赤い夏

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赤い夏
1919年のシカゴ民族暴動において一団の白人暴徒がアフリカ系アメリカ人を探している
場所 アメリカ合衆国、シカゴ
日付 1919年
標的 アフリカ系アメリカ人
犯人 白人暴徒の一団

赤い夏(英語:Red Summer)はアメリカ合衆国の36以上の都市において1919年の夏から初秋におこった人種暴動事件である。多くの場合、白人がアフリカ系アメリカ人を襲った。いくつかの都市では多くの黒人が反撃し、特にシカゴワシントンD.C.アーカンソー州Elaineでは多くの死者を出した。

[1] 暴動は第一次大戦で、軍人の除隊後の戦後の社会不安に引き続いて起きた。白人も黒人も人種間で仕事への就職を争ったのである。 人権活動家であり、著作家であったJames Weldon Johnsonは"赤い夏"という言葉を造語した。彼は1916年より 全米黒人地位向上協会 (NAACP) という団体の地方書記(field secretary)として雇用されたが、その団体の憲章を作り、また改めたりした。 1919年に, 彼は人種暴動にたいし平和的に抗議すべきであると訴えた。[2][3]

事件の背景[編集]

第一次世界大戦の軍隊としてのマンパワーの動員があったことと、ヨーロッパからの移民がなくなり、アメリカ北部と中西部の工業都市は深刻な労働力の減少をきたした。北米の製造者たちは南にむかって人員を募集し、南部からの脱出(英語:Exodus)が始まった。 [4] 1919年までに, 推定 500,000人のアフリカ系アメリカ人が米国南部から北と米国中部の工業都市にアフリカ系アメリカ人の大移動として移動し、それは1940年まで続いた。 [1]彼らはまた悪名高い 私刑,、ジム・クロウ法、から逃れようとしていた。農業が多い米国南部の特権的で貧弱な経済があり、 boll weevilという害虫が木綿を食い荒らしていた。 アフリカ系アメリカ人は鉄道などの成長産業とか、今まで白人が占めていた職業を奪ってきたのである。ある都市では彼らは1917年のストライキでストライキ破りとして雇われたのである。[4] このことは、白人の労働者階級、移民、など最初の世代のアメリカ人たちの憤激を買った。第一次大戦戦後、労働力市場を考慮しない軍人の除隊と、物価価格コントロールがないこと、失業、インフレーションなどは就職競争を増大させた。

最初の1919-1920年の 赤狩りの間、 ロシア革命,に引き続いて、米国において 反ボリシェヴィキ 感情がおき、戦時中の反ドイツ感情を置き換わった。多くの政治家や政府の官僚は、多くのプレスや一般公衆と共に、米国政府を倒して ソビエトの如き、新しい政府を建てるのではないかと危惧した。権威筋はアフリカ系アメリカ人が 民族の平等、労働の権利、警報を伴い大衆を守る権利を主張すると見た。1919年3月、私的な会話において時のウッドロウ・ウィルソン大統領は「アメリカの黒人が外国から帰って ボリシェヴィキ 主義をアメリカにもたらすだろう」と述べた。[5] 他の白人は色々な意見を述べたが、例えばあるものはいつか解決するだろうとし、あるものは、緊張の兆候はないと述べた。[6]

1919年年頭に, George E. Haynes博士は(教育者であり米国労働省に勤務する黒人の経済の指導者)、黒人の軍人が一般生活に帰る事は、北部にせよ、南部にせよ、この国にとって大変微妙な、そして難しい問題となると述べた。[7] 一人の黒人の退役軍人はシカゴディリーニュースに投稿して、黒人は帰国して今や新しい男、世界の男になった。その方向性、指導、正直な使用への可能性と、パワーには制限がない。彼らは指導されるべきであり、導かれるべきである。 彼らは目覚めてしまった。しかしその覚醒は、完全に自覚があるものには達していない。[8]

W・E・B・デュボイス (英語:W. E. B. Du Bois) は、 全米黒人地位向上協会 の官僚でありそ月刊誌の編集長であるが、次のように述べた。 我々は次の様な機会に会っている。戦争が終わり、我々の土地で厳しい地獄の勢力に対抗して戦争をするためには、我々の脳や筋肉を未だ整理していないのである。そして、天の配剤で、我々は臆病でありとんまである。5月に最初の民族間暴動が起こった後、彼はエッセイ、「帰ってきた兵士」を書いた。[9]

