マーロン・ブランド

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Marlon Brando
マーロン・ブランド
マーロン・ブランド
マーロン・ブランド
本名 マーロン・ブランド・ジュニア
生年月日 1924年4月3日
没年月日 2004年7月1日(満80歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ネブラスカ州オマハ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 俳優
活動期間 1950年 - 2004年
活動内容  映画、舞台
配偶者 アンナ・カシュフィ
(1957年 - 1959年)
モヴィータ・カスタネダ
(1960年 - 1962年)
タリータ・テリピア
(1962年 - 1972年)
主な作品
映画
波止場
欲望という名の電車
ゴッドファーザー

マーロン・ブランドMarlon Brando, 1924年4月3日 - 2004年7月1日)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州生まれの俳優。 演技の世界に革命を起こし、後世に多大なる影響を与えた。その功績から「20世紀最高の俳優」と評されている。

プロフィール[編集]

生い立ち[編集]

ネブラスカ州オマハで化学飼料と駆虫剤の製造業を営んでいた父、マーロン・ブランド(シニア)と地方劇団オマハ・コミュニティ・プレイハウスの創設者の一人であった女優の母、ドロシー・ペネベイカー・ブランド(愛称はドディ)[1][2][3]の間に生まれる。両親はオランダアイルランドドイツイングランドの血を引く[4][5][6] 。他に2人の姉がいる。愛称はバッド。

家庭は中流だったが、両親共に酒癖が非常に悪く、父親は激しい気性の持ち主だった[7]。このため少年だったブランドは次第に情緒不安定になり、反抗的な青春時代を過ごす。幼稚園児の頃から札付きの問題児であり、学校では相当の問題児だったという。小学生の頃は黒人が法の下で人種差別を受けていた当時のアメリカの状況にも関わらず黒人の生徒と仲良くしていたただ1人の白人であったため、白人の教諭から睨まれる。この様な反人種差別的な言動はその後も一生を通じて受け継がれる。その後問題を起こして謹慎処分を受けたが、無視して遊びにいったため退学処分を受ける。

16歳の頃に、反抗的な性格を変えようとした父に強制的に陸軍アカデミー(シャタック陸軍士官学校)に入学させられたが、教官に対しても常に反抗的で演習中に教官に口答えして、謹慎処分になったにも関わらず、無視してフェアボルトダウンタウンに遊びに行ったことが発覚。卒業直前に退学処分にされてしまう。しかし、これはアカデミー側にも問題があり、ブランドの除籍について「あまりにも一方的で極端すぎる処分だ」「公正ではない」と学生全員が憤慨。次第に学生たちの行動はエスカレートを極め、ストライキを開始し教師がブランドの復学を認めさせるまで続いた。

根負けしたアカデミーの校長はブランドに、学業を修了して翌年に卒業するように催促の手紙を送ったが、復学を拒否[8]。その後、クラスメートがブランドに宛てた激励の手紙を自宅の寝室に飾って大事に保存していた。しかし晩年までブランドは、自分には教育が欠けていることを酷く恥じていたという。

デビュー[編集]

1953年、『乱暴者』にて

その後電気工、配管工を経て、俳優志望ではなかったが、姉が2人住んでいたニューヨークに出て俳優の仕事に就く。形態模写が得意なため、俳優志望であった2人の姉の長女であるジョスリン・ブランドの影響と演技修行中であった姉自身から俳優になるように薦められ、ニューヨークのニュー・スクール・ソシアル・リサーチに入学。ステラ・アドラーのもとで演技を学ぶ。1947年、エリア・カザン演出のブロードウェイの舞台『欲望という名の電車』で準主役の粗野でセクシーな亭主を演じて衆目を集める。

1950年、『男たち』(日本未公開)で映画初出演。1951年、同じくカザンが演出した映画『欲望という名の電車』で同じ役を演じて世界的な大スターへ駆け上がる。このとき彼が下着を普段着に着用していたことがうけ、若者の間にTシャツ文化が広まった。

