日本のヒップホップ

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日本のヒップホップ
様式的起源 ヒップホップ
文化的起源 1980年代
使用楽器 ラップ, ボーカル, ターンテーブル, シンセサイザー, DAW, ドラムマシン, サンプラー, ヒューマンビートボックス
流行時期 1990年代後期、2000年代初期
サブジャンル
ウエスト・コースト・ヒップホップハードコアヒップホップ
融合ジャンル
ヒップポップミクスチャー・ロック
地域的なスタイル
渋谷系
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日本のヒップホップでは、日本におけるヒップホップの歴史や推移について述べる。

歴史[編集]

1980年代[編集]

1980年[編集]

1980年12月21日にレコードがリリースされた『ドリフの早口ことば』をラップの元祖とする見方もあるが[1]、当番組プロデューサー・古谷昭綱は、当時のインタビューで「日本に昔からある、古めかしい早口ことばをロックのリズムに乗せた」と話しており[2]、これらの作品がアメリカにおけるヒップホップシーンを意識して制作されたかどうかは定かではない。

1981年[編集]

1981年、TBSラジオなどで放送されていたスネークマンショーがリリースしたアルバム『スネークマンショー』に収録された「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」(小林克也伊武雅刀)、及びコメディアンの山田邦子が発表した『邦子のかわい子ブリっ子~バスガイド編』などが『Walk This Way』や『フラッシュダンス』以前の、オーバーグラウンドに現れたラップ的な表現の一例と思われる。また、YMOが同年にリリースしたアルバム『BGM』に収録されている「ラップ現象」で、細野晴臣がラップをしている。曲名から明瞭に音楽表現としてのラップを意識しており、これが日本に於けるラップ楽曲の第一号と言える。メジャーレーベル所属の日本人ミュージシャンとしては、1984年、佐野元春が渡米中に制作したアルバム『VISITORS』において、「COMPLICATION SHAKEDOWN」などの収録曲に初めてラップを取り入れた。

ダンスにおいては、1981年にソウルダンス(アメリカンブラック)のダンススクール『ファンキージャム』が開校し、エレクトリックブギの基礎となるポップロックを教えていた。その中にムーンウォークやウェーブなどがあった。

1982年[編集]

1982年には、小林克也率いる「ザ・ナンバーワン・バンド」が、「うわさのカム・トゥ・ハワイ」で、広島弁ラップという試みを行なった[3]

1983年[編集]

1983年、映画『フラッシュダンス』が日本で公開され、劇中でRock Steady Crewがストリートダンスを披露した。そのシーンに使われているJimmy Caster Bunchの曲「It's Just BE GUN」は世界的にミュージシャンからリスペクトされる。日本ではこれに影響された浜松市のグループ「アップルパイオールスターズ」の大橋がブレイクダンスを習得し、その後TOKYO B BOYSのCRAZY-Aが日本におけるアンダーグラウンドのヒップホップを広めるべく活動を行っていた。また、新宿ツバキハウスにおいて映画『ワイルド・スタイル』出演のクルーが開催したヒップホップ・ショーでは、DSTによるスクラッチのデモンストレーションやレクチャーが行われた。 る。西武デパートで『ワイルド・スタイル』の支援パフォーマンスとしてファンキージャムがダンスをしていたのを、テレビ番組『11PM』が紹介した。それをきっかけに村山たかし他数名と黒人ラッパー、スクラッチDJのモンチ田中が『ファンキージャム・ブレーカーズ』を結成する。

1984年[編集]

1984年には映画『ブレイクダンス』が公開され、『ワイルド・スタイル』と共にブレイクダンスが日本全国に一大ムーブメントとして広がるきっかけとなる。CRAZY-A、TOKYO B BOYSが原点とする原宿歩行者天国では当時、B-5 CREW、ナオヤ(TokyoB Boys、ZOO)、DJ KRUSHMURO、BEAT、阿部ちゃん、グッチG、ホリエハルキ、ヨウヘイなど、現在著名のDJダンサーラッパーが活動を行っていた。同じく原宿ではファンキージャム・ブレーカーズがスポーツフェアのミズノブースで連日ブレイクダンスショーを行っていた。これがきっかけとなり、RATS&STARのグラマーガイにモンチ田中のスクラッチやロバートのラップが入ったことで、音楽界に知られるようになりモンチ田中のFM横浜の仕事につながる。ファンキージャム・ブレーカーズのショーはナイキ、コカ・コーラ、キリン、タカラ、オンワードなど多数に及ぶ。映画『ブレイクダンス』では記者会見イベントや映画公開のショー、パンフレットでのHowToDanceなど全面協力する。この映画をきっかけにナイキと提携し全国ツアーも行った。また新宿六本木ではオウジ、サム(TRF)、横浜ではFLOOR MASTERS、村山タカシが活動していた。同年、モンチ田中がテレビ番組などでDJプレイを紹介するなど、マスメディアにおけるDJ活動を活発化させていた他、風見しんごが歌った「涙のtake a chance」でブレイクダンスが採用された。 ラップやDJよりも、「踊れること」が尊ばれた時代であった。

