サンフレッチェ広島F.C

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サンフレッチェ広島F.C
原語表記 サンフレッチェ広島F.C[1]
呼称 サンフレッチェ広島[2]
愛称 サンフレッチェ、サンフ、サンフレ、熊
クラブカラー    [2]
創設年 1938年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン1
クラブライセンス J1
ホームタウン 広島県広島市[2]
ホームスタジアム 広島ビッグアーチ01.jpg
エディオンスタジアム広島[2]
収容人数 50,000[2]
運営法人 株式会社サンフレッチェ広島[2]
代表者 小谷野薫[2]
監督 日本の旗 森保一
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
Nuvola apps kview.svg 画像外部リンク
エンブレム
Searchtool.svg en:file:SanfrecceHiroshima.png現エンブレム
Searchtool.svg en:file:SanfreeceHiroshima.png旧エンブレム

サンフレッチェ広島F.C(サンフレッチェ ひろしま エフ・シー、: Sanfrecce Hiroshima F.C)は、広島県広島市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。呼称はサンフレッチェ広島である。なお、以下特記なき場合は「サンフレッチェ広島」と記す。

概要[編集]

株式会社サンフレッチェ広島[3]
Sanfrecce Hiroshima FC Co., Ltd.[注 1]
種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 S.FC
本社所在地 733-0036
広島市西区観音新町四丁目10番2号[2][3]
(旧広島西飛行場ターミナルビル1階)
広島西飛行場01.jpg
設立 1992年4月24日
業種 サービス業
事業内容 プロサッカークラブの運営[3]
代表者 取締役会長 久保允誉
代表取締役社長 小谷野薫
資本金 2億2,030万500円[7]
売上高 31億9,800万円 (2014年1月期)[8]
営業利益 1億2,600万円 (2014年1月期)[8]
経常利益 1億4,700万円 (2014年1月期)[8]
純利益 1億3,000万円 (2014年1月期)[8]
純資産 6億2,500万円 (2014年1月期)[8]
総資産 11億3,400万円 (2014年1月期)[8]
従業員数 42人 (2013年12月現在)[3]
主要株主 エディオン 46.96%、マツダ 16.67%、中国電力 3.42%、広島銀行 2.99%、広島県 2.50%、広島市 2.50% 含め64株主[7]
関係する人物 竹下虎之助(広島県(公選5代)知事)
古田徳昌(マツダ7代社長)
久保允誉(旧デオデオ2代目社長)
特記事項:取締役会長の久保允誉はエディオン社長を兼務。
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1991年Jリーグ加盟(オリジナル10のひとつ)。前身は自動車メーカー・マツダ(旧・東洋工業)のサッカー部であるマツダサッカークラブ

運営会社は株式会社サンフレッチェ広島(1992年4月設立)であり、設立当初はマツダ系の、近年は家電量販店エディオン(旧デオデオ)系の人物が社長に就任している。なお2012年6月現在、株式会社サンフレッチェ広島を、エディオンおよびマツダは共に「関連会社」として有価証券報告書に記載している。

クラブ名称の「サンフレッチェ」は、日本語の「三」およびイタリア語で矢を意味する「フレッチェ(frecce(複数形)」を合わせたもので、戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる[2]。クラブスローガンは、「WE FIGHT TOGETHER 一丸」。

チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ[2] とサンチェの彼女として2000年に誕生した「フレッチェ」[2]。2013年9月には、第3のキャラクターとして社長の小谷野をモデルとした「こやのん」が誕生している(Jリーグ未公認のため公式なマスコットではない)。

チームエンブレム2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)[9]

ホームスタジアムはエディオンスタジアム広島[2]、練習場は安芸高田市吉田サッカー公園[2] である。なお、試合前や天候などの理由によりEスタやその隣の補助競技場を利用している。詳細はスタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。

なお、育成組織についてはサンフレッチェ広島F.Cの育成組織を参照のこと。

グッズ・チケット等は広島市中区エディオン広島本店にあるV-point、あるいはオフィシャルネットショップ「e-Vpoint」で購入できる。

歴史[編集]

前史(マツダ時代)[編集]

1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると、JSL2部へ2度降格した。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更[注 2]1982年今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した[10][11]

低迷の原因が地方のハンデキャップによる有力新人獲得の不足[注 3]と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った[10]。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた[12]サンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた[13][14]。ここで確立されたさまざまな方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている[15][16]

すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた[11][17]

Jリーグ創設前夜[編集]

プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。西日本では兵庫県以西で唯一、中国地方唯一の参加となった[18][19]

同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた[20](チーム名やチームカラー決定経緯については下記記録・出来事内の「チーム名」項を参照)。

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)・中国電力広島銀行など59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階[20] に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため[19]、地元企業を中心に出資団体を募った[18]

また、Jリーグ開幕に向けマツダSCは東欧北欧へ遠征し当地のクラブチームと強化試合を行った。そこでハルムスタッズBK監督だったスチュワート・バクスターサッカーチェコスロバキア代表選手達と出会い、スカウトすることになる[11][21]

1992年 - 1994年(バクスター時代)[編集]

バクスター

1992年、バクスターが監督に就任。イワン・ハシェックパベル・チェルニー盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

