原爆ドーム
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原爆ドーム
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| (英名) | Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome) | ||
| (仏名) | Mémorial de la paix d'Hiroshima (Dôme de Genbaku) | ||
| 登録区分 | 文化遺産 | ||
| 登録基準 | 文化遺産(6) | ||
| 登録年 | 1996年 | ||
| 拡張年 | |||
| 備考 | 負の遺産 | ||
| 公式サイト | ユネスコ本部(英語) | ||
| 地図 | |||
| 世界遺産テンプレートを使用しています | |||
原爆ドーム(げんばくドーム、英:Atomic Bomb Dome)の名で知られる広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ、英:Hiroshima Peace Memorial)は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑である。もとは広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、“二度と同じような悲劇が起こらないように”との戒めや願いをこめて、とくに負の世界遺産と呼ばれている(「負の世界遺産」という表現そのものには厳密な定義はないが、他にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所や、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群などがその例とされる)。
目次 |
[編集] 位置
所在地は広島県広島市中区大手町1丁目10。原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園(地元メディアや住民には「平和公園」と一般に呼ばれる)が広がっている。北は相生通りを挟んで広島市民球場と向き合う。東側約200メートルの位置に、爆心地に比定される島外科(島病院)がある。
[編集] 歴史
[編集] 建設の経緯
広島市は、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展していった(広島大本営の項を参照。統帥権をもつ明治天皇が行在し、広島臨時仮議事堂において第7回帝国議会も開催された。明治維新以降、首都機能が東京を離れた唯一の事例である)。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。
[編集] 竣工
1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。設計はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzelも参照。「ヤン・レツル」との仮名表記もしばしば使用される)。ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。レッツェルの起用は、当時の寺田祐之県知事によるものであり、寺田は前職の宮城県知事時代、レッツェルの設計した松島パークホテルを見て彼に物産陳列館の設計を任せることを決めたといわれる。さらに同じ頃レッツェルは宮島ホテル(1917年竣工。現存せず)の設計も手がけている。設計料は4575円。当時広島市の土地は坪当たり24銭から4円で、石工の日当は90銭から1円10銭、新橋-広島駅間の汽車の運賃は三等で5円17銭、二等7円75銭、一等13円33銭で、広島市の人口は13万であった。
[編集] 原爆投下までの沿革
1919年に陳列所で開催された「ドイツ作品展示会」では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われたことでも知られている。これは第一次世界大戦中に中国の青島で日本軍の捕虜となり、広島の沖合いに浮かぶ似島の捕虜収容所に収容されていたドイツ人の菓子職人カール・ユーハイムによるもの。カールは後に神戸市で「ユーハイム」を創業する[1]。
1921年に広島県商品陳列所と改称し、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。1933年には広島県産業奨励館に改称された。この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献した。しかし、戦争が長引く中、1944年3月31日にはその業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。
[編集] 被爆時の状況
広島市への原子爆弾投下も参照。
1945年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約580メートルの地点で炸裂した。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。
ドーム部分が全壊しなかった理由として、
- 衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと[2]
- 窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと
- ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと
などが挙げられている。少なくともドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けず、爆心地付近では数少ない被爆建物として残った。
建物内にいた職員など約30名は、熱線と爆風により全員即死したと推定される[3]。なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は被爆直前の8時前後に産業奨励館から自転車で帰宅し、自宅前で被爆たため、負傷したものの宿直者の中で唯一の生存者となった。
その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。
[編集] 「原爆ドーム」としての再出発
広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まった。その中で鉄枠のドーム形が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた[4]。
原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、一部の市民からは根強く、「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という意見があり、その存廃が議論されてきた。広島市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべき」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まったが、1960年に被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病で亡くなった1人の女子高校生が「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と記した日記を読み感動した平和運動家の河本一郎が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議する。翌年保存工事が完成し、その後風化を防ぐため定期的に補修工事をうけながら保存されている。1989年に行われた2回目の大補修以降、3年に一度の割合で健全度調査が行われ、最近では、2009年に6回目の調査が行われている。
