平和大通り

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平和大橋東詰から東方向を望む。

平和大通り(へいわおおどおり、: Peace Boulevard[1])は、広島県広島市中心部を東西に横断する約4kmの通りである。別称「100m道路[2]

概要[編集]

1965年開通[3]日本の道100選の一つであり、沿道の広島平和記念公園とともに都市景観100選に選ばれている。平和大通りの名は1951年公募で決定した[2]広島市道比治山庚午線の一部を構成し、西端が太田川放水路西、東端が京橋川東までで、太田川が形成した広島三角州の中央を東西に貫く[2][4]

太平洋戦争末期に整備された防火帯疎開道路)が戦後100m道路として整備されることになり、これに国際平和都市として発展していく広島市においてその象徴の一つとなっていった公園道路ブールバール)である[3][5]。なお100m道路計画が実施されたのは名古屋市の若宮大通久屋大通の3例のみである[6]

市民が用いる生活道であるとともに、平和公園へ訪れる観光客が用いる道であり、多くの人々が通行する[5][7]。毎年5月3日から5日に催される平和の祭典ひろしまフラワーフェスティバルの会場である[7]

2000年代に入り「平和大通りリニューアル事業」として再編が進められている[8]

略歴[編集]

以下、2015年1月8日付中国新聞特集記事[7]を元に記載する。

構造[編集]

白神社前交差点から西方向を望む。中央に車道、両外側に緑地帯、その外側に副道が配置されている。
白神社前交差点から西方向を望む。中央に車道、両外側に緑地帯、その外側に副道が配置されている。
平和公園前交差点から東方向を望む。
平和公園前交差点から東方向を望む。

諸元[編集]

交通センサス[編集]

以下、判明分のみの平日24時間交通量のみ記す。数字単位は台。

比治山
本町
河原町 舟入町 福島町
二丁目
2010年 24,115 32,347 28,478 30,529 [10]
2005年 42,096 33,818 33,818 33,818 [10]
1999年

なお、比治山本町(鶴見町東詰)の交通量減少について言及している資料は不明。

交差する道路[編集]

  • 上側が起点側、下側が終点側。左側が上り側、右側が下り側。
  • 全線広島県広島市に所在。
交差する道路 交差する場所
市道比治山庚午線
市道駅前吉島線(駅前通り)側道 田中町 中区
市道御幸橋三篠線中央通り 三川町
国道54号鯉城通り 白神社前
大手町通り NHK前
市道中島吉島線(吉島通り) 広島平和記念公園入口 平和公園前
市道横川江波線(舟入通り/寺町通り) 小網町
市道駅前観音線(中広通り) 西観音町電停 西区
市道比治山庚午線

特徴[編集]

北東側から見た白神社前交差点。左右方向が平和大通り、上下方向が鯉城通り

別称「100m道路」のとおり、道路幅が100mある道路である。中央道路の両サイドに幅約20mの緑地帯(グリーンベルト)、その外側に副道を設ける。中央車道、副道ともに歩道が付き、副道の一部は市営有料駐車場[11]として整備されている。大きな交差点には左折レーンを設けている。西端のみ中央車道に広島電鉄本線が通り停留場がある。

緑地帯は市民の憩いの空間を形成している[7]。樹木は全体で約2,000本[7]。市民団体の調査によれば多い種の順に、クスノキケヤキトウカエデユリノキシラカシ[12]。外来種もあり、貴重な種がいくつかあるが中でも、西観音町ナツメ[13]白神社前のエノキムクノキクロガネモチセンダンカキノキ[14]、は現存する被爆樹木である。なお鶴見橋東詰のシダレヤナギは、被爆樹木だった先代の木は2007年に枯死し、現在のものは同じ根から新しく生えたものである[15]

1988年平和公園周辺。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。写真下の道が平和大通り。

特筆すべきは、広島平和記念公園とともに平和祈念の意味合いを持っていることである。丹下健三は公園を設計するにあたり、平和大通りを南端の横軸とし、そこから原爆ドームまで垂直に伸びる縦軸上に平和の灯/原爆死没者慰霊碑/広島平和記念資料館を配置し、南北軸でヒロシマというドラマを表現し原爆ドームをその頂点とすることにより被爆を受け継ぐ証言者としてまた復興の象徴とした[3][16]。平和資料館は丹下が概略・大谷幸夫が詳細設計し、形状は平和大通りから公園へのゲートとしてデザインし、平和大通りから原爆ドームを望めるようにした[16]。そして平和大通りから平和公園へ導く橋は、イサム・ノグチがヒロシマの過去と未来を表現した平和大橋西平和大橋[3]。通りを挟んで公園の反対側にはジャン・ミシェル・ヴィルモットフランス語版が設計、クララ・アルテールフランス語版がデザインした平和の門がある。また平和大通りの緑地帯には、著名な造形家がデザインした慰霊碑やモニュメント・石灯籠が83箇所に存在する[3][7][17]

