ベラルーシ

提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ベラルーシ共和国
Рэспу́бліка Белару́сь
ベラルーシの国旗 ベラルーシの国章
国旗 (国章)
国の標語 : なし
国歌 : 我等、ベラルーシ人
ベラルーシの位置
公用語 ベラルーシ語, ロシア語
首都 ミンスク
最大の都市 ミンスク
政府
大統領 アレクサンドル・ルカシェンコ
首相 セルゲイ・シドルスキー
面積
総計 207,600km²83位
水面積率 極僅か
人口
総計(2008年 9,634,000人(78位
人口密度 50人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 128兆8,000億[1]ベラルーシ・ルーブル
GDPMER
合計(2008年 602億[1]ドル(68位
GDPPPP
合計(2008年 1,188億[1]ドル(62位
1人当り 12,291[1]ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
ソビエト連邦より
1990年7月27日
1991年8月25日
通貨 ベラルーシ・ルーブルBYR
時間帯 UTC +2(DST: +3)
ISO 3166-1 BY / BLR
ccTLD .by
国際電話番号 375

ベラルーシ共和国(ベラルーシきょうわこく)、通称ベラルーシは、東ヨーロッパ国家ロシアウクライナポーランドリトアニアラトビアと国境を接する。首都はミンスクソビエト連邦から独立した。国際連合(国連)にはソ連時代からソ連とは別枠で加盟していた。

目次

[編集] 国名

正式名称はベラルーシ語で、Рэспу́бліка Белару́сьラテン文字表記は、Respublika Belarus')。

公式の英語表記は、Republic of Belarus(リパブリック・オブ・ベラルース)。通称、Belarus

日本語の表記は、ベラルーシ共和国。通称、ベラルーシ

少なくとも16世紀にはこの地は「ベラ(白)ルーシ」と呼ばれていた。この「白」の意味するところについては定かでない。このあたりに極めて白い肌をした人々の国があるとかつて考えられていたことに由来する[2]、方角を色で表わすルーシの習慣(白は西を示す)に由来する、などの諸説がある。

17世紀にロシア帝国の支配下に入るとベロルシアロシア語Белоруссия ビラルースィヤ)と名付けられ、日本語でもこれを訳した白ロシアの名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「ロシア」のことではなく「ルーシ」の意味)。ソ連崩壊直後の1991年9月15日に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。ロシア語でもБеларусьビラルースィ)の名称が使用されるようになっている。

[編集] 歴史

6-8世紀にスラヴ民族が移住開始したと一般に言われていたが、近年では古代からすでにスラヴ民族はこの地に定住し続けていたという説が有力である[3]

9世紀のキエフ・ルーシの一部だったポロツク公国がベラルーシの始まりとされる。バルト海黒海を結ぶ通商路として繁栄した。

10-11世紀にポロツク公国は版図を拡大し、 キエフ・ルーシやノヴゴロド公国と争った。南部には10世紀末にトゥーロフ公国が成立。一時、モンゴルに征服される。

12世紀から13世紀前半には、10前後の公国が存在し、ベラルーシ人の民族意識が高まり、団結しドイツ騎士団モンゴル帝国と戦った。13世紀までにベラルーシの地域(ルテニアと呼ばれる地域の北半)の公国はすべてリトアニア大公国に併合される。リトアニア大公国における貴族の大多数は実はリトアニア人リトアニア語母語とする人々)ではなくベラルーシ人(当時はルテニア人と呼ばれた)で、リトアニア大公国の公用言語リトアニア語ではなくベラルーシ語(当時は通常はルテニア語と呼ばれ、さらに、リトアニア大公国の官庁で使用された公式言語であることから官庁スラヴ語とも呼ばれた)が使われる。

1385年クレヴォの合同によりポーランド・リトアニア合同が成立すると、ベラルーシを含むリトアニア大公国全域の貴族のあいだで文化母語の自発的な「ポーランド化」がはじまる。クレヴォの合同後最初のリトアニア大公であるヴィータウタス1430年に没すると、リトアニア大公国貴族によるポーランドの文化と言語の受容が加速した。1569年ルブリンの合同により物的同君連合としての単一国家である「ポーランド・リトアニア共和国」が成立するとこの地域の文化のポーランド化がさらに進み、リトアニア人とベラルーシ人を含むリトアニア大公国のほぼすべての貴族がポーランド化する。この「ポーランドへの同化」現象は1795年までの三度に渡るポーランド分割によりベラルーシ地域がロシア帝国に併合されるまで続いた。この間、貴族層の家系の大半とその他ルテニア人の多くはこの時代までにローマ・カトリック改宗を済ませ、母語もポーランド語を使用するようになっていたが、あいかわらずルテニア語を母語とし東方正教会を信仰していた者も農民層を中心に多数いた。

