柳沢吉保

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柳沢 吉保
Yanagisawa Yoshiyasu.jpg
絹本著色柳沢吉保像(部分、一蓮寺蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 万治元年12月8日1658年12月31日
死没 正徳4年11月2日1714年12月8日
改名 房安(初名)→佳忠→信本→保明→吉保→保山(法号)
別名 十三郎→弥太郎(通称)
戒名 永慶寺保山元養
墓所 奈良県大和郡山市永慶寺町の永慶寺
山梨県甲州市塩山小屋敷の恵林寺
官位 従五位出羽守、従四位下、侍従
左近衛少将美濃守、贈従三位
幕府 江戸幕府小納戸側用人老中格大老格
主君 徳川綱吉
上野館林藩士→上総佐貫藩主→武蔵川越藩主→甲斐甲府藩
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢安忠、母:了本院(佐瀬氏)
正室:定子曽雌定盛の娘)
側室:飯塚染子町子正親町実豊の娘)
吉里長暢安基
経隆時睦米倉忠仰
保経、娘(内藤政森室)、
娘(松平資訓継々室)

柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。

生涯

柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し[1]甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。武田氏の滅亡後、武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、柳沢氏は吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官した。柳沢氏は土屋氏と並んで、武田遺臣から近世大名化した一族として知られる。

万治元年(1658年)12月8日、吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれる。母は側室の佐瀬氏。長男ではあったが父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫(父・安忠の娘婿)である信花が養嗣子となって継いだ。

寛文4年(1664年)に館林藩主徳川綱吉に初めて謁見する。寛文12年(1672年)に甲斐国恵林寺において行われた武田信玄百回忌の法要においては、父安忠とともに奉加帳に名を連ねている。

翌寛文13年に元服する。延宝3年(1675年)7月12日には父・安忠の致仕に際して家督を相続し、保明(やすあき)と改名、小姓組番衆となり、同年12月18日には旗本・曽雌盛定の娘・定子を室に迎える。延宝5年(1677年)には曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵に禅を学んでいる。

延宝8年(1680年)、館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、綱吉の家臣である保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられる。保明は綱吉の学問上の弟子となり、市ヶ谷から愛宕下に居を移す。

天和元年(1681年)に生母の了本院を江戸へ引き取っており、この際に侍女としてつき従っていた飯塚染子は貞享2年(1686年)頃に保明の側室となる。

綱吉の寵愛により頻繁に加増され、貞享2年(1685年)12月10日、従五位下出羽守に叙任する。

元禄元年(1688年)6月10日、西の丸下から一橋内の屋敷に移る。同年11月12日、小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任する[2]。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。廃城となっていた上総国佐貫城に封じられる。翌元禄2年には一橋内から神田橋内に居を移し、霊岸島にも中屋敷を拝領する。

元禄3年(1690年)3月26日に2万石を加増され、同年12月25日に従四位下に昇叙する。出羽守如元。元禄4年(1691年)2月3日に常盤橋内に屋敷を拝領し、同年3月22日に将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う。以来、綱吉は58回に及ぶ吉保邸への御成を行なっている。

元禄5年(1692年)11月14日に3万石を加増される。元禄7年(1694年)1月7日に石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。同年12月9日には老中格と侍従を兼帯する。同11年(1698年)7月21日、大老が任ぜられる左近衛権少将に転任する。出羽守如元。元禄7年(1694年)1月7日に1万石を加増され、川越城を拝領する。同年3月11日に常盤橋内の隣地に屋敷を拝領する。翌元禄8年4月21日に駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領し、後にこれが六義園となる。

元禄14年(1701年)11月26日に吉里とともに将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任した[3]。翌元禄15年7月12日、吉保邸が火災に遭い家財を焼失し、吉保自身は家臣薮田重守邸に避難する。翌元禄16年8月26日、幕府奥絵師狩野常信に肖像を描かせ、自賛を記している。