"We return from the slavery of uniform which the world's madness demanded us to don to the freedom of civil garb. We stand again to look America squarely in the face and call a spade a spade. We sing: This country of ours, despite all its better souls have done and dreamed, is yet a shameful land.... (我々は、世界の狂気が我々の身にまとわせた軍服のくびきを脱し、市民の衣装の自由へと帰る。我々は再び立ち上がり、アメリカを正面から見据えてはっきり言おう。我々は歌う。我々のこの国は、良き人々の行いと理想にもかかわらず、恥ずべき国なのだ。)

We return. (我々は帰る。)

We return from fighting. (我々は闘いから帰る。)

We return fighting." (我々は闘いながら帰る。)

事件[編集]

暴力に満ちた夏が過ぎ、1919年の秋に、Haynesはその報告をした。それは簡潔に言って、米国上院司法委員会(英語:U.S. United States Senate Committee on the Judiciary)に、広く分布した都市における38件の黒人を襲撃した騒動を報告した。[1]加えるに、1919年1月1日から9月14日までの間、暴徒は少なくとも43人のアフリカ系アメリカ人をリンチし、うち16名の首をつり、他を銃で射殺した。8名は焼殺した。状況は大衆による殺害に関しては干渉したり、起訴力する力はなかった。 [1] 米国の以前の人種騒動とは異なり、1919年の騒動は黒人が白人の攻撃に抵抗した始めてであった。 A. Philip Randolph という人権活動家で Brotherhood of Sleeping Car Portersの指導者は、黒人には自衛権 があると黒人を弁護した。 [2]

暴動[編集]

Will Brown, リンチを受け焼死させらる、オマハ民族暴動[10]
  • 5月10日のサウスカロライナのチャールストン暴動の後に、チャールストン市は 戒厳令を発布した。[1] 米国の海軍の水兵がこの暴動を導いた。黒人の Isaac Doctor, William Brown医師と James Talbot は殺害された。5人の白人18人の黒人は傷害を受けた。海軍の調査団は米国の白人の水兵と一人の白人の市民が、 暴動を始めたことを発見した。

[11]

  • 7月の初旬、テキサス州のロングヴュー(英語:Longview)の暴動においては少なくとも4名が殺害され、その町のアフリカ系アメリカ人の家屋が破壊された。[1]
  • 7月3日にアリゾナ州ビスビー(英語:Bisbee), で1866に創設されたアフリカ系アメリカ人の師団(英語:10th Cavalry Regiment (United States))が攻撃された。[12]
  • ワシントンD.C.では7月、軍隊の服装をした白人等が、一人の黒人がレイプし逮捕されたという噂を聞き、4日間荒れ狂った。彼らは、街にいた黒人をみさかいなく殴り、市外電車から引きずりだし殴った。警察は間に入ることを拒んだが、黒人たちは応戦した。町が集会をさせないように、劇場などを閉鎖 して、兵隊達は治安を回復しようとしたが、夏の激しい雨風がきて、治安の回復はもっと効果的であった。 暴力が終わった時は、15人 即ち、、10人の白人(2人の警察官を含む)と5人の黒人が死んでいた。50人は重傷を負い、他に100名、より軽い怪我を負った。これは白人の死者が黒人の死者より多かった例外例である。 [13]

全米黒人地位向上協会ウィルソン大統領 に抗議の電報を送った。 [14]

合衆国陸軍海軍海兵隊を含む暴徒は無辜の抵抗しない黒人に米国首都において暴力を振った。 軍隊の制服を着た男が街の黒人を襲撃し、市街電車から引きづりだして殴った。大衆は報告している。すべての通行する黒人を襲えと。首府におけるこのような暴動の民族アンタゴニズムへの影響は.憎しみを増加させ、別の地域での暴動の発生を増加させるであろう。 全米黒人地位向上協会 は、米国軍隊の最高司令官としての大統領閣下に大衆の暴力とやめさせ、場合によっては、軍隊の法律を施行するように要求する。[15]

"The National Association for the Advancement of Colored People respectfully enquires how long the Federal Government under your administration intends to tolerate anarchy in the United States?"

