バブル景気

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1989年、三菱地所が約2000億円で購入したロックフェラー・センター(ニューヨーク)。当時の日本企業による国外不動産買い漁りの象徴となった

バブル景気バブルけいきは、景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。ただし多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのは1988年頃からで、1992年2月の政府見解までこの好景気の雰囲気は維持されていたと考えられる。[1]日本政府の公式見解では数値上、第11循環という呼称で、指標を示している。 情勢自体はバブル経済と同一。平成景気(へいせいけいき)とも呼ばれる。

また、米国の2003年以後の住宅と金融を中心にした資産価格の高騰、景気拡大期を米国バブルなどと呼称する。

実体経済から乖離して資産価格が一時的に大幅に高騰し、その後急速に資産価格の下落が起こる様子が中身のないが膨れて弾ける様子に似て見えることからこのように呼称する。また、その景気後退期または後退期末期、景気が上昇に転じるまでの期間を「バブル崩壊」(平成不況)などという。 バブル崩壊、即ちバブル景気の終焉時期については、諸説存在する。

目安となる指標も多く存在し、景気動向指数(CI DI等)、土地価格(公示価格 調査価格 6大都市、地方、平均値等)、株価、GDP(総GDP 伸び率等)、消費者物価、民間消費支出等どれを基準にするかということと、政府見解により諸説は左右される。未だに、総合的に各指標を網羅したバブル崩壊に関する資料はみあたらない。

政府の見解でも、GDP伸び率、株価、6大都市とそれ以外の市街地価格指数の平均値の上昇率のみをとり、指標が最大値を取った直後を「バブルの崩壊の起点」と論点先取の上で便宜的に定義しその後を景気の後退としている。同時に、「とくにバブル崩壊直後の景気後退では設備投資の見通しが2年目、3年目と大きく外れている。こうした景気後退に対する政府の楽観的な見方には、平均的に回帰するような保守的な経済感が影響」しているとしており[2]、急激な指標の上昇に伴う回帰現象を、保守的に景気総括判断及び、消費者物価指数、民間消費支出政府見通しとして発表したことにより、一般大衆へ与えた影響は見過ごすことはできない。

つまり、(最大値を取る前の値より高くとも)一時的にでも値を下げた時点で、(値の持ち直し期待感や、押し目である可能性を事後になって排除した)論点先取上の「バブルの崩壊」と定義しただけであり、事後指標によるバブルの崩壊が始まった起点であるにすぎない。すなわち、1992年当時の政府見解における景気後退感と、事後の政府定義のバブル崩壊起点とでは、経済感意識に乖離がある。


ここではかつて日本で起きた事象について説明する。

目次

概要[編集]

日本では1986年12月-1991年2月までの株式不動産を中心にした資産の過度な高騰、経済拡大期間を指すことが主である。1980年代後半には東京都山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど日本の土地価格は高騰し、日経平均株価1989年平成元年)12月29日大納会には、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。このことを指して「バブル経済」と呼ばれる。

バブル経済とは総じて結果論として語られることが多く、その過剰な拡大期間の中では単に「好景気」といわれる。バブル景気による過剰な経済拡大期があり、その後にはその反動としてバブル崩壊による大幅な資産価格下落や金融収縮などが起こり経済問題が多数噴出することとなる。結果として過去のその経済状況を否定的意味あいでバブルなどと呼称する。

日本の景気動向指数でみる景気循環における第11循環の拡大期に当たる。指標の取り方にもよるが、おおむね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51か月)間を指すのが通説である。これは、2002年2月から2008年2月まで73か月続いた長景気(仮称:いざなみ景気、かげろう景気など)や1965年11月 - 1970年7月の4年9か月の57か月続いたいざなぎ景気に次いで第二次大戦後3番目に長い好況期間となる。

現在イメージされる、ワンレンボディコンの若い女性たちがジュリアナ東京で羽根付扇子を振って踊り、日本中に札束が乱舞し金満社会になっていたという、極端にステレオタイプ化されたバブル景気のイメージがしばしばテレビや雑誌で流されるが、ジュリアナ東京が開店したのはバブル崩壊後の1991年5月のことであった[3](但しその頃はまだバブルの余韻はあった[4])。また後者の金満社会のイメージは1988年ころにかたちづくられたものである。

それ以前の1985年プラザ合意の直後は円高不況と称された深刻な不況であり、輸出産業が大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していた。当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の海外流出もこの時期に本格化した。円高不況という文字がメディアから消え、多くの一般の人がいわゆるバブル景気の雰囲気を感じていたのは1988年頃から1991年2月のバブル崩壊以降少し後までの数年である。

また資産価格の高騰による好景気というように、株式や土地といった資産をもった人(持つ者)に恩恵がもたらされたのであり、資産をもたない多くの人(持たざる者)に恩恵が及んだわけではなく、彼らにはバブル景気は無縁だった。しかも当時は今のようにインターネットも普及しておらず[5]、株式等のトレードに簡単に手を出せたわけではない。そこでニューリッチとニュープアによる資産格差の拡大が叫ばれ始めてもいた。

日本のバブル崩壊による深刻な経済問題が表面化するまでには数年の時間を要し、当初は一時的な景気後退として楽観論が大勢を占めていた。1992年には政治的に宮沢喜一などが公的資金投入による早期の不良債権処理を言及しているが、官庁、マスコミ、経済団体、金融機関などからの強い反対に遭い実行に至らなかった。バブル崩壊と同時に1973年より続いてきた安定成長期は終焉を迎え、その後10年以上に亘る長期不況(失われた10年)などの引き金となった。

名称の由来[編集]

「バブル景気」という語は1987年に命名されたとされる。基になった「バブル」という語自体は1700年代のSouth Sea Bubble(南海泡沫事件)を語源とし、1990年にはすでに「バブル経済」という言葉が流行語大賞の流行語部門銀賞を「受賞者:該当者なし」(だれが最初に使い、はやらせたのか分からないため)で受賞している。しかし、この語が広く一般に、実感を伴って認知されたのはバブル経済が崩壊したあとである。

もともと「バブル」は「泡」を意味する語なので、泡沫景気(ほうまつけいき)と呼ばれることもある。1990年代初期からは、「平成景気」と呼ばれた。

野口悠紀雄は1987年11月に「バブルで膨らんだ地価」という論文を『週刊東洋経済・近代経済学シリーズ』に掲載しており、「私の知る限り、この時期の地価高騰を「バブル」という言葉で規定したのは、これが最初だ」と述べている[6]

一方で景気の後退のさまは「バブル崩壊」といわれる。

要因[編集]

1985年1月1日から1988年1月1日までの円とドルの為替レートの推移。点線はプラザ合意のあった日(1985年9月22日)を示す。プラザ合意後、急激に円高が進行している。

バブル景気の引き金になったのは1985年のプラザ合意とされている。当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ合衆国G5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行。1ドル240前後だった為替相場が1年後に1ドル150円台まで急伸した。元大蔵省財務官榊原英資は、日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされたと著書の中で述べている。これにより、

  • 中曽根内閣貿易摩擦解消のため、国内需要の拡大を国際公約し、これまでの緊縮財政から一転、公共投資の拡大政策を執った。これにより、景気が刺激された。
  • また中曽根税制改革により法人税が42%から30%へ、所得税最高税率が70%から40%に引き下げられるとともに物品税も撤廃され、可処分所得はその分増大して土地や株式の購入に向かったため、土地価格や株価が高騰した。
  • 急激な円高によるデフレ圧力にもかかわらず日本銀行は当初、公定歩合を引き下げずに据え置くとともに、むしろ無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという「高目放置」路線を採った[7][8]。そのため、一時的に非常な引き締め環境となり、その後数年のインフレ率の低下を招いた[9]。一方、翌年以降は緩和へと転じ公定歩合を2.5%まで引き下げ、その後も低金利を続けたが、この金融緩和政策は当時国際公約と捉えられており、これが継続されるとの期待が強固であった[10]。インフレ率の低下と低金利政策維持への期待によって名目長期金利は大きく低下し、このことが貨幣錯覚を伴って土地や株式への投資を活発化させた。

それ以外に以下の要因があるとされている。

  • 1986年初めに原油価格が急落し、交易条件が改善した。このことによる交易利得は、1987年5月の緊急経済対策とほぼ同規模となる大きなものとなり[11]、景気を刺激した。
  • 1970年代後半から優良製造業向けの融資案件が伸び悩み、銀行が不動産業や小売業、住宅への融資へ傾斜していた。
  • 金利低下により利鞘が縮小し、銀行は融資の量的拡大で収益を確保する必要性に迫られていた。プラザ合意以降、金利低下に拍車が掛かった。
  • 企業の資金調達手法が多様化し、間接金融から直接金融へ向かったこと。
  • 企業の資金調達が容易になったことで財務体質が改善され、設備投資が容易に行えるようになったこと。
  • 金融市場の国際化の流れから海外金融機関の新規参入が相次ぎ、金融取引が活発化したこと。
  • 「財テク」(=財務テクノロジー)に代表される企業の余剰資金運用を日本経済新聞等のマスコミが喧伝し、「特金ファンド」(特定金銭信託ファンド)で法人の株式投資を活発化させ、個人投資家の株式投資を誘発したこと。主要全国紙はこの頃、株式欄を拡大させ、金融雑誌や金融商品評論家、不動産取引評論家等が出現して個人の金融取引を煽ったこと。
  • 日本電信電話公社(現NTT)、日本国有鉄道(現JR)、日本専売公社(現JT)、日本航空等の公共企業体・特殊法人が民営化され、社会全体の企業活力が増したこと。
  • 中曽根内閣による大都市圏内の土地容量(容積率)の規制緩和、東京湾横断道路(東京湾アクアライン)建設プロジェクトの推進、当時の鈴木俊一 (東京都知事)による「第二次東京都長期計画」による東京臨海副都心構想の具体化による東京発の不動産取引の活発化。
  • リクルート社の銀座日軽金ビル購入の不動産取引成功が大々的に報道され、その後の不動産取引が活発化したこと。
  • 米国の不況や貿易摩擦の解消のために輸出規制が掛かり、企業は国内市場の開拓に目を向けざるを得なかったこと。
  • 1980年代に入ってからの世界的な(物価の)ディスインフレーションの中で、資産価格(株式)は上昇しやすい状況になっていたこと。
  • 企業収益の向上と共に個人所得も増加し、消費需要が上昇する乗数効果を生んだこと。

展開[編集]

日経平均株価(月末値)。1989年12月29日の東証大納会で日経平均株価が史上最高値の38,957円44銭(同日終値38,915円87銭)を記録、1990年1月4日の大発会から株価の大幅下落が始まる。

