世界恐慌
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世界恐慌(せかいきょうこうWorld Crisis)とは、世界的規模で起きる経済恐慌のこと[1]。あるいは1929年に始まったそれのこと。大恐慌(The Great Depression)、世界大恐慌とも言われる。
目次 |
[編集] 概説
ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がるのが世界恐慌である[2]。資本主義諸国の経済は世界的に有機的に連関して機能しているため、資本主義経済の矛盾も、世界的に爆発的に広がる危険性を持っている[3]。
最初のそれは、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こった[4][5][6]ともされる。
だが、中でも1929年にアメリカ合衆国のウォール街で起きたパニックをきっかけに世界各国を襲った大恐慌は、その代表的なもの[7]として扱われている。ただし、「世界恐慌」と言っても必ずしも1929年のそれしかないわけではないので、あくまで「1929年の世界恐慌」「1929年に始まった世界恐慌」というように、年をつけて呼ぶ例も多い。
最近では、2008年から起きた諸現象を「世界恐慌」と呼ぶ人もいる[8] [9] [10]。ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンも、世界的な景気後退状況について「これは、まさに第二次世界恐慌(a second Great Depression)の始まりと思われる」と述べた。[11] (こちらに関しては、「世界金融危機 (2007年-)」の記事も参照可能)
[編集] 1929年に始まった世界恐慌
1929年に始まった大恐慌は「世界恐慌」の代表とも見なされている。
1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、および経済後退が起きた。1929年10月24日は「暗黒の木曜日」として知られ、南北戦争に次ぐアメリカの悲劇といわれた。
[編集] 背景
第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。
1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。
また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱があおられ、適切な抑制措置をとらなかった。アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、個人投資家も、信用取引により容易に借金が出来、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、ジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いた。
[編集] 展開
そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出されてしまった。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。
シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺したものはこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれるようになった。翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。
週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態にまでなってしまった。当日の出来高は1638万3700株に達し(これは5日前に続く記録更新であり、以後1969年まで破られなかった)、株価は平均43ポイント(ダウ平均で12%)下がり、9月の約半分ぐらいになってしまったのである。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。
投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めていった。この日は火曜日だったため、後にこの日は「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれるようになった。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。
過剰生産によりアメリカ工業セクターの設備投資縮小が始まったのが大きな要因であり世界恐慌がさらに投資縮小を誘引したため、強烈な景気後退に見舞われることになった。
産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。
[編集] 大不況から世界恐慌へ
第1次世界大戦後の米国経済の圧倒的な存在感(当時世界の金の半分以上が米国に集まっていた)のため、一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされているが、バーナンキをはじめとする経済学者は異なる見解を示している[12]。
1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が大恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。
