千葉県
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千葉県(ちばけん、英語表記:Chiba Prefecture)は、関東地方の中央東側、東京都の東に位置する県。県庁所在地は千葉市。都道府県人口は、埼玉県に次いで全国6位、面積は全国28位である。公式キャッチフレーズは、『おもしろ半島ちば』である。
目次 |
[編集] 概要
令制国では上総国・安房国の全域と下総国の大部分に相当する領域を県域とする。1873年(明治6年)6月15日に、北部の印旛県と南部の木更津県の合併により千葉県が成立した。その後、1875年5月7日に新治県の利根川以南の領域を編入、同時に旧印旛県の利根川以北の領域を茨城県に移して現在の県域がほぼ完成した。
三方を海に囲まれ、県土の大部分が房総半島に含まれる。起伏の少ない県であり、関東平野の一部である北部は、海岸(東京湾・太平洋)や河川(利根川・江戸川など)沿いの低地と下総台地とからなる。南部側は丘陵地帯だが、標高329mの鋸山や鹿野山など、観光地化されているところも多い。最高峰は標高408mの愛宕山であり、全都道府県のうち最高峰(点)が最も低い。
平地の割合が大きく、可住地面積が広いことや、東京に隣接しており首都圏の一角をなすことなどから、古くから住宅開発が進んでいる。人口は県北西部で特に稠密である一方、東部や中南部では多くの地域で人口の減少が進んでおり、一部の市町は過疎地域に指定されている。浦安市から富津市までの東京湾沿岸には広大な埋立地が広がり、京葉工業地域の中枢として石油化学コンビナートや製鉄所などが立地している。一方、地勢を生かした農漁業も盛んに行われており、農業産出額、漁業総生産量とも全国で有数である。
[編集] 地理
千葉県は、日本列島の丁度中心にあたり、県庁所在地である千葉市を中心にコンパスで円を書くと南西諸島以外の日本列島は半径1000㎞圏内に殆ど収まる位置にある。千葉県の大きな地理的特性としては、広義的には関東平野に含まれるが、その大部分は、東と南を太平洋、西は、東京湾と三方を海に囲まれた(房総)半島になっていることである。(この地理的条件は、常に半島であることが重要視され、袋小路的な閉鎖性が近代に高まった陸上交通中心の見地から問題視されることも多いが、同時に、外洋に面していることから古来から開放的で外来文化が渡来しやすいという良い側面もある。) 隣接する都県とは利根川、江戸川、東京湾、太平洋によって画され、古くは外敵の進入を防ぐ役割も担っていた。ちなみに、10メートル海面が上昇すると本県は本州沖合いに浮かぶ島のひとつになるという試算が国土地理院によって示されている[1]。 実際、数千年前までは、もっと現在より水位が高く、現在の千葉県の多くの低地が海面下で、南部の古東京湾と北部の香取海によって本州(武蔵国・常陸国)と分断されていた。
房総半島の東京湾側は内房(うちぼう)、太平洋側は外房(そとぼう)と呼ばれ、内房では近年埋め立てが進み、浦安市などでは面積が数倍に増えた。そのため県の面積が一時愛知県を上回っていたが、中部国際空港の建設に伴い再び愛知県の方が広くなっている。
[編集] 地質
地質的には北部が第四紀の沖積層、南部は第三紀層および白亜紀堆積層。
[編集] 地形
平野・丘陵 東京湾沿いは埋立地が多く、浦賀水道の対岸に三浦半島がある。太平洋沿いは九十九里浜が面し、九十九里平野が広がる。山地は少なく、房総丘陵や常総台地がある程度である。
河川 利根川、夷隅川、栗山川、小櫃川、養老川、一宮川、小糸川、南白亀川、村田川作田川、木戸川、塩田川
湖・沼 手賀沼、印旛沼、大利根用水、両総用水、成田用水、東総用水、利根運河、利根川河口堰、黒部川水門、北千葉導水路、房総導水路、行徳可動堰、江戸川水閘門(江戸川水門)
自然公園
- 県立養老渓谷奥清澄自然公園、県立九十九里自然公園、県立印旛手賀自然公園、県立高宕山自然公園、県立嶺岡山系自然公園 県立富山自然公園、県立大利根自然公園、県立笠森鶴舞自然公園
[編集] 歴史
[編集] 旧石器時代以前
地殻変動により隆起して半島が形成された。上総の山稜地帯はその名残である。
房総に来た最初の住人は、3万数千年前の旧石器時代の人々だと言われている。旧石器時代の人々は、ナウマンゾウやオオツノシカなどを食料にした狩猟生活が営まれていた。そのため、狩猟に使用するための石器などを使用した道具が進化した。石器は、黒曜石やサヌカイトを使用したものが著名で、千葉県最初の旧石器時代の黒曜石は、市川市国府台にある立川ローム層から発見された。千葉県には、石器の原料となる産地が乏しいく、長野県の中部高地や神奈川県の箱根山、伊豆の神津島などから運ばれたと考えられている。現在の学術調査から旧石器時代の遺跡は、300数十箇所ほど発見されている。また、印旛村では、日本初のナウマンゾウの全身骨格が発見され、成田市(旧・下総町)では、ナウマンゾウの頭骨が発見されている(共に、国立科学博物館収蔵)。