クラブにおけるJリーグ初ゴールは風間によるものであり、これはJリーグにおける日本人初ゴールでもある[22]

当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン松田浩望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍し、1994年にサントリーシリーズで初優勝を果たした[21][23]

この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏佐藤康之柳本啓成森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを浅くとり裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった[24]。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神が魅力のチームだった[11][23]

しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり[11]、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり[16]トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下[21] していった。その結果、JリーグチャンピオンシップではV川崎に敗戦し、年間優勝には届かなかった。

バクスターは得点力アップのためミカエル・ラウドルップ補強を要請したものの、クラブは高い年俸および移籍金がかかるため難色を示し、結果クラブはバクスターを諦めた[16][21]

1995年 - 1996年(ヤンセン時代)[編集]

ヤンセン

チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦[11]オランダ人のビム・ヤンセンが監督に就任した[16]。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の信藤整の社長就任が決定した。

ジョン・ファンルーンピーター・ハウストラサントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視[25] し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した[26]。しかしあまりにも変わりすぎたためほとんどの選手はついていけず、リーグ年間52試合という過酷な日程の中、主力の高木・森保はケガから満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った[11][25][26]。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。リーグでは不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。

前年度優勝したことにより総年俸が上がり人件費が増加するものの、当年度は成績低迷により観客動員が減少し、クラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出した[11][16]。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して更に観客動員低下につながって行った[27]

その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義笛真人森秀昭久保竜彦ら若手を積極的に起用した[28]。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。

クラブ側は契約延長を望んだものの、ヤンセンは自身の了解なく次々と選手を放出するクラブに嫌気がさし退団した[11]

1997年 - 2000年(トムソン時代)[編集]

1996年ごろのJリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め[29]、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた[16]1997年バルセロナ五輪で名を上げたスコットランド人エディ・トムソンが監督就任する[30]

同年末、クラブ経営難はピークに達し、筆頭株主でありメインスポンサーであるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中でありフォード自体も資金補充には否定的であったことから、クラブは経営危機に陥る[29][31][32]。経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった[20][33][34]。結果、高木・森保・路木(以上1997年末)、柳本(1998年末)と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの[34]、森保だけが完全から期限付き移籍に変わった[35] のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった[27]

そこへ、官民のトップで経営改善の話し合いが行われ[29]、その中で家電量販店のデオデオの介入が決定、1998年6月の取締役会で久保允誉の社長就任が決定した[34]。久保社長のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。

一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税沢田謙太郎伊藤哲也吉田康弘山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦・下田崇服部公太高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルドアウレリオ・ヴィドマートニー・ポポヴィッチハイデン・フォックススティーブ・コリカら外国人選手も補強した。

トムソン就任当初は主力にケガ人が続出し、更に財政難からまともに戦力が整わなかったため、5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開した。オズワルド・アルディレス(当時清水監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」[36] と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた[34]

就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成[37]。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破[37][38]。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ[37]。翌2000年、さらなる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた[39][40]。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった[40]

2001年(ヴァレリー時代)[編集]

ヴァレリー

4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブは今後地方のクラブが生き残る手段として、アカデミー含めたクラブ全体のサッカースタイルをより攻撃的で魅力的なものへと目指すことを決め、以降攻撃趣向のある監督選びをすることになる[41]

その中で、韓国Kリーグでその攻撃サッカーが評判になったロシアヴァレリー・ニポムニシ[42] を監督招聘する[41]。当時Jリーグで唯一3トップを採用し[43]、久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った[44][45]

残留に向けオレグ・パシニンセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した[41]。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功する。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した1994年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった[46][47]

ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任[注 4]した[41][51]。この際、ヴァレリーが新監督に推薦[52] したロシア人ガジ・ガジエフをクラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった[53]

2002年(ガジエフ/木村/小野時代)[編集]

ガジエフ

2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」と放出した[53]。戦術が定まらずチームはバラバラのまま[54]、更にはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい[55]、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村のケガで急遽獲得したミシェル・パンセ・ビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。同年7月、ガジエフは自身の親族の急病を理由[56] に帰国、事実上解任となった。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった[52][54]

同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格するかたちで監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった[57]。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷する[58]。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になる[59]。しかし結果的には勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。

同年12月、責任を取って木村は辞任した[60]。後任に小野が監督に昇格し、「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という「3ヵ年計画」をうちだした[61]。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。

同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ[62]、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治ゼネラルマネージャーに就任した。

2003年 - 2006年(小野時代)[編集]

小野が監督に就任した以降の約3年間、「3年でJ1優勝争い」を合言葉にチームは積極的な戦力入れ替えを展開する。J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本主税の二人は移籍してしまう一方で、古くからチームを支えた上村健一や桑原裕義・高橋泰などベテランや中堅の選手を多数放出する。その代わりに、佐藤寿人茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たちや、他で実績のある小村徳男戸田和幸盛田剛平らのベテラン、セザール・サンパイオリカルドベットジニーニョウェズレイのブラジル人達を補強し、同時期に台頭した広島ユース[63] から高萩洋次郎前田俊介高柳一誠などを高校生Jリーガーとして起用し、森崎兄弟と駒野を中心としたチーム作りを行った。

