マイケル・ジャクソン

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マイケル・ジャクソン
(Michael Jackson)
基本情報
出生名 マイケル・ジョーゼフ・ジャクソン
Michael Joseph Jackson
出生 1958年8月29日
アメリカ合衆国
インディアナ州ゲイリー
出身地 アメリカ合衆国インディアナ州ゲイリー
死没 2009年6月25日(満50歳没)
アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンル R&Bソウル
New Jack Swingファンク
ロックダンスポップ
モータウン・サウンド
ディスコ
職業 歌手ソングライター
音楽プロデューサー編曲
俳優振付師
担当楽器 ボーカルマルチプレイヤー
活動期間 1967年2009年
レーベル モータウン
エピック・レコード
ソニー・レコード
マイケル・ジャクソン・カンパニー
共同作業者 ジャクソン5
公式サイト MichaelJackson.com
  

マイケル・ジャクソンMichael Joseph Jackson1958年8月29日 - 2009年6月25日 [1])は、アメリカ合衆国の歌手ダンサーKing of Popthe true king of pop, rock and soul)と称された。

目次

[編集] 概要

HIStoryのプロモーションのためにヨーロッパ中に置かれた多くのマイケル・ジャクソン銅像の一つ。

ギネス・ワールド・レコーズでは史上最も成功したエンターテイナーとして認定されている。世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。ギネス記録は「全米シングルチャートで首位を獲得した最年少ボーカリスト(ジャクソン・ファイブ当時11歳)」、「全米シングルチャートで初登場1位を記録した最初のボーカリスト(You Are Not Alone)」、「年間売上げ高が1億ドルを超えた最初のエンターテイナー(1989年、Forbes誌)」、「史上最高額の所得を得たエンターテイナー(89年に1億2500万ドル)」などの記録を保有。

アルバム"Thriller"に関する記録は「1億400万枚の世界最高枚数の売り上げ」「全米アルバムチャートでの最長期間首位(37週・サウンドトラック盤を除く)」、「最も成功した音楽ビデオ(100万本以上の売上げ)」などのギネス記録を保有している。

兄弟で結成したジャクソン5のボーカルとしてデビュー。1980年代にはそのダンスやヴォーカルの実力で、全世界をその娯楽性で魅了した。「ムーンウォーク」は、彼の代表的なダンスのひとつ。ゴシップキングとしても知られ美容整形(顔の形の変化)と尋常性白斑全身性エリテマトーデス(肌の色の変化)の影響によるマイケル・ジャクソンの外観の変化のためよくタブロイドのネタにされる。

1993年、マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑が発生。13歳の少年が自分の父親(ビバリーヒルズの歯科医)によってマイケルを告発させられる。だが本人は現在、マイケルに虐待されたとは思っておらず麻酔を用いた虚偽記憶であったと考えられている。

また、2003年にはマーティン・バシールによるマイケルジャクソンの真実の報道の結果、マイケル・ジャクソンは児童性的虐待疑惑で逮捕されたが、マイケル・ジャクソン裁判の結果、全ての件に関し無罪となった。

尚、歌手のラトーヤ・ジャクソンは実姉、ジャネット・ジャクソンは実妹である。

2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医療センターに呼吸停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。50歳没。

[編集] 来歴

[編集] 1958-1970

10人兄弟姉妹の8番目(六男)として(兄のひとりが夭折)、インディアナ州ゲーリーアフリカ系アメリカ人街に生まれる。ゲーリーは住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人たちにとっては最初の黒人市長が1967年に出た誇りの土地でもある。当時は黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。

ジョセフ・ジャクソンはUSスティール社の貧しい製鉄所のクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問はThriller発売後も行っていた[要出典]。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンはシアーズなどの小売店でパートタイムとして働く事で家計を何とか補おうとしていた。

幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌った。

父は「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アーティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1955年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。

ところが或る時、愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを発見し、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏がなかなかうまいことに気がついた。これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれないと思った父は、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキーティトジャーメインと従兄弟とされていた二人(実は他人)で1962年にボーカルグループを結成した。

翌年、マイケルは兄マーロンとともに二人の従兄弟と入れ替わりにグループに入る。当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンドRipples & Waves Plus Michael(のちthe Jackson Brothersと改名)の一員として頭角を現した。

初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。

1965年には地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストでテンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、見事優勝した。

1966年に4人の兄たちと「ジャクソン5(ジャクソンファイブ)」を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これによりジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため前座の出演であった。この過程でジェームス・ブラウンジャッキー・ウィルソンサム&デイヴなど様々なスターのパフォーマンスを勉強した。

地元ではインディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。

当初ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。

1968年7月にモータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの(I want you back)」でメジャーデビュー(マイケルは当初8歳の設定だったが実際には11歳だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、何とメジャーデビュー作であるにもかかわらずヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながらビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手はビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし見事1位を獲得。続く「小さな経験(The Love You Save)」「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。

[編集] 1971-1980

マイケルは1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月には人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年には「ベンのテーマ」もヒットした。

1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも出はじめた。マイケル本人も背が伸び、ひどいにきびに悩まされ、その上声変わりが追い打ちをかけて、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなった」などと冷やかされることもしばしばであった。

結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行う事になった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがザ・ジャクソンズに加入した。

このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム「Destiny」がヒットしその不安を一蹴する。この頃のザ・ジャクソンズのヒット曲としては、「Can you feel it」「Blame it on the boogie」「Shake Your Body (Down To The Ground)」(マイケルとランディの共作)などがある。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。

1978年ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「ウィズ」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していたとき、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」がエピックでのデビュー曲であった。

クインシーをプロデューサーに迎え「オフ・ザ・ウォール」を制作。7月先行シングルとして発表された 「今夜はドントストップ "Don't Stop 'Til You Get Enough"」 は、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけたナンバーである。なお、この頃はドラムとピアノを使って作曲を行っていた。当時は黒人ということでさほどオンエアされなかったが、タキシードを着たマイケルが3人に分裂する映像は話題を呼び、全米チャートを制覇した。

8月に発売された「オフ・ザ・ウォール」は少年ボーカリストからの脱皮を世界中に印象付けることになる。ソウルミュージックを基本にした作品であり、ポップ色の強い後の作品とは異なった意味で高い評価が与えられている。

10月には「Rock With You」を発表。この曲では一人多重録音の技術が用いられている。非常に伸びやかな声が聞けるとして今でもこの曲のファンは多い。ビルボードでは4週連続1位を獲得している。

さらに、「Off The Wall」「あの娘が消えた」と同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。しかし、後にマイケル自身が「スリラー」でこの記録を破ることになる。 「あの娘が消えた」のレコーディングでは、何度レコーディングをやっても、マイケルが最後に泣いてしまい、収録し直しを何回もしたが、結局そのままアルバムに収録されることになった。

「オフ・ザ・ウォール」はロングヒットを飛ばし、次回作に期待を集めた。

ザ・ジャクソンズは1980年9月「マイ・ラブリー・ワン(Lovely One)」(マイケルとランディとの共作)、11月「ハートブレイク・ホテル(This Place Hotel)」(マイケル直筆)とシングルを出したが、これらがこの時期のザ・ジャクソンズの主要曲であることからも分かるように、この頃はグループの中でも非常に重要な位置を占めていた。「This Place Hotel」はもともと「Heartbreak Hotel」という名前であったのであるが、エルヴィスの曲と同じ名前になってしまう事もあったのか、後に改名している。「ビリー・ジーン」「ダーティ・ダイアナ」同様スキャンダラスな歌詞で知られている。

[編集] 1981-1990

1981年3月には1975年発売の「フォーエヴァー・マイケル」から、「想い出の一日(One Day In Your Life)」がモータウンから発売されたが、「オフ・ザ・ウォール」の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。

1981年12月には次回作のため、「オフ・ザ・ウォール」では「ガール・フレンド」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組むことになり3曲のデュエット(「ガール・イズ・マイン」「Say Say Say」、そしてポールのアルバム「パイプス・オブ・ピース」に収録された「ザ・マン」)を後に生むことになる。ポールとはプライベートで一緒になることが多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを見たとマイケルは語っている。

1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。

1982年8月には、クインシーと2人で完全にロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム「スリラー」は全米チャートで37週にわたり1位を記録。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、「スリラー」はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。

1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている。だが、その後この傾向がますます強まったのは誰もが認めるところであり、結果的にこの曲は彼の人生を強く言い表した曲になっている。2005年の無罪判決の時もジャーメインが「Larry King Live」に出演した時、司会のラリー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問している。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出てしまっている事を念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。この作品は黒人であるにもかかわらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品のひとつとして知られている(もう一人はプリンスである。しかしプリンスの場合は白人の血も入っているとの噂を否定しなかったので非常に微妙なところである。※実際には、プリンスの両親は共に黒人である)。