これらの要因が重なって日本では投機熱が加速、特にと土地への投機が盛んになった。なかでも「土地は必ず値上がりする」「土地の値段は決して下がらない」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加した。地価は高騰し、数字の上では東京23区の地価でアメリカ全土を購入できるといわれるほどとなり、銀行はその土地を担保に貸し付けを拡大した。資産価格高騰は資産保有者に含み益をもたらし、心理的に財布のひもを緩める資産効果によって消費が刺激され、景気の過熱感を高める効果もあった。また、1986年から日本企業の欧米企業に対するM&Aがかなり進められた。

1987年に入ると現象は経済全体に波及し、土地に対する需要が高い限り決してこの景気は終わらないという楽観論が蔓延した。特に株式は1987年10月に起こった米国ブラックマンデーによる世界同時株安の影響を世界で最初に脱出し、高値を更新したことから日本株に対する信任が生じた。その後、投機が投機を呼ぶ連鎖反応が起こり、「岩戸景気」「神武景気」に続く景気の呼び名を公募する記事が、雑誌を賑していた。

一方ですでに地価や株価は収益還元法などで合理的に説明できる価格を超えて高騰しており、日本経済はいつ破裂してもおかしくないバブル経済に突入していた。そもそも日本の人口増加率が低下し、2007年から2008年には人口が減少に転じると予想されたことから、土地の需要がこのまま持続・増加するはずが無いとの指摘もあったが、政府の「世界の中心都市としての東京は今後も発展を続け、オフィス需要は拡大しつつあり、これに対して供給はまだまだ不足している」とする見解をはじめとする強硬な反論が幅を利かせていた。

もともと、地価が上昇した場合はその上で操業している賃貸の工場やビルの収益率が低下するため、土地を売却し債券などを購入することが合理的になる。この結果、高騰した土地の上で経営が成り立つ産業だけが立地することになり、やがて価格は均衡する。しかし、日本においては土地資産などの計上が簿価で行われていたため、名目的に収益率は変わらずに土地を持ち続けることが正当化された。加えて、簿価と時価の差額が含み益をもたらし、担保価値の上昇という形で資金を導入して経営を拡大する方向に動いた。損失を出してもいざとなれば含み益を用いて解消できるとして経営の多角化を進めたりハイリスクな事業を展開する、放漫な経営で損失が出ても重大に受け止めないなどの例もあった。この動きの中で、日本企業は収益率を高めるのではなく総資産を増加させることを第一義的な目標とするようになった。

地価高騰[編集]

大都市等の優良な土地の高騰にとどまらず、収益の見込めない遠隔地の土地もリゾート開発を名目に相当の値段で取引された。こうして得た土地を担保に、巨額の融資が行われた。インカム・ゲイン(土地の有効活用による収益)ではなくキャピタル・ゲイン(将来地価が上昇することで得られるだろうと見込まれる値上がり益)を目的とすることが多かった。

土地を担保として融資を行うに際しては、通常は評価額の70%を目安に融資を行うが、将来の土地の値上がりを見越して過大に貸し付けることも珍しくなかった。破綻した北海道拓殖銀行では120%を融資した事例もある。単一の物件に複数の担保をつけることも行われた。背景には、金融機関の貸出競争が激化する中、潤沢な資金をとにかく運用する、貸付に回す、という金融機関の姿勢もあった。この融資の一部は後の地価下落(担保価値が低下)によって不良債権となった。

道路用地の取得価格も高騰し、新東名高速道路などの建設に要する資金の増大を招いて、日本道路公団の経営圧迫の一因ともなった。高価な土地が障害となって、地方公共団体の公共事業が進められなくなる事態も生じた。

地上げ[編集]

潤沢な資金を背景に大都市の再開発の動きが活発になった。都心の優良地区には、地権が細分化された上に借地借家が多数混在し、権利関係が複雑に絡んでいるケースがあった。日本においては、借地借家法によって借主の権利が保護されていたため、土地をまとめて大規模開発をするプロジェクトは必然的に推進が困難となった。そのため、大都市周辺の土地取得のため、大手不動産会社を代表したり、依頼を受けた地上げ屋(主に暴力団員)の強引な手口による「地上げ」が行われるようになり、社会問題となった。

しかし、計画を完遂できないままにプロジェクトが中止されるケースも多数生じ、バブル崩壊後には往々虫食い状態の利用しにくい空き地が残されることとなった。これらの空き地は「バブルの爪あと」などとも呼ばれる。

住宅高騰[編集]

高級マンションの代名詞的存在とされていた広尾ガーデンヒルズ

地価上昇は、地価の高い都心の戸建て住宅や高級マンションだけでなく、都市近郊にさえ適当な戸建住宅を取得することを困難にした。日本のような戸建主義的な都市構造において、いずれは戸建住宅を取得することが人生の夢・目標の一つであるとされ、それを動機として貯金に励むことも行われていた。しかし過度の地価上昇を見て、これ以上値上がりする前に一刻も早く住宅を取得するべきだと考える人も増え、その行動は、また、地価上昇に拍車をかけた。あまりにも住宅が高騰して、平均的な収入では最早購入するのが不可能な域に達する[12]と、二世代ローンも登場した。本人の資力で支払きれないところを、その子の資力をもって補うものである。

地価・住宅高騰と共に相続税も無視できない額に増えた。特に、長年のローンを組んで余裕が無い状況で相続が発生すると、支払うべき相続税を用意することができずに困窮することもある。これに対応するために、親類縁者の若者を養子にして一人当たりの相続額を下げて相続税を節約する手法が採られたり、変額保険を利用する節税手法が利用された。しかし、バブル崩壊後は資産運用の計画が狂い、窮地に追い込まれる契約者もあった。詳細は後述の#変額保険を参照。

住宅すごろく[編集]

地価上昇を前提とした住宅取得のモデルも提示された。若いうちに小さいながらもマンションを取得し、それを下取りに出して順次条件の良いマンションに買い換えれば、最終的には望む戸建ての住宅を手に入れられるとされ、「住宅すごろく」とも言われた。単に貯蓄をしていては住宅高騰に決して追いつけないが、マンションを資産として購入しておけば価格上昇が見込めて有利である、と説かれた。しかし、バブル崩壊後は物件を見極める目も厳しくなり、単にマンションであることでは資産価値を認められなくなった。事実上資産価値の無くなった都市近郊のマンションに対する多額の支払いが残り、負債を抱えて身動きが取れないケースもある。

他方、あまりにも高騰した住宅の取得を早々に諦め、収入を貯蓄することなく、高級車などの耐久消費財などの購入に充てる刹那(せつな)的な動きもあった。これは、さらなる消費の過熱と貯蓄率の低下に繋がった。

地価高騰を見て賃貸住宅の家賃も高騰し、結局都心から離れた土地へ移転を迫られ、通勤時間が長くなるという状況も生まれた。これら地価高騰と住宅問題は当時の日本政府の懸念事項であり、後の地価抑制政策に繋がり、信用構造を圧迫することになった。

国鉄清算事業団[編集]

国鉄清算事業団は、旧国鉄から引き継いだ未利用地を販売して負債削減を図った。その中でも汐留駅跡地は都心にあるまとまった優良地として、注目を集めた。しかしバブル景気で地価が高騰していた時代においては、かかる土地の売却が地価高騰を一層あおりかねないとの懸念が政府内部の他、経済界やメディア、国民諸階層にも了解があり、汐留駅跡地の売却を地価高騰時にしなかったことについて、その当時には全く問題のないこととされていた。

その結果、地価が暴落した後に売却に掛かり、その他の土地も国鉄清算事業団の解散を控えて全て処分する必要があることから、バブル崩壊後の地価下落とも相俟って投げ売り同然で処分せざるをえなかった。結局、事業団全体では負債を増やした状態で解散したが、上記の通りバブル期には売却を抑制することが国民的な合意としてあったのであり、売却時を結果的に見誤ったことについて国鉄清算事業団を責めることはできない。 最終的に、国鉄清算事業団はその役目を終え、1998年(平成10年)10月に解散した。

リゾート地開発[編集]

ほぼ同時期にリゾート法が制定(1987年)され、都市から離れた地域においても、大企業を誘致してリゾート施設を開発する動きが活発となった。特に北海道ではスキー場などのリゾート事業が急激に拡大した。これにより、それまで見向きもされなかった土地が相当な価格で取引されるなど、土地価格の上昇に拍車を掛けた。

またゴルフ場の会員権の価格は高騰し、それとともに次々に豪華な設備を持ったゴルフ場の開発が全国で進められた。なお、当時のゴルフ場のテレビCMでは、バブル景気崩壊後なら「○○自動車道○○インターから車で○分」などとするところを「東京ヘリポートから○○分」などと案内するほどであった。

財テクブームと消費の過熱[編集]

1987年、安田火災(当時)が約57億円で購入した絵画「ひまわり

バブル経済下では金融・資産運用で大幅な利益を上げる例が強調され、企業においても本業で細々と着実に利益を上げたり、保有株式の配当金等よる利益(インカムゲイン)を上げるのでなく、所有する土地や金融資産を運用して大きな収益(キャピタルゲイン)を上げる「財テク(○○転がし)」に腐心する例もあった。

潤沢な資金による買い漁りの対象は、NTT株の公開に伴う一般投資家による投資や、フェラーリロールス・ロイスベントレーなどの高級輸入車サザビーズなどが開催したオークションによるゴッホルノワールなどの絵画や骨董品、にまで及ぶなど、企業や富裕層のみならず、一般人まで巻き込んだ一大消費ブームが起きた。

これらの背景には、中小企業主に対する融資が緩くなったことや、企業に勤めて新居購入のために貯金をしていた世帯が、土地価格の急激な上昇のため新居取得を諦め、新車購入や旅行、消費に走ったことが原因として挙げられる。

海外投資[編集]

潤沢な資金を得た企業が、海外の不動産や企業を買収した。著名なところでは三菱地所によるロックフェラー・センター買収(2000億円)、ソニーによるコロムビア映画買収をはじめとする事例で、海外不動産、海外リゾートへの投資、海外企業の買収が行われた。また、企業に留まらず、土地を担保に大金を借り入れた中小企業オーナーや個人、マイホーム資金を貯蓄していた個人の中からも、海外の不動産に投資を行う者が出てきた。

一方で象徴的ビルや企業が日本企業の手に渡ったことにつき、アメリカの心を金で買い取ったとする非難が浴びせられた。また、海外不動産への投資は現地の地価の高騰を招くとともに資産税を上昇させ、正常な取引を害し地元経済を混乱させたものとの非難が浴びせられた。

流行語[編集]

