ウッチ

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ウッチ
Łódź


紋章
ウッチの位置(ポーランド内)
ウッチ
ウッチ
座標: 北緯51度47分0秒 東経19度28分0秒 / 北緯51.78333度 東経19.46667度 / 51.78333; 19.46667
ポーランドの旗 ポーランド
ウッチ県
行政
 - 市長 ハンナ・ズダノフスカ (Hanna Zdanowska)
面積
 - 計 293.25km2 (113.2mi2)
最高部 278m (912ft)
最低部 162m (531ft)
人口 (2008年)
 - 計 747,152人
 - 人口密度 2,558人/km² (6,625.2人/mi²)
郵便番号 90-001 - 94-413
市外局番 (+48) 42
ナンバープレート EL
ウェブサイト www.uml.lodz.pl

ウッチŁódźPl-Łódź-2.ogg ['wut͡ɕ][ヘルプ/ファイル]、ウチ、ウッジ、ウーチ、ウージとも)は、ポーランド中央部の都市で、ウッチ県の県都。ウッチ高地に位置する。ポーランド第2の都市、最大の工業都市であり、繊維工業の中心地でもある。

歴史[編集]

ウッチが最初に記録に登場したのは1332年のことである。18世紀の終わりまでは小さな農村で、ヴウォツワヴェック司教区の所領だった。1795年の第3回ポーランド分割の結果、ウッチはプロイセン領内に組み込まれる。1798年、教会財産からプロイセンへと移管された。この時期ドイツ人が集中的に植民を行い、現在のウッチ郊外のノヴォソルナ、上ヴィヨンチン、下ヴィヨンチン、アウグストゥフ、オレフフに農業集落を形成した。1807年からはワルシャワ公国の支配下に入り、1815年からはロシア統治下のポーランド王国の領土となった。1821年、ウッチは工業地域としての開発が検討され、織物工業や繊維工業などの中心地として発展していく。ウッチが急速に発展したのは、

  1. ウッチが王国の直轄領で、新たにやってきた労働者に土地を分配することができた
  2. 周囲に森があり、建築資材や燃料としての木材が豊富にあった
  3. 流れの急な小川が多数流れているため、機械を動かす動力を確保できた

といような自然条件や環境があったからであった。

ヴィエルコポルスカ地方やシロンスク地方、さらにはドイツ南部やザクセン地方、チェコモラヴィアなどから実業家や安い労働力がウッチに押し寄せたことも、町が爆発的に発展した要因となった。ウッチにはポーランド人のみならず、ドイツ人やユダヤ人が数多く住んでいた。1839年に初めて蒸気機関織機を導入した工場が現れて以来、織物工場が次々と建設され、製品はおもにロシア中国へと輸出され町は活気づいていった。この頃のウッチの様子は、アンジェイ・ヴァイダの映画「約束の土地」によく描かれている。

十一月蜂起の失敗によって、関税障壁などにより町は停滞していく。しかし19世紀後半には国内市場の発達やロシアとの間の関税が撤廃されたこともあり、景気はふたたび上昇した。1866年ワルシャワ・ウィーン鉄道のウッチでの最初の区間がウッチ―コルシュキ(ウッチの東にある町)間で開通、のちにワルシャワビャウィストックと接続したこともウッチの繁栄に貢献している。ウッチは当時ポーランドで第2の都市にまで成長した。1823年から1873年までのあいだ、人口は各10年間で倍増していき、1870年から1890年の20年間で経済成長は最盛期を迎える。

その後ウッチは社会主義運動の中心地となっていく。1892年には大きなストが起こるなど多数の工場で生産が停滞し、1905年6月のロシア帝国に対する暴動(en:Łódź insurrection (1905) )を経て、街は1914年まで発展を続けていく。この年、ウッチは世界の工業都市のなかでも最も人口密度の高い(13,280人/km²)都市のひとつであった。第一次世界大戦が勃発し、1915年一時ドイツの支配下に入ったが、1918年の11月に大戦が終了したことによって解放された。住民の多くが大戦中に戦死したり、また戦後ドイツ系の住民がドイツへ引き揚げたこともあり、ウッチは住民の約40%を大戦によって失った。

1922年、ウッチは旧ウッチ県の県都となるが、高度成長はすでに終わっていた。世界恐慌によって西側との織物貿易は遮断されてしまい、一方の東方でもロシア革命が起こるなど混乱し、貿易はストップしてしまった。街は失業者であふれ、労働者による暴動も起きた。

ナチス・ドイツポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発すると、ユリウシュ・ルンメル将軍率いる軍がウッチを守備したが、9月8日ドイツ国防軍によって占領された。ウッチのドイツ系住民はドイツ第三帝国の国民になることを拒んだため、ウッチを追放された。すぐにゲットーウッチ・ゲットー)がウッチに建設され30万人以上のユダヤ人が市内から強制的に集められ住まわされた。ジプシーなど非ユダヤ人用の強制収容所や絶滅収容所がいくつか郊外に建設された。大戦の終了までに、ポーランド人約12万人、ユダヤ人約30万人など、あわせて42万人以上の住民が犠牲となった。1945年1月にはソヴィエト軍の侵攻を恐れドイツ人の大半がウッチから逃げた。爆撃等の被害がほかの都市に比べて少なかったとはいえ、ほとんどのインフラが破壊された。1945年1月18日、ウッチはソ連軍によって解放された。

1945年前半の人口は30万人足らずだったが、ワルシャワからの移民やソ連に併合された東部からの移住者によって人口は増大した。ワルシャワが徹底的に破壊されてしまっていたので、1948年まではウッチが事実上の首都となっていた。そのまま首都をウッチに定めるという計画もあったが、1948年に本格的にワルシャワ再建が始まるとともにその案は打ち消された。戦後、社会主義政権によってすべての民間企業が国有化され、多くの資本家が財産を失った。社会主義時代において、ウッチは再び主要な産業都市となっていく。

1990年前後の体制転換後は再び民営化されたが、設備があまりに老朽化していたため、資本主義経済の中で生き残れたものは多くはない。

地理[編集]

ウッチは海抜162m~278mのところにある。市内にはウトカ川、ネル川などいくつかの川が流れている。

気候[編集]

経済[編集]

1990年まではウッチの経済は織物工業が中心だったが、1991年にかけての間に生産が大きく下落した。現在ウッチには主要な織物企業は残っていないが、零細企業がロシアや旧ソ連圏の国々に向けて生産を行っている。

文化[編集]

教育[編集]

市内には多数の高等教育機関がある。

スポーツ[編集]

交通機関[編集]

姉妹都市[編集]

ゆかりの人物[編集]

外部リンク[編集]

  • iNFOŁÓDŹ(ポーランド語) ウッチの総合情報