甘利信忠

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甘利 信忠(あまり のぶただ、生没年未詳)は、戦国時代武将甲斐国武田氏の家臣で譜代家老衆。後代には武田二十四将に数えられる。

幼名は玉千代、藤三。通称および官途名は左衛門尉。初めのとされる「(甘利)昌忠」(まさただ)と表記されることも多いが、永禄年間から「信忠」を名乗っている。また、別名に武田晴信偏諱を冠した「晴吉」(はるよし)もあるとされるが、本項では「信忠」に統一する。

生涯[編集]

父は武田氏譜代家老の甘利虎泰。『甲陽軍鑑』に拠れば虎泰は板垣信方とともに武田家の最高職位とされる「両職」を務めたとされる。なお、武田家中では甘利氏の一族として甘利信康がおり、信忠の弟もしくは子であると考えられている。また、兄に天文11年(1542年)の瀬沢の戦いで戦死した甘利信益(のぶます)もいたとされ、これを受けて嫡男となった可能性もある。信忠も含め「信」字は武田晴信から賜った偏諱と考えられる。

晴信期の信濃侵攻において、天文17年(1548年)の上田原の戦いで虎泰・信方両名は戦死し、信忠は家督を継承して甘利衆を率い、板垣信憲[1]とともに「両職」になったといわれる。

初見文書は天文20年(1551年)7月の二宮美和神社への勧進免許添状で、信憲とともに名前が確認される。信忠は信玄期の取次としての活動が見られ、信濃方面では木曾氏西上野侵攻においては上野国衆の浦野氏鎌原氏の取次を務めているほか、常陸の佐竹氏[2]小田氏ら関東国衆、長井道利ら美濃[3]・飛騨方面の取次のほか、相模後北条氏との外交にも携わっている。

永禄7年頃には「信忠」と改めている。永禄10年8月の諸役免許状を最後に文書から見られなくなり、昌忠の没年は不詳で、一説では永禄9年(1566年)に落馬死したとも、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いに参加して戦功を挙げたものの、直後に病死したとも言われている。後を弟の信康が継いだ。

永禄9年(1566年)から永禄10年(1567年)に武田諸将より信玄宛で提出された「下之郷起請文」(当時の武田氏の有力な将士の殆どの名がある)には昌忠の名は無く、甘利源左衛門尉信康の名が見えるので(複数の部将の連署の形式になっているが、その先頭に名があることから、寄親としての起請文提出と考えられる)、永禄10年(1567年)末から天正3年に死去している可能性が考えられている。

脚注[編集]

  1. ^ 信憲は板垣信方の子で、信忠とともに宿老として活動している。永禄初年には処断されており、対外外交においては信忠が独占的に取次を務め、信忠の武田家中における地位が向上している点が指摘される。
  2. ^ 佐竹氏との関係は、武田氏による永禄11年末の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)による甲相同盟の破綻により対後北条氏の同盟として交渉が本格化されているが、取次は信忠のほか信玄側近の土屋昌続も務めており宿老の信忠と側近の昌続の組み合わせであることが指摘される。その後は甲相同盟が回復するが、勝頼期のには御館の乱による甲相同盟の再破綻により再び佐竹氏との同盟が試みられ、甲佐同盟として成立している。信忠とともに信玄期に佐竹氏との取次を担当した土屋昌続は天正3年の長篠の戦いで戦死しており、甲佐同盟に際しての取次は一門の武田信豊、側近の跡部勝資が担当している。
  3. ^ 美濃斎藤氏との取次に関しては、信忠が信濃・美濃国境の国衆である木曽氏との取次を務めていたことから取次に起用されたと考えられている。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 平山優「甘利信忠」『新編武田信玄のすべて』
  • 黒田基樹「武田氏の西上野経略と甘利氏」『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院、2001
  • 丸島和洋「戦国大名武田氏権力の特質と構造」『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版、2011