リンゴ・スター

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リンゴ・スター
Ringo Starr
Ringo.jpg
基本情報
出生名 リチャード・スターキー
別名 リンゴ
出生 1940年7月7日(69歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド マージーサイド州リヴァプール
ジャンル ロック
職業 ドラマーシンガー・ソング・ライター
担当楽器 ドラムス
活動期間 1962年-現在
レーベル EMI
事務所 アップル・コア
共同作業者 ビートルズ
公式サイト www.ringostarr.com
著名使用楽器
ラディック・オイスター・ブラック・パール・セット
  

リンゴ・スターRingo Starr)(本名Richard Starkey, MBEリチャード・スターキー MBE1940年7月7日 - )は、イングランドマージーサイド州リヴァプール出身のミュージシャン、元ビートルズドラマー歌手。主な代表曲に「思い出のフォトグラフ」、「明日への願い」などがある。息子のザック・スターキーも、オアシスザ・フーのサポート・ドラマーである。妻は、映画『007 私を愛したスパイ』で、ボンドガール役を演じたことで有名な、女優のバーバラ・バック左利きだが、ペンは右手、楽器も右利き用を使用する(ボールを投げたりするのは左手)。

リンゴ・スターモデルのドラムスティックなどには「Ringo ☆」と書かれている。星のStarとステージネームのStarrをかけたものである。

目次

[編集] 経歴

[編集] 誕生からビートルズ解散に至るまで

リンゴ・スターことリチャード・スターキーは、1940年7月7日、リヴァプールに生まれた。3歳の時に両親は離婚し母子家庭という環境で育ち、父との思い出と呼ばれるものは何もないとリンゴは言う。


「『大戦はあなたが生まれたから起きたのよ』なんて冗談をよく言っていた」「僕を育てる為に一人で色々な仕事をしていたよ」と、ビデオ『ビートルズ・アンソロジー1』で、リンゴは自らの母親について語っている。

13歳の時、母エルシーがハリー・グレイブスと再婚。他のメンバー同様に不良少年だったが、病弱であったために長い期間に渡って入院生活を送ることもあった。(小学校の時盲腸炎で入院。こじらせて腹膜炎を併発し、児童病院で手術をうけ、回復は早かったものの、隣のベッドの少年にバースデーカードを見せようとして、ベッドから転落。結局1年以上病院で過ごすこととなった。というエピソードがある。) 入退院を繰り返し、ほとんど学校にも行く事ができなかった。

元々は、ビートルズのドラマーではなく、『ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ』というバンドのドラマーを務めていて、ビートルズがレコードデビューする直前の1962年8月、当時ビートルズのドラマーだったピート・ベストと交代する形で、グループに加入した。

家庭環境も相俟って、若い時分から職を転々としていたが、プロのドラマーになってからは、安定した収入を得られるようになった。リンゴは、ビートルズ加入前に、ビートルズの面々とハンブルク巡業時に顔見知りになったが、ジョージ・ハリスンは「出逢ったころのリンゴは僕らよりも収入が多くて、僕らよりも早く車を買って乗り回していた」と言う。ちなみにリンゴは、ビートルズ加入前に、ピート・ベストの病欠時の代役として、1962年に数回程度ながらビートルズのステージでドラムを叩いたことがある(「ビートルズ・アンソロジー」でのジョージ・ハリスンのインタビューより)。ジョージは「リンゴと共演する度に、これだ!このドラムだ!と常々感じていたよね」とも語っていた。

ステージネームの“リンゴ・スター”とは、ハリケーンズ時代に、それぞれがステージネームを考えた時につけられたもの。指輪が好きで、複数はめていたので、“Rings(リングス)”と呼ばれていたことが元で、付けられた。

