エリザベス・テイラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
エリザベス・テイラー
Elizabeth Taylor
Elizabeth Taylor
本名 Elizabeth Rosemond Taylor
生年月日 1932年2月27日
没年月日 2011年3月23日(満79歳没)
出生地 イギリスの旗 イギリスロンドン
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
職業 女優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1942年 - 2003年
活動内容 1942年:映画デビュー
配偶者 コンラッド・ヒルトン Jr.
(1950年 - 1951年)
マイケル・ワイルディング
(1952年 - 1957年)
マイケル・トッド
(1957年 - 1958年)
エディ・フィッシャー
(1959年 - 1964年)
リチャード・バートン
(1964年 - 1974年、1975年 - 1976年)
ジョン・ウォーナー
(1976年 - 1982年)
ラリー・フォーテンスキー
(1991年 - 1996年)
家族 マイケル・ハワード・ワイルディング(長男)
クリストファー・エドワード・ワイルディング(次男)
エリザベス・フランシス・トッド(長女)
マリア・バートン(養女)
主な作品
映画
『緑園の天使』
『若草物語』
『陽のあたる場所』
『ジャイアンツ』
『熱いトタン屋根の猫』
『バターフィールド8』
『クレオパトラ』
『バージニア・ウルフなんかこわくない』

エリザベス・テイラーDame Elizabeth Rosemond Taylor, DBE1932年2月27日 - 2011年3月23日[1])は、イギリス出身の女優歌手マイケル・ジャクソンとは親交が深く、マイケルがキング・オブ・ポップと呼ばれるキッカケを作ったのも彼女。少女時代からメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) で子役として映画出演しており、成人後には「ハリウッド黄金時代」(en:Hollywood's Golden Age) を代表する大女優の一人となった。世界的にもっとも有名な女優の一人であり、優れた演技力、美貌、豪奢な私生活、そして珍しいスミレ色ので知られていた。

緑園の天使』(1944年)が最初に成功したテイラーの映画出演作品となった。その後、『花嫁の父』(1950年)、『陽のあたる場所』(1951年)、『ジャイアンツ』(1956年)、『熱いトタン屋根の猫』(1958年)、『去年の夏 突然に』(1959年)などに出演している。1960年の『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞を受賞し、『クレオパトラ』(1963年)では主題役を演じ、この作品で共演したリチャード・バートンと結婚した。バートンとの共演作は『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)など11本におよび、テイラーはこの『バージニア・ウルフなんかこわくない』で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。1970年代半ばからテイラーの映画出演は減っていき、ときおりテレビや舞台に出演するようになった。

テイラーの私生活は、8度の結婚と生命に関わる闘病生活で知られている。また、1980年代半ばからエイズ撲滅運動を支持し、1985年に米国エイズ研究財団 (en:amfAR, The Foundation for AIDS Research) の創設メンバーの一人となり、1993年にはエリザベス・テイラー・エイズ基金を創設した。大統領メダル (en:Presidential Citizens Medal)、レジオンドヌール勲章ジーン・ハーショルト友愛賞、AFI生涯功労賞 (en:AFI Life Achievement Award) を受賞し、AFIが選定した映画スターベスト100の女優部門では第7位にランクされている。テイラーは長い闘病生活の末、2011年3月に鬱血性心不全のために79歳で死去した。

幼少期[編集]

テイラーは1932年2月27日に二人兄妹の妹として、ロンドン北西部のハムステッド・ガーデン・サバーブにあるウィルウッド通り8番の両親の家で生まれ、エリザベス・ロズモンド・テイラー (Elizabeth Rosemond Taylor) と名付けられた[2][3][4]。父親はフランシス・レン・テイラー (en:Francis Lenn Taylor)(1897年 - 1968年)、母親はサラ・サザーン (en:Sara Sothern) (1895年 - 1994年)で、両親ともにカンザス州アーカンザスシティ出身のアメリカ人だった。テイラーの兄ハワード・テイラーは1929年生まれである[5]。父フランシスは画商で、母サラは舞台女優をしていたが、ニューヨークでフランシスと結婚した1926年に芸能活動から引退している。

テイラー家の親しい友人だったヴィクター・カザレット (en:Victor Cazalet) は、一家に大きな影響を与えた人物で、エリザベスの名付け親となった。ウィンストン・チャーチルの親友でもあったカザレットは裕福な国会議員で、有力な縁故を持つ独身男性だった。カザレットは美術と観劇を深く愛した人物で、テイラー一家にイングランドに永住することを強く勧めた。また、クリスチャン・サイエンスの信者で在家の説教師を務めており、テイラー家とのつながりには宗教的な側面もあった。エリザベスがひどい小児性伝染感染症に罹患し、数週間寝込んだときにエリザベスは「お母さん、ヴィクターを呼んでくれないかしら。一緒にここにいてくれるように頼んで」と懇願している[6](p14)

伝記作家のアレクサンダー・ウォーカー (en:Alexander Walker) は、エリザベスが27歳のときにユダヤ教に改宗しその生涯を通じてイスラエルを支持していたのは、幼少期の体験が原因ではないかとしている。ウォーカーは、カザレットがユダヤ人の祖国建設の積極的な推進者だったことと、エリザベスの母サラがさまざまな慈善活動に参加しており、その活動のなかにシオニズム資金団体への支援があったことを指摘している。サラはエリザベスがカザレットから受けた影響について次のように振り返っている。

ヴィクター(カザレット)は、ベッドに座ってエリザベスを抱きかかえながら神様のことを語って聞かせていました。エリザベスの瞳は彼の顔を食い入るように見つめ、彼の話すあらゆる言葉に聞き入り、信じ、そして理解していったのです[6](p14)

テイラーは出生国イギリスと両親の出身国アメリカとの二重国籍を持っていた。1965年10月にパリのアメリカ大使館でアメリカ国籍放棄の手続きを行ったが、証明書の「合衆国へのあらゆる義務と忠誠を放棄する」という一文には抹消線が引かれていた。このためアメリカ合衆国国務省は、書類が改ざんされているためテイラーの国籍放棄を認めないという見解を公式に公表している。テイラーは翌年の1966年に、改めて正式なアメリカ国籍放棄の証明書にサインした[7]。しかしながら1977年にテイラーは、当時の夫だった政治家ジョン・ウォーナーの上院議員選挙運動の際にアメリカ国籍取得を申請している[8][9]

第二次世界大戦が勃発する直前に、両親は戦火を避けてイギリスからアメリカへと戻ることを決めた。母サラと二人の子供が一足先にニューヨークへ到着したのは1939年4月のことで[10]、ロンドンで仕事の後始末に追われていた父フランシスがアメリカへ帰国したのは11月になってからだった[11]。一家はカリフォルニア州ロサンゼルスに落ち着き、父フランシスはイギリスから持ち込んだ多くの絵画を展示するアート・ギャラリーを建てた。そしてすぐにこのギャラリーは現代ヨーロッパ絵画を好む多くの著名なハリウッド関係者たちの間で評判になり、伝記作家ウォーカーはギャラリーが「テイラーを金銭と名声に満ちた(ハリウッドの)世界へと誘う、多くの扉を開いていくことになった」としている[6](p27)

女優としてのキャリア[編集]

子役[編集]

テイラーの母サラは、ロサンゼルスに居を構えて間もなく、ハリウッド関係者が「つねに未来のスターを探している」ことに気づいた。サラは友人をはじめ見ず知らずの人々からも、当時撮影中だった映画『風と共に去りぬ』の主役スカーレット・オハラの子供ボニー・ブルー役のスクリーン・テストを、テイラーに受けさせるように勧められた。しかしながらサラは、テイラーには映画の子役は向いていないとしてこれらの誘いを断った。また、テイラー一家が世界大戦終結後にはイングランドへ戻るつもりでいたことも背景にあった[6](p28)

1940年ごろに撮影されたテイラー。

あるとき、ハリウッドの芸能コラムニストのヘッダ・ホッパー (en:Hedda Hopper) が、映画製作会社ユニバーサル・ピクチャーズの役員で大株主だったジョン・チーヴァー・カウディンの婚約者アンドレア・べレンスとテイラーを引き合わせた。ベレンスはサラに、テイラーをカウディンに会わせれば、間違いなくカウディンはテイラーの驚くほどの美貌に魅せられるだろうと請合った[12]。別の映画製作会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) もテイラーに関心を示しており、MGMの社長ルイス・B・メイヤー自らが自社のプロデューサーに「彼女(テイラー)と契約しろ。さっさとするんだ。何をぼやぼやしている」と催促したといわれている。そしてテイラーを巡ってユニバーサルとMGMの争奪戦となった。MGMも自分たちと同じくテイラーに興味を持っていることを知ったカウディンは、ニューヨークからユニバーサルへ「彼女と契約するんだ。これは命令だ。スクリーンテストも省いていい」という電話をかけている。そしてユニバーサルはテイラーと7年間の契約を結んだ[6](p31)

テイラーが初めて映画作品に出演したのは『There's One Born Every Minute』(1942年)で、結局この作品がテイラーが出演した唯一のユニバーサル製作映画となった[13]

『There's One Born Every Minute』公開後、一年足らずでユニバーサルはテイラーとの契約を解消した。契約が解消された理由は不明だが、カウディンが期待するほどの成果をテイラーが挙げられなかったのではないかとする説がある。伝記作家ウォーカーは「ユニバーサルに歓迎されていない」とテイラーが直感的に思ったのだとしている。たとえば、配役担当ディレクターが、スクリーン・テストを終えたテイラーについて「この子には何もないよ」と漏らしたことをテイラーは知っていた。テイラーに出会う人々を驚かせた[14]すみれ色にも見える深い青色の美しい瞳と先天的な二重まつげ[5][15]は,このディレクターにとって印象的には感じられず[16][15]、「彼女(テイラー)の目はあまりに大人びすぎている。子供の顔じゃない」と言ったとされている[6](p32)。ウォーカーも「外見に関する限りはそう的外れな意見でもない」としている。

確かにエリザベスの容姿にはちょっと変なところが「あった」。年齢のわりには大人びており、実年齢よりも年上だと考える人々も多かっただろう。すでに母親と同じような集中力をみせていた。後にこのことは(テイラーの)大きな財産となっている。当時の人々は、シャーリー・テンプルの清純な愛らしさや、ジュディ・ガーランドの飾り気のない子供らしさに比べれば、テイラーが劣っていると思ったのだろう[6](p32)