広島平和記念資料館と平和大通り。

沿道風景[編集]

沿道の主要施設としては以下、東から西へ;

主なイベント[編集]

工事中だった1950年代、さらにモータリゼーションが始まる1960年代後半までガラガラだったこの通りでは、その中央で様々なイベントが開催された。1950年代木下大サーカスが興行を行った[2]。1958年には広島復興大博覧会の会場として用いられた[2]。1965年頃までエスキーテニスのコートもあった[18]

沿革[編集]

前史[編集]

白神社の岩礁。

古代、この地は海であった。現在平和大通りと鯉城通りの交点付近にある「白神社の岩礁」には、当時航行の目印として白紙が建てられていた[19]。陸地が形成されたのは中世以降で、太田川上流部で盛んだったたたら製鉄での鉄穴流しにより大量の土砂が下流に流出し堆積したことで形成されたもので、1500年代後半には現在の平和大通り付近が海岸線となった[20]安土桃山時代以降、広島城を中心とした城下町が形成されると土地開発が進み更に南に陸地が伸びていった[20]。現在の平和大通りの位置には城下町が整備された際に幾つか道ができたものの、広島藩制時代は防犯上の理由により橋の架橋は制限されていたことから[21]、断片的なものに留まった。

明治時代以降になると架橋規制は解かれ、鶴見橋(当時は歩道橋)、新橋(現在の平和大橋)、新大橋(現在の西平和大橋)、広島電鉄本線の鉄橋(新己斐橋参照)が架けられたが、天満川には橋は架けられなかった。当時の地図でもわかる通り、この時点では一本の道ではない

1927年(昭和2年)、洪水被害軽減のため太田川全域の改修計画が建てられ市西側の山手川/福島川を改修し放水路を整備する、つまり太田川放水路整備計画が決定し、現在の平和大通り西端にあたる福島町の大規模な開発が始まった(実際に工事が動き出したのは戦後)[22]

防災道路[編集]

1945年4月13日被爆前。
1945年8月11日被爆後。
米軍が撮影した原爆投下前後の空中写真。写真中央右の丘が比治山であり、そこから左斜め上に伸びる道が後の平和大通りになる。


1945年アメリカ軍作成の広島市地図。図中に"FIRE LINE"として表記されている。赤い斜線(濃い赤)が全壊地域を示しており、現在の平和大通り周辺は被爆により全壊したことがわかる。
1945年アメリカ軍作成の広島市地図。図中に"FIRE LINE"として表記されている。赤い斜線(濃い赤)が全壊地域を示しており、現在の平和大通り周辺は被爆により全壊したことがわかる。
被爆後の広島市。現在の河原町付近から東方向を撮影。中央に縦断する道がのちの平和大通りとなる。手前左部分が後に平和公園となる。
被爆後の広島市。現在の河原町付近から東方向を撮影。中央に縦断する道がのちの平和大通りとなる。手前左部分が後に平和公園となる。

1937年(昭和12年)防空法制定、広島市でも防空態勢の充実が図られるようになる[23]太平洋戦争末期になると、戦況の悪化によりアメリカ軍による本土空爆が激しくなっていった。そこで、市街での延焼を防ぐため防火帯を設けることになり建物疎開が全国で実施される[24]。1944年(昭和19年)11月、広島市において建物疎開実施が決定し、内務省告示により疎開地区が決められ、国民義勇隊や学童勤労奉仕隊などにより作業が行われた[24]

現在の平和大通りにあたる道は、この時に鶴見町から福島町を結ぶ全長3,570m幅員100mの防災道路として計画されたものである[25]。現在の平和大通り周辺の約16,000戸の立ち退き作業が行われ[3]、継続的に市内中心部で行われており、1945年8月時点で第6次建物疎開作業中だった[26]。なお空中写真のとおりほとんど終えていた地区もあった。