バブル景気直前の1984年には、金持ちと貧乏人の生活や価値観を対比させた 渡辺和博 の著書『金魂巻』で使用された「○金○ビ(まるきん・まるび)」が第1回流行語大賞となり、バブル景気時にもそのまま使用される。またこの年、前年に『構造と力―記号論を超えて』がベストセラーになっていた浅田彰が、第二著『逃走論 スキゾキッズの冒険』で、人間のタイプを「スキゾ・パラノ」に分類し、同新語部門銅賞を受賞した。

この頃は空前の好景気で国内外・昼夜を分かたず猛烈に働くことが時代の趨勢となり、「24時間戦えますか」のCMコピー(栄養ドリンクのCM曲「勇気のしるし」参照)が流行した。

新たな価値観・感性を持った若者は「新人類」と称された。但し「いまどきの新人類は~」などと若者をなじる時に使われ、決して肯定的な意味で使われていた訳ではない。ファッションでは「DCブランド」が持て囃され、その販売員は「マヌカン(ハウスマヌカン)」と呼ばれた。「ワンレン・ボディコン」の女性の一部が求める結婚相手は「三高」だとメディアは報じ、若手エリート・「ヤンエグ」(ヤング・エグゼクティブ。青年実業家や起業家)の服装はジョルジオ・アルマーニに代表されるソフトスーツであった。

また一部の男性は女性の気を引くべくプレゼントを贈ったり、高級レストランで接待したり、彼女たちを乗せる乗用車にお金を注ぎ込んだりしているとメディアでは伝えられ、このような一部男性は「アッシーくん」、「メッシーくん」、「ミツグくん」、「キープくん」などと蔑んで呼ばれた。そして彼らに対する正式な“彼氏”は「本命くん」とメディアは呼んだ。このように男性を類型化・商品化し、男性の人格をもてあそんだ男性差別又は女尊男卑的な流行語が溢れたのもバブル時代だが、約20年後に登場した草食男子という言葉と同じく、アッシーや三高などはメディアや社会学者、評論家らが面白可笑しくいっていたに過ぎず、実際にどれだけの男性がアッシーをしていたのか、どれだけの女性がアッシー扱いしていたのかは検証されていない。

そのほか男性を「CD」(ATM)や「キャッシュカード」(キャッシュカード君)に喩えてみたり、働き盛りの男性を「亭主元気で留守がいい」と言ったり、定年退職を迎えた中年男性を「濡れ落ち葉」と呼んで揶揄するなど、前述のアッシーなどの流行語と合わせ、兎にも角にも激しい男性蔑視、マン・バッシングが吹き荒れたのがバブル時代のもう一つの顔だった。

一方で、一部の羞恥心を欠いた中年女性を「オバタリアン」、品がなくて、帰宅したら母親に「風呂、飯、寝る」しかいわないような若い女性を「おやじギャル」と呼んだりもした。

セゾン文化後述)の発信地だった「渋谷公園通り」や、港区芝浦などの「ウォーターフロント」地区が「トレンディ」で「ナウい」場所とされ、松井雅美や山本コテツなどの「空間プロデューサー」がデザインした飲食店は「カフェバー」と呼ばれた。

ネクラ・ネアカ、オタク[編集]

バブルの手前、フジテレビが「母と子のフジテレビ」から「楽しくなければテレビじゃない」に旗印に改め、「軽チャー路線」を打ち出した1980年代前半頃から、「ネクラ」・「ネアカ」という言葉が世を席巻した。そして物や人間の価値をも「明暗」を基準に判断する風潮が生まれた。「ネクラ」な性格は忌み嫌われ、いじめの格好のターゲットにされたため、多くの人は暗いと思われることを恐怖し、努めてネアカに振舞おうとした。『笑っていいとも』が一大ブームになり、「いいとも!」が流行語になった。第一次漫才ブームツービートなどのブラック漫才が流行り、相方の頭を叩いたり、悪口や人の弱みに付け入ることをいって笑いをとる風潮も生まれた。この頃から学校で「葬式ごっこ」などのいじめ問題がエスカレートした[13]。「まじめ」も崩壊し[14]、愛や正義などの尤もらしいことを語ると「クラい」「ダサい」と馬鹿にされ、恋愛や友人関係、青春期の悩みなどを友人に相談しようとしても、相手にされずせせら笑われた。一方で、そんなネアカ・軽薄短小といわれた時代に違和感や息苦しさを感じていた人も多く、彼らは天才ロッカーと後に呼ばれる「尾崎豊」を聴いたりしていた。尾崎は80年代という時代が生み出した必然ともされる。

1989年には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起きて、その容疑者(当時)がモテそうもなく、アニメ・マニアだったことから、似たタイプの若者は「オタク族」といわれだした。この頃の「オタク」は、近年と違ってネガティブな意味でのみ用いられ、精神科医小田晋はメディアで「オタッキーの犯罪」を連呼していた[15]。そしてアニメが好きというだけで犯罪者予備軍のような目で見られた。

娯楽・消費[編集]

海外旅行[編集]

格安航空券の流通拡大にあわせて、海外旅行者が増加したのもこの時期からである。1986年には550万人程度だった海外旅行者が、わずか4年後の1990年には1000万人を突破した。

家庭用ゲーム機[編集]

家庭用ゲーム機業界においてもファミコンの次世代を担う次世代機の競争が各社で始まっていたが、なかでもNECホームエレクトロニクスが開発したPCエンジンの周辺機器で当時最新鋭だったCD-ROM2システム、SEGAが開発したメガドライブの周辺機器であるメガCDをゲーム機に組み込ませた製品が4-5万円で発売されるなど、ゲームにおいても高級志向が浸透しつつあった。1990年にSNKからリリースされたNEOGEOのように高級ゲームとしての市場を開拓すべく発売されたゲーム機もある。スーパーファミコンのソフトの価格が一部を除き八千円、九千円台であったことも、当時の好景気を象徴している。

ポケットベル[編集]

1980年代後半頃からポケットベル(略称:ポケベル)で数字送信が可能になり、通信自由化による低料金化や技術革新による高速化などが追い風となり、若者の間でポケベルが普及し始めた。日本ではポケベル事業自体は1968年に開始されていたが、音響通知だけで業務用途が多く、一般レベルでは普及していなかった。それがポケベルが個人の生活に入り込むことで、(業務用途や自動車電話、1989年に普及し始めたノートPCなどを除いては)固定電話公衆電話が主たる通信手段の時代から、個人で通信手段を持ち歩くのが当たり前の時代へと移り変わった。この頃は高校生-20代前半の若者の間で、数字の語呂合わせでメッセージを送り合う言葉遊びが流行り、恋人同士でも連絡し合うようになった。

クリスマス・ホテル[編集]

東京ベイヒルトン
苗場プリンスホテル

バレンタインにチョコを贈る慣行はオイルショックによる景気低迷の時代にデパート業界がより積極的に仕掛けたように、クリスマス・イヴにカップルで夜景の見えるレストランで食事し、ホテルに宿泊するというスタイルは、円高不況期にホテル・外食産業やメディアなどによって仕掛けられた。

赤坂プリンスホテルシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル東京ベイヒルトンなどの高級シティホテルに宿泊することが流行し、3か月前の予約受付開始直後に予約が一杯になる状況が続いた。

スキーリゾート[編集]

また前述の通りスキー場の開発が相次いでなされたことと、1987年に映画『私をスキーに連れてって』が大ヒットしたこともあってスキーブームが起こり、苗場プリンスホテルなどが人気となり、リフト待ちに数時間かかるような事態も起きるほどであった。

さらに都心至近距離の千葉県船橋市に屋内スキー場「ザウス」ができたりもした。「ザウス」はバブル崩壊後の1993年のオープンであるが、スキー人口のピークの年でもあった。

音楽市場[編集]

楽器メーカーでは、ヤマハが前述のスキーブームに便乗して「スキーバスの中に持ち込んで手軽に作曲が楽しめるもの」をコンセプトに設計された音源内蔵シーケンサーQY10を開発している。また、世の中のバンドブームの流れに乗り、シンセサイザーをバンド系ミュージシャンとのタイアップやCM放送を通じて盛んに売り出した[16]

豪華列車[編集]

一方、鉄道についても従来では考えられなかった超豪華列車(「北斗星」「トワイライトエクスプレス」等、またオリエント急行の来日もこの時期)やリゾートに特化した車両(「スーパービュー踊り子」等)が登場し、これらの列車はバブル崩壊後も根強い人気を保っている。

盛り場・ディスコ[編集]

消費の過熱は六本木や銀座新宿渋谷などの盛り場にも影響し、これらの盛り場では大金を手にしたいわゆる「バブル紳士」から、学生ビジネスのみならずアルバイトで遊ぶための金を手にした学生までが大金をつぎ込んだ。 1980年代後半にかけて、六本木では雑居ビル「スクエアビル」の殆どがディスコになった他、六本木駅界隈には50店舗以上もディスコが乱立しその多くが盛況になるなど、第2次ディスコ・ブームが起こった。 また、カラオケパブが流行するなど、この頃のバブル景気の象徴として「ジュリアナ東京」取り上げられることが多い。

また、都会に在住する裕福な大学生を中心に組織されたイベント系サークルがこれらのディスコを数十店舗単位で同時に貸し切り、ミズノ日産自動車、スバルやサントリーなどの大企業のスポンサーを付けた上で全国規模で数千人を動員するパーティーも行われた。

モータースポーツブーム[編集]

レイトンハウスF1チームのマーチ901・イルモア
トヨタ90C-Vと日産R90CP

こうした熱狂のなか、1987年の中嶋悟F1への参戦とホンダエンジンの活躍、フジテレビジョンによるF1全戦中継開始を機にモータースポーツブームが巻き起こった。

F1[編集]

F1を中心とした空前のモータースポーツブームに、宣伝効果を狙った様々な企業が群がった。フットワークアロウズを買収)やレイトンハウスマーチを買収)、エスポラルースを買収)、ミドルブリッジ(ブラバムを買収)など多くの日本企業がF1チームの買収を行った。また、三洋電機東芝セイコーエプソン三越セガなどの多くの日本企業がチームのスポンサーに名乗りを上げた。

さらにヤマハ(ザクスピードに1989年から供給)やスバルコローニに1991年に供給)がエンジンサプライヤーとして参戦したほか、鈴木亜久里(1988年-)や服部尚貴(1991年)が日本企業のスポンサーを受けて新たに参戦した。

海外レース[編集]

F1のみならず、ル・マン24時間レースパリ・ダカールラリーをはじめとする世界各国のレースに参加する日本の自動車会社や日本人レーシングドライバーに対し、大企業から中小企業まで様々な日本企業がスポンサーを行った。

