ユダヤ人
| ユダヤ人 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| アインシュタイン • マイモニデス • ゴルダ・メイア • エマ・ラザルス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 総人口 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
1,300-1,400 万人[1] |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 居住地域 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 言語 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ユダヤ諸語 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 宗教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ユダヤ教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 関連する民族 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ユダヤ人およびユダヤ教 |
|---|
|
|
ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים - Yehudim, ラディーノ語: Djudios, イディッシュ語: ייד - Jidn, 英語: Jews)とは、ユダヤ教を信仰する者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(民族集団)。中世以前は前者の捉え方がなされていたが、19世紀の国民国家出現以降は後者の捉え方が広まった。
2010年現在の調査では全世界に1340万を超えるユダヤ人が存在する。民族独自の国家としてイスラエルがあるほか、各国に移民が生活している。
古代イスラエル人またはユダヤ人の別称としてヘブライ人とも称される。日本においては第二次世界大戦中までは「セム人」と称されることが多かったが、現在は「ユダヤ人」という呼称がほぼ一貫して使用されている。
目次 |
定義 [編集]
「ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々」という定義は古代・中世にはあてはまるが、近世以降ではキリスト教に改宗したユダヤ人(例えばフェリックス・メンデルスゾーンやグスタフ・マーラー、ベンジャミン・ディズレーリ)も無神論者のユダヤ人(例えばジークムント・フロイト)も「ユダヤ人」と呼ばれることが多い。なお、イスラエル国内においてユダヤ教を信仰していない者は、Israeli(イスラエル人)である。
帰還法では「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人として定義している。また、ユダヤ人社会内やイスラエル国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、ヨーロッパなどでは、母がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者(たとえば母がヨーロッパ人、父がユダヤ人など)もユダヤ人として扱うことが多い。
|
11世紀の翻訳書
|
一方、過去の人種学ではユダヤ人という人種が存在していると考え方もあった。ナチズムはユダヤ人を人種として扱っているが、帝国市民法第一施行令による分類では、形式的にユダヤ教組織に属した人間も「人種としてのユダヤ人」になるとされた[10]。こうした見方からはユダヤ人特有の外見の特徴が存在するとされていた。
シオニストはユダヤ教とユダヤ民族を切り離して捉えることが多いが、これはナチスの論法と同様の危険をはらんでおり、すでに多数の白人と黒人がともにユダヤ人と認められている現在、肉体的ユダヤ民族という考え方は過去のものとなりつつある。「ユダヤ人だからドイツ人(フランス人、ロシア人その他)ではない」あるいは逆に「エチオピア人だからユダヤ人ではない」という差別が戒められ、ユダヤ人はおおむね居住地民族と同化した肉体的種族とは別個の概念となっている。そのため、ユダヤ人のハーフとかクオーターとかいう形容は、まず用いられない。ドイツの文芸評論家マルセル・ライヒ=ラニツキは、自伝「わがユダヤ、ドイツ、ポーランド」(柏書房)の中で「私は、半分のポーランド人、半分のドイツ人、そして丸ごとのユダヤ人だ」と冗談めかした言い方でこのあたりの機微を突いている。
民族性 [編集]