リンゴ曰く「Ringo Starkeyでいくつもりだったけれど、しっくりこなかったのでStarkeyを半分にしてrをもうひとつ付けた。」

1965年2月に、モーリン・コックスと結婚、同年9月13日に長男ザック(後にザ・フーオアシスのサポート・ドラマーとして活躍)誕生。同年、MBE勲章を授与される。

ビートルズが、1970年以前に公式発表した楽曲(一般に213曲とされる)のうち、コンポーザーとしてのスター(=リチャード・スターキー)の氏名がクレジットされているものは5曲(「ドント・パス・ミー・バイ」「オクトパス・ガーデン」「フライング」「ディグ・イット」「消えた恋」)あり、そのうち、彼が単独で作ったものは2曲(ドント・・・、オクトパス・・・)である。また、彼がリード・ヴォーカルを担当している曲は、十数曲存在する(「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」「イエロー・サブマリン」「オクトパス・ガーデン」その他)。また、「僕は皆と友達」「僕の曲はアルバムに最低でも1曲入っていればOK」「人気投票では、全然3人に敵わないけど、2番目に好きなメンバーを選ぶ投票だったら、1番になれるよ」などといった発言から窺えるようにビートルズのメンバーの中で最も穏やか、かつ人格者であった。ジョン・レノンは、ビートルズ解散後、ポールやジョージに対して辛辣な発言を投げかけたことがあったが、リンゴにだけは一度も暴言を吐かなかった(ジョンは、生前のインタビューにおいて「リンゴはビートルズに入っていなくても必ずスターになっていたと思うよ」と発言し、リンゴの人柄を称えていた)。

ただし、リンゴは一度非公式にビートルズを脱退している。当事者サイドの見解によると、1968年のアルバム「ザ・ビートルズ」(ホワイト・アルバム)をレコーディング中のこと、自分のスケジュールを常にほかの3人に合わせ、自由な時間もほとんどない状況で、その上、ポール・マッカートニーがリンゴのドラミングにいちいち注文をつけ(1986年に、ポールがインタビューで発言したところによると「バック・イン・ザ・USSR」のレコーディング中での出来事)、挙句の果てに、彼のドラム・プレイを非難したため、温厚なリンゴも、この状況に嫌気がさし、ビートルズ脱退を決意。「(ビートルズを)やめてやる!!」と言い放ち、スタジオを後にした。その後、メンバーが慰留して、ビートルズに復帰した。

[編集] ビートルズ解散後のキャリア

[編集] 1970年代前半

ポール・マッカートニーが、グループ脱退を表明する直前の1970年3月に、スタンダード・ナンバーを集めた初の単独作品『センチメンタル・ジャーニー』を発売した。これを機に、スターはソロ・ミュージシャンとしての活動を始動する。同年12月には、2枚目のアルバム『カントリー・アルバム』をリリース。シングルでは、共に自作曲の「明日への願い[1]や「バック・オフ・ブーガルー[2]などのヒット曲を生みだした。

更に、1973年にはジョージ・ハリスンの作曲による「想い出のフォトグラフ」が、翌74年には「ユア・シックスティーン」が、それぞれ全米チャートでNO.1を記録。1970年代前半のスターは、元ビートルズのメンバーとして最もコンスタントにヒット・シングルを連発した。

この時期、アルバムでも成功を収め、1973年発表の『リンゴ』は、全米2位を記録した。『リンゴ』には、ビートルズ解散以降初めて、4人のメンバーが1枚のレコードの中で名を連ねた(各メンバーが楽曲提供と演奏で参加)。1975年に発表された『グッドナイト・ウィーン』には、ジョン・レノンエルトン・ジョンニルソンなど豪華な作家陣が楽曲を提供、レコーディングにも参加し、全米8位を記録した。

