君が代
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 君が代 | |
|---|---|
「君が代」の楽譜(国旗及び国歌に関する法律による)
|
|
| 国歌の対象 | |
| 作詞 | 不明(読人しらず)(905年初出) |
| 採用時期 | 1880年10月26日(非公式) 1888年(対外正式公布) 1999年8月13日(立法化) |
| 試聴 | |
|
|
|
君が代(きみがよ)とは日本の国歌である。
1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に曲がつけられた。作曲についての詳細は後述する。
目次 |
[編集] 歌詞[1]
1880年(明治13年)、日本の国歌として「君が代」が採用された。「君が代」は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。世界の国歌の歌詞の中で、もっとも古いものとされる[2]。バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する(歌詞と読みは国旗国歌法の表記による。歴史的仮名遣いでは、「巌」の仮名書きは「いはほ」である)。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで– 君が代, 日本の国歌
汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.
[編集] 歴史(制定までの経緯)
[編集] 日本における国歌の認識
国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ幕末、日本が開国した時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の有り様は、1876年(明治9年)に海軍楽長・中村裕庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[3]
つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳した[注 1]ものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味でつかわれていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった[3]。
こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。
[編集] 和歌としての君が代
[編集] テキストと作者
作者は未詳である。
歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)[4][5]。
『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている[6]。
なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[6]。
[編集] 解釈
国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」が天皇であるのかどうかということがしばしば問題にされる。
『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない[7]。
ところで『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人[注 2]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる[8]。
しかしこれはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。
ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』[注 3]である。堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである[3]。
『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[8]。
[編集] 国歌になるまでの君が代
更に時代が下り、江戸時代頃にはこの歌は一般的な祝いの席で祝いの歌として庶民の間でも歌われるようになった。それに伴い「君」の解釈にも変化が生じ例えば婚儀の席で歌われるときは「君」とは新郎のことを指し、すなわち新郎の長寿と所帯の安息を祝い祈願する歌として用いられた[要出典]。この時代の薩摩琵琶の歌のひとつである『蓬莱山』に現在知られるものと同じ歌詞のものが見られ、よって現在の「君が代」は明治期に薩摩人がここから採ったものとする説が有力である[4][5](次節も参照)。
因みに文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集 初編』(1881年〈明治21年〉発行)に掲載されている歌詞は現在のものよりも長く、2番も存在する。作曲は『小学唱歌集 初編』には「英国古代の大家ウェブの古歌」と記されているが、詳細は不明[5][9]。
- 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで うごきなく 常盤かきはに かぎりもあらじ
- 君が代は 千尋の底の さざれ石の 鵜のゐる磯と あらはるゝまで かぎりなき 御世の栄を ほぎたてまつる
後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方とそれを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している[要出典](後の項で詳述する)。
[編集] 明治
1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を当時薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け大山の愛唱歌より歌詞が採用された[4][9](前節も参照)。当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている[要出典]。