歴史の中で他教徒から非常に多くの迫害を受けているが、現代に至るまでユダヤ人は滅ぶことはなかった。迫害は、当時のキリスト教社会が信仰の自由を許さなかったこと、キリスト教の一部の神学者がイエス・キリストを殺害したのがユダヤ人としたこと、ユダヤ人はキリスト教社会やイスラム教社会で疎まれていた金貸しや錬金術師が多く、トラブルが多かったことが原因ではないかと考えられている。18世紀頃から宗教的迫害が薄れていったことで、ユダヤ人は自由な信仰、活動が可能になり、今では多くの大企業の設立者や科学者にユダヤ人が存在する[11]。
ユダヤ人はタルムードに従って行動すると思われているが、それはラビ的ユダヤ教徒の場合に限られる。ただし、一般的なユダヤ人の宗教はラビ的ユダヤ教である。ユダヤ人は何よりも学問を重視すると云われる。紀元70年にローマ軍によりイスラエルが一度滅びたときもラビ・ヨハナンが10人が入れる学校を残すことを交渉し、ローマ皇帝ティトゥスがこれを許したため、ユダヤ人は絶滅を免れた。今では最も知的な民族集団の一つと考えられており、一例としてノーベル賞の22%、フィールズ賞の30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるともいわれる(en:Ashkenazi_Jewish_intelligence)。
東ヨーロッパに住み着いたユダヤ人はアシュケナージ(アシュケナジム)と呼ばれ、ドイツ語圏に住む彼らの多くはドイツ語を話し、ドイツ語圏外に住む彼らの多くはドイツ語の方言であるイディッシュ語を話していた。
前近代のキリスト教圏においてユダヤ人(ユダヤ教徒)は政治家、農民など土地の保有と公的な職業に就くことを認められなかった。逆にキリスト教が禁じている金貸しを営むことが可能であったため、伝統的に金融業や商業に従事するものが多かった。また世界的に散らばり独自の情報ネットワークを持っていた。そのため現在でもユダヤ人には商人やメディア関係が多いとされる。アルトゥル・ショーペンハウアーは『フランクフルトでユダヤ人の足を踏んだらモスクワからサンフランシスコまで情報が行き渡る』と指摘していた。
スファラディ(セファルディム)系ユダヤ人は、オスマン帝国圏やスペイン・フランス・オランダ・イギリスなどに多く、かつてはラディーノ語を話していた。
アシュケナージや、スファラディといったヨーロッパに移り住んだユダヤ人に対して、中東地域、アジア地域に移り住んだユダヤ人はミズラヒと呼ばれていた。
ほかにもイラン、インド(主に3集団)・中央アジア・グルジア・イエメン・モロッコなどを含んだ大きな観念であるミズラヒム、カライ派・カライム人、中国、ジンバブエなどのユダヤ人のほか、インド(ミゾ族)・ウガンダ(アバユダヤ)・アメリカ黒人(ブラック・ジュー)などの新たな改宗者、イスラエル建国はメシア到来まで待つべきだとするサトマール派・ネトゥレイ・カルタ、キリスト教関連のメシアニック・ジュダイズム、ネオ・ジュダイズムなど多くの分派もある。エチオピア・ベルベルのユダヤ人は孤立して発展し、タルムードを持たない。
現在世界に散らばるユダヤ人は、全てがユダヤ教徒というわけではないが、ユダヤ人にとってユダヤ教は切り離せない宗教である。写真はユダヤ人の言語(ヘブライ語)から各国語に翻訳された聖書の一部である。
世界のユダヤ民や宗教的集団 [編集]
世界に散らばるユダヤ教徒のコミュニティーや宗教的集団には以下がある。
- イシューブ(イスラエル(パレスチナ)の地のユダヤ教徒)
- ミズラヒム
- 北アフリカのユダヤ人(マグレビーム) Maghrebim cf.African Jews
- モロッコのユダヤ人
- アルジェリアのユダヤ人
- フランス植民地統治下のアルジェリアでは、原住民のイスラム教徒が参政権を持たない下級市民とされたのに対し、ユダヤ教徒(セファルディム、ミズラヒム)に対してはフランスの完全市民権が付与された。このため、ユダヤ教徒はフランス本国からの入植者(コロン)と同化し、フランス語を母語とするようになり、自らをヨーロッパ人と考えるようになった。このため、アルジェリアの独立時には多くのユダヤ教徒がフランス人としてコロンとともにフランス本国に引き揚げコロンとひとまとめに「ピエ・ノワール」と呼ばれるようになった。ただし、独立以前にもフランス内地へ移住するユダヤ教徒がいなかったわけではない。これらの人々の中からはフランスで著名な歌手・俳優なども多く輩出されている。(クロード・ルルーシュ、エンリコ・マシアス(セファルディム)など)。
- チュニジアのユダヤ人 Jews in Tunisia
- ペルシア・ユダヤ人
- イエメン・ユダヤ人(テイメン) Yemenite Jews
- ベタ・イスラエル(ファラシャ)(エチオピアのユダヤ人)
- 山岳ユダヤ人(タート・ユダヤ人。ダゲスタン、アゼルバイジャン、アルメニアのタート人社会の内部)
- グルジーム
- ブハラ・ユダヤ人 Bukharan Jews (タジキスタンから中央アジア全土)
- 北アフリカのユダヤ人(マグレビーム) Maghrebim cf.African Jews
- インドと周辺のユダヤ人 Jews in India
- 中国のユダヤ人 Jews in China
- ヘレニスト
- イタリアのユダヤ教徒 History of the Jews in Italy (北部にはアシュケナジムが多い)
