武田信玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
 
武田 信玄 / 武田 晴信
Takeda Harunobu.jpg
武田晴信像(高野山持明院蔵)
時代 戦国時代室町時代後期)
生誕 大永元年11月3日1521年12月1日
死没 元亀4年4月12日1573年5月13日
改名 太郎(幼名・通称)、晴信、機山(道号)、徳栄軒信玄(法号・法名)
別名 渾名:甲斐の虎、甲斐の龍
勝千代[1]
戒名 法性院機山信玄
墓所 武田神社信玄墓大泉寺恵林寺
諏訪湖長岳寺竜雲寺高野山
福田寺妙心寺ほか
官位 従四位下大膳大夫信濃守従三位
幕府 室町幕府甲斐守護職・信濃守護職
氏族 甲斐源氏武田氏
父母 父:武田信虎、母:大井の方
兄弟 竹松、武田晴信(信玄)、犬千代、
武田信繁武田信基武田信廉
松尾信是武田宗智河窪信実
一条信龍武田信友武田勝虎
定恵院、南松院、禰々、花光院、
菊御料人亀御料人今出川晴季
正室:上杉朝興の娘[2] 継室:三条の方
側室:諏訪御料人禰津御寮人
油川夫人 ほか
武田義信海野信親武田信之
黄梅院見性院武田勝頼
真竜院仁科盛信葛山信貞
武田信清松姫菊姫

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代武将甲斐守護大名戦国大名甲斐源氏嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。晴信通称太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。大正期に従三位を贈られる。

甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野遠江三河美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。

江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』[3])に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれる。NHK大河ドラマ『武田信玄』に代表されるように、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成される[4][5][6][要高次出典]

生涯[編集]

出生から甲斐守護継承まで[編集]

甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人

甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し有力国衆が台頭していたが、信玄の祖父にあたる信昌期には守護代跡部氏の排斥、国衆勢力を服従させ国内統一が進む。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府し、家臣団組織が整備され戦国大名としての地位が確立されていた。

信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際に大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという[7]。幼名は太郎[8]。兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。

大永5年(1525年)父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り勝千代(太郎)を徐々に疎むようになったと言う。傅役は不明だが、『軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。

信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。

天文2年(1533年)に扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘が晴信の正室として迎えられており、これは政略結婚であるが、晴信と彼女の仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で彼女も子も死去している[2]

天文5年(1536年)に元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「」の偏諱を賜り、「晴信」と改める[9]官位は従五位下大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継ぎ武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている(柴辻俊六による)。

信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城平賀源心攻めであるとしている。『軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。

晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平合戦にも参加しているが、『高白斎記』によれば甲府へ帰陣した同年6月には晴信や重臣の板垣信方甘利虎泰飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督相続する[10]

信濃国を平定[編集]

戦国時代の甲信とその周辺拡大

信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていたが、晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う[11]

天文11年(1542年)6月に晴信は諏訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[12]。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。

武田方はさらに天文12年(1543年)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(1545年)4月、上伊奈郡高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した。父・信虎時代は対立していた後北条氏とは天文13年(1544年)に和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に大きな「貸し」を作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康河越城の戦いで大勝し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。

今川・北条との関係が安定したことで武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。天文16年(1547年)には関東管領勢に支援された志賀城笠原清繁を攻め、同年8月6日小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する[13]。また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。

天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。

天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。

勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。

しかし天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。

川中島の戦い[編集]

第四次川中島の戦い

天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。このときは景虎方に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破される。景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。

晴信は信濃進出に際して、和睦成立後も緊張が続いていた駿河今川氏と相模北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男義信の正室に今川義元の娘嶺松院を迎え、甲駿同盟を強化する。また北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び甲相駿三国同盟が成立する。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。天文24年にも川中島において長尾景虎と対陣している[14]

弘治3年(1557年)には将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている[15]

甲斐国志』に拠れば、永禄2年(1559年)2月に晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている[16]。出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか[17]、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている[18]。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や[19]、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説[20]、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある[21]

武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像 長野市八幡原史跡公園
上杉謙信公の銅像(新潟県上越市)

信玄は北信侵攻を続けていたものの謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である武田軍副将武田信繁をはじめ武田家重臣諸角虎定、足軽大将の山本勘助三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。

第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。

外交方針の転換と今川・北条との戦い[編集]

川中島の戦いと並行して信玄は西上野侵攻を開始し、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した[22][23]

永禄3年(1560年)5月には桶狭間の戦いにおいて駿河で今川義元が尾張国の織田信長に敗死して当主が氏真に交代し、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する岐阜においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上武田との関係改善を模索し、こうした経緯から諏訪勝頼正室に信長養女が迎えられている[24]。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じ、永禄10年(1567年)10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)[25]