2003年のJ2では、開幕から11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走したが、次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、1年でJ1昇格を決める(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)[64][65]。J1復帰の2004年、チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまう[66][67]

2005年、前年から起用してきた若手に補強組が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上するも、その後は下田崇の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた[68][69]。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁を誇り[70]、佐藤寿は久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取りJ1日本人得点王にも輝いている[71]

同年には駒野が東アジアサッカー選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。

2006年、より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した[72][73]

2006年 - 2007年(望月/ペトロヴィッチ時代)[編集]

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ペトロヴィッチ
Searchtool.svg en:file:Sanfrecce hiroshima-20100620-michael-petrovic-1.jpg

後任に、GKコーチの望月一頼ドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任する[72][74]。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿人の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫いたことで、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリアミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した[72][75][76]

新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人(ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点)で叩き出した。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した[72][76][77]

また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。

2007年、前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった[78]。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった[79]。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権[注 5]の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、DFラインの選手が途中まで定まらなかったこともあり守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した[81][82]

これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定する[83]。同年の天皇杯はこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した[81]

同年末、J2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の本谷祐一が社長に新任、会長と社長を残し全ての常任取締役は退任した[80]。また、降格原因の一つとなったフロント陣の編成を改め、今まで久保がエディオンの社業と兼任していたクラブ社長業を、本谷がクラブ専任で行うこととなった[84]

2008年 - 2011年 (ペトロヴィッチ時代)[編集]

2010年ナビスコカップ決勝時のサンフレッチェ広島サポーターによるコレオグラフィー

2008年、降格によりウェズレイおよび駒野友一は退団したものの、監督留任によりほとんどの主力が残留し結果として戦力維持に成功し、さらに久保竜彦が6年ぶりに復帰する。同年3月のゼロックス・スーパーカップ[注 6]で、PK戦の末、鹿島に勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。またリーグ戦でも、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目の「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した[81][83]

2008年以降のペトロヴィッチ時代の広島は、主力に常にケガ人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなったものの、戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・高萩洋次郎森脇良太佐藤昭大槙野智章中林洋次など若手が台頭した[81][83]。さらに、それまでJリーグ独自で規定されていた移籍金制度が2009年をもって撤廃されたこと[85] がチームに大きく影響した。選手はチームとの契約期間満了により移籍金ゼロで移籍できることから選手の移動が活発となり、北京五輪U-23代表(西川周作水本裕貴李忠成)や、ペトロヴィッチと同様の戦術に慣れていたオシムチルドレン[86]中島浩司山岸智・水本など)を移籍金ゼロあるいは従来より安い移籍金で獲得し選手層の厚みにつなげる一方で、柏木や槙野・李や佐藤昭や中林は移籍していった。外国人選手はそれまでのブラジル路線から、ミハエル・ミキッチダビド・ムジリなど東ヨーロッパ系の選手を中心に獲得するようになった。

J1復帰の2009年、熟成したチーム戦術で躍進し、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位で終えた。また天皇杯の結果により繰り上がりで翌年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)への出場権[注 7]を獲得し、前身大会を含めればアジアクラブ選手権1969出場以来41年ぶり2回目、チャンピオンズリーグ発足以後では初出場となった[87][88]

2009年のJ1復帰後3年連続でJ1リーグ7位以内に入り、タイトル争いに絡む成績を残したものの、リーグ戦やACL2010やJリーグカップ決勝や天皇杯早期敗退と、肝心なところで勝負弱さが露呈した[89]。ペトロヴィッチは信頼する主力を使い続けたことにより、夏場はコンディションが低下、得点は奪えるものの失点が減ることはなかった[89]。ただ、組織的で攻撃的なサッカーや、J2でチームを熟成させJ1に復帰し以降の躍進は、チーム作りの好例として評価された[90][91]。J2に降格しながら監督を代えなかった判断をした広島フロントは賞賛され[83]、これ以降他のJ2降格チームも監督を留任するケースが出てきた。

経営改革[編集]

2012年にプロクラブ創設から20周年を迎えたが過去19年で20億円を超える累積赤字を出してしまい、その中で2013年から始まるクラブライセンス制度に対応するため、資本金約21億円を99%減資し累積赤字解消にあて、更に約2億円の第三者割当増資を行うことになった[92]

2012年5月、すべての手続が完了した[7]。資本金は21億1005万円から2億2030万500円、株主数は58から64[7]。なお、広島県・広島市および安芸高田市の3自治体を含め従来の58株主はすべて減資に応じ、35株主が増資に応じている[7][93]

減資を受け入れた株主に対し、クラブは経営改善の努力を行った。まず2011年末、長年監督としてチームを作り上げたものの高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念し[94][95]、ムジリや服部公太・盛田剛平などベテラン勢を中心に構想外とし契約更新選手も減俸や微増に止め年俸総額を抑えていった[96]。更に2012年末、減資の責任を取る形で社長の本谷祐一が退任し、エディオン顧問の小谷野薫が新社長に就任した[97]

2012年 - (森保時代)[編集]

