太平洋戦争

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太平洋戦争
Pacific war tile picture.png
上段:ルソン島の戦いでのアメリカ軍の兵士、中段左:日本軍零式艦上戦闘機、中段右:シンガポールの戦いで捕虜となったイギリス軍の兵士、下段左:アメリカ軍の戦艦アイオワ」による艦砲射撃、下段右:長崎市への原子爆弾投下
戦争第二次世界大戦
年月日1941年12月8日(日本時間) – 1945年9月2日(または8月15日[1]
場所太平洋ミクロネシアメラネシア)、北東アジア東南アジアオセアニアインド洋アフリカマダガスカル)、アリューシャン諸島
結果連合国の勝利。
交戦勢力
枢軸国
日本の旗 大日本帝国
タイ王国の旗 タイ(1942)
満州国の旗 満州国
中華民国の旗 中華民国南京国民政府
蒙古聯合自治政府の旗 蒙古聯合自治政府
1931 Flag of India.svg 自由インド仮政府(1943)

フランスの旗 フランス国
(フランス領防衛)

連合国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 大英帝国

オランダの旗 オランダ

中華民国の旗 中華民国
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦(1945)


南アフリカの旗 南アフリカ連邦
(フランス領侵攻)

指揮官
日本の旗昭和天皇

タイ王国の旗 プレーク・ピブーンソンクラーム
タイ王国の旗 サリット・タナラット
満州国の旗 愛新覚羅溥儀(康徳帝)
中華民国の旗 汪兆銘
Flag of the Mengjiang.svg デムチュクドンロブ
1931 Flag of India.svg スバス・チャンドラ・ボース

アメリカ合衆国の旗 フランクリン・ルーズベルト(41-45)
アメリカ合衆国の旗 ハリー・S・トルーマン(45-)

イギリスの旗 ジョージ6世


中華民国の旗 蒋介石
オーストラリアの旗 ジョン・カーティン
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン

損害
軍人1,740,955
民間人 393,000
アメリカ合衆国 354,523
イギリス帝国 86,838
その他 300,000
太平洋戦争

太平洋戦争(たいへいようせんそう、: Asia & Pacific theatre of World War Ⅱ)は、第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国大英帝国オランダなど)の戦争である。日本側の正式名称は1941年昭和16年)12月12日東條内閣閣議決定された「大東亜戦争」で、支那事変も含めるとされた[2]

アメリカ西海岸、アラスカからオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から東南アジアインド洋アフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と米英蘭の開戦を機に蒋介石中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争支那事変)も包括する戦争となった。

名称・期間[編集]

米英などの連合国においては主戦場がアメリカ側から見て太平洋地域であったことから「Pacific Theater(太平洋戦域)」が使用され[3]、「the War in the Pacific (Theater)」「WWⅡ-Pacific Theatre」「the Pacific Theatre in the Second World War」など第二次世界大戦戦線戦域名が用いられた[4]。戦時中は太平洋戦争という名称が使われたことは無かった[3]

なお、英語・スペイン語圏では、1865年のチリペルースペインの戦争や1879年〜1884年のチリとボリビア・ペルーとの「太平洋戦争」は The War of the Pacificと呼ぶが、対日戦争は The Pacific Warと表記され区別されている[4]。また日本でも両戦争を「太平洋戦争」と表記するので国際的に「太平洋戦争」呼称は誤解を招くという指摘がある[4]

「太平洋戦争」と「大東亜戦争」呼称

日本では1925年大正14)の日米未来戦記などで太平洋戦争が使用された[5]が、1941年に「大東亜戦争」が閣議決定された[2]。敗戦後、GHQの占領政策で「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へ強制的に変更させられた[6][5]。GHQはプレス・コードなど[7]で「大東亜戦争」の使用を新聞で避けるように指令し[8]1945年12月8日(開戦4周年)以降、新聞各紙でGHQ民間情報教育局作成の「太平洋戰爭史−真実なき軍国日本の崩壊」の掲載を開始し、この満州事変から太平洋戦争までを連続させ日本の侵略と残虐行為を詳細に叙述した戦史の単行本10万部は完売、GHQ指導で学校教育でも奨励され、定着した[8]12月15日神道指令[9]では軍国主義国家主義を連想させるとして「大東亜戦争」呼称の使用を公文書において禁止した[10](のち失効[5][11])。翌1946年、法律勅令の文言は「今次ノ戦争」と改められた[12]。日本政府はGHQの政策以降、現在まで公的には「今次戦争」「先の大戦」「第二次世界大戦」などを用いている[10]。ただし2006-7年の政府見解では「大東亜戦争」「太平洋戦争」の定義を定める法令はないとされた[13][14]