永禄11年(1568年)12月には遠江割譲を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻[26]を開始し、薩垂山で今川軍を破り今川館を一時占拠する。信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが氏康は今川方救援のため出兵し甲相同盟は解消され、北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、翌永禄12年5月に家康は今川氏と和睦し侵攻から離脱した。

こうした状況の中で信玄は信長・将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、同年8月には上杉氏との和睦が成立した[27]。さらに信玄は越相同盟に対抗するため常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北関東勢力との同盟を結び後北条領国へ圧力を加え、同年10月には小田原城包囲を行い、撤退の際には三増峠の戦いで北条勢を撃退した[28]。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じ、同年末には再び駿河侵攻を行い駿府を掌握した。

北条方では越相同盟の強化や徳川氏・織田氏への呼びかけにより武田氏との対抗を模索するが、無理の大き過ぎた越相同盟は機能せずに武田方に圧倒され、元亀2年(1571年)には隠居氏康が「謙信との同盟を捨て、信玄と同盟し直せ」と遺言して死去する。当時は亡き信玄娘を正室とした氏政が全権を掌握すると、氏政は上杉氏との関係が悪化したことから氏康の遺言を実行し、武田方との同盟再締結に転じ、甲相同盟が再締結された。

また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。

遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復[編集]

永禄11年(1568年)9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城足助城田峯城野田城二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。

元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去し、後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃駿河上野西部、遠江三河飛騨越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。

西上作戦[編集]

尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し外交関係がはじまっており[29]、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しており、織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。

元亀2年(1571年)には織田信長による比叡山焼き討ちにより天台座主覚恕法親王正親町天皇の弟)が甲斐へ亡命している。信玄は法親王を保護し、皇族の座主の計らいにより権僧正という高位の僧位を与えられた。法親王は仏法の再興を信玄に懇願した。また、同年には甲相同盟が回復している[30]

元亀3年(1572年10月3日、仏法の庇護者でもある信玄は、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した[31]。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景秋山虎繁(信友)の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め行った[32]

信玄率いる本隊は浅井・朝倉らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。一方11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が武田軍に寝返ってきた。

これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政朝倉義景石山本願寺一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。12月19日には、(武田軍は)遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。

三方ヶ原の戦い

劣勢に追い込まれた家康は浜松に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。

しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。

信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。

信玄の死と遺言[編集]

甲府市岩窪町の武田信玄公墓所(2010年9月撮影)
甲州市恵林寺の武田信玄公墓所(2010年11月撮影)

信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈する(一説では、三方ヶ原の戦い首実検のときに喀血が再発したとも)など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にては4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。

4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53[33]。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市恵林寺

辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。

甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

信玄の遺言については、遺体を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれているが(『軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、三年秘匿や勝頼が嫡男信勝の後見となっている可能性も指摘され、文書上から確認される事跡もある。

信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。

天正3年(1575年)3月6日には山県昌景が使者となり高野山成慶院に日牌が建立され(「武田家御日牌帳」)葬儀は『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる4月12日に恵林寺で弔いが行われており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行ったという(「天正玄公仏事法語」)。上野晴朗はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年(1576年)4月16日に本葬を行った」としている。

人物[編集]

『川中島百勇将戦之内』「明将 武田晴信入道信玄」

人物像[編集]

武田信玄の発行した文書は、信玄の花押による文書が約600点、印判を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されている[34]。そのうち信玄自筆書状は50点前後確認できるが、20点ほどは神社宛の願文で、私的な文書は皆無で人物像・教養について伺える資料・研究は少なく、昭和初年には渡辺世祐『武田信玄の経綸と修養』 において若干論じられている。

教養面について、信玄は京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行っており、信玄自身も数多くの歌や漢詩を残している。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに住職され恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されている。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂している[35]

また、信玄は実子義信の廃嫡や婚姻同盟の崩壊による子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているなど、親としての一面が垣間見える事実もあることから、国主としての複雑な立場を指摘する意見もある[36]

『甲陽軍鑑』において信玄は名君・名将として描かれ、中国三国時代蜀の諸葛孔明の人物像に仮託されており(品九)、甲陽軍鑑においてはいずれも後代の仮託と考えられているが軍学人生訓に関する数々の名言が記されている。

『甲陽軍鑑』等における逸話[編集]

