クラフトワーク

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クラフトワーク
KRAFTWERK
Kraftwerk 1976(左から)Ralf, Karl, Wolfgang, Florian}
Kraftwerk 1976
(左から)Ralf, Karl, Wolfgang, Florian
基本情報
出身地 ドイツの旗 ドイツ デュッセルドルフ
ジャンル 前衛音楽
電子音楽
シンセポップ
クラウト・ロック
活動期間 1970年 - 現在
レーベル KLING KLANG
EMI
Astralwerks
キャピトル
マーキュリー・レコード
ヴァーティゴ
フィリップス
事務所 KLING KLANG
共同作業者 エミール・シュルト
作詞イラストレーション
公式サイト
メンバー
ラルフ・ヒュッターヴォイスシンセサイザーキーボード
フリッツ・ヒルパート
ヘニング・シュミッツ
ファルク・グリーフェンハーゲン
旧メンバー
フローリアン・シュナイダー(ヴォイス、シンセサイザーフルート
カール・バルトス電子ドラム
ヴォルフガング・フリューア(電子ドラム)
フェルナンド・アブランテス(電子ドラム)
クラウス・レーダーエレクトリック・ヴァイオリン
ミヒャエル・ローター
クラウス・ディンガー
シュテファン・プファフェ
クラシック音楽
カールハインツ・シュトックハウゼン
タンジェリン・ドリーム
ビーチ・ボーイズ
Silver Applesなど

クラフトワーク: Kraftwerk ドイツ語発音: [ˈkʀaftvɛʁk] クラフトヴェルククラフトヴェァク発電所の意)は、ドイツ電子音楽グループ[1]マルチメディア・エレクトロニック・プロジェクト[出典 1]である。長年に渡り多くのアーティスト達にも多様な影響を与え[2]ニューヨーク・タイムズは「エレクトロニック・ダンス・ミュージックビートルズ (the Beatles Of Electronic Dance Music)」と評している[出典 2]

来歴[編集]

結成と初期[編集]

1960年代半ば、西ドイツデュッセルドルフ近郊 レムシャイトの芸術アカデミーでクラシック音楽の教育を受けていたラルフ・ヒュッターフローリアン・シュナイダーがデュッセルドルフ音楽院の即興音楽クラスで出会い[3]、インダストリアル・ミュージックへの関心からジャム・プロジェクトOrganisation[4]を経て1970年に結成する。当時、英米によってもたらされた文化や音楽に安易に染まる事を良しとしなかったクラウトロック(ジャーマン・ロック)の一グループであった彼等は戦後育ちのドイツ人としての自覚[5][6]を強く持っており、ケルン出身のバンドカンとも親交があった(カンの初公演はクラフトワークの楽器を借りて行われた[出典 3])。東ドイツのデューナモ・ドレスデン(ドレスデンの発電機、Dynamoの名称は総合スポーツクラブに用いられた)というサッカークラブの名前に触発されグループ名[出典 4]もあくまでドイツ語[7]で表現している。リズム・マシンやオルガン、電気フルート等を使った彼ら初期のインダストリアルで即興・実験的な作風[8]バズコックススージー・アンド・ザ・バンシーズ にも影響を与えた[出典 5]。当時の主な演奏会場は大学や美術館[9]などであった。幾度かのメンバーチェンジを経るも、結局ラルフとフローリアンが中心になり3枚のアルバムを制作する。アルバムジャケットのデザインを自ら手掛ける他、楽器の改造・開発[10]等、グループ初期から現在に至るまでのDIY精神はこのグループを知る上で欠かせない特徴と言える。この時期のメンバーで、脱退したクラウス・ディンガーミヒャエル・ローター(続けて加入するヴォルフガング・フリューア[11]と以前同じバンドのメンバーであった)は後のクラフトワークとは別の方向性で同じ工業都市デュッセルドルフの一面を表現しクラウトロックを代表するグループの一つとなるノイ!を結成する事になる。この時代の楽曲は70年代半ばを過ぎてからは全く演奏されなくなり、正規版のCDも存在しない[12]

アウトバーンのヒット・最初の全盛期[編集]

初期の活動で得られた資金を投入し手に入れたミニモーグを使用し、新メンバーヴォルフガング・フリューアは自作の電子パーカッション等を駆使し、以前の音楽を新たなる次元に昇華させた1974年発表の4枚目のアルバムアウトバーンが英米でヒット。とりわけ同名のシングル曲はそれまでの多くのミュージシャンがシンセサイザーを観念・瞑想的な音楽に使用したり楽曲の添え物として使用していた方法とは大きく異なり、全長20分を越し部分的には幾分瞑想的ではあるが即物的でありながらもあくまでもそれ自体を主体としたポップ・ミュージック[13]という手法による一つの完成型と言える物となった。フローリアンの知人の音楽学校教授の生徒であり、クラシック畑の様々な仕事をこなしていたカール・バルトスも加わりアメリカ横断ツアー[14]も行われた(カール自身の言でもあるが以後のクラフトワークの楽曲の主な特徴としてファンキーなリズムミュジーク・コンクレートポップ・ミュージックのミックスが挙げられる)。英国でも行われた当時のライヴ演奏の後 興奮の余り楽屋に訪れたという若き日のオーケストラル・マヌヴァーズ・イン・ザ・ダーク等、初期のクラフトワークの他のグループへの影響以上に知られている事だが主にエレ・ポップ、シンセ・ポップとしてのニュー・ウェーヴニューロマンティックと呼ばれるミュージシャン達にも大きな影響を与えた。独創的なステージング[15][16][17]も注目され、当時からクラフトワークの熱狂的なファンであり、後に彼らと親交を持ちスタジオ・ワークによる創造的絶頂をベルリン三部作で迎えたデビッド・ボウイ[18][19][20]がコンサートの最前列席を買い占めた事や、イアン・カーティスが愛好していた事がジョイ・ディヴィジョンの使用機材[出典 6]や後のニュー・オーダーの音楽性に影響を与えた事等も知られている。

