第442連隊戦闘団

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第442連隊戦闘団(1944年、フランス)
第442連隊戦闘団(1944年、フランス)

第442連隊戦闘団(だい442れんたいせんとうだん 英:442nd Regimental Combat Team)は第二次世界大戦中のアメリカ合衆国陸軍において日系アメリカ人のみで編成された部隊。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が雄弁に物語っている。さらにアメリカ合衆国の歴史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊としても有名。

目次

[編集] 日系人部隊の編制

アメリカ軍兵士の監視の下、強制収容所に連行される日系アメリカ人
アメリカ軍兵士の監視の下、強制収容所に連行される日系アメリカ人
強制収容所に収監される母親を手伝う日系人兵士
強制収容所に収監される母親を手伝う日系人兵士

1941年12月の真珠湾攻撃に伴い、アメリカ合衆国は大日本帝国に対して宣戦を布告。1942年2月、アメリカ西海岸に居住していた日系人ら約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。ハワイ居住の日系人については、全体の人口に対して、その率が島によっては人口の半分程度とあまりにも多く、社会が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、ハワイ当局は、日系人会幹部や僧侶ら数百人程度をホノルルのサンド・アイランド(一部は本土)に強制収容したのみであった。

アメリカ軍は、日本軍のハワイ侵攻及び本土進攻を恐れており、その際の日系人社会の動向を不安視していた(後に日本海軍潜水艦によるアメリカ本土への砲撃が行われている。)ことなどから、1942年6月、在ハワイの日系二世の陸軍将兵、約1,400名は「ハワイ緊急大隊」に編成され、ウィスコンシン州に送られた。同地のキャンプ・マッコイで部隊は再編され、第100歩兵大隊(100th infantry battalion)と命名される。ここで部隊は訓練を重ね、1943年1月にはミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに移駐する。

第二次世界大戦の戦争目的として、日本は「アジア白人支配からの打倒」を謳い、アメリカでの日系人の強制収容を白人の横暴の実例として宣伝していた。アメリカはそれに反駁する必要に迫られ、日系人の部隊を編制することになった。また、高い士気を持った第100歩兵大隊が、軍事訓練においてひときわ優秀な成績をあげたこともこれを後押しした。

1943年2月には、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められた。部隊名は第442連隊であるが、歩兵連隊である第442連隊を中核に砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなった。ハワイからは2,600人、アメリカ本土の強制収容所からは800人の日系志願兵が入隊した。本土の強制収容所からの入隊者が少ないのは、その強制収容所における親日派・親米派の対立や境遇が影響している。

[編集] ヨーロッパ戦線での活躍

日系人部隊は当初、白人部隊の「弾除け」にされるのでは、という軍上層部の危惧により戦闘には投入されなかった。1943年8月に北アフリカのオランに到着した第100歩兵大隊は9月22日に第34師団第133連隊に編入され、イタリアサレルノに上陸した。29日にはドイツ軍と遭遇し、初の戦死者を出した。1944年1月から2月にかけて、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防において激戦を繰り広げた。5月には、ローマ南方の防衛線「カエサル・ライン」の突破にも活躍している。ローマへの進撃の途上で激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘にも従事し、多大な犠牲を払った。部隊はベネヴェントで減少した兵力の補充を受け、ローマを目指したが、軍上層部の意向によってローマを目前にして停止命令が出され、後からやってきた白人部隊が1944年7月4日に入城してローマ解放の栄誉を手にした。結局、部隊はローマに入ることを許されず、ローマを迂回しての北方への進撃を命じられた。

イタリアに到着していた第442連隊は第1大隊が解体されたため1個大隊欠けていた編成となっていたので、6月に第100歩兵大隊を第442連隊に編入して、第442連隊戦闘団をベルべデーレピサなどイタリア北部での戦闘に参加させた。

1944年9月に部隊はフランスへ移動し、第36師団に編入された。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘を行う。10月15日以降、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた。一帯は、山岳・森林地帯であるため戦車が使えず、歩兵の力のみが頼りであった。20日には町を攻略したものの、第36師団長J・ダールキスト少将の命令により、引き続き町東方の攻略を継続した。なお戦後のブリュイエールでは、部隊の活躍を記念して通りに「第442連隊通り」という名称がつけられた。なお、ブリュイエールでは1994年10月15日には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊 テキサス州兵により編制されていたため)がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」(Lost battalion)と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にフランクリン・ルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。部隊の攻撃は激しく、隊員たちはバンザイを叫んで攻撃を繰り返した。

