古今和歌集
『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代初期に撰ばれた最初の勅撰和歌集のこと。[1]略称を『古今集』ともいう。
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[編集] 概要
『古今和歌集』は巻頭に仮名で書かれた仮名序と、巻末に真名序[2]の二つの序文を持つが仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に選ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、 延喜5年(905年)4月18日に奏上された。[3]ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られる。撰者は紀貫之、紀友則(編纂途上で没)、壬生忠岑、凡河内躬恒の4人である。
勅命により国家の事業として和歌集を編纂するという伝統を確立した作品でもあり、八代集・二十一代集の第一に数えられる。平安時代中期以降の国風文化確立にも大きく寄与し、『枕草子』では古今集を暗唱することが当時の貴族にとって教養とみなされたことが記されている。収められた和歌のほかにも、仮名序は後世に大きな影響を与えた歌論として文学的に重要である。
中世以降、『古今和歌集』についての講義や解釈は次第に伝承化され、やがて古今伝授(こきんでんじゅ)と称されるものが現れた。これは『古今和歌集』の講義を師匠と定めた人物より受けその講義内容を筆記し、さらに師匠からその筆記した内容が伝えたことに誤りはないかどうかの認可を最後に受けるというものであった。この古今伝授は当時の公家や歌人にとっては重要視され、朝廷を中心とする御所伝授や地下伝授・堺伝授と呼ばれる系統が形成されていった。細川幽斎が丹後田辺城で石田三成の軍勢に囲まれ死を覚悟した時、この古今伝授を三条西実枝から受けていたので勅使が丹後に赴き和議を講じ、その結果幽斎は城を開いて亀山城に移ったという話がある。かように大事にされた古今伝授は、富士正晴によれば実際には「この歌に詠まれている木は、何処の木」といった由来に関する内容のものであったという。本居宣長は『排蘆小船』で、これを後代の捏造であると痛烈に批判している。しかし当時における古今伝授とは単なる古典の講義ではなく、『古今和歌集』の和歌が当時の教養層が和歌を詠む際の手本ともされ、その手本を通して和歌の詠み方を学ぶ「歌学教育のカリキュラム」として行なわれたという意見もある。[4]
現在『古今和歌集』の本文としてもっぱら読まれているのは、藤原定家が書写校訂した系統の写本(定家本)をもとにしたものである。定家自筆の書写本も現存しているが、平成22年(2010年)には定家本系統で鎌倉時代初期の写本が見つかっている。[5]
[編集] 構成
全二十巻で定家本によれぱ歌数は総勢1111首、前述のように巻頭に仮名序、巻末に真名序が付くが内容はおおよそ同じである。ただし伝本によってはまず巻頭に真名序、次に仮名序があってその次に本文がはじまるものがあり、また仮名序だけで真名序が収録されていない伝本もある。[6]真名序は紀淑望、仮名序は紀貫之の作とされる。歌の中には長歌5首・旋頭歌4首が含まれるが、残りはすべて短歌である。二十巻からなる内容は以下の通りである。
- (仮名序)
- 巻第一 春歌 上
- 巻第二 春歌 下
- 巻第三 夏歌
- 巻第四 秋歌 上
- 巻第五 秋歌 下
- 巻第六 冬歌
- 巻第七 賀歌
- 巻第八 離別歌
- 巻第九 羈旅歌
- 巻第十 物名
- 巻第十一 恋歌 一
- 巻第十二 恋歌 二
- 巻第十三 恋歌 三
- 巻第十四 恋歌 四
- 巻第十五 恋歌 五
- 巻第十六 哀傷歌
- 巻第十七 雑歌 上
- 巻第十八 雑歌 下
- 巻第十九 雑体(長歌・旋頭歌・誹諧歌)
- 巻第二十 大歌所御歌・神遊びの歌・東歌
- (墨滅歌)
- (真名序)
なお定家本をはじめとする古い伝本では通常、巻第十までを上巻、それ以降の巻を下巻として分け上下2冊の冊子本としている。『古今和歌集』で確立された分類は和歌の分類の規範となり、歌会、歌論などにおいて使われただけでなく、後世の勅撰和歌集に形を変えながら継承され、また連歌におけるさらに細分化された句の分類の基礎ともなった。
巻十九冒頭に「短歌」という標目で長歌が収録されていることは古来謎とされてきたが、2000年に小松英雄が新説を提示している[7]。
[編集] 評価の変遷