既に自らのスタジオKLING KLANG[21]を構えており、初期の頃からの協力者であったコニー・プランクから独立したクラフトワークは自らの成功によって経験した出来事等にインスピレーションを得た作品を次々と発表する[22](例えば自分たちの音楽がラジオで流された事インタビューを自身に似せたロボットに受けさせるという空想[23]等々)。特に翌年に発表された5枚目のアルバム放射能: Radio-Aktivität: Radio-Activity)以降、彼らのほぼ全てのアルバムは作品毎に何らかのコンセプトをヴィジュアルと合わせて提示しているのが特徴[24]であり、感情を感じさせない無機的で禁欲的な謎めいた印象も彼らの意図した通りに確立された。これは同時期に興っていたパンク・ムーヴメント[25]へのアンチテーゼである[26]とも言われ、また衝動的なパンクと大作主義的なプログレの中間[27][28]であると考える者もいる。

ヴィジュアルや歌詞等のイメージに関してはアウトバーン以前からのステージには出ないメンバーであった詩人で画家のエミール・シュルトの貢献は大きく、当時のヴィジュアル・コンセプトには表現主義大戦によって中断された1930年代のドイツ・モダニズムエル・リシツキーロシア構成主義を意識した物などがある。アルバム人間解体では赤と黒を基調としたイメージがナチズムを連想させながらも東側を向いている事や楽曲コンピューター・ワールドに於ける歌詞などが政治的にも多様な物と捉えられた 。尚後年のラルフを筆頭にしたサイクリングへの高い関心もスタミナのあったエミールに教えられた事がきっかけであった。

作品発表のペースからしても一般的には1980年代初頭にかけてが彼らの最初の全盛期と見なされている[要検証 ]。現在に至るまでのライヴの定番曲の多くもこの時期に生み出されたものである[29]

日本では1978年発表の7作目のアルバム人間解体によってディーヴォとともにテクノポップを成立させるきっかけとなり、イエロー・マジック・オーケストラに於いてはアウトバーン以前の頃から関心を持っていた坂本龍一[30]による他のメンバーへの紹介により結成当初のコンセプトに影響を与える事となる[31]

テレックスダン・ラックスマンは、最初にクラフトワークのアナログシンセサイザーによるドラムの音に惹かれたと語り[出典 7]、デビュー以前に人間解体に衝撃を受け、彼らに一目置いていたU2ボノ[32]は2011年に公開されたドキュメンタリー映画フロム・ザ・スカイ・ダウンで彼らの方向転換的大作として知られるアルバムアクトン・ベイビーの制作当時、クラフトワークからの影響があったと明し、ジ・エッジは「リズムを学ぶ上で彼等は無視できない」と発言した[33]1981年の8作目のアルバムコンピューター・ワールドの発表に伴い、頭にターバンを巻いた観客達をも熱狂させたインド公演等を含む初の大規模なワールド・ツアーを敢行する(初来日[34]公演も果たす)。

思わぬ脚光 ・知られざるドラマ[編集]

以前に比べ活動が表面的には停滞していく傍ら、1982年には以前ヒップホップという言葉を作り出したアフリカ・バンバータがクラフトワークの曲を当初無断で利用して「エレクトロ・ファンク」という新しいサウンドを生み出す[35]。特に楽曲ヨーロッパ特急の一部が取り入れられたPlanet Rockローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500の半ばにランクインする等、ヒップ・ホップファン以外からも非常に高く評価されている。

更に同時期ホアン・アトキンスが若きデリック・メイにクラフトワークとイエロー・マジック・オーケストラを教え、影響を与えた事がハウス・ミュージックに対するよりスピリチュアルなアティチュードを表すテクノデトロイト・テクノ[36])の起源となる等、黒人ミュージシャン達が生み出した新しい音楽ジャンルへの思わぬ影響によってダンス・ミュージックを含めたクラブ・カルチャーからもリスペクトされる様になり、以後クラフトワークも少なからず音楽的にその影響を受ける様になる。これにより元々高かったラルフの国際感覚[37]も一層高いものになっていった。これら米英のテクノミュージシャン達とのコラボレーションは後のExpo 2000のリミックスやライヴヴァージョンでのリ・リミックスで果たされる。