- ツァルファーティー(フランス系ユダヤ教徒) History of the Jews in France 消滅した世代と残留者、新しい世代(諸地域・諸国からの移民)
- セファルディム
- アシュケナジム
- アイルランドのユダヤ人 Jews in Ireland (ツァルファーティー・セファルディムとアシュケナジム)
- アバユダヤ Abayudaya
- レンバ族(ジンバブエ) Lembas
- サマリア人
- ブラック・ジュー
- ハザールのユダヤ人
- ユダヤ=キリスト教徒 Judeo-Christians
(英語版 Jews by country List of Jews from the Arab Worldも参照)
(エジプト、メソポタミア、モロッコ、トルコ、ペルシアなどのコミュニティーに関しては英語版Islam and Judaismも参照)
歴史 [編集]
古代 [編集]
詳細は「古代イスラエル」を参照
旧約聖書によると、民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウル(現在のイラク南部)から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。彼らは「移住民」という意味の「ヘブライ人」と呼ばれ[12]、この付近で遊牧生活を続けた。
紀元前17世紀頃[13]、ヘブライ人はカナンの地から古代エジプトに集団移住した。古代エジプトの地で奴隷とされ、その後、エジプト第19王朝の時代に、再び大きな気候変動が起こり[14]、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす(「出エジプト」)。
彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。この頃から「イスラエル人」を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。
紀元前10世紀頃、古代イスラエル人はヤハウェ信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする古代イスラエル王国をカナン(パレスチナ)に建国した。ユダヤ人は、いまから3000年前のダビデ王の時代には、推定500万の人口を持っていたとされる。ちなみに、日本列島の人口は、3000年前の縄文時代には、推定で10数万である[15]。ソロモン王の死後、紀元前930年頃、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされた(失われた十支族)。南のユダ王国は、紀元前609年にメギドの戦いでエジプトに敗北し、エジプトの支配下に入ったが、紀元前606年にカルケミシュの戦いでエジプトが新バビロニアに敗れた。紀元前587年に新バビロニアの侵攻に会い(エルサレム包囲戦 (紀元前587年))、翌年にはユダ王国が滅亡して多くの人民が奴隷としてバビロンに囚われた(バビロン捕囚)。彼らはユダ王国の遺民という意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになった。
紀元前539年のオピスの戦いで、アケメネス朝ペルシアによって新バビロニア王国が滅亡すると、捕囚のユダヤ人はキュロス2世によって解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で統一イスラエルの領域で自治国として復興された。ユダヤ教の教義も、この頃にほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、古代マケドニア王国、セレウコス朝シリアなどに宗主国が引き継がれ、最終的にはローマ帝国領のユダヤ属州とされる。この頃にはヘブライ語は既に古典語となり、日常語としては系統の近いアラム語にほぼ取って代わり、のちに国際語としてギリシャ語も浸透した。また、ヘレニズム諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民(ディアスポラ)の活動も、この頃に始まる。ローマ支配下の紀元20年代頃、ユダヤ属州北部ナザレの民から出たイエス・キリスト(ナザレのイエス)が活動したと伝えられる。
紀元66年からローマ帝国に対し反乱を起こすが(ユダヤ戦争)、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。132年、バル・コクバの乱が起こったが鎮圧され、ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する「パレスチナ」という地名があえて復活された。以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散した(en:Jewish diaspora)。以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の「パレスチナ人」になったと考えられる。