  • あるとき、駿河の今川義元の正室として嫁いだ姉から大量の貝殻が贈られてきた。山国甲斐で育った信玄はこれを喜び、近習に貝殻の数を調べさせた。貝殻は2畳分あった。そこで家臣らを呼んで「お前たち、この貝殻が何枚あるか当ててみい」と命じた。ある者は5000枚、ある者は1万枚と思い思いに述べた。すると信玄は「皆的違いだ。3700枚ほどだ」と教えた。そして「わしは今まで、合戦には兵力が必要だと思っていた。だが兵力は少なくともよい。必要なのは5000の兵を1万に見せることができるように、兵を思うように動かすことこそ大事である。お前たちもこのことをしかと心得よ」と述べた。それを聞いた家臣らは「末恐ろしい若君よ」と驚嘆した(甲陽軍鑑。品第6)。
  • 武田軍の強さは、長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項)。
  • 躑躅ヶ崎館に、水洗トイレを設置している。躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき上流の者が水を流す仕組みである。信玄はここをと言う名称で呼んでいた。家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。トイレと言ってもかなり広く、室内には机や硯も設置されていた。信玄はここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。
  • 甲陽軍鑑によると、信長から小袖が贈られた時に、信玄はそれが入れられていた漆箱の方に目をつけそれを割るなどして調べると、それは漆を何度も重ね塗りしたものでありその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と言った事から、信長の真意はともかく細かい所にも気をつける性格だったようである。
  • 信玄は、かなり前から病を患っていたものと思われる。甲陽軍鑑には20代の頃から度々体調を崩していることが書かれている。
  • 信玄は自らの影武者に、実弟の信廉を起用した。
  • 信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いていた(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせた。このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称されたという。
  • 上洛のとき、「甲陽軍鑑」において、次のようなことを信玄自らが述べたという記述がある。
    遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり
  • 元亀2年(1571年)の織田信長による延暦寺比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。このため、元亀3年(1572年)に信玄は比叡山延暦寺の生き残った高僧から、大僧正の地位を与えられている。また、その大僧正の身分をわざわざ書いた宣戦布告ともいえる文を信長に送っている。
  • 信玄にとって甲斐から京都へ上洛する距離は、当時としてはかなりの遠隔地だった。実際、織田信長の美濃・尾張に較べると甲斐は後進地域であるうえ、山国でもあるために行軍も難しかった。信長が信玄に先んじて上洛した際、当時の俳諧書である犬筑波集では、次のような句が記されている。
    「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田殿」(大意:甲斐は都から遠い。お急ぎせねば日が暮れますぞ。)
  • 信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。
  • ルイス・フロイスの「日本史」によれば、武田氏は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。
  • フロイスはその他、書簡(日本耶蘇会年報に所収)にいくつか信玄のことについて記している。「戦争においてはユグルタに似たる人」「彼は剃髪して坊主となり、常に坊主の服と数珠を身に付けたり。1日3回偶像を祭り、之が為 戦場に坊主600人を同伴せり。この信心の目的は、隣接諸国を奪うに在り」「彼は武力により畏怖され、部下より大に尊敬を受く。けだし小なる欠点といえども宥(ゆる)すことなく、直ちに之を殺害せしむるを以てなり」
    • 同じ書簡には、信玄が遠江・三河に侵攻する前、信長に一書を送ったが、そこには「その名を誇示せしめんとの慢心より、その書状の上に次の如く認めたり。テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)」と署名してあり、「信長は之に対してドイロク・テンノマウオ・ノブナガ(第六天魔王信長)、と応酬せり」というやりとりがあったという。なお、この書簡の日付は1573年4月20日(日本暦の3月29日)だが、この後すぐ信玄が没してしまった事もあり、信玄が天台座主を名乗ったという史料はいまのところ他に見つかっていない。

政策[編集]

家臣団と制度[編集]

武田家臣団を制度的に分類する事は研究者の間でも意外と難しいとされる。武田家が守護から戦国大名になったと言う経緯から、中世的な部分が残る一方、時代に合わせて改変していった制度もあり、部分部分で鎌倉室町前期の影響と室町後期の時代の影響の両方がやや混然と存在しているためである。

家臣団を大きく分けると以下のように分けられる。

1. 御一門衆
信玄の兄弟・親族らが中心。「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』巻八では十二名を記載している。呼称は「御一門衆」であることが指摘され、『甲斐国志』では「親族衆」とし、「国主の兄弟から出て一家を立てた」者とされる。このため一条家など、別姓もありえる。また、木曾氏のような婚姻関係の結果親族衆に含まれる場合も含まれる。
2. 譜代家臣団
基本的には甲斐一国当時から武田家に仕えていた家を中心とした家臣団。ただし、春日虎綱(高坂昌信)のように武田信玄の代に侍大将に抜擢された家なども含まれるため、代々仕えていたと言う点が基準となるわけではない。逆に甲州に領地を持っていながら譜代と扱われていない例もある。4. その他の項を参照。
3. 外様家臣団
同時代には外様と言う表現は使われていないが、現代では便宜的にこのように言われる。1及び2に含まれない家臣団。当時は諏訪衆・上野衆と言った地域名、あるいは真田衆と言った領主名で呼ばれていた。武田海軍である海賊衆もここに含まれる。
4. その他(地域武士団)
武川衆のように甲斐国内に存在した集団でありながら、親族とも譜代とも判別し難いのみならず、武田氏に服属していたのか同盟関係に近かったのかの判断が困難なグループがある(小山田氏等)。多くは中世の本家分家的な関係を基礎としており、一定地域での独自色の強い集団であった。これらの集団と武田氏との関係の研究は現在も続けられている。

