稲作

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タイの田植え。東南アジアの稲作では1ヘクタールに満たない水田でも、田植え、除草、収穫に農業労働者が雇用されることが多い
ミャンマーの稲の収穫。
インドの田植え。
イラン北部、マーザンダラーン州の田植え。
ネパールの田植え。

稲作(いなさく)とは、イネ(稲)を栽培することである。主にを得るため、北緯50°から南緯35°の範囲にある世界各地域で稲作が行われている。現在では、米生産の約90%をアジアが占め、アジア以外では南アメリカブラジルコロンビアアフリカエジプトセネガルでも稲作が行われている。

稲の栽培には水田が利用され、それぞれの環境や需要にあった品種が用られる。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は陸稲(りくとう、おかぼ)とよばれる。

収穫後の稲からは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、(わら)がとれる。

概要

稲作が広く行われた理由として、

  • 米の味が優れており、かつ脱穀・精米・調理が比較的容易である[1]
  • イネは連作が可能で他の作物よりも生産性が高く、収穫が安定している(特に水田はその要素が強い)[1]
  • 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない[1]
  • 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)[2]

などの理由が考えられている[3]

歴史

起源

稲作の起源は2012年現在、考古学的な調査と野生イネの約350系統のDNA解析の結果[4]、約1万年前の中国長江流域の湖南省あたりが稲作の起源と考えられている。かつては、雲南省遺跡から発掘された4400年前の試料や植物相豊富な状況から雲南省周辺といわれいた[4][5]

現在に繋がる栽培種の起源は、ひとつの野生イネ集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に異なる野生系統が複数回交配し、インディカ米の系統生じたと考えられている[4]
:(植物としてのイネの起源はイネを参照)

水稲に関しては、揚子江下流の浙江省寧波河姆渡(かぼと)村で、炭素14年代測定法で約7000〜6500年前の水田耕作遺物(水田遺構は発見されていない)が1970年代に発見された。1980年代に入り、現在の所最古の水田遺構が彭頭山文化前期にあたる約8000年前の揚子江中流湖南省彭頭山遺跡で見つかっている[6]。以上の発見等から現在では、水稲の水田耕作は揚子江中・下流域に起源し、日本へもこの地方から伝播したと考えられている。

日本への伝来

概要

温帯ジャポニカの遺伝子のSSR領域にはRM1-a~hの8種類のDNA多型が存在する。

  • 中国にはRM1-a~hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続く。
  • 朝鮮半島にはRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多い。朝鮮半島ではRM1-bを持つ品種は存在しない。
  • 日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多い。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本を中心に発見されている。

RM1を含めた三つのSSR領域において、日本の温帯ジャポニカは他の二地域に比べて多様性が失われている。これは渡来時の稲が極少数だったことによるボトルネック効果と推測されている[7]

国立歴史民俗博物館による炭素14年代測定法での測定では、九州北部で最も古い水田は3000年前頃、栽培が広く行われ始めた時期の水田稲作遺跡群は2800~2900年前とされ、弥生時代の開始は従来の説より大きく遡るとした。この際に朝鮮半島南部の併行する時代の土器も測定が行われ、こちらも通説より古い年代のものと確認された[8][9][10]

伝来ルート

イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関して、「出発点を重要視した説」、「経路を重要視している説」それぞれが複数有り、様々な論争を呼んでいる[11]。極東アジアへの伝播経路は十分に解明はされておらず以下の説が主なものとして存在する。なお、各ルート名は正式な呼び名ではなく、本稿における便宜的な呼び名である。

  1. 揚子江下流域から直接九州北部に伝来(対馬暖流ルート)。
  2. 江南から西南諸島を経て九州南部に伝来(黒潮ルート、南方伝来ルート)。
  3. 揚子江下流域から遼東半島を経由して朝鮮半島を南下して九州北部に伝来(朝鮮半島南下ルート)。
  4. 揚子江下流域から山東半島(斉の田)を経て、朝鮮半島南部を経由して九州北部に伝来[12]山東半島~朝鮮半島南東部ルート)。

