日清戦争
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| 日清戦争 | |
|---|---|
| 戦争:日清戦争 | |
| 年月日:1894年7月25日から1895年11月30日[1] | |
| 場所:主に朝鮮半島・満州・黄海 | |
| 結果:日本の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| 戦力 | |
| 240,616 |
630,000 |
| 損害 | |
| 戦死 1,417 病死 11,894人 負傷 3,973 |
死傷 35,000 |
日清戦争(にっしんせんそう、中国語:甲午戦争、第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に朝鮮王朝をめぐる日本と清国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。
目次 |
[編集] 戦争目的と動機
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[編集] 前史
日清戦争は明治維新後近代国家形成をめざす日本と1860年代から洋務運動による近代化を進める清朝(中国)との間で行われた、朝鮮半島などをめぐる両者の全面戦争である。
古代朝鮮三国時代の百済復興のための新羅・唐連合軍との白村江の戦い、元朝およびそれに服属する高麗による元冦と豊臣秀吉の朝鮮出兵を除けば、これらの三国間で日本が関係した戦いは歴史的にきわめて少ない。それはこれらの三国が古墳時代以来朝鮮半島の国々などを経て日本に伝播してきた漢字、儒教、仏教、律令制などの文化を共有したこと、さらに中国大陸にあった巨大な諸王朝が中華思想、華夷秩序に基づいて周辺諸国を冊封して朝貢関係を築き、それが経済交流と外交秩序の一定の安定を東アジアにもたらしたことによるためという説も存在する。[5]
近世から近代にかけて中国大陸では満州の女真族が建てた清王朝が明王朝を滅ぼし、やがて広大な領土支配のため北部と西部方面の辺境地域を藩部とし南のネパール、ビルマ、シャム、越南、東の朝鮮及び琉球(なお琉球は日本側とも冊封関係にあった)を冊封して清王朝を中心とする華夷秩序を形成、北辺ではシベリアに進出したロシア帝国との間に条約を締結して国境を漸次確定した。 朝鮮王朝は1392年李成桂が高麗を滅ぼし建国。のちに明の冊封を受け明にならい朱子学を国教とし科挙を実施、官僚制中央集権国家を形成する。その過程で科挙に合格し官僚を独占し世襲化する両班制が成立した。明が清にかわると朝鮮国王に「三跪九叩頭の礼」を強いるなど冊封国としての関係を強めた。 豊臣秀吉の朝鮮出兵は「鼻を削いで首にかえよ」という残虐な侵略戦であったため長く朝鮮民衆の間にその非道が語り継がれたが、関ヶ原の戦いの後、徳川幕府は朝鮮と対馬の宗氏の間に1609年己酉約条を結ばせ交易を再開、また朝鮮通信使と日本国王使の往来によりおおむね対等な関係を構築した。他方清王朝との間ではその冊封を受けず限られた貿易のみを容認し、禁教令の徹底などを目的に1630年代の鎖国令によってオランダとの交易を除き西欧諸国との関係も途絶させた。
[編集] 背景
19世紀なかばから東アジア世界に西欧列強による脅威が迫ってきた。清はそれまで広州一港に貿易を限っていたがイギリス(大英帝国)は1840年と1857年のアヘン戦争および第二次アヘン戦争により南京条約(1842年)、天津条約(1858年)および北京条約(1860年)を結び多額の賠償金と香港、九竜半島の割譲、上海など11港の開港と領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇、公使の北京駐在、キリスト教の公認と保護などを清に認めさせた。また日本に対しては1853年と翌年アメリカ合衆国は東インド艦隊司令長官ペリーとその艦隊を派遣し軍事的威圧のもとに日米和親条約つづいて日米修好通商条約を江戸幕府と締結し、これにより5港の開港と領事裁判権、片務的最恵国待遇、関税自主権喪失などを認めさせ(後に英、露、蘭、仏とも)幕府の二百数十年続いた鎖国を終わらせた。
幕末には攘夷論が台頭するがそれを克服し、戊辰戦争の後明治政府は西洋文明の積極的な受容による近代国家の建設、幕府が結んだ西欧諸国との不平等条約の改正と南下政策を進めるロシア帝国との国境確定および東アジア諸国との外交関係の再構築と版図の確定という課題に取り組んだ。また清でも1860年代から漢人官僚曽国藩、李鴻章らによる近代化の試みとして洋務運動が展開され中国の伝統的な文化、制度を土台としながら軍事を中心として西洋技術の導入を進めた。
[編集] 開戦まで
[編集] 朝鮮との国交交渉