民間でも「太平洋戦争」呼称が定着した[15][16]が、それ以外の戦争呼称についても歴史学歴史認識問題などで議論が多数なされ[17]、たとえば林房雄薩英戦争馬関戦争[18]ペリー来航以来の西欧列強のアジア侵略に対抗して日本がアジア解放を目的とした「大東亜百年戦争」の集大成として「大東亜戦争」をみなしたり[19]、その他、十五年戦争[20]アジア・太平洋戦争[21]昭和戦争[22][23]などの呼称が提唱された。アメリカの歴史家ジョン・ステファンは呼称として第二次世界大戦は広範囲で、「太平洋戦争」は「あまりに狭すぎる」ので不適切であり「大東亜戦争」という呼称が「日本がインド洋や太平洋、東アジアおよび東南アジアで繰り広げようとした戦争を最も正確に表現している」と指摘している[24]。またイギリス歴史家C・ソーンはアメリカはイギリスとの関係から対日戦争にいたった経緯から「太平洋戦争」は不適切で、極東戦争を提唱した[25]が、ソーンの他A・J・P・テイラーらは日本がアジアでの英国勢力を駆逐するために開戦し、結果としてイギリスは植民地を失い「敗北」したことを考えれば「大東亜戦争」呼称は妥当とした[25]。ジョン・プリチャードらは「十五年戦争」は曖昧で「極東戦争」は地理的にヨーロッパ中心主義、「War with Japan(対日戦争)」も一方的なので「大東亜・太平洋戦争」という呼称を提案した[26]

戦争の期間は真珠湾攻撃マレー作戦・開戦の詔が出された「1941年12月8日から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とするのが一般的である[27]が、様々な戦争呼称によって起点は異なる[25]

中華民国および中華人民共和国では「抗日戦争」として8年間とされる。

関与した国家・勢力[編集]

※は途中で陣営替えを行った国・勢力

枢軸国側[編集]

戦闘参加国・政府
大日本帝国タイ王国(1942-45)、満州国中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)蒙古自治邦政府ビルマ国ビルマ独立義勇軍
協力・支援国
ドイツ(遣日潜水艦作戦や柳船など)、ヴィシー政権[28]フランス領インドシナ政府[29]イタリア王国(1941-1943、遣日潜水艦作戦など※)
日本による支援を受けた組織
自由インド仮政府[30]インド国民軍)、ビルマ防衛軍郷土防衛義勇軍インドネシア)、スマトラ義勇軍、ボルネオ義勇軍、ジャワ防衛義勇軍、マレー義勇軍、マレー義勇隊、越南青年先鋒隊(ベトナム)、フィリピン人義勇軍〈マカピリ〉、比島ラウエル大統領付親衛隊、石家荘白系ロシア人義勇軍(中国)、皇協維新軍(中国)、中華民国臨時政府軍、皇協新中華救国民軍、満洲イスラム教徒騎兵団
連合国側に宣戦布告をしたが太平洋戦争には参加していない国
ビルマ(1943-1945)、フィリピン第二共和国(1943-45)、ベトナム帝国(1945-)、ラオス王国(1945-)、カンボジア王国(1945-)、ギリシャ国クロアチア独立国ブルガリア(1941-1944※)、独立スロバキア(1941-1945)、ハンガリー王国(1941-1944※)、ルーマニア王国(1941-1944※)、セルビア救国政府(1941-1944)、ピンドス公国・マケドニア公国(1941-1944)、フィンランド共和国(1941-1944※)、ロシア諸民族解放委員会(1944-1945)

連合国側[編集]

戦闘参加国
大英帝国アメリカ合衆国オーストラリア・ニュージーランド連合軍カナダオランダ中華民国重慶政府ソビエト連邦(1945)、蒙古人民共和国(1945)、フランス共和国臨時政府(1945)
参戦兵力の多かった統治領
イギリス領インド帝国)、イギリス領マラヤアメリカ領フィリピン
その他
中国共産党八路軍)、大韓民国臨時政府[31]韓国光復軍)、フクバラハップ(フィリピン共産党の抗日武装組織)、抗日マラヤ人民軍(マレーシア華僑抗日武装組織)、フォース136(英軍によって訓練されたゲリラ部隊)、東南アジアボランティア軍(華僑武装組織)、ニューギニア族民兵(両陣営の原住民兵として参加[32])
枢軸国側に宣戦布告をしたが太平洋戦争には参加していない国
南アフリカ連邦レバノン(1943-45)、エルサルバドルコスタリカドミニカ(イギリス委任統治領)、ニクラグアハイチグアテマラホンジュラスパナマキューバノルウェー、リベリア、エジプト王国、シリア(フランス統治委任領)、サウジアラビア、イラク王国パフラヴィー朝(イラン)、メキシコ(1942-45)、ブラジル(1942-45)、コロンビア(1943-45)、ボリビア(1943-45)、イタリア王国(※1943-45)、フィンランド(※1944-45)、ルーマニア王国(※1944-45)、ブルガリア王国(※1944-45)、ペルー(1945)、ベネズエラ(1945)、ウルグアイ(1945)、パラグアイ(1945)、エクアドル(1945)、トルコ(1945)、アルゼンチン(1945)、チリ(1945)、ベルギー(1945)

国力・戦力[編集]

開戦前の時点で日本とアメリカの国力差は、アメリカは日本に対してGNPで10〜20倍、石油生産量で700倍に及んだ[33][34]

石油に関連した日米比(昭和16年時点)[34]
日本 米国 日米比
原油生産量(万バレル/日) 0.52 383.6 1:738
人造石油生産量(万バレル/日) 0.33 - -
石油精製能力(万バレル/日) 9.04 465.8 1:52
原油処理量(万バレル/日) 4.93 389 1:79
液体燃料在庫量(万バレル/日) 4,300 3億3,500 1:7.8
製油所1日1人あたり精製量(万バレル/日) 4 53 1:13