10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の約800名が死傷している。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、ある白人兵が「なんだジャップか」と吐き捨てたのに対し、442部隊の隊員が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と迫ったという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。また、失われた大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が閲兵した際、集合した戦闘団を見て、「部隊全員を整列させろといったはずだ。」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理ミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。」と答えたという話が残っている。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。

再編制を行った第442連隊戦闘団はイタリアに移動し、そこで終戦を迎えている。隷下の第552砲兵大隊は、フランス戦後はドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊・ダッハウ強制収容所の解放を行った。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった。

[編集] 叙勲

第442連隊戦闘団を閲兵するハリー・トルーマン大統領(1946年7月)
第442連隊戦闘団を閲兵するハリー・トルーマン大統領(1946年7月)

欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、歴史に名前を残すことになった。特にその負傷者の多さから、名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)とまで呼ばれた。戦闘団は総計で18,000近くの勲章や賞を受けており、その中には以下のようなものも含まれている。

  • 名誉勲章(議会栄誉章) 1(アメリカ軍における最高の栄誉。セラヴェッツァ近郊での戦いで数々の殊勲をあげ、1945年4月5日に友軍をまもるために、投げ込まれた手榴弾の上に自らの体を投げ出して戦死したサダオ・ムネモリ上等兵が受賞。第2次世界大戦における名誉勲章の授与数は464、そのうち殊勲十字賞から格上げされた20とあわせた21の名誉勲章が442連隊に与えられている。)
  • 陸軍殊勲十字章 52(このうちの20に関しては、2000年6月に再調査の上で名誉勲章に格上げされた)
  • 銀星章 560(複数回獲得を表す樫葉の追加28)
  • 勲功章 22
  • 陸軍軍人章 15
  • 銅星章 4000(+樫葉追加が1200)
  • 名誉戦傷章 9486
  • 大統領部隊感状 7枚 (トルーマン大統領が自らの手で連隊旗に、第442連隊としては7枚目となる「大統領部隊感状」を括り付けた。これは合衆国陸軍では初めての出来事。7枚という数字は合衆国陸軍の最多授賞部隊でもある。)

格上げが多いのは、当時日本と戦争中のアメリカで日系人部隊を評価することにためらいがあったが、戦後そのしがらみがなくなり再評価されたためと、1960年代公民権法が施行され、それまでの人種差別政策が是正されたためである。

[編集] 442連隊の戦後

日系人部隊の輝かしい活躍と目覚しい勲功とは裏腹に、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく偏見は変わることがなかった。部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちを待っていたのは「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といったアメリカ人たちの冷たい言葉であり、激しい偏見によって復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれた。

このような反日系人的な世論が変化するのは1960年代を待たなければならなかった。1960年代のアメリカにおける人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになる。

442連隊戦闘団は1946年にいったん解体されたが、1947年には予備役部隊として第442連隊が再編制され、ベトナム戦争が起こると、1968年には不足した州兵を補うために州兵団に編入された。現在、第442連隊は解体されているが、連隊隷下部隊のうち第100歩兵大隊が予備役部隊として残っている。部隊は、本部をハワイのフォートシャフターに置き、基地をハワイ、アメリカ領サモアサイパングアムなどに置いている。部隊は統合や再編制を繰り返してきたにもかかわらず、依然として主力を日系人を含むアジア系アメリカ人がしめていることが興味深い。

2004年8月に、第100歩兵大隊は第29独立歩兵旅団(ハワイ州兵)の大隊機動部隊の一つとして、イラクにおける任務のために活動を再開した。部隊はハワイのスコーフィールド・バラックス(Schofield Barracks)にて動員され、テキサス州のフォート・ブリス(Fort Bliss)で2004年一杯訓練を受けた。その後、ルイジアナ州のフォート・ポーク(Fort Polk)で練成度を確認され、2005年3月よりイラクで任務についている。

なお、レーガン大統領が、強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げた同団に対して、「諸君はファシズム人種差別という二つの敵と闘い、その両方に勝利した」と特に言及し讃えている。

[編集] 著名な出身者

[編集] 参考文献・Webサイト

  • 矢野徹『442連隊戦闘団:進め!日系二世部隊』角川書店、1979年
  • Joseph D. Harrington 『ヤンキーサムライ:太平洋戦争における日系二世兵士』早川書房、1981年
  • ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』文藝春秋、1983年
  • 菊月俊之『二世部隊物語:Japanese Americans in combat Go for broke』グリーンアロー出版社、2002年
  • 渡辺正清『ゴーフォーブローク:日系二世兵士たちの戦場』光人社、2003年
  • 全米日系人博物館:日系兵士年表 http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/militarych_jp.html

[編集] 関連項目

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