コンピューター・ワールド・ツアーの経験から、彼等は長期的なツアーをより逞しくこなす為の体力作りにベジタリアニズムサイクリング(やがて生死の境目を彷徨う事故にまで繋がってしまったラルフの熱中ぶり[38]は他のメンバーを遥かに凌いでいた)を始めた。これら新たな経験や有名な自転車競技大会から着想された楽曲ツール・ド・フランスが映画ブレイクダンスで使用されアメリカでヒットする。

ほとんど知られていない事だが音楽業界の各所にいた何らかの形でクラフトワークの協力を欲していた人間の一人[39]に彼等の大ファンであったマイケル・ジャクソン[40]がいた。マイケルにザ・マン・マシーンのオリジナル・マルチ・トラックの使用を申し込まれたがグループのスポークスマンであるラルフはマイケルの生前、それを正式には認めなかった[41]。余談だがニューヨークにマイケルが所有していたビルに招かれたラルフは「マイケルの“フェイク”が3人も4人も存在し、クラフトワークよりもクラフトワークらしかった」と語った[出典 8]

現在クラフトワークの音楽はジェームス・ブラウンに次いで最もDJ用のレコードにサンプリングされていると言われて久しいものの、新しいアルバムの発表とツアー[42]、その他新たな試みに飢えていたヴォルフガングとカールは苦悩しつつも80年代末と90年にグループから離脱してしまう(グループの実権を握っていたのはあくまでも創立者であり所謂マネージャーを持とうとはしないラルフとフローリアンであった)。

しかしながら自身のソロ公演でクラフトワークに在籍した頃に作曲した曲を現在でも演奏するカールはグループ脱退後もラルフとフローリアンを尊敬しており、先述した様に多くのアーティストとのまたと無い様なコラボレーションのチャンスをことごとく拒絶した事を「打ち解けない連中」とも「ドラマチック」とも表現した[出典 9]

一方ウォルフガングは後に自身の半生と共にクラフトワークでの日々を綴った「ICH WAR EIN ROBOTER (クラフトワーク ロボット時代)」を発表。内容を巡りラルフ・フローリアンと訴訟沙汰にまでなる(もっとも、彼自身についても赤裸々に描かれているが)。ファンにとってはプライベートの詳細をほとんど語らないクラフトワークを知る為の貴重な情報源ともなった(彼らのパブリック・イメージを信じていたファンにとっては少なからず抵抗もあったようである)。

新活動とラルフ・ヒュッター[編集]

電気音楽~打ち込み音楽の祖であり頂点、という評価がゆるぎないものとなったクラフトワークはライヴ・パフォーマンス[43]での2人の穴埋めを最終的にKLING KLANGで以前から働いていたエンジニアであったフリッツ・ヒルパートヘニング・シュミッツとし、その後も1992年にセラフィールド核燃料再処理工場に反対する[44]野外イベント[45]に出演。1998年のワールド・ツアー(二度目の来日公演も果たす)等の活動の他、世界中のいくつもの音楽フェスティバルでヘッドライナー[46]を現在まで務め続ける事になった。

90年代、THE MIXの様な過去の曲の新アレンジ[47]やクラブミュージックに影響を受けた新たな曲を演奏してはいたものの完全な新作アルバムとしては結実してはいなかった。しかし2000年代に入りシングルExpo 2000がドイツハノーファー万博のテーマ曲として、2003年には完全なオリジナルアルバムとしては17年ぶりとなる11作目のアルバムツール・ド・フランス (アルバム)ツール・ド・フランス100年記念として発表された(同名シングルのリテイクも収録された)。[48]。これに伴い再び大きく注目された新生クラフトワーク(下記演奏・舞台形態の変化も参照)としてのワールド・ツアー[49]も行われ、その様子が日本での演奏も含めた初の公式ライヴ盤ミニマム・マキシマムに収録される。

ライヴ活動を続ける中、2009年に突然 ラルフを除く最後のオリジナルメンバーであるフローリアンの脱退[50]が報じられた。ラルフは今後の彼にエールを送るが40年来に渡る長年のコンビ[51]が解消された事に多くのファンが衝撃を受ける。

フローリアン脱退後の初めてのライヴがマンチェスターで行われた際、ツール・ド・フランスの演奏に伴いGreat Britain (GB) Cycling Team(オリンピックやツール・ド・フランスに出場経験のある自転車レーサー達からなる団体)のメンバーが設置されたステージの周囲にあるコースを周回し続けるという特殊なイベントが催された。あたかもフローリアン無きラルフを励ますかのようにレーサー達が走り観客が熱狂する中、ツール・ド・フランス-エタップ2の記号的に構成された歌詞をラルフが口ずさむ際、デビュー以来ほぼ一貫して公の場で感情を表さなかったラルフが涙を堪える様に声を詰まらせ、隣にいたへニングが頷いた様子が伝えられた。フローリアンの代わりには主にスクリーン映像を担当するシュテファン・プファフェ[52]がステージに立つ事になった。

