アフリカ系アメリカ人公民権運動

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公民権運動に大きな影響をもたらした人物。上段左からW・E・B・デュボイスマルコムXマーティン・ルーサー・キングローザ・パークス

アフリカ系アメリカ人公民権運動African-American Civil Rights Movement)とは、1950年代から1960年代にかけてアメリカ黒人アフリカ系アメリカ人)が、公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った大衆運動である。「公民権運動」も狭義には本記事の件を指している[1]

背景[編集]

奴隷制度[編集]

メリーランド州に置かれた黒人奴隷の取引市場
サウスカロライナ州の畑で働く黒人奴隷

1776年イギリス本国(グレートブリテン王国)から独立したアメリカ合衆国では、かつての宗主国であるイギリスや、アイルランドドイツなどのヨーロッパ諸国から移民として渡って来た白人が住民の多数を占め、彼らに奉仕する奴隷としてアフリカ大陸などから強制的に連れてこられていた黒人をはじめとした有色人種への差別が「合法」とされていた。

北アメリカにおける奴隷制度の導入は、1607年にイギリス人がバージニア植民地に初めて入植した直後に始められ、1776年に独立した後もそのまま続いた。奴隷制度のもと、17世紀から19世紀にかけて、およそ1,200万人のアフリカ人がアメリカ大陸に強制的に連れて行かれ[2][3]。このうち、5.4%(645,000人)が現在のアメリカ合衆国に連れて行かれた[4]1860年のアメリカ合衆国の国勢調査では、奴隷人口は400万人に達していた。

黒人奴隷の「解放」[編集]

このように、多くの黒人奴隷がイギリスやフランスなどにより北アメリカへ強制的に連れて行かれた上に、独立後も奴隷制度のもと、黒人をはじめとする有色人種への差別的待遇が、白人により合法的に行われていた。

その後1865年に終結した南北戦争以降に、連邦議会が奴隷制度廃止や公民権の付与、黒人男性への参政権の付与を中心とした3つの憲法修正条項(アメリカ合衆国憲法修正第13条14条15条)を追加したことで、黒人奴隷の「解放」が表向きは実現したことになっていた。

人種差別の合法化[編集]

しかし、1883年の公民権裁判での最高裁の判断は、「アメリカ合衆国で生まれた(または帰化した)すべての者に公民権を与える」とした「修正第14条は私人による差別には当てはまらない」とし、個人や民間企業によって公民権を脅かされた人々を保護しなかった。この判決は、1875年に制定され、公共施設での黒人への人種差別を禁止した公民権法のほとんどを、実質的に無効化した。さらに1890年ルイジアナ州は、黒人と白人で鉄道車両を分離する人種差別法案を可決した。

これに対してルイジアナ州ニューオーリンズの反人種差別団体が「プレッシー対ファーガソン裁判」と呼ばれることになる裁判を起こしたものの、1896年5月18日合衆国最高裁判所は、「分離すれど平等」の主義のもと、「公共施設での黒人分離は人種差別に当たらない」とする、事実上人種差別を容認する判決を下した。

「ジム・クロウ法」[編集]

「有色人種専用待合室(COLORED WAITING ROOM)」と書かれたバス停の看板

この「プレッシー対ファーガソン裁判」の判決を元に、20世紀初頭には、南北戦争にやぶれるまで奴隷制度を合法としていた、ジョージア州アラバマ州ミシシッピ州などの南部諸州で、白人による黒人の「人種分離」が合法的に進められた。さらにこの判決を受けて、南部諸州のみならず国内の全州で、黒人のみならず全ての有色人種に対する制度的な差別が、1964年の公民権法制定までのあいだ「合法」行為として大手をふってまかり通ることとなった。

これらの人種分離法は一般に「ジム・クロウ法」と呼ばれ、アパルトヘイト政策下の南アフリカにおけるのと同様、交通機関や水飲み場、トイレ学校や図書館などの公共機関、さらにホテルレストランバースケート場などにおいても、白人が有色人種すべてを分離することを合法とするものだった。