『古今和歌集』は上で触れた『枕草子』で見られるように古くからその評価は高く、『源氏物語』においてもその和歌が多く引用されている。また歌詠みにとっては和歌を詠む際の手本としても尊ばれ、藤原俊成はその著書『古来風躰抄』に、「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べており、これは『古今和歌集』が歌を詠む際の基準とすべきものであるということである。この風潮は明治に至っても続いた。ただし江戸時代になるとその歌風は賀茂真淵などにより、『万葉集』の「ますらをぶり」と対比して「たをやめぶり」すなわち女性的であると言われるようになる。
しかし明治21年(1888年)、正岡子規が『再び歌よみに与ふる書』のなかで「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集にて有之候」と述べて以降、『古今和歌集』の評価は著しく下がった。その背景には当時、古今集の歌風の流れを汲む桂園派への批判もあったといわれるが、『古今和歌集』は人々から重要視されることがなくなり、そのかわりに『万葉集』の和歌が雄大素朴であるとして高く評価されるようになった。和辻哲郎は直裁には言わないが『古今和歌集』の和歌が総体として「愚劣」であるとしており、[8]萩原朔太郎にいたっては「笑止な低能歌が続出」「愚劣に非ずば凡庸の歌の続出であり、到底倦怠して読むに耐へない」[9]とまで酷評する。そして現在は「愚劣」という言葉こそ使われないものの、『万葉集』を尊び『古今和歌集』はそれよりも劣ったものとする前代からの風潮は、大勢として変わってはいない。
[編集] 最古の写本とその復元
現存する最古の写本は「高野切本古今和歌集」で、11世紀半ばに源兼行ら3人が分担して書写した巻子本形態の伝本である。高野切は古筆切として珍重され、現在そのほとんどが数行分を切り取って掛け軸にしたり、手鑑に貼るなどされてばらばらになっているが、そのうちの巻第五・巻第八・巻第二十が完本として伝わっており国宝に指定されている。
2011年1月筑波大学教授が国宝である高野切を18年かけ学生とともに復元し発表した。古典学術的な完成度に乏しく(高野切の三種とされる筆跡の人物らがどのように失われた四巻六巻七巻十巻から十七巻に携わったのか、もしくは他の人物が作成に係わったのか?学術的根拠も示されぬ憶測のみのまま)制作に芸術専攻書道科の学生を単位科目のひとつとしてとして起用することなど「芸術的な価値を評価してほしい」と曖昧な自己満足を論じている。研究者としては無論、それ以上に古典芸術に対する大いなる侮辱である。[要検証]
[編集] 脚注
- ^ 『栄花物語』「月の宴」の巻には、天平勝宝5年(572年)に孝謙天皇が橘諸兄ほかに命じて『万葉集』を撰ばせたとの記述があり、これに従えば勅撰和歌集の一番初めは『万葉集』ということになる。しかし現在では『万葉集』の成立は大伴家持が関わるところ大であるとされており、この『栄花物語』の記述はほとんど省みられていない。ゆえに勅撰和歌集の最初は『古今和歌集』であるとされている。
- ^ 「真名」とは漢字のことで、すなわち漢文で書かれた序文のこと。この真名序は『本朝文粋』にも収録されている。
- ^ この日付は仮名序にある日付で、真名序では延喜5年4月15日となっている。
- ^ 『古今集の世界 伝授と教授』横井金男・新井栄蔵編(1986年、世界思想社)第九章「歌学カリキュラムとしての古今伝授」より。
- ^ “古今和歌集、漢字入り最古の完全写本 甲南女子、重文に申請検討”. 産経新聞. (2010年10月21日 09:47 (JST)) 2010年11月14日閲覧。
- ^ 『古今和歌集』については古くは貫之自筆の本というものが三つ伝わっていたが、そのうち醍醐天皇に奏覧した本には仮名序も真名序もなく、皇后藤原穏子に奉った本と貫之が自宅に留めておいた本には仮名序はあったが真名序は付いていなかったという。『古筆学断章』小松茂美著(1986年、講談社)423頁以降参照。
- ^ 小松英雄『古典和歌解読 和歌表現はどのように深化したか』笠間書院、2000年。
- ^ 「『万葉集』の歌と『古今集』の歌との相違について」(『日本精神史研究』)より。
- ^ 『古今集に就いて』(『萩原朔太郎全集[補訂版]』第7巻 1987年、筑摩書房)より。
[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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