宝永元年(1704年)12月21日、綱吉の後継に甲府徳川家綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城駿河国内に所領を与えられ、15万石の大名となる[4]。翌宝永2年3月12に駿河の所領を返上し、甲斐国3郡(巨摩・山梨・八代)を与えられる。同年4月10日、甲斐恵林寺において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっている。

側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から朝廷にも影響力を持ち、元禄15年(1702年)に将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白近衛基煕など朝廷重臣達へ根回しをしておいたおかげであった[要出典][5]宝永2年(1705年)、家門に列する。宝永3年(1706年)1月11日には大老格に上り詰めた。

しかし宝永6年2月19日1709年3月29日)、権勢の後ろ盾ともいうべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣(綱豊)とその儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。同年6月3日7月9日)、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。

隠居後は江戸本駒込東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、綱吉がたびたび訪れた六義園の造営などを行った。正徳4年(1714年)11月2日、死去した。享年57。法名は永慶寺保山元養。墓所は奈良県大和郡山市永慶寺町の龍華山永慶寺、また、山梨県甲州市塩山小屋敷の乾徳山恵林寺(武田信玄の墓の隣)にある。なお、(1912年)(大正元年)12月14日、贈従三位。

肖像

『楽只堂年録』によれば、吉保は元禄15年に狩野常信の筆による三幅の寿像を作成させている。甲斐国の一蓮寺常光寺に寄進された像は束帯姿の同様の肖像で、一蓮寺本には手前の文机の上に古今和歌集が描かれ、常光寺本には文机の上に軍令が記された文書が描かれている。一蓮寺と常光寺はいずれも甲斐源氏にゆかりのある寺院で、ともに吉保が甲斐源氏の後裔であることを意識し、文武両道の教養を積んだことを示す像と評されている。

また、永慶寺には『楽只堂年録』に記される烏帽子狩衣姿の像が残されているほか、永慶寺や恵林寺には武田不動尊像を造像した仏師康慶の子孫とされる仏師浄慶の作による吉保・夫人の木像も残されている。

人物・逸話

  • 吉保は和歌に親しみ、北村季吟から古今伝授を受けた。数々の詩歌を残してるほか、黄檗宗に帰依し悦峰道章を招き、甲斐に永慶寺を創建している(永慶寺は後に大和郡山に移転)。
  • 俗説によれば、側室の染子はかつて綱吉の愛妾であり、綱吉から吉保に下された拝領妻であるという。一説に吉里は綱吉の隠し子であるとも言われる。また、一説に吉保は甲府に100万石の領地を綱吉から賜らんと企てて、吉保の側室になってからも綱吉の寝所に召されることの多かった染子を通じてこれを願い出た。綱吉はこれを快諾するも、まもなく綱吉は病死し、このことは沙汰止みとなった。しかし、このようなことがまた起こることを憂慮した幕閣は、これ以降、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を2名、将軍の寝所に泊まらせ、彼女等に寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかをことごとく報告させることとした。このことは、江戸幕府が滅亡するまで続けられた。
    • 以上の説話は主に『護国女太平記』が流布・訛伝されたものと考えられており、実際には染子は柳沢家家臣の娘に過ぎず、大奥に上がったことも一度としてなかったため、将軍綱吉との接点もほとんどない。「御添い寝」の逸話も、おねだりをしたのがお伝の方など他の女性に変えられて語られる場合もあり、これも信憑性のないものとされることが多い。
  • 元禄14年(1701年)の浅野長矩の刃傷事件に対する幕府の裁断には、吉保の意向が関係していた事実が指摘されており、元禄赤穂事件を題材とした『忠臣蔵』の映像作品などでは事件の黒幕・悪役として描かれることが多い。しかし川越藩主時代には三富新田の開発(現在でも所沢市三芳町あたりにその当時の区画が残っている)などを行い、行政面での業績は評価されている。三富新田の古くからの住民の家には、祖先の位牌と並んで吉保の位牌が並べられているという報告もある[6]
  • 吉保は綱吉の文治政治に恭順するために儒者を多く召し抱え、儒学の発展に少なからぬ役割を果たした。有名な者には新井白石のライバル的存在として知られる荻生徂徠、また元禄赤穂事件を裏から支援していたことで知られる細井広沢がいる。細井広沢はのちに側用人の松平輝貞の不興を買い、輝貞から柳沢家へ執拗に細井を放逐せよという圧力があったため、やむなく放逐されたが、その後も吉保は浪人した広沢に年間50両もの支援金を送って親交を持ち続けたという。
  • 吉保の有名な言葉に「泰平の世の中で、出世をするのは、金と女を使うに限る」とある。
  • 明治維新にて廃藩置県となった1880年に、旧大和郡山藩士族が吉保と吉里の遺徳を偲び、旧大和郡山城跡に柳沢神社を創建した。