一方でB-FreshのMCベルとケークKらが自主制作レーベルにて日本のラップシーンの先駆けとなる活動を行っていた。メンバーの中にはDJ KRUSHMURODJ BEATなど、現在の日本を代表するアーティストが在籍していた。同様に活躍していたチームにJAP MC'S (初代メンバーはCRAZY-A、Keny(ホシナ)、Beat Master AZ(馬場)、KAZU(ZOO))などがある。

1985年[編集]

1985年にはジョージ・ヒコが米国Tommy Boy Recordsから12インチをリリースした他、モンチ田中を中心としたDJグループ「M.I.D.」が結成されるなど、シーンの基礎的な部分がさらに成長を進めていった。いとうせいこうはアルバム『業界くん物語』にてラップに挑戦し、高木完藤原ヒロシTINNIE PUNXを結成した。同年リリースされた吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」がオリコンチャートで年間21位を記録し、邦楽史上初めてラップ要素を含んだヒット曲となった。また 同曲のリミックスシングルが桑原茂一プロデュース、DJ KUDOらのグループ「ハードコアボーイズ」名義で製作され、日本初のリミックス作品となるが、発売停止となった。また、ビブラトーンズを解散した近田春夫がソロプロジェクトPresident BPMを立ち上げ、12インチ『Masscommunication Breakdown』をリリース。近田の活動は後にビブラストーンとなって結実する。dj hondaDJ KOOらは、リミキサーグループ『The JG's』を結成する。

原宿歩行者天国では東京B-BOYSやB-5 CREWに代わり、ミスティックムーバーズ、B-ROCK CREW (チノ、コージ、百)等が活躍し、アフリカ・バンバータ来日ではステージ下でブレイクダンスバトルが繰り広げられた。

1986年[編集]

1986年にはRUN-DMCエアロスミスと共演した「Walk This Way」が全世界的なヒットを記録し、シーン全体に多大な影響を与えた。同年、TINNIE PUNXはPresident BPMとのスプリット盤12インチに参加。また、Poppin Pete、Skeeter Rabbit、Boo Yaa Tribeが大阪に来日し、大阪にもヒップホップシーンが形成していくきっかけを与えた。Popping Styleを伝授された愛弟子はワイルドチェリー、ユキ、シン兄弟、林田、オズ、テツなど。一方で東京では「HIP:HOP」というクラブが渋谷にオープンし、DJ YUTAKAがレギュラーでプレイした。また、いとうせいこう&TINNIE PUNX名義のアルバム『建設的』がリリースされた。JAGATARAMUTE BEATトマトスS-KENの4バンドは、シリーズ・イベント「東京ソイソース」(インクスティック芝浦ファクトリー)を始める。ライブとライブの間にDJが入るという初めての試みをし、いとうせいこう&TINNIE PUNX、ランキンタクシー、近田春夫、ECDなどが出演した。

1987年[編集]

1987年にはECDがベスタクス主催のDJイベントにて優勝する。パブリック・エネミー等の多数のアーティストが来日した。

1988年[編集]

1988年、インディーズレーベルMajor Forceが設立される。高木完、藤原ヒロシ、屋敷豪太などが参加していた。また、設立と同時にMajor Force主催のイベントDJ Underground Contestが開催される。第一回目の優勝者はレゲエDJのChappie、第二回目の優勝者はDJ KRUSHで特別賞はスチャダラパー。このイベントにはB-Fresh 3、Dragon & BIKKEDJ SEIJI(SPC)、BEAT KICKS(TWIGY刃頭)、Hi-TECK GROOVE、GAKU(後にEAST ENDを結成)なども出場していた。

1989年[編集]

1989年、ニュージャックスウィングというダンスが大流行する。これまでのブレイクダンスとは違い、ロジャーラビット、ランニングマン、ロボコップという名前がついたステップのダンスが流行し、この年、ダンス番組『DADA L.M.D』がスタート。初代メンバーはMr.T、タケダ、TACO、KAZU、ハルク、KAN、そして1990年代のニュースクールダンスをロサンゼルスから持ち帰り、毎週テレビで披露していたKAZU(STRUT)である。 また、KAZUとJJAY Yが日本人として初めて「ソウル・トレイン」に参加、ジェフリー・ダニエルのバックダンサーを務めた。彼らはZOOの初代メンバーであり、ニュースクールの先駆け的存在であった。その活動は「彼がいなければ現在のDJ KEN-BO、DJ WATARAIなどはいなかった」と言われるほどの存在感を示した。