国内レース[編集]

また、当時日本国内のモータースポーツのトップカテゴリーだった全日本F3000選手権全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権 (JSPC)・全日本ツーリングカー選手権 (JTC) 等には、サントリー日本たばこミノルタワコールなどの大手企業から、CHERENAや三和都市開発、VIPバケーションなど、不動産取引で大金を手にした不動産業者をはじめとする中小企業、さらに武富士プロミスアコムなどの消費者金融業者まで多くの企業がスポンサーに名乗りを上げ、豊富な資金を得たことを背景に、1990年の全日本F3000選手権には40台近くがエントリーするなど空前の参戦台数を記録した。

さらに不動産投機を目的としたリゾート開発の過熱とあわせて、国内におけるサーキットの建設計画が多数立ち上がり、実際に計画され完成に至っただけでもオートポリスTIサーキット英田十勝インターナショナルスピードウェイなどがあるが、上記の3つともにバブル崩壊後に運営法人が破産した。

高級車ブーム[編集]

「シーマ現象」[編集]
日産・シーマ
BMW3シリーズ

日産・シーマトヨタ・ソアラトヨタ・クラウンなどの「ハイソカー」と呼ばれた3ナンバーの国産高級車への人気集中(「シーマ現象」と称された)が起きた。とくに1989年に税制改正され、3ナンバー車に以前のような重い課税がされなくなってからは、各メーカーがこぞって対象車種を出したことから、これらの3ナンバー車の販売台数が飛躍的に増加した。

また、1989年にアメリカで先行販売されたトヨタ・セルシオ日産・インフィニティQ45などを、日本での販売開始前にアメリカから「逆輸入」し、高値で販売する業者や、1990年に発売され納車まで1年以上待つこととなったホンダ・NSXを「即納可能」として高値で転売する業者も現れた。

外国車[編集]

また、これまでは一部の富裕層のステータスシンボルとされていた外国車も、その販売台数の急増から、東京都や神奈川県などの都心部ではメルセデス・ベンツ 190Eが「コ(子)ベンツ」「赤坂サニー」、BMW3シリーズが「六本木カローラ」などと揶揄されるほどに普及した。

特に高級外車は、東京都心や大阪市内などの大都市の道路でメルセデス・ベンツSクラスケーニッヒやキャラットコンプリートなどのチューン版も多かった)やポルシェ・911ジャガー・XJなどが走っているのが全く日常の光景の一部となり、フェラーリやランボルギーニマセラティデイムラー、さらにはロールス・ロイスなどの、これまで輸入台数の極端に少なかった高級車が走っていることでさえ、大都市近郊においては特に珍しい存在ではなくなったのはこの頃以降のことである。

またこの当時、ヤナセ(メルセデス・ベンツ)やBMWジャパンBMW)などの正規輸入販売代理店経由でこれらの車を購入する場合、車種によっては注文してから納車されるまで1年以上かかるケースがあったため、輸入車専門店がドイツやアメリカ、ドバイなどから新車(時には中古車)を並行輸入し、「即納車可能」として正規輸入販売代理店の販売価格に上乗せしたプレミアム価格で販売し、その広告を全国紙に掲載しているケースもあった。

フェラーリ[編集]
フェラーリF40
ロールス・ロイス・シルヴァースピリット

この頃フェラーリは、1988年に創設者のエンツォ・フェラーリが死去したことや、同時期にヨーロッパの自動車バイヤーによって中古販売価格を吊り上げるために買占めが行われたこともあり、新車のみならず中古車価格も世界的に高騰していた。

さらにこのような世界的な供給不足を受けて、人気車種の「テスタロッサ」を当時の正規輸入販売代理店のコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドで新車を注文してから納車されるまで2-3年待ちという状況であった。

そのせいもあり、限定で生産された「F40」は、コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドでの新車価格が4,650万円のところを並行輸入された新車(即時納車可能)が輸入車専門店で2億5,000万円で、「テスタロッサ」が新車価格が2,300万円のところを5,000万円近くで、「348」が同じく新車価格が1,650万円のところを4,500万円近くで販売されていたという記録が残っている[17]

ロールス・ロイス[編集]

バブル景気絶頂期の1990年にはロールス・ロイスの全生産台数の約3分の1強が日本で販売された。その後バブル景気が崩壊し、これらのロールス・ロイスが持ち主の手から離れたために、日本におけるロールス・ロイスやベントレーの中古車市場が大暴落し、その結果、これらの多くが1990年代中盤に海外の自動車バイヤーに買い取られていった。

ポルシェ[編集]

1986年に発表され、1987年に日本国内でも発売された限定車のポルシェ・959が、当時の正規輸入販売代理店のミツワ自動車からは数台しか輸入されない(総生産台数は当初200台とされていた)というその希少性から並行輸入車が高値で取引され、1億円近い価格をつけるものも存在した。なお、ランボルギーニ・カウンタックもその例である。

セゾン文化[編集]

バブル期は堤清二が率いる西武百貨店パルコを中核としたセゾングループが、セゾン文化と呼ばれる消費文化を牽引した。そして大人は西武で、若者はパルコで買い物をするのが一種のステイタスになっていた。西武とパルコのほかには、セゾン美術館、銀座セゾン劇場、パルコ劇場ロフト無印良品アール・ヴィヴァンなどがあり、単にモノを売るだけではなく、文化やイメージを売るというスタイルは「イメージ戦略」と呼ばれ、当時は斬新とされた。

シブヤ西武(現・西武渋谷店)SEED館には伝説のシュップ『カプセル』を設置し、デビュー間もない川久保玲コム・デ・ギャルソン)、山本寛斎イッセイミヤケタケオキクチら、新進のデザイナーズブランドを展示した。糸井重里の「じぶん、新発見。」「不思議大好き。」「美味しい生活。」などのキャッチコピーや、ハドソン川内田裕也がスーツ姿で泳ぐバージョンなど、パルコの斬新なCMはしばしば話題になった。渋谷公園通りがオシャレで、この通りに近い西武やパルコは、当時の修学旅行生の観光地にもなっていた。

今は六本木ヒルズメトロハットになっている場所には、CD・レコード専門店「WAVE」があり、コンテンポラリー・アートと音楽の店で、青山ブックセンターと並び称された「アール・ヴィヴァン」と共に若者や文化人に定評だった。また過剰なまでに消費が旺盛だったバブル期にあって、過剰な意味や装飾性を削ぎ落した「無印良品」は却って新鮮だった。元は同じグループだった西武鉄道グループプリンスホテルやスキーリゾート、そして「としまえん」のCMも脚光を浴びた。

一方、セゾンのライバルだった東急では東急ハンズが脚光を浴びた。

マスメディア[編集]

放送局では大量のスポンサーが付いたことで莫大な収入が入るようになり、番組にはジャンルを問わず多額の制作費が惜しみなく投入された。この時期はファッションモデル出身の若手俳優や女優を主役に据え、生活感が皆無な毎日の暮らしを描いた「トレンディドラマ」が若い女性にブームとなっていて、特にフジテレビ月9ドラマがその牽引役となっていた。

また、アメリカに多いジャンル別FMラジオ局に倣い・またスタイルを真似た、英語アナウンスを多用する「お洒落な音楽だけを流すFM放送局」が登場したのもこの当時(J-WAVE など JAPAN FM LEAGUE 参加局や、平成新局の各社)のことであるが、これらのFM局の多くはその後、方針を修正することとなる。

テレビコマーシャルも従来の商品宣伝型の CM は下火になり、それに変わって企業イメージを向上させることを目的としたCM(たとえばJR東海シンデレラエクスプレス等)が多く製作された。

また、この頃は男女雇用均等法の施行とそれに伴う女性労働者の収入向上に伴って、結婚率の低下やそれに伴う出生率低下が話題になり始めた。そして男女双方が結婚難だったにも拘わらず、「男性結婚難時代」などと男性のみが結婚難であるかのようにいわれたり、結婚難に悩む男性を揶揄する根拠に欠ける報道(例:朝日新聞1992年7月19日付朝刊)が溢れたりした。また同性愛者は男性の方が多く生まれてくることを無視して「男余り時代」といわれたり、先の「アッシーくん」等の流行語に見られるように男性を貶める論調も目立ち始めた(「現代用語の基礎知識」1991年版)。テレビ朝日系の深夜クイズ番組の中には、「賞品として」数十人の男性をスタジオに待機させ、3人の女性解答者(回答者は女性のみ)が一問正解するごとに、その中から一人ずつ気に入った男性を「のように」獲得していき、優勝者は一人の男性を「賞品としてもらえる」というものもあった。このようにバブル期のメディアでは男性をもてあそび、商品化するなどの極端な男性蔑視報道が日常的に罷り通っていた。

就職[編集]

就職売り手市場[編集]

民間企業が好景気を受けた好業績を糧に、更に営業規模を拡大したり経営多角化を行うために募集人数を拡大し、学生の獲得競争が激しくなった。多く企業が学生の目を惹き付けることを目的にテレビで企業広告を行い、立派な企業パンフレットを作成・配布して学生の確保に走った他、青田買いの一環として、都市部の大学生が主宰するイベント系サークルやそれらが企画するイベントへの協賛を行った。

学生の確保に成功した企業が内定者を他社に取られないようにするため、研修等と称して国内旅行や海外旅行に連れ出し他社と連絡ができないような隔離状態に置く、いわゆる「隔離旅行」を行った[18]他、「内定を辞退した学生に人事担当者が暴行した」というような都市伝説まで囁かれるようになった(都市伝説一覧を参照)。

これらの背景には急激な経済膨張・業務拡大のため夜中2時過ぎまでの残業などがざらになるなどの深刻な人手不足があり、早急に人員を確保することが急務だった。体育会系の学生は我慢強く体力があり、上下関係による人脈で後輩学生を入社させやすいというので企業からは人気があった。特に証券等は、現場が人手不足だったので、OB を通じて学生に食事を振る舞うなどしてまで入社させた。

ただし注意を要するのは、この時代には全ての大学生が誰しも一流企業への就職が楽であったわけではなく、就職人気上位30社程度の一流企業に限定すると「指定校制度」の存在と短期大学を含め大学進学率が同世代の3割程度であったことに留意する必要がある。すなわち主に恩恵を得たのは東京圏の国立・上位私立大学、及び京阪神圏の国立大学である。したがって一流企業は満遍なくあらゆる大学からの採用を増加させたのではなく、バブル景気以前より長年にわたって存在していた指定校に在学する学生の採用を大幅に増加させたことがこの時期の売り手市場の傾向である。その意味でインターネット等でのエントリー制度が主流となった現在のほうが、従来の指定校漏れ大学からの一流企業就職にも少ないながら可能性が出てきたともいえる。もっとも当時の指定校制度に漏れていた首都圏の一般的な私立大学、及び地方の大学に所属する学生も業界2-4番手の大企業に就職できたことから、当時の方が総じて就職活動は容易であった。