1945年8月6日8時15分、広島市への原子爆弾投下。沿線で作業中だった約8,200の人々が被爆し大半が犠牲となった(うち動員学徒だけで少なくとも5,618人[8][3][27]

同年9月には大型の枕崎台風が直撃し、更に被害は拡大した[28]

100m道路[編集]

戦後、木原七郎次いで浜井信三が広島市長となり復興計画が進んでいく。呉市に駐屯していたイギリス連邦占領軍ハービー・サテン少佐(医学・公衆衛生)とアメリカ軍ジョン・D・モンゴメリー中尉(都市計画)が復興顧問に就任した[29]。国内外の識者から様々な計画が少なくとも30以上提唱され、こうした中で生まれたのが「平和記念構想」である[29]

1945年(昭和20年)12月、「戦災復興都市計画基本方針」が閣議決定される[6]。この中で以下の規定が盛り込まれた。

必要の個所には幅員50米ないし100米の広路または広場を配置し利用上防災および美観の構成を兼ねしむること

戦災地復興計画基本方針 4、主要施設 (1) 街路 ハ

こうして、全国で100m道路が計画され24路線(1947年時点)が立案した[6]。広島では1946年(昭和21年)1月広島市復興局が設置されるとこの中で計画が進み、同年11月「広島復興都市計画街路」が決定し100m道路整備が盛り込まれた[30]。この時の計画では以下の2路線であった。

  • 広路Ⅰ比治山庚午線 - この路線の内、橋梁部分を除く鶴見町から福島町まで(この時点で太田川放水路工事は完了していない)[30]。後の平和大通り。
  • Ⅰ等2類3号出汐庚午線 - この路線の内、橋梁部分を除く舟入および観音地区に[30]。立案当初から整備する意義が不明瞭であったため否定的な意見があり、1952年(昭和27年)計画変更により幅員30mに縮小される[30]。後の広島市道霞庚午線
開通直後の平和大橋

計画発表から10ヶ月後の同年11月には整地が始まり、区画整理が進められたものの、他の復興事業とそれに対する人口の不足、そして財政難でなかなか進まなかった[31]。そこで関係者の尽力により1949年(昭和24年)8月広島平和記念都市建設法が公布、復興事業が進むようになった[31]。また海外からの支援もこうした復興の手助けとなり、例えば新橋と新大橋(後の平和大橋と西平和大橋)はアメリカからの対日援助見返資金によって架橋されたものである[29][32]

この100m道路は広島平和記念公園とともに、計画当初から住宅難に悩む市民にとっては不評だった[8]。これが2本あった100m道路計画が結局1本だけになった理由の一つである[8]

工事中の広島平和記念資料館。1950年代。手前の車が走っている道が平和大通り。

1950年(昭和25年)広島市が公表した「広島平和都市建設構想案」には100m道路を「平和緑道」と仮称したことに加え、以下の文面が記されていた[8]

広島を訪れる人々や、市民の平和を希求する心を平和公園に鳩合する通路となるであらう。(中略)。公園から湧出する雰囲気を全市に布衍すると共に世界の各地に伝える通路となるであらう。

1950年広島平和都市建設構想案[8]

1951年(昭和26年)工事中の100m道路の名称を公募し「平和大通り」となった。あわせて、平和大橋・西平和大橋も名付けられた[30]。1952年(昭和27年)平和大橋・西平和大橋完成[33]、1953年(昭和28年)平和大通りにとって三番目の橋となる緑大橋が完成した[34]

供木運動[編集]

1955年(昭和30年)発売した大田洋子の小説『夕凪の街と人と―一九五三年の実態』の中で、登場人物の一人が当時の復興事業を語っている。

なんの用があって作ったか知りませんが、あの広い幅を持った、百メートル道路をみてごらんなさい。昼なお暗いほど、雑草にうずもれて、人通りもろくにありはしません。(中略)。ここは公園にするからどいてくれ、百メーター道にするからどいてくれと云って追いはらったんですからね。(中略)。市民の方でそれを愛していませんから、草も花も、木も育ちはしません。

夕凪の街と人と[2][8][31]

