アルフレッド・ヒッチコック

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アルフレッド・ヒッチコック
Alfred Hitchcock
Alfred Hitchcock
ヒッチコック(1956年)
本名 アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック
別名 サスペンスの神様
生年月日 1899年8月13日
没年月日 1980年4月29日(満80歳没)
出生地 イングランドの旗 イングランドロンドン
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ロサンゼルス市 
国籍 イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
身長 170 cm
職業 映画監督映画プロデューサー
ジャンル 映画
活動期間 1921年 - 1976年
配偶者 アルマ・レヴィル1926年 - 1980年)※死別
家族 パトリシア・ヒッチコック英語版(長女、女優)
主な作品
サイコ
めまい
知りすぎていた男

サー・アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(Sir Alfred Joseph Hitchcock, KBE, 1899年8月13日 - 1980年4月29日)は、イギリス映画監督映画プロデューサー1939年からはおもにアメリカで活躍した。スリラー映画で成功し、製作・脚本・編集・美術も手がけた。サスペンス映画の神様とも称される。

生い立ち[編集]

1899年8月13日ロンドンレイトンストーン生まれ。鶏肉店を経営するかたわら果物の卸売商も営んでいたウィリアム・ヒッチコックと妻のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓ウェーラン)の三人の子供の二番目であった。一家はアイルランドカトリック教徒であった(イギリスでは少数派)。ヒッチコックはロンドンでカトリックの寄宿学校に入学し、後に彼は幼年期は孤独であったと語っている(幼年期に父親に「ちょっとのあいだ」だけ留置場に入れられたという話はヒッチコック自身の証言でしか確認できない)。

彼が14歳の時に父親が死亡し、彼は工学を学ぶためセント・イグナチウス・カレッジを去った。学校を卒業した後はケーブル会社(W.T.ヘンリー電信会社)の技術部門(海底電線の電力測定)で働きながらロンドン大学の美術学科で絵の勉強をし、同社の広告宣伝部に異動する。

その後ヒッチコックはアメリカの映画会社フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーのロンドン支社に映画のタイトル用イラストを売り込み、採用される。1920年にはイズリントン・スタジオで、サイレント映画のタイトルデザイン(セリフや解説を書いた字幕)を担当した。グレアム・カッツ監督の下で脚本・助監督などを手がけ、1925年にはゲインズボロー・ピクチャーのマイケル・バルコンが、彼に処女作の『快楽の園』を監督するチャンスを与えた。

イギリスで[編集]

ヒッチコックは急速に台頭した。彼の三作目『下宿人』は1927年に公開された。同作は「切り裂きジャック」をモデルにした作品で、アパートにやってきた新しい下宿人(アイヴァー・ノヴェロ)が殺人犯の嫌疑をかけられる。これが最初の「間違われる男」をテーマとした「ヒッチカニアン」フィルムであった。

1926年にヒッチコックは、アシスタント・ディレクターのアルマ・レヴィルと結婚した。二人の間には1928年に娘のパトリシアが生まれる。アルマはヒッチコックの最も親密な協力者であった。彼女は何本かの脚本を執筆し、ヒッチコックの全ての作品の擁護者であった。

1929年にヒッチコックは十作目の『ゆすり』の制作を始める。撮影中に製作会社は同作を、イギリス最初のトーキー映画にすることを決定した。

1933年には再び、ゴーモン=ブリティッシュ・ピクチャーに移籍していたマイケル・バルコンと共に働く。同社での彼の初の作品は『暗殺者の家』であり、続いて『三十九夜』を制作する。同作は初期の代表作と見なされる。

ヒッチコックの次の成功作は1938年の『バルカン超特急』である。軽快なテンポで展開する同作は、ナチス・ドイツを模した架空の国家ヴァンドリカでのスパイ騒動に巻き込まれた人々を描き、列車内で姿を消した老婦人の行方を捜すという内容のサスペンスでもあった。

ヒッチコックの活躍はハリウッドから注目され、デヴィッド・O・セルズニックの依頼で彼はアメリカ合衆国で映画製作を行うこととなる。

ハリウッド[編集]

ヒッチコック夫妻(1955年)

1940年にヒッチコックはアメリカでの初作品『レベッカ』を制作する。同作の企画はイギリスで行われ、原作もイギリスの作家ダフネ・デュ・モーリアによるものであった。作品はジョーン・フォンテイン演じるヒロインが後妻として入ったイギリスの屋敷での出来事を描くサスペンスで、1940年のアカデミー最優秀作品賞を受賞した。