海軍戦力(太平洋配備、1941年時点)[35]
日本 米国 大英帝国
戦艦・巡洋戦艦 11 9 2
航空母艦 8 3 0
重巡(20cm砲以上) 18 13 1
軽巡(15cm砲以下) 23 11 7
駆逐艦 129 80 13
潜水艦 67 56 0

通史概略[編集]

開戦前史[編集]

ベルリン会議(1885年)とアジア分割競争
アメリカの太平洋戦略

アメリカはアメリカ・メキシコ戦争に勝利してカリフォルニア州を獲得し太平洋へ面する広大な領土を手に入れ、ロシアからはアラスカを購入した。太平洋ではハワイ王国併合に続き、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)勝利によりフィリピングアムキューバなどを手に入れると、アメリカ・フィリピン戦争を経てフィリピンを植民地化することにより太平洋への覇権を確立した[36]。日本は日露戦争後の満州における権益へのアメリカ資本の参入について非積極的な態度を示しアメリカの不興を買った。また、国際連盟からドイツ領であったパラオ・サイパンなどの太平洋の島々の信託統治を委ねられるようになりアメリカ領と接するようになった。アメリカの呼びかけで行われたシベリア出兵では、日本はアメリカ軍の撤兵後も駐留を継続するなどアメリカの利害とずれが生じるようになっていた。日米の軍事的関係については、アメリカの強い働きかけにより日英同盟は解消される一方で、アメリカが日本に優位となる形でワシントン会議に従った軍縮が行われるなど日本は劣勢となった。また、パリ講和会議での日本による人種差別撤廃案のアメリカによる廃案化やカリフォルニア州における排日移民法などで人種的な対立が生じるようになった。アメリカによる日本人への人種的な対応が後の大東亜戦争への遠因となっていった[37]

日露戦争後、アメリカは対日戦略を明確化し、1906年に対日戦争計画「オレンジ計画」を作成し、1938年には「新オレンジ作戦」を策定した[33]。新オレンジ作戦では、開戦した場合日本はまずフィリピン攻撃を行うと予想、これに対しアメリカ海軍主力艦隊は太平洋を西進し、同時に対日海上封鎖を実施、日本経済を枯渇させ太平洋制海権を掌握したうえで日本海軍と艦隊決戦するという戦略が構想された[33]。また1941年3月のレインボー5号作戦では欧州戦線の優先、太平洋戦線防御、日本の経済的弱体化、太平洋海域の海上交通線の封鎖・破壊、日本の南洋諸島占領が主軸となった[33]


満州国建国と中華民国〜泥沼化
中国大陸の勢力図(1940年)
国際世論に影響を与えたザ・バトル・オブ・チャイナのカメラアングル
ドイツのフランス占領(1940年)

1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争において、大日本帝国政府は当初、現地解決や不拡大方針によって事態の収拾を試みた。しかし、大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や、二・二六事件以後から行われるようになった軍部による政治干渉、大紅門事件蘆溝橋事件とそれに呼応して起きた郎坊事件広安門事件通州事件第二次上海事変により在中邦人の安全が脅かされる事態になる。この結果、政府は軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず、情勢は日中両軍による大規模な全面衝突に発展する。日本軍北京上海など主要都市を占領、続いて中華民国政府首都南京を陥落させた。蒋介石総統率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法ゲリラ戦術清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。こうして日中戦争の戦線は伸び長期戦に陥っていた。

劣勢にあった中華民国の指導者の蒋介石は、国際世論(欧米世論)を味方につけ、支援を引き出すために、国民党中央宣伝部国際宣伝処[38]を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。その結果、ニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し日中戦争を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『Poor China(可哀想な中国)』という標語も生まれた)を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになり、中国大陸に権益を持つ国々は中国からの撤兵を日本に求めた。

三国同盟の締結[編集]

1939年9月、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻したことにより欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年(昭和15年)6月にはフランスが短期間で休戦に追い込まれるなど、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んだイギリスが連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。これを受け、日本の政軍には、独ソ不可侵条約の締結以来沈滞していたドイツと協調し、米英と抵抗するするべきと言う勢力が再び盛り上がりを見せるようになってきた。

日本は重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するため、6月19日にフランス領インドシナ政府に圧力をかけ、「援蒋仏印ルート」の遮断を要求した。本国で成立したヴィシー政権との間で9月に協定が結ばれ、紅河以北のインドシナに進駐、中華民国支配地域への攻撃に利用した。これにより日本の対米英関係は緊張した[34]。その後新たにビルマを経由する「援蒋ビルマルート」が作られた。1940年(昭和15年)7月19日の荻窪会談では、盟主である英国が不在の東南アジア植民地に向かう南進論の方針が確認され、戦争相手は英国のみに極限するが、対米戦も準備する必要があるとされた[34]吉田善吾海軍大臣は米英強調派で、南進論、枢軸強化論には反対であったが説得され、最終的に合意、7月26日には基本国策要綱が閣議決定された[34]