比治山から広島市内を望む。1950年代。

住宅難に悩む市民にとっては、相変わらず平和大通りの存在は批判の的であった。これが顕著となったのが1955年広島市長選挙である。復興事業を進めていた現職の浜井信三(革新)に対し、対抗馬渡辺忠雄保守)は公約に計画再検討を掲げ「百メートル道路の幅員を半分にし住宅を建設する」とぶち上げた[31]。結果、1947年から市長を2期務めた浜井は落選、渡辺が新しい市長に就任した。渡辺は公約通り進めようとしたが、市の幹部や道路担当者に説得され頓挫、結果平和大通りはそのまま工事が進んでいった[31]。なお代わりの住宅計画が広島市中央公園を縮小し住宅地にあてる、つまり市営基町高層アパート事業である[31]

平和大通り改修を諦めた渡辺が次に行ったのが「供木運動」である。これは平和大通りのグリーンベルト部分の緑化キャンペーンであり、県内を問わず全国レベルで植樹を呼びかけた[31][2]。この呼びかけに「廃墟の街に緑を」と世界レベルで応じてもらうことができ、1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて行われ、多くの木が植えられた[2][3]

こうして、当初は歓迎されなかったどころか存続の危機さえあった100m道路は、供木運動やその後の周辺美化、そして高度経済成長を経て都市化が成熟していくことにより市民に受け入れられていった[29]

全線開通[編集]

東端である鶴見橋は被爆に耐えた木橋の歩行者専用橋であったが、1958年(昭和32年)再び木橋の歩道橋に架けなおされた[35]。なお、この橋はこの後も歩道橋のままつまり平和大通りは東端(京橋川)で車両は渡河できず、道路橋となり車両が通行できるようになるのは平成に入ってからである[35]

1988年。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。太田川放水路と新己斐橋・平和大通り。

そしてこの工事で最後の難所となったのは西端の福島町である。この地区は戦前からの太田川放水路工事により大規模な土地区画整理と河川改修に伴う新己斐橋架橋、戦後乱立したバラックの強制退居、そして漁業権問題からの放水路工事反対運動で 工事が一旦ストップし、これに国(建設省)・県・市の事業が同時進行していたことも相まって、幾重にも問題を抱えていた[31][36]。諸問題が解決し放水路の工事が再開したのが1955年(昭和30年)、1962年(昭和37年)建設省と市の合同事業で新己斐橋工事が着工したものの、この時点で福島町の埋め立て工事が進行中だったため平和大通り工事は未着工だった[31][36]

その後工事は順調に進み、1965年(昭和40年)太田川放水路の通水・新己斐橋竣工、そして同年5月平和大通りが全線開通した[31]

パレードとFF[編集]

1965年(昭和40年)10月、自衛隊発足15周年記念として第13師団観閲式が初めて行われた[37]。市民団体による反対運動の中、市長の浜井信三は道路使用を許可し、鶴見橋から西へ進み白神社前まで行進、反対側の市民感情に配慮し平和公園前までは行かなかった[37][38]。参加隊員1,600人、参加車両は戦車14両を含む190両、市民約30,000人が見物した[37]。翌1966年(昭和41年)も同ルートで行われている[37]

2011年ひろしまフラワーフェスティバル準備中の様子。中央に見えるのがカープの花車。

1975年(昭和50年)、被爆30年目にあたり変化があった。8月6日広島平和記念式典で、平和公園前900mが初めて車両通行止めとなった[39]。そして、「静」となる鎮魂の式典に対し「動」となる華やかな祭りで平和と生きている尊さを喜び合おうと、大規模な祭りの構想が地元紙中国新聞社や地元自治体首長などによって考えられていた[40]

そこへこの年のプロ野球において、地元広島東洋カープが球団創立25年目にしてセ・リーグ初優勝。と同時に球団主催で優勝パレードが企画された[41]。当初広島県警察は否定的であったが勢いに押され了承、優勝決定から5日後にあたる10月20日西観音町(現西区)から田中町(現中区)までの2.7kmでパレードが行われた[41][42]。沿道を人が覆い、約30万人(県警発表)が詰めかけた[41][42]。この後、カープ監督の古葉竹識は広島市長荒木武と対面した際に「広島には大きな祭りがない。ぜひつくってほしい。」と懇願した話がある[41]

こうした流れから宮澤弘県知事・荒木市長・山田克彦広島商工会議所会頭らが会談を行い、1976年(昭和51年)9月市民の祭典「フラワーフェスティバル」が開催が決定、翌1977年(昭和52年)から毎年開催されるようになった[40]