ベラルーシ人(ルテニア人)貴族の家系のポーランド化の典型的な一例として、アメリカ独立戦争の英雄でかつポーランド・リトアニア共和国滅亡期(ポーランド分割期)の愛国者として有名なタデウシュ・コシチュシュコが挙げられる。彼は、「リトアニア大公国北ルテニア(ベラルーシ)地方のブレスト近郊の(現在は廃村となっている)メレチョフシュチズナ(Mereczowszczyzna)村出身の、東スラヴ(ルーシ)系であるベラルーシ人(ルテニア人)の家系のリトアニア大公国下級貴族の、ローマ・カトリック教徒のポーランド(1791年5月3日でポーランド・リトアニア共和国は完全統一してポーランド王国となった)国民」である。コシチュシコの名前はリトアニア大公国の公用語だったことのあるベラルーシ語ではアンドレーイ・タデーヴシュ・バナヴャントゥーラ・カシツューシュカ(Андрэ́й Тадэ́вуш Банавянту́ра Касьцю́шка)、リトアニア大公国における非公用語の現地語であったリトアニア語ではタダス・コーシツュシュカ(Tadas Kosciuška)となる。この例が示すように、この地域の人々の「民族」の意識は、複雑であるというよりむしろ希薄なものであって、これは民族というよりはほとんど一国内のなかの「おらが村」的な地方人意識にすぎなかった。当のポーランド貴族(シュラフタ)たちの意識においては、ポーランド貴族(シュラフタ)であること、特にコシチュシコが活躍したポーランド1791年5月3日憲法制定後の時代はポーランド国民であることだけが重要であった。コシチュシュコが守ろうとしたのはポーランド民族というわけでなく、「ポーランド(1791年5月3日まではポーランド・リトアニア共和国)」という、多民族が数世紀も平和に共存した偉大な国家であった。ポーランド・リトアニア共和国国内に住んでいたベラルーシ人、リトアニア人、ウクライナ人、ドイツ人などが「自分たちはポーランド人ではない」という「排他的な自己意識」すなわち近代に成立した国民国家民族意識をはっきりと持つようになったのは19世紀よりも後のことである。

その後ロシア帝国に支配されていた時代は、地方自治レベルでは旧ポーランド・リトアニア共和国の貴族(ほとんどがローマ・カトリック教徒)たちによる一定の権限が許されていた。その間貴族たちはポーランド・リトアニア共和国の独立をめざす蜂起を2度起こした。1830年11月に行われた大蜂起(十一月蜂起)が失敗に終わると、貴族たちを中心にポーランド系の多くの人々がロシア帝国を脱出し、西ヨーロッパやアメリカ大陸の各国へ亡命した(これは「大亡命」と呼ばれる)。それでも民主ポーランドを復活させようとする人々は1863年に2度目の大蜂起(一月蜂起)を起こす。これがロシア帝国によって再び鎮圧されると、ポーランド貴族や商工民やインテリキリスト教徒であるかユダヤ教徒であるかを問わず徹底的な迫害に遭った。その結果、この地域の中産階級以上の人々(ほぼすべてがポーランド人 - ポーランド化した家系の人々 - であった)は亡命するか、あるいは財産を没収されてほとんど無産者となり、中産階級そのものが滅亡した。その結果、ベラルーシに残った人々の大半は農民となり、ロシア帝国による直接支配が進んだ。ベラルーシの農民の大半はポーランド語を話すローマ・カトリック教会信者か、ルテニア語を話す東方正教会信者かのどちらかであった。前者(すなわちルテニア人からポーランド人となった者)はポーランドに近い西部に多く、後者(ルテニア人でい続けた者)はロシアに近い東部に多かった。