現代ではこのように分ける例が多い。しかし、『壬午起請文』では譜代家臣団の中に入るべき人物が「武田親族衆」とされている部分もある。これらについて服部治則は「非血縁分家」と言う表現で武田家との関係の深度によるのではないかとしている。

職制は行政面と軍政面で分けられる。行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。ただし、武田氏は中央集権的な制度ではなかったため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。特に穴山・小山田両氏の領地は国人領主と言えるほどの独自性を維持している。信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強く、知行制による家臣団が確立されるのは治世も後半の事である。

構造的には原則として以下のようになっていたとされる。ただし、任命されていた人物の名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。

  • 行政
    • 職。
      • 公事奉行…公事と訴訟を担当する。ただし、この公事奉行が全ての裁判を審議したわけではなく、下部で収まらなかった訴訟を審議した。後述。
      • 勘定奉行…財政担当官。
      • 蔵前衆…地方代官。同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を行った。
      • 侍隊将…出陣・警護の任務に当たる。
      • 足軽隊将…検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の番手警備を行う加勢隊将に別れる。
      • 浪人頭…諸国からの浪人を統率する。
  • 軍政
    • 職。
      • 旗本武者奉行…弓矢指南とされる。最上位に記される事から出陣の儀や勝ちどきの儀などの責任者か。
      • 旗奉行…諏訪法性の旗などを差配する。
      • 鑓奉行…騎馬足軽が付随したとある。旗本親衛隊の統率者か。
      • 使番衆…百足の旗を背負う伝令役。使番と奥使番に分けられる。
      • 奥近衆…奥近衆小姓とも記される。基本的には領主クラスの子弟から選ばれる。
      • 諸国使番衆…諸国への使者を務める。
      • 海賊衆…海軍。
      • 御伽衆…御話衆とも。側近。
      • 新衆…工兵集団。架橋や陣小屋作成など。

行政・軍政とも職(総責任者)の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られるが、駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城主や城代がその役目を行うようになった。武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。

軍事制度としては寄親寄子制であった事がはっきりしている。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣陪臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団の前者の例は先述の武川衆、後者の例は小山田氏に配属されていた九一色衆が上げられる。

寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。また、一方面指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。

寄子は制度的には最も数が多くなる。譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心の書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。

この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり板垣信方の「同心」を命じられた曲淵吉景が挙げられる。信玄の被官と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。

もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。軍役帳などの場合、「被官〜氏」「同心〜氏」であれば信玄直属の被官、「〜氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後の書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。

また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。

なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、甲州法度之次第では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で兵農未分離の証左とも言える。

信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、信玄が寵愛する衆道相手の春日源介(「春日源介」の人物比定は不詳。)に対して、浮気の弁明を記す手紙や誓詞(天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに東京大学史料編纂所所蔵)が現存しており、家臣との交友関係などを示す史料となっている。

なお、信玄(晴信)に関して特徴的なことは、家臣に対する偏諱として「昌」の字が用いられた例が多いことである。武田氏の通字である「信」の授与は重臣の嫡男に限られ、それ以外の家臣には父・信虎は「虎」、子・勝頼は「勝」の字を授けているが、晴信の「晴」は将軍からの偏諱であるために「晴」の字を与えるはなく、代わりに曾祖父・武田信昌に由来する「昌」の字を代わりに授けたとみられている。例えば、真田氏の場合、幸隆の嫡男には「信」の一字を与えて信綱、次男以下には「昌」の字を与えて昌輝・昌幸などと名乗らせている[37]

領国統治[編集]

信玄堤(竜王堤)付近の空中写真。画像右側に帯状に見える緑地が堤防である。(1975年撮影)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立し、在地掌握のための検地も行われ領国支配の基盤が整えられた。

武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく年貢収入に期待ができなかった為、信玄期には大名権力により治水事業を行い、氾濫原新田開発を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧中巨摩郡竜王町、現甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変え開墾した。

日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。甲斐には黒川金山湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇り信玄期に稼動していた金山が存在し、南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料はみられず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。

甲斐善光寺の山門(重要文化財)

寺社政策では寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に臨済宗恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られる。

駿河を征服すると武田水軍の創設に尽力し、元亀2年(1571年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮信高(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)、向井正綱(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、岡部貞綱(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。