中世 [編集]
詳細は「ヨーロッパのユダヤ人の歴史」を参照
7世紀 - 10世紀に、カスピ海北部にハザール王国が出現し、ユダヤ教を国教としたが、その後相次いだロシア、ルースィ、ブルガール、オグズとの戦争により王国は滅んでいる。残党のハザール人も、結局はイスラム教に改宗したが、ユダヤ教カライ派の信仰を保っているハザール人の集落が東ヨーロッパにわずかに現存している。
ディアスポラ後の民族移動時代(2世紀-7世紀)、ほとんどのユダヤ人は依然として地中海沿岸に住んでいた。697年にウマイヤ朝がサーサーン朝ペルシアとの抗争で疲弊していた東ローマ帝国のカルタゴ及び北アフリカを征服し、711年のグアダレーテの戦いで西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島に進出した。ジュデズモ語を話すセファルディムもイベリア半島に定住し、8世紀から9世紀には北フランスにも定住し、その後ヨーロッパ各地に散ったが、ユダヤ人はユダヤ教の信仰を堅持した。
レコンキスタ・十字軍時代のヨーロッパ・キリスト教社会で、「キリスト殺し」の罪を背負うユダヤ人はムスリムと共に常に迫害された。彼らは土地所有を禁じられて農業の道を断たれ、ギルドから締め出されて職工の道を閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引の大幅制限などで商業の道を制限されていた。しばしば追放処分を受け、住居も安定しないユダヤ人がつける仕事は事実上金融以外には存在しなかった(キリスト教会はキリスト教徒に対して金を貸して利子を取る仕事は禁じていた)。1066年、イスラム支配下のアンダルスでグラナダ虐殺 (1066年)が起こり、多数のベルベル・ユダヤ人が殺された。11世紀末頃にはすでにユダヤ人は「高利貸し」の代名詞になっていた。被差別民でありながら裕福になったユダヤ人はねたまれ、ユダヤ人迫害はますます強まっていった[16]。
1150年頃、フランクフルトにユダヤ人が居住した記録が残っている[17]。13世紀になってキリスト教徒とユダヤ教徒との交際が禁止されるなど、ユダヤ人は迫害を受けるようになり、社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていき、公職追放なども行われた。神聖ローマ帝国のユダヤ人は、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在で、「王庫の従属民」と呼ばれる法的地位を与えられて皇帝の保護を受け、皇帝にユダヤ人税(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。後のオスマン帝国においてもジズヤ(人頭税)の納税義務を負っていたが、ほぼ同じ制度である。
東方植民時代(12世紀-14世紀)にはモンゴルのポーランド侵攻で人口が減少したポーランド王国へ進出し、イディッシュ語を話すアシュケナジムが定住を始めた。1264年のカリシュの法令によって権利および安全をポーランド王およびシュラフタ(ポーランド貴族)の庇護のもとに保障されると、ユダヤ人はポーランドに集まり生活し、ユダヤ人社会「シュテットル」を形成した。14世紀のペスト大流行の頃からユダヤ人に対する弾圧として、ヨーロッパ中で隔離政策が取られるようになっていき、教会から離れた場所に設けられたゲットーと呼ばれる居住区に強制隔離されることが一般化した。1462年にフランクフルトのユダヤ人はフランクフルト・ゲットーに居住するようになった。1467年、ポーランド王国とドイツ騎士団の間で司祭戦争が勃発し、1479年にピョートルクフの講和(英語: Treaty of Piotrków)が結ばれると、カジミェシュ4世の治めるピョートルクフに神聖ローマ帝国を追放されたドイツ人とユダヤ人が移住した。1488年、イタリアのソンチーノに逃れたユダヤ人によって"Casa degli Stampatori"(it:Soncino#Musei)でヘブライ語聖書(タナハ、旧約聖書)が印刷され、印刷技術が世界中に広がるきっかけとなった。16世紀にはヴィリニュスにも居住するようになった。
1492年にイベリア半島でレコンキスタが完了し、フェリペ2世の治世に異端審問制度によるスペイン異端審問が始まると、モリスコ追放によってセファルディムの多くが北アフリカに追放され、ポルトガルに逃れたユダヤ人もカトリックへの改宗を迫られ、新キリスト教徒と呼ばれるユダヤ人が誕生した。セファルディムのフェルナン・デ・ロローニャ(葡: Fernão de Loronha)は、赤い染料「ブラジリン」を抽出できるパウ・ブラジルの専売権を得て、ブラジルの植民地開拓期に活躍した。
1543年にプロテスタント運動の創始者の一人であるマルチン・ルターが著書『ユダヤ人と彼らの嘘について』においてユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱した。1600年にイギリスの作家ウィリアム・シェイクスピアが発表した戯曲『ヴェニスの商人』でも、金貸しのユダヤ人という設定のシャイロックが登場する。
