新田次郎

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新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、1912年6月6日 - 1980年2月15日)は、日本小説家気象学者。妻は作家の藤原てい

目次

[編集] 来歴・人物

長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)角間新田(かくましんでん)に彦、りゑの次男として生まれる。彦の兄に気象学者藤原咲平がいる。ペンネームは“新田の次男坊”から。

旧制諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現:電気通信大学)・電機学校(現:東京電機大学)卒業。妻ていは作家。次男正彦数学者エッセイスト。長女の咲子も、家族を書いた小説を発表している。

登山好きの皇太子徳仁親王が愛読する作家として知られる。

[編集] 略歴

この時期の、家族の引き揚げの体験を妻・ていが『流れる星は生きている』として作品化した。

[編集] エピソード

初めての小説は、1942年~1945年の間に書かれたと思われる、藤原廣の筆名の自伝小説『山羊』で原稿用紙7枚。内容は、半生を振り返り抑留生活の辛さと今後作家として活動していきたいという決意の表明となっている。

帰国後は、伯父の咲平(気象の第一人者)が公職追放されるなど気象台自体が組織として混乱しており、気象台はバラック立て隙間風が吹き抜ける状態であり給与も微々たる物で大変な困窮ぶりであった。1949年に、ていの書いた『流れる星は生きている』がベストセラーになり映画化もされ、大変に生活が助かったため作家活動を考えるようになる。手始めにアルバイトとして、教科書の気象関係の執筆を引き受けたり、ジュブナイル小説『超成層圏の秘密』『狐火』などを著したりした。

気象職員として最も知られている仕事に富士山気象レーダー建設がある。これには、1959年伊勢湾台風による被害の甚大さから、広範囲の雨雲を察知できるレーダー施設の設置が要請され、無線ロボット雨量計で運輸大臣賞を受賞するなど気象測量機の第一人者にして高山気象研究の専門として携わった。富士山気象レーダーは当時世界最高(高度)・世界最大であったため、同レーダーの完成後はそのノウハウを国際連合の気象学会で説明するなどの公務に明け暮れた。この時の体験を基にして書いた作品が、小説『富士山頂』である。会計検査院の定期誌「会計と監査」には、小説の解説を題材に連載をおこなった。またこの工事に関してはNHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』第1回で取り上げられた。

1966年3月31日、文筆一本に絞るため気象庁を退職したが、この決意に至るまで、果たして作家一本で食べてゆけるのか、6年後の定年まで待つべきか、など大変懊悩したという。また、退職に際しては気象庁から繰り返し強い慰留を受けたという。

その小説は大変に緻密で、小説構成表(年表のように縦軸と横軸を設定し人物の流れを時系列に当てはめたもの)を先に作成してから執筆に取り掛かった。司馬遼太郎が新聞記者であった頃原稿執筆を依頼しに行ったが、依頼を受けることができない理由として勤務時間・執筆時間・病気になる可能性などをしっかりと並べて断ったと言われる。

いわゆる山岳小説家の代表とされるが、山岳小説と呼ばれることを大変嫌い、「平地を書けば平地小説でしょうか」と切り返したと伝えられる。むしろ歴史小説である『武田信玄』が最も気に入っており、続編である『武田勝頼』、さらには続々編である『大久保長安』を執筆するほどの入れ込みようであったが、その執筆中に亡くなった。夫人のていも、自分の健康を顧みないほどの執筆態度をかなり心配していたが、不幸にも予感が的中した事になった。またNHK大河ドラマで映像化される事を熱望していたが、生前に実現を見る事ができなかった。

彼の作品は山岳小説をはじめとする「夢と挑戦」をコンセプトにしているが、題材として、歴史上の人物や科学者や技術者、また強い意志で道を切り開いた人物を描いた人物伝・公害やリゾート開発などに伴う問題を取り上げた作品・海外での経験を生かした作品・科学者としての作品など多彩にとった。ビーナスラインに関して『霧の子孫たち』で反対を示したことは、自然保護運動を盛り上げさせる契機となった。

[編集] 作品一覧

[編集] 映像化作品

[編集] 映画

[編集] テレビ

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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