陸稲に関しては、朝鮮半島ルート及び山東半島ルート共に後述の日本の早期の陸稲に比べ遅い時代の物しか発見されていないため候補から除外される。

対馬暖流ルート説

2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から大量の稲のプラント・オパールが見つかり稲の栽培が確認された[13]。それに加え、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、上記の通り日本で半数近くを占めるジャポニカ種の特定の遺伝型が朝鮮半島や満洲の品種には存在しないなど複数の論拠から、水稲も大陸(中国南部以南)から直接伝来したとする学説(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)が注目されている。

黒潮ルート、南方伝来ルート説

中国南部揚子江河口域(江南)からの宮古島を経由する黒潮ルートは柳田國男の提唱した海上の道で名高かったが、北部琉球での稲作を示す考古学的資料が出ていないため関心が薄かった。しかし、岡山県で6000年前の陸稲(熱帯ジャポニカ種)のプラント・オパールが次々に発見された等により、水稲伝来も考えられるとして再び注目されつつある[14]

農学者の佐藤洋一郎は、縄文前期に熱帯ジャポニカが南西諸島から伝播し、水陸未分化の粗放稲作が行われた。縄文晩期に温帯ジャポニカが揚子江下流域(RM1-b)と朝鮮半島南部(RM1-a)から伝播し、熱帯ジャポニカと混合した水田稲作が始まったのではないかと、複数のルートから伝わったと推測としている[15][16]。また、DNA分析の結果から日本列島に運んでこられた水稲の量はわずかで、小さな集団でしかなかったとしている。

遼東半島~朝鮮半島南下ルート説

遼東半島から朝鮮半島を南下するルートは、遼東半島の大嘴子遺跡で3000年前の陸稲の炭化米が発見されている。

山東半島~朝鮮半島南東部ルート説

山東半島の楊家圏遺跡、朝鮮半島南部の無去洞玉峴遺跡[17]では、日本に先行するか近い時期の水稲炭化米、もしくは水田跡が見つかっている[18][19][20][21]。日本で発見された水稲の中には、RM1-b遺伝子を持つ品種が混じっていたが、朝鮮半島ではRM1-bを持つ品種は存在しない。

日本国内での歴史

伝来から江戸時代

日本列島における稲作の歴史は長きに亘って弥生時代に始まるとされてきた。しかし、近年になって縄文後期中葉に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡土器胎土内から5500年前イネのプラント・オパールが発見されたことや、朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、縄文時代中期以前まで遡って陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が有力となっている。稲作が生業であったかどうかは別にしても、縄文時代後期・末期頃に陸稲(熱帯ジャポニカ)が栽培されていたことは確実になった。

水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。縄文時代の栽培穀物は、イネオオムギアズキアワであり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000〜2300年前)に属する。

日本最古の水田址遺跡は約3000年前であり、近年の炭素14年代測定法によっても、水稲栽培で定義される弥生時代の始まりが紀元前10世紀まで遡る可能性も出てきた。弥生時代前期初頭の水田遺構は、福岡平野板付遺跡菜畑遺跡野多目遺跡早良平野橋本一丁田遺跡等で発見されている。

「最初から稲作の方法は変わっていない」とする池橋宏によれば、最古の水田である弥生初期の岡山県津島江道遺跡はいわゆる小区画水田で、それには水口もついている。同じ初期の福岡市の野多目遺跡は大区画水田であり、現代と同じ水田システムがあったとしている。

江戸時代から現代

日本では、寒冷な東北地方でも古くから栽培が行われていたが、東北地方の太平洋側はやませに悩まされ、冷害による甚大な被害を受けた。江戸時代からは北海道渡島半島で稲が栽培され始まったが、その規模は微々たるものであった。明治時代以後は北海道石狩平野でも栽培されるようになり、寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発が行われた。

戦後、国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。

農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。

西アジアへの伝来

トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である[22]

ヨーロッパへの伝来

ローマ帝国崩壊後の7世紀から8世紀にアラブ人によってもたらされ、スペインのバレンシア近郊、イタリアのミラノ近郊のポー河流域で、主に粘りけの少ないインディカ種の水田稲作が行われる[23][24]

日本に於ける栽培技術と品種改良

品種改良は当初耐寒性の向上や収量が多くなるように行われ、代表的品種は日本晴であった。飽食の時代になってからは、コシヒカリやその系統の、良食味米と耐病性向上が主流になった。米余りになると減反政策を行い、米を作らない農家には補助金を支給し、転作を進めた。豊作で青田刈りを行った年もあった。