1648年にウクライナで起こったフメリニツキーの乱ではザポロージャ・コサックによるポグロムによって多くの犠牲者を出した。
啓蒙時代(17世紀-18世紀)になると、スピノザらによる宗教を超えた汎神論論争をレッシングが肯定すると、メンデルスゾーン(『賢者ナータン』のモデルとして知られる)もこれを擁護してハスカーラーと呼ばれる啓蒙運動がユダヤ人の間で開始された。ハスカーラーに抵抗のあった人たちの中から1740年頃、ガリチアでバアル・シェム・トーブがハシディズムを開始した。1795年にポーランド分割が実施され、ポーランド・リトアニア共和国が消滅して東部(旧リトアニア公国領)がロシアに併合された。ポーランドが消滅してその庇護を失ったユダヤ人は、ハプスブルク家へ庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人から裏切り行為と受け取られた。1806年7月、神聖ローマ帝国が解体され、1811年にカール・テオドール・フォン・ダールベルクがナポレオン法典をもとにフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。
しかし、ナポレオンが敗退すると、1814年にはユダヤ人の市民権と選挙権が再びはく奪された。1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロムが発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域でへプへプ・ポグロムが起こった。1821年にはウクライナでオデッサ・ポグロムが起こった。1848年、ハンガリー革命に参加したハンガリー系ユダヤ人(英: Hungarian Jews)が弾圧された。これをきっかけにアルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェンによってハンガリーも1851年から1860年にかけてドイツ化が進行した。1864年、フランクフルトのユダヤ人に再び市民権が認められ、1871年にドイツ帝国が建国された際、ユダヤ人は正式にドイツ国民としての権利を与えられた。
近代 [編集]
「東方問題」、「オスマン帝国分割」、「エジプト・シリア戦役」、および「エジプト・トルコ戦争」も参照
19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので反ユダヤ運動が助長されることになり、ロシアで反ユダヤ主義のポグロム(1881年-1884年)が起こった。ユダヤ人はオーストリア=ハンガリー帝国領ブロディへ大量に脱出したため町が混乱すると、1882年にMay Lawsが発布され、ユダヤ人への締め付けが実施された。後にはロシア帝国をはじめ各国でユダヤ人殺戮のポグロムが盛んに行われたことが引きがねとなり、古代に祖先が暮らしていたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとするナータン・ビルンバウムによるシオニズム運動が起きた。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどがユダヤ教徒であり(キリスト教やイスラムに改宗した途端、現地の「民族」に「同化」してしまう)、ユダヤ教の宗教的聖地のひとつであるイスラエルの地に帰還することもその理由の一つである。
1890年、エリエゼル・ベン・イェフダーがパレスチナに「ヘブライ語委員会」(「ヘブライ言語アカデミー」の前身)を設立。 1894年にフランスでドレフュス事件が起こり、同年には「イディッシズム」を代表する作家、ショーレム・アレイヘムによる『牛乳屋テヴィエ』(『屋根の上のバイオリン弾き』の項を参照)が発表された。1896年、テーオドール・ヘルツルが「ユダヤ人国家」を発表。
1903年から1906年にかけてロシアで度重なるユダヤ人襲撃が起こった。
1914年11月にイギリスがオスマン帝国に宣戦布告すると、シオニストの閣僚・ハーバート・サミュエルが「The Future of Palestine」を閣僚に回覧した。当時、パレスチナはVilayet of Damascus南西部にあったが、1915年のフサイン・マクマホン協定のこの部分に関する解釈が後に大論争となった。第一次世界大戦が始まると大量のコルダイト火薬が必要になったが、その原料のアセトン供給を握っていたのはロシア帝国の化学者でシオニストのハイム・ヴァイツマンであった。このことでイギリス政府閣僚との知古を得たヴァイツマンはアーサー・バルフォアにバルフォア宣言を働きかけた。
1916年にはサイクス・ピコ協定が締結された。1917年に熱心なシオニストのウォルター・ロスチャイルドはイギリス政府からバルフォア宣言を取り付け、イギリス政府はシオニズム支持を表明することになった。この条約はトルコとのセーヴル条約やイギリス委任統治領パレスチナ(1920年-1948年)に繋がっていった。1919年にはファイサル・ワイツマン合意が調印され、パレスチナへのユダヤ人入植を促進させることで合意している。オスマン帝国から代わった委任統治が、イギリス委任統治領パレスチナ(1920年-1948年)の公用語の一つとしてヘブライ語を宣言した。