明治政府は1868年末、王政復古を伝える書契を朝鮮に渡そうとしたが、その形式が従来と違い文中に中国皇帝のみが使用する「皇」や「勅」の語があったことで、朝鮮側はそれらは朝鮮にたいし日本を上位におくととらえ、また近代化を進める日本を「仮洋夷」として警戒してその受け取りを拒否、その後数年間交渉が進展しなかった。 この時朝鮮では幼い国王高宗にかわりその実父興宣大院君が実権を握り、外戚安東金氏の専横と古い体制を打破しつつ、1866年8月のアメリカ武装商船ジェネラル・シャーマン号事件と10月のフランス人宣教師9名の処刑(丙寅教獄)、その報復として江華島へ侵攻したフランス艦隊との戦闘(丙寅洋擾)など華夷思想による強固な鎖国・攘夷政策を実行し西欧諸国との間に重大な軋轢を引き起こしていた。
[編集] 日清修好条規と琉球帰属問題
明治政府は朝鮮との国交問題解決のためにも、まず朝鮮の宗主国である清と対等の国交条約を結び、その冊封関係を利用して朝鮮と交渉するという方針をたて、清の直隷総督李鴻章との間で1871年9月日清修好条規及び通商章程を締結した。これは使節の交換と領事駐在および限定的な領事裁判権、開港と通商および協定関税率を相互に認めるという平等条約であった。その第二条は「両国好みを通ぜし上は---若し他国より不公及び軽藐する事有る時、其の知らせを為さば、何れも互いに相助け」と、両国が当時おかれていた西欧列強による脅威を前提に相互扶助を誓約するものであった。
他方両国には琉球王国の日清両属という領土問題での懸案もあった。琉球王国は明(1644年滅亡)の冊封を受け東アジア諸国との交易により繁栄していたが、1609年薩摩藩の島津氏による侵攻を受け奄美諸島を薩摩藩の領土として割譲されたうえ琉球は事実上薩摩藩の属国となり、明や清との朝貢貿易の利益のため江戸幕府と中国への両属とする体制が幕末までつづいた。 1871年7月の廃藩置県により琉球は鹿児島県に一応編入され、翌1872年9月琉球藩を設置し国王を藩王として華族に列する冊封詔書が授けられたが、この後も琉球の日清両属の状態は続き、さきに1871年琉球船が難破し台湾南部へ漂着した際、先住民による琉球島民殺害事件が発生していたが明治政府はそれを解決できないまま数年が経過した。
[編集] 征韓論と明治六年政変
すでに18世紀末、仙台藩の林子平は海国兵談で海防論を説き、幕末には経済学者佐藤信淵は土地国有化と海外進出を行う絶対主義国家を論じ、吉田松陰は幽囚録で蝦夷地開拓とともにカムチャッカ半島、朝鮮、台湾、満州等への侵略統治論を展開していた。それらの主張は尊王攘夷運動と明治初期の薩長藩閥政府にも少なからぬ影響を与え、朝鮮との国交交渉が進展しない明治政府内で武力による開国を迫るいわゆる征韓論が台頭した。
1873年6月の閣議(いわゆる留守政府)において参議板垣退助が交渉の行きづまりを打開するため陸軍一大隊の朝鮮への派遣を主張、西郷隆盛は使節の派遣と自らその職への任命を主張、その後岩倉具視が帰国し内治優先の立場から使節派遣に反対の上奏をし、明治天皇の裁可により派遣延期となり参議西郷、板垣らが辞職する事態となった。(詳しくは征韓論、明治六年政変、西郷隆盛を参照)また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。 この征韓論には1871年廃藩置県によって武士としての職を失った士族の不満が背景にあり、以後1873年徴兵令公布、1876年廃刀令、秩禄処分に至る過程で士族反乱が相次ぎ明治政府はこうした不満を海外に向ける必要もあった。
[編集] 台湾出兵
1871年の琉球島民殺害事件にたいして薩摩藩出身者を中心に台湾出兵が建言され、征韓論派の下野の後政府は内務卿大久保利通の主導のもと1874年台湾蕃地事務長官に大隈重信、同都督に陸軍中将西郷従道を任命して出兵準備をさせた。兵力は二個大隊であり、うち鎮台兵は一個大隊で残りは「植民兵」として薩摩など九州各地の士族で占領地永住を前提に募集・編成されたものであった。[6] しかしイギリスやアメリカの反対意見と局外中立の表明および征韓論にも反対していた参議木戸孝允の反対と辞任により政府は派遣中止を決めるが、西郷が5月2日征討軍を長崎から出航させると大久保もこれを追認し、7月1日には日本軍が台湾南部の事件発生地域を占領することとなった。日本軍は先住民の村を焼き払うなどし、日本側の戦死者は12名であったが、年末までの駐屯でマラリア等による病死者が500名を超える事態となった。[7]
これは近代日本初の海外出兵であったが、清側は直ちに抗議し撤兵を強く求めた。明治政府は交渉決裂の場合の清との開戦も決し、9月「和戦を決する権」を与えられた大久保が全権大使として北京で交渉し、難航の末イギリスの仲介もあり清は日本の出兵を「義挙」と認め50万両(テール)の賠償をすることで決着した。
これは琉球の帰属問題で日本に有利に働き、明治政府は翌1875年琉球にたいし清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。また清は以後日本の清国領土簒奪への警戒感を持ち北洋艦隊建設の契機ともなった。
[編集] 江華島事件と日朝修好条規
