アフリカ・バンバータ

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アフリカ・バンバータ
左:Afrika 右:DJ Yutaka - 2004年 (*英語版の説明より)
左:Afrika 右:DJ Yutaka - 2004年 (*英語版の説明より)
基本情報
出生 1957年4月17日(56歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ブロンクス
ジャンル ヒップホップ
職業 DJ
ミュージシャン
活動期間 1970年 -
公式サイト MY SPACE

アフリカ・バンバータAfrika Bambaataa 本名:ケヴィン・ドノバン(Kevin Donovan) 1957年4月17日 - )はアメリカ合衆国ニューヨーク州ブロンクス区リバーサイド出身のミュージシャンDJ

黒人の創造性文化を「ヒップホップ」と名付け、ヒップホップの四大要素を提案し、さらに五番目に「知識」を加えたとされる。

人物・活動[編集]

エレクトロファンクの先駆けであり、またヒップホップシーンにおいてクール・ハークグランドマスター・フラッシュと並ぶ、ヒップホップの創始に関わった3大DJの一人と呼ばれる重要なアーティストである。更にハウスデトロイト・テクノなどのエレクトロミュージックにも影響を与えた人物である。

1970年代から「ズール・ネイション」などでのバンド活動を行い、1974年11月ラップDJダンスブレイクダンス)、グラフィティなどの黒人の創造性文化を総称して「ヒップホップ」と名付けた(この月がヒップホップの誕生月ともされる)。その後、クラフトワークのシングル『ヨーロッパ特急(Trans-Europe Express)』に強い影響を受けて1982年に発表したシングル、『プラネット・ロックPlanet Rock)』により、ヒップホップ、ハウス、テクノの音楽シーンに多大な影響を与えた。

この『プラネット・ロック』は現在でもオールドスクールクラシックとして愛されている曲である。歌詞に日本語で「1・2・3・4(イチ・ニ・サン・シ)」と数を数えるものがあるが、これはクラフトワークのアルバム『コンピューター・ワールド』(1981年発表)に収録されている曲『ナンバーズ(Numbers)』に全く同様の日本語の表現があり、これに影響を受けたものと推測される(同曲にはプロモーションフィルムも存在し、当時のブロックパーティの模様やブレイクダンスシーンが見られる。フィルムの編集も凝っており、完成度の高いものとなっている)。

また同じ1982年に12inchにて発表された『looking for the perfect beats』についても評価が高く、多数のサンプリング例がある(2006年のLL COOL J feat. ジェニファー・ロペスの『Control Myself』など)。

Paul Winley recordsから1983年にリリースされたアルバム『DEATH MIX』には、1980年代初頭にブロンクス、ジェイムズモンロー高校で行われたパーティーでの彼のDJプレイ等の模様が収録されており、当時のシーンを知るうえで非常に貴重である。

1985年、スティーヴ・ヴァン・ザントを中心とした「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」による楽曲「サン・シティ」のレコーディングに参加。

プレイリストとしてジャクソン・ファイブリック・ジェイムスなどの曲が挙げられる。そのほかには、黒人らしからぬ音楽志向として、日本のテクノポップ・グループであるYMOの曲(マーティン・デニーのカバー曲『ファイヤークラッカー(Firecracker)』)が、それらソウル・ファンクの曲と一緒にプレイされていた。これは彼がブレイクビーツについて、特定のジャンルにこだわらなかったことを示すものである。また80年代に彼が持っていたラジオ番組でのエンディング曲は、YMOのメンバー坂本龍一のソロアルバム『B-2ユニット』収録の『ライオット・イン・ラゴス(Riot In Lagos)』であった。

80年代を通して初期のヒップホップ音楽、文化を広げる中心となった。彼はブレイクビーツのDJ方を始めた3人のうちの1人で、特に「ヒッフホップ文化の祖父」「ヒップホップ文化のアメン=ラー(神)」もしくは「エレクトロファンクの父」と呼ばる。また、ギャングのブラック・スペード団を音楽文化集団ユニバーサル・ズールー・ネイションに吸収させ、ヒップホップ文化を世界に広めたとして知られている。2007年9月27日にはロックンロールホールオブフェイムの候補として取り上げられた。

歴史[編集]

