マーロン・ブランド
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| Marlon Brando マーロン・ブランド |
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ホワイトハウスにて(1948年) |
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| 本名 | マーロン・ブランド・ジュニア | ||||||||||||||||||
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| 生年月日 | 1924年4月3日 | ||||||||||||||||||
| 没年月日 | 2004年7月1日(満80歳没) | ||||||||||||||||||
| 出生地 | |||||||||||||||||||
| 国籍 | アメリカ合衆国 | ||||||||||||||||||
| 職業 | 俳優 | ||||||||||||||||||
| 活動期間 | 1950年 - 2004年 | ||||||||||||||||||
| 活動内容 | 映画、舞台 | ||||||||||||||||||
| 配偶者 | あり | ||||||||||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||||||||||
| 映画 『波止場』 『欲望という名の電車』 『ゴッドファーザー』 |
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マーロン・ブランド (Marlon Brando, 1924年4月3日 - 2004年7月1日)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州生まれの俳優。[要出典]20世紀最高の俳優として名高い。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] デビュー
ネブラスカ州オマハで化学飼料と駆虫剤の製造業を営んでいた父、マーロン・ブランド(シニア)と地方劇団オマハ・コミュニティ・プレイハウスの創設者の一人であった女優の母、ドロシー・ペンヌベイカー・ブランドの間に生まれる。他に2人の姉がいる。
家庭は中流だったが、両親共に酒癖が非常に悪く、父親は激しい気性の持ち主だった。このため少年だったブランドは次第に情緒不安定になり、反抗的な青春時代を過ごす。幼稚園児の頃から札付きの問題児であり、小学生の頃は黒人が蔑視されていた当時の風潮にも関わらず黒人の生徒と仲良くしていたただ一人の白人であったため、白人の教諭から睨まれる。学校では相当の問題児だったという。謹慎処分を受けたが、無視して遊びにいったため退学処分を受ける。
16歳の頃に、曲がった性根を叩き直すべく父に強制的に陸軍アカデミー(シャタック陸軍士官学校)に入学させられたが、教官に対しても常に反抗的で卒業直前に退学処分にされてしまう。
電気工、配管工を経て、俳優志望ではなかったが、姉が二人住んでいたニューヨークに出て仕事に就く。形態模写が得意なため、俳優志望であった二人の姉の長女であるジョスリン・ブランドの影響と演技修行中であった姉自身から俳優になるように薦められ、ニューヨークのニュー・スクール・ソシアル・リサーチに入学。ステラ・アドラーのもとで演技を学ぶ。1947年、エリア・カザン演出のブロードウェイの舞台「欲望という名の電車」で準主役の粗野でセクシーな亭主を演じて衆目を浴びる。
1950年、『男たち』(日本未公開)で映画初出演。1951年、同じくカザンが演出した映画『欲望という名の電車』で同じ役を演じて世界的な大スターへ駆け上がる。このとき彼が下着を普段着に着用していたことがうけ、若者の間にTシャツ文化が広まった。
ブランドの演技や服装は演劇においても映画においても、まったく型破りな存在であり、賛否両論を巻き起こした。これまで芝居ではタブーとされていた猫背でぼそぼそとした喋り、急に不機嫌な表情をとったり、はにかんだ笑顔を見せたりと言った芝居を始めたのはブランドである。ポール・ニューマン、ジェームズ・ディーンらに多大な影響を与える。
[編集] トップスターへ
『乱暴者』(1953年)で反抗的な若者を演じ、新しいタイプのスターとして注目を浴びる。イギリス等では、この映画は反社会的とされ上映が禁止されたが、ブランドの革ジャンとジーンズでモーターサイクルにまたがる写真を見た若者が、世界中で真似る。
1954年、カザンの『波止場』で港湾労働者を演じ、アカデミー賞主演男優賞を獲得した。名実共にトップスターに。