1873年12月大院君は失脚し王妃の一族閔氏が政権を握り、朝鮮国内でも通商開化を説く意見が登場した。明治政府は1874年6月から交渉を再開するがやはり紛糾したため、軍艦数隻を朝鮮沿岸に派遣し海路を測量させて示威を行い交渉を有利に進めることとし、1875年軍艦雲揚、第二丁卯を派遣した。この雲揚が同年9月20日首都漢城に近い要塞地帯であった江華島に接近し、発砲されたとの理由で3日間にわたり戦闘し22日には永宗島の砲台を攻撃、占領する事件が起きた。[8](詳しくは江華島事件また日朝修好条規参照)
明治政府は12月に黒田清隆を特命全権大使に任命し軍艦3隻などの艦隊をともなって朝鮮に派遣し(砲艦外交)、その結果1876年2月日朝修好条規が調印された。これは首都への公使駐在と釜山の他二港の開港と日本人の居留通商などを認めさせたが、第一条で「朝鮮は自主の邦にして、日本国と平等の権利を保有せり」とうたいながらも第十条で片務的領事裁判権を規定する不平等条約であり、さらに第七条では日本が朝鮮沿岸の測量権を得て軍艦の周航など軍事的進出を容易にすることとなった。[9]
なお「自主の邦」と規定したとはいえ、清は冊封関係において従来から「属国自主」として内政・外交については関与しない立場をとっており、清の宗主権を否定しつくすものでもなかった。ちなみに1882年の朝清商民水陸貿易章程では清の宗主権が明文化されている。
[編集] 琉球処分と分島改約案
1879年明治政府はいわゆる琉球処分を行い琉球藩を沖縄県とし、琉球王尚泰の東京移住を命じるが、琉球内ではそれを不服とし明治政府に様々な嘆願を行い、また清に救援を求める人々もあった。清は冊封関係の回復にむけ積極的になり日清の関係は悪化し、世界巡遊中の前合衆国大統領ユリシーズ・グラントが明治天皇との会見で西欧列強の介入を防ぐための日清両国の譲歩を助言したこともあり、1880年北京で日清の交渉が行われた。
この時日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とし、日清修好条規に日本の欧米並みの最恵国待遇を追加する案(分島改約案)を提示し一旦はまとまる。しかし清は元来二島の領有を望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還し琉球王国再興を求めており、分島にたいする琉球人の反対もあり、清は提案受け入れの態度を変えて調印に至らなかった。[10] この琉球問題の決裂と日本の台湾への野心の疑いから清側ではこの後対日強硬論が唱えられるに至る[11]。この結果、領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後まで持ち越されることになった。
[編集] 独立党と事大党の対立
江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきた。
[編集] 壬午事変と甲申政変
日朝修好条規締約後の朝鮮では日本の支援による兵制改革で軍人が失職し、残った旧式軍隊にも給与が遅配、開国後の貿易で日本への米輸出による米価高騰と食糧危機が民衆を圧迫していた。 1882年7月、旧式軍の兵士と市民が漢城で蜂起して新編成の「別技軍」の日本人教官らを殺害し日本公使館を包囲、翌日には政府と王宮を襲い領議政(首相)と旻氏系高官らを殺害、公使館が焼失し(公使自ら火を放つ)、日本人10数人が殺害される事態となった(壬午事変)。 日清両国が出兵、日本から軍を率いた花房義質公使が派遣され、8月30日、朝鮮と済物浦条約を調印し、日本人被害者への補償5万円、公使館の損害と日本の出兵への補填金50万円と公使館警護のため若干の軍隊の漢城駐留などを取り決めた。 事変後清は袁世凱らが指揮する軍隊を朝鮮に駐留させ、軍隊訓練や政府顧問をおくなど朝鮮の軍事や内政に積極的に関与した。
1884年6月、ベトナムをめぐるフランスとの対立で朝鮮駐留清軍の半数が帰還し(清仏戦争)、事変後政治的に後退していた日本は竹添進一郎公使を10月30日漢城に帰任させ、済物浦条約の未払い分40万円の返上を申し出させた。 開化派は日本公使の支援を利用して事大派政権打倒を計画し、12月4日郵政局開局祝賀宴に際し事大派要人を襲撃、その後王宮内で6人の大臣を殺害するなどして5日に新しい政権を発足させたが、6日に清の武力介入により失敗した(甲申政変)。なお、4日夜から日本公使は警護兵百数十を連れて朝鮮王宮に国王保護の名目で参内して開化派を支援しており、重大な内政干渉である。 また、清軍との間に王宮で戦闘が続き、双方に死者を出したが、これは近代における日中間の最初の武力衝突となる。この時またも公使館が全焼し日本人に30数名の犠牲者を出し、日本国内では朝鮮、中国への反感が高まった。
[編集] 天津条約と日本の軍備拡大
1885年4月全権大使伊藤博文と李鴻章により天津条約が結ばれ、四ヶ月以内の日清両軍の朝鮮からの撤退と、以後出兵時の事前通告および事態の沈静化後すみやかに撤収すべきことが定められ、その後10年間外国軍隊の朝鮮駐留はなくなった。