有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録。リクルートの調査では、同年の大卒最高値は2.86倍になった。この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われる。社内では同世代の人数が多く、社内での競争が激しくなり、一方で、就職直後にバブル崩壊を受けて業務が削減され、それぞれの社員が切磋琢磨する機会も減った。また、以後の採用が細ったことから「後輩」「部下」が居らず、長く現場の最前線に立たされ昇進もままならない者も多かった。

民間企業の業績・給与がうなぎ上りだったことに比べ、景気の動向に左右されにくい公務員はバブル景気の恩恵をさほどには受けなかった。このため「公務員の給料は安い、良くて平均的」といった風評が大学生の間で蔓延して、「公務員はバカがなるもの」と見下されがちだった。とりわけ地方公共団体には優秀な新卒が集まりにくく、各団体は公務員の堅実性のPRを積極的に行った。

文系就職[編集]

農林水産業や製造業などの分野と比較して、銀行や証券といった金融分野が大幅に収益を伸ばし、これらの業界は、さらに高度な金融商品の開発に充てる人材の確保を意図して、理系の学生の獲得に動いた。また、バブル景気の浮かれた雰囲気の中で、電通やサントリー、カネボウフジテレビなどの、広告出稿量の多い、もしくはマスコミ広告代理店、外資系企業などの華やかなイメージの企業の人気も高まり、文系学生のみならず理系の学生もがこれらの企業に殺到した。

好業績で注目を浴び高い給料を提示する金融業や華やかな業界への就職希望が増えたのに対し、製造業では学生の確保に苦労することになった。理系の学生が、産業界以外の分野、殊に金融業やサービス業へ就職することを指して文系就職とも言われた。これに対応するため多くの製造業が初任給を引き上げる動きに出たが、場合によっては既に在籍している社員よりも高い俸給が提示されることもあり、不公平であるとの批判も起こった。

当時の世界情勢[編集]

1945年2月のヤルタ会談以降の冷戦体制下で、日本を含む西側諸国と対立していたソビエト連邦は、アフガニスタン侵攻による疲弊の影響で、改革派のミハイル・ゴルバチョフが登場する。

一方でアメリカ合衆国は、このころ1980年代半ばのユーフォリアを経て迷走気味になりつつあった。住宅金融に破綻の兆しが出て、信用問題に発展しつつあった。経常収支が均衡に向かう中で国内経済は低迷し、失業増大や記録的財政赤字に繋がりつつあった。

こうした世界情勢の中で、政治的に安定している上に空前の好景気で、投資先として非常に大きな魅力を持つことになった日本は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(エズラ・ヴォーゲル著の同タイトルの書籍より「世界の頂点にいるも同然の日本」の意)の呼び声とともに、アメリカにおいても「日本社会に学べ」「日本に負けるな」という声が出るほど好景気を謳歌していた。三菱地所がニューヨークの象徴的な建物であるロックフェラーセンターを買収して日本脅威論が噴出したのもこの頃である。また東南アジア諸国からも「日本の成功を見習うべし」との声が上がった。

バブル景気の時期は、ソビエト連邦の「ペレストロイカ」とほぼ同じ時期である。バブル景気とペレストロイカの真っ只中にあった1989年には、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧民主化革命が起こり、44年間続いてきた冷戦が終結した。

問題[編集]

資産を用いた経済活動によって生み出される収益ではなく、資産そのものの値上がりにより利益を得ようとする手法は、資産価格が高騰するほど困難になる。やがて資産価格が高い水準で均衡すると、その時点で資産を保有していた者はもはや値上がり益を得られない。

そして、高値均衡を維持できず、価格が下落に転じると、それまでの歴代の所有者がそれぞれ利益を得たのに対して、最終的な資産保有者はその分の損をまとめて被ることになる。このように、資産価格の上昇を維持することが困難になるにつれ、資産取引は次第に「ババ抜き」の様相を見せ、ますます資産価格の維持が困難となる。

景気後退[編集]

絶頂期の1989年頃には投資が活発となり、「平成景気」「ヒミコ景気」「高原景気」と呼ばれるこれまで類を見ない空前の超好景気となったが、実体経済の成長では到底説明できないほどの資産価格上昇を伴うバブル経済であったため、やがて縮小することとなる。

株や土地などの資産は下落し、一転して大きなキャピタルロスを抱える個人や企業が増え、キャピタル・ゲインを当てにして過大な投資をしていた企業や投機家が多大な損失を抱える事態となった。当時の日本は資産価格上昇により、土地や株式などの収益率(値上がり益を除く)が著しく低下していたため、金融緩和の終了で持続可能性を喪失した。

なお1973年12月より17年3か月間続いてきた安定成長期はこのバブル崩壊で終焉を迎えた。

バブル崩壊(平成不況)[編集]

1991年(平成3年)3月[要出典]から2002年(平成14年)1月[要出典]まで(1991年3月から1993年10月までの景気後退期のみを表す場合もある[要出典])の失われた10年不況名通称で、バブル崩壊[要出典](平成不況(第1次から第3次まで)、複合不況、バブル不況などとも呼ばれる[要出典])と呼ばれることがある。バブル崩壊という現象は単に景気循環における景気後退という面だけでなく、急激な信用収縮、土地や株の高値を維持してきた投機意欲の急激な減退、そして、政策の錯誤が絡んでいる。

1990年3月大蔵省銀行局長土田正顕から通達された「土地関連融資の抑制について」(総量規制)に加えて、日銀による金融引き締めは完全に後手に回ったため急激なものとなり、信用収縮が一気に進んだ。信用崩壊のさなかにおいても金融引き締めは続けられ、経済状況を極度に悪化させた。前年に導入された消費税も経済実態に鑑みると導入が遅すぎたと言え、結果的に景気に悪影響を及ぼした遠因と考えられている。

日経平均株価については、1989年の大納会(12月29日)に終値の最高値38,915円87銭を付けたのをピークに暴落に転じ、湾岸危機と原油高や公定歩合の急激な引き上げが起こった後の1990年10月1日には一時20,000円割れと、わずか9か月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。

景気については、景気動向指数 (CI) をみると、1990年10月をピークに低下傾向となり、1993年12月まで低下した。地価は、1991年秋頃(東京、大阪の大都市圏では1990年秋頃から、地方圏では1992年、公示価格ではさらに1年遅れの1993年頃[19]に、路線価も1992年初頭をピークに下落していった。また、1999年以降(1997年の消費税5%増税とアジア通貨危機の影響による更なる不況の深刻化がきっかけ)は社会全体の雇用者賃金の減少や、それ以前よりもさらに非正規雇用社員が増加していった。それまでの好景気は株や土地への異常な投機熱によるもので、実体を伴わないもの、すなわちバブルであったことが明らかになり、振り返って「バブル景気」と呼ばれるようになった。

「バブルの崩壊」は、あるとき一瞬にして起きた現象ではない。各種指標ではある瞬間に最大値を取り、理論上、そこでバブル崩壊が始まったわけだが、それは単なる序章に過ぎなかった。バブル崩壊は、開始から数年間をかけて徐々に生じた過渡的現象である。現象の進行は地域や指標の取り方によっても異なり、例えばマンションの平均分譲価格を見ても、東京と大阪ではピークに約一年の差がある。東京でバブルの崩壊が発生し始めた時、大阪ではまだバブルが続いていた、とも言える。また公示価格では、北海道、東北、四国、九州など1993年頃まで地価が高騰していた地方都市もあり、俗に「バブルが弾けた」というが、風船やシャボン玉がある瞬間に破裂したかのような瞬間的な現象ではない。

数値的に確認できる「バブルの崩壊」と、体感的な「バブルの崩壊」にも最大で数年程度のずれがある。データ上、バブルの崩壊は1990年11月頃始まったが[要出典]、必ずしも誰もが直ちにそれを体感したわけではない。バブルの崩壊を経済学的現象ではなく深刻な社会問題ととらえるとき目安となる時期は、全国的に地価の下落が明確となり、有効求人倍率や新卒の求人倍率が大きく低下し、企業の業績悪化により学生の内定取り消しも相次いだ(就職氷河期も参照)1996年頃[20]から、不良債権問題や株価低迷によって大手金融機関が次々と破綻に追い込まれた1997年-1998年頃にかけての間であり、それまでは(事実としてバブル崩壊が始まっていたにもかかわらず)それを認識できずに楽観的でいたり、そうでなくても、まだ持ち直すかもしれないと期待していた人々がほとんどだったと見られる(後述のように、バブル崩壊後に金融機関が抱えた不良債権を、株価・地価の再上昇を当てこんで処理を後回しにした結果、雪だるま式に額が膨れ上がって破綻に追い込まれた企業も少なくなかった)。また、経済政策の失敗によって1999年以降の景気が急速に悪化し、企業の倒産や人員削減による失業、新規採用の抑制による苛酷な就職難が発生し、本格的に実害をこうむった1990年代後半から2000年代前半を特にバブル崩壊(2000年のITバブル崩壊も含む)による景気悪化と振り返って捉えている人も多い。

バブル経済時代に土地を担保に行われた融資は、地価の下落によって担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に陥った。また、各事業会社の収益は未曾有の不景気で大きく低下した。こうして銀行が大量に抱え込むことになった不良債権は銀行の経営を悪化させ、大きなツケとして1990年代に残された。

さらに、バブル崩壊後の政治状況は、1992年の東京佐川急便事件に端を発した金丸信の議員辞職、経世会分裂、小沢一郎新生党旗揚げなどの政界再編細川政権誕生による55年体制の崩壊、政治改革、細川首相の電撃辞任、羽田孜の短期政権、さらに、自社さによる村山富市への政権交代など、大混乱の状態であり、政治はバブル崩壊後の経済状況に十分な対応ができなかった。

地価下落・住宅価格下落[編集]

それまで土地神話のもと、決して下落することがない、と言われた地価が下落に転じ、以後、2005年に至るまで、公示価格は下がり続けた。2005年以降は、一部の優良な場所の公示価格が上昇に転じている。

また、バブル崩壊直前に高値で住宅を購入し、以後の価格下落で憂き目を見る例も少なくない。資産価格が下落したにもかかわらず固定資産税が高止まりしたままだったり、バブル崩壊後の低金利へローンを借り替えようとしても担保割れで果たせないなどである。高値で買った同じマンションの別室がバブル崩壊後に破格値で売り出され、資産価値下落の補償を求める訴訟も起こされたが、大半は自己責任として補償を得られずに終わっている。