7月22日、第2次近衛内閣が成立、7月26日には「皇国ヲ核心トシノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スル」という[39][40]、「基本国策要綱」を閣議決定した。を決定した。翌27日には「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。8月1日には松岡洋右外相が談話で「大東亜共栄圏」という用語を初めて用い、その範囲は、日本・満州中国フランス領インドシナオランダ領東インドも含めるとした[39]

当初は日独提携に懐疑的であった松岡外相もしだいに三国同盟締結派に接近し、9月27日にドイツ・イタリアとの間で三国条約が締結され、日独伊三国同盟が成立した。松岡らはこの同盟政策を発展させ、日独伊、そしてソ連を加えたユーラシアブロックによって米英を牽制しようとしたが、かえって英米の日本に対する不信感は一層増すこととなった。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定した。制裁措置は翌年にはさらに強化され、イギリスも追随した。

これを受け日米開戦が論じられるが政府と海軍の一部には慎重論も強い一方で陸軍は主戦派が多かった。日本軍は対中国・対ソ連に兵力を集中させ身動きできない状況にあったため、米国は日本に対し強硬姿勢を示すようになる。日本と中国は共にアメリカに物資を依存して戦争を行っていた。この時点で日本は石油の6割以上をアメリカから輸入していたため、アメリカなしではそもそも日中戦争の遂行は不可能な状況であった。

12月29日、フランクリン・ルーズベルト大統領は炉辺談話において「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」」(en:Arsenal of Democracy)と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した[41]。翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させた。1941年3月に開催された米英の軍による協議(通称ABC会議)ではまずドイツとイタリアを打倒することを優先し、日本への対処はその次に行う事が合意された[42]しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にもかかわらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入できない状況にあった[43]。もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた[要出典]。米国は対日情報戦略を強化し、1940年9月には日本側(外務省海軍)が使用していた暗号解読機九七式欧文印刷機)のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。

1940年11月23日タイ王国はフランスに占領されていた旧タイ領回復のためのフランス領南部仏印進行によりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、1941年5月8日に日本の仲介によりタイ王国が失地を回復する形でタイ王国とフランスの間で東京条約が締結される。

日米交渉の本格化[編集]

日本との戦争宣言に調印を終えたフランクリン・ルーズベルト大統領と幕僚達(1941年12月8日撮影)
米国立暗号博物館
九七式欧文印刷機部品

1941年、駐米大使野村吉三郎のもとに陸軍省軍事課長であった岩畔豪雄が渡米、民間人井川忠雄らとともに、アメリカ国務長官コーデル・ハルを交えて秘密交渉による日米関係改善が模索された。日米の軍人と民間人によって策定された「日米諒解案」では、日本軍の中国撤退、アメリカは満州国を承認する、汪兆銘政権を中国政府として認定する、ホノルルにおける日米首脳会談実現などが示唆されていたが、ハルはその内容があまりにも日本に有利であることに反発。諒解案を基礎に交渉する前提として四原則(「全ての国家の領土保全と主権尊重」「他国に対する内政不干渉」「通商上の機会均等を含む平等原則」「平和的手段により変更される場合を除き太平洋の現状維持」)を日本が受け入れることを求めた。しかし野村大使は四原則を日本政府に伝達せず、日本側は諒解案だけをアメリカの公式提案と誤認してしまう。この日米の認識の齟齬が、その後の交渉を混乱させ、破綻に導く大きな要因となった[要出典]。6月22日に独ソが開戦すると、三国同盟の対米圧力が減少しアメリカはさらなる譲歩を求めるようになる。

開戦を決意(四回の御前会議)[編集]

7月2日御前会議

その後も日本の近衛文麿内閣は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を続けたが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」[44](対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月7日からは満州での関東軍特種演習に向けて内地から兵員動員が開始される[45]


アメリカの攻撃計画と在外日本資産凍結

一方、アメリカ[46]は、7月18日、アメリカ陸軍長官・海軍長官からルーズベルト大統領に中国からアメリカ人が操縦する150機の爆撃機で9月から10月にかけて東京大阪京都横浜神戸を奇襲爆撃で焼き払う作戦計画が提出され、大統領による承認がなされる[47]7月28日には日本がフランス領インドシナ南部への進駐を実施した(南部仏印進駐)が、アメリカとイギリスは事前に南部仏印進駐反対の意志を表明していたため、アメリカ政府内の対日感情は一挙に悪化した[48]。7月21日には、中国戦線に派兵していたフライングタイガース[2]を核とした日本本土への先制攻撃作成(J.B.No.355)が大統領、海軍長官、陸軍長官らの署名のもと認可された[4]。さらに7月25日には在米日本資産を凍結[49]ハーバート・フーバー前大統領はドイツと戦争するために日本を戦争に引きずり込もうとするものであったとしている[50])、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した。この制裁は1940年の日米通商航海条約の破棄からはじまり、最初は航空用燃料の停止、北部進駐に伴う鉄類の停止、そして陸軍と外務省による同盟締結に伴い、必要物資の3割を占めていた蘭印との交渉が決裂し、国内物資の困窮が強まっていった(特に航空用燃料の欠乏が激しく、アメリカによる働きによって蘭印交渉でも航空燃料は要求量の1/4しか確保できず、決裂の原因となった)。また、40年から41年にかけて民間会社を通じ、必要物資の開拓を進めたがアメリカ政府の干渉によって契約までたどり着かない上、仏印への和平進駐及び満州増派に伴う制裁が実施され、物資の供給が完全に絶たれることとなった。当時の日本は事実上アメリカから物資を購入しながら大陸にあった日本の権益を蒋介石軍から守っていた。例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事をあわせても2年分しかなく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。