[編集] 縄文から古墳時代まで
縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。東京湾周辺は貝塚の宝庫と呼ばれ、千葉県でも東京湾域、利根川流域の台地には500ヵ所ほどの遺跡が見られる。千葉市にある加曾利貝塚などが有名で、千葉市若葉区の台地には、加曾利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の推積状態を観察することが出来る。
関東では、関西より、百年遅れて紀元前2世紀頃から紀元前3世紀頃にかけて弥生時代となる。 県内では、成田市の荒海貝塚からは、縄文から弥生時代へ移り変わるころの籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。農耕社会にはいると、『村』の形態が変化し、環濠集落が出現するが、千葉県では1979年から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。
ムラの社会変化から首長のあり方が変化、古墳時代を迎えることになる。千葉県では、市原市の神戸4号墳・5号墳をはじめ各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されている。県内では1990年時点で8665基の古墳と横穴が4083基確認されている。東国の中でもヤマト王権との関係が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、100mを超えるものは14基を数える。このうち最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では、7番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、関東で最大規模を誇る。
[編集] 飛鳥から奈良時代まで
6世紀後半になると畿内では、前方後円墳は、姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、7世紀はじめまで前方後円墳が築造されていた。関東地方における古墳から寺院に形態が移ることを示す上で重要な遺跡として、栄町及び成田市にある竜角寺古墳群(古墳総数は111-124基)が全国的に有名である(印旛沼の東岸にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。)。竜角寺古墳群は5世紀に始まったとされ、7世紀末までの三百年間、古墳が築造され、浅間山古墳の副葬品は七世紀中葉近くの時期におよび、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳といわれる。 この直後に造られたのが岩屋古墳で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。岩屋古墳の北北西約1㎞の場所には龍角寺跡がある。この寺院は、関東最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院と知られ、現在は重要文化財となっているが、一時国宝となった時期もある。調査から山田寺式の瓦が葺かれているが三重塔と金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっている。また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、『加刀利』などの文字が描かれた瓦が出土している。その文字瓦には『朝布』『赤加賀』『玉作』などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類がある。このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、関東での文字の使用が奈良時代以前にさかのぼることを証明する貴重な資料と言われている。
なお、遺跡の多くは、山(標高20m~30m程度の高台)側に分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州(武蔵国・常陸国)と完全に仕切られた「島」と成っていた。この海岸浸食の影響は、平安から鎌倉期まで続いており、日本武尊に関する説話など各地の伝承や伝説などにもその影響が見受けられる。