しかし、これらの事変後明治政府は軍備拡大を進めた。1882年8月山県有朋は煙草税増税分による軍備拡張を、9月岩倉具視は清を仮想敵国とする海軍軍拡と増税を建議し、陸軍は3年後からの兵力倍増を、海軍は翌年からの8カ年で48隻の建艦計画をたてた。これにより、歳出に占める軍事費の割合は1882年度17.4%だったものが、1890年度には30%を超えるまでに増大した。[12]
また、1883年には徴兵令を改正し、免役規定中の代人料を廃止して兵員増をはかり、1888年には従来の内乱鎮圧型の鎮台を改編し、6師団と近衛師団を創設して海外での戦闘能力を高め、1889年には徴兵令の免除規定を全廃した。
1886年8月には清の北洋艦隊のうち定遠など4隻の軍艦が長崎港に入港した際、上陸した水兵が日本の警官隊と衝突し、双方に死傷者を出す(死者日本側2名、清側8名)騒ぎ(長崎事件)となった。
[編集] 甲午農民戦争
両事変後、朝鮮において日本は経済的に進出し、90年代朝鮮の貿易で日本は輸出の90%以上、輸入の50%を占め、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させた。[13] 1894年5月に朝鮮で、東学教団構成員の全琫準を指導者として民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争(東学党の乱)が起き、5月31日には全羅道首都全州を占領した。これにより6月1日朝鮮政府は清の派兵を要請する一方、農民軍への宣撫にあたり、6月11日農民軍の弊政改革案を受け入れて全州和約を結び、清および日本の武力介入を避けるべく農民軍は撤退した。
清は6月7日には日本に派兵を通告し12日に900名の軍隊が牙山に上陸、日本の伊藤博文内閣は議会との激しい対立(5月30日、内閣弾劾上奏案可決)[14]により政治的に行き詰まっており、対外的に強硬にでて事態打開をはかろうとした。6月2日閣議は衆議院解散と公使館、居留民保護の名目で朝鮮への混成一個旅団8000名の派兵を決定し、5日には史上初の大本営を設置した。 6月10日海軍陸戦隊400と大鳥圭介公使が漢城に入り、後続部隊を合わせて4000名の混成旅団が首都周辺に駐留することとなったが、既に農民軍は撤収しており天津条約上でも日本軍の派兵理由は無くなった。清も軍を増派したが首都に入ることは控えて牙山を動かなかった。
[編集] 開戦準備・日清戦争開戦
甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。伊藤内閣は6月15日、朝鮮の内政改革[15]を日清共同で進める、清が拒否すれば日本単独で指導するという方針を閣議決定し清に通告、清がこれを拒否すると7月16日条約改正交渉の結果、領事裁判権を廃止する日英通商航海条約調印を経て、20日大鳥公使は朝鮮政府に清軍の撤退と朝清間の条約廃棄を3日間の期限で回答するよう通告、朝鮮政府は日清両軍の撤兵要求を回答、7月23日未明に陸軍第五師団の二個大隊が漢城の電信線を切断して朝鮮王宮を3時間にわたり攻撃・占領する。これは開戦の名義を立てるために朝鮮政府の閔氏一族を追放し、大院君を再び担ぎだして政権を樹立して日本に清軍の朝鮮からの撃退を要請させるためであった。その後7月25日豊島沖海戦が、また29日に牙山攻撃が行われる。宣戦布告は8月1日である。
なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していた。
[編集] 宣戦
日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものである。
「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」
[編集] 戦争の経過
[編集] 豊島沖海戦
1894年7月25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三少将、「吉野」「浪速」「秋津洲」)は、清国軍艦「済遠」「広乙」と遭遇し、戦闘が始まった。優勢な日本海軍の応戦の前に「済遠」は逃亡を図る。
日本海軍の「吉野」「浪速」も、直ちに「済遠」を追撃する。その途上、清国軍艦「操江」及び汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞号」に停船を命じて臨検を行うように発砲し、清国兵が停船命令に従わないため、魚雷で「高陞号」を撃沈する(高陞号事件)。この時、英国人船員ら3人を救助し、約50人の清国兵を捕虜とした。
豊島沖海戦による、日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。他方、清国側には、「済遠」が大破し、「操江」は「秋津洲」に鹵獲され、「広乙」も破壊された。
なお、「高陞号」を撃沈したことによって、一時英国の世論が沸騰するが、英国が日本寄りの姿勢だった事もあり、イギリスの国際法の権威、ジョン・ウェストレーキおよびトーマス・アースキン・ホランド博士によって国際法に則った処置であることがタイムズ紙を通して伝わると、英国の世論も沈静化する。