軌道系交通網計画[編集]

1960年代のモータリゼーション以降、市中心部での交通網再編が始まり軌道系交通機関の計画が検討され、その幾つかで平和大通りの地上ないし地下に通すものが考えられた[43]。以下、計画されたものを列挙し、詳細は当該リンク先参照。

リニューアル事業[編集]

1988年工事中の鶴見橋。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。上側の細い橋は元々この地にあった先代の鶴見橋を工事のため移設したもので最終的には撤去される。

平和大通りの将来像については、早い段階から案が出されていた。例えば1979年(昭和54年)市の依頼で丹下健三都市建築設計研究所が出したものでは、通りの中央部分を緑地帯として集約し両外側の側道を拡幅し車道として用いる構想が考えられた[45]

また、東端につながる広島市道比治山東雲線が整備されていく中で、1990年(平成2年)には東端の歩道橋である鶴見橋が道路橋として架け替えられ、車両が全線通行可能となった[35]

1995年(平成7年)被爆50年目にあたり、平和大通りの将来像について協議された[46]。その中で平和大通りの課題がいくつか浮かび上がった。

  • 魅力の欠如 - 道路の周辺変化に乏しい。緑地が十分に生かされておらず、また一部夜間が暗いところがあり安全性にも問題がある[9]
  • 中央道路部での交通混雑 - 当初は広幅員として開通した平和大通りであるが、現状の交通量では一部で対応できていない。各県道路交通渋滞対策部会では、国道54号鯉城通り)との交点である白神社前交差点と、広島市道駅前観音線(空港通り)との交点かつ広島電鉄本線の合流地点である西観音町電停東交差点が、主要渋滞箇所として挙がる[47]。また両脇の歩道では自転車道と歩道が分列されておらず、そのため交錯する[9]
  • 狭い橋梁部 - (鶴見橋以外の)橋梁部分は幅は狭く現状の交通量では満足できなくなっている。歩道は特に狭く、通行に支障がある。そして老朽化の問題もある。その中でも平和大橋と西平和大橋はイサム・ノグチがデザインした貴重な欄干であるという面で、改修には別の問題も発生する[9]
  • 軌道系交通機関敷設への対応 - 将来の軌道系交通網構築(2012年現在では地下式として構想)のため[9][48]

2002年(平成14年)「平和大通りリニューアル事業」を広島市が公表した。「人間尺度を尊重した使い勝手のよさ」「道路と一体化した街並みの形成」「美しい風景づくり」をテーマに掲げ、中央部では車道部の拡幅とバスレーン・自転車道を配置し歩道を除外、緑地副道部では周辺環境と一体となった環境を整備する[9]。橋梁部は架替で進められていたが、平和大橋/西平和大橋は現状を残し外側に歩道橋を新設する方針で進んでいる[9]

脚注[編集]

