ジェーン・フォンダ

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ジェーン・フォンダ(2005年・著書のサイン会にて)
ジェーン・フォンダ(2005年・著書のサイン会にて)

ジェーン・フォンダJane Fonda, 本名Jayne Seymour Fonda,1937年12月21日 - )は、アメリカニューヨーク市出身の女優

父のヘンリー・フォンダ、弟のピーター・フォンダも俳優で、姪のブリジット・フォンダも女優である。ヴァッサー大学で絵画を学び、パリに滞在したこともある。

目次

[編集] 経歴

[編集] 芸歴

劇団を通じた舞台での活動、雑誌の写真モデルなどを経験後、1960年に『のっぽ物語』で映画デビュー。これまで7度のアカデミー賞候補にあがっており、『コールガール』(1971年)と『帰郷』(1978年)で2度主演女優賞を受賞している。

1982年エアロビクスビデオ『Jane Fonda Workout』を発表し、全世界でヒットした。2005年に、ジェニファー・ロペスと共演した『ウェディング宣言』で15年ぶりの女優復帰を果たした。2007年にはリンジー・ローハンと共演する『Georgia Rule』の公開が控えている。

[編集] 「売国奴」

ベトナム戦争反対運動に積極的に関わったことで「Hanoi Jane」と呼ばれ非国民扱いされた。ベトナム戦争末期の1972年に「アメリカ軍兵士のための反戦運動」として北ベトナムを訪れた際には、飛来したアメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍ヘルメットをかぶりポーズをとった。後にこの時の写真は世界中に配信され、フォンダは「祖国への裏切り行為で判断の誤りだった」と釈明したものの、この後長年に渡りベトナムに派兵された兵士や帰還兵、その家族を中心に大きな批判を浴び続けた。2005年4月には自叙伝のサイン会でその退役軍人から唾を吐きつけられる事件も起こっている。

[編集] 私生活

私生活では、1965年には映画監督ロジェ・ヴァディムと結婚したが1973年に離婚。直後にトム・ヘイドン(反戦運動家)と再婚するが、1989年に離婚。1991年Cable News Networkテレビの創設者テッド・ターナーと三度目の結婚。これも2001年に離婚を迎えた。

[編集] 父親との確執

幼い頃、実母が、父ヘンリーの浮気を苦にして自殺した[要出典]と知って以来、父とは親子関係が断絶してしまった。父はその後も別の女性との再婚・離婚を繰り返した。ことごとくヘンリーに背き[要出典]、ヴァディムとの結婚も、父に知らせないままだった[要出典]。和解したのは、フランスから帰国してからだという[要出典]。「フランス行きが、私を自立させたのです。私は、父を克服しました。」とのちに語っている[要出典]

アカデミー賞と無縁だったヘンリー・フォンダが、アカデミー特別功労賞を受賞したとき、「私の人生の一番のハイライトです。」と語ったものの、本当の胸の内は、現役俳優として主演男優賞が欲しいと願っていた[要出典]ことを、ジェーンは知っていた[要出典]。ブロードウェイで人気を博したヒューマンな家庭劇の佳作「On Golden Pond」の映画化権をジェーンは買い取り、主人公をヘンリー、主人公の妻役をキャサリン・ヘプバーンで撮影に入った。夫婦愛と親子の和解がテーマであるこの作品で、ジェーンは主人公の娘役で出演。「黄昏」は完成し、アカデミー賞で主演男優・主演女優両賞を制覇。授賞式に、長年の心臓疾患が悪化して寝たきりとなっていたヘンリーは出席できず、代わりにジェーンがオスカーを受け取った。「ダッド、あなたの娘であることを誇りに思います。」[要出典]「待っていてね、孫を連れてそちらに行くから。」[要出典]ベルエアの自宅で、ジェーンからオスカーを受け取ったヘンリーは、黙ったまま目から涙をこぼした[要出典]

[編集] 主な出演作品

[編集] 外部リンク

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