[編集] 成歓作戦・牙山作戦
6月12日に清国軍が牙山に上陸する。7月23日時点で4165名に達する。7月25日に朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、牙山の清国軍撃退が要請される。7月26日に第9歩兵旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。7月29日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃する。午前2時に、清国兵の襲撃により松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死する(日本側初の戦死者)。午前7時に日本第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する。
両作戦の日本側の死傷者は82名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。
なお安城渡の戦闘で第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。
[編集] 平壌作戦
8月に清国軍は平壌に1万2千名の兵員を集中させる。9月15日に日本軍が攻撃を開始する。攻略に当たっていた日本軍の歩兵第18連隊長佐藤正大佐は銃弾を受け左足切断の重傷を負う。同日午後4時40分に清国軍は白旗を掲げて翌日の開城を約した。ところが、清国軍は、約を違えて逃亡を図る。同日夜に日本軍が入城する。
[編集] 黄海海戦
詳細は「黄海海戦 (日清戦争)」を参照
黄海上で遭遇した日清両艦隊は、9月17日12時50分に「定遠」から攻撃が開始される。日本側は連合艦隊司令長官伊東祐亨中将率いる旗艦「松島」以下8隻と第一遊撃隊司令長官坪井航三少将率いる旗艦「吉野」以下4隻であるのに対して、清国艦隊は丁汝昌提督率いる「定遠」「鎮遠」等14隻と水雷艇4隻であった。日本艦隊は、清国「超勇」「致遠」「経遠」等5隻を撃沈し、6隻を大中破「揚威」「広甲」を擱座させる。日本側は4隻の大中破を出し、旗艦「松島」の戦死者の中には勇敢なる水兵と謳われた三浦虎次郎三等水兵もいる。
この海戦で日本側が勝利したことによって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を確保した。
[編集] 鴨緑江作戦
10月25日払暁に、山縣有朋率いる第1軍主力は渡河作戦を開始した。日本軍の猛勢に恐れをなした清国軍は我先にと逃走を図り、日本軍は九連城を無血で制圧する。この作戦成功により、日本軍は初めて清国領土を占領する。
[編集] 旅順攻略戦
10月24日に大山巌大将率いる第2軍が金州に上陸する。11月6日に金州城を占領する。11月21日に、日本軍1万5千は清国1万3千弱に対して攻撃をする。清国軍の士気は極めて低く、堅固な旅順要塞は僅か1日で陥落することとなる。
日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名に対して、清国は4500名の戦死、捕虜600名を出して敗退する。
[編集] 東学農民軍の再蜂起と鎮圧
日本軍の王宮占領後、朝鮮では軍用電線の切断、兵站部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など民衆の「義兵」反日抵抗が続いたが、1894年10月9日全琫準を指導者とする東学農民軍が侵入した日本軍を秀吉軍の再来と受け止め再蜂起した。大院君は農民軍鎮圧のための派兵をしないよう大鳥公使に要請したが、日本は部隊(歩兵独立第十九大隊)を11月初めに派兵し、11月下旬からの公州攻防戦で勝利して農民軍を南方へ退け、ロシアの軍事介入を極度に警戒した日本は農民軍の北進を恐れ朝鮮最西南端の海南さらに珍島まで追いつめて徹底的に殲滅した。農民軍参加者はのべ13万人を超えると推定されている。[16]
[編集] 山東作戦・威海衛作戦
1895年1月20日に日本陸軍は栄城湾に上陸する。行軍中に歩兵第11旅団長大寺安純少将が戦死する。2月2日に威海衛を占領する。
2月5日午前3時20分に威海衛港内に侵入した日本水雷部隊は清国の「定遠」を大破、「来遠」「威遠」等3隻を撃沈した。2月9日に「靖遠」を撃沈、「定遠」は自沈する。2月12日に丁汝昌提督は将兵の助命を日本側に懇願して自決をする。伊東司令長官は、鹵獲艦船の中から商船康済号を外し、丁汝昌提督の亡骸を最大の礼遇を以て扱い、丁汝昌提督の最期の希望を聞き届け、清国兵を助命する。このことは、通常例を見ない厚遇であった。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督とともに、各国海軍の教本に掲載されていると云う。
[編集] 講和条約
