スタンリー・キューブリック
| スタンリー・キューブリック Stanley Kubrick |
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1940年代末期の自身による撮影 |
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| 生年月日 | 1928年7月26日 |
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| 没年月日 | 1999年3月7日(満70歳没) |
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| 死没地 | |
| 職業 | 映画監督 |
| 主な作品 | |
| 『ロリータ』 『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』 『時計じかけのオレンジ』 『2001年宇宙の旅』 『フルメタル・ジャケット』 |
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スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick, 1928年7月26日 - 1999年3月7日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン生まれの映画監督。のちにイギリスに移住した。イギリス・ハートフォードシャーの自宅で心臓発作で息を引き取ったとされるが、正式な死因は明らかにされていない。
初期の頃より、監督のみならず映画製作全般にわたり、すべてを掌握する姿勢をとり続けた。「完全主義者」といわれ[誰によって?]、特に晩年は映画製作に時間がかかることでも有名だった。
イギリス英語による発音/'kju:brik/に基づく「キューブリック」のカナ表記が定着しているが、かつては「カブリック」「クーブリック」とも表記されていた。「カブリック」表記についてはキューブリック自身から訂正依頼がイギリスから発せられたといわれる[誰によって?]。各種のインタビューによる限り最もアメリカ英語による発音/'ku:brik/に近い「クーブリック」表記の提唱者は、アーサー・C・クラーク著『失われた2001年宇宙の旅』の訳者あとがきに明記されているように翻訳家の伊藤典夫であり、その意向を受けた月刊『STARLOG』誌(ツルモトルーム版)が、「今日からクーブリックと呼ぼう」というキャンペーンを展開。以後、同誌では「クーブリック」表記を使用する事になったため、SFファンを中心に「クーブリック」表記が広まった経緯がある。
目次 |
[編集] 経歴
開業医を営むオーストリア=ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人[1]の両親の長男としてニューヨークのマンハッタンで生まれる。少年時代にキューブリックの興味を引いたもの中にカメラ、チェス、ジャズがあり、その中のカメラが彼の経歴の出発点となる。ハイスクール時代はIQは平均以上だったが、成績は平均以下だった。
1946年ニューヨーク市立大学シティカレッジに入学するがすぐに中退。一時はジャズバンドのドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を報じる一連の写真が写真雑誌『ルック』誌に売れ、見習いカメラマンとして在籍するようになる。この頃に数多くの映画を観て過ごし、マックス・オフュルス、オーソン・ウェルズ、セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン、チャールズ・チャップリン等から影響を受ける。特に後者二人の影響は大きいが[独自研究?]、キューブリック自身は「どちらかを選ばなければならないとしたら、チャップリンだ」とコメントしている[要出典]。
写真雑誌『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』を製作し、映画の道を歩み始める。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ、この成功をきっかけに『ルック』誌を退社する。親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望』を製作するも、この映画は赤字になる。しかし、映画製作に自信を持ったキューブリックは次回作『非情の罠』を製作する。ただし、この映画も製作費を回収することは出来なかった。
映画監督を目指した理由として「今の奴ら(現役の監督たち)よりは上手く撮れる自信があったからだ」と発言している[要出典]。
26歳の時、同い年のジェームス・B・ハリスと組み、ハリス=キューブリック・プロダクションズを設立。
SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』、『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』の成功で世界の批評家から映像作家としての才能を認知される(正確に言えば、キューブリックはこの三作を『SF三部作』と呼んでいない上に三部作としての資料なども残っていないため、これは第三者の勝手な呼び方と考えられる[独自研究?])。
よく動くカメラ、大画面で深い奥行きの出る広角レンズの使用、『時計じかけのオレンジ』以降のカラー作品では自然光を利用した、あるいは自然光を模した照明も特徴で、自身並みの映画撮影者より遥かに安定した手持ち撮影が出来た。『ロリータ』以降の脚本、編集、選曲のいずれも独特なセンスと切れがあり、自作の公開に関して上映の劇場の地理的状況から上映システムに至るまでコントロールしようと努めている。日本での公開では字幕の翻訳も再英訳を校閲する方法で監修した。
また作品中の恐怖演出として陰影を強く演出した上で、上目遣いで画面を睨み付けるという演技を役者に要求する事が多い。この手法はロジャー・エバートら評論家からは「キューブリックの凝視(Kubrick stare)」と呼ばれ[要出典]、『時計じかけのオレンジ』『フルメタル・ジャケット』『シャイニング』などで使用されている。
12年ぶりの監督作品となった『アイズ・ワイド・シャット』の完成後、公開を待たずに心臓発作で死去。70歳であった。
キューブリックは「『アイズ・ワイド・シャット』は、クルーズとキッドマンが滅茶苦茶にした完全な駄作だ」と、亡くなる2週間前に友人で俳優のリー・アーメイに電話で語っていたとされるが[誰によって?]、一方で「自身の最高傑作である」とも述べている[要出典]。この作品のDVD-Videoはキューブリックの意志で、4:3の画面比率で収録されている。『アイズ・ワイド・シャット』(原作はシュニッツラーの『夢小説』)と同時期から企画を温めていた『A.I.』は2001年にスティーヴン・スピルバーグがキューブリックの残したトリートメントを基に未完成だった脚本を完成、実現された。
キューブリックが最も拘っていた企画が『ナポレオン』で、『2001年宇宙の旅』の次回作として製作も決定していて、脚本も完成し、撮影を残すのみとなっていた。ところが先に公開された『ワーテルロー』が興行的に失敗し、『ナポレオン』の出資者が引き揚げたために製作中止に追い込まれた。他にホロコーストをテーマにした『アーリアン・ペーパーズ』(原作は『五十年間の嘘』)という企画も、脚本の執筆中にスピルバーグの『シンドラーのリスト』が公開され、キューブリックの前作『フルメタル・ジャケット』が『プラトーン』(『フルメタル』の前に公開)と何かと比較され、大ヒットとオスカー受賞のチャンスを逸した経験から、製作中止を決めた。
自身は飛行機の免許を持ち操縦経験もあったが、操縦中に事故を起こしかけた経験と、墜落事故に巻き込まれた知人のカメラマンの焼け焦げたカメラを見て以来、ジェット機の旅行を極度に嫌ったため、プロモーションなどでの来日経験はなく、カンヌなどの映画祭に出席したという記録もない。さらにロケが必要な映画なども、スペインロケの『スパルタカス』やアイルランドロケの『バリー・リンドン』以外はあまり遠くでロケをすることはなく、ベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』のフエのシーンもロンドン近辺の工場跡を使い、輸入してきたヤシを植えて撮影し、ニューヨークが舞台の『アイズ・ワイド・シャット』もその多くを大規模なスタジオ撮影でこなしている。「仕事以外では自宅を一歩も出ない引篭もり人生」というのは多少誇張された表現だが、執筆を依頼した脚本家(殆どは作家を本業にしている)や脚本を読んで欲しい映画会社の重役、デニス・ミューレン、ジェームズ・キャメロンなど視覚効果についてのアドバイスを求めた映画人を、わざわざロンドン郊外の邸宅に招いたのは事実である。
スティーブン・スピルバーグとは特に親交が深く、『A.I.』についての打ち合わせの為にスピルバーグが自家用機で向かい、キューブリック邸のキッチンで話し合った事があり、それ以外は電話かファックスでやり取りをしていた。その度にスピルバーグが支払った電話代は「記録破り」だったという[要出典]。
[編集] 「あの映画には失望した」
アンソニー・マンの解雇で代わりに監督した1960年の『スパルタカス』を、キューブリックは死ぬまで自分の作品と認めず、「あの映画には失望した」とまで言っていた[要出典]。脚本やキャスティングに権限の無い「雇われ監督に徹した」というのが理由であるが、キューブリックが自己の流儀を確立するきっかけが『スパルタカス』であり、映画監督として知名度を上げたカーク・ダグラスの役割についてはあまり注目されていない[独自研究?]。