大不況が世界に広まるきっかけとなったのは1931年5月11日のオーストリアの大銀行クレジットアンシュタルト(Creditanstalt, 1855年にロスチャイルド男爵により設立)の破綻であったとされる。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖した。東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。オーストリア向けの融資が焦げ付いた要因としては、3月の独オーストリア関税同盟の暴露に対するフランスの経済制裁により、オーストリア経済が弱体化したことが致命的であった。
クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産し、7月13日にダナート銀行が閉鎖すると、大統領令でドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖された。ドイツでは金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し、影響はドイツ国内にとどまらず東欧諸国、世界に及んだ。
当時の米国大統領、フーバーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は末永く戒めとして記憶されることになった。(当時の大経済学者アーヴィング・フィッシャーエール大学教授の所論でもあった。)
金本位制の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ正貨(金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億マルク、イギリスからの流出は3000万ポンドだった。さらに数千万ポンドを失ったイングランド銀行は1931年9月11日金本位制を停止し、第1次世界大戦後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に衝撃を与えた。イギリスは自国産業保護のため輸入関税を引き上げ、チープマネー政策を採用した。ポンド相場は$4.86から$3.49に引き下げられた。ブロック経済政策は世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。
特に1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた(金解禁は1930年1月から1931年12月10日まで)。この決定は「嵐の中で雨戸を開けた」と評され、昭和恐慌から太平洋戦争へ至る道筋を作ったと言われる。
(当時金価格は1トロイオンス$20.67、4.25スターリングポンドであった。 戦後はニクソンショックまで1トロイオンスあたり$35の固定相場である。 今1トロイオンスの地金は約8万円なので、$1億=現在金価値約4000億円相当と考えられる。(2008年10月現在)。ただし当時の経済規模を考えると、10倍以上のインパクトがあったと思われる)
[編集] 各国の状況
未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。植民地を持っている国(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、かならずしも成功しなかった。ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次大戦後のIMF設立を巡る議論のなかに送り込まれることとなった[13]。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDPは1934年に恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策を採ったアメリカは1936年には恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りし、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった[14]。
[編集] アメリカ
「アメリカ合衆国の経済史」も参照
共和党のフーヴァー大統領は古典的経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやくフーヴァーモラトリアムと称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。1932年後半から1933年春にかけてが恐慌のピークだったようで恐慌発生直前と比べて株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、社会主義革命の発生すら懸念された。 こうした中、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・ルーズヴェルト大統領は公約通りテネシー川流域開発公社を設立、更に農業調整法や全国産業復興法を制定し、更にラテンアメリカとの外交方針を以前の棍棒外交から善隣外交へ転換した。ただ、ニューディール政策は1930年代後半の景気回復を前に規模が縮小されるなどしたため、1930年代後半には再び危機的な状況となった。このため、同政策にどれほど効果があったかについては今日でも賛否両論がある。
アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。
[編集] イギリス
労働党のマクドナルド内閣は失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党と自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成、これを母体にブロック経済(スターリングブロック)を推し進めていくことになる(ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる)。