1944年に撮影されたテイラー。

テイラーは幼少時代をすごしたイングランドでは「大人びて」いると言われていたと振り返っており、それは自身が「率直でひどく遠慮がなかった」からだとしている[17]。さらに生まれたばかりの娘にも、自分とよく似た特徴がみられることにも触れている。

まだ一歳にもならない娘がじっと他の人を見つめると、その人は落ち着きをなくし逃げ出したくなるのです。娘の熱のこもった視線に耐えられずに、ついには部屋を出て行ってしいます[17]

MGMのプロデューサーであるサム・マルクス (en:Sam Marx) の火災警備員も務めていたテイラーの父フランシスは、MGMが名犬ラッシーの映画に出演するイギリス人子役を探していることを知った。テイラーはこの映画への出演を決め、1943年からの長期契約をMGMと結んだ[18]。テイラーがMGMとの契約を決めた理由は「オーディションに行ったときに、MGMの関係者がみんな親切だったから」とテイラーは振り返っている[6](p32)。MGMの製作責任者ベニー・タウを、テイラーはその後数年にわたって全面的に信頼していた。「彼(タウ)は 細やかな気遣いが出来る人物で、その身振りからも彼女(テイラー)が愛されているということがわかった」とウォーカーは語っている[6](p32)。タウは当時のテイラーのことを「小さな黒髪の美人で、風変わりで美しい目がみなの注目を集めていた。妙に元気な子供だったよ」と評している[6](p34)。さらに、当時のMGMは「魅力的な製作会社」だとみなされており、「天国よりも多くのスターを抱えている」と自負していた。しかしながらテイラーの母サラは、テイラーには女優としての「天賦の才能」があると信じていたが、MGMとの契約書にサインするのをためらっていた。ウォーカーはテイラーがMGMとの契約を結ぶに至った理由を次のように述べている。

(テイラーの母サラは)確かな証を欲しがっていた。……サラは、以前自分が出演した『The Fool』の台本を持ち出し、自分は主役の台詞を読み、テイラーには過去にサラが演じた娘役の台詞を読ませた。このときサラは涙を禁じえなかったことを認めている。『私の娘は完璧に役を演じきったのです。私が演じた子供時代の役も成人してからの役も。彼女(テイラー)は私が過去に演じた全ての世代の役をこなしました』[6](pp38–39)

少女スター[編集]

1945年に撮影されたテイラーの宣材写真。

MGMはテイラーを『名犬ラッシー 家路 (en:Lassie Come Home)』(1943年)に、その後終生の友情を結ぶことになる子役ロディ・マクドウォールと共演させた。後年マクドウォールはテイラーの美貌について「大きなスクリーンに映し出されるために生まれたこの少女以外の誰が二重まつげをしているだろう」と回想している[5]。『名犬ラッシー 家路』でのテイラーとマクドウォールの演技はどちらも好評を博し、MGMは定時昇給を確約した週給100ドルの条件でテイラーと7年間の出演契約を結んだ。MGMとの契約下で初めて与えられたのは外部出演作品であり、20世紀フォックスが製作する『ジェーン・エア』(1943年)のヘレン・バーンズ役だった。翌1944年にはイギリスを舞台とした『ドーヴァーの白い崖』で、テイラーは再びマクドウォールと共演している。

粘り強く交渉して射止めた『緑園の天使』のヴェルヴェット・ブラウン役で、12歳のテイラーは子役スターとなった。テイラーの役は、愛する馬を調教してグランドナショナルで優勝することを夢見る少女だった。若きミッキー・ルーニーやイギリスの新人女優アンジェラ・ランズベリーらが共演し、1944年12月に公開されたこの作品は大成功を収めた。後年になってテイラーは『緑園の天使』のことを、今までで「もっとも興奮した映画』と呼んでいるが[19]、映画撮影中に落馬事故で痛めた背中は、後に様々な悪影響をテイラーにおよぼすこととなった[18]

観客も批評家も「一目でエリザベス・テイラーに魅入られた」。ウォーカーは『緑園の天使』が大ヒットした理由として次のように記している。

その大きな成功はひとえにヒロインにある。その思い込みの強い性格で、叶わないことなど存在しないと信じる人々の強い憧れを体現してみせた。……言い方を変えれば人生観を描いた作品として、時代を超える名作という評価を確立したのである[6](p41)

『緑園の天使』の興行収益は400万ドル以上を記録し、MGMはテイラーと更なる延長出演契約を結んだ。『緑園の天使』の成功により、テイラーは同じく動物映画である『ラッシーの勇気 (en:Courage of Lassie)』(1946年)に出演している。この映画もヒットし、テイラーのギャラは週給750ドルまであがった。この後もワーナー・ブラザーズに貸し出されて出演した『ライフ・ウィズ・ファーザー (en:Life With Father)』(1947年)を始め、『シンシア』(1947年)、『スイングの少女 (en:A Date with Judy)』(1948年)、『奥様武勇伝』(1948年)と全ての出演作がヒットしている。テイラーは確実にヒットを飛ばす子役女優として高く評価され、撮影でNGを出さずに一度のテイクで決めてしまうところから「ワンショット・リズ」と呼ばれるようになった。そして南北戦争時代の一家を描いた古典的名作『若草物語』(1949年)のエイミー・マーチ役が、テイラーの最後の少女役となった。

当時のMGMはスタジオ内に教室を設置しており、子役たちに学校教育を施していた。しかしながらテイラーは、スターとして扱われない普通の子役たちから疎外されるようになり、この教室に嫌気がさすようになっていった。テイラーは子役として映画に出演する前が、子供時代でもっとも幸福な時期だったと振り返っている。

私の人生で、数少ない本当に幸せだった時期のひとつに、女優を始める前の子供時代があります。同級生とゲームをし、お人形遊びやごっこ遊びに夢中になったものです。……『緑園の天使』に出演して有名になったのは私が12歳のときです。今でも私は普通の生活が送りたかったと思うときがあります。でも多分そのころから私は風変わりな変人だという目で見られるようになっていったのでしょう。
私は学校が嫌いでした。少なくともあれは学校ではありませんでした。私は子供たちと一緒にすごすこと自体は大好きでした。でも教師が舞台セットにいる私の耳をつかんで引き摺り下ろし、教室に叩き込もうとするのです。私はよく激高しました。そのころ16歳だった私と真面目に接してくれる級友もいなかったのです。15分もしたら教室を抜け出して、ロバート・テイラーの妻役として情熱的なラブシーンを演じたものです[20]

成人女性役への転身[編集]

スペンサー・トレイシーと共演した『花嫁の父』の宣材写真。1950年。

10歳代のころのテイラーは、映画出演に嫌気が差していた。ステージママとなった母親サラは、テイラーが即興で泣けるようになるまで容赦なく稽古を続けさせ、撮影中のテイラーを監視し続けては、発声やミスを指摘した。撮影所で同年代の人間と出会うことはほとんどなく、貧弱な教育しか受ける機会を与えられなかったため、テイラーは簡単な算数であっても指を使わないと計算できなかった。16歳のときにテイラーは、両親に普通の子供に戻りたいから女優をやめると告げたことがある。母親のサラはテイラーには感謝の心がないと諭し「貴方には責任があるのよ、エリザベス。私たち一家にだけではなく、この国、さらには全世界に対してのね」と言って聞かせている[21]

1948年10月にテイラーは『Conspirator』の撮影のために、客船クイーン・メリーでイギリスへ向かった。他の子役と違って、テイラーは成人女性役への転身に苦労することはなかった[19]。『Conspirator』が公開される1949年以前に、雑誌『タイム』がテイラーのことを「非常に高価な宝石、サファイアのような本物のスター」と呼んで、モンゴメリー・クリフトカーク・ダグラスエヴァ・ガードナーらと並ぶ、次代のハリウッド・スターだと紹介している[22]。成長してもテイラーは小柄で華奢な体格のままで、ウェストサイズは19インチしかなかった[21]

『Conspirator』の興行成績は悪かったが、当時38歳のロバート・テイラー演じる共産主義のスパイと、そのことを知らずに結婚してしまうという、メリンダ・グレイトン役を演じた。当時16歳だったテイラーが演じたこの21歳の女性の役は、テイラー初の成人女性役として評論家から高い評価を得た。新たに週給2,000ドルとなったテイラーが出演した映画が人気俳優ヴァン・ジョンソンと共演した『The Big Hangover』(1950年)だったが、この作品は興行成績も批評家からの評価もよくなかった。また、この映画では成長したテイラーの性的魅力を描写しようとしていたが、その面でも成功したとはいえない作品だった[23]

テイラーが成人女性を演じた映画で、最初に興行的にヒットしたのがコメディ映画の『花嫁の父』(1950年)である。テイラーはスペンサー・トレイシーが演じるスタンリー・T・バンクスの娘ケイ・バンクス役で、ほかにはジョーン・ベネットらが共演していた[24]。『花嫁の父』の続編として製作されたコメディ映画『可愛い配当 (en:Father's Little Dividend)』(1951年)でテイラーは再びスペンサー・トレイシーと共演した。トレイシーはこの映画について「退屈、退屈極まりない」と評している[25]。『可愛い配当』の興行成績は非常によく、二作続けてコメディ映画でヒットを飛ばしたテイラーだったが、次作の『陽のあたる場所』が、以降のテイラーの女優としてのキャリアを方向付けることとなる[24]

1949年の終わりにテイラーは、ジョージ・スティーヴンス監督作品『陽のあたる場所』の撮影に入った。この作品が公開されたのは1951年で、テイラーは資産家令嬢のアンジェラ・ヴィッカース役を演じた。共演したのはジョージ・イーストマン役のモンゴメリー・クリフトと、イーストマンの恋人で妊娠しながらも工場で働く貧しいアリス・トリップ役のシェリー・ウィンタースだった[19]。『陽のあたる場所』はセオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』を原作としており、「アメリカン・ドリーム」への批判とその悪影響をテーマにしていた[26]