ペトロヴィッチとの契約を断念したチームは、彼のサッカーを継承および調整し、現状のクラブ方針を把握している広島OBを登用することになり、その中で森保一の名前が挙がることになった[98][99]。森保は3年ぶりの広島復帰で、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった[98][99]。また、以降数年は経営改善のため積極的な補強を行えないことから、さらには独特なサッカースタイルを用いていることから他チームからの戦力補充が容易にできなくなったこともあり、手薄なところをピンポイント補強あるいは最悪の場合は現役ユース生を高校生Jリーガーとして登用する方針で進んでいく[100]

2012年11月24日、第33節のC大阪戦に勝利し、1試合を残して[101] クラブ史上初となるJ1年間総合優勝を決めた[102]。なお、2008年にはJ2で年間優勝しているため、前年のに続いてJ1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを持つクラブとなった。また、オリジナル10の中で3大タイトルのいずれもを取っていないチームはなくなったことになる。 FIFAクラブワールドカップ(CWC)は、初戦でオークランド・シティに勝利。準々決勝でアルアハリに敗退したが、5位決定戦で蔚山現代FCに勝利して5位の成績。その一方で天皇杯では、初戦(2回戦)でFC今治四国リーグ)に1-2で敗れた[103]

2013年、AFCチャンピオンズリーグで、Jリーグ王者としては7シーズンぶりにグループステージ敗退。しかも、ホームアンドアウェー制となった2004年以降では日本サッカー史上初(厳密には2006年のACL東京ヴェルディ1969以来2チーム目[104])のグループステージ勝利なしという不名誉な記録も付いたのだった。

J1リーグ戦ではACLでの不調も響き、コンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断時点では、首位大宮と勝点差8、ACL圏内となる3位の横浜FMとは勝点差3の5位となる。リーグ戦再開直後から5連勝し、前半戦最後となる第17節終了時には大宮と勝点で並び得失点差で首位に立つが、第21節名古屋戦での引き分けを期に、3連敗を含む5試合勝利なしとなり、一旦3位まで順位を下げる。第26節から3連勝し再び首位に立つも、第29節、横浜FMとの直接対決に敗れ、横浜FMと同節で勝利した浦和に抜かれ再び3位に降格。第33節湘南戦の勝利で2位に再浮上し、優勝するには勝利が絶対条件となる最終節アウェーで、森保就任前まではやられっ放し、かつカシマスタジアムでのJ1シーズンホーム最終戦で1998年から15シーズン負けなし(14勝1分)と「難攻不落」だった鹿島[105]に2-0で勝ち、前節まで首位にいた横浜FMが川崎に0-1と敗れたため、劇的な逆転で2年連続優勝を飾った[106]

同年の天皇杯は、2008年以来となる6年ぶりの決勝に進出したが、決勝ではリーグ戦で優勝を争った横浜FM[107]に0-2で敗れ、東洋工業時代を含めて決勝戦8連敗(Jリーグ発足後だけでも5連敗)となり、またしてもジンクスを破る事が出来なかった。

2014年は、リーグ連覇に貢献した西川が浦和に移籍してしまうものの、仙台から林卓人が10年ぶりの復帰となったほか、甲府より柏好文が複数クラブとの争奪戦を制し獲得、徳島より柴崎晃誠を獲得した。Jリーグ王者として挑んだシーズンの開幕を告げるゼロックススーパーカップでは2-0で横浜FMに快勝し、公式戦では森保就任後初めて横浜FMに勝利した。そして2014年のAFCチャンピオンズリーグでは、アウェーこそ全く勝てなかったものの、前年の準優勝チーム・FCソウルをホームで迎えた第3節で森保就任後ACL初勝利。最終節も勝利し、3回目の挑戦にしてクラブ史上初のグループリーグ突破を果たした。決勝トーナメントでは、当時小野伸二が所属していたウェスタン・シドニーと対戦。第1戦は3-1で快勝したものの、第2戦は第1戦のアドバンテージを生かせず2-0で敗戦。エディオンスタジアム広島での1失点が重く圧し掛かり、逆転でベスト16敗退となった。2年連続決勝進出を目指した天皇杯はG大阪に敗れベスト16どまり。ナビスコカップは当時リーグ戦では2012年の開幕戦以来5連敗中と相性の悪い浦和に2戦合計2-2(ホームでの第1戦0-0)で、準決勝は史上4チーム目の2連覇[108]を狙う柏に2戦合計3-2(ホームでの第1戦は2-0)と準々決勝、準決勝共に前年のファイナリストを相手に主力を代表招集で欠きながら[109]も競り勝ち、2010年以来となる4年ぶりの決勝に進んだ。しかし決勝では、リーグ戦で勝てず(1分け1敗)天皇杯でもベスト16敗退に追い込まれたG大阪相手に、佐藤の2ゴールで2点を先制するも、その後3点を奪われ逆転負け。監督が森保に代わってもカップ戦の勝負弱さを克服できないまま決勝戦7連敗(前身の東洋工業時代を含めると、決勝戦10連敗)[110]となってしまった。

年度別成績[編集]

  • 年度別成績・歴代監督
  • 対戦成績
  • リーグ戦ホームゲーム観客動員数

タイトル[編集]

  • 国内タイトル
  • 国際タイトル
  • 表彰

記録[編集]

  • クラブ記録
  • 個人記録

国際記録[編集]

  • 国際試合
  • 国際大会出場選手

エピソード・アラカルト[編集]