1983年5月には、モータウン25周年コンサート(Motown 25: Yesterday, Today, Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」を歌うことを条件に出したとされている。この初披露のムーンウォークでは爪先立ちが上手く出来ず本人の満足のゆくものではなかったという。

2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、エディ・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat It」を発売。このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行った事で知られる。現在では当然のように撮影されているが、その原点と言われる作品がこの作品である。このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のチンピラ」を起用した。

そして、12月には後の多くの調査でミュージックビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男に変身したり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。監督はジョン・ランディス1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。

また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシのCMでライブバージョンを撮影中、予想以上に火花が散ってしまい、その中から登場したマイケルは、頭頂部に大きなヤケドを負ってしまった[2]。皮膚移植手術によって、完治はしている。 このときマイケルに対してペプシ側から推定3億円あまりの賠償金が支払われたがマイケルは自身を治療した病院にこの賠償金を全額寄付した。 また、マイケルはこの一軒についてペプシ、製作者側を非難することはなく、両者の関係が悪化することもなかった。 それはペプシと長期まで契約が続いていたことからも伺える。 ラリーキング・ライブに出演した関係者によれば、この事故以降鎮痛剤を睡眠薬代わりに常用始めることとなる。

「スリラー」の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルは結局ソロ・ライブ「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。

ロナルド・レーガン大統領夫妻とともに(1984年5月14日)

1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We are the world」をライオネル・リッチーと共作した。しかし、その姿勢は評価されたが「バンド・エイド」の模倣であるとも揶揄され、アメリカ人しか集まらなかったため、結局はアメリカ中心主義ではないかとも批判され賛否両論の結果となった。

しかし、楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。ロナルド・レーガン大統領から授賞された時、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評をかってしまった。[3]

同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4750万ドルで購入。ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット・シングル(「The Girl Is Mine(1982)」、「Say,Say,Say(1983)」)を発表するなど親交が深かったが、マイケルの所持する大量のビートルズの版権をポールが売買してくれないかと交渉を持ちかけたところマイケルが断ったため、その後はさほど仲が良くない。なお、マイケルに音楽の版権を投資対象として買うよう勧めたのはポールであった。[4] マイケルはビートルズに対して特別な思い入れがあり、ジョン・レノンの次男・ショーン=レノンと1988年の「ムーンウォーカー」で共演したり、「Come Together」をカバーしたりしている。なお、ビートルズの版権は20年後の2005年時点でも、購入した版権の半数を未だ所有している。

1986年5月ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や公演も受け持つことになったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。

8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの制作に取り掛かった。完成したアルバム「BAD」は1987年8月に発表され、「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。表題曲「BAD」のショートフィルムは非常に奥深いビデオであり、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話が基になったことから、マイケルの孤独感や疎外感を表しているのではという一説がある。パフォーマンス部は今までの縦と横の動きに加え様々な動きを加えた複雑なダンスを披露した。振付はグレッグ・バージロバータ・フラックウェズリー・スナイプスが出演し、監督はマーティン・スコセッシである。

カハラ・ヒルトン・ホテルにてサインをするマイケル(1988年1月)
西ベルリンのコンサートに詰めかけた観客(1988年6月19日)

1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版された。4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストでは初登場1位を獲得した。

この頃、社会的な問題に対しても目を向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌い、後のマイケルの作風につながる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸国の人物であるマイケルが出演したことで話題となった。

また、この頃マイケルはビートルズの版権の大量購入など、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。この曲はダイアナ・ロスを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。

7月発売のシングル「Another Part Of Me」は1位記録とトップ10記録を同時に途切れさせてはしまったが、クインシーの手があまりつけられていない作品であったためマイケルが新しい方向性を探しているのではという印象も与えた。

1987年9月から世界ツアーを行い、1988年にかけてアメリカや西ドイツイギリスなどで公演を行った。日本に於いても「M.M.旋風」と称されるブームを巻き起こした。なお、もうひとつのMはマドンナである。

1989年、マイケルがBREアウォーズでポップ・ロック・ソウルの三部門を制したため、エリザベス・テイラーはマイケルを評して「the true king of pop, rock and soul」と称した。

[編集] 1991-2000

世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、更なる極みを目指し1991年11月に「Dangerous」を発表。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消したが、発売後6週間において1千万枚を突破した。このアルバムで共同プロデューサーとなったテディ・ライリーはクリフォードから、アルバム「Dangerous」は時代を先取りしていた、と後に評されている。発売日にはロサンゼルス国際空港でアルバム3万枚が銃で脅され強奪されるという事件も起こっている。

ビルボードでは4週連続1位を獲得するが、この時は新勢力の台頭も目立ってきており、グランジバンドニルヴァーナの1991年9月発売のアルバム「ネバーマインド」に連続を止められた。それでも3100万枚以上を売り上げた[5]

11月発売のシングル「Black or White」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。全米チャートで7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の映像技術であるモーフィングが採用され話題となった。

だが、この曲のショートフィルムでは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的過ぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのバージョンのショートフィルムはその部分の映像に黒豹が登場することからパンサー・バージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことである)と呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや、人種差別団体の名前やハーケンクロイツが描かれた車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされたのだが、これに対する批判は多い。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一斉放映が許可されており、マイケルのビデオ作品ではじっくり見ることが出来る。アメリカでは深夜に放映されたという話はあるが日中に放映されたという話はない。ただ、現在見られるパンサーバージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれた人種差別団体の名前などいくつか修正、今ではそれらの文字は消されている。

1992年1月には「Remember The Time」を発売。翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィーイマン・アブドゥルマジドデヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと競演した。このショートフィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。

このショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。この曲を1990年代最高のマイケルの曲に推す向きも多く、テディ・ライリーも2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。この際に訪れたコートジボワールでは「サン族の王冠」の称号を授与されている。

4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。7月にはNBAマイケル・ジョーダンとMJ同士で競演する「JAM」が発表された。この作品ではHeavy Dノーティー・バイ・ネーチャークリス・クロスなども共演している。これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。

1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Gone Too Soon」「Heal The World」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する"事件"が起きた)。

1993年スーパーボウル第27回大会のハーフタイムショーでライブを行う。大型のビジョンの中で踊るマイケル。その後、画面から上部に飛び出しヴィジョンの上でダンス。さらに中央のステージまで瞬間移動するというもの。 さらには、1分13秒間ステージ上で静止するという前代未聞のパフォーマンスを見せ、 ジャクソンのハーフタイムショーはスーパーボウルの前半戦よりも高い視聴率を記録した。 このジャクソンのパフォーマンスは、スーパーボウル・ハーフタイムショーの新たなスタンダードを築いたと言われている。 結果、スーパーボウル単体としての価値が上がり、現在のような世界のトップアーティストを毎年ハーフタイムショーに招くことが定着していったのであった。 ちなみにこの壮大なライブにも関わらずスーパーボウルのハーフタイムショーの伝統状 マイケルはノーギャラでこのライブを行った。[6]

マイケルは少年に性的虐待を行った疑惑のマイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。

1994年にはMJJプロダクションズを設立した。1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。

1994年10月のベストアルバム発売が予定されていたが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)「HIStory」を発売した。タイトルは"history"と"his story"を掛けたものである。当初は新曲は4曲で1枚のベストアルバムの予定であったが、延期され新曲が大幅に追加された。二枚組としては世界で5番目に売れた二枚組アルバムとなった。

ジャネット・ジャクソン

アルバムの発売に先駆けて5月先行シングル「Scream」が発売され、妹のジャネットとのデュエットが話題となった。二人の仲が良いことは有名で、ジャネットは自身のライブ中に裁判で戦っているマイケルに祈りを捧げたことがある。また当時の彼女の人気はマイケルに追いつくほどであり、一部からマイケルを超えたとも評されるほどであった。

8月「You Are Not Alone」を発売。史上初のビルボードHot100における初登場1位を獲得した。ショートフィルムでは当時の妻リサ・マリーとセミヌードで競演。

12月には地球環境の破壊について切実に歌い上げた「Earth Song」をヨーロッパでカット。イギリスでは6週連続1位を獲得、イギリス国内だけでも100万枚を突破し、イギリスにおけるマイケル最大のヒット曲となった。マイケルのお気に入りの曲の一つでもある。

1996年4月には「They Don't Care About Us」をシングルカット。ところが、歌詞の一部が反ユダヤではないかとして批判を浴び、マイケルは自身が反ユダヤではないと弁明することとなった。ミュージックビデオのうちプリズンバージョンはMTV等の番組で放送が自粛され、ビルボードでは最高30位。しかし、ドイツでは首位を獲得している。

1996年9月から3度目の世界ツアーを行う。韓国では熱狂した少年がマイケルの乗るゴンドラに飛び乗るというハプニングもあった。11月14日にデビー・ロウと二度目の結婚。

1997年、突如「Blood on The Dance Floor」(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。突然の発表であった上、変則的な曲目のアルバムであったが、600万枚以上の売り上げを記録した。マイケルは表題曲をエルトン・ジョンに捧げたとされている。詳しい経緯は分かっていないが、エルトン・ジョンはエイズの少年(1990年死去)に関する話でかつて協力し合った仲である。エルトン・ジョンは後の裁判の際には最後まで沈黙を守り続けている。