現在では、規制緩和により、スーパーマーケット等にも販売が解禁された。国際的な貿易自由化の流れにより、高率の関税を課す関税方式で輸入を解禁した。正規の流通以外で売買される自主流通米が増え、国内の流通販売は自由化された。

近年は西日本を中心に猛暑日が増え、高温による稲の登熟障害や米の品質低下が問題となっている[25]。耐高温品種の育成、高温条件下に適合した稲栽培技術の確立が急がれている。

方式

二期作と二毛作

  • 二期作 - 1年の間に2回稲作を行うこと。減反政策などで行われなくなったが、2004年頃から、四国地方で復活している。
  • 二毛作 - 稲作の終了後、小麦など、他の食料を生産すること。

気候的に可能な場合は三毛作も行われている。

水田稲作と陸稲

水稲

稲の水田による栽培を水田稲作と呼び、水田で栽培するイネを水稲(すいとう)という。

に水を張り(水田)、底に苗を植えて育てる。日本では、種(種籾)から苗までは土で育てる方が一般的であるが、東南アジアなどでは、水田の中に種籾を蒔く地域もある。深い水深で、人の背丈より長く育つ栽培品種もある。畑よりも、水田の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどが、水田を使っている。水田による稲作は、他の穀物の畑作に比べ、連作障害になりにくい。

陸稲

畑で栽培される稲を陸稲(りくとう、おかぼ)という。
水稲では殆ど起こらないが、同じ土壌で陸稲の栽培を続けると連作障害が発生する。[26]

栽培法

初めに田畑にじかに種もみを蒔く直播(じかまき)栽培と、仕立てた苗を水田に植え替える苗代(なわしろ/なえしろ)栽培がある。

手順

(春)乗用田植機による田植え
(初夏)田植え後の水田
(秋)稲穂
(秋)自脱型コンバインによる稲刈り
(秋)刈田と稲の天日干し(稲杭掛け)
(秋)刈田と稲の天日干し(稲架掛け)

古くからの伝統的な方法

  1. の土を砕いて緑肥などを鋤き込む(田起こし)。
  2. 圃場に水を入れさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。
  3. 苗代(なわしろ/なえしろ)に稲の種・種籾(たねもみ)をまき、発芽させる(籾撒き)。
  4. 苗代にてある程度育った稲を本田(圃場)に移植する(田植え)。※明治期以降は田植縄や田植枠(田植定規)などによって整然と植え付けがなされるようになった。
  5. 定期的な雑草取り、肥料散布等を行う。
  6. 稲が実ったら刈り取る(稲刈り)。
  7. 稲木天日干しにし乾燥させる。※稲架(馳)を使用したハセ掛け、棒杭を使用したホニオ掛けなど
  8. 脱穀を行う(=もみにする)。
  9. 籾摺り(もみすり)を行う(玄米にする)。
  10. 精白(搗精)を行う(白米にする)。

最近の一般的な方法

  1. まず、育苗箱に稲の種・種籾(たねもみ)まき、育苗器で発芽させる。
  2. 次に、ビニールハウスに移して、ある程度まで大きく育てる。
  3. トラクターにて、田の土を砕いて緑肥などを鋤き込む(田起こし)。
  4. 圃場に水を入れ、トラクターにてさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。
  5. 育った苗を、田植機(手押し又は乗用)で、本田に移植する(田植え)。
  6. 定期的な雑草取り、農薬散布、肥料散布等を行う(専用の農業機械を使う)。
  7. 稲が実ったら稲刈りと脱穀を同時に行うコンバインで刈り取る。
  8. 通風型の乾燥機で乾燥する(水分量15%前後に仕上げるのが普通)。
  9. 籾すり機で籾すりを行う(玄米)。
  10. 精米機にかける(白米)。
  • 上記方法が標準方法というわけではない。その中でも栽培に関しては、さまざまな方法がみられる。特に、1,2で述べられている育苗の方法は、地域や播種時期、品種、農家の育苗思想・主義などからきわめて多様である。
  • 稲作には従来より除草剤を使用してきた。近年[いつ?]無農薬栽培法では除草剤を使用しないことがあるので、ノビエなどイネ科の雑草を手作業で除草しなくてはならなくなることがある。