ハリスンが企画して行われた、1971年の『バングラデシュ難民救済コンサート』への出演も含め、1970年代前半のスターは、あらゆる活動において大成功を収めた。

[編集] 1970年代後半~1980年代

しかし、1976年に古巣EMI/アップルを離れ、アトランティック・レコードに移籍した頃から、好調だったソロ活動に翳りが見え始める。当時スターは、自らのレーベル、リング・オー・レコードを設立。作品のプロデューサーにアリフ・マーディン、作曲家にヴィンセント・ポンシア・ジュニアなどを迎え、極めてファンキーなサウンド作りに徹していた。しかし、そういった路線を、より具体的に打ち出した1977年のアルバム『ウイングズ~リンゴⅣ』は、ビルボードのアルバムチャートで100位圏外という結果に終わってしまう。この作品の売上不振を原因に、彼はアトランティックから契約を打ち切られている。プライベートでも腸の病気を患って、一時危篤状態に陥ったり、ロサンゼルスにある自宅が火事で全焼したり、と、1970年代後半はスターにとって多難な時期となった。そんな中、彼は自らが主演を務める映画『おかしなおかしな石器人』の中で共演した女優のバーバラ・バックと恋に落ち、1981年に再婚(前の妻のモーリーン・スターキーとは1976年に離婚している)。だが、その前年の1980年暮れ、ニューヨークで、レノンが精神疾患者に射殺されるという衝撃的な事件も起こった。この事件が起こった直後、夫妻は急遽ニューヨークのオノ・ヨーコのもとに向かい、彼の死を悼んだという。その後、1984年より、イギリスでテレビ放送が開始されたテレビアニメーション「きかんしゃトーマス」のナレーターに抜擢され、以後、2シリーズに渡ってナレーションを務めた。更に、米国で90年代に放映されていた「きかんしゃトーマス」の親番組『Shining Time Station』では、駅長の役柄で出演した。

本業では、1980年代に2枚のオリジナルアルバムをリリースするが、シングル・カットされて全米トップ40ヒットとなった「ラック・マイ・ブレイン」[3]以外は全て失敗に終わっている。ジョー・ウォルシュをプロデューサーに迎えて制作された1983年発表の『オールド・ウェイブ』に至っては、本国やアメリカではリリースさえされなかった。1980年代の彼は、私生活でもとても退廃的な体たらくだったようで、マッカートニーやハリスンのアルバムや、チャリティ・コンサートなどでドラムを叩く活動が中心だった。1980年代後半は、アルコール依存症にも悩まされていた。

[編集] 近年

そんな彼も、1989年アルコール依存症患者更生施設での治療を経て復活。ブルース・スプリングスティーンのバックバンドであるEストリート・バンドや、イーグルスの元メンバーなどを集めた、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドというスーパーバンドを結成し、ビートルズ解散後初の本格的なワールド・ツアーに出る。その年の秋には、来日公演も実現した。ビートルズのメンバーがライブを目的として日本に来たのは実に23年ぶりのことであった(翌年にはマッカートニー、その更に次の年にはハリスンも来日公演を行っている。元ビートルズが3年連続で来日した事は、日本のロック・ファンを大いに沸き立たせた)。1992年に、久々のアルバム『タイム・テイクス・タイム』を発表してからは、その活動はますます精力的なものとなり、1995年にはオールスター・バンドを従えて再び来日した。この際の武道館公演は、『ヴォリューム・ワン』というタイトルのCDとなって、アメリカのブロックバスターという会社から通販限定で発売されている。翌1996年には、日本の宝酒造「タカラCANチューハイ・すりおろしりんご」のCMに出演し、自分の名前を引掛けた「リンゴ、擦ったー?」の台詞と共に大きな話題を呼んだ。このチューハイのCM以前にも、日本の洋服メーカーのレナウンシュウェップス、アメリカのウォッカやピザのCM等に出演している。1998年には、キャロル・キングエアロスミスなどを手掛けたことで知られるマーク・ハドソンを、作曲パートナーと共同プロデューサーに迎えて制作されたオリジナル・アルバム『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』をリリース。マッカートニーやハリスン、ブライアン・ウィルソンアラニス・モリセットなど、相変わらずゴージャスなゲスト陣と共にレコーディングされたこのアルバムは、彼にとって実に22年ぶりとなる全米アルバムチャートのトップ100入りを果たした[4]。その後はハドソンをパートナーとして、精力的に創作活動に臨み、数枚のアルバムを発表している。数年間隔でオール・スター・バンドのツアーもこなし、マイペースながら着実な活動を続けている。2008年10月、自身の公式サイト上で、ファンレターやサインを10月20日以降は拒否すると発表。元来サイン嫌いなリンゴは、「生けるビートルズ」として執拗に送られるサイン要望の郵便や、オークションで度々出品される自分のサインに嫌気が差したとされる。後日、この声明は「e-Bayで売りに出されている途方もない量のアイテム、およびサインを求めて繰り返しカードや物品を送りつけてくる人へのリアクション」であるとコメントしている[5](欧米では、ファンが郵送した色紙にアーティストがサインをして返送する習慣がある)。