ブランドの演技や服装は演劇においても映画においても、まったく型破りな存在であり、賛否両論を巻き起こした。これまで芝居ではタブーとされていた猫背でぼそぼそとした喋り、急に不機嫌な表情をとったり、はにかんだ笑顔を見せたりと言った芝居を始めたのはブランドである。ポール・ニューマンジェームズ・ディーンエルヴィス・プレスリーらの演技に多大な影響を与える。

トップスターへ[編集]

乱暴者』(1953年)で反抗的な若者を演じ、新しいタイプのスターとして注目を浴びる。イギリスなどでは、この映画は反社会的とされ上映が禁止されたが、ブランドの革ジャンとジーンズでモーターサイクルにまたがる写真を見た世界中の若者が、そのスタイルを真似るようになる。そんな若者の中にエルヴィス・プレスリービートルズなど、後に有名になるミュージシャンもいた。

1954年に、カザンの『波止場』で港湾労働者を演じ、アカデミー賞主演男優賞を獲得した。アカデミー賞の受賞により名実共にトップスターになる。翌年、育ての親ともいえるカザンの大作『エデンの東』の主役のオファーを蹴った。これはカザンが、当時アメリカを吹き荒れていた赤狩りの追及に負けて同じような容共的な仲間をジョセフ・マッカーシー率いる非米活動委員会に告発したことに対して憤慨していたからという。この映画でジェームス・ディーンがスターになった。

没落[編集]

ハリウッドに入った頃から、自分が気に入った脚本を厳選して、一級の作品にしか出ないことで知られていたが、父の投資の失敗の穴埋めのために現金が必要となったことから、1960年代に入ると内容がないB級作品にも多数出演するようになった。さらに様々なトラブルを起こしていたことから映画会社や監督らから嫌われ、俳優としての評価もギャラも下がっていった。

1967年フランス植民地であるタヒチ諸島のテティアロア環礁を所有してからは、役者稼業を「島の環境維持の資金稼ぎ」と割り切るようになる。同年、コメディ色が強いチャールズ・チャップリンの映画『伯爵夫人』に主演で契約。チャップリンが自宅へ招き、自ら実技指導をしてくれるが本人は居眠りをし、撮影中もチャップリンと口論となり映画も失敗に終わる。共演者のソフィア・ローレンからも「彼はコメディに不向き」と評される。ちなみにブランドによるローレン評は「彼女は口が臭かった」[要出典]

復活[編集]

しかし、すでに「過去の人」とハリウッドで思われていた1972年に出演した『ラストタンゴ・イン・パリ』と『ゴッドファーザー』で再び第一線に復活し、トップスターとしての名声を再び得る。ゴッドファーザーの老け役でアカデミー主演男優賞に選ばれ(ただし「アメリカ映画界の人種差別への抗議」を理由に受賞拒否)、以降は個性が一変する。

1974年の『ゴッドファーザーPARTII』にオファーされるが、前作出演時はオーディションを受けた上[9]、屈辱的な契約であったことを忘れていなかったブランドは巨額のギャラを要求。そのため折り合わずブランドの出演を断念した製作者は脚本を大幅に書き直させた。

1975年の『ミズーリ・ブレイク』からは少ない出番で莫大なギャラと収益の一部を得る事がブランドの出演条件となっていった。『地獄の黙示録』、『D.N.A』、『ブレイブ』などの不気味な役柄など、性格俳優的な一面も見せ始めた。だがハリウッドの重鎮的な存在感で圧倒し、老いてもなお、カリスマ的な言動とベールに包まれた私生活で常に話題となる存在でありつづけた。

自らも出演し1978年に公開された『スーパーマン』の頃は、世界一ギャラの高い俳優としてギネス記録に残る伝説を生み出した。なお、この映画はブランド自身が出演を熱望したものである。ブランドの子供が、『スーパーマン』の愛読者であったため子供が喜ぶであろうと考えた故の行動であった。しかし、スケジュールの都合で撮影による拘束期間はわずか12日間で、ブランドは当時最高額の370万ドルのギャラと収益の11.75%を渡すことを条件に契約。結果、この映画は大ヒットしブランドは冒頭約20分の出演で、1400万ドルという天文学的なギャラを手にした。