イスラエル建国以前の中東では、イスラム教徒とユダヤ教徒は共存してはいたが、しばしば大規模な反ユダヤ暴動が起きた。1920年7月の暴動(ユダヤ人216人死傷)、1921年の暴動があった。1922年、イギリス委任統治領パレスチナが成立。1925年、1926年の暴動、1929年には嘆きの壁事件がきっかけとなって8月23日にはヘブロン虐殺(ユダヤ人133人死亡、339人負傷、アラブ人439人死傷)があった。
1928年、ウラジーミル・レーニンの社会主義民族政策により、アムール川沿岸の中ソ国境地帯に「ユダヤ民族区」が設置され、西ウクライナから西ベラルーシにまたがる「ルテニア」と呼ばれた地域、すなわちカルパティア・ルテニア(カルパト・ウクライナ)・ガリツィア(ガリツィア・ロドメリア王国)・モルダヴィア・ベッサラビアなどのシュテットルから多数のユダヤ人が移住した。社会主義的な枠組みのなかでユダヤ人の文化的自治をめざすもので、イディッシュ語の学校や新聞が作られた。同時期の戦間期には、ガリツィア等からの難民がウィーンへも押し寄せ、イディッシュ語のコミュニティーを形成したことが知られている。[18]
1933年に国家社会主義ドイツ労働者党が政権を握ると、ドイツにおいてユダヤ人迫害政策は公的な者となり、様々な扱いで圧迫されるようになった。1936年から1939年のエルサレムでの暴動があった。なお1936年の時点でエルサレムの人口は12万5000人、うちユダヤ人が7万5000人を占めていた[19]。1938年11月9日、ドイツ全土で『帝国水晶の夜』(ドイツ語: Reichskristallnacht)事件が発生し、その後ユダヤ人に対する迫害政策がさらに進展した。1939年、第二次世界大戦が勃発し、ナチスは占領地域に於けるユダヤ人の隔離を開始した。ソ連はユダヤ人難民のユダヤ自治区への流入を禁止した。 1940年8月31日、杉原千畝がリトアニアのカウナスを脱出。杉原千畝は、7月からドイツ占領下のポーランドを脱出してきたユダヤ難民に「命のビザ」を発給したことで知られているが、1947年に責任をとらされ、依願退職した。1941年、ソ連はヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国を廃止し、ヴォルガ・ドイツ人をシベリアやカザフスタンへ追放し、カザフスタンのドイツ人と呼ばれた。1941年7月10日、イェドヴァブネ事件。1941年9月6日、リトアニアのヴィリニュスにヴィリニュス・ゲットーが設置された。ナチスは当初隔離したユダヤ人をマダガスカル島などに追放する計画を立てていたが、その後絶滅収容所への収用と殺害に方針を切り替えた。これらはホロコーストと呼ばれる。
ホロコーストの実態が西側諸国に伝わると、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設するというシオニズムが盛んになり、1945年にアメリカでユダヤ人抵抗運動が組織された。しかしこの運動はパレスチナに住んでいたアラブ人およびそれを同胞と見るアラブ諸国との軋轢を生み出した。1946年にはシオニズムを奉じるユダヤ系組織によるキング・デービッド・ホテル爆破事件やイフード運動の指導者ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(Fawzi Darwish al-Husseini)暗殺が起こった。1947年に国連で『パレスチナ分割決議(国際連合総会決議181号)』が採択されると、1948年4月にはエツェルによるデイル・ヤシーン事件などが起こったが、同年5月14日のイスラエル国建国のイスラエル独立宣言が行なわれると、翌日の5月15日の第一次中東戦争に繋がっていった。全パレスチナ政府がガザに設置され、アミーン・フサイニーが大統領となると、Killings and massacres during the 1948 Palestine Warが多発した。1949年7月の休戦協定によってパレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得。エジプトはガザ地区を獲得し、ヨルダン(1949年6月にトランスヨルダンから名称変更した)は東エルサレム及びヨルダン川西岸地区を獲得した。一方、寸土も獲得出来なかった全パレスチナ政府が四ヶ月で崩壊すると、1951年にアミーン・フサイニーは、親イスラエルとみなしたヨルダンのアブドゥッラー1世を暗殺した。