クラフトワークの活動は現在も継続中である。

90年代以降の影響等[編集]

その他、1990年代から現在に至るまで、思想、過去の楽曲、ヴィジュアル・コンセプト、ヴィデオ、ライヴ・パフォーマンスのスタイル等のアイディアの影響を、レディオヘッドレッド・ホット・チリ・ペッパーズ[53],システム・オブ・ア・ダウン[54],コールドプレイ[55],ダフト・パンク,ドクター・ドレー[4],フランツ・フェルディナンド,デュラン・デュラン[56]ケミカル・ブラザーズ,エイフェックス・ツイン,LCDサウンドシステム,LFO,デジタリズム,電気グルーヴなど分野・表現の種を問わない[57]長期的な影響力を持ち続けている[58]。なお、70年代から現在に至るまでに彼らの音楽が映画に度々使用されている[59]が個性的な手法や明確な主題を持たない映像作品では彼らの音楽の存在感との相性が良くない、適合性を持ち得ない為か決して乱用はされない。ちなみに、日本のテレビ番組等でBGMとして使用される際は、アウトバーン以後のものしか使われず、クイズや統計を表示する映像等、思考力が求められる様な場面での使用が非常に多い。

演奏・舞台形態の変化[編集]

Kraftwerk, Düsseldorf, 2013.JPG

コンピューター・ワールド・ツアーに見られるシンセサイザーが「巨大な箱」だった時代のコンサートなどでの演奏風景では、ステージに所狭しと並べられた機材[60]が印象的であったが、パリで2002年9月に開かれたシテ・ド・ラ・ミュージックのライブ以降、各人の前にノートPC (VAIO) が載る小さな卓があるのみで演奏はスタインバーグ社製のデジタルオーディオワークステーション (DAW) ソフト・Cubaseによって楽曲をリアルタイムでコントロールしバックには映像を投影するというスタイルになっている[61]。主な楽曲はクラブミュージックに接近する以前、以後のアレンジもしくはそれらを混ぜた物が演奏される。結成当初から彼らの活動の重要な要素だったヴィジュアル・コンセプト[62]を見せる映像[63]は年々重要性を増しており(特に2002年以降は彼らの第一印象をも刷新した)、近年は観客が専用メガネを使用してステージを鑑賞する3Dコンサートが世界各地で開催され絶賛を博している。

現在のメンバー[編集]

クラフトワークの創設者。1971年頃に一時期脱退したが同年に再度加入。それ以来現在もクラフトワークのメンバーとなっている。

1991年フェルナンド・アブランテス脱退により正式加入。加入以前にもエンジニアとしてクラフトワークと関わっていた

1987年ヴォルフガング脱退により正式加入した。

2013年より正式加入。シュテファンに代わり背景映像を主に担当。

過去に在籍していたメンバー[編集]

ラルフと同じく、クラフトワークの創設者。2008年脱退。

  • Thomas Lohman トーマス・ローマン(脱退)

1970年の極初期にドラムパートを担当した。

  • Andreas Hohmann アンドレアス・ホーマン(脱退→Ibliss)

1970年にクラウスの前にドラムパートを担当。ファーストアルバムにも参加している。

1970年から1971年までにドラムパートを担当。2008年3月21日心不全で逝去。61歳。

1971年にギター担当として加入。ラルフが一時期脱退した頃にメンバーとなっていた。

  • Ebarhard Kranemann エバーハルト・クラネマン(脱退)

1970年後半にベース、チェロを担当した。シャーリー・ヴァイスとフローリアンと共にライブ活動を行っていた。

  • Charly Weiss シャーリー・ヴァイス(脱退)

1970年後半にドラムを担当した。エバーハルトとフローリアンと共にライブ活動を行っていた。

  • Houschäng Néjadepour ホシャンク・ネヤデポワー(脱退)

1970年後半にギターを担当した。エバーハルト、シャーリー、フローリアンと共にライブ活動を行っていた。

  • Emil Schult エミール・シュルト(脱退→グラフィック・デザイン、作詞)

1973年、ギター、エレクトリック・ヴァイオリンを担当し、ラルフ、フローリアンらと共にライブ活動を行っていた。

1974年に電子ヴァイオリン、ギターを担当。アウトバーンに参加。1975年には自然に脱退していた。

1973年後半から1987年までに電子パーカッションを担当。

1975年から1991年まで電子パーカッション担当として加入。

1991年のツアーに一時期メンバーとなっていたポルトガル人ミュージシャン。

  • Stefan Pfaffe シュテファン・プファフェ

2008年フローリアンの脱退により正式加入。加入以前にもクラフトワークとは関わっていた



略歴[編集]