研究[編集]

肖像画[編集]

信玄の肖像画は同時代のものが複数存在し、和歌山県持明院所蔵の「絹本著色武田晴信像」、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆「絹本著色武田信玄像」(重要文化財)が知られる。

前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部にはがあり、や目貫に足利将軍家家紋「二引両紋」のある脇差が描かれている。三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた「日堯上人像」と同時期に描かれている。また、高野山成慶院には信玄の弟信廉が描き勝頼が奉納したとされる肖像があったとされ、原本は伝存していないが写が現存している。

同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、軍配を持ち赤法衣と諏訪法性の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、狩野探信や柳沢吉里により描かれた信玄個人の肖像画[38]や武田二十四将図、歌舞伎浄瑠璃の演目『本朝廿四孝』、これを描いた役者絵武者絵などにおいて定着した。明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。しかし、松平定信編纂の『集古十種』(寛政12年(1800年刊))で既に成慶院本が「武田信玄像」として紹介されており、これが明治40年頃に東京帝国大学が発行した教育用掛図の中に採用されて普及し始め[39]、今なお信玄の一般的なイメージとして知られている。甲府駅前や塩山駅前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされた。

ところが近年、歴史学者藤本正行は、

  • 勝頼の書状には像の図様が書かれておらず、成慶院本がそれに当たるか判別できない。
  • 成慶院本は、『集古十種』以前に信玄像として扱われたことはなく、また『集古十種』にはしばしば誤りがある。
  • 信玄の末子信清の家系である米沢武田家の史料に、成慶院の肖像は逍遥軒筆とあり、等伯が描いた現在の成慶院本と矛盾する。
  • 39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後鬢が残されている。
  • 服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利・畠山)である。旧説支持者は足利将軍家からの下賜品と解釈するが、もしそうならばより権威が高く贈答品に用いられ、絵画での作例も多い桐紋が相応しく、また自家の家紋が全く描かれていないのは不可解である。
  • (持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。
  • 右側に止まっているは、当時甲斐ではあまり見られない鳥種であった。
  • 絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期に能登から出た形跡が無く、信玄との接点は薄い。旧説支持者からは多くの仮説が出されているが、どれも成慶院本を信玄像とすることを前提としており、史料的な裏付けもない。

などの疑問点から、成慶院本の像主が能登畠山家の誰か、特に畠山義続の可能性が高いという説を出している。そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。なお藤本によれば、花菱紋が大量に描かれ、具足の描き方などが時代的によく合っているという論拠から、東京都世田谷区浄真寺所蔵の「伝吉良頼康像」こそが、本来成慶院にあった逍遙軒の描いた信玄像の忠実な模本であるという。また、江戸期に描かれた他の模本類でも、前述の高野山成慶院にあったという逍遥軒筆の信玄像は、この「伝吉良頼康像」に類似する[40][41]。更に信玄の法名「徳栄軒」と、畠山義綱の戒名「興禅院華岳徳栄大居士」に注目し、元々成慶院本に付属していた箱書きや讃文に書かれていたであろう「徳栄」の文字が、後世の人々に信玄像と誤認させたのでは、という指摘もある[42]。しかし美術史家からは、肖像は描かれた状況からどう描いたかを考えるべきで、図像から像主を判断するのは順序が逆だとして、こうした見方に反対する意見も根強い[43]

武田菱[編集]

甲府市章の菱形は武田菱を由来とする[44]

武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。元々は「割菱紋」と呼ばれたが、江戸期に大量に描かれた信玄像で信玄を表す家紋として使われたため、武田菱の名が定着した。ただし、前述のように信玄のような武田家の総領は、実際には割菱紋ではなく花菱紋を用いており注意を要する。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。また山梨県警機動隊の車両などの装備品や、JR東日本の特急「あずさ」や「かいじ」に使われるE257系のデザインにも用いられている。

また、広島県立祇園北高等学校は、校舎が武田氏の傍流安芸武田氏の居城佐東銀山城のあった武田山の麓に立地していることにちなみ、校章には武田菱があしらわれており、同じ広島県の呉武田学園武田中学校・高等学校は、安芸武田氏の末裔が設立した学校である事から、この学校の校章は武田菱をモデルとした校章を採用している。

長野県の白馬連峰山麓にある白馬五竜スキー場などの名称「五竜」は「御料」もしくは「御菱」が変化したものであり、雪解けの季節に武田菱に似た模様が山肌に現れるため武田家の「御料」と定められ(もしくは武田家の「御菱」ということから)、それが「五竜」と変化した、とする巷談がある。詳しくは「五竜岳」の項目参照。

なお、皇居で行われる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(天皇皇族らが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である(宮内庁広報係の回答より)。

後世の評価[編集]