[編集] フランス
フランスでは大恐慌の影響を1931年まで逃れる事に成功した[15]。1931年9月21日にイギリスが金本位からいちはやく離脱しポンドの平価切下げ(チープマネー政策)を実施して以降、フランス経済は明確に下降し、すべての指標が恐慌の進行を示した。外国貿易は持ちこたえフランス銀行の金準備はなお増え続けたが、失業は増大し物価は卸売物価も小売物価もいちじるしく低下した。労働時間給はゆるやかに下降をはじめ、株式相場の崩壊は顕著であった。1931年7月に始められた原料と食料品に対する輸入数量割当制度が、イギリスの金本位離脱に続く6カ月間にさらに拡大され、1932年2月にはフランスで小麦粉に使用される小麦の90%が国内産であることを義務付ける法案が成立した[16]。
アメリカと親密な関係だったイギリス経済が嫌われたことから、ヨーロッパの資金がロンドンからパリ証券取引所に流入[要出典]。その結果、フランスは資本を元に工場設備などを整備し、生産額を増大させた[要出典]。また、農業機械化が進んだこともあり食料時給率を100パーセントを超える水準を維持した[要出典]。
イギリスと同様、ファシズムに対抗するため仏ソ相互援助条約を締結。そしてコミンテルンの指導を受けたレオン・ブルム人民戦線内閣を組閣する。
[編集] ドイツ
第一次世界大戦の敗戦で各国から巨額の賠償金を請求され、ハイパーインフレーションやフランスのルール占領などにより極度に弱体化が進んでいたドイツ経済はその後、一時的に経済の回復傾向が続いていたが、そこを襲った世界恐慌によって深刻な状態へ陥った。アメリカ企業も次々と撤退、少しずつ復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。結果、失業率は優に30パーセント以上に達し銀行や有力企業が次々倒産、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。
その中、共産主義とナチズムが台頭。失望した人々の期待を受けて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が大躍進を遂げ1933年、ヒンデンブルク大統領の下で国家社会主義ドイツ労働者党党首のヒトラー内閣が成立。ドイツ国会議事堂放火事件でドイツ共産党を弾圧し全権委任法を成立させる。翌年、大統領の死去と共にヒトラーは総統に就任、第三帝国が成立した。
ヒトラーはソ連での計画経済の成功を受けて作成された四カ年計画に基づき軍拡と公共事業の拡大(アウトバーンの建設等)を実施した。また、民間の重工業化を支援した。二次に亘るこの計画により失業者は劇的に減少し、経済的な回復は達成された。
その後、ヴェルサイユ条約、ロカルノ条約を相次いで破棄、ラインラントに軍隊を進駐させる。
[編集] イタリア
イタリアは元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振が続いていたため、逆に世界恐慌の影響はほとんど受けず、多くのイタリア人は株価大暴落の知らせを聞いても「ああそうか、というだけで今までどおり暮らしていた」と言う[17]。
ファシスト党の一党独裁が始まっていたイタリアでは世界恐慌後も更にその傾向を強め、エチオピアを侵略した。
[編集] 日本
大戦後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は、世界恐慌発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまでおもにアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み危機的状況に陥る。株の暴落により都市部では多くの会社が倒産し就職難の者(学歴難民)や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。(参照:金解禁)
国民が困窮する中、労働者や小作農の立場に立つ政党が代表者を国会に送るようになり労働争議や小作争議が増え、政府は治安維持法を改めて最高刑を死刑にし、特別高等警察を全国に設置して社会主義運動の取締りを強化。
高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)や1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げたが、欧米諸国との貿易摩擦が起こった。32年8月にはイギリス連邦のブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、満州や台湾など旧植民地アジア(円ブロック)が貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。
この間「満州は日本の生命線である」と言った言葉の通り、日本は大陸進出へと進んでいくことになる。ドイツやイタリアのようにファシズムやナチズムを唱える政党の躍進はなかったものの軍部の発言力は強まり、満州事変を引き起こして政府の不拡大方針を無視し、さらに五・一五事件で政党政治の幕引きをし、ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約の破棄、二・二六事件、日独伊防共協定の締結、そして日中戦争、第二次世界大戦に突入していく。
経済政策では1931年(昭和6年7月公布)の重要産業統制法による不況カルテルにより、中小産業による業界団体の設立のを助成し、購買力を付与することで企業の存続や雇用の安定をはかった。また大企業を中心に合理化や統廃合が進んだ。重要産業統制法はドイツの「経済統制法」(1919年)をもとに包括的立法として制定され、同様の政策はイタリアの「強制カルテル設立法」(1932年)、ドイツの「カルテル法」(1933年)、米国の「全国産業復興法」(1933年)などがある。