この直後、ソニーとの確執は表面化し、1997年10月に発売されるといわれていた「ヒストリー」からの第7段シングル「スマイル」が販売停止となった。

1998年にはノーベル平和賞にノミネートされた。この年の7月に来日し世界空手道連盟の朝堂院大覚(松浦良右)総裁から「名誉五段」を授与される。またこの際に「マイケル・ジャクソン・ジャパン」の設立を発表し、日本をはじめとして、アジアやアメリカでテーマパーク「World Of Toys」の建設や、国内外での玩具店の直営及びフランチャイズ方式での経営を行う計画を発表するが、その後計画は解消となる。

1999年6月にはマイケルと有志の友人たちがふたつのチャリティコンサートを開いた。収益金は赤十字ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。

この頃ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーのウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクションにデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をかけていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。この当時何曲かのシングルの発売の噂は出ていたが、全て実現しなかった。

[編集] 2001-2005

2000年12月12日に、第16回ロックの殿堂入りが決定していたが、2001年3月に正式にロックの殿堂入りした。なお、マイケルはジャクソン5としても1997年殿堂入りしている。

2001年10月最新オリジナルアルバム「Invincible」を発表。タイトルは無敵でいつまでも成長し続けることで人々のために貢献するという意味合いを込めたもの。当初は1999年11月9日発売の予定だったものが数回延期され、2001年10月30日(US)発売となった。このリリースの直前、レコード会社の凄まじい圧力に痺れを切らしたマイケルはトミー・モトーラにもはやこのアルバムで最後だと通知した(実際、このアルバムが生涯最後のものになった)[7]。この後マイケル側とレコード会社側は激しいバトルを繰り広げる事になる。(後述#ソニーウォーズ

8月先行シングルとして発売された「You Rock My World」はフランスで5週連続1位を獲得。スマッシュヒットとなる。

Butterflies」は米国内でラジオ向けにシングルカットされたのみで、CDとしてのシングルカットはなかったのにもかかわらず、大きな反響を呼びエアプレイだけでビルボードで14位まで上り詰め、R&B・ヒップホップシングルチャートでは2002年年間12位を記録した。マイケルの近年最高の曲との意見も少なくない。

同年9月7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝うコンサート「Michael Jackson: 30th Anniversary Celebration, The Solo Years」を行った。日本からは安室奈美恵が駆けつけ、オノ・ヨーコも参加した。9月7日は兄弟達と出演し、終幕はクインシー・ジョーンズの指揮で出演者全員による「We Are The World」が演奏された。9月10日には最後の「You Rock My World」でアッシャークリス・タッカーがパフォーマンスに参加した。コンサートはチケット総売り上げ額10,072,105ドル、観客総動員数34,884人と成功のうちに終わったが、その翌朝アメリカ同時多発テロ事件が起こる。

事件に衝撃を受けたマイケルは、「We Are The World」を再現したような豪華アーティストを集めたチャリティシングル「What More Can I Give?」を企画。この曲はもともとはコソボ自治州のアルバニア系住民に捧げる予定であった曲で1999年には既に存在していた。マライア・キャリーセリーヌ・ディオンジャスティン・ティンバーレイクビヨンセリッキー・マーティンらスターを集めてコンサートを開催した。しかし、10月にレコーディングは終わっていたのにもかかわらずプロデューサーのスキャンダルなどの影響でCD発売は実現しなかった。ソニーの圧力があったとも言われる[誰?]

なお、マイケルはこの頃2期目の再選を狙っていたジョージ・W・ブッシュ大統領の政治方針に反対し、民主党を支持し資金集めに協力しようと2002年4月にはアポロ劇場で「Black or White」「Heal The World」を披露している。

2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せた。だが、マスコミが「手すりの辺りでブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連しベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。訴追はされなかったが、世界的な非難を浴びて「弁解はしません。私は大きな過ちを犯しました。(あの時)とても興奮していました。私は自分の子供たちを故意に危険にさらすようなことは、絶対にしません」と謝罪した。

マイケルの友人であるユリ・ゲラーは「マイケルには多大な精神的プレッシャーがかかっていて、また時差ぼけもあります。彼のしたことは間違っています。何も考えていなかったのでしょう。興奮しすぎていたのかもしれません。でも最高の父親です」と語っている。なお、この際子供の顔を隠していたことも一部で話題となったが、これはパパラッチから子供たちを守るために顔を隠していると言われている[誰?]

2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェームス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加した。ステージ上でマイケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりのことであった。その後マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。この際、会場にはマイケルと共にラトーヤも姿を見せた。この年、ノーベル平和賞に再びノミネートされる。

同時多発テロ被害者の支援のために作られたにもかかわらず、長らく棚上げの状態が続いていた「ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ」であったが、何とかして発売できないかと検討した結果、オンラインで2ドルで販売する事が決定し、2003年10月にダウンロードが始まった。これによって集まった資金は子供の組織に寄贈された。

2003年11月18日にベスト盤「ナンバー・ワンズ」をリリース。だが、この直後マイケルは性的虐待疑惑で逮捕され、いわゆる「マイケル・ジャクソン裁判」が始まり、世界各国のマスコミから衆目を浴びる。

2004年2月、妹ジャネットが国民的ショーであるスーパーボウルのハーフタイムショーでジャスティン・ティンバーレイクとのデュエット中に片方の胸を露出する事件を起こし、激しい非難を浴びた。この後ジャネットは「自分が非難されるようになって、初めて兄の気持ちが分かった」と語る。

2004年12月15日限定発売ボックスセット「The Ultimate Collection」を発売。アルバムの中には、イラク戦争に対する反戦歌として2004年にレコーディングされた「We've had enough」も収められている。世界への苛立ちがストレートに表現された曲調、歌詞共に激しい曲である。

2005年6月13日、性的虐待疑惑のすべての件に関して無罪評決が下る。同月、裁判の療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住した。

2005年7月、2枚組のベスト盤「The Essential Michael Jackson」を発売。裁判の影響もあってかアメリカでは最高位96位と振るわなかったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランス(コンピレーションアルバムチャート)やベルギーでは首位を奪う(フランスではコンピレーションアルバムチャートで6週もの間首位の座を守り続ける)。

2005年のハリケーン・カトリーナの被害に際してもチャリティシングル「I Have A Dream」を企画。だが、前回同様にレコード契約を決めないまま制作した影響もあり、現在発売未定となっている。仮名は「From The Bottom Of My Heart」であり、正式名称はキャロル・ベイヤー・セイガー、デヴィッド・フォスターと共作した1999年10月発売予定だった曲の名前と同じである。だが、この製作時にはウィキペディアが早まった不正確な速報を流したとして問題になってしまった(後述)。

[編集] 2006-2009

2006年には、元ジャクソン5のドラマー、ジョニー・ジャクソンが刺殺される事件が発生する。同年マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(ヴィジョナリー)として再発売され、スペインのチャートではマイケルの曲が再発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。

2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラ・ビン・ハマド・アール・ハリーファとの合弁会社、トゥー・シーズ・レコーズと契約。同年5月26日、1998年世界空手道連盟のイベントに出席して以来の来日。「日本にはいい思い出がたくさんあるのでとても楽しみ。変わらぬ愛で僕をサポートしてくれたファンのみなさんに会えることを楽しみにしている」と語る。27日、日本MTVジャパンが主催する「MTV Video Music Awards Japan」に出席し、裁判以降初めて公の場に姿を現した。28日自身の子供達と共に児童養護施設「星美ホーム」を訪問。29日にはアジア財界のメンバーと会談した後に、YOSHIKI叶姉妹らと対面した。

また、6月5日放送のSMAP×SMAP(収録は5月31日)に飛び入りの形で出演した。マイケルがテレビのバラエティー番組に出演するのは世界で初めてのことである。関東地区の視聴率は22.0パーセント、瞬間最高視聴率は25.9パーセントを記録した。出演料は20万ドル(約2000万円)。

パリのディズニーランドで娘パリスとともに(2006年6月18日)

6月17、18日にはドイツの首都ベルリンで、マイケルの無罪評決1周年を祝うパーティーが開催された。W杯ドイツ大会では世界発売されたFIFA公式アルバム「Voices」に参加し「アース・ソング」を収録している。

音楽活動も本格的に再開され、2007年後半のニューアルバムの発売が4月に発表された。5月にはニューアルバムの製作にマイケルのアルバムを3作品共同プロデュースしてきたテディ・ライリーが再び参加すると伝えられた。2006年6月にはレイモン・ベインが声明を出し、レコーディングの為にバーレーンの住居は維持したままヨーロッパに移住する予定があるというマイケルの意向を伝えた。また、同月MJJプロダクションズを段階的に廃止する目的で、マイケル・ジャクソン・カンパニーを設立した。