徳川幕府が成立してから著しく評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として高く評価された。信玄の手法を家康が参考にした事から、「信玄の神格化=家康の神格化」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。

江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした『甲陽軍鑑』が成立し、これを基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、一円が幕領支配となった甲斐国においては、大小切税法甲州金甲州桝の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。

明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになった。戦前は内務省武田神社別格官幣社への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後は、英雄史観皇国史観を廃した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになった。昭和62年には武田氏研究会が発足し、磯貝正義上野晴朗笹本正治柴辻俊六平山優秋山敬らの研究者が出現し、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行っている。

戦後には産業構造の変化から観光が山梨県の主要産業になると、観光事業振興の動きの中で信玄は県や甲府市によって歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物として位置付けられた。信玄の命日にあたる4月12日の土日には時代行列「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である信玄公祭りが開催されており、また山梨の日常食であったほうとうが「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わるさまざまな信玄由来説が形成された。

系譜[編集]

武田氏は清和源氏の中の河内源氏系の新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の棟梁。武田氏は甲斐守護も務め、信玄は第19代当主に当たる。

父母
兄弟


妻妾
子女


信玄の正室・側室は上杉朝興の娘、三条公頼の娘・三条の方(または三条夫人)のほか、諏訪頼重の娘など。多数の正室・側室がいたとする説もあるが、系譜・記録資料から確認できるのは上杉の方、三条の方、諏訪御料人禰津御寮人油川夫人の5人である。ただ、禰津御寮人の子と言われる武田信清の出生時期が極めて遅いこと、信玄の七女が母親不詳なこと、上記3人以外の側室とされる墓が残されていることから、ほかに側室がいた可能性も考えられている。

家臣[編集]

武田二十四将

武田家は勝頼の代で滅亡しているが、武田家の遺臣は徳川氏によって保護され、中には幕府に仕えて活躍したものもいる。また、甲斐では村落に居住しつつも武田旧臣に由緒を持ち、特権を保持していた武田浪人が存在していた。

江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになり、信玄の名は広く知られることになった。原典は江戸時代に作られた浮世絵浄瑠璃で、正式に武田家中で二十四将という区分や呼称は存在しない。選ばれた武将達も時代は離れており、全員が同時期に信玄に仕えたことはない。庶民の評価で決まったものらしく、資料によって顔ぶれが異なる。なお、この種の群像では主君を入れないのが一般的だが、武田二十四将には家臣が23名しか入らず、信玄自身が二十四将の一人に数えられていることが最大の特徴である。他に武田四天王(武田四名臣とも、信玄・勝頼を支えた馬場信春内藤昌豊山県昌景高坂昌信の4人を指す)も有名である。


参考文献[編集]

関連事項[編集]

史料[編集]

関連作品[編集]

小説[編集]

映画[編集]

武田信玄が登場する映画

テレビドラマ[編集]

漫画[編集]

武田信玄が主人公の漫画

テレビゲーム[編集]

武田信玄が主人公のテレビゲーム

アーケードゲーム[編集]

武田信玄が主人公のアーケードゲーム

ボードゲーム[編集]

武田信玄が主人公のボードゲーム

  • 信玄上洛 〜風の巻〜 - ツクダホビー ※作戦級(HG-121)
  • 関東制圧 - ツクダホビー ※ 天と地と(第四次川中島合戦)、謙信越山(上杉謙信の小田原包囲戦)、関東制圧(武州松山城包囲戦)、甲相激突三増峠(三増峠の合戦)
  • 甲裴の虎 - ツクダホビー(HG-130) ※上田原の戦い川中島の戦い三増峠の戦いの3シナリオ。
  • 武田盛衰記 - ツクダホビー ※「三方ヶ原の合戦」,「信長、三方ヶ原へ」(ifシナリオ),「長篠の合戦」,「雨の長篠」(ifシナリオ)
  • 武田騎馬軍団 - エポック社
  • 謙信VS信玄 川中島の戦い - アークライト
  • 竜虎激突 信玄謙信 - ゲームジャーナル第8号、シミュレーションジャーナル
  • 信玄最後の戦い - コマンドマガジン日本版第36号、国際通信社 ※『信玄上洛 〜風の巻〜 』のリメイク版。
  • 信州制圧 〜武田信玄の信州制圧〜 - コマンドマガジン日本版第56号、国際通信社
  • Kawanakajima 1561 - Hexasim(フランスのゲームメーカー)。※第四次川中島の戦いをテーマにしたボードゲーム

模型[編集]