  • 1967年、ラルフとフローリアンによりクラフトワークの前身ともいうべきグループ、オルガニザツィオーンが結成。
  • 1969年、実験的アルバム『トーン・フロート』(Tone Float) をリリース。
  • 1970年、グループ名をクラフトヴェルク (Kraftwerk) に改称。世界的には英語読みの「クラフトワーク」で通用している。
  • 1974年、アメリカのラジオ番組から火がつき「アウトバーン」が世界的にヒット、一躍有名に。世界で多くのフォロワーを生み出す。
  • 1980年代半ば〜 音づくりへのこだわりからアルバム制作は滞り、グループとしての活動も次第にペースが落ちて行く。
  • 1990年代後期〜 ワールドツアーライヴを中心に、徐々に精力的な活動を再開。
  • 1996年、ウェブサイトwww.kraftwerk.comが申請される。
  • 2000年、ドイツハノーファー万博のテーマ曲としてシングル「EXPO2000」(オービタルら他のアーティスト達のリミックスを更にリミックスしたライヴパフォーマンス用トラックPlanet of Visionsの原形)をリリース。
  • 2003年、17年ぶりの新作アルバム『ツール・ド・フランス』リリース。
  • 2005年、初の2枚組ライヴアルバム『ミニマム・マキシマム』、同名のライヴDVDリリース。
  • 2006年、1974年から2003年まで発表した曲のベストアルバムをリリースする予定であったが、諸般の事情により中止となる。
  • 2008年、フローリアンがツアーへの参加を引退、制作のみに携わることとなる。代役として映像技術を担当していたシュテファン・プファフェがステージに立つ。同年11月21日、フローリアンのグループ脱退が報じられた。
  • 2009年オフィシャルファンサイトで正式にフローリアンの脱退が発表された。また11月にはアウトバーン以降のスタジオアルバム8枚をリマスタリングし、ジャケットデザインを変更して再リリース。
  • 2012年ニューヨーク近代美術館(MoMA)にてアルバム アウトバーン以降の連続8作品の全曲を各セット・リストに組み込んだ8日連続の特別公演「Retrospective 1 2 3 4 5 6 7 8」が催される。マイケル・スタイプ、アフリカ・バンバータらと共に3日目(Trans-Europe-Express回)の観客であった坂本龍一の紹介により反原発イベントNO NUKES2012に出演。福島原発事故を意識した「Radioactivity」の歌詞を日本語で披露し、その後のコンサートでも歌い続けている。
  • 2013年、「Retrospective 1 2 3 4 5 6 7 8」を地元であるドイツ・デュッセルドルフのノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館やロンドンテート・モダンでも開催。東京の赤坂BLITZ(日本では9年ぶりの単独公演となる)やシドニー・オペラハウスでもこの形態での公演が予定されている。

ディスコグラフィ[編集]

※以上3枚は現在正規盤ではリリースされておらず入手困難。ラルフ曰く「否定はしないが過去の事をあまり語りはしない」。フローリアン「過去の遺物」[64]

なお、『放射能』以降の楽曲は一部を除き一般バージョンの英語版とドイツ語圏向けのドイツ語バージョンの2種類が存在する。そのため、同じアルバムでも基本的に英・独2バージョンリリースされる(『ツール・ド・フランス』は1バージョンのみ)。例外として「ポケットカルキュレーター」(『コンピューター・ワールド』収録)のように英・独・仏・日の4カ国語や「ショウルーム・ダミー」(『ヨーロッパ特急』収録)の英・独・仏の3カ国語、「セックスオブジェクト」(『エレクトリック・カフェ』収録)の英・独とスペイン版初回限定で収録されたスペイン語版の3カ国語、1983年に出たシングル「ツール・ド・フランス」(日本未発売)の独語とタイトルにちなんだ仏語の2カ国語といった例外もある(ツール~は現在仏語のみ歌われている)。

特殊なバージョン違いの例としては、通常6曲収録である1986年のアルバム『エレクトリック・カフェ』は、韓国版のみ儒教社会に与える影響を考慮して「セックス・オブジェクト」をカットした全5曲収録としてリリースしている。『ミニマム・マキシマム』CDは台湾でも帯付の現地盤として発売されたがアーティスト名は「電力站樂團」と標記されている。

参考文献[編集]