さらに「ジム・クロウ法」の下では、黒人と白人の結婚を事実上違法とする州法の存在が認められたほか、教育の機会が与えられなかったことから識字率の低い黒人の投票権を事実上制限したり、住宅を制限することも合法とされてきた。

これらの州においては、クー・クラックス・クラン(KKK)などの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや、黒人の営む商店や店舗、住居への放火、さらにこれらの白人至上主義団体と同じような志向を持つ警察による不当逮捕や裁判所などによる冤罪判決などが多発した(アメリカは自治体警察なので、警察長や保安官など責任者の意向が活動方針に強い影響を及ぼす。行き過ぎたと判断された場合はFBIが乗り出す)。

NAACPの奮闘[編集]

参加を呼びかけるNAACPの幹部

1909年2月12日に、社会学者のW・E・B・デュボイスとアイダ・B・ウェルズらの黒人と白人有志によって設立された「アフリカ系アメリカ人委員会」を前身とし、1910年5月にモアフィールド・ストーリを会長に発足した全米黒人地位向上協会(NAACP)は、設立以降これらの深刻な人種差別に立ち向かった。

黒人のみならず白人の活動家もメンバーに迎えたNAACPによる活動は、次第にアメリカ全土にその裾野を広げて行ったものの、短期間のうちには人種差別法を掲げていた南部諸州のみならず、アメリカ国民の多数を占めていた白人の間に深く根付いた黒人やインディアン民族、アジア系などの有色人種に対する人種差別意識、そして人種差別法を改めることはできなかった。しかしNAACPは、その後も地道かつ堅実な運動を通じて、アメリカにおける人種差別解消に対する戦いを続けて行くこととなる。

2つの大戦への貢献と続く差別[編集]

1917年よりアメリカも参戦した第一次世界大戦では、陸軍では黒人のみで編成された「黒人部隊」が編成され、海軍でも多くの黒人兵士が軍隊内の差別の中で下級兵士として参戦し、アメリカとその同盟国の勝利に大きく貢献した。

その一方で、1930年8月にトーマス・シップとエイブラム・スミスのリンチ殺人事件英語版が新聞報道されたことをきっかけに、ユダヤ人教師エイベル・ミーアポル英語版(ペンネームのルイス・アレン名義で有名)は事件をモチーフに『奇妙な果実』を作詞作曲し、ビリー・ホリデイの代表的なレパートリーとしてリンチ殺人事件が世に知られることになった。

自機の下で語らうエース・パイロットのウェンデル・O・プリューイット大尉
朝鮮戦争に参戦する黒人部隊の兵士

その後アメリカが「自由で平等な民主主義の橋頭保」を自称して1941年12月より参戦した第二次世界大戦においても、黒人兵士が戦線で戦う場合は「黒人部隊」としての参戦しかできなかった上に、海軍航空隊および海兵隊航空隊から黒人は排除されていた。さらに黒人が佐官以上の階級に任命されることは殆どなかった。ある陸軍の将官が「黒んぼを通常の軍務に就かせたとたんに、全体のレベルが大幅に低下する」と公言した[5]ように、アメリカ軍内には制度的差別だけでなく、根拠のない差別的感情も蔓延していた。

その上に、第二次世界大戦におけるアメリカの同盟国で、連合国の1国であったものの、「白豪主義」と呼ばれるように伝統的に白人至上主義傾向が根強いオーストラリアは、当初アメリカ軍の黒人兵の自国への上陸を拒否するなど、黒人兵はアメリカ軍内のみならず一部の人種差別的な同盟国からも差別的な待遇を受けることとなった。