[編集] 映画俳優として

彼は、多くの映画に性格俳優として出演するなど、音楽以外の面でも才能を発揮している。ドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』を除くすべてのビートルズの映画作品(『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』、『ヘルプ』、TV映画『マジカル・ミステリー・ツアー』、アニメ『イエロー・サブマリン』)において、リンゴは主役またはストーリーの中心的な存在となっている。ビートルズのフロントマンであるレノンやマッカートニーも、これらの映画作品の中ではリンゴを引き立てる脇役に徹している。他のメンバーと違って、コンポーザーとしての才能に長けていなかったこともあって、ビートルズ後期になると、彼はより映画の仕事に重点を置くようになり、ピーター・セラーズとの共演作『マジック・クリスチャン』や、『キャンディ』などの作品を残した。

映画『おかしなおかしな石器人』での共演をキッカケに出会って結婚した、現在の妻バーバラ・バックも、かつては映画『007 私を愛したスパイ』などに出演していた女優である。1980年代には、ビートルズの他の二人の元メンバーとそれぞれスクリーン上で共演した。1982年には妻と共に、ゴドレイ&クレームが監督を務めた短編映画『ザ・クーラー』に出演し、映画を制作したマッカートニー夫妻と共演した。マッカートニーによる1984年公開の映画『ヤァ!ブロード・ストリート』でも、彼はサントラへの参加のみならず、俳優として演技していた。ハリスンとは1985年公開の映画『レゲエdeゲリラ』で競演。エリック・クラプトンをはじめとする豪華なミュージシャンたちと、そろって演奏するシーンに出演していた。本業の音楽に再び精を出すようになった1980年代後半以降、彼が映画に出演する機会は減りつつある。

[編集] リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドについて

スターは1989年以降現在に至るまで、不定期であるものの、数年間隔のハイペースで、大物ミュージシャンを多数集めた「オール・スター・バンド」を結成し、活発にツアーを行っている。そのメンバーは、イーグルスのジョー・ウォルシュとティモシー・B・シュミットEストリート・バンドのクラレンス・クラモンズやニルス・ロフグレン、リチャード・マークストッド・ラングレンビリー・プレストンシーラ・Eなど、まさに豪華絢爛なもので、ツアーが行われる度に顔ぶれは流動的に変化している。また、スターの息子で、オアシスザ・フーのサポート・ドラマーのザックも度々参加している。1989年1995年には来日公演が実現し、後者のライブの模様は通販限定で商品化もされた。