アフリカ・バンバータはブロンクス川住宅地で育つ。幼少期から黒人権運動家の母と叔父の影響を受ける。また、母親の持つ様々なジャンルの音楽レコードにも触れる機会をもつ。この頃の南ブロンクスではギャングが地域を取り仕切るようになり、縄張りでのドラッグ売買を阻止、地域の健康プログラムを支援と、自身の縄張りと、そのメンバーを守るために戦い、またパーティーを開いた。バンバータはこの地域のギャング、サベッジ・セブン団の創立者(後のブラック・スペード団)となり、団の成長、改名後即に指揮官として指名される。指揮官として、彼は地位を決め、縄張りの拡張をしていった。彼は、他のギャングとぶつかることを恐れなかったことから、ブラック・スペード団はどんどんと成長していき、ニューヨークで人数縄張り共に1番大きな団になっていく。

彼は、小論文コンクールで入賞し、アフリカ旅行を手に入れる。旅先で訪れた地域社会のあり方に感銘を受け、故郷ニューヨークの暴力的な活動を止める事を決意する。彼は名前をズールー族首長のバンバータを取って、アフリカ・バンバータ・アーシムと改名する。

首長は彼自身をズールー「愛されるリーダー」と称している。これに影響を受け、アフリカ・バンバータはギャングの縄張り拡張を、どのように平和親善の為に、役立たせることが出来るかを考えだす。このアフリカへの旅と映画「ズールー」で観たズールー族の、結束に深く感動を受け、バンバータの世界観を圧倒的に変化させる。後に彼はギャングのブラック・スペード団を「ブロンクス・リバー団体」と変化させていく。バンバータ首長は反アパルトヘイト運動の先駆者で、20世紀前半に南アフリカで起こっていた経済不平等に対して、活動を行ったリーダーである。


DJクール・ハークやクールDJディーなどと同様に、バンバータはヒップホップのパーティーを主催するようになる。このヒップホップ文化を使って、ギャングのメンバーをユニバーサル・ズールー・ネイションに引き抜く事を固く決意する。また彼は「ヒップホップ」という名付け親といわれている。この「ヒップホップ」というのは、元々、MCがスキャットの中で使っていた一句で、バンバータが分類化されていたヒップホップ文化(DJ音楽、MCの叙情あふれた詩、ビーボーイズ・ビーガールズのダンス、落書きアート)を、1つにまとめる為に、この言葉を使ったと言われている。

1982年には、バンバータと彼を支援するダンサー、アーティスト、DJがアメリカ国外では初めてのヒップホップツアーを組む。これはユニバーサル・ズールー・ネイションの拡大と、ヒップホップ文化に対する理解を促す、絶好の機会となった。彼の言うヒップホップとは平和、団結、愛、そして楽しむ事をモットーとしている。そして多くのギャングメンバーの人生をヒップホップで救っていった。

彼の影響は海外にまで及ぶ。南ブロンクス地区で人気だったフランス出身の「レコードマスター」と呼ばれたラッパーMCソラールもその内の1人である。バンバータはジャジー5(メンバーはMCs Master Ice,、Mr. Freeze、Master Bee、Master D.E.E、AJ Les)とソウルソニック・フォース(メンバーはMr. Biggs、Pow Wow、Emcee G.L.O.B.E.)の2つのラップグループを生み出す。

同年バンバータとソウルソニック・フォースは生バンドをやめて、先端技術(電子音楽)をもちいるようになる。日本の電子音楽ポップグループのイエロー・マジック・オーケストラ(通称YMO)や ドイツのクラフトワークに影響を受ける。YMOからは音のサンプリングを、クラフトワークからはアーサー・ベイカーのプロデュースした、ジョン・ロビーがシンセサイザーを演奏した「ビート・ボックス」を提供してもらう。この変更が大ヒット曲「プラネット・ロック」を生み出し、「エレクトロ・ブギー」と呼ばれるラップとダンスミュージックの流れをつくることになる。これによってバンバータは、自身の音楽レーベルを設立し「タイム・ゾーン・コンピレーション」をリリース。「ターンテーブリズム」(楽の作者が意図的にターンテーブルを操り、音楽作りの主体をターンテーブルをつかっていること)ジャンル化し、1990年代の「エレクトロニカ」(電子音楽)を産業的に承認されたものとして確立していった