チーム名およびチームカラー[編集]

決定に直接携わった今西和男およびフロントスタッフは次のように語っている。

チーム名は公募したところ、県花である「モミジ」やそこから連想する「赤」、そして「毛利元就」に関するものなど様々な候補が寄せられた[18]。その中で最多案ではなかったが、元就の故事・三本の矢にちなんだ「スリーアローズ」がクラブスタッフの目に止まった[20]。ただ商標登録されていたため、それをもじり「サンフレッチェ」という名をスタッフ会議で作りだした[18][20]
次にチームカラーは、当初マツダのチームカラーである「青」[18] を考えていたが、他チームと色が被らないようにというJリーグ側の意向[注 8]もあり、スタッフ会議でチームカラーの一新も決定した[20]。そこで、広島サッカー界の名門である広島一中(現国泰寺高校)のチームカラーにあやかり、聖徳太子の冠位十二階で最上位を象徴し高貴なイメージがあるため、さらにはナイトゲームで最も映える色として事前調査で判明したため、「紫」に決定した[18][20]
そこからチーム名を「パープル」にする提案も出たが、語感の悪さから却下された[20]

また、川淵三郎の著書『虹を掴む』の中にも以下のようなエピソードがある。

川淵と広島球団社長との酒席で、広島社長がチーム名は「高貴な色」を付けた「広島パープル」に決定したと話した。川淵は愛称的なチーム名を期待していたが色だけのチーム名に難色を示し、その場にいた芸者らも川淵の意見に賛同して改名を考慮、結果としてチーム名は公募され、最も多かった毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんだ「スリーアローズ」をさらにもじり、「サンフレッチェ」の名前が誕生した。

チームカラー選定時の事業担当者だった木之本興三は、著書『日本サッカーに捧げた両足』の中で、

広島の関係者に「英語のパープルには《高貴な》という意味があります。色にしても意味合いにしても最高じゃないですか。紫ならどこのチームと重なり合うことはありませんから。地元でも敵地でも《紫と言えば広島》が定着し、非常に良い相乗効果を生み出すことでしょう」と、当時勧めたが、2012年シーズンで初優勝して、紫色で埋め尽くされたサンフレッチェの優勝パレードをテレビで観て、「あの時から20年、およそサッカーのユニフォームらしくない色の広島が初優勝の偉業を成し遂げるとは、と大きな喜びを感じた」と書いている[111]

1993年当時は組織内のトリオを「○○のサンフレッチェ」と自称するものも出てきた。

設立当時はユニフォームなどで赤紫(パープル)を用いていたが、同じ紫をチームカラーとしている京都サンガF.C.京紫)との差別化を図り近年は青紫(バイオレット)を用いている。

2011年からはユニホームサプライヤーがそれまでのミズノからナイキに変更されたこともあって、アウェー用ユニホームがそれまでの白から「朱色」に変更された。これは厳島神社鳥居をイメージする色として採用されたという。なお白色ユニホームはサードユニホームとして引き続き採用される。

記録・出来事[編集]

チェアマン杯破損

1994年6月11日磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。選手は喜びのあまり授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)を、頭に被ったり振り回したりしてはしゃいでいた[112]

ところがこの際、チェアマン杯をサポーターに見せようと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損[113]。この珍事は翌日のスポーツ新聞紙面を飾った[112]。クラブはその場でJリーグ側に陳謝[112]、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。この件以降、チェアマン杯は金属製となった。また、割ってしまった旧チェアマン杯のかけらは広島の選手スタッフおよびサポーター総出でかき集め、一旦溶かされてペンダントとなった[112][114]

この話には後日談がある。当時その模様を伝えるニュースでは、森山佳郎が持ってサポーターの方へ向かい広告ボードで躓いた状況が放送されたため、多くのファンは「割ったのは森山」と考え、森山本人も以後会う人全員から疑われて否定に必死だったという。また、広島はそこから長らくJリーグ三大タイトルに恵まれなかったが、一部では「旧チェアマン杯の呪い」と考えるものもいた[113][115]2012年のJリーグ初優勝の際には、サポーターによりこのことを揶揄する弾幕が張られている[116]

ユニフォーム忘れ

1995年4月1日熊本市水前寺競技場横浜フリューゲルス戦が行われた。この試合は当時九州にJリーグチームがなく、熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームだった。広島は、4日後の4月5日万博記念競技場でガンバ大阪戦を控えており、アウェーゲームが続くため横浜F戦を前に2試合分の準備をし熊本にはそれら2試合分のアウェー用道具を持参していた[117]。ところが持参したユニフォームはアウェー用の白で[117]、しかも横浜Fの1stユニフォームは白[注 9]。2つのアウェー用道具を一緒に事前準備していたためスタッフは間違いを犯した。水前寺競技場に着いて間違いに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだ[117] が、当然ながら間に合うはずもない。

広島は横浜Fの了解を得て、まず白ユニを紫に着色することを思いつき、熊本県サッカー協会からスプレーを借りたが時間が足りなかった[117]。そこで、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ[113][117]。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、スポンサーのロゴが描かれていないものもあった。ちなみにパンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。