8月25日午後2時25分頃、ネバーランドの西側で森林火災が発生したが、午後7時半頃には鎮火。

9月、バーレーンのアブドゥラ王子の所有するトゥー・シーズ・レコードとの提携を解消。4月にガット・レコード会長のガイ・ホームズがトゥー・シーズの代表取締役に就任するという報道があったが、ホームズによると正式な契約は交わしていなかったのだという。そのため、6月に設立が発表されたマイケル・ジャクソン・カンパニーがレコード会社としての役割を担うこととなる。

11月14日、ギネス・ワールド・レコーズが、アルバム「スリラー」の総売上げ枚数を1億400万枚と認定したと報道される。だが、実際には6500万枚と記載されていた。同日、新たに8部門に関して世界記録認定書を授与された。11月15日のロンドンのアールズ・コート・アリーナで開催されたワールド・ミュージック・アウォード2006ではマイケルは7億5000万枚の総売り上げを誇るとされた。

12月14日、日本にて同月19日に行われる予定だったMichael Jackson Premium Christmas Partyが急遽延期された。高額なチケット料金に一部見直しが図られ、また2007年3月9日,10日と二日間に渡り行われることになった。デーブ・スペクターのMC登板に、以前から彼からマイケルのゴシップ報道を聞いていたファンによる批判が相次いだ。

12月25日、ジェームズ・ブラウンが死去。ジェームズは生前自分がマイケルに対し好意を持っていた事を述べ、「アメリカへ戻って来る事については心配するなと伝えてくれ」と語っていた。そのマイケルはクリスマスからアメリカ合衆国に帰国し、ラスベガスに滞在する。マイケルは12月27日、レイモン・ベインを通じ「ブラウン氏に対し常に抱いていた愛情と尊敬の念は、言葉では充分に語り尽くせません」というコメントを出す。12月30日にはジェームス・ブラウンの告別式がジョージア州オーガスタのジェームス・ブラウン・アリーナで行われ、約9千人の参列者が参列。マイケルも参列しスピーチを行う。マイケルは棺に口付け別れを惜しんだ。

2007年3月4日にファン感謝イベントに参加するために成田空港より約1年ぶりの来日。3月5日、子供たちのためにビックカメラ有楽町本店を貸し切っておもちゃなどを購入。3月7日、東京ディズニーシーを初訪問。3月8日と9日に「ファン感謝デー」が開催。3月10日14時過ぎ、マイケルは神奈川県の在日アメリカ軍基地の「キャンプ座間」の「ヤノ・フィットネス・センター」でおよそ3000人の兵士やその家族から歓迎を受ける。3月14日に離日。

2008年2月、スリラー25周年記念エディションをリリース。エイコンウィル・アイ・アムカニエ・ウェストらによる同アルバム収録曲のリミックスが収録されている。

2008年9月、「Michael Jackson King of Pop」をマイケル生誕50周年を記念してリリース。世界20ヶ国以上でそれぞれの国でファン投票を行い、日本盤ではその中の15曲が収録された。

2009年3月、「7月にロンドンのO2アリーナで10公演を行う。これは“ファイナル・カーテン・コール”である」と発表。その後「ディス・イズ・イット(This is it.)」のタイトルで50回に渡る公演が行われることが発表され、チケットが発売されたが即日全公演分が完売した[8]。なお、当初は7月8日からスタートする予定であったが、その後7月13日からのスタートに延期された。また、この頃より「ディス・イズ・イット」の準備及びリハーサルに入った。

2009年6月25日(カリフォルニア時間)14時26分に死亡が確認、享年50歳。死亡前後の詳細は次項を参照のこと。

[編集] 死亡時の真実と噂

Googleにおける2009年6月25日の「Michael Jackson」のアクセス数の推移。左の矢印はマイケル死亡が確認された14時26分、右は死亡が報道された14時44分

マイケルジャクソンの死に関する報道では事実と噂が錯綜している。死因、遺産の行方、未成年の扱いなど、本項ではこれらについて可能な限り正確な記述をする。

[編集] 死亡時前後の状況

2009年6月25日(カリフォルニア時間)、自宅にて心肺停止状態に陥り、マイケルのスタッフが救急隊に通報。12時26分に救急隊が到着。13時14分にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院へ救急搬送されるが、約42分間に及ぶ蘇生活動を行うも、14時26分に死亡が確認された。死因は心臓麻痺と言われている。50歳没[9][10]

搬送された病院やマイケルの自宅にはファンが集結し、一時騒然となった。また、マイケルの死はすぐさま世界各国の各メディアでトップニュースとして報道され、全世界に衝撃を与えた。CNNBBCなどが報道特別番組を組み、病院前から24時間体制で生放送を続けた他、Googleでは検索数が一時猛烈に跳ね上がり「Michael Jackson」の検索がスパムとみなされ検索不可能となるという事態が起こった[11]

[編集] 死亡にまつわる未確認事項

[編集] 薬物依存

マイケルの死後、自宅から大量のプロポフォール (商品名: ディプリバン) 及び鎮静剤が発見された。 プロポフォールは外科手術において全身麻酔の導入・維持にも用いられる麻酔薬であり、鎮静作用はあるが睡眠薬として処方されることはない。 手術用の麻酔薬であるプロポフォールは、麻酔医による適切な監視・用法の下でなければ呼吸停止・心停止を起こす可能性がある。

ラリー・キング・ライブに出演した担当看護師、担当弁護士、アンダーソン・クーパー360に出演した財務担当者等の関係者は

  • 1984年のペプシCM撮影中に発生した事故以来、プロポフォールを睡眠薬代わりに使用し始めた
  • 常用に伴い、部屋の壁へ酸素ボンベを常備していた
  • 家族、特にジャネットは度々薬物依存治療の説得に来ていたが、マイケルは警備員を使って追い返していた

などを証言している。この看護師はマイケルからプロポフォールの処方を依頼されたが同剤は麻酔医か外科部長でなければ処方出来ないとして断ったとされている。

2009年7月11日 カリフォルニア州警察は、プロポフォールの不適切な使用および依存が死因である疑いは強く、処方医による重過失致死の可能性がある、と表明した。また、マイケルの元弁護士は「受けるかどうかは決めていない」と断った上で「元担当医の一人より、本件に関する弁護依頼を受けている」と語った。

2009年7月13日 ラトーヤはイギリスでの取材において「(麻酔を処方した)医者がマイケルを殺したと認識している」と発言した。

[編集] 音楽性

ジャクソン5はソウルミュージックの中でも非常にポップで白人にも受けるものだったため、人気の一方で黒人層からの批判もあった。

クィンシー・ジョーンズと出会ってからはソウル・R&B、ポップなどを融合させた極めてクオリティの高い作品を発表。ポール・マッカートニーとのデュエットや「Beat It」でハードロックのギタリストを起用するなど、ジャンルや黒人・白人の垣根を超越した存在となった。

1987年の「BAD」、1991年の「Dangerous」ではニュー・ジャック・スウィングと呼ばれるサウンドを多用し、流行を牽引した。

1990年代後半になっても、マイケルは流行に安易に迎合する事を嫌いこのスタイルを保ったが、2001年の「Invincible」では同時代性を意識した曲を多く収録した。

ハードロックにも関心を示し、「Beat It」では、ヴァン・ヘイレンエディー・ヴァン・ヘイレン、「Dirty Diana」ではスティーヴ・スティーヴンス、「Black Or White」ではガンズ・アンド・ローゼズ(当時)のスラッシュを起用している。近年はギター・ヒーローが少ないせいもありなりを潜めているが、「Whatever Happens」ではカルロス・サンタナを起用している。なお、クイーンのメンバーとの接近があった時期があり、「地獄へ道づれ」を提供されているが、諸事情により断り、クイーン自らでの発表を強く薦め、事実それは彼らのスマッシュヒットとなっている。しかしのちに彼らとは関係を絶っている。

パンチの効いたボーカルを聴かせるアップチューンとは対照的に、繊細なハイトーンの美声で歌い上げるバラードにも定評がある。「She's Out of My Life」「Heal The World」「You Are Not Alone」他。

また、社会問題や地球環境といった問題を扱い、広く平和を訴える曲も多い。「Man in the Mirror」「Heal The World」「Earth Song」などがある。

[編集] ダンス・パフォーマンス

マイケルのダンスは彼の最大の魅力の一つであると語る人は多い。1歳半の時には、洗濯機の鳴る音に合わせて哺乳瓶を片手に踊っていたと母のキャサリンは語っている。練習の際は「フレッド・アステアやジーン・ケリーを手本にしていた」「ジェームズ・ブラウンのステップを食い入って見ていた」と本人が語っている。「踊るときは何を考えているのでしょうか」という質問には、「踊る時に考えるのは最大のミス。感じることが大切なんだよ」と答えている。 「ムーンウォーク」は「ゲットーで踊る黒人の子供たちから」学んだものだと本人が語っている。また、初期のころから膝を曲げつま先で立つ独特なポーズを見せており、アルバムのフォトやムーンウォークの締めなどによく用いられる。帽子を投げるパフォーマンスでも知られる。