—-NAACP telegram to President Woodrow Wilson
August 29, 1919
  • バージニア州のノーフォークでは白人の大衆が第1次大戦のアフリカ系アメリカ人のベテランの歓迎式典を攻撃した。少なくとも6人が撃たれ、地域の警察は米国の海兵隊と海軍軍人を治安を回復するために召集された。 .[1]
  • 7月27日より、その夏の最大の暴力はシカゴで発生、Chicago Race Riotと称する。その都市のミシガン湖畔の岸辺は実際上差別されていた。一人の黒人の若者が習慣的に白人用の泳いでいき、投石され溺れてしまった。シカゴ警察がこの襲撃者へ行動を起こすことを拒否したので、若い黒人達は暴力を振ってしまった。大衆とギャングの暴力戦は13日間続いた。黒人との境に住むアイルランド系の白人に指導されていた。その結果、38人が死亡、うち23人は黒人で15人は白人であった。負傷した人は 537人で、1000人の黒人の家族がホームレスになった。[16]他の記事では、殺されたのが50名とか、もっと数が多いのもある。集団がシカゴに南にある黒人の家や店を数百も壊してしまったので、イリノイ州は治安を回復するために、7連隊もの数百名の市民軍を呼んだ。[1]

7月の終わりに、 Northeastern Federation of National Association of Colored Womenという団体が年次総会で暴動と黒人の家の焼却を非難し、ウィルソン大統領にシカゴの暴動を止めるために全ての権力を使うことと、そういうプロパガンダを使うことを要求した。[17]8月の終わりに、 NAACPは再び先週における、テキサス州オースチンの組織の書記に対する攻撃について言及した。彼らの電報に言う。 "全米黒人地位向上協会は貴内閣の下の政府が如何に長く米国の無政府状態に耐えるつもりであるか、尊敬をもって質問するものであります。 [18]

  • 8月になると, 1919年のノックスヴィルの暴動がテネシー州に発生、それは黒人がある一人の白人を殺した疑いから発生したのであった。その容疑者を求めてリンチをおこなう大衆が郡の刑務所に押し寄せた 。そして16人の白人の殺人容疑者を含む囚人を解放した。[1] 彼らはアフリカ系アメリカ人の商業街を襲い、黒人オウナーを襲い、7名を殺し、20名以上を負傷させた。[19][20][21]
  • 9月の終わりに、1919年のネブラスカ州のオマハで、民族暴動(英文:Omaha Race Riot of 1919)がおきた。 それは一万人以上の南オマハからの白人が襲撃し、郡の裁判所を燃やし、白人女性を犯した黒人を奪おうとした。彼らは100万ドル以上の価値のあるものを破壊した。大衆は被疑者をリンチして、焼却した。彼らは騒ぎを拡大し市の北側にある黒人が住む一帯と店を攻撃した。

市長と知事が助けをもとめると、米国政府は近くの砦から軍隊を派遣し治安を取り戻した。その部隊は Leonard Wood 大将の支配下にあったが、彼は セオドア・ルーズベルト(英語:Theodore Roosevelt)の友人で1920年に共和党から大統領に打って出ようという人物であった。[22]

  • 10月1日に, アーカンソー州のElaineで民族騒動が起こった。これが特徴的であるのは農村部の南部におこったことである。しかし、それは局所的な労働組織に対する抵抗であり、社会主義の恐怖であることは一致していた。黒人の 寄生地主制 の農民ははアメリカの進歩的な農民や所帯の組合と会合を持っていたのである。大農場主は組織するのに反対していたが、 寄生地主制 の農民はトラブルがおきると警告されていた。密造酒製造の黒人を逮捕しようとしていた一人の白人の 見張りをしていたら射殺された。大農場主達は市民軍を作り、アフリカ系アメリカ人を攻撃した。lこの暴動で100人から200人の黒人が殺されたが、5人の白人も死んだ。アーカンソーの知事Charles Hillman Brough は7名による委員会を指名して調査を命じた。この委員会は現地の著名な白人によって成立していた。彼らの結論は、小作人組合は社会主義者の企業で白人を殺すために黒人を団結させる目的で創立されたものである、ということであった。[23]