晩年[編集]

オーソン・ウェルズエルヴィス・プレスリーエリザベス・テイラー同様、若い頃から強いストレスを受けると過食に走る傾向があったが、後半生に入るとそれに一層拍車が掛かり、120kgを超えた肥満体がブランドのトレードマークになってしまった。晩年でも、2枚の巨大ステーキを平らげることができたという。

1990年代ジョニー・デップとの親交もあり仕事をともにするようになった。晩年はギャラ問題などで「扱いにくい俳優」という評価を受けて、いわゆる大手製作会社による大作への出演はほとんどなくなり、B級作品やインディーズ作品で脇役として出演するなど、名優という地位とは裏腹なギャップを感じさせる活動を続けたが、演技力の衰えは全く無かった。2002年、ナンセンス・ホラーコメディ最狂絶叫計画』の姉妹編で、悪魔祓い役にキャスティングされていた。

マイケル・ジャクソンとはブランドの家族ぐるみで付き合いがあり、互いに助言を求めたりするほどであったという。晩年には、マイケルのミュージックビデオ「ユー・ロック・マイ・ワールド」にも出演している。アマチュア無線家でもあったが、マイクに向かう時はフランス系にした変名「マーチン・ブランドゥー」(Martin Brandeaux)を用い、しかもこの名で免許を受けていた為、交信した相手は誰もブランドであると気づかなかったという。コールサインはKE6PZH。

死去[編集]

遺作となったのは、2001年に公開された『スコア』。遺体は火葬にされ、遺灰はカリフォルニア州のデスヴァレーに撒かれている。

評価[編集]

台詞を憶えてこない[10]、必ずといっていいほど共演者の女性に手を出す、癇癪を起こしてスタッフを困らせるといった筋金入りのトラブルメーカーであった。その扱いにくさから60年代半ばから『ゴッドファーザー』(1972年)に出演するまでの彼は盛りを過ぎた「落ち目の俳優」と見られていた。

しかしながら、その圧倒的な威風、迫力、演技力は高く評価されており『ゴッドファーザー』でドン・ヴィトー・コルレオーネを演じてそれまでのマイナスイメージを払拭、以降確固たる名声を確立した。ブランドはヴィトー役が転機になると確信していたらしく、コッポラが誰を起用しようか検討中の頃(この時ブランドは40歳代後半で、演じるヴィトー役は60歳代でかなりの老け役に挑戦することになるたため)、口内に綿をつめて独特のしゃがれ声を表現し、それをフィルムに撮りコッポラに送り自身が適役だとアピールし、それが功を奏した。ただし台詞を憶えてこないのは変わらず、カンニングペーパーが準備された。

アル・パチーノロバート・デ・ニーロなどからも(アメリカの著名な俳優だけでも、影響を受けたと公言している人物の名は膨大な数に上る)尊敬される、第二次世界大戦後を代表する伝説的な名優であり、戦後のアメリカ若者文化の源流と言うべき存在と言っても過言ではない。

人種差別への対応[編集]

公民権運動[編集]

ワシントン大行進でベラフォンテやヘストンとともに

ブランドは、非白人に対する人種差別がアメリカ国内において合法であり、人種差別が公然と行われていた若い頃より、非白人の恋人や愛人が多かったことで知られており、最初の妻はインド系であった。

人種差別問題と公民権問題には早くから積極的に関わっており、1963年のワシントン大行進にはハリー・ベラフォンテチャールトン・ヘストンら俳優仲間とともに参加した。また、アパルトヘイトを扱った『白く乾いた季節』にはわずか4000ドルのギャラで出演し、ギャラは反アパルトヘイト団体へ寄付した。

アカデミー賞受賞拒否[編集]

1972年の『ゴッドファーザー』ではマフィアのドン、ヴィト・コルレオーネを演じアカデミー主演男優賞に選ばれるが、「ハリウッドにおけるインディアンをはじめとした少数民族に対する人種差別への抗議」を理由に受賞を拒否して話題となった。