一月蜂起以後はロシア帝国によるポーランド人(キリスト教徒とユダヤ教徒の間)分断政策が開始され、ロシア帝国から俗に「リトアニアのユダヤ人(リトヴァク)」と呼ばれるロシア系(東欧系)ユダヤ人たちが大量に送り込まれた。リトヴァクたちは14世紀の昔からずっとポーランドにいた西欧系ユダヤ人(ユダヤ教徒のポーランド人)とは文化も習慣も言語もかなり異なる人々で、ポーランドのキリスト教徒とユダヤ教徒の両方から嫌われる存在だったが、あまりに大量に移住してきたのでこの地域の人口動態を大きく変えてしまう事態になった。このルテニア農民階層、リトヴァク、そして後にロシアから大量に移住してくるロシア人の3者が、後のソヴィエト連邦(ソ連)ベラルーシ共和国の主要民族となり、特に最初の2者はソ連の無宗教政策によって完全に融合してしまうのである。

1917年ロシア革命が起こり、そして第一次世界大戦の間占領していたドイツ軍の占領が終わった後、1918年には史上初の独立国となるベラルーシ人民共和国が樹立される。しかしこの政権は短命に終わり、1919年には白ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦に加盟する。この頃に起こったポーランド・ソビエト戦争の結果成立したリガ条約により西半分がポーランドに割譲された。

1939年9月の第二次世界大戦の勃発により、ソ連軍はポーランドに侵攻。ポーランド東半分の占領と共に、リガ条約により割譲されていた領土を白ロシアに編入した。1941年から、ナチス・ドイツに占領されていたが、1944年にソ連に復帰する。1945年に第二次世界大戦が終わると、ポツダム会談での取り決めによってソ連とポーランドの国境が西へ移動され、ベラルーシ全域がソ連領ベラルーシ共和国となり、この地域に住むポーランド系住民は西方へ追放された。この追放をソ連や現在のロシア共和国では「移住」と呼ぶ。これにより、ベラルーシ共和国は家系がポーランド化せずにルテニア人(ベラルーシ人)だった者か、あるいは19世紀にロシアから大量に移住してきた東欧ユダヤ系の家系の者、あるいはその混血ばかりの国家となったが、さらにロシア共和国などから多数のロシア人が移住してきた。

1986年4月26日、ベラルーシ共和国の南のウクライナの最北部にあるチェルノブイリ原発事故が発生し、おりからの南風に乗って放射性物質が国境を越え、南東部のホミェリ(ゴメリ)州を中心とする地域に大きな被害が及んだ。特に、外で遊んでいた子供たちへの被害は甚大で、その3人に1人が甲状腺癌に侵された(チェルノブイリ原子力発電所を参照)。

1990年7月27日に独立宣言(主権宣言)を行い、1991年8月25日に独立が承認された。同年の12月8日にはベラルーシ最西部のベロヴェーシの森で、ロシアのボリス・エリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチの三者の間でソビエト連邦の解体を宣言、独立国家共同体 (CIS) 創設に関する協定が締結された。9月15日には国名が白ロシアから正式にベラルーシ共和国となった。

1991-1995年の国旗
(ルカシェンコ政権によりソ連時代の旗を基本にしたデザインに変更)
ベラルーシの国旗も参照)

1994年に実施された大統領選挙では、ロシア連邦との統合を目指すなどの選挙公約を打ち出したアレクサンドル・ルカシェンコが当選した。ルカシェンコ大統領は、1999年12月8日に、ロシア連邦のボリス・エリツィン大統領(当時)との間に、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野においての統合を目指すロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約に調印した。しかし、その後、プーチンがロシア連邦の新大統領として就任し、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになると、ルカシェンコ大統領は、ベラルーシをロシアに吸収合併する形での両国の統合構想に反発するようになり、両国の統合は、事実上、停滞している。とはいえ、その間も南隣のウクライナがロシアよりも欧米諸国との関係を緊密化しているのに比べると、ベラルーシは親ロシア的国家である。

なお、現在、ヨーロッパ諸国の中で唯一、死刑制度を維持している国家である(ラトビア軍法戦時死刑が規定されているが、平時は廃止。ロシアでは10年以上、死刑執行停止状態)。そのため、EU欧州評議会から強く批判されている。