開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き、清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし、この時日本は戦後の領有を前提に遼東半島の完全占領を目指していたため、この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれた。
この時日本は台湾の略取を目的にその条件となる日本軍による占領を行うため、3月23日歩兵一個旅団を台湾島西方の澎湖諸島に上陸させた。台湾領有については松方、陸奥、伊藤ら日本政府要人も1894年以来、その領有の必要性や目的を意見書「威海衛を衝き台湾を略すべき方策」(伊藤)、「台湾島鎮撫策に関して」(陸奥)などでマレー半島や南洋群島に進出する根拠地、中国大陸に将来版図を展開する際の根拠地とする意見を表明していた。[17]
しかし、条約交渉において清の全権李鴻章は、日本軍は台湾本土に入っておらず、その割譲要求は筋が通らないと大いに反論した。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行った。
条約の主な内容は次の通り
- 清は朝鮮が独立国であることを認め、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
- 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
- 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
- 清と欧州各国間の条約を基礎に日清通商航海条約を締結する。
- 新たに沙市、重慶、蘇州、杭州の4港を開港する。
- 日本人は清国内の開市、開港場での各種製造業に従事できること。
この5と6はイギリスが要求して、まだ実現していなかったものであり、イギリスの立場を代弁していた様子がある。これらは最恵国待遇により他の列強にも適用され、以後日本のみならずイギリスをはじめとする西欧列強の清への経済進出と領土分割がより加速されることになった。 これにより、中国と朝鮮との冊封関係は精算されたが、この後日本は紆余曲折を経て度重なる条約締結により朝鮮王朝(大韓帝国)の保護国化と1910年朝鮮併合へ至る道を進むこととなる。
[編集] 三国干渉とその後
当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発した。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを4月23日日本政府に要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から3000万両を得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金および利子3億6千万円を、日清戦争戦費(2億2247万円)の3割(7900万円)の補填と次のより大規模な戦争のための軍備拡張費(2億円)とし、その他八幡製鉄所の建設と鉄道・電信事業の拡充および台湾の植民地経営など、国力充実と対外拡張のために使用した。[18]
戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。
[編集] 年表
1894年
- 5月 朝鮮政府、甲午農民戦争(東学党の乱)の鎮圧を清朝に依頼
- 5月31日 内閣弾劾上奏決議案が衆議院で可決され、伊藤内閣が倒閣の危機に直面
- 6月2日 在韓邦人保護を名目として日本軍の朝鮮派兵を決定。衆議院を解散。
- 6月5日 大本営を開設し、朝鮮への派兵を開始
- 7月16日 日英条約改正(日英通商航海条約)が実現
- 7月20日 朝鮮政府に対して清軍の撤兵を要求する最後通牒を発令
- 7月23日 旅順西海岸の制海のため連合艦隊が佐世保を出港。
- 7月23日 日本軍が漢城(ソウル)に入城し、朝鮮王宮を勢力下に置く。
- 7月25日 豊島沖海戦(高陞号事件)
- 8月1日 日本・清国が互いに宣戦布告
- 8月26日 日本は朝鮮に圧力を掛け親日政権を樹立、共同で清国に対処する方針を採らせる。
- 9月15日 明治天皇が戦争指揮のため広島に移ったことに伴い大本営も移動(広島大本営)。
1895年
- 3月 遼東半島全域を制圧
- 4月17日 講和条約締結(下関条約)
- 4月23日 三国干渉により遼東半島を返還
[編集] 日本軍の損害
[編集] 脚気
「陸軍での脚気大流行」、「海軍の状況」を参照のこと。
[編集] 凍傷
当時の日本陸軍は、まだしっかりした冬季装備と厳寒地における正しい防寒方法を持っておらず、結果として冬季の戦闘で多くの将兵が凍傷にかかり、相当な戦力低下を招いた。日清戦争後、この教訓を基にして防寒具研究と冬季訓練が行われるようになった。後年、対ロシア戦を想定した訓練中に発生したのが八甲田雪中行軍遭難事件である。
[編集] その他