この試合はNHKBSにより生放送され、延長前半12分にイワン・ハシェックVゴールで広島が勝利しJ通算50勝を達成した[117]。広島の営業はスポンサーに詫びを入れに回り[117]、Jリーグから制裁金が課せられた。

ちなみにレプリカユニを借りたサポーターには「選手が着用したものだから洗わずに今すぐ返してほしい」と言われ、後日この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙をプレゼントした[117]

初のJ2クラブ「日本一」達成

2008年3月1日国立霞ヶ丘陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。

初の「ベストメンバー規定」違反による罰則

2009年6月3日、ナビスコ杯・対大分トリニータ戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。

ただ、広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。

交流[編集]

吉田町(安芸高田市)

チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現:安芸高田市)とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、吉田サッカー公園完成や、毎年清神社に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。

横川町(西区)[118]

2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。

他のJリーグクラブへの協力

発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。

大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた[11]

2008年、中国・四国地方のJリーグクラブで中国・四国Jクラブ情報懇談会を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。

他競技交流

広島県内を拠点として活躍する8競技9団体でトップス広島(異競技間交流ネットワーク)を結成、相互競技応援や若年層向けにスポーツ教室の開催、自治体が主催するスポーツによる地域活性化事業に参加するなどしている。

それとは別に2競技1文化団体によるP3 HIROSHIMA(広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトを開始、家族向けに夏休み期間中各団体活動を体験する事業を行っている。

サンフレッチェ劇場[119]

ホームであるエディオンスタジアム広島において試合で勝利後、選手がトランジスタメガホン片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。

自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた中山雅史岡山一成に憧れた柏木陽介槙野智章が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに森脇良太が加わり、現在の名前となった。森脇移籍後は、千葉和彦を中心に塩谷司野津田岳人増田卓也などが行っている。ちなみに、試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブ公認」となっており、公式ウェブサイトにこの様子の動画が公開されている。また、スカパー!の試合中継内でも放送される。

ゴールパフォーマンス

2010年に槙野智章と森脇良太(時折GKの西川周作も参加する)を中心にゴール後にさまざまなゴールパフォーマンスを行うようになり、全国ネットのスポーツニュースで取り上げられるなど注目された。槙野は2011年に、森脇は2013年、西川は2014年に広島を退団したが、現在でも佐藤寿人を中心にパフォーマンスは続いている。

所属[編集]

フロント


トップチーム
育成組織(アカデミー)

ユニフォーム[編集]

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 紫×濃紫 濃紫 濃紫
FP(2nd) 白×朱色 白×朱色 白×朱色
GK(1st) ピンク ピンク ピンク
GK(2nd)
GK(3rd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd
GK 3rd

チームカラー[編集]

  •    
色決定経緯については上記エピソード・アラカルト内の「チーム名」欄を参照。

ユニフォームスポンサー[編集]

公式ウェブサイト 参照。なお同スポンサーでも表記名や掲出個所が年により変わっており、詳細は下記の歴代スポンサー年表参照。
公式戦用
箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
エディオン EDION 1997年- 表記は1997年-2002年、2004年-2011年まではDeODEO、
2003年はYourVoice、
2012年はJリーグではエディオン、FIFAクラブワールドカップでは新CIロゴのEDION
エディオンは2009年-2011年までパンツに掲出、
2011年の3rdユニフォームにはedionとして胸、DeODEOとしてパンツに掲出
2012年にはイードットコムとして、2013年にはクオルネットとしてパンツに掲出
背中 マツダ MAZDA 2010年- 2010年・2013年にはACL用の胸にも掲出
万田酵素 Manda 2013年- 2013年は「万田酵素」表記
パンツ イズミ you me 2014年-
練習着
箇所 スポンサー名 表記 備考
胸あるいは背中 マツダ MAZDA 練習着の種類により異なる
左袖(ウオームアップジャケット) 広島銀行 広島銀行
左袖(半袖) アイドゥー MeToo
右袖(ウォームアップジャケット) 中国電力 中国電力
右袖(半袖) 西川ゴム工業 西川ゴム
パンツ 産興 Tj Hiroshima
  • ユニフォーム左胸のエンブレム上の星(★)は2012年のJ1リーグの優勝を表している。

歴代スポンサー年表[編集]