この間財閥は産業界を支配し、利権を求めて政治や軍に対する影響力を強めた。期間を通じて目白押しの大規模プロジェクトなど[18][19][20][21][22][23][24][25][26][27]で経済的成長が図られたが、資源配分転換と国際協調を背景にした軍縮への軍部の抵抗を止められず太平洋戦争へと向かうことになる。
[編集] ソ連
ソ連は共産主義国家だったため、主要国の中でただ一国世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続けた。以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由主義諸国の研究者の中には社会主義型の計画経済に希望を見出す者も多く出たが、実際にはホロドモールや食糧の徴発でポーランドに脱出するロシア人の漸次増加が起きていた。極東・シベリア開発には政権により意図的につくりあげられた「にわか囚人」が大量に動員された。[28]
[編集] 世界恐慌中の各国工業生産の推移
| 年 | アメリカ | イギリス | フランス | ドイツ | 日本 | ソ連 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1928年 | 93 | 94 | 92 | 99 | 90 | 79 |
| 1929年 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 |
| 1930年 | 81 | 92 | 100 | 86 | 95 | 131 |
| 1931年 | 68 | 84 | 86 | 68 | 92 | 161 |
| 1932年 | 54 | 84 | 72 | 53 | 98 | 183 |
| 1933年 | 64 | 88 | 81 | 61 | 113 | 196 |
| 1934年 | 66 | 99 | 75 | 80 | 128 | 238 |
| 1935年 | 76 | 106 | 73 | 94 | 142 | 193 |
(1929年=100)[要出典]
[編集] 社会主義・共産主義への傾倒
世界各国が大恐慌に苦しむ中、NEP(ネップ)で経済発展を続けるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とスターリンの美化傾向が進んだ。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に希望的な経済体制を夢見た。特に英国の支配階級で裏切りが続出した事は冷戦時代に大きな意味を持った[29]。しかしスターリンの目指したのはトロツキーの国際主義ではなくソ連の国益であった。
[編集] 社会科学における解釈とその影響
[編集] 政治経済学
世界恐慌は「基軸通貨交替」「覇権国交替」に伴う当然の、あるいは必然的な事態と考えられる。英仏を中心とする世界体制が第1次世界大戦でくずれ、米国が覇権国になる途中の出来事であった。世界の富を集めた結果世界的に通貨が必要であったが、金本位制のもとで通貨創造が出来ない各国は米国からの資金還流を待つしかなかった。しかし米国には覇権国の責任を受ける準備が出来ておらず、国際連盟には参加せず、ドイツなどの経済的苦境を放置した。さらに保護貿易主義を取り、米国の繁栄を世界各国に分かち合うことがなかったため、世界各国の経済的苦境が結局米国自身に跳ね返った。米国の生産量に見合うだけの支払うべき資金(有効需要)がどこにもないからである。米国はその本位金保有高にみあうだけの資金創造を海外に投資することで国際分業を促進しなければならない立場にありながら、むしろ投資資金を引き上げる事で世界各国の流動性を枯渇させた。モンロー主義(孤立主義)が優勢で、ウッドロウ・ウィルソンの国際主義ではなかった。第1次世界大戦の参戦も、ルシタニア号事件とツィンメルマン電報事件が必要であった。
レンテンマルクを発行しドイツの天文学的インフレ[30]を収束させたワイマール共和国のシュトレーゼマンの功績は結局彼の死とともに水泡に帰し、ナチスの勃興を促した。
最大の負の教訓は、軍国主義を取ったドイツ・イタリア・日本などが急速に復興し、米国のニューディール政策がかならずしも景気の回復にむすびつかなかった事である。ニューディールはケインズ主義の需要喚起策の成功のように考えられている場合があるが、そうではなかった。ケインズ自身も自覚していたように、戦争が強力に余剰生産力を解消したのである。そういう意味でも大恐慌は第二次世界大戦の素地を作ったと言える。事実、ニューディールは世界経済の需給ギャップを埋めるにはあまりにも小さく、財政出動に慎重でありすぎ、期間も十分ではなかった。アメリカは第二次世界大戦によってようやく後先を考えない政府支出を始め、国民もまた強力に政策を支持したことによりようやく不況から脱却し、飛躍するのである(参照:軍事ケインズ主義)。
[編集] 経済学
当時は「市場は自身で調整を行う機能を持っており、政府の介入は極力すべきではない」という自由放任主義の考え方が主流であった。また、オーストリア学派などによって大恐慌は蓄積した市場の歪みを調整するための不可避の現象であるという見方もなされた。しかし、このような考え方では大恐慌を説明することができず、新しい経済理論が求められた。
行政府による財政出動による経済刺激策はフランス革命前後の啓蒙思想の頃からさかんに議論されてきた論題であったが、古典派経済学の過少消費説への勝利以降、政府の介入は民間の経済活動を圧迫するだけであるとの考えが通説となった(クラウディングアウト)。世界恐慌の発生以降、ふたたびこの論題がアメリカおよびイギリスでさかんに論議され、アメリカでは共和党のフーバー政権が赤字財政と国債発行に反対し、均衡予算主義のためにクラウディングアウトの議論を援用した。また、イギリスでは保守党政権下の財務省が同様の理論でケインズの立案になる自由党の提案と対立した。
ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)の中で、政府による財政出動によって、失われた雇用の創出と有効需要の創出が可能であり、投資の増加が所得の増加量を決定するという乗数理論に基づき、減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、回復可能であることを示した。
反ケインジアンの筆頭とされるマネタリストのミルトン・フリードマンは、ニューディール政策が直接雇用創出を行ったことは緊急時の対応として評価するものの、物価と賃金を固定したことは適切ではなかったとし[31]、大恐慌の要因を中央銀行による金融引締に求めている。
[編集] 参考文献
(日本語訳があるもの)
- ポール・アードマン著 竹内宏監訳 『ポール・アードマンのマネー大予言』 東洋経済新報社、1984年。
- ゴードン・トマス マックス・モーガン=ウィッツ著 常盤新平監訳 『アメリカの死んだ日』 (改題『ウォール街の崩壊』) 講談社学術文庫、1979年。(英国人記者チームによる歴史検証シリーズの一冊 。中心人物は世界最大の銀行だったバンクオブアメリカの創始者A・P・ジャンニーニ(en:Amadeo Giannini)など。一般市民の様子もいきいきとして描かれている)
- F・L・アレン著 藤久ミネ訳 『オンリーイエスタディ--1920年代・アメリカ』(原著1931年) ちくま文庫、1993年。(ハーパーズ誌の編集者、実地ルポと分析。米国での古典)
- J・K・ガルブレイス著 鈴木哲太郎訳 『バブルの物語』 ダイヤモンド社、1991年。(一般向け歴史検証。世界最古のバブルと言われるオランダの「チューリップ投機」や英国の大事件「南海泡沫(southsea bubble)会社事件」について詳しい。目立たない古い薄い英語本がバブル時代に日本語訳された。)
- J・K・ガルブレイス著 村井章子訳 『大暴落1929』(原著1954年) 日経BP、1997年初訳、2008年新訳。
- エドワード・チャンセラー著 山岡洋一訳 『バブルの歴史』 日経BP、2000年。
- 石ノ森章太郎 『日本経済入門』 日本経済新聞社、1986年。(漫画によるバブル批判で、多面的に分かりやすく要点を押さえている。大恐慌については上掲『アメリカの死んだ日』からの引用があり、昭和の恐慌については中村本から引用している。一冊本10cm厚とハードカバー分冊がある。)
- 中村政則 『昭和の恐慌』 小学館、1982年。(昭和恐慌の様子を多角的に分析。分かりやすい一般向け歴史書。特に経済面からの記述が詳しい。渡辺銀行について青木の証言をそのまま引用)
- 高橋亀吉 森垣淑 『昭和金融恐慌史』 講談社学術文庫、1993年。(原本は清明会出版部、1968年発行。在野の研究者による良書。一時期初学者の必読本だった)
- ピーター・テミン著 猪木武徳 ばん沢歩 山本貴之訳 『大恐慌の教訓』 東洋経済新報社、1994年。(米国の大恐慌の原因を株価暴落ではないなど多角的に検証した古典。専門書)
- "Echoes of the Depression" ,The Economist ,Oct 2nd 2008
- 林敏彦 「経済教室---新たな政策の枠組み必要」 『日本経済新聞』 平成20年10月10日版。PDF原文(「1929年のNY株式暴落が米国の大恐慌の原因だったわけではない」)
- ティモシー・S・グリーン著 氷川秀男 石川博文訳 『金の世界』 金融財政事情研究会、1968年。(金本位制の基礎知識が得られる。経済危機で注目される金についての一般的解説本。再版されて内容が薄められた分わかりやすくなった)
- 金融恐慌史概観-日本の事例を中心として-(小竹豊治教授退任記念号)(北原道貫 三田商学研究Vol.19,No.4(19761030)pp.136-147 慶應義塾大学 ISSN:0544571X)[15]
- 大恐慌期のデフレーションとその終焉(堀雅博 財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」August―2002)[16]
- 基軸通貨ポンドの衰退過程に関する実証的研究(平成14年度~平成16年度科学研究費補助金研究成果報告書)金井雄一(名古屋大学大学院経済学研究科教授)[17]
- 戦間期日本の為替レート変動と輸出 畑瀬真理子(日本銀行金融研究所 金融研究 2002.6)[18]
[編集] 脚注
- ^ 広辞苑
- ^ 有斐閣『経済辞典』p.414
- ^ 有斐閣『経済辞典』p.414
- ^ 不破哲三『『資本論』全三部を読む 』p.45
- ^ 不破哲三『二十一世紀と「科学の目」』p.53
- ^ http://m-words.jp/w/E4B896E7958CE68190E6858C.html
- ^ 有斐閣『経済辞典』p.414
- ^ 金融工学--世界恐慌招いた「学問」の正体-- 月刊テーミス 17(12) (194) pp.28〜29 2008/12
- ^ 『世界恐慌を生き抜く経済学』 Mainichi Business Books、2008
- ^ 高橋 乗宣 『世界恐慌の襲来―日本経済は「最悪の10年」に突入する』東洋経済新報社 2008
- ^ "Fighting Off Depression", by Paul Krugman, The New York Times, January 4, 2009
- ^ Ben S. Bernanke "The Macroeconomics of the Great Depression: A Comparative Approach," Journal of Money, Credit, and Banking, 27(1), 1995.