生育段階

  • 育苗期
  1. 播種期
  2. 出芽期
  3. 緑化期:発芽器を使用しない、または発芽器から出した後にハウスなどで育苗・養生しない場合、緑化期はない
  4. 硬化期
  • 本田期
  1. 移植期
  2. 活着期
  3. 分蘖
  4. 最高分蘖(げつ)期
  5. 頴花分化期
  6. 幼穂形成期
    この時期は低温に弱く、やませの常襲地帯では深水管理が推奨されている。
  7. 減数分裂期
    花粉の基礎が形成される時期で、この時期にやませに遭うと障害型冷害が発生しやすい。
  8. 穂孕み期
  9. 出穂始期:圃場出穂割合10〜20%
  10. 出穂期(出穂盛期):圃場出穂割合40〜50%
  11. 穂揃い期:圃場出穂割合80〜90%
  12. 開花期※稲は出穂しながら抽出した先端から順次開花をする
  13. 乳熟期
    この時期、猛烈な残暑に襲われると玄米の品質が低下する。
  14. 黄熟期
  15. 傾穂期
  16. 登熟期(糊熟期)
  17. 成熟期

日程の例(鳥取県地方の早期栽培)

4/2〜5 発芽器で苗を発芽・育成(育成に3日間必要)
育てた苗は畑の小さいハウスに移動し、田植えまでそのまま育てる。
4/16 耕起(田起こし)。土を耕うん機で耕すこと。田には水は入れない。
4/17〜29 荒かき。田に水を入れて土を耕うん機で耕す。
4/30 代掻き。土をさらに細かくする。田植えの3〜4日前に実施。
5/3,4,5 田植え。田植え機使用による機械移植。
5/7 除草剤振り1回目。田植え後1週間以内に実施。
5/13 追肥。田植え後10日以内に実施。稲の元気が出るため。
5/28 除草剤振り2回目。田植え後25日以内に実施。
草刈。
6月 防除(=カメムシイモチなど病害虫の駆除)1回目。出穂前に実施。
防除2回目。出穂後の穂ぞろい期に実施。
7/23〜8/6 穂肥(ほごえ)のための肥料まき1回目。
8/13 ↑ 2回目
9/2,3 稲刈り。

不耕起栽培

水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法である[27]

冬季代かきによる方法例

[28]生産コスト低減と収量安定を目的とした栽培方法。普及段階の栽培方法で、「耕作者による差や地域差を抑え平均した生育・収量が期待できる」として期待されているが、地域の利水権、水利慣行など導入に際し解決すべき問題も多い。

  1. 12月〜翌年3月に代掻きをし、水が澄むのをまって水を落とす。
  2. 圃場が固くなってから、溝に直接肥料と種籾を播く。
  3. 2〜3葉期を過ぎたら水を張る。
  4. 必要に応じ、中干しを行う。

米ヌカを播く方法例

[29]

  1. 1月に米ヌカまいて、水を溜める(湛水)。
  2. 3〜4月に一旦水を抜き、耕す(但し、状態によっては不要)。
  3. 再度湛水し、田植え。
  4. 必要に応じ、中干しを行う。
  5. 稲刈り後、湛水(冬期湛水)。

稲作文化

稲作文化は稲を生産するための農耕技術から稲の食文化、稲作に関わる儀礼祭祀など様々な要素で構成されている。

農耕技術では稲作のための農具や収穫具、動物を用いた畜力利用や、水田の形態、田植えや施肥などの栽培技術、虫追いや鳥追い、カカシなど鳥獣避けの文化も存在する。また、穂刈したあとのは様々な用途があり、藁細工や信仰とも関わりが深い。

食文化では強飯ちまきなど多様な食べ方・調理法が存在した。また、高倉などの貯蔵法や、醸造してにするなど幅広い利用が行われていた。

水田の光景は、日本の伝統的文化の1つといえ、日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、田遊び田植田植踊御田祭御田植御田舞等、豊作を祈るための多くの予祝儀式収穫祭民俗芸能伝承されている。

