ハインツ・ヨスト

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ハインツ・ヨスト(1941年または1942年)
逮捕後のハインツ・ヨスト
オットー・オーレンドルフ(手前)とハインツ・ヨスト(奥)。1948年2月9日、ニュルンベルクでのアインザッツグルッペン裁判

ハインツ・ヨスト(Heinz Jost、1904年7月9日-1964年11月12日)は、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の情報部SDの高官。戦時中にはアインザッツグルッペンの指揮官をしていた人物。最終階級は親衛隊少将(SS-Brigadeführer)および警察少将(Generalmajor der Polizei)。

略歴[編集]

ヘッセン北部ホムベルク (エフツェ)Homberg)に薬剤師の息子として生まれる。ベンスハイムギムナジウムへ通い、1923年にアビトゥーアに合格したあと、ミュンヘン大学ギーセン大学で法律を学び法学博士号をとる。1927年5月に弁護士試験に合格。1928年2月(もしくは1927年末)には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)へ入党(党員番号75,946)。1930年からはヘッセンで弁護士として独立開業した。党内においては党地区指導者、管区宣伝部長を歴任し、1931年にはナチス党の突撃隊(SA)隊員となる。

法学学位があったことからナチス党の政権掌握後には、全国的に開始された均質化による全国組織への党側からの浸透策である警察監督官に抜擢され、1933年3月にはヴォルムスの警察監督官に任じられ、ついで10月にはギーセンの警察監督官に転じる。ヘッセン州知事となったヴェルナー・ベストに目をかけられるようになった。1934年6月にラインハルト・ハイドリヒから親衛隊情報部(SD)入りをすすめられ、突撃隊から親衛隊へと転籍(隊員番号36,243)してIII局(国外諜報部門)の局長に任じられた。1938年にはチェコスロヴァキアで最初に組織された特別行動部隊「アインザッツグルッペン ドレスデン」の指揮官となった。1939年4月20日に親衛隊少将に昇進し、8月にはグライヴィッツ放送局占拠事件の際にはポーランド軍服を調達する役割を果たした。

1939年9月にハイドリヒが国家保安本部をたちあげると第VI局(SD国外諜報)局長となる。1941年1月1日には警察少将を兼任した。1942年3月23日に東部戦線のアインザッツグルッペンA隊司令官フランツ・ヴァルター・シュターレッカーパルチザンに殺害されると代わってヨストがアインザッツグルッペンA隊司令官に任じられ、東部戦線へ赴いた。ユダヤ人の銃殺を指揮する。さらにリガで東国の保安警察及びSD司令官(Befehlshaber der Sicherheitspolizei und des SD,略称BdS)となる。第VI局(SD国外諜報)局長の地位は1942年6月まで留任したが、ハイドリヒ暗殺後に解任され局長代理として ヴァルター・シェレンベルクが任じられた。さらに9月2日にはアインザッツグルッペンA隊司令官からも解任された。かろうじてヨストは国家保安本部には残留したものも役職は無く中央から完全に外され、A軍集団付東部占領地区大臣代理としてニコライエフに左遷された。1943年からは武装親衛隊軍曹として東プロイセンラステンブルクに駐屯する対戦車猟兵予備訓練部隊に転属した。1945年1月にはハインリヒ・ヒムラーの決定でヨストは親衛隊から除かれた。年金も除かれた。

1945年4月にアメリカ軍に逮捕され、1948年には他のアインザッツグルッペン指揮官たちとともにニュルンベルク継続裁判のひとつ「アインザッツグルッペン裁判」にかけられた。終身刑となるが、1951年には仮釈放された。その後は土地管理人をして生計を立てた。1964年にベンスハイムで死去。

キャリア[編集]

階級[編集]

受章歴[編集]

文献[編集]