ただし、この話には異論がある。佐佐木信綱が記した『竹柏漫筆』によると明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが海軍内で異論があり海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。ただしこの説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節があり、現在の国歌研究においては「大山発案説」が事実であると見られている[要出典]。
当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、1876年(明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終え帰国。その後1880年(明治13年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[4][5][9]。
同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施工され国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された[5][9]。
その後の1893年(明治26年)8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[5][10]。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている[10]。また1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[5]。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。
1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した[11]。
[編集] 国歌としての君が代
大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった「君が代」だが、それまでの賀歌としての位置付けや天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(大日本帝国憲法による)という時代背景から太平洋戦争以前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。しかし戦後「国民主権」を定めた日本国憲法が成立すると、「君が代」の歌詞について天皇を中心とした日本の国柄を讃えたものとも解釈できることから(例えばベン・アミー・シロニーは「君が代」皇統の永続性〈万世一系〉がテーマであり[12]、世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えることになった[13]と解釈している)、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。
政府の公式見解は国家国旗法案が提出された際の1999年(平成11年)6月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した[14]。
[編集] 君が代をとりまく現状
[編集] 主な対立する意見
1974年(昭和49年)の内閣府政府広報室の世論調査により、「君が代」を国歌とすることについて大部分の国民に受け入れられている[15]。ただし、「君が代」の歌詞への反対意見や教育現場での「君が代」斉唱反対運動は現在でも続き賛否両論が対立している。
肯定的立場からは、事実上の国歌として歌われてきた明治以来の伝統を重視するリベラル寄りの意見もあれば、「政治的背景とは無関係に日本的な曲であって国歌に最もふさわしい」とする意見、「国民は愛国心を持つべきであるから『君が代』を歌うことでその意識を高めなければならない」とする意見や、天皇への忠誠心を涵養する目的をはっきり表明する尊王的な意見もある。
反対の立場からは、「歌詞は天皇崇拝の意味合いが強く(君=天皇)、軍国主義を象徴しており君主制ではない日本にはふさわしくない」とする日本共和制説からの意見がある。これに対して「立憲君主制の国歌(たとえばイギリスの「女王陛下万歳」など)と比較しても極端な天皇賛美の意味はなく、天皇象徴制の国歌ではごく普通の国歌」と考える意見もある。また「軍国主義的だ」という点から見ても、「古い軍歌である『ラ・マルセイエーズ』を国歌としているフランスを始めとして、「外国から来た敵を殲滅せよ」と唱えるような過激な軍歌調の愛国歌あるいは軍歌そのものの国歌を持っている国は多く、『君が代』が特別軍国主義を象徴するものではない」とする意見もある。
また、「小さな石が大きな岩になる」という内容が非科学的であるという批判も一部にある。これに対して細石(さざれ石の項目を参照)についての詳細など、先に述べた歌詞の正確な内容がほとんど知られていない事による誤解が広まっている。小さな砂粒が大きな石になる例には細石やストロマトライトなどが知られており、またチャート(SiO2)や石灰質岩により他の岩石破砕物を固結する例もよく見られることである。堆積岩、水成岩である砂岩や礫岩などは、砂の粒子が大きな岩体に固結する仕組みとも言える。これらは必ずしも近代的な知識ではなく、少なくとも部分的には古くから知られていたことが「さざれ石」の名からわかる。もっとも、それら「科学的反証」とは別にそもそもこのような古典楽曲に科学的根拠を求める必要性があるのかという意見や国歌とはいえ「詩」という文学的、比喩的表現の中に厳密な「科学性」を求めること自体がナンセンスであるともいえる。そもそも「起こらないことが起こるまで」とは「永遠に」を意味するありふれた修辞であり、「巌となりて」がありえないとしても文学表現としては成立している。
他の反対意見にはメロディが歌いづらい、歌詞が陰鬱などといった意見がある[16]。
反対派ではないが永六輔は「大勢で歌うと揃わない歌」だとして、特に「さざれ石」の一息が続かずに「さざれ」で息継ぎをして後が微妙に遅れる者が出やすいと述べた。雅楽のメロディに五七五七七(短歌)の歌詞を無理やりはめ込んで音が余っているために、母音をひたすら伸ばして歌うことになるのが、肺活量の少ない者にはたいへんだという[17]。ちなみに朝鮮半島のパンソリふうに歌うとピタリとはまるとも述べた。母音で伸ばすのはパンソリの歌い方だという永の意見に対しては、パンソリでなくとも母音で伸ばす歌唱法はあると内藤孝敏が指摘している[18]。
[編集] 教育現場
「君が代」の教育現場での扱いについては議論になることが多いテーマである。