授賞式の壇上にはインディアンの服装をした「リトル・フェザー」(Sacheen Littlefeather)を登場させ、アメリカの映画作品内における人種差別問題、特にインディアンに対する人種差別問題を提議した[11]。また、このスピーチの間、楽屋では関係者がそれまでの伝統的な西部劇で成功を収めており、それを全否定されたに等しいジョン・ウェインが殴り込みをしないように必死に押さえていたといわれる。[要出典]

それまでアメリカの西部劇映画では、白人俳優の演じる史実に即していない外見・風習をしたインディアンが悪役として登場することが多く、正確ではないインディアンのイメージを広めてきた。しかし上記のアカデミー賞授賞式における抗議行動を境に、アメリカの映画界がステレオタイプなインディアンを映画に登場させることはほぼ無くなり、西部劇の映画製作自体が下火になった。

さらに、インディアンの問題をテーマにしたジョニー・デップ監督作『ブレイブ』には無償で出演した。法外なギャラの一部を自ら設立に関わったAIM(アメリカインディアン運動)の運営資金に充てたこともある(AIM代表の一人だった)オジブワ族デニス・バンクスとは親交が深い。

家庭[編集]

姉のジョスリン・ブランドも俳優。長女のシャイアン・ブランドは、1990年にボーイフレンドを兄(マーロンの長男)のクリスチャン・ブランドに射殺され、その精神的ショックから1995年に25歳の若さで自殺。クリスチャンはこの射殺事件をはじめその後も数々の事件を起し、2008年に肺炎のため49歳で亡くなった[12]

主な作品[編集]

公開年 邦題
原題
役名 備考
1950 男たち
The Men
ケン
1951 欲望という名の電車
A Streetcar Named Desire
スタンリー
1952 革命児サパタ
Viva Zapata!
エミリアーノ・サパタ カンヌ国際映画祭 男優賞 受賞
最優秀外国男優賞 受賞
1953 ジュリアス・シーザー
Julias Caesar
マルクス・アントニウス 最優秀外国男優賞 受賞
1954 乱暴者
The Wild One
ジョニー
波止場
On the Waterfront
テリー アカデミー主演男優賞 受賞
ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門) 受賞
最優秀外国男優賞 受賞
デジレ
Désirée
ナポレオン・ボナパルト
1955 野郎どもと女たち
Guys and Dolls
スカイ・マスターソン
1956 八月十五夜の茶屋
The Teahouse of the August Moon
サキニ
1957 サヨナラ
Sayonara
ロイド
1958 若き獅子たち
The Young Lions
クリスチャン
1959 蛇皮の服を着た男
The Fugitive Kind
ヴァル
1960 片目のジャック
One-Eyed Jacks
リオ 兼監督
1962 戦艦バウンティ
Munity on the Bounty
フレッチャー・クリスチャン
1964 寝室ものがたり
Bedtime Story
フレディ・ベンソン
1965 モリツリ/南太平洋爆破作戦
Morituri
ロバート・クレイン
1966 逃亡地帯
The Chase
カルダー保安官
シェラマドレの決斗
The Appaloosa
マット
1967 伯爵夫人
A Countess from Hong Kong
オグデン・ミアーズ
禁じられた情事の森
Reflections in a Golden Eye
ウェルドン・ペンダーソン
1968 キャンディ
Candy
グリンドル
私は誘拐されたい
The Night of the Following Day
バッド
1969 ケマダの戦い
Burn!
ウィリアム・ウォーカー
1971 妖精たちの森
The Nightcomers
ピーター・クイント
1972 ゴッドファーザー
The Godfather
ドン・ヴィトー・コルレオーネ アカデミー主演男優賞 受賞
ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門) 受賞
ラストタンゴ・イン・パリ
Last Tango in Paris
ポール
1976 ミズーリ・ブレイク
The Missouri Breaks
リー・クレイトン
1978 スーパーマン
Superman
ジョー=エル
1979 地獄の黙示録
Apocalypse Now
ウォルター・E・カーツ大佐
1980 ジェネシスを追え!
The Formula
アダム
1989 白く乾いた季節
A Dry White Season
イアン・マッケンジー
1990 ドン・サバティーニ
The Freshman
カーマイン・サバティーニ
1992 コロンブス
Christopher Columbus: The Discovery
トマス・デ・トルケマダ
1995 ドンファン
Don Juan DeMarco
ジャック・ミックラー
1996 D.N.A./ドクター・モローの島
The Island of Dr. Moreau
ドクター・モロー
1997 ブレイブ
The Brave
マッカーシー
1998 フリーマネー
Free Money
スウィード
2001 スコア
The Score
マックス