ベンジャミン・フルフォードは、和佐隆弘(元日経新聞論説委員)の言葉を借りて、1963年当時の自治省が地価の大幅な値上がりに対して、固定資産税の課税上昇率を抑えたために、土地が「最も有利な投資対象」となってしまったことを日本の土地神話ないしバブルの遠因として挙げている[21]

不良債権拡大[編集]

景気が後退し、地価・株価が下落すると共に、従前金融機関が多額の融資をしていた企業の業績も悪化し、返済が順調に行えない企業も出てきた。返済に支障が予想される場合にはリスケジューリングを行ったり、実際に返済が滞った場合には不良債権に区分し直し、引当金を積み増す必要があるが、これは金融機関の会計を圧迫して経営上の自由を奪うと同時に対外的にも信用を損ねるものとして嫌われ、査定に手心を加えて正常債権と見なしたり、追い貸しをして形の上だけでも本来の債務の返済を正常に行わせるなどして、引当金の積み増しを免れると共に自身の経営を健全に見せる弥縫策がしばしば採られた。すぐに景気は回復して損失も回復できると期待し、直ちに債権を処分して損失を処理・確定することを躊躇わせたが、この間も混迷の度合いは深まり、不良債権はその数と額を増して重篤化した。

一方で、外部、殊に海外からは金融機関が不良債権を隠していると映り、日本の金融システムに対する不信感が抱かれた。殊に、日本の会計基準が簿価会計であることが、高値掴みした資産の劣化を隠す手段となり、不良債権隠蔽の温床になっていると指摘し、直ちに時価会計に移行して不良債権を詳らかにし、金融機関の経営状況を公開するように迫った。

大手金融機関の破綻[編集]

政府は当初、大手金融機関は破綻させない、という方針を取っていたが、1995年頃より「市場から退場すべき企業は退場させる」という方針に転じ、不良債権の査定を厳しくして経営状態の悪い金融機関も破綻・再生する処理にかかった。この流れで1995年8月に兵庫銀行が銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次いだ。

とりわけ、1997年から1998年にかけ、北海道拓殖銀行(拓銀)日本長期信用銀行(長銀)日本債券信用銀行(日債銀)山一證券三洋証券など大手金融機関が、不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて倒産し、事態は金融危機の様相を呈した。

拓銀は地価上昇を見越して土地評価額に対して過大な融資を行い、また、バブル期の融資に出遅れて、劣後順位での担保設定を行わざるをえなかったことから回収が思うに任せず、不良債権が膨らみ、1997年11月、営業継続を断念した。

長銀はバブル期に不動産・リース等、新興企業に積極的な融資を行ったが、バブル崩壊後はイ・アイ・イ・インターナショナルへの多額の融資の焦げ付きを中心とする不良債権を抱え経営不振に陥り、1998年10月に制定された金融再生法の下で破綻認定され、国有化された。

日債銀はバブル崩壊で膨らんだ不良債権を飛ばしで処理していたが、1998年12月の金融調査で債務超過と認定され、国有化された。

山一證券は1989年末をピークに株価が下落するのに伴い一任勘定で発生した損失を顧客に引き取らせずに、簿外損失として引き受けて、いずれ株価の上昇で損失が解消するのを待ったが、銀行からの支援を失って1997年11月に自主廃業を選択した(実際には破産宣告を受けて解散)。証券会社にバブル採用された社員たちは、入社数年で会社が倒産し再就職もままならない状態に陥ったものが多かった。

メインバンク喪失[編集]

上記のように銀行が破綻した場合、当該銀行をメインバンクとしていた企業も倒産の危機に瀕する。貸出枠が縮小して行く中で、他の銀行から改めて融資を受けるのは困難であり、景気全般も悪く好業績も望めない中ではなおさら新たな融資を引き出すことは難しい。結局融資を得られず倒産に至る企業も多かった。

日本長期信用銀行を再生する過程で、同銀行を買収した投資組合は、取引のあった企業を破綻に追い込んで積極的に瑕疵担保条項を活用して利益を確保する行為に出た。その結果、ライフそごう第一ホテル等が破綻し、暴挙との批判を浴びた。

住専破綻[編集]

個人向け融資機能の弱かった金融機関が住宅資金需要に応えて設立した住宅金融専門会社(住専)であるが、バブル期前後には、金融機関自身が住宅ローン市場に参入し、住専は本来のターゲットである住宅ローン以外の不動産事業に傾斜した。優良な債権を銀行等が占有したため、住専はリスクの大きい物件に傾斜せざるを得なかったとの指摘もある。

バブル崩壊後は融資先が破綻するケースに加え、担保としていた土地も値下がりして融資の回収が見込めない不良債権が増加し、住専7社のうち6社は破綻した。破綻に際しては、住専に多額の資金を融資していた農林系金融機関や銀行を保護するために公的資金が注入された(詳細は住宅金融専門会社を参照)。

一方、案件として小粒であり従来は銀行から重視されていなかった個人相手の住宅ローンが、バブル崩壊後の不況期の中ではリスクが低いことから注目を浴び、それに注力する銀行も出てきた。

ゼネコン問題[編集]

バブル崩壊に伴う事業の縮小、経営不振に加えて、プロジェクトにかかる代金支払いの保証をしていたことから、一気に負債額が増加し、経営悪化が表面化したゼネコンが多数あった。ゼネコンの破綻は雇用不安につながり社会の不利益となるので公的資金を投入して救済すべきとする意見が出る一方で、従前の経営の難点を指摘して市場から退場すべき企業は退場させるべしとする論調も声高になされた。また、下請けの会社が大手ゼネコンから仕事を受注するに際して、従前は手形払い等、信用を前提にした決済を行っていたものを、現金払いで決済するよう要求することもあった。

BIS規制[編集]

1988年に公表されたBIS規制は日本では移行措置のあと、1992年度末から本格適用されることになっていた。この規制の適用に際して、金融機関はそれまで大きく広げていた貸し出し枠を自己資本比率を満たすよう縮小する必要に迫られた。

さらに、株価の低迷が追い打ちを掛けた。安定株主の形成にも役立つことから、日本の銀行が取引のある会社の株を持つことが普通に行われていた。ところがBIS規制では、所有する株も自己資本として算入されることから、バブル崩壊後の株価低迷で所有する資産が目減りし、それだけ貸出枠も縮小した。

なお、国際業務を行う金融機関の自己資本比率の基準として8%が示されたが、BIS そのものでは、国内業務に限った場合などの個別の規定を設けておらず、日本では国内の業務に限る金融機関は4%で良いとした。経営状況を勘案して、海外から撤退して業務を国内に限る邦銀もあった。

貸し剥がし・貸し渋り[編集]

金融機関が、経営に問題がない企業に対しても貸し出しに慎重になり、新たな融資を断ることを「貸し渋り」。既存の融資を引き揚げたりすることを「貸し剥がし」という。

総量規制に加えて、BIS規制、株価の下落が、金融機関の貸出枠に枷をはめて、金融機関はそれまで大きく広げていた貸し出し枠を自己資本比率を満たすよう縮小する必要に迫られた。これに応じて、過剰に貸し付けていた融資を、半ば強引とも見える手法で引き上げる貸し剥がしも頻発し、景気の悪化に輪をかけた。

突然に全額一括返済を求めるほかに、それまで定常的に融資を繰り返してきたものを一方的に停止するのをはじめとして、「今後も融資を継続するために」「内部処理の都合で」「新規・追加融資を纏めて一つの枠にするために」などの説明をもって融資を一旦引き上げたところで前言を翻して融資に応じない、などである。貸し剥がしにより運転資金を絶たれて倒産に追い込まれる企業も続出した。

融資の約束を反故にされたとして訴訟に持ち込んでも、多くの場合は次の融資は口約束でなされるため、決定的証拠に欠け、また、銀行の融資の判断が優先されることが大半で、結局泣き寝入りするケースが多い。その他に、故なく、あるいは些細な理由をもって預金と融資を相殺して引き揚げる、など借り手側から見て強引な手法が採られることもあった。また、新規の融資にも消極的な姿勢を示し、貸し渋りとの批判もあった。

ただし、銀行に融資を申し込んで断られるとすぐに貸し渋りだという企業経営者が多いが、財務内容が悪かったり、過去に会社が倒産し保証協会が求償権を持っていたりするような場合に融資ができないことをもって貸し渋りだというのは早計である。

貸し渋りというのはあくまで、健全で財務内容に問題のない企業が、一方的な金融機関の都合で融資を受けられない状態のことをいう。

引当金[編集]

金融機関では融資先の中に不良債権と区分されるものが増えるに従い、引当金(貸倒引当金)を積み増す必要に迫られた。収益の中から、引当金として確保するべき部分が増えるに伴い、金融機関の経営を圧迫した。

金融庁の発足と、金融検査マニュアルによる金融機関検査の厳格化により、いっそう貸倒引当金を積みます必要性が増大した。

尚、景気の回復に伴い不良債権であったものが正常債権に区分される様になると、これらの引当金は利益に組み入れられ、2005年以降の銀行の利益拡大の一因となっている。

格付け引き下げ[編集]

バブル崩壊後、金融不安が拡大すると同時に、邦銀、日本の企業、そして、日本国債に対する、いわゆる格付けも順次引き下げられた。その都度、国内からこれらの評価が不適切であるとの抗議の声が出された。

ジャパン・プレミアム[編集]

上記の格付け引き下げも相俟って、日本の金融システムに対する信用が落ち、邦銀が海外で資金を調達する際に、通常に較べて高い利率を要求された。相手が邦銀であることを理由に積み増す利率は、ジャパン・プレミアムと呼ばれ、1997年秋や1998年秋に上昇し最大で約1%に達したが、1999年には低下していき、2000年になると、この積み増しはほぼゼロとなった。

日本国外からの撤退[編集]

かつて日本国外の不動産や資産、企業を購入して進出していた企業が、本業の業績悪化に伴い、撤退を余儀なくされた。前述の三菱地所は、ロックフェラー・センターの主要部分を、買収時価額を大幅に下回る価額で手放さざるを得ず、大きな損失を出して撤退した。

雇用の抑制[編集]

リクルートワークス調査によれば、大学卒業者に対する求人数はバブル景気崩壊の1991年(約84万人)をピークに1997年(約39万人)まで減少した。その後は増加している。