歌謡曲[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『甲陽軍鑑』では幼名「太郎」に加え「勝千代」とも呼ばれたとされる。
  2. ^ a b 勝山記』『山資』6所載による。
  3. ^ 『甲陽軍鑑』は江戸時代初期の元和年間に原本が成立した軍学書で、近世社会において広く流布した。奥書に拠れば武田家の行く末を案じた信玄・勝頼期の譜代家老である春日虎綱(高坂昌信、1527年 - 1578年)の口述記録を原本に虎綱子孫が編纂を継続し、虎綱の部下であった小幡昌盛の子景憲が原本を入手し、刊行させたものであるという。内容は文書上で確認されない事績や人物の名前、年紀の誤り等を数多く含み、軍学部分以外では後代の嵌入が認められる箇所も多数あるため、明治期の実証主義史学において資料的価値に否定的評価が与えられてきたが、戦後には酒井憲二の国学的検討を契機に再評価も行われている。刊行本には磯貝正義服部治則校注『甲陽軍鑑』(人物往来社、1965年)や酒井『甲陽軍鑑大成』。
  4. ^ NHK(2002)『その時歴史が動いた』 激突 武田信玄と上杉謙信~川中島の戦い、両雄決戦の時~
  5. ^ NHK(2004)『その時歴史が動いた』 武田信玄 地を拓き水を治める~戦国時代制覇への夢~
  6. ^ NHK(2007)『その時歴史が動いた』完成・戦国最強軍団 ~武田信玄・苦悩の生涯~
  7. ^ 福島勢の侵攻・信玄出生に関しては「高白斎記」「王代記」ともに『山梨県史』資料編資料編6中世3上(県内記録)など
  8. ^ 信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、『甲陽軍鑑』によればこのときの勝利に因み「勝千代(かつちよ)」とも名付けられたという。信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もうまれ、『軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、曾我時致が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。
  9. ^ 『高白斎記』に拠る。「信」は武田氏の通字
  10. ^ 信虎追放に関しては『勝山記』や塩山向岳禅庵小年代記など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や凶作に際しての重税など「悪行」を原因としていることから、『甲斐国志』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。『軍鑑』では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、天文7年(1538年正月元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。
  11. ^ 信虎期からの外交方針の転換については、晴信が官途名を「左京太夫」から「大善太夫」に改称していることにも象徴されていると指摘される(秋山敬「武田氏の国人被官化過程と政権意識」『甲斐武田氏と国人』(高志書院、2003)
  12. ^ 晴信は天文10年6月に信虎を追放し家督を相続しているが、同年5月の海野平合戦で小県を追われた海野棟綱は、信濃の隣国上野に拠する関東管領上杉憲政を頼った。同年7月に憲政は信濃佐久郡へ侵攻し、当時諏訪領主であった諏訪頼重は、同盟相手である武田・小県郡村上氏へ断りをせず、独断で上杉方と和睦して、所領の分割を行っている(「神使御頭之日記」)。晴信の諏訪侵攻はこの翌年に行われていることから、諏訪侵攻の背景には信濃・上野地域における外交情勢が関係していると考えられている平山優『川中島の戦い』2002
  13. ^ 勝山記』によれば晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の首級を夜のうちに志賀城のまわりに打ち立る。志賀城の城兵はこれを見て戦意を阻喪し、8月10日正午に外曲輪、深夜には二の曲輪に火を掛け城兵を追い詰め、翌11日正午頃志賀城は陥落、笠原清繁は甲斐衆の萩原弥右衛門が、高田憲頼は諏訪衆の小井弖越前守が討ち取り、城兵三百余が戦死した。笠原清繁の妻は小山田信有が貰い受け、さらに残った女子供と奉公の男は人質として2貫文から10貫文という法外な値を要求し、大半は黒川金山の坑夫や娼婦、奴婢として人身売買されたという。
  14. ^ なお、『勝山記』天文24年条に拠ればこのとき鉄砲300挺、弓800張が動員されたとしており、武田氏の合戦においてはじめて鉄砲の使用が確認される記事として注目されている。
  15. ^ 鴨川達夫は「神田孝平氏所蔵文書」に含まれた足利義輝宛の手紙を根拠に、信濃守護補任が数年遡る可能性を指摘している(鴨川達夫『日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏山川出版社、2011年、57-60頁、ISBN 978-4-634-54843-5
  16. ^ 『戦武』 - 664号。なお『甲陽軍鑑』では出家時期を天文20年2月とするが、文書上からは否定されるほか、出家時期を策彦周良宛の手紙(『山梨県史』資料編5、二六一七)を根拠に、永禄元年12月とする説も提示されている(鴨志田智啓「武田信玄呼称の初見文書について」 『戦国史研究』60号、2010。鴨川達夫『日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』山川出版社、2011、60頁)
  17. ^ 平山(2002)p.154