家族

正室は親族である曽雌定盛の娘(曽雌定子)。側室は飯塚氏(飯塚染子)、公家正親町実豊の娘(正親町町子)。染子との間に嫡男の吉里が生まれている。

子は柳沢吉里(長男)、柳沢長暢(次男)、柳沢安基(三男)、柳沢経隆(四男)、柳沢時睦(五男)、米倉忠仰(六男)、柳沢保経(七男)、娘(内藤政森正室)、娘(大河内松平輝貞養女、本庄資訓継々室)。

長男吉里はのち大和国郡山藩15万石に転じる。四男経隆は越後国黒川藩1万石、五男時睦は同国三日市藩1万石の藩主となり、三藩とも明治維新まで存続した。六男忠仰は米倉昌照の養子となって皆川藩主(のち六浦藩主)。七男保経は兄・時睦の養子となる。

楽只堂年録

『楽只堂年録』(らくしどうねんろく)は、柳沢吉保の公用日記である。全229巻。

徳川実紀』に倣い、荻生徂徠により編纂された吉保一代の事業禄で、同様に吉里期にも『福寿堂年禄』が編纂されている。和文体と漢文体の諸本が存在し、内容は吉保に至る柳沢氏歴代の系譜から、宝永6年(1709年)に家督を吉里に譲り隠居するまで吉保一代の治績が記されている。原本は柳沢文庫に所蔵。

なお、吉保の一代記には他に野庵着沢家臣薮田重守により編纂された『永慶寺殿公御実録』がある。

『水戸黄門』作中における活躍

柳沢吉保 (水戸黄門の登場人物)

脚注

  1. ^ 柳沢氏の系譜については西川広平「柳澤家の系図編纂と武田家」『山梨県立博物感研究紀要』第3号、2009
  2. ^ 柳沢吉保の「側用人」任命に関して、福留真紀は江戸幕府の日記類において公式な「御側御用人」の役職が見られるのは宝暦6年(1756年)5月21日の大岡忠光に関する記事であり、綱吉期には役職としての「側用人」の呼称は確立しておらず、将軍側近のあり方も綱吉期と役職としての「側用人」確立後では変質していることを指摘している(福留 2011)。
  3. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、69頁。
  4. ^ 甲斐国は江戸に近い要衝として重要視され、近世には幕府直轄領から徳川一門の所領に変遷している。
  5. ^ 正親町公通は霊元上皇に近い存在である。近衛基熙家煕親子は霊元上皇と対立しており、しかも近衛基煕の娘の煕子(天英院)は当時綱吉と対立していた徳川家宣に嫁いでおり、近衛基熙が桂昌院の任官に動いたとは考えにくい。[要出典]
  6. ^ 廣井敏男『里山はトトロのふるさと』旬報社

参考文献

展覧会図録
  • 第二十八回企画展 柳沢吉保と風雅の世界』 川越市立博物館、2006年
  • 『甲府城と柳沢吉保』展図録 山梨県立博物館、2011年
    • 西川広平 「柳沢吉保」
    • 髙橋修 「柳沢吉保年表」ほか

登場作品

映画

テレビドラマ

吉保が主人公のテレビドラマ
吉保が登場するテレビドラマ

外部リンク