藤原佐理
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書状(離洛状)畠山記念館蔵、国宝
藤原 佐理(ふじわら の すけまさ/さり[1]、天慶7年(944年) - 長徳4年7月25日(998年8月19日)は、平安中期の能書家・公卿。藤原北家小野宮流、太政大臣・藤原実頼の孫、左近衛少将・藤原敦敏の子。官位は正三位・参議。
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[編集] 経歴
右近衛少将、参議、兵部卿、大宰大弐などを歴任し、正三位に至る。早くより能書で知られ草書の第一人者としての評価も高く、円融、花山、一条の3天皇の大嘗会の屏風の色紙形の筆者としても活躍した。小野道風・藤原行成とともに三蹟の一人で、流麗で躍動感のある筆跡は「佐跡」と呼ばれる。真跡として「詩懐紙」(しかいし、国宝)のほか、「離洛帖」(りらくじょう、国宝)などの書状数点がある。
佐理は大層酒を好んだが、それが為に不興を買うことも多かった。また、職務怠慢甚だしく、常識を欠く嫌いがあった。『大鏡』に、「如泥人」(だらしのない人の意)とあるのはこの事を指していよう。一方、『参議要抄』には『佐理参議抄(佐理抄)』なる書が引用されており、小野宮家の一員らしく、故実について一家言あったと思われる。また、『大鏡』では、太宰大弐の任期が終わり京都へ戻る途中に、夢の中で三島明神の懇願を受け佐理が神社の扁額を書いた話、当時の関白藤原道隆が東三条殿を造営した際、襖の色紙形に歌を書くように命じられたが、佐理が参上に遅れ道隆の機嫌を損ねた話、が語られている。
[編集] 官歴
- 応和元年(961年) 1月7日:従五位下。11月3日:侍従
- 応和2年(962年) 8月7日:右兵衛権佐
- 康保3年(966年 )1月27日:右兵衛権少将
- 康保4年(967年) 1月24日:近江介。10月17日:従五位上
- 安和元年(968年) 11月23日:正五位下
- 安和2年(969年) 9月2日:五位蔵人。10月19日:右中弁
- 天禄元年(970年) 11月20日:従四位下
- 天禄2年(971年) 12月15日:左中弁
- 天禄3年(972年) 4月28日:内蔵頭
- 天延3年(975年) 1月7日:従四位上。10月5日:紀伊権守
- 貞元2年(977年) 7月8日:正四位下
- 天元元年(978年) 10月17日:参議
- 天元2年(979年) 1月29日:讃岐守
- 天元4年(981年) 10月4日:従三位を辞退(子の頼房が従五位下に叙爵)
- 天元5年(982年) 1月30日: 伊予権守
- 永観元年(983年) 1月27日:勘解由長官
- 永観2年(984年) 1月29日:美作守。8月9日:従三位
- 永祚元年(989年) 11月18日:勘解由長官辞任。11月28日:播磨権守
- 正暦元年(990年) 1月29日:兵部卿
- 正暦2年(991年) 1月27日:大宰大弐(参議・兵部卿辞任)。4月26日:皇后宮権大夫
- 正暦3年(992年) 3月14日:正三位
- 正暦4年(993年) :皇后宮権大夫辞任
- 長徳元年(995年) 10月18日:大宰大弐免職
- 長徳3年(997年) 4月5日:太皇太后宮権大夫
- 長徳4年(998年) 1月25日:兵部卿
[編集] 真蹟
- 詩懐紙(国宝)香川県立ミュージアム蔵 - 「懐紙」とは書道用語では漢詩、和歌などを一定の書式に則って書写したもののこと。本作品は、平安時代の詩懐紙として現存唯一の貴重な作品。
- 書状(離洛帖)(国宝)畠山記念館蔵 - 正暦2年(991年)、佐理(当時48歳)が書いた書状で、内容は佐理が大宰大弐(だざいのだいに、大宰府の次官)に任命されて任地へ向かう旅の途上、摂政の藤原道隆に赴任のあいさつをしてくるのを忘れたことを思い出し、妹の息子である藤原誠信にあてて、道隆へのとりなしを依頼した侘び状である。スピード感のある草書体を駆使した個性的な書風が特色である。
- 書状(恩命帖)- 三の丸尚蔵館蔵
- 書状(女車帖・国申文帖)- 書芸文化院蔵 - 天元5年(982年)4月、佐理が伊予権守在任中に関白藤原頼忠の家司であった藤原為雅を通じて藤原頼忠にあてた詫び状。文書の処置を怠ったことに始まり、正月の大饗を頼忠よりも先に退出したこと、頼忠の娘である遵子が円融天皇の女御として入内する際の供奉を怠ったことを詫びている。
- 書状(去夏帖)
- 書状(頭弁帖)(重要美術品[2]) - ふくやま書道美術館蔵