一方、いとうせいこうヤン富田のプロデュースによるアルバム『MESS/AGE』をリリース。日本語によるオリジナルなラップや音楽スタイルがMCUスチャダラパー等、後に登場するアーティストに影響を与えた。また、Rhymesterが結成される。ECDによるイベント「CHECK YOUR MIKE」も始まり、BOY-KENHi-TECTH GROOVEA.K.I PRODUCTIONSMAZZ & PMXTUFF NUTS等が参加。

1990年代[編集]

アンダーグラウンドのシーンでは、「ブラック・マンデー」のYOU THE ROCK & DJ BEN、「FUNKY GRAMMAR UNIT」のRHYMESTER、EAST END、MELLOW YELLOW、その他にも、A.K.I.、キミドリ、DJ KRUSHECD、MURO などがいた。

1990年[編集]

1990年にD.M.A.、元ファンキージャムが『What's Up vol2』を出版する。六本木交差点の書店でも販売されていて、ニュージャックダンスのハウツウなどを掲載していた。D.M.A.では横浜ベイサイド・クラブ、川崎クラブ・チッタなどでニュージャックのハウツウとブレイクダンスやソウルのショーを公演。座間米軍基地にてニュージャックダンスのダンスコンテストを主催する。この年、MZAミューコムにMCハマー、レクスンエフェクト、ボビー・ブラウンが初来日する。

一方、DJ Doc Holiday(須永辰緒)がインディーズレーベルRhythmを設立。このレーベルにはYOU THE ROCK & DJ BEN、Gas Boysなどが参加していた。同時期にメジャー・フォースレーベルより「スチャダラ大作戦」をリリースしたスチャダラパーが、クルーリトル・バード・ネイション(Little Bird Nation)を結成。TOKYO NO.1 SOUL SET脱線3かせきさいだぁ≡四街道ネイチャーSHAKKAZOMBIE、A.K.I. Production等のグループを登場させるきっかけを作る。また、自主制作コンピレーションアルバム「Yellow Rap Culture In Your House」がリリースされ、DJ KRUSHMURO等のKRUSH POSSE、HOME BOYZ等が参加した。

1991年[編集]

1991年になると、メジャー・フォースのスチャダラパーが『タワーリングナンセンス』でキューンソニー(現在のキューンレコード)より、高木完が『フルーツ・オブ・ザ・リズム』でEPICソニー(現在のエピックレコード)よりメジャーデビューを果たす。

同年、「ダンス甲子園」(天才・たけしの元気が出るテレビ!!)が始まる。LL ブラザーズや、トップフラッシュ、さらにTaco、Naoya、Mark、Satsuki、ルーク、Hiro(現在EXILE)、Cap、HIsami、Saeが所属するZOOが人気を得る。ZOOの「Choo Choo TRAIN」はJR東日本とのタイアップもあり全国ヒットとなる。また、ZOOファミリーでもあるBobyがニューヨークの『A LIVE TV』のダンサーからNYファッションを持ち込んだ。ティンバーランドゲストミー・ヒルフィガーDKNYPolo Sportsなど、リアルタイムファッションを各雑誌が取り上げた。

また、KRUSH POSSE、TOKYO No.1 SOUL SET等による「Chain Gang」、LB Nationによる「LBまつり」が下北沢ZOOにて開催される。ECD主催によるHIPHOPコンテスト「CHECK YOUR MIKE コンテスト」も始まり、第一回目の優勝は後にZINGIとしてデビューするレヴォルト・サファレイジ。翌年の第2回大会ではイエロー・モンキー・クルーが優勝。その他、TONEPAYS(かせきさいだぁ)、キミドリ3A BROTHERS(T.A.K The RhymeheadINOVADER)なども輩出。さらに、ZINGIRhymesterEAST ENDMELLOW YELLOWによるイベントYoung MC's In Town、CRAZY-Aによる「WATCH ME」もスタート。

1992年[編集]

1992年、dj hondaが、DJ Battle World Supremacyにて準優勝を果たす。

一方、MURO、TWIGY、GoなどによりMICROPHONE PAGERが結成され、ヒップホップのオーバーグラウンド進出へのカウンタームーブとしての活動を始める。また、ECDがファーストアルバム『ECD』をリリース。さらに、下北沢のライブハウス「ZOO」にて、「スラムダンクディスコ」が始まる。YOU THE ROCK & DJ BEN、ECD、RHYMESTER、MICROPHONE PAGER、キミドリ、POWER RICE CREW、SKIPS、MELLOW YELLOW等が出演した。

1993年[編集]

1993年、Run DMCアイス・キューブなどといった大物アーティストが続々来日する。 同年4月、RHYMESTERが『俺に言わせりゃ』でファイルレコードよりデビュー。EAST ENDとMELLOW YELLOWが参加した楽曲がきっかけでFUNKY GRAMMAR UNITの原型が立ち上がり、彼等によるイベント「F.Gナイト」もスタート。後にRIP SLYME、KICK THE CAN CREW等も輩出。また、m.c.A・Tの「Bomb A Head!」や、キミドリの1stアルバム『キミドリ』がリリースされる。さらに、キングギドララッパ我リヤが結成される。ラッパ我リヤの当時のメンバーには三善善三も含まれていた。