「オフ・ザ・ウォール」の頃はただ曲に合わせて踊るだけであったが、「スリラー」の頃には縦と横の激しい動きが出始めプロのダンサーたちとの競演も始まった。この頃はマイケルは技術的に様々なものを修得しており、フィギュアスケートのようなスピードのある回転技術も修得した。

さらに「バッド」の頃になると体の様々な動きをダンスに取り入れることで、非常に完成されたダンスを披露できるようになった。この時期に同アルバムの楽曲smooth criminalのショートフィルム(マイケルにおけるPVの総称)で披露した斜め立ちはムーンウォークに次いで有名。このセンセーショナルな動きはアキレス腱や背筋などを鍛えることで可能になるが、より大きく傾けてみせるためには靴の裏にフックをかける必要がある。このsmooth criminalは、ムーンウォークのBillie Jeanと並んでライブツアーでは必ず行われる内の最も人気なライブパフォーマンスの一つとなっている。このようにして、マイケルは歌手としてだけではなくダンサーとしても不動の地位を手にすることになる。

「デンジャラス」の頃には非常に速いダンスも出来るようになり、「Black Or White」ではその部分が放映禁止にこそなったが見事なソロ・ダンスを披露している。その後もラテン系のダンスなど様々なジャンルのダンスを取り入れることによって、年齢による体力の衰えを感じさせないパフォーマンスをしている。

体格的に、脚が長く、背も高いのでダンス全体の見栄えが非常に良い。

2005年には裁判の精神的ショックから著しい衰弱が伝えられファンから心配されたが、2006年3月に兄のジャーメインが「毎日300回の腕立て伏せと腹筋をやっている」事を伝え、精神的なタフさとその自分に対する厳しさで皆を驚かせた。そして、2006年5月には回復した姿を日本で披露した。

[編集] 慈善活動

世界各地で子どもたちのための慈善活動を行っている。

  • 1992年には、世界中の不幸な子ども達の為「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立。11月、ボスニアの子どもたちにおもちゃや文具が詰まったギフトボックス3万個がクリスマスプレゼントとして届けられたほか、小児病院や子どもたちを支援する団体にも総額11万ドルに及ぶ寄付を行っている。翌年の虐待疑惑などの影響で活動に支障が出たともいわれる。
  • 1993年、ロスで薬物乱用から若者を救う運動に着手。自身も鎮痛剤の中毒に苦しんだ時期がある。
  • モスクワ、アルゼンチン、グルジアに医療物資として救急車やワクチンを供給するための活動を行っている。

[編集] チャリティー・ソング

[編集] We Are The World

  • アフリカ飢餓救済

参加アーティスト:Michael Jackson, Stevie Wonder, Ray Charles, Bob Dylan, Billy Joel, Cyndi Lauper, Lionel Richie, Diana Ross, Paul Simon, Kenny Rogers, Bruce Springsteen, Quincy Jones (プロデューサー), Hall and Oates, Kim Carnes, Steve Perry, Tina Turner, Dionne Warwick, James Ingram, Smokey Robinson, Kenny Logins, Al Jarreau, Willie Nelson, Huey Lewis 他

[編集] What More Can I Give?

  • 米・同時多発テロ被災者支援

参加アーティト:Mariah Carey,Celine Dion,Beyonce Knowles,Usher,Ricky Martin,Justin Timberlake,Mya,Boyz II Men's Shawn Stockman,The Backstreet Boys' Nick Carter,Carlos Santana,'N Sync,Julio Iglesias,Brian McKnight,Billy Gilman,Anastascia,Tom Petty,Aaron Carter 他

[編集] I Have This Dream

  • ハリケーン〈カトリーナ〉被害者支援

[編集] 事業

1985年のATV買収に代表されるように実業家としても知られる。1990年代には日本や韓国で子供向けのテーマパークを建設する計画を発表したこともあるが、実現しなかった。

近年はCD売上の落ち込みもあって財政難が度々報じられ、金銭に関する裁判も複数抱えている。これに対し、マイケルは「僕が破産寸前などという話はまったくのデマ」とはっきり語っている。なお、マイケルは現在でも昔の曲の印税だけで年間推定約20億円は収入がある。

[編集] 製作業

1990年代、ソニーレコード傘下に自身のレコードレーベルMJJ Recordsを設立。女性グループBrownstoneや、甥3人によるユニット3Tなどをデビューさせた。

日本のジャニーズ事務所との繋がりもあり、1990年代後半にはTOKIO長瀬智也を3Tと共演させたTomoya with 3T による楽曲『ETERNAL FLAME』(1997/8/13)やJ-FRIENDSのチャリティシングル『Children's Holiday』(1998/1/21)をプロデュース・作詞・作曲した。

[編集] 逸話

[編集] ショートフィルム

  • 最も有名なミュージックビデオと形容されているThrillerの制作費はその当時の金額で80万ドル。マイケルが自分の映像作品の事をショートフィルムと正式に呼ぶようになったのはBlack or Whiteの制作後である。マイケルとジャネット共演のScream(1995)では700万ドルの巨費が投じられ、最も費用のかかったミュージックビデオということになっている。アメリカのホラー作家スティーヴン・キングが制作に参加していることでも知られるGhosts(1996)は35分の最長ミュージックビデオでもある(この作品でマイケルは1人5役を演じている)。Captain EOでは映画の長さ17分に対して制作費1700~3000万ドルと見積もられており、当時としては1分あたりに直して最も費用がかけられた映画だった。また、「Smooth Criminal」のショートフィルムの真のフルサイズバージョンは「ムーンウォーカー」であり、こちらは42分ある。映画であるためミュージックビデオではないが、もしミュージックビデオとして扱われたならこちらのほうが長かった。

[編集] 金銭感覚

  • マイケルは『ぼくはお金に固執はしない。たとえば、その辺の子どもが、ダイヤを見て「これきれい」と言ったら、「いいよ、持って行きな」と言っちゃうだろうし』と語っていた。また、マイケルが子どもの時、彼が泣きながら帰ってきたので、父親が聞いてみたところ、マイケルは自分のお小遣いを全部つかって、まわりの子どもたちに色々なものを買ってあげたそうである。

[編集] 結婚歴

  • 1994年5月26日、エルヴィス・プレスリーの娘のリサ・マリー・プレスリーと結婚し「世紀の結婚」と言われたが1996年1月18日離婚。1999年には「エルヴィスだって鼻の整形をした」とマイケルが発言したため、怒って電話にも出なくなった。リサ・マリーは、マイケルの児童虐待の裁判の苦境中にも、結婚中のネガティブな事をメディアにまくしたて絶縁関係となった。1996年11月14日、デビー・ロウと結婚。ビバリーヒルズの皮膚科医のアシスタントとして働き、マイケルはその皮膚科医師の患者だった。彼女との間には長男プリンスと長女パリスが誕生した。1999年10月8日には離婚した。マイケルによると「彼女は私のために子供を作りました。彼女は『あなたは父親になる必要がある』と言いました…そして彼女は私への贈物として子供を作ってくれました」と、バシールの番組で発言していた。2002年にはさらに代理母により次男が誕生した。

[編集] ネバーランド

  • 以前住んでいた自宅は遊園地、動物園が併設されており、ネバーランドと呼ばれる。場所はカリフォルニア州サンタバーバラ近郊、敷地面積は2万6000エーカー(千代田区とほぼ同等)。ネバーランドの名は「ピーターパン」に登場する大人にならない島に由来している。「ピーターパンは僕が心の中に持っている特別な象徴なんだ。ピーターパンからイメージするのは若さ、子供時代、大人にならないこととか、Magicとか、空を飛ぶこととか、僕はそういったものにずっと魅力を感じ続けていて、そして何よりも大切なものだと感じ続けているんだ」と語っている。ラマゾウ、マッスルズという名のニシキヘビなど様々な動物も暮らしている。多額の借金の返済のため、2008年11月にロスの民間企業へ譲渡した[12]

[編集] ディズニーランド

[編集] 恋愛

  • ダイアナ・ロスを尊敬していることは有名であるが、本人は中学生時代に彼女に告白して失恋している。その時は「もう絶対結婚はしない」とまで言ったそうである。1970年代はテータム・オニールとの交際話もあった。「スリラー」のヒットと同時期に交際していたのはブルック・シールズ

[編集] 食事

  • 食の細さで知られる。母キャサリンやエリザベス・テイラーはいつも心配しており、エリザベス・テイラーは無理に食べさせたこともある。昔から、イメージからかベジタリアンであると言われており「肉は血で汚れているから食べない」(バッドツアー時の日本テレビの密着番組にて噂のひとつとして紹介)とまで言ったとまことしやかに噂されたが、ケンタッキーフライドチキンが好物であるとも言われ[13]マイケル・ジャクソン裁判の際に昼食に食べていたとも言われている[誰?]。酒どころかコーラも飲まない。ペプシコーラのCMに出演した際ですら一滴も飲まなかった。また、2009年ロンドンでの復帰ライブのための体作りのためにプロテインを摂取していると言われていた。