この様な状況下にあったものの、第二次世界大戦にアメリカが参戦する直前の1941年8月には、アフリカ系アメリカ人最初の将官として、ベンジャミン・デービス・シニア英語版陸軍准将が任命された[6]ほか、多数の黒人兵が第二次世界大戦に参戦し、ヨーロッパ戦線を中心にドイツイタリアなどの枢軸国軍との戦闘で多数の犠牲を出し、連合国軍の勝利に大きな貢献をした。

大戦後期には、陸軍航空隊で黒人の戦闘機パイロットを中心とした332部隊が登場し、ドイツ空軍との戦いの中でウェンデル・O・プリューイット英語版大尉やロスコー・C・ブラウン英語版大尉、チャールズ・マクギー英語版大尉やリー・アーチャー英語版中尉など、複数のエース・パイロットを生むなど大活躍した。さらに第二次世界大戦終結後には、日本やドイツ、イタリアなどの占領任務にも多くの黒人兵士が参加した。

解消されない差別[編集]

1948年7月28日には、ハリー・トルーマン大統領によってようやく軍隊内での人種「隔離」を禁止するよう命ぜられた[7]ものの、その後の1950年に勃発した朝鮮戦争においても、黒人士官や黒人と白人の混合部隊の実現はなかった[8]

この様に多くの黒人の将兵が、アメリカが参戦した戦争で大きな働きを行い、自国の勝利に貢献したにもかかわらず、アメリカ国内における深刻な人種差別や南部諸州における黒人差別を目的とした人種差別法は、1950年代になっても全く改められる気配はなかった。

公民権運動と事件[編集]

モントゴメリー・バス・ボイコット[編集]

ビル・クリントン大統領と会見するローザ・パークス

この様な状況下で、1955年12月1日にアラバマ州モントゴメリーで、黒人女性のローザ・パークスが公営バスの「白人専用及び優先座席」に座ったことに対して、白人の運転手のジェイムズ・ブレイクが白人客に席を譲るよう命じたが、パークスがこれを拒否したため、「人種分離法」違反で警察官に逮捕され投獄、後にモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される事件が起きた。

この事件に抗議して、マーティン・ルーサー・キング牧師らがモントゴメリー市民に対して、1年にわたるバスボイコットを呼びかける運動を展開した。この呼びかけに対して、黒人のみならず運動の意義に共感する他の有色人種、さらには白人までもがボイコットに参加し、後にこの運動は「モントゴメリー・バス・ボイコット」と呼ばれることとなる。

この運動は全米に大きな反響を呼び、1956年には、合衆国最高裁判所が「バス車内における人種分離(=白人専用及び優先座席)」を違憲とする判決を出すと、アラバマ州をはじめとする南部諸州各地で黒人の反人種差別運動が盛り上がりを見せた。

運動の形態[編集]

ミシシッピ州の映画館の「有色人種専用入口」

これらの反人種差別運動は、アメリカにおいてこれまで「人種分離法」の下で人種分離、および人種差別を受け続けていた黒人をはじめとする有色人種が、アメリカ合衆国市民(公民)として法律上平等な地位を獲得することを目的としていたので、「公民権運動」と呼ばれるようになった。

運動においてはキング牧師らを中心とした黒人の聖職者が著名な指導者となったが、数多くの組織やアメリカインディアン日系アメリカ人などの他の有色人種や白人を含む個人が参加して行われたもので、運動の形態も、訴訟や街頭でのデモから、人種別の席などを設けている施設に対するボイコット、さらに「シット・イン」と呼ばれた、レストランの白人専用席での座り込みに至るまで多岐に渡った。

1960年に始まった「シット・イン」は、その後15都市で5万人が参加する大規模なものとなり、その後、このような非暴力的手段による抗議活動に賛同した一般市民による、有色人種の入場を拒否していたり、人種別の出入り口や人種別の席などを設けている図書館スケート場、プールや海水浴場など対する同様の座り込みやボイコットが広く行われるようになった[9]