注・出典[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 70年代後半以降のラルフ・ヒュッターはクラフトワークの音楽を好んで“ロボ・ポップ”と称した他、やがて20世紀のクラシック、またはインダストリアル・フォークソングとも称している パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』 美馬亜貴子/佐久間秀夫 製作 THE KRAFTWERK CHRONICLE 年表 TOCP-88224
  2. ^ 音楽ライターでレコード制作者のパスカル・ビュッシーは1994年の著書『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』の前書きで「クラフトワークに影響を受けたグループがあまりに膨大な数にのぼるので、その名を列挙したり、インタビューをするのがとても無理なことが分かった」と記している
  3. ^ 植物園で出会ったという。 ストレンジ・デイズ2004年No.55 P66 クラフトワーク・ストーリー [大鷹俊一]
  4. ^ クラフトワークと親しいジャーナリスト ポール・アレッサンドリーニは「面白いことに二人は上層中産階級の出なんだ。彼らは大ブルジョワ出身のインテリで、それとは違った世界を発見しようとしたんじゃないか。それでロックの世界に入り込んでみようとしたわけだ」と推察している パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P23
  5. ^ ラルフや後に加入するカールは「クラシックや行進曲、英語で歌われるポップスでは無く自分たちの音楽を持とうと思った」と事あるごとに語っている。最もそれらの音楽を否定してはおらず、70年代半ば以降ラルフは「僕たちがやっているのはクラシックだから、曲もクラシックになる」と発言していた。また後にレコード会社で彼らを担当することになるマクシム・シュミットは「グループとしての力、クラシック性、強さ、全てがクラフトワークの中にはあった。それはラルフによって与えられたものだ」と発言している パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P143他
  6. ^ クラフトワークの音楽の根底には伝統的なドイツ特有のリズム感があるとも発言している シンコーミュージック ディスク・ガイド・シリーズ#016テクノ・ポップ 美馬亜貴子監修
  7. ^ ドイツのグループでありながら英語で名乗るタンジェリン・ドリームなどとの違いが意識されていた。ラルフ曰く「ドイツ語はとてもメカニカルで、それを音楽の基本構造として使っている」パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P42 また全盛期から現在までライヴの開幕時に使われる如何にもロボチックな人工音声によるアナウンスも主にドイツ語が使用される
  8. ^ ピンク・フロイドからの影響をインタビュアーに指摘されたラルフは「逆だ。彼らこそフランスの新古典主義音楽やドイツの電子音楽から多くを得ている」と返した パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P33
  9. ^ 40年後にニューヨーク近代美術館(MoMA)で回顧展が行われた事について結成当時からアート・シーンに関わりがあった事にラルフはインタビューで言及している他、フローリアンは「自分達の友人には音楽家よりも医者やコンピューターの専門家、心理学者、作家、画家など他分野の人の方が多い」と発言した事もある パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』
  10. ^ 楽器の発案や人工音声の制作を得意としたフローリアンについて後に加入するカールは「音楽家というよりはアーティストに近い」と形容している。またグループの共同作業者であったエミール・シュルトは「常に引っ張り役だったのはフローリアンで、新しい展開をする段になると、フローリアンが物事を前に進めた。気性からいって彼はみんなと速度が違っていた。音楽に磨きがかかっていたら、それはフローリアンのおかげだ」と発言している パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P142他
  11. ^ 主にザ・フーなどに影響されていたウォルフガングは、当時長髪だったラルフの外見にドアーズからの影響を感じたと著書ロボット時代で振り返っている
  12. ^ 2013年のインタビューでラルフの口から「当時のアルバムはコレクター向け」と位置付けられた 月刊rokin'on MAY2013 P93
  13. ^ ラルフは「我々は頭脳的な事ばかりを意味するエレクトロニック(ミュージック)に体幹(ハート=筋肉)を加えた」と表現している 1982年マーク・クーパーによるインタビュー
  14. ^ フローリアンは「自分たちのヒーローであるビーチ・ボーイズと同じ地に立てて光栄だ」と語った。また楽曲アウトバーンの歌詞Wir fahr'n fahr'n fahr'n auf der Autobahnは正確なドイツ語を若干崩しておりビーチ・ボーイズの楽曲ファン ファン ファンのフレーズを意識したと言われている(ヒットした要因にもあげられる) パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』
  15. ^ 「演奏者は音楽のダイナミズムを表現するためにステージ上で情熱的になる事が多いのにクラフトワークは徹底してクールですね」とのインタビューに対しラルフは「音楽は我々にとってより精神的なものなんだ。ボタンの操作を誤ってしまう訳にはいかないのでステージ上では無暗やたらに飛び回る事はできない。電子機材は非常に繊細なもので、その操作はミクロ単位でメスを動かすようなものなんだ」と答えている。また「オーディエンスの反応は気にしていますか?」と聞かれ「もちろんだ、我々は20人から2万人の前で演奏するがオーディエンスの反応はいつだってライヴの重要な要素さ」と答えている ストレンジ・デイズ2004年No.55 P69 ヴォルフガング・フリューア『クラフトワーク ロボット時代』
  16. ^ フローリアンの発案で制作された光電管制の巨大な檻型電子ドラムは反応が極めて不確実であったものの、何らかの面倒なトラブルに見舞われた日のステージに限って何故か上手く作動したとウォルフガングは著書ロボット時代で振り返っている
  17. ^ メンバーの名前があしらわれたネオンは専門店で働いていたフローリアンの妹が用意した物であった