当時のテイラーはまだ17歳であり、『陽のあたる場所』にこめられた心理的な影響力やテーマ性を理解できてはいなかったが、この作品はテイラーの女優としてのキャリアに極めて重要なものとなった。伝記作家キティ・ケリーは、監督のスティーヴンスがテイラーのことを若く美しいスターだと認識しており、そのことによって「(クリフト演じる)ジョージ・イーストマンが、彼女(テイラー演じるアンジェラ・ヴィッカース)と陽のあたる場所を手に入れるためなら何でもすると思いつめた理由を、観客たちにはっきりと理解させる」効果があったとしている[26]。ケリーは『陽のあたる場所』の撮影現場の見学を許された芸能コラムニストのヘッダ・ホッパーが「『緑園の天使』に出演していた少女が、カメラの前でモンゴメリー・クリフトを誘惑しているシーンを食い入るように見つめていた」と書いている。さらに、このシーンの撮影後にホッパーがテイラーのところへ行って「エリザベス、あんなふうに男を誘惑する手管をいったいいつ覚えたの」と尋ねていたとしている[26]。批評家たちは『陽のあたる場所』を傑作と評価し、映画史に50年以上残る作品だとして高く称賛した。『ニューヨーク・タイムズ紙』のA・H・ワイラーは「裕福で美しいアンジェラを演じたエリザベスの演技は、彼女のキャリア中で最高だった」と書いた。また、『ボックスオフィス誌 (en:Boxoffice)』はその劇評で「ミス・テイラーはアカデミー賞に値する」と断言している。

雨の朝巴里に死す』のテイラー。1954年。

1950年ごろから、テイラーは自身に振られる配役に対して徐々に不満を持つようになっていった。テイラーが望んでいたのは『裸足の伯爵夫人』でエヴァ・ガードナーが演じたマリア・バルガスや『明日泣く (en:I'll Cry Tomorrow)』でスーザン・ヘイワードが演じたリリアン・ロスのような役柄だった。しかしながらMGMは、テイラーがカメオ出演した『Callaway Went Thataway』(1951年)や、『Love Is Better Than Ever』(1952年)、『黒騎士』(1952年)、『en:The Girl Who Had Everything』のような、どちらかというと愚かしく、記憶に残らないような映画への出演しか認めなかった[24][27]

1954年に出演した『ラプソディ (en:Rhapsody)』も、テイラーにしてみれば飽き飽きするような恋愛映画で、不満が残る役どころだった。テイラーが演じたルイーズ・デュラン役は、ヴィットリオ・ガスマン演じる気難しいヴァイオリニストと、ジョン・エリクソン演じる真面目な若きピアニストの間で揺れ動く裕福で美しい娘という役どころだった。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙』は「全編が美しさに満ちた作品で、ミス・テイラーはあらゆる角度から輝いている。……台詞は高尚で出演陣も優れた容姿ではあるが、いかんせん内容に乏しい」と評している[28]

『ラプソディ』、『巨象の道』と同じく1954年に公開された『騎士ブランメル (en:Beau Brummell)』で、テイラーは凝った衣装に身を包むレディ・パトリシアを演じた。しかしながらこの魅惑的な美女役は、スチュワート・グレンジャーが演じる主役ボー・ブランメルに恋愛風味を加えるだけの美しい添え物に過ぎなかった。『The Big Hangover』で共演したヴァン・ジョンソンと再びコンビを組んだ『雨の朝巴里に死す』(1954年)でテイラーが演じた役はそれまでの作品に比べるといくぶんましな役どころだった。テイラーが演じた役であるヘレン・エルスワース・ウィリスは、アメリカの小説家F・スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダ・セイヤーをモデルにしている。当時のテイラーは1952年に結婚したマイケル・ワイルディングの二人目の子供を妊娠していたが、この作品の撮影に4カ月間を費やした。『雨の朝巴里に死す』の興行成績は悪くなかったが、テイラーはより存在感がある役を切望していた[24]

1955年から1979年[編集]

ロック・ハドソンと共演した『ジャイアンツ』。1956年。

ジョージ・スティーヴンス監督作品で、ロック・ハドソンジェームズ・ディーンと共演した大作『ジャイアンツ』(1956年)で、テイラーはハドソン演じる富豪ジョーダンの妻レズリーという、シリアスで存在感のある役どころを得た。そしてテイラーは、モンゴメリー・クリフトと共演した『愛情の花咲く樹』(1957年)で演じたスザンナ・ドレイク役で、初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされた[29]。以降テイラーは、ポール・ニューマンと共演した『熱いトタン屋根の猫』(1958年)[30]、モンゴメリー・クリフト、キャサリン・ヘプバーンマーセデス・マッケンブリッジと共演した『去年の夏 突然に』(1959年)[31]、『バターフィールド8』(1960年)と4年連続でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、最後の『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞を獲得した[32]。『バターフィールド8』は当時テイラーの夫だったエディ・フィッシャーと共演した作品で[19]、テイラーに自身のことを18年間にわたる「MGMの家財」と言わしめた、MGMとの契約における最後の作品となった[33]

クレオパトラ』(1963年)で主役を演じるテイラー。宣伝フィルムからのスクリーンショット。

『熱いトタン屋根の猫』『去年の夏 突然に』の大ヒットによって、テイラーは興行成績上位10位に入る俳優となり、その後も10年にわたってほぼ毎年上位10位にランクインした[33]。1960年にテイラーは、20世紀フォックスと100万ドルで『クレオパトラ』(1963年)の出演契約を結び、当時最高額の出演料を得る女優となった[31]。最終的にはテイラーはこのクレオパトラ役で700万ドルを手にしている[33]。テイラーはこの『クレオパトラ』の撮影中に、共演者でマーク・アントニー役のリチャード・バートンと恋愛関係になった。両者ともに結婚していた不倫関係であり、タブロイド紙に大きく取り上げるスキャンダルとなってしまった[34]

テイラーに二度目のアカデミー主演女優賞をもたらしたのは、当時の夫だったリチャード・バートンと共演した『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)のマーサ役だった[35]。この映画はテイラーにとってもバートンにとっても大きな転機となった作品で、ウォーカーは「二人のキャリアのなかで、もっともやりがいがある作品であり、もっとも手ごわかった作品」だと評している。テイラーはこの作品を「本物の演技」を試すいい機会だととらえ、さらに、自身の憧れの女優ヴィヴィアン・リーが演じてきた「悲劇のヒロイン」と張り合うチャンスだと考えた。しかしながらテイラーは、自身の実年齢より20歳以上年長のマーサ役を演じるには自身の外見が若すぎることを気にかけていた。テイラーは役の年齢相応に見せかけるために白髪を足すなど、肉体的にも声質的にもマーサに近づけようとした。意図的に体重を増やし、過度に濃いマスカラ以外はほとんど化粧をせず、薄汚れたバッグを持つという出で立ちで役作りを行った[6](pp281–282)

テイラーとその5番目、6番目の夫リチャード・バートンとは、『予期せぬ出来事』(1963年)、『いそしぎ』(1965年)、『じゃじゃ馬ならし』(1967年)など、10年間で6本の映画で共演している。1967年までに二人の共演作品は200万ドル以上の興行成績をあげた。『じゃじゃ馬ならし』に続いて『ファウスト悪のたのしみ (en:Doctor Faustus)』(1967年)、『危険な旅路 (en:The Comedians)』(1967年)、『夕なぎ』で、テイラーとバートンは共演しているが、いずれも興行成績は振るわなかった[36]

テイラーはジョン・ヒューストン監督作品『禁じられた情事の森』(1967年)でマーロン・ブランドと共演し[37]、翌年にはミア・ファローと『秘密の儀式 (en:Secret Ceremony)』(1968年)で共演した。1960年代の終わりにはテイラーの集客力は落ちていき、出演作の興行成績は大幅に下がってしまった。ウォーレン・ベイティと共演した1970年の『この愛にすべてを (en:The Only Game in Town)』も興行的には失敗作となっている[38]

加齢とともに「か細く柔軟性のない声[33]」しか出なくなったテイラーだったが[33]、1970年代も多くの映画作品に出演するスターであり続けた。マイケル・ケインと共演した『ある愛のすべて (en:X, Y and Zee)』(1972年)、ヘンリー・フォンダと共演した『別離』(1973年)、ジェーン・フォンダ、エヴァ・ガードナーと共演した『青い鳥 (en:The Blue Bird)』(1976年)、夫リチャード・バートンと共演した『リトル・ナイト・ミュージック (en:A Little Night Music)』(1977年)などに出演し、1973年にはテレビ映画の『離婚・男の場合 離婚・女の場合 (en:Divorce His, Divorce Hers)』にも出演している。

1980年から2003年[編集]

USOショウに出演したテイラー。左の男性はボブ・ホープ。1986年。

テイラーは1980年にアガサ・クリスティのミステリ小説『鏡は横にひび割れて』を原作とした映画『クリスタル殺人事件』に出演した。1985年には、実在の芸能ゴシップコラムニストのヘッダ・ホッパーとルエラ・パーソンズをモデルとしたテレビ映画『Malice in Wonderland』で、ルエラ・パーソンズを演じている[39]。1987年にトム・スケリット、ジョージ・ハミルトンとの共演でテレビの西部劇『ポーカー・アリス (Poker Alice)』に出演し、1989年にはテレビのミニドラマシリーズ『南北戦争物語 愛と自由への大地』に出演した[39]。そしてテイラーの最後の劇場映画作品となったのは1994年の『フリントストーン/モダン石器時代』だった[40]

ドーヴィル・アメリカ映画祭でのテイラー。1985年。

テイラーは1996年2月にテレビのシットコム番組『ナニー (en:The Nanny)』に本人役で出演した。このとき出演者のフラン・ドレシャーに、テイラーがこれまでに結婚した相手の全ての姓をつなげて「エリザベス・テイラー=ヒルトン=ワイルディング=トッド=フィッシャー=バートン=バートン=ウォーナー=フォーテンスキー」と呼びかけられている。2001年にはテレビ映画『だって女優ですもの! (en:These Old Broads)』に出演した。テイラーは多くのテレビシリーズ作品に出演しており、ソープオペラの『ジェネラル・ホスピタル』、『オール・マイ・チルドレン[41]などのほか、アニメシリーズ『ザ・シンプソンズ』の登場人物マギー・シンプソンに一度だけ「ダディ」という台詞をあてたことがある[42]

テイラーは映像作品だけではなく舞台作品にも出演したことがあり、1982年に劇作家リリアン・ヘルマン原作の『子狐たち (en:The Little Foxes)』で、ブロードウェイとイースト・エンドにデビューした。1983年にはノエル・カワードの戯曲『プライヴェート・ライヴズ (en:Private Lives)』で、前夫のリチャード・バートンと共演している[43]オクスフォード大学に生徒主体で建てられた小劇場バートン・テイラー・スタジオ (en:Burton Taylor Studio)は、テイラーとバートンにちなんで名付けられている。これは、オックスフォード大学演劇部の舞台に、バートンがドクトル・ファウスト役で客演したことを記念したものである[44]

