東海道

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東海道(とうかいどう、うみつみち)

  1. 五畿七道の一つで、本州太平洋側の中部を指す行政区分。
  2. 五畿七道の東海道を通る幹線道路。
    1. 律令時代に整備されたもの。
    2. 江戸時代に整備されたもの。五街道の一つ。
  3. 鉄道路線であるJR東海道本線(東海道線)もしくは東海道新幹線の通称。

目次

[編集] 行政区画としての東海道

令制国一覧 > 東海道
東海道

行政区分の東海道は、畿内から東に伸びる、本州太平洋側の中部を指した。これは、現在の三重県から茨城県に至る太平洋沿岸の地方に相当する。

  • 伊賀国(三重県の西部)
  • 伊勢国(三重県の西部と南部及び志摩半島部を除く全域)
  • 志摩国(三重県の志摩半島部と愛知県の渥美半島の間にある一部の島々)
  • 尾張国(愛知県の西部)
  • 三河国(愛知県の中部と東部)
  • 遠江国(静岡県の西部)
  • 駿河国(静岡県の中部及び東部)
  • 伊豆国(伊豆半島及び伊豆諸島)
  • 甲斐国(山梨県)
  • 相模国(神奈川県の中部・西部)
  • 武蔵国(東京都と埼玉県、神奈川県東部の一部。初めは東山道
  • 安房国(千葉県の南部)
  • 上総国(千葉県の中部)
  • 下総国(東京都の隅田川東岸、千葉県の北部、茨城県の一部)
  • 常陸国(茨城県)

[編集] 道(みち)としての東海道

東海道の概略

[編集] 律令時代

律令時代の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の物より広く、直線的に建設された。中世に大半が廃れたため、正確な道筋については議論されているが、以下の箇所を除いては近世の東海道とおおむね同様の径路と考えられている。

武蔵国と下総国の境の中川低地付近は古代には陸化が進んでおらず低湿地で通行に適しなかったこと、元来武蔵国が北隣の上野国の豪族の影響下にありその関係が密接であった(武蔵国造の乱を参照のこと)ため、当初の東海道は相模国の三浦半島から海路で房総半島上総国安房国分立は718年)に渡るルートとなっており、武蔵国は東山道に属していた。現・千葉県にある安房国(房総半島先端)はともかくとして、上総国(房総半島中部)と下総国(房総半島根本部)の位置が「現代感覚から見て逆転している」のはこのためである。

武蔵国はその後、各道に派遣された官人が諸国を巡察する際、上野国新田驛から武蔵国府(この間5驛)を経た後に下野国へと逆戻りする旅程(東山道武蔵路)より相模国から武蔵国を経て下総国府(この間4驛)へと周る旅程の方が便利であり公私に亘り都合良いとの判断から、太政官の奏上を天皇が許可することによって771年(宝亀2年)旧10月27日に東海道経路に組み入れられた(続日本紀)。当書の中で「東海道」と呼ばれており、呼称の由来については、同書に「東海道に属する諸国の往来の大道を海道と称す」とある。

常陸国の北側に在った古代石背国石城国は当初陸奥国に属しておらず、東海道に属していたため、当時の海道は常陸国府に達してからもさらに北上し、菊多関から石背国石城国に入り、石城・石瀬・菊多・岩崎等4郡に至る 陸奥海道(弘仁2年4月に廃止)があった。この道はさらに現・福島県浜通り地方を経て宮城県岩沼市あたりで東山道に合流したという。

陸奥は東山道に属するので、陸奥の「海道」は「山道」に対する副線と捉える場合もある。それより北にも各地に東海道と呼ばれる道が断片的に存在し、それが古代の名残りだとすると、さらに北でも支線として存在した可能性が高い。史料に山道に対する海道として現れるものは、「海沿いの地域」の意味で用いられたと推定されるが、また多賀城の国府から海側の牡鹿郡桃生郡へ向かう支路があったとの見方もある。

また奥州との境に位置した下野国は、令制国時代一貫して東山道に属していたが、現・栃木県内には「海道」や「東海」を冠する地名等が多く残されている。律令制が定され毛野国が二分されて下野国が出来たばかりの頃は「山道」に属していたが、平安時代になると上野国常陸国上総国など関東地方の周縁部に在る国々は親王任国化された。

[編集] 鎌倉時代

鎌倉時代の東海道は、実質で鎌倉までであり、鎌倉から北の国へは鎌倉街道が整備された。

[編集] 江戸時代

品川宿 川崎宿 神奈川宿 程ヶ谷宿 戸塚宿 藤沢宿 平塚宿 大磯宿 小田原宿 箱根宿 三島宿 沼津宿 原宿 吉原宿 蒲原宿 由比宿 興津宿 江尻宿 府中宿 (東海道) 鞠子宿 岡部宿 藤枝宿 島田宿 金谷宿 日坂宿 掛川宿 袋井宿 見附宿 浜松宿 舞阪宿 新居宿 白須賀宿 二川宿 吉田宿 御油宿 赤坂宿 藤川宿 岡崎宿 池鯉鮒宿 鳴海宿 宮宿 桑名宿 四日市宿 石薬師宿 庄野宿 亀山宿 関宿 坂下宿 土山宿 水口宿 石部宿 草津宿 大津宿 三条大橋東海道.svg
画像の詳細