ヒッチコックのユーモアはアメリカでの作品群でも発揮され、作風はサスペンスをトレードマークとしていた。セルズニックは長年金銭問題に悩まされており、より大きな映画会社にしばしばヒッチコックを貸し出した。

ヒッチコックの1940年代の作品は非常に多様であった。それはロマンティック・コメディの『スミス夫妻』(1941年)から暗いサスペンス(フィルム・ノワール)の『疑惑の影』(1943年)まで多種に及ぶ。

1950年代は、ヒッチコックの黄金時代と言える。さまざまな円熟期の作品が量産された。1956年アメリカの市民権を取得した。

』(1963年)までは精彩を放っていたが、『マーニー』(1964年)以降は凡庸な作品が目立つようになった。これは『マーニー』の撮影中にティッピ・ヘドレンに関係を迫ったものの断られたことが原因ではないかという説もある。あるいは、『ハリーの災難』以来バーナード・ハーマンが音楽を担当してきたが、『引き裂かれたカーテン』の音楽を巡って対立し、結果ハーマンをこの作品から降板させ、以後は袂を分かっていたことも影響しているのではないかともいわれる。高齢による衰えとの説もあるが、イギリスを舞台に撮影した最後から2番目の作品『フレンジー』(1972年)ではキレのあるサスペンス演出を見せ、ヒッチコック復活を印象付けた。

晩年[編集]

1976年の『ファミリー・プロット』が彼の遺作となった。バーバラ・ハリス演じるインチキ霊媒師と、ブルース・ダーン演じる彼女の恋人であるタクシードライバーが、犯罪に巻き込まれるという内容であった。

監督業への意欲は一向に衰えず、記者会見で「引退はいつですか?」と聞かれると「上映終了後」と答えたと言う。逆にそうした創作意欲の強さが、弱って行く一方の自分の肉体に対して自暴自棄な気持ちを持たせ、付き添いの看護師の目を盗んでコニャックをガブ飲みしたこともあったという。

ヒッチコックは1980年1月3日にエリザベス2世よりナイトの称号を授けられたが、ちょうどその4カ月後に腎不全を起こし、ロサンゼルスで死去した。遺体は火葬に付された。

その他[編集]

ヒッチコックは特にフランスの若い映画監督達から支持された。ヒッチコックは「ヌーヴェルヴァーグの神様」と呼ばれ、クロード・シャブロルジャン=リュック・ゴダールらに崇拝され、なかでもフランソワ・トリュフォーはヒッチコックを意識したという『黒衣の花嫁』を撮ったり、ロングインタビューを敢行し『映画術』のタイトルで出版した。

ヒッチコックの作品は非常に高度な映画技法を駆使して作られており、際立った演出手腕を持った映画監督と言える。その映像テクニックは技術本位ではなくあくまで演出上必要であるからこそ使われ、結果的に絶大な効果を上げている。特にスティーブン・スピルバーグはヒッチコックの演出テクニックを生かした演出を行っているのが有名である(キネマ旬報にシーンの比較の記事が出た)。

自分の作品のどこかにほんの一瞬だけ必ず姿を出すことで知られる(後姿やシルエットだけのこともある)。もともとこれは、初期の頃予算不足のためエキストラを満足に雇えず、やむなく出演していたという単純な理由だった。しかし恰幅の良い容貌で目立つためファンが探すようになってしまい、いつの間にか恒例になったものだという。理由はともかく、そのおかげでファンは作品がどんなにスリリングで手に汗握るものであれ、監督がいつ画面に登場するかを心待ちにするという稀有な楽しみを与えられた。しかし後年はこの「お遊び」があまりに有名になってしまったため、観客が映画に集中できるよう、ヒッチコックはなるべく映画の冒頭に近いところで顔を見せるように心がけていた。

なお、監督の作品のうち、英国時代の作品は保護期間終了により、また、米国時代の作品は著作権標記欠落や、入っていても更新されなかったこと、などによりパブリックドメインとなったものが多い。