1980年代初めに、テイラーはロサンゼルス西部の高級住宅街ベル・エア (en:Bel Air, Los Angeles) に邸宅を購入し、その後の生涯をここで過ごした。テイラーの持ち家はほかに、パーム・スプリング、ロンドン、ハワイにもあった。

2003年から2011年[編集]

テイラーは第75回アカデミー賞式典に招待されたが、2003年3月にイラク戦争反対の立場からこの招待を辞退した[45]。テイラーは当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュを公然と非難しており、イラク大統領サッダーム・フセインのイラク国外へ退去を要求するアメリカの強硬姿勢が第三次世界大戦の引き金になるのではないかと危惧していた[46]

2007年12月1日にテイラーは、ジェームズ・アール・ジョーンズとの共演で、A・R・ガーニー (en:A. R. Gurney) 原作の舞台朗読劇『LOVE LETTERS (en:Love Letters)』に出演した。この舞台はテイラーのエイズ基金の創設資金として、100万ドルを集めることを目的として上演されたものである。入場チケットは2,500ドルで500人以上の観客が集まった。この舞台の上演は全米脚本家組合ストライキとほぼ同時期の出来事で、各地の演劇関連施設が閉鎖、あるいはピケラインが張られていた。そこでテイラーは全米脚本家組合に「一夜だけの免除」を求めた。全米脚本家組合はこのテイラーからの依頼を聞き入れ、この劇場にピケラインは張られることなく舞台は無事に上演された[47]

2009年に死去したマイケル・ジャクソンとテイラーは友人であり、非常に親しかった。2009年6月のマイケル死去の際には代理人を通して「悲しみにうちひしがれコメントできない」とその胸中を語った[48]

私生活[編集]

結婚、恋愛、子供[編集]

マイク・トッド、テイラー夫妻と娘リザ。1957年

テイラーは7人の相手と8回結婚した。結婚離婚を繰り返す理由を聞かれたテイラーは「分からない。私にもさっぱり分からないの」と応えている[19]。また、別の機会には「私は両親から、誰かを本当に好きになったのなら結婚しなさいと教えられたのよ。多分私は古風な女なんでしょうね」と話したこともある[18]

テイラーは以下の男性たちと結婚した。

テイラーはこのホテル王の若き相続者を愛していると信じていたが、実際には母親のもとから逃げ出したかっただけだった。ヒルトンの「ギャンブル癖、飲酒癖、粗暴な振る舞い[33]」はテイラーとテイラーの両親を怯えさせ、エリザベスの流産の原因となった。二人の結婚はわずか9カ月で終わった[19][21]
  • マイケル・ワイルディング (en:Michael Wilding) (イギリス人俳優。1952年2月21日 - 1957年1月26日)
「紳士」ワイルディングはテイラーよりも20歳年長で、ヒルトンと離婚したばかりで傷心のテイラーを慰撫した。ワイルディングと離婚した後にテイラーは「たぶん私は彼に辛い体験をさせてしまったのでしょう。少しばかり私が彼を尻に敷いていたところがあり、彼にしてみれば落ち着いた暮らしではなかったのかも知れません」と語っている[21]
  • マイク・トッド (en:Mike Todd) (アメリカ人舞台、映画プロデューサー。1957年2月2日 - 1958年3月22日)
テイラーにとって、トッドとの結婚が離婚ではなく唯一の死別となった。二人の結婚生活は穏やかとはいえないものだったが、後年テイラーはトッドのことを、リチャード・バートンそして宝石とともに、生涯でももっとも深く愛した三つのうちの一つだと語っている[49][19]
フィッシャーはテイラーの前夫トッドの親友で、トッドの死後にはテイラーを慰める関柄だった。二人は関係を持つようになっていったが、当時のフィッシャーには妻デビー・レイノルズがいたために、大きなスキャンダルとなった[19][50](p226)。しかしながら最終的にはレイノルズはテイラーを許し、テイラーが『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞にノミネートされたときにはテイラーに投票しており、さらに後年の『だって女優ですもの!』では共演を果たしている[18]
1965年の『いそしぎ』で夫婦共演したテイラーとバートン。
両者共に結婚していたテイラーとバートンの不倫は、ヴァチカン教皇庁からも「みだらがましい浮浪」だと非難された[33]。テイラーとバートンは10年間の結婚中も離婚後もマスコミから大きな注目を集めていた。これは一般大衆が「(バートンが)世界一有名な俳優で、その世代のなかで最もすばらしい俳優だと信じていた」ことによる。テイラーは女優としてのキャリアよりも二人の結婚生活を重視し、映画の配役が回ってこないように体重を増やすことさえ厭わなかった[19]
1974年にテイラーと離婚したバートンはその6カ月後に「いつ爆発するかもしれないのに、二本のダイナマイトをぶつけ合わせ続けるなんて出来ないよ」と語っている[33]。しかしながら二人は離婚後一年もしないうちに再婚し、そして一年も経たずに離婚した。
テイラーと結婚していたときと同様に、テイラーはウォーナーとの結婚生活においても自身が、ヴァージニア州から選出された共和党上院議員の妻という立場でしか見られていないと感じていた[51][52][53]ワシントンD.C.での暮らしに馴染めずに落ち込んでいったテイラーは[54]、病院ベティ・フォード・センター (en:Betty Ford Center) に入院している[19]
ジョン・ウォーナーと結婚していたときとは別の時期に、ベティ・フォード・センターに入院中のテイラーはこの病院でフォーテンスキーと出会い、マイケル・ジャクソンの邸宅であるネバーランド・ランチ (en:Neverland Ranch) で結婚した[19]

テイラーは結婚以外にも多彩な恋愛遍歴を持っている。最初の夫であるヒルトンと結婚する前に、ハイズマン賞の受賞経験があるアメリカン・フットボール選手グレン・デイヴィス (en:Glenn Davis) と婚約していた。デイヴィスは婚約が解消されるまで、テイラーの母サラが二人の婚約をテイラーの宣伝活動に利用していたことを知らなかった[21]。また、デイヴィスのほかにも、駐ブラジル大使ウィリアム・D・パウリー (en:William D. Pawley) の子息と婚約していたこともある[22]。億万長者で映画プロデューサーのハワード・ヒューズは、テイラーの両親にテイラーとの結婚を応援してくれるのであれば、テイラーのための映画スタジオ創設に資金協力することを申し出た。母サラはこの申し出に応じたが、テイラーがヒューズとの結婚を拒否している[21]。テイラーとヒルトンとの離婚後に、ヒューズは突然ヘリコプターで姿を見せテイラーにダイアモンドを贈って結婚を申し込んだこともあった[55]。ほかにもテイラーは、人気歌手フランク・シナトラ、外交官ヘンリー・キッシンジャー、億万長者マルコム・フォーブスと浮名を流したことがある[33]。2007年には、当時付き合っていたジェイソン・ウィンタースと9回目の結婚をするのではないかという噂を否定したが[56]、ウィンタースのことを「今まで出会ったなかで最高の男性の一人」と語っている[57]

テイラーにはマイケル・ワイルディングとの間に、マイケル・ハワード(1953年1月6日生)とクリストファー・エドワード(1955年2月27日生)の二人の息子がいる。また、マイケル・トッドとの間には娘エリザベス・フランシス(1957年8月6日)がいる。エディ・フィッシャーと結婚していたときに、マリア(1961年8月1日)というドイツ出身の当時2歳の女児を養女にしようとしたことがあるが、1964年にフィッシャーと離婚したために、この養子縁組の話はなくなった[58]。後にリチャード・バートンが、エリザベス・フランシスとマリアを養女にしている[59]

1971年にテイラーは39歳で祖母となった。テイラーが死去する2011年時点で、マリアも含めて4人の子供たちは存命で、テイラーの孫が10人、曾孫が4人いた[60]

宗教観と自意識[編集]

1959年に当時27歳のテイラーは、9カ月にわたる熟慮の末にクリスチャン・サイエンスからユダヤ教に改宗し[61]、エリシェバ・ラケル (Elisheba Rachel) というヘブライ名を名乗った。テイラーはこの改宗について、長い間考えてきたことであってそれまでの結婚生活とは無関係だと主張している。マイケル・トッドと死別したテイラーは「形だけの宗教に絶望を感じた」と語り、カトリックもクリスチャン・サイエンスも多くの「生と死に関する疑問」に答えてくれることはなかったと説明している[5](p175)

伝記作家ランディ・タラボレッリは、9カ月にわたってユダヤ教の根本原理を研究したテイラーが「真実への直接的な回答があると感じた」と指摘している[5](p176)。ユダヤ教の会堂であるシナゴーグへとテイラーが行くことはほとんどなかったが、「私は神がつねにそばにいてくださると考えている一人です。礼拝のために建てられた場所に足を運ぶ必要性を感じません」と語っている[5](p176)。テイラーのユダヤ教への改宗祭式のときには両親が立会い、テイラーの改宗を全面的に支持した。この祭式でテイラーは『旧約聖書』の『ルツ記』からの一節を読み上げている。

……わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です『ルツ記』(1:16)[5](p176)

テイラーはユダヤ教の神秘主義思想であるカバラにも傾倒し、ロサンゼルスのカバラ・センター (en:Kabbalah Centre) に参加している[62]。また、テイラーは55歳のときに応じたインタビューで、役に合わせて外見を変えることを強いられるなど、子役時代に撮影現場で要求されたさまざまな事柄に押しつぶされないために、どのように心の中での折り合いをつけていたのかを語っている。

神は自己に反する行動や、一時的な流行を追うことを戒めています。しかしながら私はそのようなことをして来ました。当時の私は外見を変えたりするのは、馬鹿げていると思っていました。私のもじゃもじゃの眉毛や黒髪も、何らかの理由で神が与えてくださったものだという父の言葉に同意していたのです。おそらく私は自意識が強かったのでしょう。そんな子供でした。うまく説明できませんが自意識を持つことは当然だと思っていました。肉体とは全く無関係な内なる心があることにはっきりと気付いていたのですから[17]

さらにテイラーは、大人になってから自身の「心の在りよう」を理解し始めたと語っている。

ある程度の年齢になると心が外見に表れます。神は一定の法則でよく似た外見を複数の人々に分け与えています。しかしながら40歳くらいになると、それぞれの内面が外見を象っていくようになるのです。……人生には様々なことが起こります。外科医も手術用メスも、どうすることもできません。生まれながらの性格にもよりますし、それまでの生き方あるいは神のみ業が今のあなたの外見を作ったといえましょう[17]