- 1895年に日本が清に勝利すると下関条約が締結され、日本は清に朝鮮が自主独立国であることを認めさせた。1897年にもはや清の服属国でなくなったことから改革が実施され、「国号」を「大韓」と改め、高宗が皇帝に即位、大韓帝国が成立した。この際、清の冊封の象徴であった「迎恩門」や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒し「独立門」を記念に建てた。
- 欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていた。だが、各軍(日本の場合は旧藩)がそれぞれの基準によってバラバラに輸入を行ったために、さまざまな国籍・形式のものが混在してしまい、弾薬の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。
1880年(明治13年)、日本陸軍の村田経芳が日本で最初の国産小銃の開発に成功する。陸軍はこれを村田銃と命名して全軍の小銃の切り替えを進めた。その後、同銃は改良を進めながら全軍に支給されていった。日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていたわけではなかったが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていたため、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能となった。
[編集] 脚注
- ^ 参謀本部編「明治廿七八年戦史」は戦争期間を宣戦布告の8月1日から下関講和条約調印の4月17日ではなく、このように豊島沖海戦から台湾征服戦終結までと規定している。(原田敬一「日清・日露戦争」岩波新書 ISBN 9784004310440)また7月23日の日本軍による朝鮮王宮占領の際の武力行使を戦争開始とする見解もある。(同掲書また中塚明「歴史の偽造をただす」高文研 ISBN 4874981992)
- ^ 陸奥宗光 中塚明校注『蹇蹇録』日清戦争外交秘録 新訂岩波文庫 62P 岩波書店 ISBN 4003311418
- ^ アンドルー・ゴードン『日本の200年』上248P みすず書房 ISBN 4-622-07246-7 日清戦争の目的が単に朝鮮の独立の確保にあるのではなく日本の主権、国益の拡張にある。 「このように、日清戦争は、朝鮮にたいする支配権をめぐる日中間の戦いだった。(中略)下関で調印された日清講和条約(下関条約)で日本は、自国の「利益線」を朝鮮半島よりもさらに遠くへ拡張したいという強い願望を明確に打ち出した。」 遠山茂樹『日本近代史 1 』199P,203P 岩波書店 ISBN 978-4-00-021887-0 隅谷三喜男『大日本帝国の試練』29~30P、35~36P(中央文庫『日本の歴史22』) ISBN 4-12-200131-5 これらは遼東半島領有は陸軍の、台湾領有は海軍の戦争中からの主張であったことを指摘している。 開戦準備および講和条約の項と脚注も参照。原田敬一『日清・日露戦争』96P 岩波新書 ISBN 978-4-00-431044-0 中塚明 『歴史の偽造をただす』165~168P 高文研 ISBN 4874981992 同『日清戦争の研究』 青木書店 ISBN 4-250-68000-2
- ^ 茂木敏夫『変容する近代東味の国際秩序』山川出版社、1997。岡本隆二『世界のなかの日清韓関係史』講談社選書メチエ、2008。他
- ^ 近世においては室町時代、足利義満が1401年、明に使節を送り、翌年明から「爾日本国王源道義」との国書を受け冊封され、国交および交易を主な目的に勘合貿易を開始。さらに1443年、朝鮮王朝と対馬の宗氏との間で嘉吉条約を結ばせ年50隻の交易を定め、こうした交流や交易を通じて東アジア世界に日本は組み込まれていったのである。
- ^ 鈴木淳「維新の構想と展開」140P 講談社「日本の歴史20」ISBN 4062689200
- ^ 同 141P
- ^ 鈴木淳「維新の構想と展開」129P~ 講談社「日本の歴史20」ISBN 4062689200 「大日本外交文書」所収の明治八年十月八日付けの「雲揚」艦長井上良馨の報告書では侵入の目的は「探水」とし、九月二十日それを求めて溯上したボートへの朝鮮側の発砲があったことから「雲揚」がその日のうちに応戦し砲台の破壊、占領に及んだとしているが、新たに発見された防衛庁防衛研究所保存の同艦長の九月二十九日付け報告書の写しの存在により、前者の報告書は当時外交上問題となる箇所を書き換えたものであり、実際は測量その他を目的に侵入し戦闘は三日間に渡り、「雲揚」への朝鮮側の発砲も応戦によるものだったことが究明されている。
- ^ その後8月にこの条規の付録と貿易規則が定められ規則第六則で米穀の輸出入が認められ、これにより日本への米穀輸出が増加し米価は高騰し国内食糧事情の悪化をもたらした。また付録付属の往復書簡では貿易を相互に無関税とし関税自主権を否定し(これは経済力で優位にあった日本に有利に働く)日本の経済進出が容易になった。