1952年にエジプト革命が起こり、1953年にエジプト共和国が成立すると、第2代大統領ガマール・アブドゥン=ナーセルはアスワン・ハイ・ダム建設の協力をアメリカに求めた。しかし、1956年になってアメリカ合衆国国務長官のジョン・フォスター・ダレスがエジプトへの協力に反対した[20]。そのためナーセルはソ連側に接近し、さらに汎アラブ主義を掲げ、スエズ運河国有化(英: Nationalisation of the Suez Canal)を断行した。当時フランスは、アルジェリア戦争(1954年-1962年)でアルジェリア民族解放戦線をエジプト共和国が支援していると考えたため、英仏は第一次中東戦争でエジプトと敵対したイスラエルを支援する形で第二次中東戦争が勃発した。アメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領は、アラブ冷戦下にソ連が介入する事態を懸念し、平和のための結集決議で即時停戦を求める総会決議997を採択した。1957年3月16日にイスラエルは撤退し、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した。ダレスの戦略は完全に裏目に出て、中東でのソ連の影響力は一気に高まり、第三次中東戦争に繋がった。
米国がベトナム戦争でアラブ冷戦に手が回らなくなると、ソ連のKGBはイスラエルのモサッドの諜報活動を逆手にとった。ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡る紛争で、ソ連はエジプトとシリアを情報操作で開戦準備に誘導し、モサッドの入手する情報から先制攻撃を恐れたイスラエルは1967年に逆に先制攻撃を行ない、第三次中東戦争を開始した。
第三次中東戦争は、イスラエル領土の拡張運動「大イスラエル構想[21]」(1967年-1976年)が活発になった時期であることから、パレスチナ人およびアラブ人とユダヤ人入植者との対立がその政策の結果として建国以降一貫して引き起こされてきたと拡大解釈する立場もあらわれた。
1964年にアラブ連盟によりパレスチナ解放機構(PLO)が結成されていたが、1969年2月に第三次中東戦争で活躍したファタハのヤーセル・アラファートが議長に就任すると、PLOが事実上のパレスチナ亡命政府と看做されるようになった。1970年にガマール・アブドゥン=ナーセルが急死すると、アンワル・アッ=サーダートがエジプト大統領に就任した。サーダートは、ナーセルのイスラエル強硬路線を踏襲し、アラブ同士の結束を固める為に1971年9月にシリアとリビアとのアラブ共和国連邦を結成した。1972年4月には、1970年のブラック・セプテンバー事件でPLOを追放していたヨルダンは国交を断絶された。一連の主導権争いにイスラエルが巻込まれる形で、1973年10月の第四次中東戦争が勃発した。石油輸出国機構(OPEC)は、イスラエル援助国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こした。
和平締結を模索する中で、サーダートはナーセルの反イスラエル路線からの転換を図った。1977年6月にサーダートがイスラエルへメナヘム・ベギン首相を公式訪問し、1978年9月のキャンプ・デービッド合意はサーダートが単独で締結した。しかし、1981年10月にサーダートはエジプトのジハード団によって暗殺された。
1987年に始まる第1次インティファーダは、PLOへの失望感からパレスチナ人が抵抗運動を始めたものである。
年表 [編集]
反ユダヤ主義 [編集]ユダヤ人の歴史の要素の一面として、時には迫害・襲撃・追放をも含んだ反ユダヤ主義ということが言われるが、これはあくまで極一面であって、ディアスポラの地で2000年、地域によっては1000年以上の隣人として共存・共発展してきた面もあり、たとえばキリスト教では親ユダヤの宗派も多く存在する。宗教弾圧を受けた面もあれば、セム的一神教・アブラハムの宗教の本流としての「啓典の民 People of the Book, Ahl al-Kitab」、「聖なる民 ‘am Qodeš(マルティン・ブーバーは「聖にする民」と訳している。cf.レビ記11:45)」としての面もある。イスラム世界においては、貢納を行えば信仰は許されたが、メルラーと呼ばれるゲットーも存在していた。これを編み出したのはハルーン・アル・ラシードであった。また反ユダヤ暴動もしばしば起きていた[22]。
ユダヤ人国家の誕生 [編集]詳細は「シオニズム」、「イスラエル」、および「中東戦争」を参照 1945年、シオニストによってユダヤ人国家イスラエルが建設される。 博物館 [編集]ユダヤ人と関わりのある民族 [編集]文化遺産 [編集]ユダヤ人関連の文化遺産として以下がある。
出典 [編集]
参考文献 [編集]
関連書籍 [編集]初歩的入門書・紹介書 [編集]
ユダヤ教 [編集]
アシュケナジム社会 [編集]
ユダヤ人の精神・生活関連 [編集]イディッシュ文学 [編集]
ドイツ文学 [編集]
アメリカ文学、アメリカの出版物 [編集]
哲学関連 [編集]
教養関連 [編集]
その他 [編集]
日本と関わりの深いユダヤ人 [編集]
日本のメディアに登場するユダヤ人 [編集]その他、日本のユダヤ人参照。 ユダヤ関連の映画 [編集]
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
|