女優としての才能と結婚観[編集]

1964年に、当時32歳だったテイラーは自身の女優キャリアについて「映画に出演している有名な「エリザベス・テイラー」は、私にとって何ら深い意味はありません。単にうわべだけの商品だと言えます」と語っている。さらに自身の演技力に関しても「技能といえるような大したものではありません。私が生まれ持った素養であり、集中力という能力に恵まれていただけです」としている。このとき以前にテイラーが演じた役柄は美しさと性的魅力を表に出したものだったが、それは実際の自分よりもはるかに誇張された似ても似つかないものであり「私はセックス・クイーンでもセックス・シンボルでもありません。そんなものになりたいと思ったことはないのです。私の夫がそのように思ってくれれば、それはとても嬉しいことでしょうけれども」と不満を漏らしている。また、テイラーは男性の性的魅力についても、同じようなことを語っている[20]

私が思う男性の性的魅力は、自分では意識していないであろう天与の暖かい心持ちでしょう。リチャード(・バートン)はとても性的魅力にあふれた男性です。誰でも一目でわかる、ある種の野生的な本質を持っています。それは髪をとかす仕草や、着ている服によるものではありません。彼は自身が持つ肉体的な魅力を意識してはいないけれど、すべてがその言動に表れているのです[20]

テイラーはこのような魅力を持つバートンを5番目の夫に選んだ。飛行機事故で死別した三番目の夫であるマイケル・トッドを除いて、テイラーは自身の「幼少期に受けた厳格なしつけや信条」に照らし合わせて、若かりしころの恋愛相手や結婚相手を振り返っている。

私は本当の恋愛というものを分かっていなかったのでしょう。昔の私は好きだと思った相手と結婚することが当たり前だと思っていたのです。恋心だけに終わらせるのではなく、結婚しなければいけないと信じていました。……私が最初に離婚したのは18歳のときで、結婚生活はわずか9カ月しか続きませんでした。あまりに世慣れていなかった私はほんとうに打ちのめされました。これが私の最初の離婚となったのです[20]

テイラーはリチャード・バートンが自身の子供たちとの間に築いた強い絆を信じ、バートンとの結婚を望んだ。バートンは「絶対的な家長であり、家族はみんな彼を尊敬していました」。後にテイラーは、バートンと初めて出会ったときからどのように恋愛関係に発展していったのかを回想している。

私が初めてリチャードと出会ったのは雑然とした『クレオパトラ』の撮影現場で、彼は監督のジョーゼフ・L・マンキーウィッツをはじめ、その場の皆と挨拶を交わしていました。それからそっと私のそばへ寄ってきて「とても美しい女性だと言われたことはあるかい」と言ったのです。私は心の中で「ああ神様」と言いました。すばらしい恋人、すばらしい才人、知性溢れるウェールズ人が目の前に現れたのです。信じられないくらいに価値観を共有できる男性でした。このことを控え室にいる女性陣に告げて回りたいと思ったくらいです[20]

宝飾品と 小売店[編集]

1981年に撮影されたテイラー。

テイラーは宝石を愛し、その死後に残された宝石コレクションの価値はおよそ1億5千万ドルと鑑定された[49][63]。コレクションにはリチャード・バートンがテイラーに贈った33.19カラットのクルップ・ダイアモンド (en:Krupp Diamond) や、69.42カラットのテイラー=バートン・ダイアモンドなど、非常に有名な宝石が含まれている。テイラーはその他にも、イングランド女王メアリー1世が所有していたことで知られる、ラ・ペレグリーナと呼ばれる50カラットの真珠も所有していた。この真珠は、バートンがサザビーのオークションで3万7千ドルで落札し、1969年のバレンタインデーにテイラーに贈ったものである[64][65]

映画スターだった時期のテイラーはファッション・アイコンだった。テイラーの衣服の購入には、パラマウント映画の衣裳デザイナーだったイーディス・ヘッドやMGMの衣裳デザイナーヘレン・ローズが、テイラーの顔、胸、腰に合うデザインのものを選ぶように助言していた。また、テイラーはファッション・デザイナーのヴァレンチノ・ガラヴァーニ (en:Valentino Garavani) や、ロイ・ハルストン (en:Halston) の知名度を上げることにも貢献しており[66]、1980年代に製薬会社のシェリング・プラウが開発したスミレ色のカラーコンタクトレンズは、テイラーの瞳をイメージしたものだった[67]

社会活動[編集]

HIV/エイズ[編集]

生涯を通じてテイラーは一貫して人道活動に献身し、豊富な資金援助も行っていた。HIVとエイズ関連の基金を創設し、総額2億7千万ドル以上の収益をあげたチャリティを主催している。テイラーはエイズに関する知見がほとんどなかった時代から、積極的に支援活動を行った最初期の著名人の一人であり、1984年にエイズ基金を創設してエイズプロジェクト・ロサンゼルス (en:AIDS Project Los Angeles) に貢献した[33][68]

1985年にテイラーは、マイケル・ゴットリーブ (en:Michael S. Gottlieb) とマティルド・クリム (en:Mathilde Krim) とともに、米国エイズ研究財団 (en:amfAR, The Foundation for AIDS Research) の共同創設メンバーとなっている[68]。この1985年は、テイラーの長年の旧友で共演経験もあるロック・ハドソンがエイズを発症したことが公表され、そして死去した年でもあった。テイラーは1993年にエリザベス・テイラー・エイズ基金を創設し、HIVキャリアやエイズ患者への緊急支援体制を整えた[68]。2006年には診察台とX線撮影装置を備えた、全長11メートルの介護車両を購入し、エリザベス・テイラー・エイズ基金とメイシーズの名前で、ニューオーリンズに寄付した[69][70]。この2006年は、前年にニューオーリンズを含むアメリカ南東部に多大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの爪あとが残っている時期であり、テイラーはニューオーリンズの非営利エイズ対策委員会にも50万ドルを寄付している。この寄付はテイラーの74歳の誕生日にあわせて行われ、ニューオーリンズ周辺のエイズ対策委員会が今までどおりに対エイズ患者救済活動を続けられるようにという願いがこめられたものだった[70][71]

テイラーは対HIV/エイズ患者に対する人道活動で、1992年にアカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞を受賞した。テイラーが死去したときに、これらの人道活動について前アメリカ大統領のビル・クリントンが「エリザベスの遺志は、いつまでも世界中の人々の心に素晴らしいものとして生き続けるだろう。彼女はそれだけの業績を残し、たゆむことのない努力を続けたのだ」とコメントしている[72]

ユダヤ教徒として[編集]

ユダヤ教に改宗した後のテイラーは、その生涯を通じてユダヤ教義の普及に尽力した[73]。1959年には、テイラーが多額のイスラエル国債 (en:State of Israel Bonds) を購入したことから、アラブ諸国でテイラーの映画がボイコットされている[74]。また1962年には、『クレオパトラ』の最終ロケ地となったエジプトへの入国を拒否された。このときエジプト政府は、テイラーがユダヤ教信者で「イスラエルの大義を支持している」ためにエジプトへの入国を禁じたという声明を出している。しかしながら『クレオパトラ』はエジプトの大衆に受け入れられ、テイラーのエジプト入国禁止措置も1964年に解除された[75]

1974年に、テイラーとバートンは二度目となる結婚式をイスラエルで挙げることを望んだが、バートンがユダヤ教徒ではなかったためにこの希望は叶えられなかった[75]。テイラーはユダヤ民族基金 (en:Jewish National Fund) のようなユダヤ教組織に資金援助をしていた。イスラエルへの移住を希望するソ連のユダヤ教徒たちを支持し、1967年に勃発した第三次中東戦争でイスラエルを激しく非難し、シオニズムが人種差別主義だとする1975年の国連総会決議3379号 (en:United Nations General Assembly Resolution 3379) に賛成したソ連に対する抗議として、ソ連訪問を取りやめたこともあった。

1976年のエンテベ空港ハイジャック事件では、人質となったユダヤ人100人以上の身代わりになることを申し入れたこともある[74]。そしてイスラエル軍によって人質のほとんどが無事に解放された後の1977年1月に、テイラーはカーク・ダグラスともに『エンテベの勝利』というテレビ特別番組に出演した。この番組でテイラーは「この事件を見過ごすことはできませんでした。私はイスラエルに強い親近感を抱いており、エンテベの救出作戦が成功することを心のそこから堅く信じていました」と語っている[76]

病と死[編集]

テイラーが死去した際に献花されたハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに設置されたテイラーのスター・プレート。

テイラーはその生涯の多くの時期を健康問題に悩まされていた[77]。ヒルトンとの離婚を初めとして、私生活で問題が起きたときにはつねに深刻な病苦に襲われる暮らしを送っていた[21]。テイラーは70回以上の入院経験があり[33]、20回以上の大手術を受けている[18]。テイラーが危篤だという間違った報道が幾度となく新聞の一面に掲載されたが[19]、テイラー自身は危篤状態に陥ったのは4度だけだったと主張している[33]

身長5フィート4インチ(約162センチ)のテイラーは1980年代に大幅な体重の増減を繰り返し、軽いときには119ポンド(約54キログラム)から重いときには180ポンド(約82キロ)に及んでいる[78][54]。50歳代半ばまで喫煙しており[78]、1975年10月にX線検査を受けたときには肺に影が見つかって肺がんではないかと診断されたが、のちに病巣ではなかったことが判明している[79]。テイラーは五度にわたって背中を痛めたことがあり、人工股関節置換手術 (en:hip replacement) と子宮摘出手術 (en:hysterectomy) を受け、赤痢や静脈炎 (en:Phlebitis)、食道穿孔の罹病経験もあるほか、1997年には良性だが脳腫瘍摘出手術を受けている[33][18]肺炎の発作で生死をさまよったことが二度あり、1961年の発作時には緊急の気管切開で一命を取りとめた。1983年には、35年間にわたって睡眠薬鎮痛剤を常用して、中毒症状となっていることを告白している[18]。1983年12月から1984年1月にかけての6週間と[80]、1988年秋から1989年初頭にかけて、、アルコール依存症と処方薬乱用の治療のためにベティ・フォード・センターに入院したこともあった[81]

2006年5月30日に、テイラーは自身の重病説を否定するためにテレビの生番組『ラリー・キング・ライブ』に出演し、アルツハイマー型認知症に苦しんだ瀕死の状態にあるという噂を一蹴した[82]。しかしながら最晩年のテイラーは隠遁生活を好み、病気や個人的な理由で約束を違えることも多かった。車椅子を使用するようになり、その理由を尋ねられたテイラーは骨粗鬆症であることと、生まれながらに脊椎側湾症を患っていることを理由に挙げている[83]