房総半島は、古来「総の国」(古くは総(ふさ)=麻がよく育ったことから、総国と呼ばれた)と呼ばれ、『古語拾遺』によると、古代豪族の忌部氏(千葉氏の祖という説有り)の祖である天富命が阿波から黒潮にのって渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が『総の国』で、忌部(斎部)の一部の居住地には、『阿波』の名をとって『安房』としたのが起源だとされる。これら房総三国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。その傍証として、天武10年(681年)に詔を受けて史書編纂に従事した群臣のうち、王族を除くトップは上毛野君三千であった。
やがて、畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となった。地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、房総半島へは相模国から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためである。通常、日本国内にあった68の各国は国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国(安房国は中国)と延喜式に記されている。また、上総国は大国の中でも親王が国司を務める3つの親王任国の一つとなっており、平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように国府の実質的長官は上総介が握っていたという。
718年に上総国の南部が分かれ安房国となった。一時、安房国は再び上総国に編入されたが、757年に再び設置された。日本書紀に、日本武尊の武勇伝として上総国に上陸する場面が見られる。
[編集] 平安時代から室町時代まで
平安時代後期、皇室領の大荘園が成立、同地に土着した平氏系武士が勢いをふるったが、平将門、ついで平忠常が反乱を起こし、房総は一時荒廃した(この時、朱雀天皇によって、平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷をおこおなったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。
この荒廃の中から台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫である千葉氏である。千葉氏は、坂東八平氏の一つに数えられる名門氏族として総州で大いに栄えたといわれている。千葉氏系の氏族としては、相馬氏、椎名氏 、葛西氏、臼井氏、原氏、高城氏などの諸流がよく知られている。
鎌倉時代に伊豆から総州に流された源頼朝が千葉氏を味方につけたことが、関東武士の結束を高め、鎌倉幕府を築くための原動力となったことはよく知られている。この功績によって千葉氏当主だった千葉常胤は、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、総州の支配者としての確固たる地位を築くことになった。
室町時代には、関東地方では、鎌倉公方と室町幕府との対立が激化、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった争いが相次ぎ、長い戦争が続いた。現在の千葉県下の地域も戦乱に巻き込まれ、荒廃した。この一連の戦いは、関東管領・鎌倉公方(古河公方)をはじめ、関東の各氏は勢力が衰えさせた。千葉氏も例外ではなく、1455年の享徳の乱の際には、重臣でもある原胤房と馬加康胤によって千葉宗家滅亡するなど、戦国時代には大きく勢力が衰退していた。この状況に乗じ、小田原の北条氏が関東各地を次々と支配下に置き台頭してきた。千葉氏は、北条氏に従属し、安房を本拠とする里見氏(詳細は国府台合戦を参照)や上杉氏((詳細は関東征伐を参照)との争いに巻き込まれていく。
その後、1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。
一方、安房国では、1440年の結城合戦に破れ、安房に上陸した里見義実が領主だった安西氏を追放し領主となり、台頭する。(里見氏の結城合戦後の詳細は不明で諸説有り)
[編集] 戦国時代から江戸時代まで
戦国時代末期、北条氏無き、総州では、安房の里見氏が勢力を伸ばしたが、豊臣秀吉の命によって徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。また、里見家も江戸時代になると、改易、断絶することになる。