1994年[編集]

1994年、イギリスでDJ KRUSHがヒップホップをインストゥルメンタルとして表現する前代未聞のムーブメントを起こす。この動きは後にトリップ・ホップのブームと結びつき、欧州を中心に高い評価を受ける。

また、「DA・YO・NE」(EAST END×YURI )、「今夜はブギーバック」(スチャダラパー小沢健二)の大ヒットが後押しする形で、1990年代半ば頃からJ-POPを聞いていた人たちにもラップミュージックが認知されるようになる。これらの動きはDragon Ashの登場、RIP SLYMEKICK THE CAN CREW等の新しいスタイルを持ったユニット登場の端緒となっていった。

1995年[編集]

1995年、BUDDHA BRANDアメリカ合衆国から帰国する。同年Lamp Eyeキングギドラ等がデビューし、日本で最も有名なクラシック「証言」がドロップされる。さらにコンピレーション『悪名』が発売。人気を博し、シリーズ化された。RINOはこのコンピで評価され、UZIなども知られることになる。

一方、NHKおかあさんといっしょ』1995年11月・12月の歌として、ラップ調の童謡「サラダでラップ」が発表される。

EASTEND×YURIの「DAYONE」、「MAICCA」が新語・流行語大賞にノミネートされ、第46回紅白歌合戦にも出場する。

1996年[編集]

1996年4月24日、YOU THE ROCK★が『THE SOUNDTRACK '96』をリリース。ECD、TWIGY、LAMP EYE(RINO,GAMA & DJ YAS)、MUMM-D、DEV-LARGE、HAB I SCREAM、E.G.G.MAN、UZI、MACKA-CHIN、HAC、DJ TSUTCHIE、DJ MASTER KEY、DJ MAKI、DJ WATARAI、INOVADERと数多くのプレイヤーが参加したクラシックスの呼び名も高い作品となった。さらに、BUDDHA BRANDの「人間発電所」がリリース。この曲によって'90年代の日本のヒップホップシーンがさらに加速したと言えるほどの大反響を及ぼした。アナログは現在かなり高額で取引されている。 そして7月7日、ECD主催のHIP HOPイベント「さんピンCAMP」が日比谷野外音楽堂にて行われる。約4000人の観客のうち80%は男性。アンダーグラウンドシーン活躍のアーティストたちが大きな舞台を見せつけて成功をおさめ、今では伝説のライブとして語り継がれている。後にビデオ、DVD化された。同月14日、スチャダラパーを中心としたイベント「大LBまつり」が日比谷野外音楽堂にて行われる。

1997年[編集]

1997年、DA PUMPがデビュー。それまでの「男性アイドルグループ=ジャニーズ」という常識を覆した。後に著名DJらとのコラボレーションやダンス番組のMCなども果たす。

また、代々木公園にてCRAZY-Aが発起人となり、B-BOY PARKが開催される。以降、毎年8月の恒例イベントとして定着する。

1998年[編集]

1998年、日本人プロヒップホップダンサーENGIN#9が、世界のブレイクダンスチームの最高峰New York City Breakersの正式メンバーとしてメンバー入りする。

一方、THA BLUE HERBの『STILLING STILL DREAMING』、Shing02の『緑黄色人種』がリリースされる。共にアンダーグラウンドのクラシックとして評価され、東京以外の、アンダーグラウンドと呼ばれる層が明確化。

1999年[編集]

1999年、Dragon Ashがサードアルバム『Viva La Revolution』をドロップ。Dragon Ashのラップミュージックの要素を多く取り入れた作品は、賛否はあれどメジャーシーンにおけるラップミュージックの立場をより強固にした

2000年代[編集]

2000年以降、名古屋のM.O.S.A.D.、北海道のTHA BLUE HERB、九州の餓鬼レンジャーなど地方勢のリリースが相次いだ。それぞれが地元愛にあふれた内容となっており、日本語ラップは東京だけのものではないということをアピールした。ダンス番組は「少年チャンプル」、「スーパーチャンプル」などがある。「ダンス甲子園」も2006年に復活した。また、「流派-R」や「Suger Hill Street」など、ヒップホップに焦点を当てた番組も多く出ている。

2000年[編集]

2000年、8MCのグループNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDが1stアルバムをリリース。各自のMCの力量もさることながらマイクリレーによって力を発揮する人材が集合し、グループ名を冠した曲「NITRO MICROPHONE UNDERGROUND」は日本のヒップホップ史に残る作品となった。このアルバムを契機に、NITRO人気に火がつき、ソロMCでも次々にメジャーデビューを果たした。彼らはかつてさんピンCAMPでMUROのステージの後ろにいたような、「日本語でいかにラップをするか」と苦心していた世代を見て育ったいわば第二世代であり、この頃から次世代のMC達が着々と頭角を現し出す。