翌年、育ての親ともいえるカザンの大作『エデンの東』の主役のオファーを蹴った。これはカザンが赤狩りの追及に負けて仲間を売ったことに対して憤慨していたからという。この映画でジェームス・ディーンがスターになった。
[編集] 没落と復活
映画の世界に入った頃より気に入った脚本を厳選して、一級の作品にしか出ないことで知られていたが、父の投資の失敗の穴埋めのために、ひどい作品にも多数出演するようになって、俳優としての評価もギャラも下がっていった。
1967年にタヒチ諸島の環礁テティアロアを所有してからは、役者稼業を島の環境維持の資金稼ぎと割り切るようになる。
過去の人と思われていた1972年に出演した『ラストタンゴ・イン・パリ』と『ゴッドファーザー』で再び第一線に復活し、トップスターとしての名声を再び得る。ゴッドファーザーの老け役でアカデミー主演男優賞に選ばれ(ただし受賞拒否)、以降は個性が一変する。
1974年のゴッドファーザーPARTIIにオファーされるが、前作出演時の屈辱的な契約を忘れていなかったブランドは巨額のギャラを提示。そのため出演を断念した製作者は、ゴッドファーザーPARTIIの脚本を大幅に書き直した。
1975年の『ミズーリ・ブレイク』からは少ない出番で莫大なギャラと収益の一部を得る事がブランドの出演条件となって行った。『地獄の黙示録』、『D.N.A』、『ブレイブ』などの不気味な役柄など、性格俳優的な一面も見せ始めた。だがハリウッドの重鎮的な存在感で圧倒し、老いてもなお、カリスマ的な言動とベールに包まれた私生活で常に話題となる存在でありつづけた。
[編集] 晩年
オーソン・ウェルズ同様、若い頃から強いストレスを受けると過食に走る傾向があったが、後半生に入るとそれに一層拍車が掛かり、120kgを超えた肥満体がブランドのトレードマークになってしまった。晩年でも2枚の巨大ステーキを平らげる事ができたという。
マイケル・ジャクソンとはブランドの家族ぐるみで付き合いがあり、互いに助言を求めたりするほどであったという。 晩年にはマイケルのミュージックビデオにも出演している。
1990年代はジョニー・デップとの親交もあり仕事をともにするようになった。晩年はギャラ問題などで「扱いにくい俳優」という評価を受けて、いわゆる大手製作会社による大作への出演はほとんどなくなり、B級作品やインディーズ作品で脇役として出演するなど、名優という地位とは裏腹なギャップを感じさせる活動を続けたが、演技力の衰えは全く無かった。2002年、ナンセンス・ホラーコメディ『最狂絶叫計画』の姉妹編で悪魔払い役にキャスティングされていた。
アマチュア無線家でもあったが、マイクに向かう時はフランス系にした変名「マーチン・ブランドゥー」(Martin Brandeaux)を用い、しかもこの名で免許を受けていた為、交信した相手は誰もブランドであると気づかなかったという。コールサインはKE6PZH。
[編集] 死去
遺作となったのは、2001年に公開された『スコア』。しかし、死去から2年後の2006年に公開された『スーパーマン リターンズ』でCGながら映画出演を果たしたため、どちらが遺作であるかは意見が分かれている。
[編集] 評価
台詞を憶えてこない、必ずといっていいほど女性に手を出す、癇癪を起こしてスタッフを困らせるといった筋金入りのトラブルメーカーであった。その扱いにくさから60年代半ばから『ゴッドファーザー』(1972年)に出演するまでの彼は「落ち目の俳優」と見られていた。
しかしながら、その圧倒的な威風、迫力、演技力に比肩できる者はまったくおらず、『ゴッドファーザー』でドン・ビトー・コルレオーネを演じてそれまでのマイナスイメージを払拭、以降確固たる名声を確立した(ブランドはビトー役が転機になると確信していたらしく、コッポラが誰を起用しようか検討中の頃、わざわざデモながらも口内に綿をつめて独特のしゃがれ声を表現し、役を熱望したエピソードが残っている)。台詞を憶えてこないのは変わらず、カンニングペーパーが準備された。
今や現代映画界最高の俳優となったアル・パチーノやロバート・デ・ニーロなどからも(アメリカの著名な俳優だけでも、影響を受けたと公言している人物の名は膨大な数に上る)尊敬される、第二次世界大戦後を代表する伝説的な名優である。またエルヴィス・プレスリーやビートルズなど戦後の偉大なミュージシャンに与えた影響も少なくなく、戦後のアメリカ若者文化の源流と言うべき存在と言っても過言ではない。
[編集] 人種差別への対応
[編集] 公民権運動
ブランドは、非白人に対する人種差別がアメリカ国内において合法であり、人種差別が公然と行われていた若い頃より、非白人の恋人や愛人が多かったことで知られており、最初の妻はインド系であった。1956年の『八月十五夜の茶屋』で共演した京マチ子を気に入っていたという。