この報告書は次のような新聞の見出しを作った。「ダラスモーニングニュース紙」では、「アーカンソーで逮捕された黒人は陰謀を告白した。本日に計画された白人大量殺人。」 米政府の調査局は調査員を派遣し1週間の間インタービューを行った。しかし、彼らは小作人には話さなかった。書類を調査した。彼らは小作人の陰謀はまったく根拠がなかったとファイルした。しかし彼らの上司はこの分析を無視した。

地方政府は79名の黒人を裁判にかけた。陪審員はすべて白人であったが、12名は死刑が宣告された。(アーカンソー他、南部の州で当時多くの黒人の公民権(選挙権など)がなかった) 残りの被告は最高21年の有期刑に処せられた。上訴が米国最高裁判所になされ、裁判の誤謬という理由で、判決は覆った。その結果、米国政府の被告の権利にたいする監視は厳しくなった。[24]

年表[編集]

Haynesの報告に準拠した、ニューヨークタイムズの要約に基づく。[1]

Date Place
5月10日 サウスカロライナ州チャールストン
5月10日 ジョージア州シルベスター
5月29日 Putnam County, Georgia
5月31日 Monticello, Mississippi
6月13日 New London, Connecticut
6月13日 テネシー州メンフィス
6月27日 メリーランド州アナポリス
6月13日 Macon, Mississippi
7月3日 Bisbee, Arizona
7月5日 ペンシルベニア州スクラントン
7月6日 ジョージア州ダブリン
7月7日 ペンシルベニア州フィラデルフィア
7月8日 Coatesville, Pennsylvania, Pennsylvania
7月9日 Tuscaloosa, Alabama
7月10日[25] Longview, Texas
7月11日 メリーランド州バルチモア
7月15日 Port Arthur, Texas
Date Place
7月19日 ワシントンD.C.
7月21日 バージニア州ノーフォーク
7月23日 ルイジアナ州ニューオーリンズ
7月23日 Darby, Pennsylvania
7月26日 Hobson City, Alabama
7月27日 イリノイ州シカゴ
7月28日 Newberry, South Carolina
7月31日 Bloomington, Illinois
7月31日 ニューヨーク州シラキューズ
7月31日 ペンシルべニア州フィラデルフィア
8月4日 Hattiesburg, Mississippi
8月6日 Texarkana, Texas
8月21日 ニューヨーク州ニューヨーク市
8月29日 Ocmulgee, Georgia
8月30日 テネシー州ノックスビル
9月28日 ネブラスカ州オマハ
10月1日 Elaine, Arkansas

反応[編集]

"We appeal to you to have your country undertake for its racial minority that which you forced Poland and Austria to undertake for their racial minorities."

—-National Equal Rights League to President Woodrow Wilson
November 25, 1919

1919年9月、Red Summerに反応して「アフリカ血縁ブラザーフッド」(英文: African Blood Brotherhood) という組織が武装せる抵抗運動のために北部の都市に作られた。.米国連邦政府に対する抗議やアッピールが数週間続いた。11月末に国民同権連盟(英語: National Equal Rights League)(黒人人権運動の最古の団体)はウィルソン大統領の国際人権擁護機関にアッピールした。「大統領がポーランド、オーストリアに少数民族たいして取ることを強要したと同じもの少数民族にたいしてとることをアッピールする。」[26]

Haynes 報告[編集]

Dr. George Edmund Haynesの1919年10月の報告は[1]国家的行動をとることである。それはニューヨーク・タイムズや他の主要な新聞に掲載された。 ウッドロウ・ウィルソン大統領が1918年に述べたようにリンチ は国民的な問題である。「1889年から1918年の間、3000人以上がリンチを受けた。2472名は黒人で、50人は黒人の婦人である。Haynesは米国の州はリンチを止めるのができないかやろうとしない。またリンチを行う殺人者を処刑もしなかった。米国北部で白人もリンチを受けた事実はこの問題が全国的な問題であることを示している。殺人がこの国の一部分で行われている、または一部の民族で行われていると考えるのは怠けた考えである。[1] 彼はその年に広がった暴動をリンチを結びつけて考えた。