「シット・イン」をはじめとする、人種差別とそれを正当化する「人種分離法」への抗議活動の多くは、上記のように非暴力的な手段を用いて行われたものの、これに対して多くの州における警察当局は「治安維持」を理由にデモ隊を過酷に弾圧するなどしたため、これに反発した黒人らによる大規模な暴動に発展することもしばしばであった。しかし、これらの非暴力的な運動に対する弾圧や暴動は内外のマスコミで大きく報じられ、アメリカにおける人種差別の酷さと、それに非暴力的手段を用いることで抵抗の意思を示し、事態を改善しようとする黒人たちの姿を浮かび上がらせた。

リトルロック高校事件[編集]

リトルロック・セントラル高校へ入学する黒人学生を警護する兵士
ワシントン大行進で「I Have a Dream」で知られる演説を行うキング牧師

ローザ・パークス逮捕事件と「モントゴメリー・バス・ボイコット」に先立つ1954年には、公立学校における人種隔離を違憲としたブラウン対教育委員会裁判判決が最高裁において下され、これ以降、全米の学校において長年行われていた人種隔離が廃止されていくこととなった。

しかし、人種差別的な風潮が色濃く残る南部や中西部の各州においては、州政府により人種隔離への対応はまちまちであった。1957年には、ブラウン対教育委員会裁判判決以降も白人しか入学させていなかった、アーカンソー州では州立リトルロック・セントラル高等学校への9人の黒人学生の入学を、再選のための白人票稼ぎを目論んだ白人至上主義者のオーヴァル・フォーバス州知事が拒否し、「白人過激派による襲撃事件が起きるという情報があるので学校を閉鎖する」という理由をつけて州兵を召集し学校を閉鎖し、黒人学生の入学を妨害するという事件が起きた。

公民権運動が全米規模で盛り上がりを見せる中に発生したこの事件に対して、反人種差別運動家だけでなく、白人が多くを占めるアメリカ国内の世論、そして連邦政府も反発を見せた。

ドワイト・D・アイゼンハワー大統領はフォーバス州知事に事態の収拾を図るよう命令したが、この命令が無視されたため、急遽アイゼンハワー大統領はアメリカ陸軍第101空挺師団を派遣し、入学する黒人学生を護衛させた。その後9人の黒人学生は無事に入学したが、白人学生からの執拗ないじめに遭うことになった。しかし8人の学生が卒業を果たした。

ワシントン大行進[編集]

これらの1950年代から1960年代にかけて起こった人種差別を元にした事件と、それに対する世論の反発は公民権運動家を力づけ、公民権運動はキング牧師らの呼びかけに応じて、人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上の参加者を集めた1963年ワシントンD.C.における「ワシントン大行進」で最高潮に達した。

この「ワシントン大行進」には、キング牧師やその理念に賛同するアメリカ国内の各団体のみならず、シドニー・ポワチエマーロン・ブランドハリー・ベラフォンテチャールトン・ヘストンジョセフィン・ベーカーボブ・ディランなどの世界的スターも数多く参加するなど、アメリカ国内のみならず世界各国からの注目を浴びた。

この時、キング牧師がワシントン記念塔広場で行った「I Have a Dream」の演説は、アメリカの歴史に残るものとして有名であるだけでなく、世界各国における人種差別解消運動に大きな影響を与えた。

成果[編集]

公民権法制定[編集]

ホワイトハウスにてキング牧師などの公民権運動のリーダーと話すリンドン・ジョンソン大統領
公民権法に署名するジョンソン大統領。後列中央はキング牧師

1960年に発足した民主党のジョン・F・ケネディ政権は、閣僚他スタッフに有色人種がいない事を批判されながらも公民権運動には比較的リベラルな対応を見せ、南部諸州の人種隔離各法、いわゆる「ジム・クロウ法」を禁止する法案を次々に成立させた。しかしケネディは1963年11月にダラスで凶弾に倒れ(ケネディ大統領暗殺事件)、リンドン・ジョンソン副大統領がその後を継ぐこととなった。