9月6日御前会議

日本陸海軍は石油禁輸について全く想定しておらず[51]、オランダ領東インドとの日蘭会商も再開の見通しが立たなくなった。9月3日、日本では大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衛は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。

9月21日、英米ソにより第1回モスクワ会談英語版が開かれた[52]。アメリカはソ連への援助を発言し、10月21日には「大量の軍備品を月末までにソ連に発送する」という旨の公式声明を発表した[52]。また、アメリカは「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」とも主張していた[52]

1941年10月18日発足の東條内閣

戦争の決断を迫られた近衛は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月16日に近衛内閣は総辞職する。後継の東條内閣は18日に成立。

11月5日御前会議

11月1日大本営政府連絡会議[53]では「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まつと)うし大東亜の新秩序を建設するため、此の際、英米蘭戦を決意し」「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」という内容の帝国国策遂行要領[54]が改めて決定した。その後11月5日御前会議[55]で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。

11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。海軍は、11月26日に真珠湾攻撃部隊をハワイへ向けて出港させた。

ハル・ノートの提示

11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村大使はコーデル・ハル国務長官に提示して交渉に当たった。11月26日朝、ハル国務長官は両案を拒否し、中国大陸・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む交渉案、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ここでいう中国大陸が満州を含むかどうかについても議論がある。

日本政府はこのハル・ノートを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになる。後の東京裁判の弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーは「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう」と評しており、ラダ・ビノード・パールも後に引用している[56]。アメリカ海軍は同11月26日中にアジアの潜水艦部隊に対して、日米開戦の場合は非武装の商船でも無警告で攻撃してもよいとする無制限潜水艦作戦を発令した。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力が無い」と明記されており、回答期限も設定されていない。アメリカ側がハル・ノート受諾に関する問い合わせをしたことはなく、その後も交渉継続を行う意志を見せている。

12月1日御前会議

日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。

宣戦布告と開戦[編集]

マレー作戦

日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、午前1時30分(日本時間午前2時15分)に上陸し[57]海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。

真珠湾攻撃

続いて日本海軍航空隊によるアメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃(真珠湾攻撃)も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。


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日本時間12月8日月曜日午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使が米国務省コーデル・ハル国務長官に交渉打ち切りを通告する「対米覚書」を手交した。午前3時(ワシントン時間12月7日午後1時)に手交することが決まっていたが、タイピングに手間取り、真珠湾攻撃後の手交となった。なお、日本はイギリスに対して12月8日午前7時半、ロバート・クレーギー駐日大使を外務省に呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡した。同日に、オランダは日本に宣戦布告した[58]

同12月8日、アメリカとイギリス2国に対して「開戦の詔勅」が発され、宣戦布告がなされた。

なお、既にアメリカは暗号解読によって、日本による対米交渉打ち切り期限を3日前には予想し、対米覚書に関しても外務省より手渡される30分前には全文解読を済ませており、「真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカの謀略」とする真珠湾攻撃陰謀説もある。また、真珠湾攻撃前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、領海侵犯した国籍不明(実際は日本海軍所属)の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件(ワード号事件)が発生していて、暗号電報の解読がなくても、アメリカは日本からの攻撃を察知することができたとする見解もある。第31代大統領だったハーバート・フーヴァーも太平洋戦争は対独参戦の口実を欲しがっていたルーズベルト大統領の願望だったと述べている[59]

12月10日の大本営政府連絡会議支那事変と「対米英戦争」を合わせた呼称として「大東亜戦争」呼称が確認され[17]、12月12日の閣議決定で戦争名称は「大東亜戦争(: Great East Asia War[17])」、戦時分界時期は昭和16年12月8日午前1時30分と決定した[2]。同日内閣情報局は、アジア諸国における欧米植民地支配の打倒を目指す「大東亜新秩序建設」を戦争目的とした[39]

マレー作戦や真珠湾攻撃などにより、日本がイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて、12月10日蒋介石中華民国が日本に対し正式に宣戦布告した。12月11日にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、名実ともに世界大戦となった。

日本軍の攻勢[編集]

日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)

1940年9月以降日本軍は仏印進駐を行なっており、日本軍は領土外には、満州国、中国大陸東部、フランス領インドシナに兵力を展開していた。1941年12月8日に日本陸軍がタイ国境近くの英領マレー半島コタバルと、中立国だったタイ南部のパタニソンクラの陸軍部隊の上陸(マレー作戦の開始)と、同日行なわれた日本海軍によるハワイ真珠湾アメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃フィリピンへの空爆、香港への攻撃開始、12月10日イギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦などの連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。しかし、アジアの独立国で友好関係にあったタイの合意を得る前に日本軍が国境を越えて軍事侵攻した[60]ことに最高司令官(大元帥)である昭和天皇の怒りを買った。