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

受賞
1954年 アカデミー主演男優賞:『波止場
1972年 アカデミー主演男優賞:『ゴッドファーザー
ノミネート
1951年 アカデミー主演男優賞:『欲望という名の電車
1952年 アカデミー主演男優賞:『革命児サパタ
1953年 アカデミー主演男優賞:『ジュリアス・シーザー
1957年 アカデミー主演男優賞:『サヨナラ
1973年 アカデミー主演男優賞:『ラストタンゴ・イン・パリ
1989年 アカデミー助演男優賞:『白く渇いた季節

英国アカデミー賞[編集]

受賞
1952年 最優秀外国男優賞:『革命児サパタ
1953年 最優秀外国男優賞:『ジュリアス・シーザー
1954年 最優秀外国男優賞:『波止場
ノミネート
1955年 最優秀外国男優賞:『若き獅子たち
1972年 主演男優賞:『ゴッドファーザー』、『妖精たちの森
1973年 主演男優賞:『ラストタンゴ・イン・パリ
1989年 助演男優賞:『白く渇いた季節

ゴールデングローブ賞[編集]

受賞
1954年 主演男優賞(ドラマ部門):『波止場
1955年 ヘンリエッタ賞
1972年 主演男優賞(ドラマ部門):『ゴッドファーザー
1972年 ヘンリエッタ賞
1973年 ヘンリエッタ賞
ノミネート
1954年 ヘンリエッタ賞
1956年 主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門):『八月十五夜の茶屋
1957年 主演男優賞(ドラマ部門):『サヨナラ
1963年 主演男優賞(ドラマ部門):『侵略
1989年 助演男優賞:『白く渇いた季節

全米映画批評家協会賞[編集]

受賞
1973年 主演男優賞:『ラストタンゴ・イン・パリ

ニューヨーク映画批評家協会賞[編集]

受賞
1953年 主演男優賞:『波止場
1973年 主演男優賞:『ラストタンゴ・イン・パリ

カンヌ国際映画祭[編集]

受賞
1952年 男優賞:『革命児サパタ

出典[編集]

  1. ^ Bain 2004, pp. 65–66.
  2. ^ "Marlon Brando Biography (1924–)." Filmreference.com. Retrieved: June 10, 2012.
  3. ^ 母の知り合いに、俳優のヘンリー・フォンダがおり、彼はよくドディを連れてハリウッドへドライブに行ったとの事であった。またマーロンとジェーン・フォンダは友人関係にあった。
  4. ^ Brando and Lindsey 1994, pp. 32, 34, 43.
  5. ^ "Brando." The New Yorker, Volume 81, Issues 43-46, p. 39.
  6. ^ Bly 1994, p. 11.
  7. ^ 当時は禁酒法の時代だったので、両親は台所で闇ビールを造っていた。
  8. ^ "A biography of Marlon Brando." enotalone.com. Retrieved: June 10, 2012.
  9. ^ ただし、ハリウッドでは大物俳優でも役を射止めるときはオーディションを受けるのはそれほど珍しいことではない。
  10. ^ これは、決して怠慢や失語症、集中力が持続しないというわけではなく、わざと覚えないことでその危機感を演技力の向上に利用するというブランドの信念によるものである。
  11. ^ Sacheen Littlefeather
  12. ^ http://www.afpbb.com/article/entertainment/news-entertainment/2342444/2566786

関連項目[編集]

外部リンク[編集]