1996年(平成8年)頃から教育現場において、文部省の指導で日章旗(日の丸)の掲揚と同時に「君が代」の斉唱の通達が強化される。日本教職員組合などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。1999年(平成11年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、「君が代」斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する日教組教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。これを一つのきっかけとして「国旗及び国歌に関する法律」が成立、政府は国旗国歌の強制にはならないとしたが日教組側は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する教育行政並びにこれを支持する保守派との対立は続いてきた。しかし近年、国民の大多数に受け入れられている現実から日教組の姿勢も軟化し入学式や卒業式での国旗掲揚国歌斉唱の実施率は高まっている(君が代に対する意見対立について詳しくは、国旗及び国歌に関する法律を参照)。
[編集] 国際スポーツ競技
国際競技大会でスポーツ選手の応援として自発的に「君が代」が歌われる光景については強制していない面で問題視しない意見があり、また各国の国旗掲揚、国歌斉唱が脱帽起立のうえ厳粛におこなわれることを根拠として教育現場での日の丸・君が代への否定的対応および拒否を推奨するかのような日教組教育を国際的に非常識なものと批判する主張がある(例えば保守系漫画家小林よしのりは作中においてそのような批判をしている[19])。
[編集] 放送局での君が代の演奏
1951年(昭和26年)9月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が成立し正式に日本が独立国に復帰して以降、NHKのラジオ放送で連日放送終了後にオーケストラによる「君が代」の演奏が始まった。テレビではNHKが開局した1953年(昭和28年)2月の時点ではなかったが、同年9月からやはり放送終了時に演奏されるようになった。
しかし近年になりNHKが24時間放送を積極的に行うようになったため現在は毎日演奏しているのはラジオ第2放送の終了時(日・月曜、並びに集中メンテナンスの実施日は24時、火曜日は25時35分〈水曜未明1時35分〉、他は25時40分〈未明1時40分〉)のみである。あとはNHK総合テレビの減力放送・放送休止明け(主として月曜早朝。歌詞がテロップ表示される)とNHK教育テレビの放送休止前後(毎月第2・4・5週の日曜深夜の放送終了時とそれが明けた月曜5時前)で流れる程度となった。
また民放のニッポン放送でも以前は毎日演奏(ジャンクション)を放送していたが、1998年(平成10年)4月より毎週月曜日の放送開始時と土曜日の午前5時前に限って放送している。また、以前はAFNでも毎日午前0時のニュース明けに演奏されていた。
[編集] 「君が代」に関する異説
この節に挙げた諸説は現在までのところ学術的に賛同を得られていない。
[編集] 「君が代」九州王朝起源説
九州王朝説を唱えた古田武彦は『魏志倭人伝』において、倭国内の国の一つ・伊都国があったと推定される糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような事実を発見している[20][21]。
君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな– 山誉め祭, 神楽歌
- 糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、細石神社の「さざれいし」、細石神社の南側には「井原遺跡」や「井原山」など地元の方が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また桜谷神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と君が代の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。
- 細石神社の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」、桜谷神社の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。
上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは天皇家ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良?)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。
- 『古今和歌集』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集が醍醐天皇の勅命によって編まれた『勅撰和歌集』であり天皇家から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため後に有名な『平家物語』(巻七、“忠度都落ち”)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように紀貫之は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。
- 糸島・博多湾一帯[23]は参考資料[24]」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「桜谷神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと考えられる。
[編集] 韓国人李南教による日本国国歌「君が代」の韓国起源説
大韓民国の慶一大学総長の李南教は毎日新聞紙上で執筆している日本語の語源を韓国語に求める解釈を紹介する連載コラムにおいて「君が代」の成り立ちに対しても次のような韓国起源説を披露した[25]。
- 今から1600年ほど前、伽耶諸国の2つの王朝が日本列島へ渡り朴王朝は明日香に邪馬台国を、金王朝は九州に狗奴国を建てた。
- 邪馬台国の崇神天皇が狗奴国を攻撃したが破れ金氏が日本列島を支配するようになり「金」が主君を示す「君」、「朴」は従僕を意味する「僕」という言葉となった。