ユニバーサル・ズールー・ネイションの生まれ[編集]

バンバータは自身のリーダーシップの才能を使って、地域のギャング達の生活を更生してこうと決心する。この決意が後のユニバーサル・ズールー・ネイション(社会的政治的活動をするラッパー、ビーボーイズ、落書きアーティストなどの団体)の先駆けになる。

1977年までにはDJクール・ハークやクールDJディーの影響と、シスコ・キング・マリオからの音楽装置の提供があり、南ブロンクス地区各地でパーティーを主催して行く。そしてスティーブンソン高校やブロンクス・リバー公民館でミスター・ビッグス、クイーン・ケンヤ、カウボーイなどと演奏を始める。後にブロンクス・リバー団体(後のただの「ザ・オーガナイゼーション」団体と改名)を設立する。元々ギャング出身のバンバータは、脱ギャング団をしたメンバー客が多く、彼のヒップホップ文化は様々な場所に広まっていった。

約1年後ブロンクス・リバー・団体をユニバーサル・ズールー・ネイションと改名。5人のビーボーイズ(後のシャカ・ズールー・キングスとクイーンズ)の参加を初めとして、多くのDJ、ラッパー、ビーボーイズ、ビーガールズ、落書きアーティストがメンバーとなっていく。

1980年になると、彼のグループはポール・ウィンリー・レコードから、初めて「デス・ミックス」という曲を出す。バンバータによると、これはレコード会社側の、かってな契約だったそうで、その後さらにポール・ウィンリー・レコードはソウル・ソニックの定番「ズールー・ネイション・スローダウン」まで権限を手に入れる。これに幻滅したバンバータはレコード会社から離脱する。

知名度[編集]

1982年, ヒップホップアーティストのFab Five Freddyは、ニューヨークの白人地域にあるクラブ系列のManhattan New Wave Clubsで流す音楽を思考中に、バンバータを招待し、The Mudd Clubで演奏させた。これはバンバータにとって、初めて白人客の前で演奏する機会だった。彼の演奏するパーティーは、客数がどんどんと増加していった。 

1983年には "Looking for the Perfect Beat"と "Renegades of Funk"をソウルソニック・フォースと共にJean Karakos's CelluloidレコードからBill Laswellプロデュースでリリース。このレコード会社に彼は2つのグループ 「Time Zone」 と 「Shango」を結成させる。 「Wildstyle」を Time Zoneと共にリリース。1984年には「World Destruction」をパンクロックのJohn LydonとTime Zoneと共にリリースする。 Shangoのアルバム「Shango Funk Theology」 も同年にリリースされている。

さらに、バンバータとその他のヒップホップの有名人は、映画「ビート・ストリート」に出演。さらにジェームス・ブラウンとコラボレーションで「ユニティー」を作曲。

これは音楽業界で「ソウル音楽の名付け親とヒップホップ音楽の名付け親の出会い」と記されている。


1985年10月頃、バンバータは他のアーティスト(Little Steven Van Zandt, Joey Ramone, Run-D.M.C., Lou Reed, U2)と反アパルトヘイト運動アルバム「Sun City 」を制作。 1988年には名曲 「Afrika Bambaataa and Family」をCapitolレコードからリリース。バンバータはFamily(Nona Hendryx, UB40, Boy George, George Clinton, Bootsy Collins, Yellowman)とは3年越しに「Funk You」(1985年)や 「Beware (The Funk Is Everywhere)」 (1986年)をリリースしている。 1986年にバンバータはアーティストのAtlanta Ga. (MC SHY Dの紹介)を発掘し、後にCriminalレコードの Arthur Bakerと契約を結ぶ。 グループ名は Harmony and LGで、 初シングルは「Dance To The Drums/No Joke」 さらにバンバータは暴力停止運動に参加して、他のヒップホップアーティストと12インチシングルレコード「Self Destruction」をつくり、1989年3月のthe Hot Rap Singles Chartのヒットとなる。このシングルで40万ドルを貢献する。