[編集] 日本

  • 1987年、ソロシンガーとしての初来日の際は日本では静かな声でおだやかに話す人のほうが良しとされることに驚いたという。マイケルはセガのゲームがお気に入りで、来日の際に何度かセガ社を来訪している。セガではマイケルに『ギャラクシー・フォース』を筐体ごとプレゼントするなど歓待しており、一方のマイケルも同社の『スペースチャンネル5』に「友情出演[14]という形で出演している(詳細は#ゲームを参照)。日本のアニメーションのマニアでも知られていて、『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』『新バビル二世』『赤い光弾ジリオン』などを好んでいる(これらの映像はショートフィルム「Scream」内で一部使用されている)。実際に映画『ムーンウォーカー』では変形ロボット、『MTV』では映像を使用した。イラストレーターのいのまたむつみを呼んで自分のキャラクターを描かせたこともある。
  • また、初来日公演の時には群馬県高崎市男児誘拐殺人事件のニュースを聞き、大変心を痛め、兵庫県西宮市西宮スタジアムでのライブでは被害者の少年に向けて哀悼のメッセージを発した。
  • 日本テレビ放送網が初来日の際のマイケル・ジャクソンに密着したドキュメンタリー番組を制作した。その番組の映像の一部が2009年6月28日の『THE・サンデー NEXT』にて22年ぶりに放送された。
  • イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「ビハインド・ザ・マスク」をアメリカの音楽プロデューサーであるクインシー・ジョーンズが気に入り、マイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』に、マイケルによる補作詞及びメロディの追加を施したカバーバージョンを収録するつもりであった。しかし、発表にあたって、マイケル側が作曲のクレジットと版権の50%を要求したため、YMO側がこれを拒否。マイケル自身がカバーしたマイケルバージョンの同曲は発表されなかったが、グレッグ・フィリンゲンズ(『スリラー』の共同プロデューサ)やエリック・クラプトンがカバーしている。YMOのメンバーだった坂本龍一(この曲の作曲者)も、ライブステージでマイケルによる歌詞が付いたバージョンを演奏していた。

[編集] 私生活

  • 少年時代、クリスマスも誕生日もなく、休み返上で働いていて、レッスンにいく途中、子供たちが楽しそうに外で遊んでいる姿を見ては泣いていたと本人が語っている。
  • マイケルとマドンナとプリンセス・テンコーが、ブルネイハサナル・ボルキア国王(スルタン)一人のためだけにショーをしたとき、テンコーは油田、マドンナがダイヤモンド、マイケルは鉱山か炭鉱をもらった(テンコー談)。
  • 自伝では「最も優れたエンターテインメントはストーリーテラー(語り部)である」と書いている。
  • 木登りが好きであり、木の上で曲を作ることがあった。ネバーランドにはBlack Or White、Heal The World、We are the worldを書いたとされる木がある。
  • 家族との確執も噂されるが、父親の誕生パーティーもきちんと行っている。
  • マイケルの楽曲は今もなお数多くの若いアーティストによってカバーされている。エイリアンアントファームのSmooth Criminalは同グループの人気を押し上げた。また、2007年にはリアーナがDon't Stop the Music(「グッド・ガール・ゴーン・バッド」収録)でWanna Be Startin' Somethin'をサンプリングしている。
  • 2003年10月1日にロンドンで開かれたクリスティーズのポップス記念品オークションでは、マイケルが1976年に描いたチャップリンの鉛筆画が4112ポンドで落札された。
  • 変装をしてお忍びで外出する事も多いが、子供連れのため発覚し騒ぎになってしまうこともしばしば。
  • 99年の6月に「風と共に去りぬ」の作品賞のオスカー像を150万ドル(約1億5750万円)で落札した。ジャクソン曰く、「この映画のオスカー像を手に入れるのが長年の夢だった」。しかし、オスカー像は譲渡を禁止されており、アカデミー協会によって回収される。

[編集] 主な事件

[編集] 事実確認の取れない記事・報道の数々

マイケルは金銭目的で訴えられる事が非常に多く、「ビート・イット」は自分の作品だと言う男性に訴えられたり、契約不履行だとして訴えられたりする事が数多い。2003年までに金銭目的で訴えられた案件は1500回に上っていた。2004年には1年だけで約130人が訴訟を起こした。1997年には「ウィル・ユー・ビー・ゼアー」はイタリア人歌手の曲の盗作だとして訴えられた。マイケルは「何か似た部分はあるけど全くの偶然だね。だって僕、イタリア語ができないんだから」と一蹴した。

マイケルは「裏切られたマイケル・ジャクソン」で自分の子供たちは「セックスしてできた子供」と言い、ロウも同様に証言していた。2005年4月の裁判の証言ではマイケルを「子供たちにとって良き父親」と称賛し「裏切られたマイケル・ジャクソン」もマイケルに言わされたものではないと証言している。デビー・ロウは親権に関する裁判も起こしている。離婚後、ロウは子供たちと45日おきに1度、8時間の面会を許可されていたが、マイケルが常に子供たちを連れて旅に出ていたため彼女はすべての親権を2001年に放棄していた。2006年まで行われた裁判は、この面会に関する親権を取り戻すべく行われた。なお、この裁判は2006年9月に「デビー・ロウと和解することで決着」したという。

ゴシップ記事も多く、マイケルとジャネットは同一人物であるという説(1995年ごろ)もあった。子供に関するゴシップは「マイケルには隠し子の長男がいる」というものもあり、その子供はマイケル・ジョセフ・ジャクソンJr.といい、BADの発売の頃に生まれた子供で彼の母親はスイスに住んでいるのだという。全てマイケル側は否定しており実際にはマイケルの「名付け子」だった。

知名度を利用する人間も多く、2004年にはマイケルと少年の映像を提供するというコンピュータウイルスが出現。2005年には「マイケルが自殺未遂」[15]、さらに「マイケルが死亡」[16]という情報を組み込んだコンピュータウイルスが出現。Panda Softwareが2005年6月13日発表した「セレブウイルス・ランキング」では、2004年にはウイルスやスパムに6番目に悪用される存在となった[17]

ネット上では真偽不明の噂が流れるというのは日本の俗説であるが、ジャクソンの場合はテレビや新聞のニュースにおいても信用できる情報は少なく、事実上それらもゴシップ化している。

事実確認のされない報道は多く、「マイケル・ジャクソンがネバーランドを売却」という報道は数回伝えられた。だが、これらは実際には「ネバーランドを売却しなくては財政的にきついのではないか」とか「マイケルが国外に移った」とかいった事から事実確認が為されず勝手に作り出された報道であった。

無罪判決が出された時も、ドイツ公共テレビARDのニュースキャスターが「陪審団は昨夜、ジャクソン被告が10の罪状すべてで有罪であるとの評決を下した」と速報を読み上げ騒動になった。しかも、この誤りはライバル局の人気コメディアンが「マイケル有罪」と伝えた映像のビデオを使って指摘するまで関係者達は誰も気づかないという事態になった。

性的虐待裁判の際には模倣犯が出現し、1984年5月に性的虐待をされたことを「思い出した」男がいた[18]が、彼の民事訴訟は2006年4月18日に裁判官によって却下された。

ウィキペディアも問題を起こさなかったわけではない。2005年ハリケーン・カトリーナの被害に際してチャリティシングルをマイケルが企画した際に、ウィキペディアが「チャリティーソングは12月20日にリリースされる」「タイトルは『I Have A Dream』」といった早まった情報を流した。これらは事実確認の取れない、いわゆる「噂の集約」といったものであった。そのため、12月15日レイモン・ベインが「ジャクソン氏のハリケーン救済ソングの名前を含め、ウィキペディアで伝えられている情報は事実に反しており不正確なものです」と報道する事態となった。

名称に関してはレコーディングに参加したシアラやディニッシュが語った内容であり、事実無根だったわけではなく、後に公式の発表もなされている。しかし、結果的にこのような事態になったことは事実である。標準時間2005年12月12日7時45分には英語版Wikipediaで「I Have This Dream」の項目が事実確認のされないまま作られている。

「薬物を乱用」「バーレーンで職探し」といった情報が流された時、レイモン・ベインは「読んだ内容の90%は信じないでください。大半は嘘ですから」と2006年1月20日語っている。ただ、マイケルが2009年に死去した際にはその原因として挙がったのは薬物摂取説だった。