  18. ^ 当時ラルフはボウイとのコラボレーションについて示唆した事があったがグループの独自性を優先する為に実現はされなかった
  19. ^ パンク・ロックの祖の一人とされながらも知的な一面でも知られるイギー・ポップと共に楽曲ヨーロッパ特急の歌詞に登場している(これもボウイを通じて実際に面会した経験が元になっている。イギーは当時ラルフとフローリアンに夢中だった) パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P123
  20. ^ ボウイは特にフローリアンの乾いたユーモアを評価しておりアルバム英雄夢語り (ヒーローズ)に彼の名を冠したV-2 シュナイダーなる楽曲を収めた
  21. ^ アルバム放射能制作当時のスタジオ内ではキンクスが愛聴されていた パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』
  22. ^ 初期からアルバム人間解体以前のクラフトワークは日本などでは「ジャーマン・プログレッシブ・ロック」として紹介されていた
  23. ^ アウトバーン・ツアーでのヘビー・スケジュールから喚起されたと同時に彼らに対するイメージがやがて“マン・マシーン”なるコンセプトへと繋がっていった パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』
  24. ^ 2012年より開催されている『Retrospective 1 2 3 4 5 6 7 8』ではこの特徴がそのまま活かされていると言える
  25. ^ 因みにクラフトワークを脱退しノイ!で活動した時期のクラウス・ディンガーのボーカルがパンク的歌唱の祖とする説もある
  26. ^ 少なくともウォルフガングはそう意識していたと著書ロボット時代に記している
  27. ^ アルバムヨーロッパ特急のドイツ国内盤のジャケットで使用されたモノクロの写真はラモーンズのデビューアルバムのジャケット写真に見られる現実重視型のアプローチからの影響を反映している。これはクラフトワークの様に高価な機材を扱うバンドとしては異例のアプローチであった パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P123
  28. ^ パンクの興隆と共にプログレッシヴ・ロック・シーンは勢いを弱めていったが クラフトワークはその確信犯的な非人間性・非観念性によって糾弾を免れたのみならずパンク~ニュー・ウェーヴムーヴメントの中でも特殊な磁力を発する事となった
  29. ^ これはビートルズやチャック・ベリーローリング・ストーンズなどのファンでもあったカールのメロディセンスに因るところも小さくない パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』
  30. ^ 初来日時に親交を持った坂本龍一が後年にリリースしたシングルZERO LANDMINEにサウンドロゴを提供した。またNO NUKES2012で初披露された福島第一原発事故を意識した日本語の歌詞も坂本龍一の監修である SIGHT特別号 NO NUKES (ノーヌークス) 2012 2012年 09月号
  31. ^ 細野晴臣は「クラフトワークを聴き込むほどドイツとかヨーロッパの歴史の深さに圧倒されるばかりだったんです。これは僕らにはできない。彼らに対抗する方法論が見つけだせなかったそんな時に北京の楽団が自分たちは東洋人であるという意識を刺激してくれた」と語っている Yellow Magic Orchestra USA (2003リイシュー時のインタビューより)
  32. ^ クラフトワークを「ヨーロッパ的ソウル」と評し、16歳の頃に後に妻となったアリソンに人間解体のLPをプレゼントした事もフロム・ザ・スカイ・ダウンで語られる
  33. ^ U2はシングルネオン・ライツのカヴァーを収録している
  34. ^ メンバー全員にとって気配りの行き届いた日本は心地よく「絶対にまた来よう」と確約し合ったという。またウォルフガングは著書ロボット時代に“日本の都市における秩序と相互の生活への気配りに関して、私たちヨーロッパ人はまだまだ学ぶことがある”と記している
  35. ^ これは以前ブライアン・イーノが想像していたクラフトワークとPファンクを組合わせたロボ・ファンクなる発想と同じ物であった
  36. ^ これら“テクノ”という呼称は日本で使われだした上述のテクノポップという呼称をクラフトワークが気に入り自らの楽曲・歌詞として使用した物を更にデリックが部分的に使用したものである
  37. ^ クラシック音楽や現代音楽のみならずジョン・コルトレーンチャールズ・ミンガスなどのモダン・ジャズの知識に加え、音響的な側面でMC5ザ・ストゥージズにも関心があったラルフはドイツ語・英語に加えフランス語スペイン語にも堪能である パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』
  38. ^ ラルフ曰く「これこそ私だ。マン・マシーンだ」 パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』
  39. ^ エルトン・ジョンもその一人である パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P203
  40. ^ マイケルはアルバムバッド以降 サウンドのエレクトロ化を深め、楽曲ダーティー・ダイアナではAbzugに酷似したサウンドが使用されている
  41. ^ ラルフはマイケルに対してライバル心を持っていたとも言われ、またデビッド・ボウイの時と同様にグループの独自性や孤高性を優先した為であるとグループに近い人物は推測している パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P204
  42. ^ 機材の進歩の速さが制作のペースを追い越してしまったと言われるエレクトリック・カフェの発表によるツアーは行われなかった。またこの時期のクラフトワークはクイーンを思わせる作風に接近したが、しばらくして以前の作風に戻ったという パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』
  43. ^ 以前は楽曲ロボットの演奏時に登場していたマネキンは主に上体が遠隔操作出来るロボットに取って替わられた。ラルフはこの事をとても喜んでいた。 パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』