1955年(昭和30年)12月12日に来日している。

夫人の手記によると、彼自身の私生活は非常に規則正しい物で作風からは想像できないが、予期せぬ出来事といった物は大嫌いだったらしい。そのために大好物であったスフレも作っている間に我慢ができなくなって途中でオーブンの扉を開けてしまうので、中が見える窓のついたオーブンを購入するまでスフレを作るのを禁止している。また鶏肉が好物であり夫人は「だから『鳥』を作ったのではないか」と推理していた。

主な作品[編集]

※:製作国に於いてパブリックドメイン(保護期間は公開から70年、ただし英国政府製作の映画は公開後50年)

イギリス時代[編集]

公開年 邦題 原題 備考
1925 快楽の園 The Pleasure Garden ※ 監督デビュー作
1926 山鷲 The Mountain Eagle ※ 6枚のスチール写真を除いては現存せず。
(不明) (不明) ※ 企画のみ作られた政治映画。BBFCによる検閲、不許可により未制作。
1927 下宿人 The Lodger: A Story of the London Fog
ダウンヒル Downhill
リング The Ring
1928 ふしだらな女 Easy Virtue
農夫の妻 The Farmer's Wife
シャンパーニュ Champagne
1929 マンクスマン The Manxman
恐喝 Blackmail ※ 最初のトーキー作品/サイレント版もあり
1930 ジュノーと孔雀 Juno and the Paycock
殺人! Murder!
エルストリー・コーリング Elstree Calling
1931 スキン・ゲーム The Skin Game
メアリー Mary ※ 殺人!のドイツ版
1932 第十七番 Number Seventeen
リッチ・アンド・ストレンジ Rich and Strange
1933 ウィンナー・ワルツ Waltzes from Vienna
1934 暗殺者の家 The Man Who Knew Too Much
1935 三十九夜 The 39 Steps
1936 間諜最後の日 The Secret Agent
サボタージュ Sabotage
1937 第3逃亡者 Young and Innocent
1938 バルカン超特急 The Lady Vanishes
1939 巌窟の野獣 Jamaica Inn

アメリカ時代[編集]

海外特派員』の一場面
北北西に進路を取れ』予告編の一場面
公開年 邦題 原題 備考
1940 レベッカ Rebecca アカデミー作品賞
海外特派員 Foreign Correspondent
1941 スミス夫妻 Mr. & Mrs. Smith 日本未公開作品 のちにビデオ化
断崖 Suspicion
1942 逃走迷路 Saboteur
1943 疑惑の影 Shadow of a Doubt
救命艇 Lifeboat
1944 闇の逃避行 Bon Voyage ※ 英国政府製作のフランス向け国策映画 26分
マダガスカルの冒険 Aventure Malgache ※ 上記同様 30分
1945 白い恐怖 Spellbound
1946 汚名 Notorious
1947 パラダイン夫人の恋 The Paradine Case
1948 ロープ Rope
1949 山羊座のもとに Under Capricorn
1950 舞台恐怖症 Stage Fright
1951 見知らぬ乗客 Strangers on a Train
1953 私は告白する I Confess
1954 ダイヤルMを廻せ! Dial M for Murder
裏窓 Rear Window
1955 泥棒成金 To Catch a Thief
ハリーの災難 The Trouble with Harry
1956 知りすぎていた男 The Man Who Knew Too Much
間違えられた男 The Wrong Man
1958 めまい Vertigo
1959 北北西に進路を取れ North by Northwest
1960 サイコ Psycho
1963 The Birds
1964 マーニー Marnie
1966 引き裂かれたカーテン Torn Curtain
1969 トパーズ Topaz
1972 フレンジー Frenzy
1976 ファミリー・プロット Family Plot

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

受賞
1968年 アービング・G・タルバーグ賞
ノミネート
1941年 アカデミー監督賞:『レベッカ
1945年 アカデミー監督賞:『救命艇
1946年 アカデミー監督賞:『白い恐怖
1955年 アカデミー監督賞:『裏窓
1961年 アカデミー監督賞:『サイコ

ニューヨーク批評家協会賞[編集]

受賞
1938年 監督賞:『バルカン超特急

ゴールデングローブ賞[編集]

受賞
1970年 セシル・B・デミル賞(功労賞)
ノミネート
1973年 監督賞:『フレンジー

テレビ番組[編集]

