塩尻峠の戦い

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塩尻峠の戦い
戦争甲斐武田家信濃小笠原家の抗争
年月日天文17年(1548年)7月
場所:塩尻峠(現在の長野県
結果:武田軍の勝利
交戦勢力
武田軍 小笠原軍
指揮官
武田晴信 小笠原長時
戦力
3000 5000

塩尻峠の戦い(しおじりとうげのたたかい)は戦国時代の天文17年(1548年)に信濃守護小笠原長時軍と甲斐守護・武田晴信軍との間で行われた合戦。

合戦地[編集]

塩尻峠は現在の長野県塩尻市岡谷市の境に所在し、甲斐・信濃国境に近い。諏訪湖の北西にあたる。

従来、この合戦は塩尻峠で行なわれたものとされていたが、小和田哲男は最近の研究で塩尻峠の南にある勝弦峠で起こったものとしている[1]

合戦までの経緯[編集]

天文10年(1541年)6月に父・武田信虎駿河に追放して当主となった武田晴信は、父の時代から進められていた信濃侵攻を続けて勢力を拡大していた。しかし天文17年(1548年)2月、北信濃に勢力を誇る村上義清上田原で戦い大敗を喫し、板垣信方甘利虎泰ら多くの有力武将を1度に失った[2]。この結果、武田軍の指揮系統は一部が完全に消滅した[2]

この結果、これまで晴信の信濃侵攻で平定されていた地域で動揺が走る。上田原合戦終了から1か月たった4月5日には村上義清の村上軍が武田領の佐久郡に逆侵攻し、内山城を焼き討ちした[3]。これに対して武田軍は軍隊の再編成が急務であり、村上軍の南下を抑える事はできなかった[3]

このような事態を見た信濃守護で晴信に圧迫されていた小笠原長時は、好機到来と見て4月中旬に村上義清や安曇郡仁科盛能と連合して諏訪に攻め入り、諏訪下社を占領した[4]

塩尻峠の戦い[編集]

7月10日花岡氏矢島満清ら武田家に与していた諏訪西方衆を寝返らせた[3]。長時は諏訪郡代・板垣信方を失って動揺の激しい上諏訪に押し寄せた[3]。これが7月11日である[3]

これを知り、晴信は大井森に軍勢を集結させた[3]。しかし普段は神速のように軍勢を動かす晴信がこの時はなかなか動こうとしなかった。

しかし兵力的にも戦況でも優位にあった小笠原軍にも弱点があった。長時は晴信に対抗するためなりふり構わず兵力をかき集めたから、その軍は寄せ集めで結束力など乏しく、むしろ対立さえあった[5]。そのため、小笠原軍では長時の舅である仁科盛能が作戦方針をめぐって長時と対立して軍を率いて退去し、山家氏や三村氏などの武将らは晴信の調略で内応する始末だった[5]。そのため7月18日、晴信がようやく軍勢を動かした時には内部統制の乱れや攻勢限界にあった小笠原軍は塩尻峠まで撤退せざるを得なかった[5]

7月18日、晴信は軍を率いて上原城に入る[1]。翌日未明、晴信はこれまで鈍重な進軍を続けていた晴信は、隠密裏に軍を移動させて長時のいる塩尻峠に急襲を開始[1][5]。寝込みを襲われた完全に小笠原軍は意表を突かれた[1][5]。しかし長時とその旗本は勇猛で知られ、狭い峠道を強引に攻めのぼろうとするから兵力でもともと劣勢だった武田軍は5度にわたって押し返された[6]。ところがこの間に晴信は同母弟の武田信繁に別働隊を与えて勝弦峠越えで小笠原軍の側背に移動させていた[6]。そして晴信の本隊が長時本隊に攻めかかる間に、別働隊が小笠原軍の側背を急襲[6]。この6度目の戦いで、もともと晴信に内応の約束をする武将まで出る始末だった小笠原軍は裏崩れを起こして諸隊は逃げ、自滅した[6]

小和田哲男は小笠原軍は軍装準備の暇も無く敗れ去ったとしている[1]

戦後[編集]

小笠原長時は命からがら居城の林城に逃走した[1]。しかし敗戦の傷跡は深かった。一方の武田晴信は上田原の大敗をこの大勝で埋め合わせる事になり、9月6日には諏訪から佐久へ侵攻して前山城はじめ13の城を落とした[6]。10月2日には筑摩郡に入って林城からわずか2里の村井に築城を開始するが、長時にはこれを既に阻止する力さえ無かった[6]。結局、天文19年(1550年)7月に長時は晴信に林城を追われる事になる[7]林城の戦い)。

脚注[編集]

註釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 小和田哲男 著『戦国合戦事典‐応仁の乱から大坂夏の陣まで』PHP研究所、1996年、p.118
  2. ^ a b 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編②』学習研究社、2002年、p.31
  3. ^ a b c d e f 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編②』学習研究社、2002年、p.30
  4. ^ 小和田哲男 著『戦国合戦事典‐応仁の乱から大坂夏の陣まで』PHP研究所、1996年、p.117
  5. ^ a b c d e 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編②』学習研究社、2002年、p.31
  6. ^ a b c d e f 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編②』学習研究社、2002年、p.32
  7. ^ 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編②』学習研究社、2002年、p.34

参考文献[編集]

書籍
史料

外部リンク[編集]