江戸幕府が開かれると、徳川家康が鷹狩りなどのため船橋、御茶屋、東金などに御殿を建造し、御成街道も整備された。江戸に近いことから大きな大名家は置かれず、小大名領と旗本領・天領に細かく分割された。房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正盛が老中としてアメリカとの交渉役をつとめた。また、下総関宿藩も著名である。この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主の久世広周が同じく老中を務めた。ちなみに下総国には、他に小栗原藩、高岡藩、小見川藩、多古藩、生実藩が、上総国には鶴牧藩、請西藩、飯野藩、一宮藩、佐貫藩、久留里藩、大多喜藩が、安房国には勝山藩、船形藩、館山藩がそれぞれ置かれた。また、明治維新に徳川家達の駿府移封に伴い移封した藩があり、廃藩置県まで続いく。
江戸前期には、房総最大の百姓一揆が佐倉藩で起こったが、この時に一揆の指導にあたった佐倉惣五郎は、重税に苦しんむ農民を救おうとした『伝説的義民』として、芝居や歌舞伎の演目に描かれ、庶民の尊敬を集めた。しかし、例外を除き、ほとんどの地域の場合、このような大きな一揆がおきるのは稀で、多くの場合、税率も天領並か少し高いくらいで恵まれた地域であった。
江戸時代中期になると江戸で人気を馳せた歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居が打ったことなどから成田参詣と呼ばれる個人参詣運動が盛んになり、江戸から成田を結ぶ街道は人々で賑わい、宿場町や交通網が整備された。
県域各地は、江戸時代を通じて幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われた。また、風土や立地に恵められていたことから薬草や農産物などが栽培所が設置され、試験栽培などが行われた。有名な話としては、飢饉[2]対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の幕張村(現千葉市花見川区)、上総国の九十九里浜の不動堂村(現九十九里町)において試験栽培が実施され、1735年関東地方でも栽培であることを確認。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくったことは有名である。下総国薬園台(現船橋市)に設置された小石川養生所の薬草園では朝鮮人参の栽培も試みられた。
県域には、小金牧・佐倉牧・嶺岡牧などの幕府直轄の牧が設置され、軍馬の養成がおこなわれていた。嶺岡牧では、徳川吉宗時代に、インド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)などが日本ではじめて生産[3]された。また、牧の風景や様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所の一つに数えられた。小林一茶や歌川広重などの作品にも登場する。
- 武蔵国との境界の変化
- 近世初期(1683年(貞享3年)、また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)、下総国葛飾郡の一部、すなわち隅田川から利根川までの地域(現在の江戸川区)を武蔵国に編入、境界を改め武蔵国葛飾郡とした。
[編集] 明治から第二次大戦まで
江戸城無血開城に伴い県域では、市川・船橋戦争と呼ばれる戦闘が生じたのみで戊辰戦争に巻き込まれずに明治を迎える。
安房国、上総国と下総国の一部が現在の千葉県となる。1871年の廃藩置県によって、印旛県・木更津県・新治県を設置。1873年6月15日、印旛県と木更津県の合併により千葉県が誕生、県庁が千葉町(千葉市街地)に開設された。1875年5月7日に新治県の茨城県編入に伴い、千葉県であった結城郡・猿島郡・岡田郡・豊田郡4郡と葛飾・相馬両郡の一部を茨城県に譲渡して、香取郡・匝瑳郡・海上郡を旧新治県から編入した。更に1899年4月1日に香取郡の利根川以北が茨城県に編入されている。これにより、現在の県域がほぼ確定した。
1870年、明治政府によって東京府にのこる旧士族をはじめとする失業者対策として、大規模な開墾事業が行われ、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三などの新村が生まれる。
地下資源に恵まれなかったことから、近代に入ると近代工業が育たず、開発から大きく取り残された。醤油・みりんといった醸造業のみは近代に入っても発展を続け、1928年には戦前の労働争議でも最大規模の野田醤油労働争議が発生した。他の産業としては、従来の農業・水産・林業に加え、銚子の缶詰産業や旧幕府牧馬跡などを利用した酪農が有名である。1875年に旧佐倉牧の跡地(現・成田市)に下総牧羊場(後の宮内庁下総御料牧場)が設置されると、酪農に関する研究も盛んに行われ、県の主要産業の一つとなった。しかし、御料牧場は、1969年に新東京国際空港の建設計画に伴い、栃木県高根沢町に移転することになる。
大正・昭和初期にかけて交通機関が発達すると東京湾沿線沿いや南房総には、避暑地や観光地、谷津遊園などの娯楽施設が造られ、観光産業[4]が盛んとなった。
また、東京に近かったことから、帝都防衛を名目に習志野をはじめ、千葉、市川、柏、松戸、佐倉、四街道、木更津、富津、館山のような多くの軍事拠点(軍郷)が造られた。また、大東亜戦争時には、風船爆弾によるアメリカ本土空襲の為の前線基地も置かれた。大戦末には本土決戦の可能性が近づくと連合国軍の上陸の可能性が最も高い場所として、日本軍と連合国軍両者[5]。とも同じく九十九里浜を挙げており、日本軍は住民による郷土防衛隊を組織、竹槍などによる軍事教練も実施されたが、日本の降伏により県内では地上戦は行われなかった。
1904年に勃発した日露戦争では、習志野騎兵連隊の活躍は有名で、沙河会戦、黒溝台会戦・奉天会戦などで騎兵戦術を駆使して活躍、秋山好古少将と共に千葉県の知名度を高めた。また、映画「戦場に架ける橋」のモデルとなった鉄道連隊もよく知られている。
1941年、大東亜戦争が始まれると千葉県は、重要な食料生産地として、食糧増産が半島各地でおこなわれた。ちなみに航空機燃料のための松根油の生産も北総地域を中心に盛んに行われた。
日立航空機千葉工場などの軍需工場も建設され、大戦末期には、房総半島に大規模な地下工場も複数造られた。また、1942年には、東京大学第二工学部が千葉市に設置、造兵研究などが行われた。
1944年、サイパン島・グアム島が占領され、日本本土への空襲が本格化すると房総半島は、B-29爆撃機の進入ルートとなり、現在の成田市から習志野市の上空では、激しい空中戦がおこなわれるようになるが、県内の被害は軽微で、艦載機を中心に港湾施設や集落に対して機銃掃射や帰還途中の不要爆弾廃棄のため投下を受けたが、千葉空襲や銚子空襲以外に本格的な空襲は加えられず、終戦を迎える。ちなみに、この時、東条英機首相にかわり、下総関宿藩士出身の鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織、終戦工作に奔走し、終戦内閣と呼ばれたことは有名な話である。
[編集] 大戦後から現在まで
1945年9月3日敗戦に伴い、米軍が館山海軍航空隊基地に上陸。県内各地にあった日本軍施設及び一部の公共施設が進駐軍に接収され、GHQによって、特攻隊基地(震洋・桜花・回天・呉101特)、館山海軍砲術学校、陸軍習志野学校をはじめとする旧日本軍関係施設が調査される。
県内各地で、食糧難から買出し者が集まり、闇市が自然に発生する。戦中から戦後にかけて東京方面などから多数の空襲被災者が千葉県(主に葛飾地域)に流入し、浮浪者が増加、都市部を中心に治安が一時、悪化する。また、住居不足が深刻化し、被災者用の住居建設や開拓農地開発営団 習志野事業部による習志野開拓などの救済事業が実施される。
1950年以降、東京湾沿岸の埋め立てをはじめ、県内各地での開発本格化する。東京湾沿いには、京葉工業地域が建設され、重化学工業が発展する。首都近郊県の責務からベッドタウンの開発が進み、いわゆる『千葉都民』が急増する。県内の主なニュータウンとしては、海浜ニュータウン、成田ニュータウン、千葉ニュータウンなどがある(千葉県のニュータウン一覧)。また、東京に近い好立地を活かして、湾岸沿いを中心に谷津遊園(1925-1982)、船橋ヘルスセンター(1955-1977)、マザー牧場(1960-)、東京ディズニーランド(1983-)などの大規模レジャー施設が数多く誕生した。
1978年には新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港、1989年には幕張メッセがオープン。周辺地域は大きな発展を遂げたが、戦前まであった房総らしい、風景や情緒など観光資源の数多くが失われてしまったという意見も若干ながらあり、『三番瀬埋め立て問題』が発生し、埋め立てが中止された。また、近年、千葉県では、成田空港の存在と東京近郊の立地を生かし、『観光立県ちば推進ビジョン』を作成し、『花と海』をテーマにイメージアップを図ろうしているが、あまりインパクトが無いという意見も存在する。
1997年には、東京湾アクアライン(木更津-川崎間)が開通、半島の流動性が高まり、今後の発展のための布石となるかどうか注目されている。
なお、経済発展の一方で、日本各地において、公害が発生し、社会的に大きな問題となった。千葉県も例外ではなく、1950年代以降の急激な開発による人口増加と未熟な行政政策[6]、環境技術の未発達のため、生活排水や工業排水、農薬などが、県内各地の河川や沼[7]などに流入、東京湾などでは、水質汚染が一時、深刻な問題となり、海洋資源にダメージを与えた。また、工場による工業用水の地下水を過剰汲み上げした事による地盤沈下が深刻化し、船橋市では昭和49年に「地盤沈下非常事態宣言」を発令する。マイカーブームによる排気ガスの増加や、工場などから排出される煙などによる、光化学スモッグ、ゴミ焼却によるダイオキシン問題等の大気汚染などの環境問題も深刻化した。近年においては、印旛地域などを中心に産業廃棄物や感染性医療廃棄物、硫酸ピッチなどが田んぼや山林に埋められるなどの、不法投棄も問題になっている。近年、千葉県では、環境系のNPOや市民団体を積極的に支援したり、平成20年に千葉県環境基本計画を制定するなど環境方面に力を入れる傾向が見られる。
また、県民の生活にも大きく影響を与えており、開発の中では、強いニーズ、不動産高騰などによる、有効的な土地利用のあり方など、土地所有者・デベロッパー・行政などの意見や思惑の違いから不信感が生まれ、禍根を残す事も多く、県内で代表的な事例を挙げると成田国際空港建設による「三里塚闘争」などが挙げられる。(近年では、周辺住民の意見も無視出来ず、市川などの都市部では日照権や景観、防災上の理由からマンション建設反対運動もいくつか起きている。)
成長期の段階的な一斉開発・入植によって住民構成が、積層化されてしまい、人口に偏りが生じ、常盤平団地などに代表されるように地区において集団高齢化が進んだり、浦安市のように今後、少子高齢化のため、極端に小学校などの教育施設が余剰する一方で、福祉施設が不足するなどのケースもある。ちなみに最近の八千代市などのように東葉高速鉄道沿線の開通に伴い急速な都市開発が行われ発展期を迎えている地域も存在し、教育施設の不足が問題となっているが、今後、先に述べた松戸や浦安のようになる可能性があるので注意が必要である。
その他に、あまり表面上では見えないが、政令指定都市をはじめとした開発が盛んに行われた都市の郊外では、入植時期や入植経緯の異なる住民が同じ地域に同居する形となり、町内活動が活発でない地域や住民の家庭構成によっては、コミュニティーが希薄化するなど、住民の意識間にズレや溝がある場合もある。以上のような現象は、地方分権の体制が比較的維持されていた戦前の千葉県には、あまり見られなかった社会形態である。(但し、このような状況は、一部の人口密集圏周辺に共通する。)
地域的な問題としては、浦安市、市川市、船橋市、鎌ヶ谷市[8]などの東葛地区でよく話題となる道路問題が挙げられる。
これは、
- 高度成長期の急激な民間開発の速度と行政側の道路整備能力の違いと当時の法規上の理由から、開発の規制が困難で、狭い農道をそのまま、舗装した道が多くつくられたこと
- ハウスメーカーなどによる住宅地のブロック開発(旗竿敷地の開発)に伴い、行き止まりの道が多くあること
- 鉄道の踏切箇所が多いこと(特に踏切の影響については、北総地域でも海岸部の鉄道が比較的に発達している地区で目立つ)
- 古い集落(敷地割)の存在と古くからの歩車共存の概念の影響をうけたこと
などに起因し、生じた問題であり、開発が殆ど終わった今日では、道路の拡張や都市計画道路の整備を進めようにも計画上の地点には既に建物があり、用地買収も困難なのが実情である。このため、緊急車両の通過が困難だったり、交通事故の危険性が高く、府県別事故率ランクでは、上位5位以内に入る。ちなみに交通渋滞が名物化している。また、これらの地域では、住宅の密集化による防災上の問題もあわせて存在している場合が多い。(但し、このような状況は、一部の人口密集圏周辺に共通する。)
ほかにも、地方の過疎化(印旛及び房総半島周辺)や都市部(東京湾沿いの臨海地域周辺)の高齢者増加に伴う福祉の問題、など今後、解決しなければいけない課題が山積であるが、これに加え、財政不足も重なり、千葉県をはじめとする県内の各市町村では、解決策の糸口を『まちづくり』・『市民協働』という言葉に求める傾向がある。(但し、このような傾向は、全国的に共通である。)
だが、新たに開拓された天然ガスなどの天然資源や近年、注目されているバイオ燃料の生産のための研究も行われるなど、新たなエネルギー産業の育成も試みられている。また、市民ベースだが