1963年11月に大統領に就任したジョンソン大統領は南部のテキサス州を地盤に持つ「保守派」として知られたものの、大統領就任以前から人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示し公民権法の制定に積極的であった。実際にジョンソンは大統領に就任すると、これまでの上院議員としての長い政治生活、特に院内総務として培われて来た議会への影響力を最大限に働かせ、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、保守(「人種差別主義」という意味での)議員の反対に対して粘り強く議会懐柔策を進めた[10]

ジョンソン大統領による精力的な働きかけの結果、世論の高まりもあり議会も全面的に公民権法の制定に向け動き、1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。

公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由に、キング牧師に対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることになった(受賞は12月10日)。これは史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。キング牧師は「受賞は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。また2013年には、1963年9月にアラバマ州バーミングハムで起きたクー・クラックス・クランの教会爆破により犠牲になった黒人の少女4人に、議会名誉黄金勲章が追贈される事が決まった。事件の経緯はスパイク・リーが「フォー・リトル・ガールズ」で映画化している。

制定後の変化[編集]

その後ジョンソン政権下では積極的に政府が後押しすることで黒人の社会的、経済的地位を向上させるために、役所企業大学に黒人を優先的に(もしくは白人と同数)採用することを義務付けるアファーマティブ・アクション政策が取られた。

1965年からアメリカが本格参入したベトナム戦争では、アメリカの軍隊史上初めて「黒人部隊」が編成されず、黒人が士官として配属され、白人の下級兵士に対して指揮を執ることとなった。

その後の反人種差別運動[編集]

「血の日曜日事件」にてデモ隊を襲う白人警官

しかし、アメリカ国内における白人による有色人種への人種差別感情はその後も収まらず、公民権法制定後の1965年3月5日には、アラバマ州セルマで「血の日曜日事件」と呼ばれる白人警官による黒人を中心とした公民権運動家への流血事件が発生した上、人種差別感情が強い南部を中心に、クー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや暴行、黒人の営む商店や店舗、住居への放火なども継続的に起きていた。

一方、黒人による反人種差別運動の一部勢力は、公民権法制定以降もなくならない人種差別への悲観と、1968年4月4日のキング牧師の暗殺による指導者の不在、そしてベトナム戦争下で混乱する国内情勢の影響を受けて、非暴力主義を貫いたキング牧師が代表する平和的・合法的な反差別運動から、暴力などの非合法的な手段を用いることを否定しない過激な運動(1965年に暗殺されたマルコムXの影響が強いとされる)へと変化していく。

キング牧師の暗殺直後には、全米125の都市でいっせいに暴動が発生した。そのような状況下で、トリニダード・トバゴ生まれのストークリー・カーマイケル率いる急進派の学生非暴力調整委員会(SNCC)や、冷戦下においてアメリカと思想的に敵対していた共産主義の影響を受け、都市部のゲットーにおける自衛闘争の開始を主張したブラックパンサー党、黒人による独立国の樹立を目指した新アフリカ共和国(Republic of New Africa)といった過激派の政党が現れ闘争を継続したが、このような過激な手法、主張が継続的な支持を受けることはなく、1970年代中頃になって運動は沈静化した。

評価[編集]

パウエル国務長官(右)とブッシュ大統領
大統領就任宣誓するオバマ

公民権法の制定から45年以上が経ち、アファーマティブ・アクション政策の導入によって、有色人種に対する社会進出の阻害が是正され、経済界や法曹界のリーダー的存在につくアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種が増加したほか、ポリティカル・コレクトネスの浸透による反人種差別の啓蒙が進んだ。