マレー半島に上陸した日本陸軍

なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。

日本陸軍によるイギリス領マレー半島への上陸は成功し、その後地上と海上の双方でイギリス軍に対する作戦を成功させマレー半島制圧へと進むこととなった。また日本海軍も、真珠湾を拠点とするアメリカ太平洋艦隊に対して戦艦8隻を撃沈破するなどの大戦果を挙げたものの、真珠湾攻撃においては第三次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦(艦載機を含む)を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。

また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合国軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。

日本海軍による真珠湾攻撃で雷撃を受けるアメリカ海軍戦艦(1941年)

しかしその様な中で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた。また、アメリカ政府首脳陣及び軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。

マレー沖海戦[編集]

日本海軍の攻撃を受けるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルス

一方、マレー半島上陸の2日後(1941年12月10日)に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認し、チャーチルの強い希望でこの地域での戦闘の抑止力として配備されていたイギリス海軍の、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスは、日本海軍(第22航空戦隊)の双発の陸上爆撃機(九六式陸上攻撃機一式陸上攻撃機)の巧みな雷撃爆撃によりあっけなく撃沈された。なお、これは史上初の行動中の戦艦に対して航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈(他にはイタリアの戦艦ローマ,日本海軍の戦艦大和と戦艦武蔵のみ)となり、戦艦に存在するとされた潜在的な抑止力は大いに低下したとされる。

なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また太平洋戦域では、戦艦と空母の艦隊の中での役割(攻撃主体と艦隊護衛)が入れ替わるきっかけとなった。

この後日本軍は、連合国軍の拠点(植民地)であるマレー半島[61]フィリピン[62]、などにおいてイギリス軍・アメリカ軍の連合国軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域(シンガポールの戦い)、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。中立国ポルトガルが植民地として統治しオーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては当初日本軍は中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった。しかし、オランダ軍とオーストラリア軍が中立担保のためとして東ティモール保障占領したため、日本軍がオランダ領の西ティモールと同時に占領し、ポルトガル政府の暗黙の下、マカオとともに事実上の統治下においた。

ビルマ国境付近で日本軍と戦う中国兵
日本海軍の伊一二一型潜水艦
降伏交渉を行う日本軍の山下奉文大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将
タイ王国参戦

前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を宣言していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで翌1942年1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。

対蘭宣戦布告

1942年(昭和17年)1月に日本は対米英戦争と支那事変のみならず、対戦、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含むと確認した[63][64]。同1月、日本が宣戦を保留していたオランダとも開戦。ボルネオ島(カリマンタン島)[65]ジャワ島スマトラ島[66]にも侵攻を開始した。

1942年の2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。

爆撃を受ける空母ハーミーズ

日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した(蘭印作戦)。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領(ビルマの戦い)し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。

日本軍に降伏するフィリピン駐留のアメリカ軍兵士
サンフランシスコ市内に張り出された日本軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令

同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアキリンディニ港まで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[67]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。

この頃イギリス軍は、ヴィシー・フランスが統治し、日本海軍の基地になる危険性のあったインド洋のアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護すべくイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇ディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。

第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦いニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本軍は足止めされ、戦争資源を消耗してゆくことになる。

珊瑚海海戦で日本海軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍の空母レキシントン

1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。

戦局の転換期[編集]

ミッドウェー海戦
ミッドウェー海戦急降下爆撃機と戦闘を繰り広げる日本海軍の空母飛龍

4月、アメリカのアメリカ海軍機動部隊を制圧するため、機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定するが、その直後に空母ホーネットから発進したB-25による日本本土の空襲(ドーリットル空襲)に衝撃を受ける。6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)と重巡洋艦「三隈」を喪失する事態に陥る。艦船の被害だけではなく多くの艦載機を失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母ですぐ戦場に移動できるのは瑞鶴翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画され大鳳雲龍天城葛城を筆頭に信濃伊吹などの建造を行なうが、艦載機・搭乗員・燃料の不足により開戦時に匹敵するような能力の機動部隊運用は終戦時まで困難なままであった。対するアメリカは、終戦までにエセックス級空母を14隻建造している。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、ミッドウェー海戦における大敗の事実を隠蔽する。

アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機などによりアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空爆し、森林火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。なお、アメリカ政府はミッドウェー海戦において勝利を収めたものの、国民感情に悪影響を及ぼさないために、この初の本土空襲の事実を公開しなかった。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。また、これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。

ガダルカナル島の戦い・ソロモン海戦

ミッドウェー海戦直後の7月に日本軍は最大勢力範囲に達したが、ミッドウェー海戦により日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は一時的に拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に海兵隊2万を上陸させ、日本軍が建設し、完成間近であった飛行場を占領した[33]。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米豪両軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本海軍の攻撃で、アメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかったが、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い混乱し、島を巡る戦況は泥沼化する。

伊19潜水艦の放った魚雷が命中、炎上するアメリカ海軍の空母ワスプ

10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊の攻撃により、アメリカ海軍の大型空母ホーネットを撃沈、大型空母エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が皆無という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給線が延びきったことにより、前線への投入ができず新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。