歴代のオール・スター・バンドのメンバー編成は次の通り。

[編集] ディスコグラフィ

[編集] シングル

  • Beaucoups Of Blues (1970, US #87)
  • It Don't Come Easy (1971, US #4 /UK #4)
  • Back Off Boogaloo (1972, US #9 /UK #2)
  • Photograph (1973, US #1 /UK #8)
  • You're Sixteen (1973, US #1/UK #4)
  • Oh My My (1974, US #5)
  • Only You (1974, US #6 /UK #28)
  • No No Song / Snookeroo (1975, US #3)
  • It's All Down To Goodnight Vienna / Oo-Wee (1975, #31)
  • A Does Of Rock'n'Roll (1976, #26)
  • Hey Baby (1976, #74)
  • Drowning In The Sea Of Love (1977)
  • Wings (1977)
  • Lipstick Traces (On A Cigarette) (1978)
  • Heart On My Sleeve (1978)
  • Wrack My Brain (1981)
  • Private Property (1982)
  • Weight Of The World (1992, UK #74)
  • La De Da (1998, UK #63)
  • Never Without You (2003)
  • Fading In, Fading Out (2005)
  • Liverpool 8 (2008, UK #98)

[編集] オリジナル・アルバム

[編集] ベスト盤/企画盤

[編集] ライヴ盤/ライヴ・ベスト盤

  • 『リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンド』 - Ringo Starr & His All-Starr Band1990年
  • 『ライブ・フロム・モントルー』 - Ringo Starr & His All-Starr Band Vol.2 -LIVE FROM MONTREUX-1993年
  • Ringo Starr And His All-Stars Band Volume One (日本未発売の通販限定作品、1997年
  • 『ストーリーテラー・ライヴ』 - VH1 Storytellers1998年
  • 『アンソロジー・ソー・ファー』 - The Anthology...So Far2001年
  • King Biscuit Flower Hour Presents Ringo Starr (日本未発売、2003年
  • Extended Versions (日本未発売、2003年)
  • 『ツアー2003』 - Tour 20032004年
  • Ringo Starr and Friends → 上記 King Biscuit Flower Hour Presents Ringo Starr から2曲抜いたもの(日本未発売 2006年
  • Live at Soundstage (日本未発売 2007年
  • Live 2006 (日本未発売 2008年

[編集] 主要な出演映像作品

[編集] 主な使用楽器

  • プレミア・ドラム・キット(Premier Drum Kit)(1台目)
ビートルズデビュー前に購入しデビュー時も使用していた(マホガニーデュロプラスチック)茶色の1台目のドラムセット。
カラーもヘッドの質も音も悪かったとの声もある。
バスドラムのフロント側に装着するヘッドにはPremierロゴの下に“Ringo Starr”と文字を入れていた
またそのヘッドはプレミア(premier)社のエバープレイ(everplay)ヘッドでセット購入時の物である。
バスドラム:20インチ(当時のPremierロゴ入りオリジナルフロントヘッドに“Ringo Starr”の文字を入れたヘッドを装着)
フロアタム:16インチ
タムタム:12インチ
スネアドラム:14インチ
シンバル:セット購入時についていた物でプレミア社の“スーパー・ジン”シンバル(Premier Super Zyn)?
スタンド類:セット購入時についていた物(プレミア製)