また、DS455が1stアルバム「BAYSIDE RIDAZ」をリリース。同年にメンバーのDJ PMXが手掛けたOZROSAURUSの「AREA AREA」がヒットしたこともあり、それまでの日本のヒップホップにはあまりみられなかったGファンクウエスト・コースト・スタイルと呼ばれるような音楽性が注目を受ける。

さらに、YOU THE ROCK主催のイベント「HIP HOP ROYAL 2000」が行われ、雷家族、RHYMESTER、K-DUB SHINE、ZEEBRA、スチャダラパー、SOUL SCREAM、OZROSAURUS、ニトロ、妄走族、WORD SWINGAZ等、メジャー、アンダー、新旧を問わない多数のHIP HOPアーティストが日比谷野外音楽堂へ集結した。

2001年[編集]

2001年、KICK THE CAN CREWRIP SLYMEがメジャーデビューを果たし、日本のメジャーシーンにおけるヒップホップの浸透に更に大きく貢献することになる。 また、横浜のOZROSAURUSが1stアルバム『ROLLIN'045』を発表。高いスキルを示したこのアルバムは、ウェッサイなど問わず日本語ラップ史において重要なアルバムの一つとして扱われている。ロングセラーを記録し、売り上げ枚数8万枚を突破した。

2002年[編集]

2002年、キングギドラが6年ぶりに再始動を宣言。ハードコアラップグループでは異例なヒット(復活後、リミックスアルバム「最新兵器」以外すべてトップテンチャート入り)を記録し、社会現象を巻き起こす。特にアルバム収録曲である「公開処刑 feat. BOY-KEN」におけるZEEBRAの降谷建志に対する名指しのDIS、K DUB SHINEのRIP SLYME、KICK THE CAN CREWに対する暗喩なDISは話題を呼び、ネット上などで大きな盛り上がりを見せた。この曲は日本のヒップホップ・シーンにおいて最も有名なディス・ソングの一つとして数えられている。 また、Def Jam Japanと契約を交わしたS-WORDの『KROSS OVA -斬-』も高い売り上げを見せた。同レーベルのDABOの『D.A.B.O.』もヒットを記録。DABOやS-WORDら、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDと深いかかわりのあるラップ・グループTHINK TANKがファースト・フル・アルバム『BLACK SMOKER』を発表。ダブレゲエを散りこんだ音楽性、K-BOMBらの独特のヴォーカル・ワークにより、その異能集団ぶりを示した。

また、DJ KENTAROがアジア人初のDMC世界チャンピオンに輝いた。

2003年[編集]

2003年、EAST ENDが再始動。アルバム『Beginning of the Endless』はFG全参加によるマスターピースとなった(その他CRAZY-A、童子-Tらが参加)。 また、K DUB SHINEATOMIC BOMB PRODUCTIONSが本格的に活動を始める。この頃、アンダーグラウンドが活発化し、雑誌「blast」のコーナー「HOMEBREWER'S」から東京のみならず、大阪、福岡などの各地方の多くの優れたアーティストが紹介された。韻踏合組合、妄走族MSCがアルバムをリリースしている。降神のアルバムは新人で自主でのCDが異例の1000枚を売り上げる。特にメンバーの志人はTHA BLUE HERBのILL-BOSSTINO、Shing02と並ぶ天才MCとして注目された。

2004年[編集]

2004年、が「KAMINARI-KAZOKU.」として、結成後約10年にしてアルバムを制作。ミニ・アルバム(「太巻きシングル」)『大災害』、メジャー1stアルバム『330 ~more answer no question』をリリース。同年夏、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDが再始動を果たし、キングギドラ同様、異例なヒットを叩き出す。 また、加藤ミリヤのシングル、「Never let go」のメインの曲となる「夜空」のリミックスではBUDDHA BRANDの三人が参加した。一方、K DUB SHINEの3rdアルバム『理由』収録曲「来たぜ」の歌詞をきっかけにインターネット上を通してDEV LARGEとのビーフが起きた。また、それぞれ配布された3曲(DEV LARGEの「ULTIMATE LOVE SONG」、K DUB SHINEの「1 THREE SOME」、DEV LARGEのアンサー「前略ケイダブ様」)は後にミックスCDなどでバージョン等を変えて収録されている。 一方、KICK THE CAN CREW妄走族が活動を休止し、各々ソロ活動に入る。

M.O.S.A.D.を率い、名古屋の代表格であったMC、TOKONA-Xが26歳で逝去。死因に関しては様々な憶測が飛んだ。

DJ AKAKABEがDMC世界チャンピオンとなる。

2005年[編集]