1990年、バンバータは ライフマガジンの「20世紀で一番大切なアメリカ人」の1人として取り上げられる。さらに反アパルトヘイト運動の一環として「Hip Hop Artists Against Apartheid」 をWarlockレコードからリリース。 ジャングル・ブラザーズとチームを組み、「Return to Planet Rock (The Second Coming)」を作成。 Gee StreetレコードのJohn Bakerと協力し、the African National Congress (ANC)の為にロンドンのWembleyスタジアムでネルソン・マンデラ解放を記念したコンサートを計画。このコンサートを通して、イギリスとアメリカのラッパーの団結、さらにはヒップホップファンにネルソン・マンデラ、ウィニー・マンデラ、ANCの存在を明確にした。この結果「 Ndodemnyama (Free South Africa)」のリリースはANCに3万ドルを寄付するという大きな役目をはたす。これにとどまらず、バンバータはイタリアへの募金も募る。

90年代半ばからバンバータはWestBam (who was named after him)とコラボレーションして、彼の電子音の原点に戻り、 2004年遂に「Dark Matter Moving at the Speed of Light 」を完成させる。2000年には Rage Against the Machine がバンバータのカバー曲「Renegades of Funk」を彼らのアルバム「Renegades」に挿入. 同年彼はLeftfieldとコラボし初シングル「 Leftfield's Rhythm and Stealth」からの1曲「Afrika Shox"」(映画「Vanilla Sky」でも使われる)を出す。

2006年、イギリス人歌手 Jameliaのアルバム「Walk With Me」の1曲 「Do Me Right」に特別出演する。さらにMekonのアルバム「Some Thing Came Up」の 「D-Funktional」にも特別出演、The Bassheads (Desa Basshead).の「Is There Anybody Out There」の作詞と活躍は続く。俳優としては「 Kung Faux」で数々のナレーションを手がける。


バンバータは6周年記念 Independent Music Awards で審査員を手がけ、2007年9月27日にはThe 2008 Rock and Roll Hall of Fame Inductionsの候補者9人の内の1人に選ばれる。2007年12月22日、彼はケンタッキー州コビングトンでthe First Annual Tribute Fit For the King of King Recordsに特別出演した。

目録[編集]

アルバム

年代 アルバム名 レーベル
1983 Death Mix Paul Winley Records
1985 Sun City EMI
1986 Planet Rock: The Album Tommy Boy Records
Beware (The Funk Is Everywhere) Tommy Boy Records
1987 Death Mix Throwdown Blatant
1988 The Light EMI America Records
1991 The Decade of Darkness 1990-2000 EMI Records USA
1992 Don't Stop... Planet Rock (The Remix EP) Tommy Boy Records
1996 Jazzin (Khayan album) ZYX Music
Lost Generation Hottie
Warlocks and Witches, Computer Chips, Microchips and You Profile Records
1997 Zulu Groove (Compilation) Hudson Vandam
1999 Electro Funk Breakdown DMC
Return to Planet Rock Berger Music
2000 Hydraulic Funk Strictly Hype
Theme of the United Nations w/ DJ Yutaka Avex Trax
2003 Electro Funk Breakdown (Compilation) DMX
Looking for the Perfect Beat: 1980-1985 (Compilation)  Tommy Boy Records
2004 Dark Matter Moving at the Speed of Light Tommy Boy Records
2005 Metal Tommy Boy Records
Metal Remixes Tommy Boy Records
2006 Death Mix "2" Paul Winley Records

シングル

年代 曲名 レーベル
1980 "Zulu Nation Throwdown" Winley Records
1981 "Jazzy Sensation" Tommy Boy Records
1982 "Planet Rock" Tommy Boy Records
"Looking for the Perfect Beat" Tommy Boy Records
1983 "Renegades of Funk" Tommy Boy Records
"Wildstyle" Celluloid Records
1984 "Unity" (with James Brown) Tommy Boy Records
"Frantic Situation" (with Shango) Tommy Boy Records
"World Destruction" Atlantic Records
1986 "Bambaataa's Theme" Tommy Boy Records
1988 "Reckless" (with UB40) EMI
1990 "Just Get Up And Dance" EMI
1993 "Zulu War Chant" Profile Records
"What's the Name of this Nation?...Zulu" Profile Records
"Feeling Irie" DFC
1994 "Pupunanny" DFC
"Feel the Vibe" (with Khayan) ?
1998 "Agharta - The City of Shamballa" (with WestBam) Low Spirit Recordings

公演[編集]

日本[編集]

外部リンク[編集]