テイラーの外見上の特徴でもある二重まつげは一種の突然変異によるものだが、同じような突然変異がその後の心臓疾患にも影響を与えた可能性がある[15]。テイラーは2004年11月に鬱血性心不全と診断され、身体全体、とくに足首と脚に十分な血液を循環させるには心臓が弱まりすぎていると告げられた。2009年には心臓外科手術を受け、弱っていた心臓弁を交換している[84]。2011年2月に新たな心疾患の兆候が現れ、ロサンゼルスのシダーズ=シナイ医療センター (en:Cedars-Sinai Medical Center) に入院したが[85]、4人の子供たちに看取られながら2011年3月23日に79歳で病院内で息を引き取った[60][84]

テイラーは死去した翌日に、ラビであるジェリー・カトラーが主催するユダヤ教式葬礼 (en:bereavement in Judaism) のもと、カリフォルニア州グレンデールのフォレスト・ローン・メモリアル・パークに埋葬された。テイラーの遺体は壮大な霊廟に収められているが、一般人の立ち入りは禁止されている[86]。テイラーの葬式は予定時間よりも15分遅れて開始された。これはテイラーの要望によるもので、「彼女(テイラー)は自身の葬式でさえも遅れることを望んだのです」と代理人がマスコミに語っている[87]

評価[編集]

1960年代に撮影されたテイラー。

テイラーは「最高の映画スター」と呼ばれている[50](p2)。MGMの映画に出演して大衆から注目されたテイラーは、すぐに12歳で子役スターとなり、その後も成功した映画に出演し続けて、その作品の多くは現在でも「傑作」だと考えられている。映画界で名声を得てハリウッドの象徴となったテイラーは、ハリウッドの名声を高めることに貢献し「スターに昇り詰めた典型例」といわれるようになった[50](p3)

女性社会学者のカミール・パーリアはテイラーを「映画史上最高の女優」と評している。さらにパーリアは、テイラーが自身の出演作に次のような効果をもたらしたとしている。

彼女(テイラー)の表情とカメラの間には、刺激的で官能的な、帯電して震えているかのような空気があった。それは超感覚的で異教じみた出来事だった[50](p4)

テイラーは1960年代の性革命にも大きな役割を果たした。『PLAYBOY』にほぼ全裸のグラビアを掲載した最初の有名人の一人であり、映画で脱衣シーンを見せた最初の映画女優の一人でもあった[50](p5)。1951年の映画『陽のあたる場所』に出演したときのテイラーは17歳だったが、その成熟振りはハリウッドのコラムニストであるヘッダ・ホッパーに衝撃を与え、ホッパーはテイラーの早熟な官能性について一文をものしたほどである。映画史家のアンドリュー・サリスは、テイラーがモンゴメリー・クリフトと演じたラブシーンについて「チョコレートサンデーを貪っているかのような、あまりに激しい性愛演技に驚愕した」と語っている[50](p6)

映画を離れたテイラーの素顔は「らしくないスター」だったとテイラーの伝記作家ウィリアム・マンが指摘している。著述家グロリア・スタイネムも「うぬぼれを持たない映画の女王。自分の言動を律する達人で、共演するほかの女優と揉め事を起こすことはない」としている[50](p7)。1966年の映画でテイラーが主演した『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』の監督マイク・ニコルズは、今まで一緒に仕事をした俳優のなかでテイラーが「もっとも庶民的な心を持っていた」と語ったことがある。テイラーは撮影現場の電気技師や単なるスタッフに対しても「チャリティ会場でロスチャイルド家の一員と出会ったときと同様の接し方をしていた」[50](p6)。映画監督ジョージ・キューカーは、テイラーが「まれにみる美徳である飾らない優しい心」の持ち主だったと語っている[50](p7)

テイラーと二度結婚し、11本の作品で共演した俳優リチャード・バートンは、テイラーの女優としての才能に大きな敬意を払っている。バートンは「彼女(テイラー)は今まででもっとも過小評価されている映画女優の一人だと思うけれど、私は彼女が史上稀に見るすばらしい人だということを知っている。誰も彼女の足元にも及ばないよ」と語っている[88]

受賞と栄勲[編集]

初のアカデミー主演女優賞を受賞した『バターフィールド8』のポスター。

テイラーは1960年の『バターフィールド8』と1966年の『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』でアカデミー主演女優賞を2度受賞している。1992年にはエイズ撲滅に対する活動でアカデミー賞ジーン・ハーショルト友愛賞も受賞した。また、1997年には全米映画俳優組合生涯功労賞も受賞している[89]。テイラーはこの授賞式に出席することができなかったため、俳優グレゴリー・ペックがテイラーからのメッセージを代読した。このメッセージには、エイズ流行の根絶活動がテイラーの人生の重要な部分を占めることになったことと、エリザベス・テイラー・エイズ基金に対する全米映画俳優組合の貢献を感謝する言葉が綴られていた[89]

テイラーは1987年にフランスのレジオンドヌール勲章を授与され[18]、2000年にイギリスの大英帝国勲章のデイム・コマンダー (DBE) を受章した[90]。2001年には人道活動、とくにエイズに関する研究、国際的な関心の喚起、蔓延に関する取り組みなどに対して200万ドル以上の資金を集めることに貢献したとして、アメリカの大統領メダル (en:Presidential Citizens Medal) が授与された[89]。また、2007年にはカリフォルニア州が制定したカリフォルニア州殿堂博物館 (en:California Hall of Fame) の一員に選ばれている[91]

1994年には、カリフォルニア州のパームスプリングスの ウォーク・オブ・スターズ (Walk of Stars) にテイラーのスタープレートが設置されている[92]

出演作品[編集]

テイラーは1942年から2003年までに数多くの映像作品に出演している[93]。また、下記に挙げた作品のほかにもドキュメンタリーやインタビューで映像として残っている作品もある。

公開年 邦題
原題
役名 備考
1942年 There's One Born Every Minute グロリア・トゥワイン
1943年 『名犬ラッシー 家路』
Lassie Come Home
プリシラ
1944年 ジェーン・エア』
Jane Eyre
ヘレン・バーンズ クレジットなし
1944年 ドーヴァーの白い崖
The White Cliffs of Dover
ベッツィ クレジットなし
1944年 『緑園の天使』
National Velvet
ヴェルベット・ブラウン
1946年 『ラッシーの勇気』
Courage of Lassie
キャサリン・エリノア・マーリック
1947年 『ライフ・ウィズ・ファーザー』
Life with Father
メアリー・スキナー
1947年 『シンシア』
Cynthia
シンシア・ビショップ
1948年 『スイングの少女』
A Date with Judy
キャロル・プリングル
1948年 奥様武勇伝
Julia Misbehaves
スーザン・パケット
1949年 若草物語
Little Women
エイミー・マーチ
1949年 Conspirator メリンダ・グレイトン
1950年 The Big Hangover メアリー・ベルニー
1950年 花嫁の父
Father of the Bride
ケイ・バンクス
1951年 『可愛い配当』
Father's Little Dividend
ケイ・ダンスタン
1951年 陽のあたる場所
A Place in the Sun
アンジェラ・ヴィッカーズ
1951年 クォ・ヴァディス
Quo Vadis
アリーナ内の囚人 クレジットなし
1952年 Love Is Better Than Ever アナスタシア・"ステイシー"・マカボイ
1952年 黒騎士
Ivanhoe
レベッカ
1953年 The Girl Who Had Everything ジーン・ラティマー
1954年 『ラプソディー』
Rhapsody
ルイーズ・デュラン
1954年 巨象の道
Elephant Walk
ルース・ウィリー
1954年 『騎士ブランメル』
Beau Brummell
レディ・パトリシア・ブランメル
1954年 雨の朝巴里に死す
The Last Time I Saw Paris
ヘレン・エルズワース/ウィリス
1956年 ジャイアンツ
Giant
レズリー・リントン・ベネディクト
1957年 愛情の花咲く樹
Raintree County
スザンナ・ドレイク ローレル賞 (en:Laurel Award) ドラマ部門女優賞
アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
1958年 熱いトタン屋根の猫
Cat on a Hot Tin Roof
マギー・ザ・キャット ローレル賞ドラマ部門女優賞
アカデミー主演女優賞ノミネート
英国アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
1959年 去年の夏 突然に
Suddenly, Last Summer
キャサリン・ホリー バンビ賞 国際女優賞
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 最優秀金牌賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)
ローレル賞 ドラマ部門女優賞
アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
1960年 『スペインの休日』
Scent of Mystery
レアル・サリー クレジットなし
1960年 バターフィールド8
BUtterfield 8
グロリア・ワンドラス アカデミー賞 主演女優賞
ローレル賞 ドラマ部門女優賞第2位
ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) ノミネート
バンビ賞 国際女優賞ノミネート
1963年 クレオパトラ
Cleopatra
クレオパトラ
1963年 予期せぬ出来事
The V.I.P.s
フランシス・アンドロス
1965年 いそしぎ
The Sandpiper
ローラ・レイノルズ
1966年 ヴァージニア・ウルフなんかこわくない
Who's Afraid of Virginia Woolf?
マーサ アカデミー賞 主演女優賞
英国アカデミー賞 主演女優賞
バンビ賞 国際女優賞
カンザスシティ映画批評家協会賞 主演女優賞
ローレル賞 ドラマ部門女優賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 女優賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) ノミネート
1967年 じゃじゃ馬ならし
The Taming of the Shrew|
カタリーナ テイラーは製作にも携わっているがクレジットはされていない
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 最優秀外国女優賞
英国アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
1967年 『ファウスト悪のたのしみ』
Doctor Faustus
トロイアのヘレネー
1967年 禁じられた情事の森
Reflections in a Golden Eye
レオノーラ・ペンダートン
1967年 『危険な旅路』
The Comedians
マーサ・ピネダ
1967年 The Comedians in Africa 本人役 ドキュメンタリー
1968年 夕なぎ
Boom!
フローラ・"シッシー"・ゴフォース
1968年 『秘密の儀式』
Secret Ceremony
レノーラ
1969年 1000日のアン
Anne of the Thousand Days
宮廷婦人の一人 クレジットなし
1970年 『この愛にすべてを』
The Only Game in Town
フラン・ウォーカー
1970年 Here's Lucy 本人役 テレビシリーズ、一話のみ
1972年 『ある愛のすべて』
X,Y, and Zee
ジー・ブレイクリー
1972年 Under Milk Wood ロージー・プロバート
1972年 Hammersmith Is Out ジミー・ジーン・ジャクソン ベルリン国際映画祭 銀熊女優賞[94]
1973年 『離婚・男の場合 離婚・女の場合』
Divorce His, Divorce Hers
ジェーン・レイノルズ テレビ映画
1973年 『夜をみつめて』
Night Watch
エレン・ウィーラー
1973年 別離
Ash Wednesday
バーバラ・ソーヤー ゴールデン・グローブ賞 主演女優賞ノミネート
1974年 『サイコティック』
Identikit
リセ
1974年 ザッツ・エンターテインメント
That's Entertainment!
本人役
1976年 『青い鳥』
The Blue Bird
光の精/母親/魔女/母性愛
1976年 『エンテベの勝利』
Victory at Entebbe
エドラ・ヴィロンフスキー テレビ映画
1977年 『リトル・ナイト・ミュージック』
A Little Night Music
デジレ・アルムフェルト
1978年 ホールマーク・ホール・オブ・フェイム
Hallmark Hall of Fame
エミリー・ルーミス シーズン28のエピソード『Return Engagement
1979年 『大統領の堕ちた日』
Winter Kills
ローラ・コマンテ クレジットなし
1980年 クリスタル殺人事件
The Mirror Crack'd
マリーナ・ラッド
1981年 ジェネラル・ホスピタル
General Hospital
ヘレナ・カッサディーヌ #1 テレビシリーズ
1983年 Between Friends デボラ・シャピロ テレビ映画
1984年 『ホテル』
Hotel
キャサリン・コール テレビシリーズ、一話のみ
1984年 オール・マイ・チルドレン
All My Children
大邸宅の管理委員 テレビシリーズ
1985年 Malice in Wonderland ルーエラ・パーソンズ テレビ映画
1985年 南北戦争物語 愛と自由への大地
North and South
マダム・コンティ テレビミニシリーズ
1987年 『ポーカー・アリス』
Poker Alice
ポーカー・アリス・モフィット テレビシリーズ
1988年 『トスカニーニ 愛と情熱の日々』
Young Toscanini
ナディナ・ブリチョッフ
1989年 『青春の甘き小鳥』
Sweet Bird of Youth
アレクサンドラ・デル・ラーゴ テレビシリーズ
1992年 シンプソンズ
The Simpsons
マギー・シンプソン テレビアニメ、声の出演
1992年 キャプテン・プラネット
Captain Planet and the Planeteers
ミセズ・アンドリュース テレビ・アニメ、声の出演
1993年 『シンプソンズ』
The Simpsons
本人役 テレビアニメ、声の出演
1994年 フリントストーン/モダン石器時代
The Flintstones
パール・スラフープル
1996年 TVキャスター マーフィー・ブラウン
Murphy Brown
本人役 テレビシリーズ、一話のみ
1996年 The Nanny 本人役 テレビシリーズ、一話のみ
2000年 God, the Devil and Bob サラ テレビアニメ、声の出演
2001年 『だって女優ですもの!』
These Old Broads
ベリル・メイソン テレビ映画