「りンチをするものを罰しないことは暴徒と化す白人の間に法律がないことと同じである。そして黒人の間に憤慨をかもしだす。こういう状態であると、ほんの少しの事件が騒擾事件の引き金となる。」 「法律や法的プロセスを無視するとより多くの衝突と白人と黒人の間の流血事件をもたらす。米国の多くの都市で、人種戦争を引き起こさないとも限らない。」 「チェックをうけない大衆暴力は憎しみ、無知に導く。そして、民族問題や民族やそのセクションがどう異なるかを、自由に、冷静に討論することを不可能にする。」 [1]

新聞報道[編集]

シカゴの暴動が荒れ狂っていた真夏に連邦政府のある官僚がニューヨーク・タイムズに書いた。暴力は 世界産業労働組合ボリシェヴィキ 主義や他の最悪の極端な運動のアジテーションでおこる。[27]彼は黒人の出版物が左翼のグループと同盟を結ぼうと書いたことへのクレームを支持した。また、ソビエト連邦 を称賛したり、社会主義者のユージン・V・デブスが入獄した勇気を学生のレトリックと評した黒人の出版物に対するクレームにも支持した。タイムズはこれらの出版物を悪意ある明らかに資金や豊かなであると性格付け、極端な社会主義の要素があると述べた。ヘッドラインは「赤が黒人動かし反乱を起こそうとしている」 [27]

その反応として、いくらかの黒人運動のリーダー、例えばChristian Methodist Episcopal ChurchのBishop Charles Henry Phillipsは、黒人にたいし、忍耐と道徳的説得でもって暴を避けよと要請した。フィリップスは暴力を勧めるプロパガンダに反対し、黒人の不正行為の根拠を認めた。「私は暴動において、黒人がボルシェヴエキの影響を受けていたとは信じない。裏切り者とか革命家であれば、政府を破壊するであろう。しかし、暴動が長く存在し恐怖に陥れ、不正に服従せざるを得なかったことは感覚を鋭敏にし、いらいらさせた。[28]

新聞The Gazetteの見出し アーカンソー州、Elaine、1919年10月3日付

黒人とボリシェヴィキ主義の関連については広く何回も論じられた。1919年8月ウォール・ストリート・ジャーナルは民族暴動の発生原因はボリシェヴィキ主義者 黒人、鉄砲と関係あると書いた。 国民治安連盟(英語: National Security League は事件を繰り返し報道した。[29]Haynesの報告を10月に報道しながら, ニューヨーク・タイムズ は彼の報告に述べていないことに言及した。 Haynes は暴力と国の不対応について記録を書いた。

ニューヨーク・タイムズ は流血の事件はローカルの暴動(英語:insurrection, rebellionより規模がちいさい)であり、民族間に憎しみを助長するので、黒人問題がある証拠であると述べた。 [1]最近まで同紙は黒人の指導者は、白人は南北戦争を闘い、その為に黒人に多くの機会を与えたことを評価していると語っていた。[1]いまや好戦的な人は融和主義者のBooker T. Washington に取って替わった。とタイムスは続けて述べている。[1]

毎週、好戦的な指導者は前進をつづけた。それらは大体次のように分類される。一つは過激者であり革命家である。彼らはボルシェヴィキの宣伝をする。彼らは有色人種であり、補充されていると報告されている。黒人の中でも無知があると考えられると、革命のドクトリンへ拡大する危険性を考慮すべきである。他のクラスの好戦的指導者は有色人種への全ての差別への戦いへのアジテイションだけに集中する。彼らは妥協しない抗議、市民権への闘い、完全なる民主主義への特権を得る闘いというプログラムを組んでいる。


好戦性とボリシェヴィキ主義の証拠として タイムスは全米黒人地位向上協会の機関誌The Crisisの編集長 W・E・B・デュボイス が書いているのを引用した。「今日、われわれは自己防衛の素晴らしい武器を取り上げよう。武装したリンチをする人たちが集まれば、武器をもって集まろう。タイムズが、もっと保護すべきであり、正義や黒人に機会を与えることについて、両者で会議しようるというハインズの提案を、その会議は両サイドの法律を守る市民の賛成を得るものと是認した。 その会議とは好戦的な方法に反対している黒人指導者との会議である。[1]