[編集] 政治

詳細は「ベラルーシの政治」を参照

ベラルーシは三権分立共和制の国であるが、1996年憲法が改正され、行政の中心である大統領(任期5年)に非常に強い権限が与えられている。2004年に行われた国民投票により、憲法の大統領職の三選禁止規定が削除された。

ベラルーシの議会二院制で、上院に相当する共和国院Совет Республики, Sovet Respublik 定員64名)と、下院に相当する代表者院Палата представителей, Palata Predstavitelei 定員110名)からなる。議員は、共和国院は国内の6つの州とミンスク市の議会から8名ずつ選出、残り8名を大統領が指名する。代表者院は小選挙区制により選出され、任期は4年である。

アメリカなどの自由主義諸国との関係は良好ではなく(アメリカがベラルーシに経済制裁を科したため、2008年5月にアメリカとの国交を事実上断絶した)、イランベネズエラなどの反米・左派諸国との関係が深い。隣国であるロシアとの関係も深く、ロシアとの統合を目指している。ベラルーシはアメリカの大統領であるジョージ・ウォーカー・ブッシュが定義した「悪の枢軸」の中の一国である(「悪の枢軸」は当初はイラクイラン北朝鮮だったが、その後拡大している)。また、コンドリーザ・ライス国務長官が定義した「専制の前線基地」の中の一国でもある。1994年以降、アレクサンドル・ルカシェンコが変わらず大統領の座に就いており、独裁国家との批判を欧米諸国から受けている。

2008年9月に行われた下院選挙では、野党勢力が議席を獲得できなかった。当初、監視団を受け入れるなど、ルカシェンコ大統領は欧米との関係改善を図ろうとしたが、選挙結果は欧米が求める民主化に疑問符がつく結果となった。また、10月6日にはロシアプーチン首相がベラルーシを訪問し、ロシア・ベラルーシ連邦国家実現へ向けた政策を実行することを確認、ベラルーシの西側への接近を引き止めた。EUは下院選で民主化の兆しが見られたことを評価し、対ベラルーシ制裁を一部解除することとなった。

[編集] 地方行政区分

詳細は「ベラルーシの地方行政区画」、「ベラルーシの都市の一覧」をそれぞれ参照

[編集] 主要都市

[編集] 地理

ベラルーシの地図

ベラルーシは内陸国で、国土の大部分が低地であり、最高点のジェルジンスカヤ丘陵でも海抜345mである。最低点はネマン川の海抜90mである。国土の20%を占めるなど湿原が豊富で、南部に最大の湿原であるポレーシエ湿地がある。約1万1000もの湖があり、それを突き通すように、北部を通るダウガバ川、西部を通るネマン川、東部を通るドニエプル川とその支流であるプリピャチ川、ベレジナ川、ソジ川などの主要河川がある。気候はおおむね温暖で湿度が高いが、東部は冷涼で、大陸性気候の特徴が見られる。

ベラルーシの主な天然資源は森林で、国土の45.3%もの面積を占めている。その他に泥炭花崗岩泥灰岩チョークと、少量の石油天然ガスが採れる。

[編集] 経済

詳細は「ベラルーシの経済」を参照

1991年の独立後、他のCIS諸国と同様に市場経済化を推進していたが、1995年に大統領に就任したルカシェンコ大統領は、社会主義政策を採り「社会主義市場経済」を導入した。これに基づき、統制価格の導入や、政府による民間企業への介入により自国の製造業の保護に努める傍ら、ロシア関税同盟を結ぶといった経済統合政策により、経済成長を実現させた。しかし、1998年8月に発生したロシア財政危機に伴い、1998年から1999年の2年連続で悪化し、激しいインフレや生産の低下に見舞われた。2000年1月1日にはデノミネーションが実施された。以降はロシア経済の急速な回復に支えられ順調に回復している。しかし、対露経済統合はロシア側に政治、経済的に大きく左右される事、ベラルーシ側に大幅な貿易赤字をもたらすなど問題があり、近年はロシアに自国の産業が脅かされるとの警戒感から、経済統合政策は事実上停滞している。ただ、当分の間ベラルーシは西欧型の市場経済からは離れ続けると見られる。