2005年、DEV LARGEがソロで"D.L"名義として本格的に活動を開始。 一方、ZEEBRA、SOSCなどで知られるレーベルFUTURE SHOCKが停止。また、童子-TがATOMIC BOMB PRODUCTIONSから自立という形で円満退社する。

この頃より日本のシーンはメインストリームとアンダーグランドシーンが確実に分けられはじめ、転換期にさしかかっている。以前、アンダーなシーンで活躍していた人物達がメインストリームへと乗り換えていく動きが活発化し(RIP SLYMEやZEEBRAなど)、それに並行してアンダーグランドシーンでのムーブメントも活発化をはじめた。実力あるアーティストが増加しシーン全体を底上げするなど、新たな動きが見られ始めた年でもある。MSC、Temple ats(降神)、Da.Me.RecordsSEEDA擁するSCARS勢、black smoker Records、関西では韻踏合組合、R-RATED RECORDSなどが、今も引き続きその一端を形成している。また、B BOY PARK 2002のMCバトルで優勝したMSCの漢a.k.a.GAMIの主催で、全国規模で行われたフリースタイル・バトル大会ULTIMATE MC BATTLEが開始。優勝はカルデラビスタ。後に大会の模様を収めたDVDが発売される。この大会をきっかけにアンダーグラウンドレベルでフリースタイルをするMCが急増する程の影響力を見せた。

7月13日、安室奈美恵が7thアルバム『Queen of Hip-Pop』を発売。約50万枚を売り上げた。

New York City BreakersENGIN#9が日本に帰国。

2006年[編集]

KREVAのセカンドアルバム、『愛・自分博』(2006年2月1日発売)がヒップホップソロアーティストとしては初めてのオリコンウィークリーチャート1位を記録。続いてSEAMOのセカンドアルバム『Live Goes On』(2006年9月20日発売)もオリコンウィークリーチャート1位を記録した。SEAMOはこの年のNHK紅白歌合戦出場を果たしている。また、SOUL'd OUTの初のシングルベスト、『Single Collection』が、ウィーク、デイリー共にオリコン初登場2位という快挙をあげる。

DEV LARGEが待望のラップでのソロアルバム『THE ALBUM (ADMONITIONS)』を発表。 SEEDABESなど、USヒップホップを咀嚼した作品を作り出したSCARS勢が躍進。Pヴァインなどから次々にアルバムをリリースし、大きなプロップスを得た。CONCRETE GREENシリーズというミックスCDという形式での音源発表も話題となる。

2007年[編集]

2007年、ノリアキが、アルバム「This is da Music.」を発売し、その中の収録曲「きみはポイズン」とそのPVが、それまでの日本のヒップホップ界の物とは大きな異色を表し斬新であった為、大きな評判となった。

RHYMESTERのベストアルバム、『メイドインジャパン〜THE BEST OF RHYMESTER〜』(2007年1月31日発売)がオリコンウィークリーチャート6位を記録。続いて2月に客演コレクション『ベストバウト 〜16 ROUNDS FEATURING RHYMESTER〜』を発売、3月に集大成的ライブKING OF STAGE VOL.7 を日本武道館で敢行、大成功のうちに幕を閉じた。実に結成から18年間を費やした到達で、これまでに客演をしてきたアーティスト達が各年代ごとにバランスよく出演、キングギドラの再結成客演など既存のHIP HOPファンを大いに沸かせると共に、ゴスペラーズ横山剣SUPER BUTTER DOGScoobie DoWack Wack Rhythm Band等、他フィールドの有名アーティストを招聘した。 THA BLUE HERBが3rd アルバムを発表。また、アルバム直前にリリースしたシングルはオリコンインディーズシングルチャート1位を獲得。 SEEDAのメジャー初となるアルバム「街風」はオリコンアルバムチャート19位を記録。

また、D.Obay4kD-AskSHIZOOらが練マザファッカーとして、TBSのバラエティー番組『リンカーン』内のコーナー「世界ウルリン滞在記」に出演し、中川家にラップを指南した。D.Oの語尾に「メーン」をつける独特のしゃべり方が話題を呼んだ。

一方、国内唯一のHIP HOP専門誌である「blast」が廃刊。メジャーにおいてヒップホップアーティストの作品の売り上げが不振であり、日本のヒップホップシーンへの逆風が顕著な形になった。

2008年[編集]

SD JUNKSTAのリーダー、NORIKIYOがメジャーデビューアルバム「OUTLET BLUES」を発表。実話ナックルズでも特集が組まれ、シーンの内外から注目が集まった。同じくSD JUNKSTAのBRON-Kのアルバムもじわじわと評価を獲得し、SD JUNKSTAは日本を代表するクルーの一つとなった。 ZEEBRAが音楽活動20周年を記念し、ベストアルバムを発表。11月1日には日本武道館での20周年記念ライブも成功させる。このライブには多くのゲストが参加。特に、DEV LARGEは参加しなかったもののさんぴんCAMPで参加しなかったTWIGYも含めて雷家族のメンバーがほぼ揃っての「証言」が披露された。この様子は後に発売されたDVDに収録している。また同時に自叙伝も発売。「降谷建志に対して今は怒りはない」と心境を告白した。 MIC JACK PRODUCTIONのリーダー、B.I.G. JOEが2009年の服役終了に先がけて2ndアルバムを発表。2008年を代表するアルバムとなった。