[編集] 暗い記憶

マイケル自身はさほどひどい目にあわなかったと述べていたが「稽古中、父はいつも椅子にベルトを持ちながら座わっていて、間違えると叩かれ、みんないつも緊張しながらレッスンをしていた」「ほかにはアイロンコードとか周りにあるものすべてをつかって、ときには僕らをありったけの力で壁に叩きつけ、母親があなた死んじゃうよ、死んじゃうよ、って叫んで止めたのを覚えている。ぼくは足が速かったから逃げられたけど、捕まえられた時は、本当にひどい目にあった」「父を見るだけで失神して、ボディガードに助け起こされたこともあった。すごく憎んだ。だから自分の子供たちには、絶対に手をあげないんだ」などと語っている。

また、グループの駆け出しの頃、売り出すためとはいえストリッパーがいかがわしい出し物をするナイトクラブで営業しなければならなかったこともある。

ちなみにマイケルの元側近ボブ・ジョーンズの暴露本「Michael Jackson: The Man behind the Mask」にはリサ・マリー・プレスリーとの結婚騒動の最中、一部で父ジョーゼフが幼少期のマイケルに対し性的虐待を行った疑惑が浮上したと書かれている。当書籍にはこの話はボブがゴシップと判断し圧力をかけもみ消したが、この疑惑がもみ消されたことを知ったマイケルは「ジョーゼフの件が嘘だって、どうして分かる?」というような事を述べたと書かれている。


[編集] ソニーウォーズ

1990年代後半頃からマイケルとレコード会社側の仲は非常に険悪なものとなっていった。レコード会社側は圧力をかけ、マイケルはそれに反抗するというような状態が続き、2001年の「Invincible」の発売直前にこれが最後のアルバムとモトーラに通知した。

実はこのアルバムでは当初、1997年5月に射殺されてもはやこの世にいないビギー・スモールズことノトーリアスB.I.G.の声を収録した「Unbreakable」に20分のショートフィルムを付けて先行シングルとして発売したいというのがマイケルの意向であった。ところが、レコード会社は時間をかけたくないという理由を挙げて、「Unbreakable」を「You Rock My World」に差し替えた。そのため、このアルバムではマイケルが自らの意向通りにリカットシングルを発表する事ができなかったのである。

その「Invincible」がUSで200万枚の売上しかでなかったとソニーが報告した事に関し「曲が売れなかったのはソニーの宣伝が足りなかったからだ」「会長は人種差別の塊だ」としソニーを提訴。これに関し会社側はプロモーションビデオや宣伝に以前と同等の予算を使ったと反論。だが、2003年1月10日、トミー・モットーラは会長を退き、様々な批判があったがマイケルは勝利し、最終的に5月にはマイケル側の意向をほぼ全面的に呑むことで合意した。

2003年11月ソニーから発売したベスト盤には新曲「One More Chance」が収録された。ただし、この楽曲の広告にはソニーはほとんど関与しなかった。

この問題はマイケルの勝利が決定した時点で幕を下ろすかと思われたが、この問題はさらに尾を引く。マイケルとソニーによる合弁会社、ソニーATV音楽出版は30万曲以上の著作権を管理・運用しており、これによる年間収益はおよそ8千万ドル(ビートルズの楽曲だけでも3千万から4千5百万ドル)に上り、これらのカタログの価値は6億から10億ドルとも言われていた[誰?]。ソニー・ミュージック幹部からの情報によると、ソニーと対立していたマイケルがソニーから離れた場合、その版権カタログの権利に関して激しい損失が起こるため、版権カタログを奪うべく、シャフェル、コニッツァー、財政相談役のアル・マルニックらがマイケルの周囲で対立していたという。元マイケルの広報担当、アン・マリー・カイトによると彼ら側近はマイケルから膨大な額の金を着服し、陰謀を企てていたという。

このことはマイケル・ジャクソン裁判でも問題になり、弁護人トーマス・メゼロウはマイケルの事を「名声を失墜させようとした側近たちの被害者だ」と述べた。結果的にマイケルは無罪になったが、カタログはその価値のために様々な事件を今まで巻き起こしてきたものであることは否めない。マイケル側に動きがあったとき、ソニー側にそのビートルズの版権の半分を売り渡すのではないかというメディアの観測も2006年4月に出たが、すぐにマイケル側はそれは「新たな融資が組みあがった事」であると言いカタログは売っていないと語っている。

結果的に、2006年6月には資産・経営管理を担っていた人物達との関係を解消し、広報担当のレイモン・K.ベインをゼネラル・マネージャーに指名した。8月にはレイモン・ベインが前民事弁護士やアドバイザーなどによるマイケルの破産を狙ったとされる文章が存在する事を公表した。2006年12月23日には、マイケル側は年に250万ドルの詐取があったとして前会計担当士(社)らを相手取り訴訟提起した。

[編集] ディスコグラフィー

詳細は「マイケル・ジャクソンの作品」を参照

[編集] CDアルバム

モータウン時代

オリジナル・リリース:1972年1月
オリジナル・リリース:1972年8月
オリジナル・リリース:1973年4月
オリジナル・リリース:1975年1月

エピック/ソニー

オリジナル・リリース:1979年8月
プロデュース:クインシー・ジョーンズ
参加アーティスト:ラリー・カールトン、デヴィッド・フォスター、ワー・ワー・ワトソン、パティ・オースティン他
オリジナル・リリース:1982年11月
プロデュース:クインシー・ジョーンズ
参加アーティスト:ポール・マッカートニー、エディ・ヴァン・ヘイレン、デヴィッド・フォスター、ラトーヤ・ジャクソン他
オリジナル・リリース:1987年8月
プロデュース:クインシー・ジョーンズ
参加アーティスト:スティーヴィー・ワンダー、ジミー・スミス、サイーダ・ギャレット、スティーヴ・スティーヴンス他
オリジナル・リリース:1991年11月
プロデュース:マイケル・ジャクソン、テディ・ライリー他
参加アーティスト:スラッシュ、ヘヴィー・D、ポール・ジャクソンJr、ルイス・ジョンソン他
オリジナル・リリース:1995年6月
プロデュース:ジャム&ルイス、ダラス・オーティン、R・ケリー他
参加アーティスト:ボーイズIIメン、ザ・ノトーリアスB.I.G.、シャキール・オニール他
オリジナル・リリース:1997年5月
プロデュース:マイケル・ジャクソン、テディ・ライリー、ジャム&ルイス、ダラス・オースティン他
参加アーティスト:スラッシュ、ワイクリフ・ジョン、ファンクマスター・フレックス、サトシ・トミイエ他
オリジナル・リリース:2001年10月
プロデュース:マイケル・ジャクソン、ロドニー・ジャーキンス、テディ・ライリー、R・ケリー、ベイビー・フェイス他
参加アーティスト:ザ・ノトーリアスB.I.G.、クリス・タッカー、カルロス・サンタナ、ブランディー他
オリジナル・リリース:2001年11月
オリジナル・リリース:2003年11月
オリジナル・リリース:2004年11月
オリジナル・リリース:2005年7月

※各チャートの数字は最高位。また米国はPOPチャートの順位である。

[編集] DVD・ビデオ

  • Moonwalker (1988)
  • Dangerous - The Short Films (1993)
  • Video Greatest Hits - History (1995)
  • HIStory on Film, Volume II (1997)
  • Number Ones DVD (2003)
  • The One (2004)
  • Michael Jackson: Live in Bucharest (2005)

[編集] 代表曲

[編集] モータウン時代

  • (1971) Got To Be There(全米4位・R&B4位・全英5位)
  • (1972) Rockin' Robin(全米2位・R&B2位・全英8位)
  • (1972) I Wanna Be Where You Are(全米16位・R&B2位)
  • (1972) Ain't No Sunshine(全英8位)
  • (1972) Ben(全米1位・R&B5位・全英7位)
  • (1973) With a Child's Heart(全米55位・R&B23位)
  • (1973) Happy(全英52位)
  • (1975) We're Almost There(全米54位・R&B7位)
  • (1975) Just A Little Bit Of You(全米23位・R&B4位)
  • (1978) Ease On Down the Road with Diana Ross (from The Wiz)(全米41位・R&B17位・全英45位)
  • (1979) You Can't Win (from The Wiz)(全米81位・R&B42位)
  • (1981) One Day in Your Life(全米55位・R&B42位・全英1位)
  • (1984) Farewell My Summer Love(全米38位・R&B37位・全英7位)
  • (1984) Girl You're So Together(全英33位)

[編集] Off The Wall

[編集] Thriller

[編集] BAD

[編集] Dangerous

  • Black Or White( 全米1位・R&B3位・全英1位)
  • Remember The Time (全米3位・R&B1位・全英3位)
  • In The Closet (全米6位・R&B1位・全英8位)
  • Jam (全米26位・R&B3位・全英12位)
  • Heal The World (全米27位・R&B62位・全英2位)
  • Who Is It (全米14位・R&B6位・全英10位)
  • Will You Be There (全米7位・R&B53位・全英9位)
  • Give In To Me (全米-位・全英2位)
  • Gone Too Soon (全米-位・全英33位)