広島市単体での保存・管理が続いていたが、被爆50年にあたる1995年に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。世界遺産ブームの中、さまざまな年代・国籍の人が多く訪れるようになった一方、立ち入り禁止区域に入って落書きや悪ふざけをするなどの心無い行為・迷惑行為が問題になっている。
2004年以降、原爆ドームの保存方針を検討する「平和記念施設あり方懇談会」が開催されている。「博物館に移設する」「屋根をつける」などの案についても検討されたが、2006年に「今後も原状のまま保存する」とする方針が確認された。
[編集] 世界遺産への登録
[編集] 経緯
1992年に日本政府が世界遺産条約を批准したことを契機に、同年9月に広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択。市長は翌年1月に要望書を文化庁に提出した。全国的な署名運動も始まり、1994年に165万人分超の署名を添えた国会請願が衆議院・参議院両本会議で採択された。1992年当初、日本政府は「世界遺産への推薦には『その遺産が国内法(文化遺産であれば日本では文化財保護法)で保護されていること』が条件」としており、「原爆ドームは歴史が浅く、文化財に指定できないため、推薦要件を満たさない」として原爆ドームの推薦には消極的であった(実際にはアウシュヴィッツや、アパルトヘイトに反対する政治犯を収容したロベン島、ベルリンの近代集合住宅群など、「歴史が浅い」世界遺産の例は複数ある)。文化庁が消極的だった背景には、アメリカや中国・韓国を刺激したくないという政治的配慮が強く働いていたが、結果としてこれが署名運動の盛り上がりにつながり、上記のような多数の署名者を得ることになった。
1995年3月、文化庁は文化財保護法の史跡指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定した。これをうけて、日本政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦した。
原爆ドームの登録審議は、1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において行われた。このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から、「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させた。また、中華人民共和国は、「日本は戦争への反省が足りない」として審議を棄権している。
[編集] 登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
基準(6)のみの適用で登録されているのは例外的なケースだが、比較的歴史の浅い負の世界遺産には共通してみられる傾向である。
[編集] 問題点
[編集] 保存についての問題
そもそも、破壊された状態のまま保存するという、矛盾ともいえる特徴をもつ。保存工事は鉄骨による補強と樹脂注入による形状維持・保全作業が主であり、崩落や落下の危険性のある箇所はそのたびに取り除かれている。また、定期的な補修作業・点検が行われてはいるものの、年々風化が進んでいる箇所も確認されており、維持・保全に困難な面がある事は否定できない。少なくとも、保存について他の世界遺産・史跡とは異なった問題があることは確かである。
また、日本列島は常に地震の脅威にさらされているため、保存工事では大型地震に対しての耐震性も考慮されている。ただし、耐震強度計算および工事計画はあくまでも理論上の数値に基づいているため、地震の規模や加重のかかり方が想定外だった場合、崩落する危険性を常に抱えている。なお2001年3月24日の芸予地震では、広島市中区は震度5強の揺れに遭遇したが、この時は目立った被害はなかった。
[編集] 危機遺産への登録問題
2006年、原爆ドーム周辺の緩衝地帯で高層マンション建設計画が進んでいることが明らかになった。周辺の景観が破壊され、同様の景観問題を抱えていたケルン大聖堂のように危機遺産リストに登録されてしまうのではないかと問題になった(ケルン大聖堂の危機遺産リスト登録は、ケルン市が条例で建造物の高さを規制するなどして状況が改善されたため2006年をもって解除)。しかし、原爆ドームは大聖堂と異なり負の世界遺産であり、原爆ドームの存在が都市の発展を阻害するという状況はむしろ本末転倒ではないかという声もある。
[編集] 広島電鉄の沿線案内を巡る出来事
2007年7月28日、広島市内で路面電車を運行する広島電鉄が、電車内に原爆ドームと厳島神社を並べて紹介した沿線案内を掲示し、「広島が誇る世界遺産」として紹介したところ、利用者や被爆者から抗議が複数件寄せられ、撤去していたことが判明した[5]。同社では「原爆の惨禍を後世に伝えているという点で誇り、という趣旨だったが、誤解を招く表現だった」と釈明したが、被爆者からは、「同じ世界遺産といっても、原爆ドームと厳島神社とでは質が違っており、一括りに『誇り』として表現するのは乱暴」との批判が出ている。
[編集] アクセス
[編集] 航空
広島空港からは、エアポートリムジンバスの広島バスセンター行に乗車すれば、下車後徒歩5分程度。広島駅(新幹線口)行に乗車した場合は、下車後に広島駅の地下通路から反対側に出て、後述の路面電車で行くのが一般的である。
[編集] 鉄道
JR山陽新幹線・山陽本線広島駅から、広島電鉄市内線・宮島線のうち、1番(紙屋町経由広島港ゆき)と5番(比治山下経由広島港ゆき)を除くすべての電車に乗車、「原爆ドーム前」電停下車。なお、1番の電車でも、「紙屋町東」「本通」いずれかの電停から原爆ドームまで5分程度で歩ける。
または、市内各所を走るバスで、「原爆ドーム前」「紙屋町」バス停下車。乗る際に乗務員に確認するとよい。
[編集] 自家用車
地下街紙屋町シャレオの駐車場は大規模であり、それを利用すれば原爆ドームまで徒歩で1、2分でゆける。
[編集] 脚注
- ^ ユーハイムグループ:バウムクーヘン
- ^ 爆心地の島病院はドームから見て東南東方向にあり、厳密には爆風の力は斜め上からかかっている。そばで見ると、ドームの鉄骨が西北西方向に傾いているのが肉眼でもわかる。
- ^ 原爆ドームの死者数は、原爆投下時に勤務していた職員の名簿から割り出した数であり、同時間所用で訪れていた市民等の死者も推定されるため、実際の死者数はさらに多い可能性もある。
- ^ 広島平和記念資料館WEBSITE「原爆ドーム」
- ^ 朝日新聞大阪版、2007年7月28日付
[編集] 参考文献
- 朝日新聞広島支局 『原爆ドーム』 朝日文庫、1998年 ISBN 4022612355
- 山下和也・井手三千男・叶真幹 『ヒロシマをさがそう:原爆を見た建物』 西田書店、2006年 ISBN 488866434X
- 田邊雅章 『ぼくの家はここにあった 爆心地〜ヒロシマの記録〜』朝日新聞出版、2008年 ISBN 9784023501249
[編集] 関連項目
- 広島市への原子爆弾投下
- 第二次世界大戦
- 広島平和記念公園
- レストハウス (広島市)
- 被爆電車 - 広島電鉄650形電車、150形
- 浜井信三
- 原民喜
- はだしのゲン
- 夕凪の街 桜の国
- 原爆の子
- その夜は忘れない
- 原爆投下・10秒の衝撃
- 長崎市
- 小倉市(北九州市)
- 日本の世界遺産
- 世界遺産の一覧
- 中国地方の史跡一覧
[編集] 外部リンク
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