一方、「俺ら東京さ行ぐだ」(前出)が同年ネット上で起こったIKZOブームによって再評価された。

2009年[編集]

練マザファッカーのメンバーでCD販売店・BOOT STREETのアルバイトの男が、同店の店舗にて大麻を売ったとされる大麻譲渡事件に関連し、D.Oが実質的に経営する会社・D.Officeに家宅捜索が入り、練マザファッカーのメンバー・PIT GObが大相撲力士・若麒麟真一と共に大麻取締法違反(所持)容疑で逮捕され、後にD.Oも麻薬取締法(コカイン所持・使用)違反容疑で逮捕された。この事件は、大相撲力士が逮捕されたこともありテレビなどのメディアで大きく取り上げられ、D.OやPIT GObも写真付きで報道された。彼らが大麻の使用や麻薬の売買などの犯罪行為を歌う、所謂ギャングスタ・ラッパーだった事もあり、メディアからのバッシングを受けた。

SEEDAとGEEKのMC、OKIがTERIYAKI BOYZへのディスソングを発表。その後TERIYAKI BOYZに属するVERBALが自身のポッドキャスト番組にSEEDAを招き、話し合いが行われた。一連の事件をSEEDAが発表した曲名からTERIYAKI BEEFと呼ばれる。さらに、MSCのMCであるGUNNIESがSEEDAに対するディスソングを発表。これに対しSEEDAもブログでアンサーソングを発表した。Amebreakはこれを『一連のディス曲に関する是非はともかく、日本語ラップに関するビーフがここまでスピーディに展開するようになったのは特筆すべき事実』とした。

Da.Me.Recordsに属していた、COMA-CHITARO SOULKEN THE 390がメジャーデビューする。KEN THE 390は青山テルマとシングルを発表しミュージックステーションに出演。 新潟のシーンで高い人気を誇っていたHilcrhymeがメジャーデビュー。9月にリリースされたセカンドシングル『春夏秋冬』はオリコンデイリーランキングで1位になるなど、スマッシュヒットとなった。

2010年代[編集]

2010年[編集]

KAMINARI-KAZOKU.が不祥事等を受けて音楽活動からの引退を宣言しているメンバーYOU THE ROCK★への思いを込めたシングル「2U」を発売。 いとうせいこう、BOSE、ZEEBRA、宇多丸、サイプレス上野、般若、COMA-CHI等、様々なラッパー達にリリックの作り方をインタビューした書籍、「ラップの言葉」がP‐Vine BOOKsより発売される。 R-RATED RECORDSからSKI BEATZプロデュースのコンプレーション・アルバム『24 HOUR KARATE SCHOOL JAPAN』がリリースされる。その収録曲である「24 BARS TO KILL」はSKY-HIの「96 Bars To Kill」をはじめ、様々なアーティストによるリミックスがYouTube上にアップされた。

2011年[編集]

キングギドラが9年ぶりに再始動。大阪城野外音楽堂で開催された東北地方太平洋沖地震チャリティーライブ「KEEP YOUR HEADS UP!」でライブを行い、その後諸般の事情でグループ名を「KGDR」に改名し、東北地方太平洋沖地震チャリーティーソング「アポカリプス ナウ」を配信。 MACCHOのソロユニットとなっていたOZROSAURUSにDJ SN-Zがメンバーとして正式に加入。同時にEMIミュージック・ジャパンと契約し、メジャーでの活動を再開。

2012年[編集]

3月7日SALUがアルバム『IN MY SHOES』でメジャーデビュー。 5月30日NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDが「"NITRO MICROPHONE UNDERGROUND" LIVE DVD 10-11」の発売を最後に活動を休止する。 7月14日、TBS系列で放送された「CDTVスペシャル!夏フェス2012」にRHYMESTERが出演し、地上波で初めてライブを披露する。 9月5日AKLOがソロとして1枚目のアルバム『THE PACKAGE』を発売。

2013年[編集]

AAAのメンバーである日高光啓がSKY-HIとしてエイベックスからメジャーデビューシングル「愛ブルーム/RULE」をリリース。同年のB-BOY PARKにも出演。 10月17日、渋谷 clubasiaでMAKI THE MAGIC R.I.P PARTY『MAGIC FOREVER』が開催される。CQとDEV LARGEによる「人間発電所」や、RHYMESTERによる「B-BOYイズム」などが披露された。もともとDEV LARGEの出演予定はながったが、イベント前に偶然会ったK DUB SHINEに誘われ、急遽出演することとなった。この2人はかつてビーフ騒動があったが、この日を機に和解している。 アーティスト活動25周年を迎えたZeebraが、11月20日に8thアルバム『25 To Life』、12月25日に過去の客演作品を収録したボックス『100 Feat. ~ Zeebra 25th Anniversary Box ~』を発売。 12月30日妄走族が新曲「塗りつぶせ」を発表し、活動を再開。

