アメリカ陸軍情報部

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アメリカ陸軍情報部(アメリカりくぐんじょうほうぶ、Military Intelligence Service, MIS)は、第二次世界大戦期にアメリカ陸軍において、日系2世を中心として編成された語学要員部隊。陸軍情報部日本語学校(MISLS)の卒業生は、対日戦における翻訳や情報収集、文書の分析、投降の呼びかけ、捕虜の尋問を行うために、太平洋戦線に派遣された。戦闘にも従事しており、映画「二つの祖国で 日系陸軍情報部[1]」で元兵士ディック・ハマダは、先の尖った竹を地面に突き刺して罠を作り、日本兵を追い込んで串刺しにして殺したと証言している。大戦末期になると、疲弊した日本の占領下における復興と再建に計画の焦点を当てるようになった。[要出典]


概要[編集]

MISLSは、真珠湾攻撃の1ヶ月前である1941年11月にサンフランシスコで、ジョン・F・アイソ英語版を校長とし、4名の日系人インストラクターと60名の生徒(うち58名は日系人)によって設置され、翌1942年5月に最初の卒業生がアリューシャン諸島や南太平洋に送られた[2]。同年5月25日に、日系人を軍事地域から排除する立ち退き命令が発令されたことによって、ミネソタ州サベージに移されたものの、1944年8月には同州のフォート・スネリングへの移転に伴い、その規模が拡大され[3]、終戦までに約6,000人の卒業生を輩出した。当初、MISLSの学生は元々陸軍に所属していた日系人兵士から成り立っていたが、後に強制収容所からも充てられるようになった。最終的に、卒業生の多くは戦前に日本で教育を受けたことから、一般の二世より日本語が堪能な「帰米二世」達となった[4][5]

MISLSの授業では、日本語の読み書き・会話・翻訳・通訳・草書の読み方や捕虜尋問、『作戦要務令』や『応用戦術』を使っての軍隊用語、日本の地理・歴史・文化といった、前線の日本兵から入手した手紙・日記・地図等の押収文書の翻訳や、日本兵捕虜の尋問の為に必要な基礎知識となる広範囲な科目を、6か月という短期間で集中して教え込まれた。日本語と英語のどちらかが不十分な生徒は、その訓練期間を9か月~1年に延長された。1週間の授業時間も、平日は9時間、土曜も4時間という極めてハードなスケジュールが組まれていただけではなく、膨大な量の宿題も出され、消灯時間を過ぎても明かりを求めて、トイレで勉強する学生も少なくなかったという[6]

オーストラリアブリスベーン郊外にある連合国軍翻訳通訳部に配属されたMISの兵士達は、海軍乙事件の際には、現地の反日ゲリラ福留繁から奪い取った新Z号作戦計画書の解読並びに翻訳に尽力した。他にも、大戦末期の沖縄戦では少なくとも日系人通訳兵が170人、語学兵が152人派遣されていたことが判明している[7]。沖縄戦では、防衛プランや軍隊の位置を示した文書、砲兵隊の位置を示した地図などの日本語文書を翻訳したことや[3]沖縄方言で投降を呼びかけたりしたことによって[8]、沖縄戦の短縮に貢献し、MISが派遣されていなければ更に犠牲者が増えていたと言われている。

軍政府内の住民用尋問室では、日系人通訳による暴力的な尋問が行われることがあった[9]。また、沖縄戦と進駐軍MISLSの日系2世米兵のなかには、「米軍が今もっとも必要とする人間」として認められた現実に満足して日本人を見下す者もいた。当時の日本政府機関や民間の団体がなにかの許可申請や陳情を行うのには、まずこの窓口の二世の担当官に媚を売る必要があった[10]

GHQのスパイ機関とされているキャノン機関は、機関員は25~30人とされ、大半は日系二世で、白人将兵もいた。この鹿地事件でキャノン機関の名が広く世に知られるようになると、1949年の国鉄三大ミステリー事件への関与も疑われるようになった。[要出典]

MISの存在がアメリカ国内で公に知られるようになったのは、1972年ニクソン大統領(当時)が第二次世界大戦期の軍事情報の機密扱いを解除する大統領命令11652号を発令してからのことだった。1980年5月9日には、MISLSの後身にあたるカリフォルニア州モントレーにあるアメリカ国防総省外国語学校(DLI)の3つの建物に、第二次世界大戦で戦死したMISの日系人兵士名前が冠せられた[3]

陸軍は戦後55年経った2000年4月に、第二次世界大戦に従事したMISの兵士に対して、アメリカ合衆国大統領感状を授与した[11]。また2010年10月には、オバマ大統領がMISと第442連隊戦闘団にアメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した[12]

主な出身者[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]