- したがって、日本の国歌にある「君が代」とは「王様の世の中」という意味であるが元々は「金家の世の中」という言葉である。
[編集] 「君が代」挽歌説
藤田友治を中心として唱えられている、およそ以下のような説[26]。
- 国歌の元歌とされる古今集の賀歌は『万葉集』の挽歌を本歌にしたものであり、もともとは挽歌である。
- 本来挽歌であったものを賀歌にしたのは、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の個人的創作活動である。
- したがって国歌になった「君が代」も挽歌なのだと認識すべきである。
[編集] 関連する楽曲
- 君が代行進曲
- 唱歌版君が代
- 筝曲・君が代変奏曲(宮城道雄作曲)
- 信号ラッパ譜・君が代(戦前の陸軍・海軍のバージョン違いの2種類に、戦後制定のものの3種類存在する)
- 皇子さま(久保田宵二作詞、佐々木すぐる作曲) - 今上天皇が生まれた時の奉祝の歌のひとつとして発表された。
- 君が代(忌野清志郎)
[編集] 参考音源
- 君が代:歌唱付き。
「君が代」(キングレコード、K1-A。1930年) - 君が代:演奏のみ。
アメリカ海軍軍楽隊による。 - うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒントをご覧ください。
Media:Kimigayo70.mid - 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符70個毎分。初めてテンポの正式記録が記された「大日本禮式」でのテンポによる。
Media:Kimigayo60.mid - 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符60個毎分(終り部分リタルダンド)。旧日本海軍軍楽隊が演奏していたテンポによる。
Media:Kimigayo50.mid - 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符50個毎分。NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポによる。
[編集] 脚注
[編集] 注釈
- ^ 「歌詞」節はベン=アミー・シロニー 「第8章1『日本王朝の太古的古さ』」『母なる天皇:女性的君主制の過去・現在・未来』 大谷堅志郎訳、講談社、日本、2003年1月、29,30頁(日本語)。ISBN 4062116758。を参照した。チェンバレンの英訳部分は『国歌君が代の研究』より引用。
- ^ en:National anthem
- ^ a b c 小山作之助 『国歌君が代の由来』 小山真津、日本、1941年。urn:nbn:jp-46036320。
- ^ a b c d 暉俊康隆 『日の丸・君が代の成り立ち』 岩波書店〈岩波ブックレット〉、日本、1991年。ISBN 9784000031271。
- ^ a b c d e f g h 陸上自衛隊中央音楽隊、他(演奏). (2000). 君が代のすべて(KICG 3074). 日本: キングレコード.
- ^ a b 和田真二郎 『君が代と萬歳』 ミュージアム図書、日本、1998年。ISBN 4944113277。
- ^ 佐伯梅友註 『日本古典文学大系8 古今和歌集』 岩波書店、日本、1974年。
- ^ a b 東京大学国語国文学会 『国語と国文学 昭和四九年六月号』 至文堂、日本、1974年。収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』
- ^ a b c d 内藤孝敏 『三つの君が代 - 日本人の音と心の深層』 中央公論社、日本、1997年。ISBN 9784120026546。
- ^ a b c 弓狩匡純 『国のうた』 文藝春秋、日本、2004年。ISBN 9784163659909。
- ^ 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌』 講談社文庫。
- ^ シロニー(2003)、29頁(第8章1『日本王朝の太古的古さ』)
- ^ シロニー(2003)、30頁(第8章1『日本王朝の太古的古さ』)
- ^ 「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈
- ^ 内閣府政府広報室. "「年号制度・国旗・国歌に関する世論調査」" (日本語). 2008-12-26 閲覧。
- ^ 石原慎太郎は「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか」と答えている(毎日新聞(1999年(平成11年)3月13日付)のインタビュー)。
- ^ 永六輔 『芸人』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年10月20日、133-136頁。
- ^ 内藤孝敏 "「国歌」となった「君が代」" 2009年(平成21年)9月8日 閲覧(内藤孝敏「「歌唱(ウタ)」を忘れた「君が代」論争」『諸君!』 文芸春秋社、1999年〈平成11年〉10月号 所収)。
- ^ 小林よしのり 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小学館、日本、2009年。 ISBN 9784093897150
- ^ 古田武彦 『「君が代は九州王朝の讃歌」』 新泉社、日本、1990年。ISBN 4787790129。
- ^ 参考:独創古代|君が代の源流
- ^ 参考:志賀海神|社山誉祭
- ^ l 参考:我が君地図|糸島・博多湾岸
- ^ 参考資料:福岡|歴史的視点から見た干潟環境の変化と 人との係わりに関する研究 ―福岡・今津干潟を例にー
- ^ 李南教の日本語源流散歩28キミとボク(君と僕)(이남교의 일본어 源流 산책 28 기미와 보쿠(君と僕) 毎日新聞 2009年(平成21年)7月15日 일본의 국가를 '기미가요'(君が世)라고 하는데, 이는 '임금님의 세상'이란 뜻이지만, 원래는 '김가네 세상'이란 말이다. 경일대 총장
- ^ 藤田友治 『君が代の起源』 明石書店、日本、2005年。ISBN 4750320374。
[編集] 参考文献
- 小山作之助 『国歌君が代の由来』 小山真津、日本、1941年。urn:nbn:jp-46036320。(非売品)
- 和田真二郎 『君が代と萬歳』 ミュージアム図書、日本、1998年。ISBN 4944113277。
- 小田切信夫 『国歌君が代の研究』 平凡社、日本、1965年。