ベラルーシの鉱業は、原油、天然ガス、ソリゴルスクで採掘される岩塩(カリ塩 KCl)に限定されている。原油だけは自国内の消費量の数割をまかなうことが可能である。農業では、麦類の生産に向く気象条件から世界第4位(150万トン、2002年)のライ麦を筆頭に、大麦、えん麦の生産が盛ん。春小麦の栽培も見られる。工芸作物としては世界第5位(3万2000トン)である亜麻の生産が際立つ。工業は繊維業、化学工業(肥料)が盛ん。羊皮の生産量は世界第4位(8万トン)であり、カリ塩の採掘に支えられたカリ肥料の生産は世界第3位(369万トン)となっている。硝酸の生産量は世界第8位(88万トン)。

2009年5月29日、ロシアのアレクセイ・クドリン財務相は、ベラルーシが近い将来支払不能(すなわち破産)に陥るとの見方を示した。これは、ベラルーシが市場改革を行わず、ソ連型社会主義体制のままであることによる。天然資源にも乏しく、国家財政の基盤となるものが脆弱なのにも関わらず、ルカシェンコ個人の趣味であるアイスホッケー場を多数建設させたり、食品や生活用品の価格に税金をかけず、逆に国の補助金で安く抑えるなどの放漫財政を行っている。ただ、こうした政策を行っているからこそ、ルカシェンコによる独裁体制が支持されているという側面もある。ロシアはベラルーシに支援を約束していたが取りやめ、これがルカシェンコを立腹させた。ロシアは代わりにロシア・ルーブルでの融資を申し出たが、ルカシェンコは断っている。[4]ルカシェンコは「ロシアに泣きついて頭を下げることはない」と述べている。その後、EUに接近し、EUに支援を要請したが独裁体制などを理由に却下され、ルカシェンコはロシア、EU双方を「わが国の主権を侵害している」と非難した[5]。いずれにせよ、頼みの綱だったロシアからの支援が打ち切られたため、何らかの改革を行わなければ近い将来ベラルーシの財政が破綻する可能性があった。しかし、ロシアから経済支援を引き出すため、ルカシェンコ大統領はアブハジアと南オセチアの独立を承認することの検討を開始した[6]。このように、ルカシェンコ大統領は体制維持のためロシアとEUを天秤にかけ、双方から経済支援を引き出すしたたかな外交を展開している。

[編集] 貿易

2002年時点では輸入90億ドルに対し、輸出は81億ドルであり、わずかに入超である。主な輸入品は原油、機械類、鉄鉱。輸入相手国は、ロシア、ドイツ、ウクライナである。ロシアとの取引が65%を占める。主な輸出品は、石油製品、自動車、機械類であり、輸出相手国はロシア、ラトビア、イギリスである。輸出ではロシアの占める割合は50%にとどまる。日本との貿易では、乳製品を輸出(全体の44%)し、無線通信機器を輸入(全体の35%)している。

[編集] 軍事

詳細は「ベラルーシ共和国軍」を参照

[編集] 国民

民族構成(ベラルーシ)
ベラルーシ人
  
81%
ロシア人
  
11%
ポーランド人
  
4%
ウクライナ人
  
3%
その他
  
1%

住民はベラルーシ人が81.2%、ロシア人が11.4%、その他ポーランド人ウクライナ人が7.4%、ユダヤ人が0.3%である(1999年)。

言語はベラルーシ語36.7%、ロシア語62.8%。 1995年の国民投票により、ベラルーシ語に加えてロシア語が正式に公用語に格上げされた。ミンスクでは殆どの住民がロシア語を日常的に使用する。ベラルーシ語は地方では話されているが、しだいに衰退する傾向にある。

宗教は東方正教会が80%である。その他ローマ・カトリックプロテスタントなどが信仰されている(1997年推計)。ロシア正教古儀式派ポモールツィベロクリニツキー派ベグロポポーフツィなどの信徒も存在する。

[編集] 文化

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日
1月7日 正教会のクリスマス ユリウス暦の12月25日。
3月8日 国際女性デー
移動祝日 カトリックの復活祭 日付は復活祭参照。
5月1日 メーデー
移動祝日 正教会の復活大祭 日付は復活祭参照。
5月9日 勝利の日
7月3日 独立記念日
11月7日 十月革命の日
12月25日 カトリックのクリスマス

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
政府
日本政府
観光

このページはウィキプロジェクト 国のテンプレートを使用しています。

他の言語