エルンスト・カルテンブルンナー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner, 1903年10月4日 - 1946年10月16日)オーストリア出身の法律家、親衛隊将官。ナチス・ドイツ国家保安本部長官を務めた。1946年ニュルンベルク国際軍事裁判において戦争犯罪人として告訴、のち死刑宣告を受け同年10月16日に絞首刑に処せられた。最終階級は親衛隊大将。
目次 |
[編集] 青少年期
エルンスト・カルテンブルンナーは1903年、オーバーエスターライヒ州リート・イン・インクライスで弁護士フーゴ・カルテンブルンナーとその妻テレーゼの間に生まれた。家庭は市民的だったが、大ドイツ主義と反教会的な気風を持っていた。
カルテンブルンナーはラープとリンツで少年期を過ごした後、1918年ギムナジウムで学ぶためグラーツに移ったが、このとき下宿でアドルフ・アイヒマンと知り合っている。ギムナジウム卒業後グラーツ工科大学で化学を学んだが、この学生時代に国粋主義的学生団体アルミニアに加わっており、身長198cmのカルテンブルンナーは活動熱心で決闘好きな学生として目立つ存在だった。1923年法学部に転部し、1926年博士号を取得した。しかし生活は苦しく、石炭運搬夫として働いている。それに続く司法実習の後1928年には父の弁護士事務所を継いだ。
しかしカルテンブルンナーは大学卒業後も、市民的生活を始める代わりに国粋主義的体操クラブやオーストリア防郷団のような準軍事団体で活動している。これらの団体はカルテンブルンナーの主目的であったドイツによるオーストリア併合に充分熱心とは言えなかったため、彼は1930年国家社会主義ドイツ労働者党に入党し、1932年親衛隊に入隊した。ここでカルテンブルンナーは逮捕された仲間の弁護によって有名になっている。
[編集] 逮捕と出世
1934年、カルテンブルンナーはエリーザベト・エーダーと結婚した。同年1月、国家社会主義のゆえに逮捕され、カイザーシュタインブルッフ収容所に短期間収容された。ここで彼はハンガーストライキを指導し、当局は490人の国家社会主義者を釈放せざるをえなくなったといわれている。
しかしカルテンブルンナーは釈放後すぐ、再びドルフス首相暗殺未遂の容疑で捕らえられ、ヴェルスの軍法会議に反逆罪で告訴された。長期間の取調べ後、反逆罪は立証されなかったものの、彼は禁錮6ヶ月と弁護士資格剥奪を言い渡された。出獄後はナチ党専従職員となり、1937年ハインリヒ・ヒムラーによってオーストリア全土のSS指導者に任命された。
ナチ党幹部アルトゥール・ザイス=インクヴァルトに追随したカルテンブルンナーはオーストリア政界の支配的な党派で急速にのし上がっていった。ザイス=インクヴァルトはオーストリアを騒擾に巻き込むことなく解体してドイツに編入させるよう主張・宣伝していたが、これはその他のオーストリア・ナチ党首脳部の闘争的な主張とは際立って異なっており、闘争的なやり方が外国に対する信用を失わせると考えていたヒトラーの目をひいた。
カルテンブルンナーはヒムラーの情報員としてオーストリアの政治状況の調査・報告を続け、1938年8月13日のオーストリア併合後は公安部次官に任命された。さらに1938年9月11日ヒムラーによってドナウおよびウィーン、そのほかドイツに編入されたオーストリア全域のSS指導者兼警察指導者に任命された。しかし彼は、親衛隊中将という階級にもかかわらず、しばしばSSの幹部たちに自分の権限を無視されて、親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒに頭越しに決定を下されたと感じ、自分が影響力を失ったように思った。
[編集] 終戦直前
1943年1月30日カルテンブルンナーはベルリンでハイドリヒ暗殺後にその他の職務と平行して一時的に国家保安本部長官を務めていたヒムラーからその長官職を引き継いだ。同年、カルテンブルンナーは親衛隊大将兼警察大将に昇進し、彼は悪名高い秘密警察、刑事警察、親衛隊情報部(SD)、および東部戦線後方で敗戦までに100万人を殺害した特別実行部隊(アインザッツグルッペン)の責任を負うことになった。
終末が近づくにつれて彼の権力は強くなり、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件後、解体されたカナリス海軍中将の国防軍情報部の国外諜報機能を部下のヴァルター・シェレンベルクに委ね、軍事情報を介してヒトラーと直接に接触を持つようになった。このためヒムラーにすら恐れられたといわれており、またアドルフ・アイヒマンが親衛隊大佐に昇進できなかったのはカルテンブルンナーの反対によるものだとされている。
1945年3月12日、カルテンブルンナーは当時の国際赤十字代表カール・ブルクハルトに対して、赤十字代表団を強制収容所に立ち入らせる約束をした。しかしこの約束には、訪問した代表団のメンバーは終戦まで収容所に留まらなければならないという条件が付いていた。このような条件にも関わらずルイス・ヘーフリガー(マウトハウゼン)、パウル・デュナン(テレージエンシュタット)、ヴィクター・マウアー(ダッハウ)を含む10人の代表団がこの査察を引き受けている。
終戦間近となったころカルテンブルンナーは側近とともにアルタウス湖畔のいわゆる「アルプス要塞」に立て籠もり、ここで最後まで抵抗を支援するはずだった。多くのナチ党高官が強奪した貴重品を持ち込み戦後に備えた。また、カルテンブルンナーは独断で単独講和を企て、アメリカ軍と接触を図るなどしている。しかし、それらは失敗に終わり、1945年5月15日シュタイエルマルクの司令部で米軍によって捕らえられた。
[編集] 戦後
逮捕後カルテンブルンナーはまず米軍の尋問を受け、それから国際軍事裁判が開かれるニュルンベルクに送られた。国際軍事裁判で彼は米軍による不当な待遇について述べ、うちひしがれた様子だった。検察側によって彼の容疑(「人道に対する罪」と戦争犯罪によって告訴された)が読み上げられた時、カルテンブルンナーは泣き出した。それでもしばらくすると彼はいかなる手段を用いてでも死刑を避けようとするようになった。
自分を弁護する法廷戦術として彼が用いたのは、犯罪に関するいかなる関与も否定し、秘密警察のような実行犯組織には何の関係もなかったと主張することだった。彼は、自分が実行犯というよりはただそのような機密業務について、ある種の名目的代表を務めただけだと主張し、必要とあらば検察が提示した文書の自分のサインを否認しさえした。
法廷は、カルテンブルンナーに対し最終的には絞首による死刑を宣告し、1946年10月16日午前1時40分頃、刑が執行された。最期の言葉は「ドイツに幸あれ」だった。