終身雇用が重視されていた当時の風潮の下では在籍している社員を解雇するのが困難だったために、過剰人員を削減する手段を新規採用の抑制に求めたことがその大きな理由である。この時期は人口が多い第二次ベビーブーム世代が就職する時期に重なったために、競争が激化して就職が極めて困難になった。俗に言う就職氷河期の到来である。就職できなかった多くの若者はフリーターニートとなり、就職氷河期世代と呼ばれ、彼らの生活・雇用の不安定さ、社会保障の負担が充分できずにセーフティーネットから外れ困窮する状態に陥るなど、大きな社会問題となっている。

このため、2000年代の初頭には記録的な就職氷河期となり、大手企業の「若干名採用」「採用ゼロ」も珍しくなかった。失業率は、1999年頃からは経営の悪化からリストラを名目とした大規模な解雇も頻発するようになり、戦後最悪を記録し全国平均で5パーセントを超えるに至った。中途採用については、抑制がピークに達した1999年には有効求人倍率が0.5倍を割り込んだ。

特に、バブル直前期に民営化された電電公社(現NTT)や日本国有鉄道(現JR)などは、法律によって新規採用ができず、再開された後も余剰人員の削減のためにまとまった退職者が出るまで採用の抑制が行われた。その結果、採用を抑えられた時期に入社した世代とその上の世代では社員の数に極端な差が生じることになり、各社の社員の年齢構成はいびつな状況となった。

また学歴神話の崩壊により、バブル崩壊以前は、一定の水準の評価を受けている大学を卒業していれば、その大学に見合った就職先が事実上保障されていたといっても過言ではなかったが、極端な採用抑制のために難関大学の卒業生でさえ非常に困難な就職活動を強いられた(学歴難民)。また、本来であれば採用した新卒に対し、企業内で一定の期間教育を施して戦力として育て上げ、それから現場で業務に就かせることが普通であるが、業績の悪化を受けて教育の余裕もなくなり、新卒に対して「即戦力」たる能力を求める風潮が2014年現在でも大半の企業で続いている。1990年代から2000年代に段階的に進んだグローバル化と、それに伴う国際競争の激化も、こうした風潮に拍車をかけている。

公務員人気[編集]

この時期は一転して公務員の人気が非常に高くなった。民間企業の倒産やリストラが相次ぎ新規採用が絞られるなか、「景気の動向に左右されにくい」という公務員の特徴がバブル期とは全く逆の捉えられ方をされ、その堅実性から公務員を希望する学生が増加した。他方で長引く不況下でも失業の心配がほとんど無く、地方公務員に限っては収入減少の憂き目にも遭わず、年金社会保険など福利厚生も充実した公務員が、民間と比べて優遇されていると批判する世論も高まっていった。

堅実な公務員職を希望する学生が増加する一方で、不況に伴う税収減少をうけた財政難や、公務員改革に伴う人員削減の影響で地方公共団体は新規採用を縮小したため、公務員は非常に狭き門と化した。あまりの就職難のために、大卒者(特に中堅校以下の大卒者)がその学歴を隠し、高卒(あるいは短大卒)の採用枠で公務員に採用された例もあり、2000年代半ば以降神戸市大阪市、さらには横浜市などで次々と同様の行為が発覚して問題となっている。

一時的な雇用情勢回復[編集]

2003年頃からようやく景気が回復基調に転じた頃、企業を長らく支えてきた団塊の世代一斉退職が目前に迫っていた。本来であれば中堅社員や若手社員が団塊の世代の持つ経験や技術を受け継ぐ立場にあったが、長期に渡る採用抑制のために多くの企業で20~30代半ばの社員が極端に少なく、人員の年代構成が歪んでいるため継承が円滑に行われる状況になかった。このため企業は急いで人員の確保に走り、2005年度(2006年春入社予定者)には新卒の求人総数はバブル景気期と同程度にまで回復し、2006年度~2008年度(2007年春~2009年春入社予定者)の新卒大学生の求人状況は、「バブル景気時以上」といわれるほどの水準に達した。企業全般では深刻な人手不足になっているが、中核となる人材を育てる投資の視点から新卒・第二新卒の獲得に走る一方で、上記の「就職氷河期世代」のフリーターを改めて正社員として雇い入れるには投資の面から非効率的であるとして消極的であった。2006年に発足した安倍晋三政権(第1次安倍内閣)は、こうした世代間の格差拡大の是正の一環として再チャレンジ制度を打ち出したが、制度が定着する前に退陣し、再チャレンジ制度は立ち消えになってしまった(後に2012年に安倍が再登板(第2次安倍内閣)し、再チャレンジ担当大臣の職を復活させている)。

新卒採用の求人が増えた一方で、新卒の大半はその殆どが不景気の日本しか知らずに育っており、それがゆえに大企業志望で、終身雇用を求める保守的かつ安定志向の傾向にあった。また求人数や就職率が改善したのも事実だが、企業は公表した求人数そのままの人数は採用しない(採用人数より質を重視する厳選採用)傾向にあったため、優秀な学生は内定を次々にもらうが、そうでない学生は内定を一つもらうのに苦労する「内定格差」が生じることになった。

こうした「売り手市場」は数年続いたが、世界金融危機が顕在化した2008年秋以降は、バブル崩壊時よりも急激な勢いで求人数が落ち込み、就職氷河期へと逆戻りすることとなった。

アウトソーシング(業務請負・労働者派遣)[編集]

規制緩和の一環として不況下の経費削減、殊に固定費削減のため企業の業務を担う人員や、業務そのものを企業本体から切り離し外部から調達する方法も取られるようになった。

人員
人材派遣業会社から人員を調達して企業の業務に当たらせることで雇用を流動化させた。企業にとって派遣は保険や年金等の社会保障を省略できること、また、定年までの雇用の義務が無いことから、年金に対する負担がないこと、景気に応じて雇用の調整弁として有用なこと、そして、能力に応じた賃金を支払えば良く、年功序列に応じた高賃金の支払いを免れる利点がある。
業務
材料・部材、あるいは製品そのものの製造を外部に委託し、設備投資や固定費用の削減を図る。更に、サーバー管理業務、DM発送業務を委託する事例も増えた。

一方で、これらの供給を行う業務請負会社、人材派遣会社等も成立し、業績を伸ばしてきた。

失われた20年の就職氷河期に曲がりなりにも雇用が確保されたのは、これら非正規雇用による賃金切り下げの効果なのは疑いがない。しかし、2007年現在、その総数は全就業者の1/3を占めるまで増加し、バブル期以上といわれるまでに企業が利益を出しても彼等の待遇は変わらない[22]

何歳になっても、また何年勤めてもいつ解雇されるか判らないため、子供を作るどころか結婚さえするわけにいかない非正規雇用の若者(特に男性)が増加したと言われている。

株持ち合いの解消[編集]

日本では企業間で株を持ち合ったり、銀行が取引のある会社の株を持って安定株主を確保する傾向が強かった。株価上昇時には、この株も含み益をもたらしたが、株価下落に伴い、逆に含み損となって企業の会計を圧迫する負担要因となった。とりわけ銀行が株を所有していたことについては、安全と堅実を旨とすべき金融機関が不安定な資産、いわば博打に資金を投じた、といった批判が寄せられた。

また、各々の銀行について、どこまで日経平均が下がれば所有する株が含み益から含み損に転じるかを調査し、それによって銀行の経営の優劣や健全性を論じることも行われた。また銀行の大半が含み損に転じる日経平均指数を算出し、「そこまで下がることはない」「そこまで下がらなければアク抜けせず株価は反転しない」「そこまで下がったら日本経済は崩壊する」など、各種の意見が出された。

同時に、株を売却し、相互に持ち合う関係を解消する動きも出てきた。これは安定株主の喪失を招き、後に株の買い占めによる乗っ取りなどの事例が増えることに繋がった。株主が次第に存在感を増すようになり、利害関係者の対立を背景に「会社は誰のものか」という議論がなされるようになった。

会社資産売却[編集]

会社の所有する不動産等が、本当に経営に見合うものかを精査する傾向が出てきた。保養地等を売却する動きが出たほか、オフィスをより賃料の安い場所に移して固定費を削減したり、本社ビルを売却して獲得した資金で経営の立て直しを図る会社も現れた。ビルの売却に際して、オフィスは入居したままで、新たな所有者に賃料を支払う形式にする例もある。

土地の評価方法の変化[編集]

それまでは土地神話もあり、土地は単に所有するだけでも資産価値があり、その価値は毀損しないものと思われた。土地の価格の算定にあたっては、取引事例比較法により、今までの取引実績や周辺での土地取引の事例に基づいて値段を決める方法が主だった。バブル崩壊後は、その土地が賃料等で上げる収益を勘案する収益還元法による評価方法も考慮されるようになった。

変額保険[編集]

バブル景気のもとで地価が高騰するに伴い相続税額も膨らみ、いざ不動産を含む相続が発生すると手持ち資金が無く、相続税を払うことができずに困窮する事態もあった。これに備える策の一つとして、借金をして変額保険に加入する手法が、盛んに喧伝された。

保険を投資信託に似た投資勘定で運用することから、株価が上がる状況下では運用益を借入金返済の一助とできるし、保険金額(即ち資産)が増やせ、また、借金と相続資産を相殺して相続税額が抑えられ、さらに払い渡される保険金には別個の控除枠があり相続税の節税にもなるなど、良いことだらけの方法として、銀行から多額の借金をしてでも加入することが勧められた。最盛期には、払い込む保険掛け金を融資する銀行の担当者と、保険契約を結ぶ保険会社の担当者が、連れだって販売に回ることさえあった[23]

バブル崩壊後は不動産の価格が大きく下落すると同時に投資信託が大きな損失を出して受け取れる保険金額が目減りし続ける一方、借金はそっくり残り、場合によっては保険金を含めた全資産がマイナスに転じるなど、契約者を苦況に陥れた。満期時の返戻金額が元本を大きく下回り、手数料も掛かることから解約にも踏み切れず、株価が下がるにつれて見る見る保険金額が減っていくのを目の当たりにして「私が早く死んだ方が良いということか」と問う被保険者に、担当者が「その通りです」と答えた事例も伝えられる。満期時の保険返戻金が、最低額が保証されている死亡保険金を大きく下回った場合には、死亡保険金を獲得するために被保険者が自殺を選択した例もあった。

後に、顧客側からリスクの説明を怠ったとして多くの訴訟が起され、だいたいのケースでは顧客と販売者双方の過失を認めるとともに、販売者側に損害賠償を命じている。

保険会社破綻[編集]