10月中旬、政府筋はアメリカの黒人社会へのボリシェヴィキ主義者の宣伝についてタイムズに資料を提供した。 この資料は赤軍のプロパガンダで、より広いコンテクスト(文脈)で説明する。というのは外国人の労働者の多い米国北部と西部の工業都市でアジティションと平行して行っている。[30] タイムズは新聞、雑誌、いわゆる黒人改善機関が、レーニンとかトロッキーのドクトリンを分布したというものである。[30] 引用は文献からであるが、それは最近のシカゴとかワシントンの暴動とは異なる文言である。 ソ連内では一ダース以上の民族、言語が落ち着いて共通の会合ができるようになり、植民地を圧制したり、リンチでロープをかけることは禁止されていて、平和が確保されている。[30] タイムズは組合を作ろうということを書いている。黒人は木綿労働者組合を作らねばならない。南の白人資本家は白いバーボンを南部に送ることができた。[30]

アーカンソー州Elaineの暴動の記事で、暴力は数日間延長したと書かれた。アーカンソー州 Helena から10月1日のニューヨークタイムズへの記事では 帰ってきた白人の機動隊は多くの物語や噂をもたらしたが、すべてのものは、暴動は白人が黒人にもたらしたプロパガンダによるというものであった。[31] その翌日、追加的にプロパガンディストの黒人の中への活動があり、白人に対しての蜂起のプロットがあったのである。一人の白人が逮捕され、黒人への宣伝活動を行ったということである。そのヘッドラインは: "Trouble Traced to Socialist Agitators.(社会主義者のアジテーターのトラブルが発覚した。[32]数日後、西側のニュースペーパー組合紙は逮捕された黒人という見出しをつけた。[33]

政府の活動[編集]

シカゴの暴動の期間に米国司法省官僚から発行されたプレスレリースでは、世界産業労働組合ボリシェヴィキ主義者 は民族が憎み合うプロパガンダを広めている、であった。 "[34] FBI のファイルの報告によると、左翼的考えが黒人社会に勢力を得つつあるというものであった。一人は 全米黒人地位向上協会は黒人の 平等への主張がに固執していて、必要なら力にたよる主張していると述べた。[29]J. Edgar Hoover は, 政府でのキャリアーのスタートにおいて、暴動を解析して司法長官へ報告した。彼はワシントンの7月の暴動は黒人が多くの白人の女性を凌辱した と非難した。[13]アーカンソーの10月の事件に関しては黒人の集会所で局所的アジテーションがあったと非難した。[13]より一般的な原因は過激な性質のプロパガンダであった。[13] 彼は黒人系の雑誌,例えばMessenger Magazineにおいて、社会主義者がプロパガンダを行っていると非難した。 地方当局は記録をしているのだが、彼は白人の暴力をふるった人については書いていない。 米国司法省の部局長として、フーバーは黒人の活動の調査を始め、マーカス・ガーベイを標的にした。というのは彼は雑誌Negro World は ボリシェヴィキ主義を宣伝していると考えたからである。[13]彼は黒人を雇い、ハーレムの中の黒人組織や新聞社をスパイすることを許可した。[34]

11月17日、米国司法長官 Palmer は米国議会にたいし無政府主義者ボリシェヴィキ主義者が政府に対して脅威になると報告した。 報告の半分以上において、黒人社会での過激主義(英文:radicalism)を記録し 民族的暴力と真夏の暴動において、黒人指導者には公然たる反抗があると述べた。黒人社会の指導者は民族暴動に対しやり方が悪く間違いである、黒人は打たれたら打ち返すというプライドがあった。それは暴力とか脅しに服従するものではない。[35] それは危険な不服従とか復讐が黒人の指導者に働いていたからである。[35]

See also[編集]