  18. ^ 平山(2002)p.155
  19. ^ 平山(2002)p.154
  20. ^ 平山(2002)p.154
  21. ^ 平山(2002)p.154
  22. ^ ただし、天文年間後期(小田井原の戦い以降)には甘楽郡の上野市河氏や国峯小幡氏は既に武田氏に帰属している(黒田基樹「天文期の山内上杉氏と武田氏」(初出:柴辻俊六 編『戦国大名武田氏の役と家臣』(岩田書院、20121) ISBN 978-4-87294-713-7/所収:黒田『戦国期 山内上杉氏の研究』(岩田書院、2013年)ISBN 978-4-87294-786-1)。
  23. ^ 西上野侵攻については、柴辻俊六「武田信玄の関東計略と西上野支配」『戦国大名武田氏領の支配構造』
  24. ^ 丸島和洋「信玄の拡大戦略 戦争・外交・同盟」『新編武田信玄のすべて』2008
  25. ^ 義信事件の経緯は不明であるが、永禄8年10月15日には義信傅役の飯富虎昌が処刑(丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』」『武田氏研究』(34号、2006年))、永禄10年10月19日には甲府東光寺に幽閉されていた義信が自害しており、事件後には領国の動揺を沈静化させるためであると考えられている文書が発給されている。嫡男義信は正室が今川氏真妹で武田家においても親今川派の人物であったと考えられており、義信事件の背景には今川氏との外交関係を巡る武田家内部の事情が関係していると考えられている。義信事件については平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』(山梨県韮崎市教育委員会、2001年)、丸島(2008)。
  26. ^ 駿河侵攻の経緯については駿河侵攻を参照。
  27. ^ 「甲越和与」の経緯については丸島和与「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編 月報』6
  28. ^ 柴辻「越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」『戦国期武田氏領の展開』
  29. ^ 武田氏の領国拡大過程において、天文23年の南信伊那郡制圧において東美濃国衆遠山氏が武田方に帰属しており、この頃から尾張隣国である美濃斎藤氏との緊張関係が発生している。弘治2年4月には斎藤氏と信長の抗争が勃発し、武田氏は遠山氏を介して美濃情勢に介入しており、このころから織田氏との外交関係がもたれていたと考えられている。
  30. ^ 元亀2年、信玄は甲相同盟を背景に大規模な遠江・三河への侵攻を開始したとされているが、近年では元亀2年の三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2009)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007)。
  31. ^ 信長は甲越和与の調停中で武田との友好的関係は保たれており、元亀3年の軍事行動は手切の通告がなされない突然のものであったと考えられている。
  32. ^ 元亀3年の軍事行動の経緯については西上作戦を参照。
  33. ^ 信玄の死因に関しては、侍医御宿監物書状(『戦武』 - 2638号)にみられる持病の労咳肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』による胃癌若しくは食道癌による病死説が有力である。江戸時代には新井白石『藩翰譜』において三河野田城攻城における狙撃が元で死去したとする説を記しているほか、近代には地方病として蔓延した日本住血吸虫病に死因を求める見解も生まれている。
  34. ^ 柴辻俊六「戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-」『山梨県史研究』第5号、1997年。
  35. ^ 黒田基樹「武田信玄と詩歌会・連歌会」『山梨県史』通史編2中世
  36. ^ 平山優「武田信玄の人間像」 『戦国遺文月報』武田氏編第3巻、2003
  37. ^ 黒田基樹『戦国大名と外様国衆』(文献出版、1997年)ISBN 4-8305-1192-3 P134
  38. ^ 狩野探信(狩野探幽の長男)筆『武田信玄画像』 山梨・大泉寺蔵、絹本著色、正徳5年(1715年) 。柳沢吉里(柳沢吉保の嫡男)筆 『武田信玄画像』 山梨・恵林寺蔵(武田信玄公宝物館保管展示)、絹本著色、甲州市指定文化財、享保8年(1723年)信玄没後百五十回忌に吉里が奉納した。
  39. ^ 石川博 「信玄伝説 由緒と図像」(『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録、山梨県立博物館、2006年、所収)。
  40. ^ 例えば、東京大学史料編纂所所蔵の模本(画像)など。
  41. ^ 藤本正行 『武田信玄像の謎』 吉川弘文館<歴史文化ライブラリー206>、2006年
  42. ^ 落合謙暁 「土佐家伝来の伝足利義政像について」日本歴史学会 『日本歴史』 吉川弘文館、2012年9月号、31頁。なお同論文では、像主が畠山徳栄であると共に、切り取られたという賛の筆者が徳栄だった可能性を指摘している。
  43. ^ 松嶋雅人「長谷川等伯─信春時代における諸問題」『東京国立博物館紀要』43号所収、2007年、など。
  44. ^ http://www.city.kofu.yamanashi.jp/contents/content/view/39/83/1/1/ 2011年2月16日参照
  45. ^ 富士山本宮浅間大社御祭神・御由緒[1]