- ^ 劉傑/三谷博/揚大慶 編著「国境を超える歴史認識」12p 東京大学出版会 ISBN 4-13-023053-0
- ^ 安岡昭男「明治維新と領土問題」教育社歴史新書「日本史144」
- ^ 山田昭次他「近現代史のなかの日本と朝鮮」36P 東京書籍 ISBN 4487753090
- ^ 姜在彦「朝鮮近代史」平凡社 ISBN 9784582762679
- ^ 1890年11月第一回帝国議会において首相山県有朋は「主権線(国境)」だけでなく国境の安全に関わる地域を「利益線」として確保するための巨大な陸海軍備増強を演説したが、衆議院は「民力休養」などを唱える民党により国家予算の31%、8332万円におよぶ軍事予算案を651万円削減するなど抵抗した。(原田敬一「日清・日露戦争」岩波新書 ISBN 9784004310440 )以後1892年第4議会まで民党は軍艦建造費削減などを可決させたが、1892年11月の千島艦沈没事件を経て1893年11月の第5議会では政府の条約改正交渉の弱腰を批判して強硬外交と国権拡張主義の硬六派を形成、衆議院解散後も硬派連合は与党を上回り、1894年5月からの第6議会でも伊藤内閣弾劾上奏案を可決、立憲君主制の出発時に早くも藩閥内閣は存立の危機に直面した。
- ^ 開戦外交を主導した伊藤内閣の外務大臣陸奥宗光はその著作「蹇蹇録」でこの内政改革について「余は固より朝鮮内政改革を以て政治的必要の外、何等の意味なきものとせり。亦毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし。故に朝鮮内政改革なるものは、第一に我国の利益を主眼とするの程度に止め、之が為め敢て我利益を犠牲とするの必要なしとせり。且つ今回の事件として之を論ずれば、畢竟朝鮮内政の改革とは、素と日清両国の間に蟠結して解けざる難局を調停せんが為めに案出したる一箇の政策なりしを、事局一変して竟に我国の独力を以て之を担当せざるを得ざるに至りたるものなるが故に、余は初より朝鮮内政の改革其事に対して格別重きを措かず。」と述べている。 陸奥宗光 中塚明校注「蹇蹇録」日清戦争外交秘録 新訂岩波文庫 62P 岩波書店 ISBN 4003311418
- ^ 「知っておきたい韓国・朝鮮」歴史教育者協議会編 青木書店 ISBN 4250920046 原田敬一「日清・日露戦争」岩波新書 ISBN 978-4-00-431044-0
- ^ 同掲書 96P ISBN 978-4-00-431044-0 また、中塚明 「歴史の偽造をただす」165~168P 高文研 ISBN 4-87498-199-2 は福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の「日清戦史」草案中の「第十六編第七十二章第二草案 南方作戦に関する大本営の決心及びその兵力」に、開戦後まもない1884年8月9日の陸海軍参謀会議において澎湖、台湾の領有が「将来東亜の覇権を握り大平洋の海上を制するに極めて必要」とする両島領有論が展開されていることを指摘している。 さらに、これらの領有についての検討は日清開戦より以前にさかのぼる。 山本四郎「日本史研究」75号(1964年11月) 中塚明 「日清戦争の研究」 青木書店 ISBN 4-250-68000-2 これらの研究は1887年2月陸軍参謀本部第二局長小川又治陸軍大佐による「清国征討対策案」を紹介している。その「第二編 作戦計画」は「明治25年に準備を完了し、乗ずべき機を窺うべきである」とし、「第三編 善後処置」は「戦勝条約の時に在りて必ず左の六要衛を本邦の版図に帰せざるべからず」として1,旅順半島 2,山東登州府 3,浙江省舟山群島 4,澎湖群島 5,台湾全島 6,揚子江沿岸左右十里の地 を揚げている。
- ^ 遠山茂樹「日本近代史 1 」 208P 岩波書店 ISBN 978-4-00-021887-0
[編集] 参考文献
- 陸奥宗光 中塚明校注『蹇蹇録』日清戦争外交秘録 新訂ワイド版岩波文庫255 岩波書店 ISBN 4-00-007255-2
- 陸軍省 編 『日清戦争統計集』海路書院 ISBN 4-902796-32-5
- 檜山幸夫 編著 『近代日本の形成と日清戦争』戦争の社会史 雄山閣出版 ISBN 4639017359
- 井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房、1995、ISBN 4480857222
- 斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』芙蓉書房出版、2003、ISBN 4-8295-0336-X〈2003〉
- 藤村道生『日清戦争』岩波新書、1973年
[編集] 外部リンク
- 清国ニ対スル宣戦ノ詔勅
- 日本外交文書デジタルアーカイブ(外務省)日清戦争関係部分
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