2014年[編集]

avexがヒップホップ専門レーベル「CLOUD 9 CLIQUE」を設立。ANARCHYが第1弾アーティストとして契約を結び、メジャーデビュー。 ZeebraがEGO、2WIN、SHOW GUN擁する新レーベル「GRAND MASTER」を設立。 MC漢率いる「9sari group」と、ダースレイダーが代表に就任した「ブラックスワン」が、「9SARI STUDIO」を新設する。

代表的なアーティスト[編集]

日本武道館[編集]

これまでに日本武道館単独のコンサートを行った日本のヒップホップアーティスト一覧。

  • RIP SLYME (2002年7月25日、2004年に3DAYS公演、2008年に3DAYS公演、2009年に2DAYS公演、2011年に2DAYS公演)
  • KICK THE CAN CREW (2002年11月30日)
  • m-flo (2005年11月2日)
  • KREVA (2006年4月28日、2010年10月13日&14日、2014年9月7日)
  • RHYMESTER (2007年3月31日)
  • SOUL'd OUT (2007年4月27日)
  • SEAMO (2008年1月20日)
  • ZEEBRA (2008年11月1日)
  • HOME MADE 家族 (2009年1月11日)
  • AK-69 (2014年3月5日)
  • Hilcrhyme (2014年10月14日)

NHK紅白歌合戦[編集]

これまでに『NHK紅白歌合戦』に出演した日本のヒップホップアーティスト一覧。

MC[編集]

DJ[編集]

ダンサー[編集]

グラフィティライター[編集]

ヒューマンビートボクサー[編集]


日本のヒップホップに関連するメディア[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

  • MARUI 24CLUB (1986年、FM横浜)
  • HIP HOP NIGHT FLIGHT(1995年9月17日 - 9月17日、TOKYO FM)
    パーソナリティはYOU THE ROCK★
  • Hip Hop Journey -Da Cypher- (1997年4月5日 - 2002年3月30日、J-WAVE)
    パーソナリティはRIKO。
  • BEATS TO THE RHYME (1999年10月、 TFM系全国27局ネット)
    パーソナリティはZEEBRAとDJ KEN-BO。

雑誌[編集]

映画[編集]

  • ビッグマグナム 黒岩先生 (1985年)
    Dr.Tommy率いるB-5 Crewがブレイクダンスシーンに登場。
  • ハートブレイカー 〜弾丸より愛を込めて (1993年)
    ダイアモンド・ユカイ他、博多広島など西日本のダンスチームが出演し、オール博多ロケを敢行[4][5][6]。本作は当時の様々なストリートダンスをふんだんに散りばめて、ダンスバトルなどのヒップポップ・カルチャーの生の姿を撮影した[5]。また日本語でヒップポップを踊る"ということを明確に目標に掲げで制作されており、"ヒップポップの日本化"の先駆けとなった[5]。大ヒットには到らなかったものの"音楽ダンス映画"というジャンルを築いた[5]。本作は、その後ストリートダンス界でカルト映画化し、日本のダンサーは勿論、アンダーグランドであるアジアのストリートダンサーたちから熱い支持を受けた[5]

死去した日本のヒップホップ関連人物[編集]

MC
DJ
トラックメイカー
  • M.FUJITANI (「瘋癲」のトラックメイカー兼ドラマー。2003年9月10日、バイクによる交通事故で死去)
  • Nujabes2010年2月26日に交通事故で死去。享年36)

脚注[編集]

  1. ^ 第20回――ラップ歌謡 - TOWER RECORDS ONLINE
  2. ^ 週刊サンケイ サンケイ新聞出版局 1981年2月19日号 80頁。
  3. ^ 平山雄一『弱虫のロック論 GOOD CRITIC』角川書店、2013年、p.148、『SWITCH』(VOL.30.2012年7月、スイッチ・パブリッシング)p.19-21、SPEEDSTAR ONLINE - Victor Entertainment - 小林克也&ザ・ナンバーワン・バンド
  4. ^ 小松壮一郎(こまつ そういちろう)会員名鑑 - 日本映画監督協会 - Directors Guild of Japan
  5. ^ a b c d e 平山雄一『弱虫のロック論 -GOOD CRITIC-』角川書店、2013年、pp. 150-153
  6. ^ 小松壮一郎(m.c.A・Tオフィシャルブログ、2008年7月30日)、この曲!#1 Bomb A Head!(m.c.A・Tオフィシャルブログ、2010年6月1日

関連項目[編集]