  44. ^ ラルフはクラフトワークが原子力発電所に反対する理由に「放射性廃棄物の最終処分について誰にも納得のいく説明ができない」事を挙げている 月刊rokin'on MAY2013 P93
  45. ^ U2やパブリック・エナミーも出演した
  46. ^ 97年にイギリスのレイヴイベント トライバル・ギャザリングに出演した際はデトロイト・テクノの出演者のブースが全員クラフトワークを見るために閉鎖された ストレンジ・デイズ2004年No.55 P72 中野泰博文
  47. ^ カールらと共に自然とグループを離れたエミール・シュルトは5年近くに及んだ作業から生まれたこのアレンジに対して「ダヴィンチモナ・リザの絵を撤回して再び描き直すだろうか?」と懐疑的であった パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P228
  48. ^ 彼等の新作アルバムの発表予告はラルフ自身の口から出た場合であっても決して信頼出来ない程に余りにも長い間実現しないままであった
  49. ^ 当時 MTVヨーロッパ・ミュージック・アワードでライヴパフォーマンスを行う際にカイリー・ミノーグは「どんなアーティストだって彼らの影響を受けているわ!」と紹介した
  50. ^ 本人は「クラフトワークとしての活動に興味が持てなくなった」と語り、ラルフはウォルフガングの著書にも詳しい彼の長年の長期的なツアー嫌いについて言及した
  51. ^ 以前ラルフは自身とフローリアンの関係を「いうなれば陰と陽ミスター・クリングとミスター・クラングさ」と言い表していた。 ストレンジ・デイズ2004年No.55P70 シンコーミュージック ディスク・ガイド・シリーズ#016テクノ・ポップ 美馬亜貴子監修 掲載のインタビュー
  52. ^ 同年に行われたクラフトワーク自身も認知する彼ら最大級のファン・サイトが運営されていたブラジルを含む南米ツアーで彼らをスペシャル・ゲストに迎えたレディオヘッドジミ・ヘンドリックスのファンであった。
  53. ^ 因みに元ギタリストのジョン・フルシアンテはアウトバーン以前にクラフトワークを脱退しノイ!を結成したミュハエル・ローターのギタープレイに影響を受けており、ジャムセッションを行った事もある
  54. ^ 彼らのアルバム『Hypnotize』『Mesmerize』内の楽曲はビーチ・ボーイズ,ゾンビーズと共にクラフトワークからの影響を受けているとダロン・マラキアンは語っている[1]
  55. ^ 楽曲TalkComputer Loveのリフが使われている件についてクリス・マーティンは「Computer Loveのリフを聴いたとき、“俺たちが作ったんだったら良かったのに”って思ったよ。彼らがコールドプレイを知ってるかどうかもわからなかったから、自己紹介から始めなきゃならなかったんだ。15歳の少年みたいだよ。ラルフ様、僕はコールドプレイというバンドで歌っています・・・・・・とかなんとかさ。みんなに彼らがOKしてくれたのは奇跡だって言われてるよ」と述べた[2]。これ以降クラフトワークもしばらくライヴで演奏していなかったComputer Loveをセット・リストに加えた。
  56. ^ ライブ・パフォーマンスにおける視覚効果のパロディーはデビュー当時のデペッシュ・モードにも見られた
  57. ^ 特に2000年にアトム・ハートによって発表されたクラフトワークのラテン・カヴァー集「プレイズ・クラフトワーク」は注目をあつめ、再リリースの際にはフローリアンが直々にコメントを寄せるなど数あるクラフトワークカヴァーの中でも特筆に値する作品と言える
  58. ^ ラルフは2013年のインタビューで「あらゆる世代のエレクトロニック・ミュージシャン達からのフィードバックには本当に勇気づけられる。それはまさに自分が楽曲ロボットで書いた通り “バッテリーをチャージしてエネルギーは満タン”という具合なんだよ」と話している>[3]
  59. ^ クリス・ペティット監督作の『Radio On』や近年ではデンマークの監督Michael Madsenによるオルキルオト原子力発電所放射性廃棄物処理場についてのドキュメンタリー・フィルム『100,000年後の安全』などがある他、クラフトワークのレコードを撮影現場でも欠かさなかったというライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは70年代後半の作品でクラフトワークの音楽を使用している
  60. ^ ラルフ曰く「我々はスタジオを演奏する」「我々の活動はスタジオが全てに優先する」 パスカル・ビュッシー 『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』他
  61. ^ 過去に使われた楽器等は全てKLING KLANGに安置されているとの事
  62. ^ これに依ってラルフはクラフトワークを“マルチメディアなKLING KLANG(プロダクト)”と表現している
  63. ^ THE MIXでのツアーからは楽曲ヨーロッパ特急組曲のエンディングにKLING KLANG MUSIK FILMなるロゴが表示されるまでに至った
  64. ^ デヴィッド・バックリー『クラフトワーク』シンコーミュージック 2013年6月

出典[編集]

  1. ^ 2003年の来日時のラルフのインタビューより、ストレンジ・デイズ2004年No.55 P69。
  2. ^ By NEIL STRAUSS: Call Them the Beatles Of Electronic Dance Music 1997
  3. ^ パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P30
  4. ^ パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P40
  5. ^ パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P114
  6. ^ ドキュメンタリー映画Joy Division
  7. ^ 「ベルギーのクラフトワーク」テレックス・インタビュー
  8. ^ パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』 P204
  9. ^ パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』 P224、ヴォルフガング・フリューア『クラフトワーク ロボット時代』

外部リンク[編集]

関連項目[編集]