人種差別問題と公民権問題には早くから積極的に関わっており、1963年のワシントン大行進にハリー・ベラフォンテやチャールトン・ヘストンらと参加したり、アパルトヘイトを扱った『白く乾いた季節』にはわずか4000ドルのギャラで出演した(しかもそれを反アパルトヘイト団体へ寄付)。
[編集] アカデミー賞受賞拒否
さらに、ネイティブアメリカンの問題をテーマにしたジョニー・デップ監督作『ブレイブ』には無償で出演した。法外なギャラの一部を自ら設立に関わったAIM(アメリカインディアン運動)の運営資金に充てた事もある(AIM代表の一人だった)オジブワ族のデニス・バンクスとは親交が深い。
1972年の『ゴッドファーザー』ではマフィアのドン、ヴィト・コルレオーネを演じアカデミー主演男優賞に選ばれるが、「ハリウッドにおける先住民をはじめとした少数民族に対する人種差別への抗議」を理由に受賞を拒否して話題となった。
授賞式の壇上にはネイティヴ・アメリカン“姿”の「リトル・フェザー」と名乗る女性を登場させ、アメリカの映画作品内における人種差別問題、特にネイティブ・アメリカンの対する人種差別問題を提議した。なお、壇上に上った女性は後に、自分はフィリピン国籍の女優でネイティヴ・アメリカンではなく、ブランドに雇われてその振りをしたことを告白している。ちなみにその後、この女優は何者かによって銃で撃たれている。
[編集] 家庭
姉のジョスリン・ブランドも俳優。息子のクリスチャン・ブランドは数々の事件を起し、49歳で悲劇的な死をとげた。また彼の異母兄弟(妹)のシャイアン・ブランドは1990年にボーイフレンドをクリスチャンに射殺され、その精神的ショックから1995年に自殺した。
[編集] 主な作品
- 男たち(1950)
- 欲望という名の電車 A Streetcar Named Desire (1951)
- 革命児サパタ Viva Zapata! (1952)
- ジュリアス・シーザー Julias Caesar (1953)
- 乱暴者 The Wild One (1954)
- 波止場 On the Waterfront (1954)
- 野郎どもと女たち Guys and Dolls (1955)
- 八月十五夜の茶屋 The Teahouse of the August Moon (1956) - 共演:京マチ子
- サヨナラ SAYONARA (1957)
- 蛇皮の服を着た男 The Fugitive Kind (1960)
- 片目のジャック One-Eyed Jacks (1960)
- 戦艦バウンティ Munity on the Bounty (1962)
- 逃亡地帯 The Chase (1966)
- シエラマドレの決闘 The Appaloosa (1966)
- 伯爵夫人 A Countess from Hong Kong (1967)
- 禁じられた情事の森 Reflections in a Golden Eye (1967)
- キャンディ Candy (1968)
- ゲマダの戦い Burn! (1970)
- 妖精たちの森 The Nightcomers (1971)
- ゴッドファーザー The Godfather(1972)
- ラストタンゴ・イン・パリ Ultimo Tango a Parige(1972)
- ミズーリ・ブレイク The Missouri Breaks (1976)
- スーパーマン Superman (1978)
- 地獄の黙示録 Apocalypse Now(1979)
- ジェネシスを追え! The Formula (1984)
- 白く乾いた季節 A Dry White Season (1989)
- ドン・サバティーニ The Freshman (1990)
- コロンブス Christopher Columbus: The Discovery (1992)
- ドンファン Don Juan Demarco (1995)
- D.N.A. The Island of Dr. Moreau (1996)
- ブレイブ The Brave (1997)
- フリーマネー Free Money (1998)
- ビートニク - The Source (1999)
- スコア The Score (2001)
- スーパーマン リターンズ Superman Returns (2006年/アーカイブ映像)
[編集] 吹替え声優
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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