中国新聞HP の過去の成績で1996年以降のスポンサーを確認できる。

年度 箇所 サプライヤー 配色
背中 パンツ 1st 2nd 3rd
1992 - - mazda - Mizuno 紫白紫 白紫白
1993 Ford JUKEN
1994 紫白紫 白紫白
1995 mazda -
1996 紫紫紫 白白白
1997 DeODEO
1998 紫紫紫 白白白
1999 Calbee
2000 紫紫紫 白白白
2001
2002
2003 YourVoice LifeCARD DeODEO 紫白紫 白紫白
2004 DeODEO -
2005 アーバンコーポレイション 紫紫紫 白紫白
2006
2007 紫紫紫 白白白
2008
2009 エディオン
2010 DeODEO/MAZDA MAZDA
2011 DeODEO(1st・2nd)
edion(3rd)
AS進学セミナー エディオン(1st・2nd)
DeODEO(3rd)
Nike 紫紫紫 朱朱朱 白白白
2012 エディオン イードットコム
2013 EDION/MAZDA 万田酵素 クオルネット 白白白
2014 Manda you me
  • 広島市(または広島県)に本社を置く企業、もしくは広島が発祥の企業が協賛する傾向がある。
  • 現在のメインスポンサーはエディオン。
    • DeODEOとは、エディオングループの店舗ブランド。胸は同表記でも企業名変更や組織再編に伴いスポンサー名が変更しており、1997年から2009年まで(株)デオデオ、2010年が(株)エディオンWEST、2011年以降(株)エディオン。
    • YourVoiceとは、当時存在していたエディオングループのオリジナルブランドで、スポンサー名は(株)デオデオ。
    • 2009年から2011年までのパンツのエディオンは、当初から(株)エディオンがスポンサー。
    • 2012年のイードットコムはエディオン系の販売ブランド。
    • 2013年のクオルネットはエディオンのモバイルインターネットサービス会社。
    • 2011年・12年のFC岐阜のユニスポだったエイデンもエディオングループの店舗ブランドである。ただ岐阜の場合はエディオン本体ではなく社内カンパニーであるエディオン EASTカンパニーがスポンサー。
  • 当初からずっとマツダがユニフォームスポンサーに入っている。
    • マツダは1990年代フォードグループ傘下であったことから、初期にはフォードがスポンサーに入っている。なおマツダは、2010年をもって会計上でフォード傘下ではなくなっている。
    • 1993年と1994年のナビスコカップでは胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は1992年と同じだった。
    • 1997年デオデオ(現エディオン)経営参加以降は、練習用の胸およびユースのスポンサーとなっている。ちなみにこの際、公式戦用胸スポンサーと同額で契約している[120]
    • 2010年公式戦背中スポンサーに復活。また同年のACL用の胸スポンサーになった。
  • 最近は練習用スポンサーのほとんどを中国電力グループが占めている。一時は中電工も入っていた。
  • Jリーグ発足時、オリジナル10のリーグ戦ユニフォームサプライヤーとして一括契約していたミズノと最も長く契約していたのは広島で、2011年にナイキがユニフォームサプライヤーになるまで18年間契約していた。

スタジアム[編集]

ホームスタジアム推移

現在、Jリーグ主催公式戦はすべてエディオンスタジアム広島(「Eスタ」、旧称:広島ビッグアーチ(広島ビ))で行われている。

エディオンスタジアム広島
  • 1992年 - 1994年:広島スタジアム(広島ス)
  • 1994年 - 現在 広島ビッグアーチ(実公式な本拠地移転の届出は1996年)
    • 1994年から2003年まで広島スタジアムと併用。年によって区々(1997年はリーグ戦・カップ戦すべて広島ビッグアーチ、2003年はリーグ戦両所ちょうど半分ずつ、など)。
    • 1998年1stステージは広島ビッグアーチの施設・ピッチ改修のため、広島スタジアムをホームに。
    • 2004年から2006年までリーグ戦は広島ビッグアーチ、カップ戦は広島スタジアム。
    • 2007年以降、リーグ戦・カップ戦すべて広島ビッグアーチ(2013年より命名権導入により「Eスタ」)。

広島スタジアムは13000人収容だが、座席(イス)の部分が7000人程度しか収容[121] できず、Jリーグが定める座席の収容人員の基準(J1:15000人、J2:1万人[注 10])を満たしていないために使用不可となった。但し、2011年8月13日の名古屋戦はビッグアーチが他のイベント開催優先の都合上使用不可の特例処置で、ゴール裏スタンドの一部に仮設座席をこしらえて広島スタジアムで開催された。

かつて行われていたJサテライトリーグでは、1997年ごろまでマツダ鯛尾グラウンドや広域第一などで行われ、吉田サッカー公園ができて以降は吉田、年に1試合のみ竹ヶ端で開催されていた。

年度別・競技場別の試合数
出典元:[122]
※参考 リーグ戦ホームゲーム数(2003・2008年はJ2、ほかはJ1<1992-98年のJリーグを含む>)
1993年 18試合
1994年・2003年 22試合
1995年 26試合
1996年・1999-2002年・2004年 15試合
1997年 16試合
1998年・2005-2007年・2009年- 17試合
2008年 22試合
年度 リーグ戦 ナ杯 ACL 備考
広島ビ
(Eスタ)
広島ス
(コカスタ)
その他
1992年 - - - 広島ス5 不参加 ナビスコ杯のみ
1993年 3 13 愛媛陸1
びんご1
大分陸1
広島ビ1
広島ス1
1994年 12 8 博多陸1
竹ヶ端1
愛媛陸1
(主催なし) 広島ビはチャンピオンシップ1を含む
この年より事実上広島ビに本拠移転(届出上は広島スのまま)
「サントリーシリーズ」(年間前期)ステージ優勝もチャンピオンシップ(年間決勝)敗退
1995年 15 7 大分陸1
愛媛陸1
鳥取1
(非開催)
1996年 10 2 鳥取バード1
鹿児島1
愛媛陸1
広島ビ5
広島ス1
大分陸1
この年より正式に広島ビに届け出上の本拠移転
1997年 15 0 愛媛陸1 広島ビ3
1998年 10 7   広島ス1
鳥取バード1
第1Sは広島スを暫定メインに使用
1999年 9 6   広島ビ1
広島ス1
 
