一条信龍

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一条 信龍
時代 戦国時代
生誕 天文8年(1539年)?
死没 天正10年3月10日1582年4月2日
別名 上野介、右衛門大夫(通称)、信隆、信竜(別名)
主君 武田信玄勝頼
氏族 武田氏一条氏
父母 父:武田信虎
兄弟 竹松信玄犬千代信繁信基(信友?)、信廉
松尾信是宗宝河窪信実信龍信友?、
その他女子数名
一条信就(上野介)、信貞三宅正次

一条 信龍(いちじょう のぶたつ)は、戦国時代武将甲斐武田氏当主武田信虎の八男。武田信玄の異母弟。武田二十四将の一人。

経歴[編集]

信虎の八男で、子女18人のうち17番目の子とされる[要出典]。甲斐国市川郷上野城主。甲斐源氏武田信義の二男忠頼を祖とする一条家の名跡を継承する。親族衆として騎馬200騎(100騎とも)相備え組衆は依跡10騎、大津10騎を有し、本願寺及び松永久秀等畿内勢力との外交を担当した。信玄の遺言により勝頼の後見人となる。

戦闘時には、主に後衛を担当していたためか武名は伝わっていないが、『甲陽軍鑑』では、山県昌景馬場信春など重鎮7人の武将のうちに数えられている。駿河侵攻では田中城代を務めた[要出典]。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参戦し、『甲陽軍鑑』によると佐久間勢に攻撃を加えて二重の柵を破るまでの活躍を見せ、敗走する友軍の中で馬場信春勢と戦場に留まり、勝頼の戦線離脱を見極めた後で退却している。後に田中城代を子の信就に譲り、武田信堯信友の子)とともに駿府城代に転じたという。

天正10年(1582年)の甲州崩れでは、3月2日に駿河を撤退して上野城に戻るが、同方面より侵攻した徳川家康の三河勢に上野城を包囲され、3月10日、三河勢1万に対し手勢3百で突撃して信就と共に討死にした。『信長公記』によると、天正10年(1582年)3月7日に武田信廉と共に斬首されたとあるが、これは兄の武田信基(上野介信友)の誤りとされる。ただし、信龍と信就は甲州崩れでは別行動を取っており、斬首されたのは信就の誤りとする説も存在する(黒田基樹説)。

逸話[編集]

  • 資料や記録に乏しい人物だが、『甲陽軍鑑』では、山県昌景の発言として「一条殿は、馬鞍武具等、これほど忙しくともいつも新しく、しかも諸国の良い浪人を集めている」と言う評が伝わっている。また「伊達者にして花麗を好む性質なり」との評も伝わる。
  • 武田信玄が軍事面において、典厩信繁と大夫信龍を尤も信頼していたという記述がある。

外部リンク[編集]