このセットは1963年ラディック製ドラムの購入のため(シンバルスタンド2本だけ残して)ドラム・シティ楽器店下取りに出した。

  • ラディック・オイスター・ブラック・パール・セット(Ludwig Oyster Black Pearl Set)(2台目、3台目)
ビートルズ初期から中期にかけて使用した2台目~3台目のドラムセット。
2台目は1963年4月にドラム・シティ楽器店にて購入。その後しばらくして同じサイズの物をもう1台購入。
特に製品としてセットされた組み合わせでは無く、店の在庫を組み合わせたか、
ラディック・スーパー・クラシック(Ludwig Super Classic)とラディック・ダウンビート(Ludwig Downbeat)を組み合わせたオリジナルセットの模様。
あの有名な「THE BEATLES」と書かれたドロップTロゴは、ドラム・シティ楽器店のオーナーのアイヴォー・アービターが考えたアイディアを元に、
同店のドラムヘッドに文字入れを行っている看板職人エディ・ストークスの手で書かれたもので、勿体ない事に同店はライセンスは取っていなかった。しかし、最初からこのロゴを使っていたわけではなく、1963年中ごろまでは筆記体調で昆虫の触覚を模したロゴを使用していた。
ロゴはバスドラムのフロント側に装着するレモ(REMO)社の20インチのウェザー・キング(Weather King)ヘッドに書かれていた。
バスドラム以外のヘッドはラディック(Ludwig)社のウェザー・マスター(Weather Master)ヘッドが付けられていた。
バスドラム:20×14インチ(ドロップTロゴ入りヘッドを装着)
フロアタム:14×14インチ
タムタム:12×8インチ
スネアドラム:14×5インチ ウッド・タイプ
シンバル
スタンド類:セットと一緒に購入した物(ラディック製)当時のセットの写真見るとプレミア製とラディック製のシンバルスタンドを交互に使っている。
  • ラディック・オイスター・ブラック・パール・セット(Ludwig Oyster Black Pearl Set)(4台目、5台目)
ビートルズ中期か後期にかけて使用した4台目~5台目のドラムセット。
4台目のラディック・セットもドラム・シティ楽器店で注文した物でロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで引き渡された。
その後しばらくして同じサイズの物をもう1台購入。
ロゴはバスドラムのフロント側に装着するレモ(REMO)社の22インチのウェザー・キング(Weather King)ヘッドに書かれていた。
バスドラム以外のヘッドはラディック(Ludwig)社のウェザー・マスター(Weather Master)ヘッドが付けられていた。
バスドラム:22×14(ドロップTロゴ入りヘッドを装着)
フロアタム:16×16インチ
タムタム:13×9インチ
スネアドラム:14×5インチ ジャズ・フェスティバル(Jazz Festival)
シンバル
スタンド類:ラディック製
  • ラディック・ハリウッド(Ludwig Hollywood)(6台目)
ビートルズ後期に使用したナチュラルカラーの6台目ドラムセット。タムが2個にシンバルが3枚と各々数的にグレードアップしている。
「ゲット・バック・セッション」ではバスドラムのフロントヘッドは付けずに毛布を入れている。スネアドラム、フロアタムには布が被せられている。
スタジオセッション時にはハイハットタンバリンが装着されていた。
バスドラム:22×14インチ
フロアタム:16×16インチ
タムタム:13×9&12×8インチ
スネアドラム:14×5インチ ジャズ・フェスティバル(Jazz Festival)
シンバル
スタンド類:ラディック製
ビートルズ時代はドラム・シティ楽器店より供給されていた。スティックの材質は不明だが、ドラムスティックとしては一般的なヒッコリー、もしくはオークであろうと推測される。因みに現在ではより硬いメイプル材の物も存在する。
サインが刻印された自身のシグネイチャーモデルのスティックがプロ・マークから発売されている。こちらは材質はヒッコリー
ラヴ・ミー・ドゥ」レコーディングの際には、セッションドラマーにドラムを取られてしまったため、仕方なくタンバリンを叩いている。
映画「ヘルプ!4人はアイドル」で「悲しみはぶっとばせ」でもタンバリンを叩いている他、多数の曲でタンバリンをオーバーダブしている。

演奏時はドラムの椅子をかなり高くしている事が特徴である(特に初期)。初期のビートルズ時代の写真などでは、殆ど立奏に近い姿勢で叩いている所が確認される。その頃はライドシンバルも床とほとんど水平に設置されていた。スティックの握り方はマッチドグリップで、親指の爪が上を向いたフレンチグリップが多いようである。ハイハットを叩く際に右手を激しく揺する奏法をする。

[編集] 脚注

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  1. ^ 1971年、全米4位、Billboard Pop Single
  2. ^ 1972年、全米9位、Billboard Pop Single
  3. ^ 盟友、ジョージ・ハリソンのペンによる。1981年、38位、Billboard Pop Singles
  4. ^ 1998年、全米61位、The Billboard 200
  5. ^ Barksニュース2008年12月28日確認

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク