フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー
フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー(Friedrich Wilhelm Krüger、1894年2月27日‐1945年5月9日)は、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の将軍。第二次世界大戦初期から中期にはポーランド総督府の親衛隊及び警察高級指導者として強制収容所の設置やワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧などユダヤ人迫害に関与し、大戦後期から末期には武装親衛隊の将軍として山岳部隊などを指揮した。ドイツの敗戦に際して自殺。
最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)、武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)および警察大将(General der Polizei)。
同じく親衛隊大将のヴァルター・クリューガーは兄である。
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経歴 [編集]
プロイセン王国陸軍大佐アルフレート・クリューガーの息子として当時プロイセン領だったストラスブール(現フランス)に生まれた。小学校に入学するも卒業せずにカールスルーエの幼年士官学校(de:kadettenanstalt)、ついで大リヒターフェルデ(de:Groß-Lichterfelde)のプロイセン高級幼年士官学校(de:Preußische Hauptkadettenanstalt)に入学。1914年にはじまった第一次世界大戦ではドイツ陸軍に少尉として従軍。三度も負傷する勇猛な戦いをして一級鉄十字章を受章している。敗戦後もしばらく軍に残り、海軍のフリゲート艦で勤務したが、リュッツォウで義勇軍(フライコール)にも参加している。1920年からベルリンの廃棄物処理企業で働くようになり、1924年からは同社の取締役となった。さらに1928年からは独立開業している。また1922年に結婚。二人の子供の父親となり、また三人の子の里親となった。
なおクリューガーが働いていた廃棄物処理会社にはクルト・ダリューゲもエンジニアとして働いていたことがあり、二人はこのときに知り合ったとみられる。1929年11月にナチス党に入党(党員番号171199)。1931年2月には親衛隊(SS)にも入隊(隊員番号6123)したが、1931年4月には突撃隊(SA)へ移動している。クリューガーより一足先に入党して当時ベルリンSA指導者になっていたダリューゲにより引き立てられた。1932年には突撃隊少将(SA-Gruppenführer)に昇進し、エルンスト・レームの側近となった。さらに1933年6月には突撃隊最上位の突撃隊大将(SA-Obergruppenführer)に昇進し、職業訓練所やSA士官学校の責任者となった。長いナイフの夜事件の際にはレーム初め多くのSA幹部が粛清されたが、クリューガーは逮捕を免れた。突撃隊の地位は維持したが、レームの後任となったヴィクトール・ルッツェによって突撃隊制服の着用を禁じられ、一時党内で実務を失った。しかし1935年1月に総統アドルフ・ヒトラーより再度親衛隊(SS)に移るように命じられ、階級も親衛隊大将に転じた。1936年には国境警備の責任者となり、さらにさまざまなナチ党イベントでのヒトラーの代理人を務めるようになった。
第二次世界大戦開戦後の1939年10月4日に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーからドイツ軍が占領したポーランドの『ロズ』親衛隊及び警察高級指導者(Höheren SS und Polizeiführer)に任命されるが9日には『オスト』親衛隊及び警察高級指導者(Höheren SS und Polizeiführer)に変更されている。またポーランド総督ハンス・フランクからも保安担当次官に任じられた。これによりクリューガーはポーランドで行われたユダヤ人大虐殺をはじめとする数々のナチスの戦争犯罪に責任を負っている。在任中の1942年4月20日にクリューガーは爆弾テロによる暗殺のターゲットになったが、助かっている。しかし1943年11月にはポーランド総督ハンス・フランクと不仲になり、親衛隊及び警察高級指導者職はヴィルヘルム・コッペSS大将に交代させられることとなる。
1943年11月から1944年4月にかけて第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」に配属され、ドイツ支配下のユーゴスラビアで治安維持任務にあたった。同地でも民間人への虐殺をおこない、悪名をとどろかせた。1944年6月から1944年8月まではフィンランド北方で第6SS山岳師団「ノルト」の師団長となった。1944年8月から1945年2月には第5山岳軍団の司令官となる。1945年2月からはドイツの南東戦線のヒムラーの代理人の仕事を行った。1945年4月から5月にかけてはオーストリアで南方軍集団に属した警察の特殊部隊の指揮を執っていたが、まもなくドイツが無条件降伏。祖国の敗戦を知ったクリューガーはオーストリアで自決した。
兄のヴァルターも5月22日に自決している。
受章 [編集]
- 一級鉄十字章(1914年版)(Eisernes Kreuz(1914) I. Klasse)
- 二級鉄十字章(1914年版)(Eisernes Kreuz(1914) II. Klasse)
- 戦傷章銀章(Verwundetenabzeichen (1918) in Silber)
- 名誉十字章前線戦士章(Ehrenkreuz für Frontkämpfer)
- 黄金ナチ党員バッジ(Goldenes Parteiabzeichen der NSDAP)
- 親衛隊全国指導者名誉長剣(Ehrendegen des RFSS)
- 親衛隊名誉リング(SS-Ehrenring)
- 一級及び二級剣付き戦功十字章(Kriegsverdienstkreuz(1939) II. und I. Klasse mit Schwertern)
- 一級鉄十字章略章(Spange zum Eisernen Kreuz I. Klasse)
- 二級鉄十字章略章(Spange zum Eisernen Kreuz II.Klasse)
- 騎士鉄十字章(Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes) 叙勲1944年10月20日 [1]
脚注 [編集]
- ^ Veit Scherzer: Die Ritterkreuzträger 1939-1945, Scherzers Militaer-Verlag, Ranis/Jena 2007, ISBN 978-3-938845-17-2, S.478
参考文献 [編集]
- ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男・原田一美・井上茂子訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』、1997年、柏書房、ISBN 978-4760115167
- 山下栄一郎著『ナチ・ドイツ軍装読本 警察とナチ党の組織と制服』(彩流社)ISBN 978-4779112126
- Mark C. Yerger著『Allgemeine-SS』(Schiffer Pub Ltd)ISBN 978-0764301452