]
親衛隊階級 [編集]
- 1932年9月25日、親衛隊大尉(SS-Sturmhauptführer)
- 1936年4月20日、親衛隊大佐(SS-Standartenführer)
- 1937年4月20日、親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)
- 1938年3月12日、親衛隊少将(SS-Brigadeführer)
- 1938年9月11日、親衛隊中将(SS-Gruppenführer)
- 1941年4月1日、警察中将(Generalleutnant der Polizei)
- 1943年6月21日、親衛隊大将及び警察大将(SS-Obergruppenführer und General der Polizei)
- 1944年12月1日、武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)
受章 [編集]
肉声 [編集]
参考文献 [編集]
- 阿部良男著 『ヒトラー全記録 20645日の軌跡』 柏書房、2001年。ISBN 978-4760120581。
- ロベルト・ヴィストリヒ(en) 『ナチス時代 ドイツ人名事典』 滝川義人訳、東洋書林、2002年。ISBN 978-4887215733。
- 大野英二著 『ナチ親衛隊知識人の肖像』 未来社、2001年。ISBN 978-4624111823。
- グイド・クノップ(de) 『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』 高木玲訳、原書房、2008年。ISBN 978-4562041435。
- ゲリー・S・グレーバー(en) 『ナチス親衛隊』 滝川義人訳、東洋書林、2000年。ISBN 978-4887214132。
- ジョゼフ・E・パーシコ(en) 『ニュルンベルク軍事裁判〈上〉』 白幡憲之訳、原書房、1996年。ISBN 978-4562028641。
- ジョゼフ・E・パーシコ 『ニュルンベルク軍事裁判〈下〉』 白幡憲之訳、原書房、1996年。ISBN 978-4562028658。
- ハインツ・ヘーネ著 『SSの歴史 髑髏の結社』 森亮一訳、フジ出版社、1981年。ISBN 978-4892260506。
- ウェルナー・マーザー(de) 『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』 西義之訳、TBSブリタニカ、1979年。ASIN B000J8FC9M。
- ロジャー・マンベル 『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀』 加藤俊平訳、サンケイ出版〈第二次世界大戦ブックス31〉、1972年。ASIN B000J9FK48。
- レナード・モズレー著 『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』 伊藤哲訳、早川書房、1977年。ISBN 978-4152051332。
- Mark C. Yerger (2002) (英語). Allgemeine-SS. Schiffer Pub Ltd. ISBN 978-0764301452.
脚注 [編集]
- ^ a b c d 大野(2001)、p.232
- ^ a b パーシコ(1996)、上巻p.216
- ^ ヴィストリヒ(2002)、p.40
- ^ a b c d e f g h i j k l m LeMO
- ^ a b c d e f g h i Yerger(2002)、p.135
- ^ a b 大野(2001)、p.233
- ^ a b c 大野(2001)、p.234
- ^ 大野(2001)、p.234-235
- ^ a b 大野(2001)、p.236
- ^ 大野(2001)、p.237
- ^ 大野(2001)、p.238
- ^ Yerger(2002)、p.189
- ^ a b c d e ヴィストリヒ(2002)、p.41
- ^ 大野(2001)、p.238-239
- ^ a b c 大野(2001)、p.239
- ^ Yerger(2002)、p.130
- ^ 大野(2001)、p.240
- ^ Yerger(2002)、p.86
- ^ 大野(2001)、p.241-242
- ^ a b 大野(2001)、p.242
- ^ ヴィストリヒ(2002)、p.87
- ^ 阿部(2001)、p.354
- ^ 阿部(2001)、p.357
- ^ a b 大野(2001)、p.244
- ^ Yerger(2002)、p.85
- ^ Yerger(2002)、p.36
- ^ a b 大野(2001)、p.246
- ^ Yerger(2002)、p.37/83
- ^ 大野(2001)、p.246-247
- ^ Yerger(2002)、p.36/86
- ^ 大野(2001)、p.250
- ^ a b 大野(2001)、p.251
- ^ a b c 大野(2001)、p.252
- ^ 大野(2001)、p.253
- ^ 大野(2001)、p.256-257
- ^ ヘーネ(1981)、p.514
- ^ マンベル(1972)、p.174
- ^ グレーバー(2000)、p.228
- ^ マンベル(1972)、p.186
- ^ 大野(2001)、p.258
- ^ マンベル(1972)、p.187
- ^ クノップ(2008)、p.357
- ^ クノップ(2008)、p.369
- ^ a b c d 大野(2001)、p.272
- ^ ヘーネ(1981)、p.553
- ^ パーシコ(1996)、上巻p.56
- ^ マーザー(1979)、p.76
- ^ a b マーザー(1979)、p.323
- ^ パーシコ(1996)、上巻p.119
- ^ a b パーシコ(1996)、上巻p.218
- ^ モズレー(1977)、下巻p.166
- ^ パーシコ(1996)、上巻p.176
- ^ パーシコ(1996)、上巻p.177
- ^ パーシコ(1996)、上巻p.215
- ^ マーザー(1979)、p.323-324
- ^ マーザー(1979)、p.325
- ^ パーシコ(1996)、下巻p.271
- ^ パーシコ(1996)、下巻p.278
- ^ マーザー(1979)、p.392
- ^ パーシコ(1996)、下巻p.310
- ^ マーザー(1979)、p.393
- ^ パーシコ(1996)、下巻p.313
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- ドイツ国立図書館蔵書目録記載のカルテンブルンナー関連文献
- カルテンブルンナー年譜:LeMO
- カルテンブルンナー伝記と写真 (イタリア語)
- 公文書引用集
- Video of a Parade with Kaltenbrunner in January 1939
- Testimony of Rudolf Hoess in the Nuremberg Trial
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||