宮中祭祀においても天皇皇居御田で収穫された稲穂天照大神(アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝する新嘗祭がおこなわれている。

尚、漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていた。

脚注

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  1. ^ a b c 佐々木高明『東アジア農耕論 焼畑と稲作』(弘文堂、1988年)P359-361
  2. ^ 古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P71
  3. ^ 福田一郎:コメ食民族の食生活誌 日本食生活学会誌 Vol.6 (1995) No.2 P2-6
  4. ^ a b c 野生と栽培イネのゲノム解析によりイネ栽培化起源地を珠江流域に見いだし、 論争に終止符を打つ 国立遺伝学研究所、中国科学院上海生物科学研究所
  5. ^ プラント・オパールの形状からみた中国・草鞋全山遺跡(6000年前~現代)に栽培されたイネの品種群およびその歴史的変遷 育種学雑誌 Vol. 48 (1998) No. 4 P 387-394
  6. ^ 馬家浜文化中期にあたる約6000年前の揚子江下流江蘇省呉県の草鞋山遺跡も見つかっている
  7. ^ 佐藤洋一郎 『稲の日本史』2002, pp=104-109.
  8. ^ 「弥生時代の開始年代」国立歴史民俗博物館
  9. ^ 春成秀爾, 今村峯雄『弥生時代の実年代』学生社
  10. ^ 西本豊弘『弥生農耕の起源と東アジア-炭素年代測定による高精度編年体系の構築』雄山閣
  11. ^ 佐藤洋一郎:日本のイネの伝播経路 日本醸造協会誌 Vol.87 (1992) No.10 P732-738
  12. ^ 山東半島は黄砂が長年降り積もり、肥沃な土地で黄河の下流で、約3000年前には稲作(陸稲)が始まったとされる。また緯度は揚子江より高いが温帯性の気候である。
  13. ^ 高橋護、田嶋正憲、小林博昭『考古学ジャーナル2005年3月増大号』28-31頁。
  14. ^ 大塚初重 『考古学から見た日本人』(青春新書INTELLIGENCE)ISBN 4413041623
  15. ^ 佐藤洋一郎 『稲の日本史』2002, pp=74-86 108-109.
  16. ^ 佐藤,洋一郎 『DNAが語る稲作文明 : 起源と展開』 日本放送出版協会〈NHKブックス, 773〉、1996年ISBN 4140017732 
  17. ^ 慶尚南道蔚山・無去洞玉峴遺跡は、孔列文~突帯文土器が伴っているところから前11世紀頃と考えられている。「弥生時代の開始年代」国立歴史民俗博物館
  18. ^ 韓国南部では前13世紀ころには本格的な畠作農耕が、前10世紀には灌漑式水田稲作が始まっていた。春成秀爾, 今村峯雄『弥生時代の実年代』学生社 p18
  19. ^ 忠清南道論山郡麻田里遺跡や慶尚南道蔚山市の玉峴遺跡などで、小区画水田や階段式水田遺構などが発見された。甲元眞之『日本の初期農耕文化と社会』同成社 p63
  20. ^ 日本水稲農耕の起源地に関する総合的研究
  21. ^ 『第3回歴博国際シンポジウム 東アジアにおける農耕社会の形成と文明への道』
  22. ^ 大野盛雄:現代から見た「米の道」-トルコの事例- オリエント Vol.35 (1992) No.1 P97-109
  23. ^ ヨーロッパのコメと稲作 農林水産省 (PDF)
  24. ^ イタリアの稲作と潅漑排水 農業土木学会誌 Vol.54 (1986) No.11 P1013-1017,a1
  25. ^ 農業温暖化ネット/水稲の登熟不良(白未熟粒、充実不足の発生)
  26. ^ 陸稲の連作障害に関する研究 日本土壌肥料学会講演要旨集 (4), 13-14, 1958-04-01
  27. ^ 水稲無代かき栽培による生育収量と土壌理化学性の改善 東北農業研究 (54), 051-052, 2001-12-00 (PDF)
  28. ^ 冬季代かきによる不耕起乾田直播栽培-社団法人 農林水産技術情報
  29. ^ 不耕起有機栽培で10俵どり!? 月刊 現代農業 2002年11月号

参考文献

関連項目

外部リンク