文献[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q New York Times: "For Action on Race Riot Peril," October 5, 1919, accessed January 20, 2010. This newspaper article includes several paragraphs of editorial analysis followed by Dr. George E. Haynes' report, "summarized at several points."
  2. ^ a b Alana J. Erickson, "Red Summer" in Encyclopedia of African-American Culture and History (NY: Macmillan, 1960), 2293-4
  3. ^ George P. Cunningham, "James Weldon Johnson," in Encyclopedia of African-American Culture and History (NY: Macmillan, 1960), 1459-61
  4. ^ a b David M. Kennedy, Over Here: The First World War and American Society (NY: Oxford University Press, 2004), 279, 281-2
  5. ^ McWhirter, 56
  6. ^ McWhirter 19, 22-4
  7. ^ McWhirter, 13
  8. ^ McWhirter, 15
  9. ^ McWhirter, 31-2, emphasis in original
  10. ^ Lewis, David Levering, W. E. B. Du Bois: A Biography, 2009, p 383
  11. ^ Walter C. Rucker, James N. Upton. Encyclopedia of American Race Riots. Volume 1. 2007, page 92-3
  12. ^ Rucker, Walter C. and Upton, James N. Encyclopedia of American Race Riots (2007), 554
  13. ^ a b c d e Kenneth D. Ackerman, Young J. Edgar: Hoover, the Red Scare, and the Assault on Civil Liberties (NY: Carroll & Graf, 2007), 60-2
  14. ^ Wolgemuth, Kathleen L. (1959). “Woodrow Wilson and Federal Segregation”. The Journal of Negro History 44 (2): 158–173. doi:10.2307/2716036. ISSN 0022-2992. JSTOR 2716036. 
  15. ^ New York Times: "Protest Sent to Wilson," July 22, 1919. Retrieved January 21, 2010.
  16. ^ Encyclopædia Britannica: "Chicago Race Riot of 1919". Retrieved January 24, 2010.
  17. ^ New York Times: "Negroes Appeal to Wilson,"" August 1, 1919. Retrieved January 21, 2010.
  18. ^ New York Times: Negro Protest to Wilson," August 30, 1919. Retrieved January 21, 2010.
  19. ^ Bruce Wheeler, "Knoxville Riot of 1919," Tennessee Encyclopedia of History and Culture. Retrieved January 25, 2010.
  20. ^ Robert Whitaker, On the Laps of Gods: The Red Summer of 1919 and the Struggle for Justice that Remade a Nation (NY: Random House, 2008), 53
  21. ^ Matthew Lakin, "'A Dark Night': The Knoxville Race Riot of 1919," Journal of East Tennessee History, 72 (2000), pp. 1-29.
  22. ^ David, Pietrusza, 1920: The Year of Six Presidents (NY: Carroll & Graf, 2007), 167-72
  23. ^ Eric M. Freedman, Habeas Corpus: Rethinking the Great Writ of Liberty (New York University Press, 2001), 68
  24. ^ Robert Whitaker, On the Laps of Gods: The Red Summer of 1919 and the Struggle for Justice that Remade a Nation (NY: Random House, 2008), 131-42. Whittaker's work is a detailed account of the Arkansas events, not a general study of the Red Summer.
  25. ^ Robert Whitaker, On the Laps of Gods: The Red Summer of 1919 and the Struggle for Justice that Remade a Nation (New York: Random House, 2008), 51
  26. ^ New York Times: "Ask Wilson to Aid Negroes," November 26, 1919. Retrieved January 21, 2010.
  27. ^ a b New York Times: "Reds Try to Stir Negroes to Revolt," July 28, 1919. Retrieved January 28, 2010.
  28. ^ "Denies Negroes are 'Reds'" New York Times August 3, 1919, accessed January 28, 2010. Phillips was based in Nashville, Tennessee.
  29. ^ a b McWhirter, 160
  30. ^ a b c d New York Times: "Reds are Working among Negroes," October 19, 1919. Retrieved January 28, 2010.
  31. ^ New York Times: "None Killed in Fight with Arkansas Posse," October 2, 1919. Retrieved January 27, 2010.
  32. ^ New York Times: "Six More are Killed in Arkansas Riots," October 3, 1919. Retrieved January 27, 2010.
  33. ^ New York Times: "[untitled]" October 12, 1919. Retrieved January 27, 2010.
  34. ^ a b McWhirter, 159
  35. ^ a b McWhirter, 239-41

Further reading[編集]

  • Dray, Philip, At the Hands of Persons Unknown: The Lynching of Black America (NY: Random House, 2002)
  • McWhirter, Cameron, Red Summer: The Summer of 1919 and the Awakening of Black America (NY: Henry Holt, 2011)
  • Gary Krist (writer)|Krist, Gary City of Scoundrels: The Twelve Days of Disaster That Gave Birth to Modern Chicago. New York, NY: Crown Publisher, 2012. ISBN 978-0-307-45429-4.
  • Tuttle, William M., Jr., Race Riot: Chicago in the Red Summer of 1919 (Urbana: University of Illinois Press, 1996), originally published 1970