脚注[編集]

  1. ^ “エリザベス・テイラー、79歳で死去” (日本語). MTVJAPAN. (2011年3月24日). http://www.mtvjapan.com/news/cinema/18924 2011年3月24日閲覧。 
  2. ^ "Watch out, boys ...  Liz Taylor's coming home". Associated Newspapers Ltd. Daily Mail Online. May 17, 2010. Retrieved March 24, 2011.
  3. ^ "Elizabeth Taylor – the Hampstead girl who seduced the world" London Evening Standard. March 24, 2011. Retrieved March 24, 2011.
  4. ^ "Hampstead Garden Suburb born Dame Elizabeth Taylor dies aged 79". Times of London. March 24, 2011. Retrieved March 24, 2011.
  5. ^ a b c d e f g Taraborrelli, J. Randy (2006). Elizabeth. Grand Central Publishing. ISBN 978-0-446-53254-9. http://books.google.com/books?id=ScE8F_pMuAAC 2011年3月24日閲覧。. 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m Walker, Alexander (1990). Elizabeth: the life of Elizabeth Taylor. London: G. Weidenfeld. ISBN 978-0-8021-1335-1. 
  7. ^ Boyce, Richard (1967年4月14日). “Liz Taylor Renounces U.S. Citizenship”. http://news.google.com/newspapers?id=s2ocAAAAIBAJ&sjid=YU8EAAAAIBAJ&pg=7364,5810172 2012年7月3日閲覧。 
  8. ^ “Liz Taylor Applies To Be U.S. Citizen”. Toledo Blade. (1978年2月19日). http://news.google.com/newspapers?id=awxPAAAAIBAJ&sjid=cgIEAAAAIBAJ&pg=6365,5024920 2012年7月3日閲覧。 
  9. ^ Wilson, Earl (1977年6月15日). “Will Liz Taylor be our First Lady?”. http://news.google.com/newspapers?id=HxNdAAAAIBAJ&sjid=dloNAAAAIBAJ&pg=5264,3479319 2012年7月3日閲覧。 
  10. ^ S.S. Manhattan, April 27, 1939, sheet 25. Ancestry.com. New York Passenger Lists, 1820–1957 [database on-line]. Provo, Utah, US: Ancestry.com Operations Inc, 2006.
  11. ^ S.S. President Roosevelt, November 1, 1939, sheet 209. New York Passenger Lists, 1820–1957 [database on-line]. Provo, Utah, U.S.: Ancestry.com Operations Inc, 2006.
  12. ^ Bayard, Louis (2006年9月3日). “Violet Eyes To Die For”. Washington Post. http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/08/31/AR2006083101166.html 2011年4月1日閲覧。 
  13. ^ Heymann, David C. Liz: An Intimate Biography of Elizabeth Taylor, Birch Lane Press (1995), p. 33
  14. ^ McCarthy, Todd (2011年3月23日). “THR Chief Film Critic Todd McCarthy Remembers Elizabeth Taylor”. The Hollywood Reporter. http://www.hollywoodreporter.com/news/thr-chief-film-critic-todd-170552 2011年3月27日閲覧。 
  15. ^ a b c Palmer, Roxanne (2005年3月25日). “Elizabeth Taylor: Beautiful Mutant”. Slate. 2011年3月26日閲覧。
  16. ^ Harper's Bazaar, Nov. 1979
  17. ^ a b c d "Elizabeth Taylor: The Lost Interview", Rolling Stone magazine, April 14, 2011 (never published interview from 1987)
  18. ^ a b c d e f g h Coyle, Jake (2011年3月24日). “Quintessential star Elizabeth Taylor dies at 79”. Associated Press. http://www.salon.com/wires/allwires/2011/03/24/D9M5H14G0_us_obit_taylor/ 2011年3月30日閲覧。 
  19. ^ a b c d e f g h i j k l Gussow, Mel (2011年3月23日). “Elizabeth Taylor, 1932–2011: A Lustrous Pinnacle of Hollywood Glamour”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2011/03/24/movies/elizabeth-taylor-obituary.html 2011年3月23日閲覧。 
  20. ^ a b c d e Meryman, Richard (1964年12月18日). “'I refuse to cure my public image'”. Life. http://books.google.com/books?id=kFEEAAAAMBAJ&lpg=PP1&ots=xZJGAWxygn&pg=PA74#v=snippet&f=false 2012年8月6日閲覧。 
  21. ^ a b c d e f g Taraborrelli, J. Randy (2011年3月29日). “The brutal mother who forced Liz Taylor to cry on cue ... and drove her into the arms of a wife-beater”. Daily Mail (London). http://www.dailymail.co.uk/femail/article-1370903/Elizabeth-Taylors-brutal-mother-Sara-forced-cue.html 2011年4月21日閲覧。 
  22. ^ a b “Elizabeth Taylor: Star Rising”. TIME. (1949年8月22日). http://www.time.com/time/printout/0,8816,800624,00.html 2011年3月23日閲覧。 
  23. ^ Review: The Big Hangover (1950)”. Boozemovies.com (2007年8月5日). 2012年10月5日閲覧。
  24. ^ a b c d Elizabeth Taylor Profile”. Turner Classic Movies. 2012年10月5日閲覧。
  25. ^ Heymann, p.106
  26. ^ a b c Kelley, Kitty. Elizabeth Taylor, the Last Star, Simon and Schuster (1981) pp. 34–41
  27. ^ The Girl Who Had Everything”. Turner Classic Movies. 2012年10月5日閲覧。
  28. ^ Heymann, p. 128
  29. ^ Parish, p. 329
  30. ^ Parish, p. 330
  31. ^ a b Parish, p. 331
  32. ^ Parish, p. 333
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m Woo, Elaine (2011年3月24日). “Elizabeth Taylor dies at 79; legendary actress”. Los Angeles Times. http://www.latimes.com/news/obituaries/la-me-elizabeth-taylorlong-20110324,0,3017190,full.story 2011年4月1日閲覧。 
  34. ^ Parrish, pp. 335–336
  35. ^ Parish, p. 344
  36. ^ Kashner, Sam; Schoenberger, Nancy (July 2010). “A Love Too Big To Last”. Vanity Fair. http://www.vanityfair.com/hollywood/features/2010/07/elizabeth-taylor-201007?currentPage=all 2011年3月24日閲覧。. 
  37. ^ マーロン・ブランドはモンゴメリー・クリフトの代役だった。クリフトは映画撮影開始前に死去している。Parish, p. 343
  38. ^ Parish, p. 350
  39. ^ a b Elizabeth Taylor Biography”. The Biography Channel. 2012年10月5日閲覧。
  40. ^ “Elizabeth Taylor to play Flintstone mother-in-law”. Deseretnews.com. (1993年5月16日). http://www.deseretnews.com/article/290489/ELIZABETH-TAYLOR-TO-PLAY-FLINTSTONE-MOTHER-IN-LAW.html?pg=all 2012年10月5日閲覧。 
  41. ^ “All My Children's Superstar Alumni”. People. http://www.people.com/people/gallery/0,,20485076_20942514,00.html 2012年10月6日閲覧。 
  42. ^ Snierson, Dan (2011年3月24日). “Elizabeth Taylor: 'Simpsons' exec producer Al Jean remembers the film legend's one-word turn as baby Maggie”. Entertainment Weekly. http://insidetv.ew.com/2011/03/24/elizabeth-taylor-simpsons-al-jean/ 2012年10月6日閲覧。 
  43. ^ Brenner, Marie (1983年5月9日). “The Liz and Dick Show”. New York Magazine. http://nymag.com/arts/theater/features/50176/ 2012年10月6日閲覧。 
  44. ^ “Private Lives”. http://www.dameelizabethtaylor.com/private_lives.html 2012年10月6日閲覧。 
  45. ^ David Badash. “Elizabeth Taylor, Gay Icon, HIV/AIDS Activist, Dies At 79”. The New Civil Rights Movement. 2011年3月24日閲覧。
  46. ^ Elizabeth Taylor – Dame Liz Slams Bush Over Saddam Ultimatum – Contactmusic News”. Contactmusic.com. 2011年3月24日閲覧。
  47. ^ “Striking writers give Elizabeth Taylor a pass”. Associated Press. CNN. (2007年12月2日). オリジナル2007年12月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20071203112813/http://www.cnn.com/2007/SHOWBIZ/12/02/elizabeth.taylor.ap/index.html 2007年12月2日閲覧。 
  48. ^ “情報BOX:M・ジャクソンさんの訃報に悲しみの声”. ロイター. (2009年6月26日). http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-38739620090626 2012年9月21日閲覧。 
  49. ^ a b Frankel, Susannah (2011年3月25日). “'Fun when the sun shines'”. The Independent (UK). http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/elizabeth-taylor-a-life-less-ordinary-2252366.html 2011年4月1日閲覧。 
  50. ^ a b c d e f g h i Mann, William J. (2009). How to be a movie star: Elizabeth Taylor in Hollywood. Houghton Mifflin Harcourt. ISBN 0-547-13464-9. http://books.google.com/books?id=-8Lh_2ZP-qoC. 