しかしその後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ軍はガダルカナル島周辺において航空優勢を獲得、日本軍の輸送船を撃破し、補給を妨害し、物資輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。後に一部の司令部よりガダルカナル諸島は「餓島」と皮肉られた。

1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となり、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米豪両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘は両軍拮抗したまま続く。

1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将[68]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。

1943年5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島アッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃により米艦隊に勝利するが、その頃になるとソロモン諸島での趨勢は最早決していたため、戦況には大きな影響を与えなかった。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。この年の暮れごろには、日本軍にとって南太平洋戦線での最大基地であるラバウルは孤立化し始めるものの、周辺の島々が占領され補給が途絶えた中、自給自足の生活を行いつつ連日連合軍と航空戦を展開し、終戦まで持ちこたえた。

連合軍の反攻[編集]

太平洋上の拠点を失う日本(1943年から1945年)

米統合参謀本部の作成した「日本撃滅戦略計画」では、「1、封鎖、特に東インド諸島地域の油田およびその他の戦略物資を運ぶ日本側補給路の切断 2、日本の諸都市への継続的な空襲 3、日本本土への上陸」によって日本を撃滅できると想定していた。開戦後に敗北を続けたものの、その後戦力を整えたアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍を中心とした連合国軍は、この年の後半から戦略計画に基づき反攻作戦を本格化させた。

ウォッチタワー作戦

南西太平洋地域軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」に対して、米海軍部は一歩ずつ制空権を確保しながらでなければ前進できないとし、1906年の対日戦争計画「オレンジ計画」をなぞろうとした。結局ニミッツ海軍大将の中部太平洋地域軍がマーシャル諸島からマリアナ諸島を経て、マッカーサー陸軍大将の南西太平洋地域軍がソロモン諸島ニューギニアを経てフィリピンへと太平洋戦域を横断侵攻する「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」が1943年に主軸作戦として発動された。米陸軍主体の南西太平洋方面軍はニューギニア-レイテ島-ルソン島を北上し、米海軍主体の太平洋方面軍は中部太平洋から北上、日本本土と太平洋諸島の補給路(ラバウル-トラック-サイパン-東京)を遮断する戦略であった[33]。日本海軍はこれらの経路は予測していたが同時侵攻作戦をとるとは予想できなかった[33]

1943年11月20日の南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅し、同島がアメリカ軍に占領されることになる。

大東亜会議
大東亜会議に参加した各国首脳

同11月に日本の東條英機首相は、満州国タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示した。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく事実上1国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと傾いていった。

ビルマ戦域

ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた(ビルマの戦い)。1944年3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を軽視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。

大陸打通作戦

5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中華民国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。

絶対国防圏とマリアナ・パラオ諸島の戦い

連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設定した。

東條首相と閣僚

しかし、6月に絶対国防圏を維持するための最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲し、日本海軍機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃した(マリアナ沖海戦)。アメリカ側は新型レーダー、新型戦闘機F6F[33]、空母15隻を投入し、更に日本の倍近い艦船を護衛につけた。航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫した。旗艦大鳳以下空母3隻、艦載機395機を失った日本の空母機動部隊は実質的に壊滅した[33]。ただし戦艦部隊は無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。

サイパンに上陸するアメリカ兵

陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がマリアナ諸島に次々に上陸。1944年7月に海軍南雲忠一中将の守るサイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕(サイパンの戦い)。8月にはテニアンの戦いによってテニアン島が、グアムの戦いによってグアム島が連合軍に占領された。アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を即座に改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより北海道を除く日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃圏内に入り、昭和20年までに12000個の機雷が投下され(関門海峡に4990個、周防灘666個、若狭湾611、広島湾534、神戸大阪380)、やがて国内海上輸送も麻痺した[33]。昭和19年11月24日以降、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機武蔵野製作所を爆撃、本土への空爆が本格化し、翌昭和20年2月には日本石油横浜製油所、3月には清水の東亜燃料や東京の日本石油、5月には徳山の第3海軍燃料廠、大竹の興亜石油、岩国陸軍燃料廠製油所、宇部の帝国燃料工業人造石油工場など、6月22日には四日市第2海軍燃料廠が爆撃をうけ、国内の製油所が壊滅していった[33]。太平洋上の最重要地点であるサイパン島を失った影響は大きく、攻勢のための布石は完全に無力化した。

大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、開発には時間がかかった。また日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるという風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた(数名の市民が死亡し、山火事を起こす程度だった)。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。

レイテ沖海戦から始まった特攻。写真は護衛空母ホワイト・プレインズに突入する零戦52型

各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。それだけでなく、近衛文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職し、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。

レイテ沖海戦で日本機の攻撃を受け沈没するアメリカ空母プリンストン
アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母瑞鶴。降旗する軍艦旗に対し乗組員全員が最敬礼している(10月25日14時14分沈没)

この頃日本は、前年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失っていたものの、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すら困難な状況であった。

10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)でのレイテ島への上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。しかし、すでに作戦期日に3日の遅れが生じていたため、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、まだ多くの空母や戦艦が残存していたものの、組織的な作戦能力は喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。

戦争末期[編集]