キューブリックは不満のあったダルトン・トランボの脚本を現場で書き換え、撮影終了後、脚本家クレジットの問題が持ち上がった際、キューブリックが自分の名前を表記するよう主張した。最終的にクレジットはトランボのものとなったが、この作品では、もともとダグラスが各キャストの出演承諾を得るため、トランボの脚本をそれぞれのキャストに都合良く書き換えた版が送付されたとも言われ[誰によって?]、ピーター・ユスティノフも脚本の手直しを行い、またキューブリックも旧知のカルダー・ウィリンガムに戦闘シーンの執筆を依頼している。
一方、元の脚本を書き直されたトランボは製作現場から締め出され、撮影終了後ようやくフィルムを見て修正案を提出、戦闘シーンが撮り直された。本作は自分の作品ではないとするキューブリックの主張も尤もな話である[独自研究?]。
しかし、キューブリックはインタビュー等で一転自らの功績を誇示し、関係者の反感を買った。特に、『突撃』、『スパルタカス』の製作者としてキューブリックに活躍の場を与えたダグラスは、手腕を買っていたのに完成後、自分を貶める発言を繰り返すキューブリックに我慢ならず、自伝に「キューブリックは才能のあるクソッタレだ」と書いて監督手腕は認めつつも、人間性を批判した。
実は、キューブリックの“功績独占”という問題は、『現金に体を張れ』と『突撃』の脚本(実質的な執筆者はジム・トンプスンだがクレジットはキューブリックに、『突撃』でもキューブリックとウィリンガムのものになった)、『2001年宇宙の旅』の視覚効果(多くの先駆的な効果を発案したダグラス・トランブルを含む視覚効果監督3名がアカデミー賞を受賞出来なかった)でも起こっている。
以降、キューブリックはアメリカ映画界と決別してイギリスへ渡り映画製作を続ける事になるが、『スパルタカス』以後は他人の脚本で映画作りをする事は無かった。スタジオ・システムとの軋轢は証言が数々あり、イギリス移住の理由が一般に伝えられる「製作コストが安い」事だけとは考えられない、もっと複雑な事情がある事を伺わせている[独自研究?]。
[編集] 監督作品
- 拳闘試合の日 Day of the Fight (1951年)
- 空飛ぶ牧師 Flying Padre (1951年)
- 海の旅人たち The Seafarers (1952年)
- 恐怖と欲望 Fear and Desire (1953年)
- 非情の罠 Killer's Kiss (1955年)
- 現金に体を張れ The Killing (1956年)
- 突撃 Paths of Glory (1957年)
- スパルタカス Spartacus (1960年)
- ロリータ Lolita (1962年)
- 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb (1964年)
- 2001年宇宙の旅 2001:A Space Odyssey (1968年)
- 時計じかけのオレンジ A Clockwork Orange (1971年)
- バリー・リンドン Barry Lyndon (1975年)
- シャイニング The Shining (1980年)
- フルメタル・ジャケット Full Metal Jacket (1987年)
- アイズ・ワイド・シャット Eyes Wide Shut (1999年)
[編集] 出典
[編集] 外部リンク
- スタンリー・キューブリック - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- Stanley Kubrick: The Master Filmmaker
- Senses of Cinema: Great Directors Critical Database
- Stanley Kubrick biography and credits - Screenonline(英国映画協会)(英語)
- 図書館にあるスタンリー・キューブリックに関係する蔵書一覧 - WorldCatカタログ
- Stanley Kubrick Archive at the London College of Communication
- The Authorized Stanley Kubrick Web Site by Warner Bros.
- The Kubrick Site
- Kubrick Multimedia Film Guide
- Kubrick on Senses of Cinema (In Depth Biography)
- Multi-media Kubrick archive
- The Guardian: Citizen Kubrick
- List of interviews and Look photographs
- List of all the published Look photographs
- The Hechinger Debacle
- Stanley Kubrick Interviews, by Stanley Kubrick, Gene D. Phillips