- ^ 基軸通貨ポンドの衰退過程に関する実証的研究(平成14年度~平成16年度科学研究費補助金研究成果報告書)金井雄一(名古屋大学大学院経済学研究科教授)[1]PDF-P.9以降
- ^ 中村政則『昭和の歴史 第2巻』小学館 1994年
- ^ 世界恐慌期フランスにおける経済政策の機能(和多則明 大阪外国語大学)[2]
- ^ 世界恐慌と1929-1931年のフランス経済(竹岡敬温 經濟學論究Vol.52 No.特別号(19990919) pp. 1-37 関西学院大学 ISSN:02868032)[3]
- ^ 『ウォール街の崩壊』講談社
- ^ 「1930年代前半における都市美協会による「都市美委員会」設置の提案に関する研究」中島直人(東京大学助手)[4]
- ^ 書評 平沢照雄『大恐慌期日本の経済統制』(寺岡寛 日本経済評論社2001年、中京経営研究第12巻第2号2003年2月)[5]
- ^ 「戦前日本の海外での企業活動」神保博彦 大阪産業大学経済論集第9巻第2号[6]
- ^ 「1930年代日本における中小工業統制と産業協力活動-電球硝子工業の事例-」平沢照雄(『歴史と経済』197号(第50巻1号)2007年10月)[7][8]
- ^ 「戦間期日本における失業問題と金融政策」加藤道也(大阪産業大学経済論集第9巻第1号)[9]
- ^ 「朝鮮都市経営株式会社の事業概要-設立期を中心に : 朝鮮都市経営会社の住宅地開発に関する研究 その1(都市史:アジア,建築歴史・意匠)」石田潤一郎(日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)2007年8月)[10]
- ^ 「『水産工業』戦略の展開(上)-日本食糧工業の場合-」高宇 (立教経済学研究第61巻第1号2007年)[11]
- ^ 「「戦間期日本におけるエネルギー節約政策の展開-燃焼指導に着目して-」小堀聡(『歴史と経済』第195号,2007年)[12]
- ^ 「1930年代における日本のモロッコ貿易をめぐる諸問題」北川勝彦(関西大学『経済論集』第56巻第1号 2006年6月)[13]
- ^ 東京国際空港、あじあ号、冷凍食品、霞ヶ浦干拓、東京緑地計画協議会、白水溜池堰堤
- ^ 「トランスボーダーの人流:1930 年代初頭ロシア極東から北海道に避難・脱出した事件を中心に」倉田有佳[14]
- ^ アンドリュー・ボイル著「裏切りの季節」 Climate of Treason
- ^ 世界最悪のインフレは1946年に10垓(がい=京の1万倍、兆の1億倍。)ペンゴ紙幣が発行されたハンガリーである。10億兆ペンゴ=10垓(がい)ペンゴ=1×10の21乗ペンゴ=1,000,000,000,000,000,000,000 ゼロが21個も並ぶ。実物写真
- ^ The Boston Globe "Nobel laureate economist Milton Friedman dies at 94" 2006-11-16