  51. ^ “Elizabeth Taylor at Republican Women's Club, 1978”. Richmond Times-Dispatch. (2011年3月23日). http://www2.timesdispatch.com/news/2011/mar/23/elizabeth-taylor-at-republican-womens-club-im-93558/ 2011年3月26日閲覧。 
  52. ^ Rosenfeld, Megan (1978年10月23日). “Miller, Warner meet in Lynchburg in bid for fundamentalist vote”. The Washington Post. http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/05/15/AR2007051501221.html 2011年3月26日閲覧。 
  53. ^ Klairmont, Laura (2011年3月23日). “Elizabeth Taylor was an icon in Washington”. CNN. http://politicalticker.blogs.cnn.com/2011/03/23/elizabeth-taylor-was-an-icon-in-washington/?hpt=Sbin 2011年3月26日閲覧。 
  54. ^ a b Tanabe, Karin (2011年3月24日). “ELIZABETH TAYLOR'S WASHINGTON LIFE”. Politico. http://www.politico.com/click/stories/1103/elizabeth_taylors_washington_life.html 2011年4月3日閲覧。 
  55. ^ Woo, Elaine (2011年3月23日). “Elizabeth Taylor's obituary: outtakes from a 12-year work in progress”. Los Angeles Times. http://latimesblogs.latimes.com/afterword/2011/03/elizabeth-taylors-obit-outtakes-from-a-12-year-work-in-progress.html 2011年4月1日閲覧。 
  56. ^ Taylor 'not planning ninth wedding'”. Ireland On-Line (2010年6月21日). 2011年3月24日閲覧。
  57. ^ Liz Smith (2007年9月12日). “Elizabeth Taylor has a new man”. Variety. http://www.variety.com/article/VR1117971903.html 2010年4月12日閲覧。 
  58. ^ Sheila Marikar (2011年3月28日). “Elizabeth Taylor's Unseen Role: Mother”. ABC News. http://abcnews.go.com/Entertainment/elizabeth-taylors-unseen-role-mother/story?id=13223481 2011年4月20日閲覧。 
  59. ^ “Q&A: An update on Elizabeth Taylor's four children”. St. Petersburg Times. (2010年1月12日). http://www.tampabay.com/news/humaninterest/qampa-an-update-on-elizabeth-taylors-four-children/1064792 2011年4月20日閲覧。 
  60. ^ a b Sheila Marikar (2011年3月23日). “Hollywood Icon Elizabeth Taylor Dies at 79”. ABC News. 2011年3月23日閲覧。
  61. ^ Ivry, Benjamin (2011年3月23日). “A Jew by Choice: Elizabeth Taylor, 1932–2011”. The Forward. 2011年3月25日閲覧。
  62. ^ Ravitz, Jessica (2011年3月24日). “Exploring Elizabeth Taylor's Jewish conversion”. CNN. http://religion.blogs.cnn.com/2011/03/24/making-sense-of-elizabeth-taylors-jewish-conversion 2011年3月25日閲覧。 
  63. ^ “Elizabeth Taylor's fortune may approach $1B”. CBS News. (2011年3月26日). http://www.cbsnews.com/stories/2011/03/26/earlyshow/saturday/main20047484.shtml 2011年4月1日閲覧。 
  64. ^ Elizabeth Taylor”. Divasthesite.com. 2010年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月11日閲覧。
  65. ^ NPG 4861; Queen Mary I”. Npg.org.uk. 2010年4月12日閲覧。
  66. ^ Cosgrave, Bronwyn (2011年3月24日). “End Of An Era”. Vogue UK. http://www.vogue.co.uk/news/daily/110323-elizabeth-taylors-style-and-fashio.aspx 2011年3月27日閲覧。 
  67. ^ Schiro, Anne-Marie (1987年4月18日). “LENSES TO CHANGE EYE COLOR”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B0DE1DA173DF93BA25757C0A961948260 2011年3月27日閲覧。 
  68. ^ a b c Elizabeth Taylor AIDS Foundation-ETAF website; "A History of Giving" timeline; Retrieved 03-24-2011.
  69. ^ “Aids unit donated by Liz Taylor”. BBC News. (2006年2月24日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/4746044.stm 
  70. ^ a b "Legendary Actress Elizabeth Taylor's Legacy and Generosity Lives on in New Orleans". NO/AIDS Task Force. Retrieved March 24, 2011.
  71. ^ “Elizabeth Taylor, Elton John, Rebecca Wang & Bob Geldof Battle Aids”. EzineMark.com. (2011年4月4日). http://aids.ezinemark.com/elizabeth-taylor-elton-john-rebecca-wang-bob-geldof-battle-aids-3224cd63933.html 
  72. ^ "Great legend' Elizabeth Taylor remembered". BBC News. March 24, 2011. Retrieved March 24, 2011.
  73. ^ A Jew by Choice: Elizabeth Taylor, 1932–2011
  74. ^ a b Burstein, Nathan (2011年3月25日). “Elizabeth Taylor and Israel, a lasting love”. Washington Post. http://www.washingtonpost.com/opinions/elizabeth-taylor-and-israel-a-lasting-love/2011/03/24/AFbnZZYB_story.html 2011年3月26日閲覧。 
  75. ^ a b "JTA Archive", March 23, 2011
  76. ^ Photo commentary to film
  77. ^ Elizabeth Taylor Death Fears Return After Hospitalization”. Yahoo! News. 2011年2月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月23日閲覧。
  78. ^ a b Kleiman, Dena (1986年5月23日). “Elizabeth Taylor – Diet Tips On How To Become A Size 6”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?sec=health&res=9A0DE1D8173AF930A15756C0A960948260 2011年3月24日閲覧。 
  79. ^ “1975: Liz Taylor and Richard Burton remarry”. BBC News. (1980年10月10日). http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/october/10/newsid_4089000/4089030.stm 2011年3月24日閲覧。 
  80. ^ Elizabeth Taylor Interview. ABILITY Magazine.
  81. ^ Elizabeth Taylor Biography”. Allsands.com. 2011年3月25日閲覧。
  82. ^ “CNN Larry King Live: Interview With Elizabeth Taylor”. Cable News Network. (2006年5月30日). http://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0605/30/lkl.01.html 2010年4月12日閲覧。 
  83. ^ CBC Arts (2006年5月31日). “Elizabeth Taylor dismisses reports of illness on 'Larry King Live'”. Canadian Broadcasting Corporation. オリジナル2007年3月10日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20070310201251/http://www.cbc.ca/arts/story/2006/05/31/taylor-elizabeth-larryking.html 2010年4月12日閲覧。 
  84. ^ a b Elizabeth Taylor dies aged 79”. ABC News Australia. Australian Broadcasting Corporation (2011年3月23日). 2011年3月23日閲覧。
  85. ^ Weber, Christopher (2011年2月13日). “Elizabeth Taylor remains hospitalized for heart failure”. LA Daily News. Associated Press. http://www.dailynews.com/news/ci_17376205 2011年3月23日閲覧。 
  86. ^ Ewen MacAskill. "Elizabeth Taylor's funeral takes place in LA's celebrity cemetery". The Guardian. Washington. March 25, 2011
  87. ^ UPDATED: Elizabeth Taylor Laid To Rest In Glendale”. accesshollywood.com. NBC Universal (2011年3月25日). 2011年3月25日閲覧。
  88. ^ Richard Burton interviewed on The Dick Cavett Show, August 1980
  89. ^ a b c SAG Remembers the Life and Legacy of Elizabeth Taylor. Screen Actors Guild March 23, 2001. Retrieved March 26, 2011.
  90. ^ Liz Taylor: Her Life in Pictures. Dame Elizabeth Taylor Receives Dame Commander of the Order of the British Empire. Life. 2011. Retrieved March 23, 2011.
  91. ^ Taylor inducted into California Hall of Fame, California Museum. Retrieved 2007.
  92. ^ Palm Springs Walk of Stars by date dedicated
  93. ^ Elizabeth Taylor on IMDb
  94. ^ Berlinale 1972: Prize Winners”. berlinale.de. 2010年3月16日閲覧。

参考文献[編集]

  • Parish, James Robert; Mank, Gregory W.; Stanke, Don E. (1978). The Hollywood beauties. England: Arlington House Publishers. p. 329. ISBN 0-87000-412-3. 
  • Michael Kors talks to Dame Elizabeth Taylor”. Harper's Bazaar (2011年3月23日). 2013年11月11日閲覧。
  • Heyman, David (2011). Liz: An Intimate Biography of Elizabeth Taylor (updated with a new chapter). Atria Books. ISBN 1-4391-9188-3. 
  • Spoto, Donald (1995). A passion for life: the biography of Elizabeth Taylor. London: HarperCollins. ISBN 0-06-017657-1. 

関連文献[編集]

外部リンク[編集]