  • 1955年から1962年にアメリカでテレビサスペンス番組『ヒッチコック劇場』(原題:Alfred Hitchcock Presents)を総監修。自身も数エピソードを監督している。なお本作品を放送した際、自ら進行役を買って出て、番組内の冒頭と終わりにユーモアを交えて解説を行った(ヒッチコックの日本語吹き替えは熊倉一雄が担当)。このシリーズは30分番組だったが、好評につき1962年から1965年まで放送された後続番組『The Alfred Hitchcock Hour』は放送枠が1時間に拡大された(日本での邦題は『ヒッチコック・アワー』『ヒッチコック・サスペンス』『新ヒッチコック・シリーズ』など)。1985年には、オリジナル番組を新スタッフが忠実にリメイクした『Alfred Hitchcock Presents』(日本での邦題は『ヒッチコック劇場’86』『新・ヒッチコック劇場』)が制作されたが、この解説部分はオリジナル版の映像をカラーグラフィック処理したものが放送された(日本では1985年-1987年にテレビ東京で放映。ヒッチコックの吹き替えをオリジナル同様に熊倉一雄が行った)。

監督賞ノミネート5回[編集]

アカデミーに再三ノミネートされたが、当時のハリウッドではサスペンス物は格下に見られ、また、自身がアメリカ人でなかったことや、ハリウッドに住まずサンフランシスコに居を構え、ハリウッドの映画人との交流が少なかったことなどの理由から、監督賞を逃し続けたという説がある[要出典]

雑誌[編集]

  • 「アルフレッド・ヒッチコック・ミステリ・マガジン」(ALFRED HITCHCOCK'S MYSTERY MAGAZINE 通称:AHMM) 1956年に創刊。ヒッチコックの死後も雑誌は続いて、現在も刊行されており、「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)に続く、現存する世界で2番目に古いミステリ専門雑誌である。
  • 日本版「ヒッチコックマガジン」も、宝石社から1959年から1963年まで、二冊の増刊を含めて全50号が発行された。創刊編集長は小林信彦

著書訳書[編集]

  • 『定本 映画術』 ヒッチコック/トリュフォー共著 (山田宏一蓮實重彦訳、晶文社、1990年)
  • 『ヒッチコック映画自身 リュミエール叢書』 (シドニー・ゴットリーブ編、鈴木圭介訳、筑摩書房、1999年)

伝記文献[編集]

  • 草川隆『小説 ヒッチコック』(秋元文庫、1977年)
  • ドナルド・スポトー 『ヒッチコック 映画と生涯(上下)』、勝矢桂子ほか訳、山田宏一解説、(早川書房、1988年)
  • ドナルド・スポトー 『アート・オブ・ヒッチコック 53本の映画術』 関美冬訳、 (キネマ旬報社、1994年)
  • 『ヒッチコックに進路を取れ』 山田宏一・和田誠(装丁も)共著、(草思社、2009年)
  • 『アルフレッド・ヒッチコックを楽しむ スリラーの神様』 〈スクリーン・デラックス〉近代映画社、2006年

ヒッチコックを扱った映像作品[編集]

ドキュメント アルフレッド・ヒッチコック〜天才監督の横顔(1999年)
原題:Hitchcock: Shadow of a Geniusアメリカ合衆国のテレビ映画)
NHK衛星放送では『ヒッチコック・天才監督の横顔』の邦題で放送された[1]
ドゥー・ユー・ライク・ヒッチコック?(2005年)
原題:Ti piace Hitchcock?イタリアスペイン合作のテレビ映画、日本劇場未公開でDVDスルー
ヒッチコックの『裏窓』『見知らぬ乗客』を基にしたホラー映画。
ザ・ガール ヒッチコックに囚われた女(2012年)
原題:The Girlアメリカイギリス南アフリカ合作のテレビ映画、日本劇場未公開でWOWOWなどで放送)
ヒッチコックによる女優ティッピ・ヘドレン(『』『マーニー』に主演)に対するセクハラを描いたドナルド・スポト英語版の書籍『Spellbound by Beauty: Alfred Hitchcock and His Leading Ladies』を原作とした伝記映画。ヒッチコックを演じるのはトビー・ジョーンズ
ヒッチコック(2012年)
原題:Hitchcockアメリカ合衆国の映画
サイコ』(1960年)の製作舞台裏を描いた、スティーヴン・レベロ英語版ノンフィクション本『アルフレッド・ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ英語版』を原作とした伝記映画。ヒッチコックを演じるのはアンソニー・ホプキンス

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]