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  1. ^ Peace Boulevard” (英語). 広島平和記念資料館. 2015年4月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 平和大通り”. 広島平和記念資料館. 2015年4月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 平和大通り(へいわおおどおり)”. ひろしま文化大百科. 2015年4月25日閲覧。
  4. ^ 平和大通り―復興の軌跡 <1> デルタを貫く”. 中国新聞. 2015年4月25日閲覧。
  5. ^ a b 平和大通り”. 国交省中国地方整備局. 2015年4月25日閲覧。
  6. ^ a b c 石丸紀興 1998, p. 243.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 中国新聞 2015-01.
  8. ^ a b c d e f g 中国新聞 2003-05.
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n 広島市 2002.
  10. ^ a b 広島県:断面交通量> (PDF)”. 国交省中国地方整備局. 2015年4月27日閲覧。
  11. ^ 市営駐車場のご案内”. 広島市. 2015年4月25日閲覧。
  12. ^ 平和大通り 樹来ベスト10”. 平和大通り 樹の会. 2015年4月25日閲覧。
  13. ^ ナツメ (平和大通り緑地)”. NHK広島. 2015年4月25日閲覧。
  14. ^ エノキ・ムクノキ・クロガネモチなど (白神社前平和大通)”. NHK広島. 2015年4月25日閲覧。
  15. ^ 鶴見橋”. ヒロシマピースメディア. 2015年4月25日閲覧。
  16. ^ a b 故丹下氏の平和公園設計 大谷幸夫さんに聞く 慰霊碑は「慚愧」表現”. 中国新聞 (2009年7月22日). 2015年4月25日閲覧。
  17. ^ 平和大通り―復興の軌跡 <3> 慰霊碑”. 中国新聞. 2015年4月25日閲覧。
  18. ^ テニスコートもあった(64年)”. 中国新聞 (2003年5月13日). 2015年4月25日閲覧。
  19. ^ 白神社の岩礁(しらかみしゃのがんしょう)”. 広島市文化財団. 2015年4月25日閲覧。
  20. ^ a b 太田川水系河川整備基本方針 2.太田川水系の概要 (PDF)”. 国土交通省. 2015年4月25日閲覧。
  21. ^ しろうや!広島城 第20号 (PDF)”. 広島城公式. 2015年4月25日閲覧。
  22. ^ 太田川放水路について (PDF)”. 国土交通省太田川工事事務所. 2015年4月25日閲覧。
  23. ^ 原爆戦災誌 1971, p. 10.
  24. ^ a b 原爆戦災誌 1971, p. 13.
  25. ^ 平和の象徴 平和大通り”. 広島平和記念資料館. 2015年4月25日閲覧。
  26. ^ 建物疎開”. 広島平和記念資料館. 2015年4月25日閲覧。
  27. ^ 65年の夏 広島一中3年生の軌跡 動員学徒 たどる生と死”. 中国新聞 (2010年8月18日). 2015年4月25日閲覧。
  28. ^ 焼け跡を直撃した枕崎台風”. 広島平和記念資料館. 2015年4月25日閲覧。
  29. ^ a b c d アレッサンドロ・カルーゾ「破壊された広島 (PDF) 」 、『日本語・日本文化研修プログラム 研修レポート集』第21号、広島大学、2006年2015年4月25日閲覧。
  30. ^ a b c d e 石丸紀興 1998, p. 245.
  31. ^ a b c d e f g h i j 石丸紀興 1998, p. 246.
  32. ^ 祈りの場への橋(52年)”. 中国新聞 (2003年5月13日). 2015年4月25日閲覧。
  33. ^ ヒロシマの記録1952 6月”. ヒロシマピースメディア. 2015年4月26日閲覧。
  34. ^ ヒロシマの記録1953 7月”. ヒロシマピースメディア. 2015年4月25日閲覧。
  35. ^ a b c 鶴見橋 (PDF)”. 国交省国土技術政策総合研究所. 2015年4月25日閲覧。
  36. ^ a b 秋竹敏実、藤吉三郎「太田川分流工事の概要について (PDF) 」 、『土木学会誌』第46巻第9号、土木学会1961年、 15-20頁、2015年4月25日閲覧。
  37. ^ a b c d 戦車も走った(65年)”. 中国新聞 (2003年5月13日). 2015年4月25日閲覧。
  38. ^ ヒロシマの記録1965 10月”. ヒロシマピースメディア. 2015年4月25日閲覧。
  39. ^ ヒロシマの記録1975 8月”. ヒロシマピースメディア. 2015年4月25日閲覧。
  40. ^ a b 『信頼』 山本朗 回想録 <22> フラワーフェスティバル(FF)”. 中国新聞. 2015年4月25日閲覧。
  41. ^ a b c d 【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(10)】”. 日刊スポーツ (2008年2月29日). 2015年4月25日閲覧。
  42. ^ a b 歓喜の大通り(75年)”. 中国新聞 (2003年5月13日). 2015年4月25日閲覧。
  43. ^ a b c d 横田好明「路面電車からLRTシステムに向けた広島電鉄の取り組み (PDF) 」、国際交通安全学会、2009年2015年4月25日閲覧。
  44. ^ ヒロシマの記録1998 2月”. ヒロシマピースメディア. 2015年4月25日閲覧。
  45. ^ ヒロシマの記録1979 1月”. ヒロシマピースメディア. 2015年4月25日閲覧。
  46. ^ ヒロシマの記録1994 1月”. ヒロシマピースメディア. 2015年4月25日閲覧。
  47. ^ 広島県の主要渋滞箇所(一般道) (PDF)”. 国交省中国地方整備局. 2015年4月27日閲覧。
  48. ^ 検証 ヒロシマ 1945~95 <2> 平和公園”. 中国新聞 (2012年3月29日). 2015年4月25日閲覧。

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]