[編集] HIStory

[編集] Blood On The Dance Floor

[編集] Invincible

[編集] Number Ones

※基本的に掲載されている曲は米国もしくは英国でシングル発売されたもの。
各チャートの数字は最高位。また米国はPOPチャートの順位である
太字は全米、全英を含め、米国のR&Bチャートもしくはヨーロッパ諸国などで首位を取った曲である。(Jam、Heal The Worldは再発で1位)

[編集] アルバムセールス

[編集] モータウン

  • Got to Be There: 410万枚
  • Ben: 440万枚
  • Music & Me: 200万枚
  • Forever Michael: 160万枚
  • The Best of: 220万枚
  • One Day in Your Life: 150万枚
  • Farewell My Summer Love: 200万枚
  • Looking Back to Yesterday: 30万枚
  • The Original Soul of Michael Jackson: 37万枚
  • Anthology: 260万組(2枚組アルバム)

[編集] エピック/ソニー

  • Off The Wall: 1900万枚
  • Thriller: 1億400万枚
  • Bad: 2800万枚
  • Dangerous: 2900万枚
  • HIStory: 1800万組(2枚組アルバム)
  • Blood On The Dance Floor: 600万枚
  • Invincible: 800万枚
  • Greatest Hits - HIStory Volume I: 300万枚
  • Number Ones: 600万枚
  • The Ultimate Collection: 25万組(5枚組ボックスセット)
  • The Essential Michael Jackson: 200万組(2枚組アルバム)

[編集] ワールド・ツアー

世界1と称されるダンスやショートフィルムそのままのパフォーマンス、芸の込んだマジックやその時代時代の最新技術を織り交ぜた演出などまさしく世界最高のライブツアーといえる。

[編集] BAD Tour

1987年9月12日~1989年1月27日
マイケル初のソロ・ワールド・ツアー。9月9日に来日し、12日に東京で開始した。アメリカ・ロサンゼルスで終了するまで、15ヶ国123公演を行い、440万人の観客を動員した。ツアー総売上高は1億2千5百万ドル。コンサート・ツアー史上最大の世界記録樹立。現在、DVD化を望む声が増えている。

[編集] Dangerous Tour

1992年6月27日~1993年11月11日
ドイツ・ミュンヘンに始まりメキシコ・メキシコシティでツアー中断を発表するまで、69公演を行い、350万人の観客を動員した。 機材総量1250トン以上、スタッフ235人、80台のトラックという破格の規模で行われた。2004年発売のアルティメットコレクションにブガレストでのツアーを収録したDVDが収録された(後に単体で発売)。これはマイケル初の公式ライブDVDである。

[編集] HIStory Tour

1996年9月7日~1997年10月15日
チェコ・プラハに始まりダーバンで終了するまで、35ヶ国58都市で82公演を行い、450万人の観客を動員した。 生歌が減り若干曲のリズムがスローになったものの、その分それを補い余る程完成度の高いポッピングダンスを随所に織り交ぜた独特のパフォーマンススタイルを完成させた。

[編集] 日本公演

[編集] 著書

  • MOONWALK (1988)
  • Dancing the Dream (1992)

[編集] 映画

  • ウィズ (1978年)
  • Captain EO (1986年) - ディズニーランドのアトラクション
  • ムーン・ウォーカー(1988年)
  • メン・イン・ブラック2 (2002年)
  • マイケル・ジャクソン IN ネバー・ランディング・ストーリー(原題:Miss Cast Away) (2005年)

[編集] CM

  • SUZUKI(スズキ) − Love (1982)
  • SONY − キララバッソ (1988)
  • ペプシ − コーラ (1993)

[編集] ゲーム

発売は上の4つがセガで、一番下がミッドウェイ・ゲームズ。「ムーンウォーカー」は本人がゲームセンターでセガのゲームを遊び、気に入ったことから自らセガに制作を提案した。スペースチャンネル5は試作版をプレイしたマイケル自ら出演を切り出し、急遽ゲストとして登場する事となった。1では飛び入りだったためにごく一部分のみの出演だったが、その後製作されたpart2では主人公であるリポーター・うららの所属する放送局「チャンネル5」の局長として重要な役を演じている。作中では「スリラー」などの振付も登場し、主人公とともに踊っている。 なお、レディ~のGBA版は、日本未発売。

[編集] ファミリー

両親

マイケルは裁判の時もキャサリンの落ちてきている上着をかけ直してあげたりしている。また、Billie Jeanの際の定番の衣装である黒いスパンコールジャケットはもともとキャサリンが着る予定であった物と言われている[誰?]

兄弟

  1. Rebbie(Maureen Reilette) Jackson (1950 - )
  2. Jackie(Sigmund Esco) Jackson (1951 - )
  3. Tito(Toriano Adaryll) Jackson (1953 - )
  4. Jermaine Lajaun Jackson (1954 - )
  5. LaToya Yvonne Jackson (1956 - )
  6. Marlon David Jackson (1957 - )
  7. Brandon Jackson (1957 - 1957)(マーロンと双子、生後数時間で逝去)
  8. Michael Joseph Jackson(1958 - 2009) - 本人
  9. Randy(Steven Randall) Jackson (1961 - )
  10. Janet Damita Jo Jackson (1966 - )
  • Joh'Vonnie Jackson (1974 - )(異母兄弟)

子供

  • Prince Michael Jackson (1997) (出生時名 Michael Joseph Jackson, Jr. より離婚後改名)
  • Paris Michael Katherine Patricia Jackson (1998)
  • Prince Michael Jackson II (2002)

アメリカのジャーナリスト・ジャネット・チャールトンによるとPrince Michael JacksonとPrince Michaelは、親交の深いマコーレ・カルキンの精子によってつくられた子供でないかという噂もある[19]。 「小さな恋のメロディ」などで知られる元名子役マーク・レスターは、マイケル・ジャクソンとは30年来の友人で、 お互いの子供の名付け親になっていた。

[編集] 影響

マイケル自身のキャラクター、そしてダンスのインパクトによって、これらはアメリカの内外を問わず、たびたびものまねの対象となる。例としては、マイケルの代わりとしていくつかの映画に出演しているエドワード・モス(Edward Moss (impersonator))や、オーストラリアで「Jackson Magic」と銘打ったショー[1]を行っているポール・リゾ(Paul Rizzo)、また日本のものまねタレントとしてマイコーりょうまいける井上などが活動を行っている。

[編集] 関連項目

[編集] 出典

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  1. ^ Alan Duke (25 June 2009). “Michael Jackson dead at 50”. CNN (online). http://www.cnn.com/2009/SHOWBIZ/Music/06/25/michael.jackson/index.html. (英語)
  2. ^ "1984: Michael Jackson burned in Pepsi ad" (). 2006-12-11 閲覧。
  3. ^ Jackson's meeting with Reagan CNN Video (online)
  4. ^ "The Rights Stuff" (). 2006-12-11 閲覧。
  5. ^ マイケル総売り上げは7億5000万枚以上 スポーツ報知, 2009年6月26日, 2009年7月3日閲覧
  6. ^ 報酬0円でも快諾 M.ジャクソンがNFL界に残した功績 NFL公式サイト, 2009年7月10日
  7. ^ "Michael Jackson's Biography" (). 2006-12-11 閲覧。
  8. ^ マイケルさんの死、ロンドン経済にも打撃!未発送ツアーチケットの行方は?
  9. ^ Andrew Blankstein and Phil Willon (25 June 2009). “Michael Jackson is dead”. ロサンゼルス・タイムズ (online). http://latimesblogs.latimes.com/lanow/2009/06/pop-star-michael-jackson-was-rushed-to-a-hospital-this-afternoon-by-los-angeles-fire-department-paramedics--capt-steve-ruda.html. (英語)
  10. ^ マイケル・ジャクソンさんが死去 産経新聞 2009年6月26日閲覧
  11. ^ "Web slows after Jackson's death" BBC. 2009年6月26日. 2009年6月30日閲覧
  12. ^ 2009年1月29日11時15分 読売新聞[リンク切れ]
  13. ^ 2009年7月8日に行われた追悼式で、「JAM」のショートフィルムで競演したマジック・ジョンソンが、マイケルと2人でケンタッキーフライドチキンを食べた思い出を語っている。【マイケル追悼式】最後は父親として…マライア、リッチー、スティービーの歌に送られる 2009年7月8日06時24分 産経新聞
  14. ^ マイケル、セガゲームソフト志願出演”. スポニチアネックス (スポーツニッポン)(. 2002-01-31). http://web.archive.org/web/20031006122343/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2002/01/31/03.html 2009-06-26 閲覧。. 
  15. ^ 「マイケル・ジャクソン自殺未遂」メールでトロイの木馬に誘導
  16. ^ 今度は「M・ジャクソン死亡」? 偽ニュースで拡散の新ワームKedebe-F
  17. ^ ウイルスに人気のセレブはブリトニー
  18. ^ マイケル・ジャクソン、再び新たな容疑が浮上
  19. ^ 2008年4月12日放送「SmaSTATION

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