バブル崩壊後の不況を受けて契約の解約が相次いで保険掛け金収入が減少し、また株価低迷を受けて保険金運用実績も思わしくなく、保険会社の経営を圧迫した。バブル期には貯蓄性の高い年金商品を中心に高い予定利率を約束した商品が販売されていたが、資金運用の実績が予定利率を下回る逆ざや状態に陥った。一部の保険会社は最終的に破綻に至り、その顧客の契約が他会社に引き継がれる際には保険金額の削減や予定利率の低減が行われた。また、逆ざや状態をアピールして、保険会社の都合で一方的に予定利率を削減できるスキームを設けることも検討された。

2005年頃からは保険会社による保険金不払い事件保険料過徴収問題なども表面化することになった。

バブルと経済政策[編集]

バブル景気が膨張を続けてしまい、また、バブル崩壊からの脱却に長期間を要した原因については、政府日銀経済政策の失敗が指摘されている。

まず、バブルの発生については先に述べた通り、1985年のプラザ合意による急速な円高に伴うデフレ圧力と金融緩和の長期化予想によって名目金利が大きく低下し、それが貨幣錯覚を通じて土地や株への投資を刺激したこと、また貿易摩擦解消のため国内需要の拡大を国際公約し公共事業の拡大および減税策が採られたこと、が原因とされている。政府は、数次にわたり経済対策を策定し、1987年5月には6兆円を上回る財政措置を伴う「緊急経済対策」をしたが、景気は1986年11月を底に既に回復していたため、景気を刺激し過ぎたという批判がある[24]

第二に、バブルの膨張を抑止できなかった理由として、金融緩和を続け過ぎたことが指摘されている。公定歩合は1987年2月に2.5%に引き下げられ、その後1989年5月までこの水準を維持した。実は1987年9月には日銀の理事たちは利上げに踏み切る方針を確認していたが、10月19日のブラックマンデーによる世界的な株価の下落があり、利上げが見送られた[24]。金融緩和が続けられた国内の要因としては、第一に、政府が財政再建のために赤字国債からの脱却を目指しており、金融政策による景気刺激を求める政治的な圧力があったことがある。第二には、大幅な経常収支の黒字を背景とした円高圧力があったことから、金融緩和によって円高を回避しようという政府・与党などからの圧力があったことが指摘できる。急激な円高に苦しむ輸出企業の体力を強化するためにも金融政策は緩和的であるべきという認識もあった。この反省から、1997年に日銀法は改正されて、日本銀行の独立性が高められた。

しかしバブル膨張は金融政策のみによるものではない。政府は、国際化によって東京のオフィス需要が急拡大して、オフィスが不足するという試算を発表してバブル期の不動産投資をさらに過熱させた。財政面でも、国の公共投資は抑制されたが、好景気によって税収が増加した地方自治体では地方単独事業の増加が見られ、これも景気を刺激することになった。地方単独事業の増加には、国の財政赤字を抑制するために地方単独事業の増加を歓迎していたという背景もある。また、地価の上昇局面でも、国鉄清算事業団の未利用地販売に際しては「地価の高騰を煽る」として売却が凍結されて、逆に土地の飢餓感が煽られて地価の上昇を招いたという側面がある。そして、地価の上昇によって住宅取得が困難となり国民からは政府に対する非難が高まったことが、不動産融資の総量規制に繋がり急速な地価の下落を招いたという批判がある。こうした地価に関する政策的な失敗は、マスコミや国民の感情的な批判に政府が冷静に対応できなかったという問題と見ることができるだろう。

バブル崩壊後の対応では、初期の金融政策や財政政策による景気刺激が小規模であったことが指摘できよう。公共事業による景気刺激がその後の財政赤字の拡大を招いたという批判は多いが、当初の経済対策は財政資金の投入は少なく、対策を小出しにしたことが次第に大規模な財政刺激が必要となった一因と考えられる。また日銀は1991年7月に公定歩合を0.5%引き下げたが、その後の金融緩和の速度が遅かったと考えられている。これらの政策は外国から "Too little, too late"(政策規模が小さすぎ、実行が遅すぎ、そのため効果的な政策ではない)と批判された。

銀行など金融機関の不良債権問題が深刻となって以降は、早期に財政資金を投入して破綻した金融機関の救済を行うべきであったと考えられている。しかしこの問題でも、住専処理に6850億円の資金を投入するという政府の1996年度予算案に対して、マスコミなどは金融機関に失敗の責任を取らせずに救済のために税金を投入すべきではないなど強く反発することとなり、国会も混乱した。後から数十兆円の資金が投入されることになったことを考えれば、早期に公的資金の注入ができれば問題の拡大を抑制でき、結局は国民の負担も少なくて済んだのではないかという見方も多い。こうした反省から、世界同時不況の際には、金融機関にいち早く公的資金を投入するように日本が世界に働きかけた。

バブル崩壊後の低迷からの脱却局面では、景気の回復傾向が見られた際に、財政、金融による景気刺激的政策から景気抑制的政策への転換を早く行いすぎるという失敗を繰り返した。最初の失敗は財政政策の失敗である。1993年10月を底に景気は回復するが、政府は財政赤字の縮小を急ぎ、1997年4月から消費税率を2%引上げ、2兆円の特別減税を廃止するなど、約9兆円の負担増を実施した。ところが、同年にはアジア通貨危機が発生したことや、年末には金融機関の経営破綻が続いたことなどから、景気は極端に悪化することになった。二度目は金融政策の失敗である。アジア通貨危機の混乱が収まると、1999年1月を底に景気は回復しはじめ、日銀は政府の反対を押し切って2000年8月にゼロ金利政策を解除した。しかし、米国でITバブルが崩壊すると輸出の鈍化から2000年11月をピークに景気は急速に悪化し、2001年3月には再び実質的にゼロ金利政策に戻らざるを得なくなった。同時により金融緩和的な量的金融緩和政策の導入を余儀なくされた。

バブルを象徴する企業、事件など[編集]

事件[編集]

人物[編集]

その他[編集]

バブルを描いた娯楽作品など[編集]

当時制作され、時代の空気を反映している作品[編集]

映画
テレビドラマ
テレビの情報番組
漫画
  • 美味しんぼ雁屋哲原作、花咲アキラ作画)- 連載は現在も続いているが、バブル景気時代にはアニメ化も実現し、人気のピークであった。
  • りびんぐゲーム(漫画・星里もちる)- バブル景気の厳しい住宅事情を描いたコメディ漫画。雑誌連載中にバブルが崩壊したので、作者はストーリーを大幅に修正しなければならなくなった。
小説
  • 極東セレナーデ小林信彦) - 朝日新聞連載小説(1986年1月〜1987年1月)。平凡な20歳の女性(失業中)が、幸運を掴みショービジネスの仕事でニューヨークに進出する。当時は1ドルが150〜200円だったので[25]、好景気ではあっても海外旅行は今よりも高嶺の花であった。1992年に「ウーマンドリーム」としてドラマ化。
楽曲

バブル崩壊後の時代に製作されたもの[編集]

バブルを描いた書籍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ [http://www.esri.go.jp/jp/others/kanko_sbubble/analysis_01_05.pdf 内閣府 経済社会総合研究所 わが国のバブル期以降の経済の見通し・景気判断と経済政策 北坂真一 156頁
  2. ^ [http://www.esri.go.jp/jp/others/kanko_sbubble/analysis_01_05.pdf 内閣府 経済社会総合研究所 わが国のバブル期以降の経済の見通し・景気判断と経済政策 北坂真一 129頁
  3. ^ バブル時代を象徴するディスコは1989年11月オープンの芝浦ゴールドと、その頃の高級ディスコブームを牽引していたマハラジャだった。
  4. ^ 「バブル崩壊と失われた10年」(奈良産業大学経済学部講師 山本英司)によると、地価のピークは1991年9月であり、同年5月の段階ではまだはっきりバブルが崩壊したとは言い切れない[1]
  5. ^ 本格的にインターネットが普及したのはウインドウズ95リリース後、ブラウザ戦争が勃発した1995年以降。
  6. ^ 野口悠紀雄 『戦後日本経済史』 新潮社〈新潮選書〉、2008年ISBN 9784106035968 
  7. ^ 日本銀行の金融政策(1984年~1989年)-プラザ合意と「バブル」の生成-, 黒田晃生, 明治大学社会科学研究所紀要
  8. ^ 最近における短期金融市場の動向について, 日本銀行調査月報:1986年2月号
  9. ^ 消費者物価指数 (CPI), 総務省
  10. ^ 香西泰; 白川方明; 翁邦雄 『バブルと金融政策 :日本の経験と教訓』 日本経済新聞社、2001年ISBN 453213224X 
  11. ^ プラザ合意と円高、バブル景気, 中澤正彦・吉田有祐・吉川浩史, 財務総合政策研究所
  12. ^ サラリーマンが購入できる住宅の価格は年収の5倍と言われ、首都圏では、その様な地域は山梨にまで遠ざかった
  13. ^ 1986年に遺書を残して生徒が自殺した中野富士見中学いじめ自殺事件が起きた。葬式ごっこを行い教師3人も色紙に寄せ書きしていたことから、メディアが注目した最初のいじめ自殺事件になった。
  14. ^ 『「まじめ」の崩壊―平成日本の若者たち』(サイマル出版会、1991年)。
  15. ^ 噂の真相」は「タカ派精神科医小田晋」(1997年7月号)において、「小学生時代はいじめられっ子で、青春時代は精神医学研究に明け暮れ、初体験は40過ぎまで叶わなかった。」などの小田氏の生育歴に触れた上で、「そういう小田氏は自分のことを何て診断するのだろうか。」「甲高い声でこういうだろう。『オタッキーの典型的なパターンです。』と。」として、そんな彼もオタクの枠に入るのではと疑問を呈した。
  16. ^ TM NETWORK小室哲哉がプロデュースしたヤマハ・EOSシリーズなど。
  17. ^ 『フェラーリを1000台売った男』榎本修・著 清水草一・編 ロコモーションパブリッシング刊
  18. ^ 携帯電話は当時殆ど普及しておらず、まともな収入がない学生が手にすることは不可能であった。
  19. ^ [2]公示地価データ
  20. ^ 就職率文科省
  21. ^ 『まんが 八百長経済大国の最期』 (ベンジャミン・フルフォード, 光文社ペーパーバックス, 2004年)
  22. ^ 利益を上げても「(国際)競争力の確保」を名目・大義名分として、人材・設備への投資を極力行わず、株主への配当もせず、結果として内部留保がひたすらに積み上げられていく企業さえ見られる
  23. ^ 当時の法律では銀行・保険・証券の間で業務の範囲が厳密に峻別され、銀行が顧客の保険契約にかかわることは戒められた。
  24. ^ a b 朝日新聞、2010年3月23日、東京版夕刊、9面。
  25. ^ プラザ合意と円高、バブル景気 財務省広報誌「ファイナンス」2011年10月

関連項目[編集]