黄禍論

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"The Yellow Terror In All His Glory", 1899 editorial cartoon
"Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter"(ヨーロッパの各民族よ、諸君らの神聖な富を守れ)。'クナックフース画'として知られるこの絵は、当時のヨーロッパの日本や中国に対する警戒心を端的に表した有名なイラストである。

黄禍論(おうかろん / こうかろん、英語: Yellow peril)とは、19世紀半ばから20世紀前半にかけてアメリカ合衆国ドイツカナダオーストラリアなどの白人国家において現れた、黄色人種脅威論。人種差別の一種。

目次

[編集] 解説

主な論者に: gelbe Gefahr(「黄禍」)というスローガンを掲げたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が挙げられる。

古来白人は、モンゴル帝国をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられてきた。そのため黄色人種は、西ヨーロッパではタタールのくびきとして、また、ロシア帝国においてはアンチキリストがアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた。

そのような歴史的背景の中で、日本日清戦争日露戦争で勝利し、次第に欧米列強に匹敵するほどの国力を持つようになったり、或いは欧米諸国への黄色人種の移住が増えていくと、再び黄色人種に対する警戒感・恐怖感が高まり、黄禍論に結びついていったと云われている。三国干渉、大正期のワシントン軍縮会議にも影響を与えたとされる。

近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に日本人並びに中国人である。とくに米国では中国人排斥法排日移民法など露骨な立法に顕われ、第二次大戦期における日系人の強制収容などへの影響が論じられる。

[編集] 歴史

[編集] ヨーロッパ

黄禍というスローガンは、1895年フランスで発生したと推定されている。その後、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世が黄禍論をスローガンとして使用したときは、プロイセン国内でさえほとんど無視されていた。ところが、1900年義和団の乱が起こり、1904年日露戦争が起ると、まず、イギリスで黄過論が頻繁にジャーナリズムに登場するようになり、それがロシア、フランスに波及していった[1]

[編集] アメリカ合衆国

19世紀半ば、清朝が衰退し、イギリスをはじめ西洋諸国によって半植民地の状態におかれた中国では、安定した生活を求め海外に移住する者が出始めた。ちょうどこのころカリフォルニア州で金鉱が発見されゴールドラッシュに沸きかえっていた。それもあって西部開拓が推し進められ、大陸横断鉄道の敷設が進められた。金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの中国人労働者が受け入れられた。

少し遅れて日本人がハワイに移住を始める。ハワイが米国に併合され、また、カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、日系移民の米本国への移転が増加する。

祖国では困窮しきっていた彼らは新天地での仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いた。そのためイタリア系やアイルランド系(いずれも熱心なカトリック教徒)などの白人社会では、下層を占めていた人々の雇用を奪うようになる。それが社会問題化し、黄禍論が唱えられるようになった。

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 上掲『黄過論とは何か』

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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