1984年アメリカ合衆国大統領選挙1988年アメリカ合衆国大統領選挙では、ジェシー・ジャクソンが民主党の大統領候補の指名を得るための予備選挙に立候補し、1984年の選挙時にはウォルター・モンデールゲーリー・ハートに次ぐ3位の得票数を得た他、1989年にはアフリカ系アメリカ人(ジャマイカからの移民の子孫)のコリン・パウエルジョージ・H・W・ブッシュ政権下でアメリカ軍のトップである統合参謀本部議長に就任し、その後2001年ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権下で国務長官に就任した。

さらに同じくアフリカ系の血を引いた(父親がケニア人)バラク・オバマが白人の対立候補に大きな差をつけて2009年1月に大統領に就任するなど、公民権法施行以前に比べて表面的な状況の改善は大きいとされる。

しかし現在も、全米各地で人種差別感情を元にした、白人による黒人をはじめとする有色人種に対する暴力事件や冤罪事件、人種差別的な扱いは数多く起こっており、1990年代に至っても「ロドニー・キング事件」のようなヘイトクライム事件が起きている他、クー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体が南部を中心に各地で活動を続けている。また、2008年に行われた大統領選挙においては、アフリカ系の血を引いたオバマに対して人種差別的発言を行う白人政治家マスコミ関係者が相次いだほか、それ以外の場でも白人政治家や宗教家文化人などによる有色人種への人種差別発言が後を絶たないなど、いまだにアメリカ国内において、アフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種に対する、一部の白人による人種差別や人種差別的感情は根強く残っている。

この様な状況に対して、NAACPなどの反人種差別団体は人種差別の解消に向けて戦い続けることを余儀なくされているが、公民権法の施行により法的側面からの人種差別撤廃を前進させた事は、上記のような表面的な状況の改善をはじめとして、アメリカにおける人種差別撤廃において大きな進歩をもたらしたと国内外から高い評価を受けている。

脚注[編集]

  1. ^ 公民権運動 とは - コトバンク”. 2013年7月2日閲覧。
  2. ^ Ronald Segal (1995). The Black Diaspora: Five Centuries of the Black Experience Outside Africa. New York: Farrar, Straus and Giroux. pp. p. 4. ISBN 0-374-11396-3. "現在、11,863,000人の奴隷が大西洋を越えたと見積もられている。 [Note in original: Paul E. Lovejoy, "The Impact of the Atlantic Slave Trade on Africa: A Review of the Literature," in Journal of African History 30 (1989), p. 368.] ... それは下方修正より上方修正の方が可能性が高いと認められている。" 
  3. ^ Quick guide: The slave trade”. bbc.co.uk (2007年3月15日). 2007年11月23日閲覧。
  4. ^ Stephen D. Behrendt, David Richardson, and David Eltis, W. E. B. Du Bois Institute for African and African-American Research, ハーバード大学. 「アメリカ州に向けた奴隷獲得のための27,233件の航海記録」に基づく。 Stephen Behrendt (1999). “Transatlantic Slave Trade”. Africana: The Encyclopedia of the African and African American Experience. New York: Basic Civitas Books. ISBN 0-465-00071-1. 
  5. ^ ニューズウィーク日本版「ゲイ兵士差別はもういらない」2009年04月22日
  6. ^ U.S. Army center of military history
  7. ^ 『黒人差別とアメリカ公民権運動』P.26 ジェームス・M・バーダーマン著 水谷八也訳 集英社新書 2007年
  8. ^ 「戦争責任とマイノリティ アメリカ黒人の戦争観」岐阜大学 ジョン・G・ラッセル助教授
  9. ^ 『黒人差別とアメリカ公民権運動』P.122 ジェームズ・M・バダーマン著 水谷八也訳 集英社新書 2007年
  10. ^ ウォルター・クロンカイト著、浅野輔訳「クロンカイトの世界」(TBSブリタニカ 1999年)

参考文献[編集]

  • [1]McAdam, Doug. Political Process and the Development of Black Insurgency, 1930-1970, Chicago: University of Chicago Press. 1982

関連項目[編集]

事件[編集]

人物[編集]

組織[編集]

映画[編集]

外部リンク[編集]