多古町
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[編集] 地理
下総台地と九十九里平野に挟まれ、町の中央部を九十九里平野最大の河川である栗山川が流れている。西は成田空港に接している。
[編集] 隣接する自治体
[編集] 歴史
- 縄文時代:丸木舟など、縄文時代の遺跡が多数発見されている。
- 弥生時代:稲作が盛んになり、現在でも「多古米」はブランド米として知られる。
- 古墳時代:房総最古の埴輪が発見された墳丘全長82mのしゃくし塚古墳に代表される柏熊古墳群や、74mの北条塚古墳を有する北条塚古墳群、そして小川土仏古墳群、内野古墳群、坂並白貝古墳群、淀台古墳群、飯土井台古墳群などの群集墳が数多くあり、九十九里浜から香取海へ通じる要衝であった。
- 平安前期:九十九里浜から香取海、さらに陸奥国への交通の要衝であり、延暦16年(797年)には坂上田村麻呂が東征の途中松崎神社に参拝したと伝えられている。
- 平安後期:房総藤原氏の領した千田荘(現在の多古町)は上総下総両国の中心であったが、治承4年(1180年)に皇嘉門院判官代藤原親政が源頼朝に敗れ[1]、以後千葉氏の所領となった。
- 室町時代:馬加康胤の裏切りに遭い、千田荘に逃れて再起を図った千葉氏18代当主・千葉胤宣が康正元年8月12日(1455年9月23日)に多古城の近くの阿弥陀堂で、胤宣の父・胤直は8月15日(9月26日)に東禅寺で、胤直の弟・胤賢も9月7日(10月17日)に小堤城(現在の横芝光町小堤)で自刃、千葉氏宗家の嫡流が滅亡した。千葉氏宗家に仕えていた飯篠家直は、この様を目の当たりにし武芸をもって武士として生きることに虚しさを覚えた。そして厳しい修行の末「兵法とは平和の法なり」との悟りを得、天真正伝香取神道流を創始したと言われる。
- 江戸時代:徳川家康の江戸入府に伴い、保科正光が多古に入部した(その後、松平(保科)家は高遠藩を経て子の正之は会津藩主)。天領時代を経て、松平(久松)家嫡流の勝義が多古を領し、廃藩置県まで松平(久松)家の領地であった。
[編集] 沿革
- 1889年(明治22年)4月1日 多古村、東条村、久賀村、中村、常磐村が発足した。
- 1891年(明治24年)6月29日 多古村が町制施行し多古町になった。
- 1951年(昭和26年)4月1日 多古町に東条村が合併した。
- 1954年(昭和29年)3月31日 多古町、久賀村、中村、常磐村の4町村が合併して現在の多古町が成立した。
[編集] 教育
[編集] 高等学校
[編集] 中学校
[編集] 小学校
[編集] 人口
| 多古町と全国の年齢別人口分布図(比較) | 多古町の年齢・男女別人口分布図 | ||||||||||||||||||
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■紫色は多古町
■緑色は日本全国 |
■青色は男性
■赤色は女性 |
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| 総務省統計局 / 国勢調査(2005年) | |||||||||||||||||||
[編集] 交通
[編集] 道路
[編集] 路線バス
[編集] 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
[編集] 特産品
- 多古米
- やまといも(生産量全国2位)
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
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