2000年 13 2   広島ス2
2001年 8 7   広島ス3
2002年 12 3   広島ビ2
広島ス1
J2降格
2003年 12 12   不参加 J1昇格
2004年 15 0   広島ス3 リーグ戦は広島ビのみ
ナビスコ杯は広島スのみでそれぞれ開催
2005年 17 0   広島ス3
2006年 17 0   広島ス3
2007年 17 0   広島ビ3 Jリーグ公式戦全主催試合を広島ビのみで開催[注 11]
J2降格
2008年 22 0   不参加 広島ス=命名権採用により「コカスタ」へ変更
J2優勝・J1昇格
2009年 17 0   広島ビ3 リーグ4位もアジアチャンピオンズリーグ進出決定[注 12]
2010年 17 0   広島ビ2 広島ビ3 ナビスコ杯=決勝トーナメントのみ
(ACL出場につき)
2011年 16 1   広島ビ1 不参加 コカスタにてJ1リーグ1試合開催
2012年 17 0   広島ビ3 J1優勝
2013年 17 0   Eスタ1 広島ビ[注 13]3 広島ビ=命名権採用により「Eスタ」に変更[注 13]
ナビスコ杯=決勝トーナメントのみ
(ACL出場につき)
J1優勝(チーム初連覇)
サッカースタジアム構想

練習場・キャンプ地[編集]

吉田サッカー公園
練習場

現在、主に使用されるのは下記の3つ。

また、過去には下記の場所で練習していたこともある[123]。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で閉鎖された場合のみ使用されることがある。

キャンプ
  • 現在のキャンプ日程は、まず広島で1週間ほど練習を行い、その間集合写真撮影や清神社にて必勝祈願を行う。その後一次キャンプを沖縄・本部町で、二次キャンプを宮崎・シーガイアで行なう。
  • 国内キャンプは、地元広島のほか、過去には大分県淡路島(ともに冬季)、北海道松江市筑波大学(ともに夏季)などで行われている。2011年から本部町キャンプを開始した。
  • 海外キャンプは監督の意向で決まることが多い(括弧内は行なった監督)。過去には東欧北欧(バクスター)、大韓民国(ヤンセン)、アデレード(トムソン)、グアム(小野剛)、アンタルヤ(ペトロヴィッチ)で行われている。

メディアなど[編集]

エディオン広島本店。本館(写真中央)8階にオフィシャルショップ「V-point」が入る。
Nuvola apps kview.svg 画像外部リンク
V-point(2010年以前)
Searchtool.svg en:file:Deodeo honten 2010-2.JPG
紙媒体
テレビ
ラジオ
応援歌など
交通

注釈[編集]

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  1. ^ クラブ公式発表[4]。Jリーグ公式では"Sanfrecce Hiroshima Corporation"[5]、過去のクラブ公式発表では"K.K.Sanfrecce Hiroshima"[6]を用いている。
  2. ^ 1980年代、社名変更やJSL1部昇降格を機に数度正式名称を変えている。1981年から「マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部」、1984年から「マツダスポーツクラブサッカー部」、1986年から「マツダサッカークラブ」。
  3. ^ 当時のJSLはほとんどセミプロ化していたがマツダはあくまで社員選手として社業も行なっていた、さらに練習場の環境も他と比べて劣っていたことから、いい新人が入って来なかった[10]
  4. ^ ヴァレリー自身は退任直後のロシアメディアでのインタービューで夫人が夏の暑さと地震を嫌がったためと答えている[48] 。翌年ヴァレリーは中国の山東魯能監督に就任するが、山東側はヴァレリー退任発表後に接触したと報道されている[49]。一方で広島番記者である中野和也は山東側による金銭的な引きぬきがあったと断定している[50]
  5. ^ 2006年に組織再編を行い織田秀和強化部長が実質的な現場のトップとなったが、最終的な決定権は久保允誉社長に委ねられていた。ただ久保は本業であるエディオン社長の激務もあり、迅速な決定が下せない状況だった[80]
  6. ^ Jリーグ優勝の鹿島アントラーズが天皇杯も制したため、当時の規定により天皇杯優勝チームの代替として出場。
  7. ^ 前年度のJ1上位3チームならびに天皇杯優勝チームに翌年のAFCチャンピオンズリーグ出場権が与えられるが、J1上位3チームのいずれかが天皇杯を優勝した場合、J1第4位チームに繰り上がりで出場権が与えられる。
  8. ^ マツダがリーグ加盟およびチーム詳細決定が遅かったせいもある。他にも、青と水色の「古河ゼブラ」の古河電工や、旧JFL時に濃い青を使っていたヤマハも、それぞれジェフ、ジュビロとしてリーグ加盟時に濃い青系から変えている。
  9. ^ 当時、白、またはそれに近い色を1stユニにしていたのは横浜Fの1チームだけであり、横浜Fとアウェーで対戦するクラブは必然的に1stユニを着用しなければいけなかった。
  10. ^ J3は本拠地として使用するスタジアムのスペックを原則5000人収容としているので、使用することは可能である
  11. ^ 以後2011年を除き同じ
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出典[編集]

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参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]