徳川家康が、1590年(天正18年)に江戸に入城する。この頃の江戸と平塚の間は、中原街道が実質の東海道として機能しており、徳川家康もここを往来していた。

[編集] 道としての東海道が誕生

徳川家康は、1601年(慶長6年)に「五街道整備」により、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。日本橋(江戸)から三条大橋京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。又、箱根新居関所を設けた。その後、1603年(慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備する。

慶長9年2月に大久保長安その他に命じて街道の幅員を5間とし、路傍に榎樹を植え、1里=36町と決め、1里ごとに里堠を設け、各駅の駄賃を定めた。寛永10年に伝馬、継飛脚の制が定められた。各宿駅に人夫100人、ウマ100匹を常備し(百人百匹の制)、幕府、大名などの往来に供した。寛永以後も行なわれたが、天明3年に品川駅吏からの建議を納れて、各宿駅に人馬七八遣の法と言って100人100匹の定員のなかから公用その他の臨時の準備として人夫30人、駄馬20匹を除き置き、70人、80匹を平時行人(武家その他)に供した。この人馬は御朱印伝馬のみで、彼らは各宿駅で徴発し得た。この他に、一般庶民が傭役し得る駄賃伝馬があり、各宿駅人夫250人と駄馬200匹を常備する定めであったが、実際には員数は規定どおりではなかった。ほかに飛脚の制もあった。幕府は各宿駅で、田租を免除し、飼馬の地を与え、継飛脚給米および問屋給米を支給し、宿手代に手当を与え、ときに金銭を貸与し、保護した。元禄年間に定助郷、加助郷の制を定め、宿駅の人馬を助けたが、負担は小さくなかった。酒匂興津安倍大井の4河川は舟を置かずに、徒渉させた。

脇街道には相模国の内陸部を通って直線的に結ぶ中原街道見附宿より浜名湖今切の渡し新居関所を迂回し、気賀関所を通り、本坂峠を越し、吉田宿ないし御油宿へ抜ける道である姫街道、宮から桑名迄の七里の渡しを避けて結ぶ佐屋街道があった。

京都から延長して大坂に至る大坂街道京街道)(宿場4箇所)を加えて東海道五十七次とする説もある。江戸方面から大坂へ向かう場合は、大津宿から京都市街には入らずに追分駅付近から分岐する伏見街道を通り、大坂へ向かった。

東海道を扱った作品

[編集] 明治時代以後

明治政府は、地方制度としての令制国を廃止、五街道に代わる国道を制定した。東海道としての実質的機能と位置は現在の国道15号及び国道1号に受け継がれ、東日本西日本関東地方近畿地方)を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。

現代において「東海道」と言うときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。従って、東海道の東端は、律令時代では磯原、江戸時代以後は東京(江戸)ということになる。

[編集] 鉄道の東海道

なお、「東海道」の名をつけたJRの東海道本線および東海道新幹線は、東京 - 熱田間と草津 - 京都間ではほぼ江戸時代の東海道に沿っているが、熱田(名古屋市)- 草津については中山道加納 - 草津)と美濃路宮・熱田 - 垂井)に沿ったルートとなっている。

現在「東海道」というと、しばしばこの両鉄道沿いのルートが江戸時代のそれであると誤解され、紹介されることもあるほどである。本来の街道としての東海道は、名古屋 - 草津については名古屋 - 亀山 - 草津を経由するもので、現在の鉄道路線ならば関西本線草津線のルートに近いものである。

この名古屋(宮・熱田)から亀山を経て草津に至る、江戸時代の東海道のうち、上記の東西幹線から外れた区間は、明治中期になって民間の関西鉄道がその沿線の振興を目的に鉄道を敷設し、後にそれが国有化されて現在の両線となっている。

東海道本線の該当区間が実際の東海道から離れた理由は、明治初期に東西両京を結ぶ鉄道線を敷設するに当たって、東海道と中山道のいずれに通すかを巡って論争があり、その結果中山道経由に一時は決定してその一部に該当する路線が開業したものの、後に碓氷峠を越える区間など山岳地域での工事の長期化・費用増、開業後の輸送量制限を考慮して、やはり東海道の方が優れているということになり、急遽岐阜加納)以東のルートが東海道経由に変更されたことに起因している。

計画変更が決まった時には、既に神戸から大阪京都を経て大津に至る鉄道と、長浜から岐阜名古屋を経て武豊までの鉄道が開業しており、これと琵琶湖鉄道連絡船太湖汽船 大津 - 長浜航路)を用いることによって武豊 - 名古屋 - 京都 - 神戸間の連絡が図られていたため、両京を結ぶ鉄道はこれを最大限に活用して早期に完成させるべきであるとの判断がなされ、これにより現行ルートが定まることになった。

結果、日本初の鉄道路線である新橋 - 横浜間もその東西幹線に組み入れる形となり、1880年代中頃(明治10年代末)より横浜から静岡を経て大府に至る区間と関ヶ原から米原を経て大津に至る区間が建設され、1889年(明治22年)7月に全通、これにより現在の東海道本線の原型が完成した。

また東海道新幹線に関しては、当初は名古屋から京都まで鈴鹿山脈を一直線にトンネルで抜けるルートでの敷設も計画されていたが、トンネルが長大になり建設に時間・費用を要する(東京オリンピック前の開業予定に間に合わなくなる)こと、それに米原が北陸本線(旧:北陸道)との接続点になっていたこともあって、最終的には東海道本線に沿う現行ルートで敷設された。

以上の経緯については、中山道及び鉄道と政治の項目も参照のこと。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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