1944年8月グアム島をほぼ制圧し終えた頃、アメリカ太平洋艦隊司令部では9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は海軍が全艦隊への補給能力の限界に達していることや日本本土への影響力行使の観点から意味がないと判断していた。このため次の攻撃目標は台湾ではなく海軍部内では沖縄とされ、1944年10月には沖縄で十・十空襲台湾沖航空戦が展開した。フィリピンの戦いで米国はレイテ島の戦いミンドロ島の戦いで勝利を収め、1945年1月にルソン島に上陸しルソン島の戦いミンダナオ島の戦いビサヤ諸島の戦いマニラの戦いを経て、日本は南方の要衝であるフィリピンを失った。これにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった[69]

焼夷弾を投下するアメリカ軍のボーイングB-29戦略爆撃機

レイテ攻略により、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり台湾攻略の戦略的な価値は更に下がったが、政治的に国民的英雄となっていた米陸軍のマッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、攻略方針について統合参謀本部で米海軍と陸軍は対立してしまった。しかし、1944年6月の八幡空襲を皮切りにした「日本本土への継続的な爆撃」は中国大陸成都基地からの散発的な空爆に代わって、11月のグアム島サイパン島テニアン島の基地整備にともなうボーイングB-29爆撃機での日本本土への本格的な攻撃開始により、統合参謀長会議でヘンリー・アーノルド陸軍大将(硫黄島攻略提唱当時)が日本本土への戦略爆撃をより効果的にできるように硫黄島の攻略を唱えたために、ついに海軍側の主張する沖縄上陸とその前提の硫黄島攻略がアメリカ軍全体の基本戦略となった。

連合国の対日戦争終結への模索

ルーズベルト大統領は、日本を含む枢軸国に対して、事前に一切の条件交渉を認めない「無条件降伏」を求める構想を持っており、この方針は1943年のカサブランカ会談で確認されていた。

1944年10月14日、ルーズベルト大統領は日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してソ連による対日参戦を促した[70]。同12月14日にスターリンは武器の提供と樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求[71]、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした[72]。翌1945年2月4日から11日にかけて、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによるヤルタ会談が開かれた。会議では大戦後の国際秩序や、またソ連との日本の領土分割などについて秘密協定「極東密約」としてまとめられた[73]

1945年4月にルーズベルトが急死すると、後継となったハリー・S・トルーマンは日本に対して降伏勧告を行う、事実上の「条件付き無条件降伏」案を模索するようになった。

硫黄島の戦い

沖縄上陸に先駆けて1945年2月19日から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。アメリカ海軍の強力な部隊に援護された米海兵隊と、島を要塞化した日本陸海軍守備隊との間で激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した。最終的に日本は東京都の一部硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、北マリアナ諸島から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。日本軍は高射砲の配備を進めたほか、B-29を撃墜するための新型ジェット戦闘機「橘花」や「震電」などの新型迎撃機の開発を進めることになるが終戦までに相当数を配備するに至らず、高高度での戦闘に対応していない既存の戦闘機で迎撃を行うものの、高高度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を迎撃するのに苦労した。

1945年3月10日には国際法違反である無差別爆撃である東京大空襲が行われ、一夜にして10万人の命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、ヘイウッド・ハンセル准将からカーチス・ルメイ少将がB29で編成された第21爆撃集団の司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。併せて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、大阪名古屋神戸静岡、など、日本全国の多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭釜石では製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。また、日本本土近海の制海権を完全に手中に収めたアメリカ軍は、イギリス軍も加えて度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。

硫黄島で日本軍の攻撃により擱座したアメリカ軍のLVT
硫黄島で戦死した栗林忠道中将

迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北と空襲による生産低下で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は輸送機や練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策を編み出していた英米軍に対し戦果は上がらなくなった。

この頃、満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、1944年6月に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を駆逐した。

終戦への迷走

5月8日にドイツが連合国に降伏し、イタリア社会共和国も消滅したことで、ついに日本はたった一国でイギリス、アメリカ、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙した。まだ日本との間に不可侵条約を結んだままであったソ連はドイツ敗北で日本侵攻を目指して兵力を極東へ移動させた。このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったが、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介の可能性を探った。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。

沖縄戦
沖縄沖で日本海軍機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍空母「HMSヴィクトリアス
沖縄の宜野湾付近に展開するアメリカ兵

連合軍は日本上陸の前提として沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う(沖縄戦)。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお沖縄戦は降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃により、連合軍側は予定よりやや遅れたものの6月23日までに戦域の大半を占領するに至り、いよいよ日本本土上陸を目指すことになる。

米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)

また、沖縄戦の支援のために沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊第1遊撃部隊(戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦8)は、旗艦である世界最大の戦艦大和も米第五艦隊第58機動部隊の艦載機367機の攻撃によって4月7日に撃沈され、帰還できたのは駆逐艦4隻のみだった[33]。残存する戦艦の長門榛名日向伊勢なども燃料の枯渇から行動できず、防空砲台として英米軍機の攻撃にさらされるだけであった。一方で特攻兵器の「震洋」や回天・海龍などが生産され各地に基地が設営された。作戦用航空機も陸海軍機と併せると1万機以上の航空機が残存し[74]本土決戦用に特攻機とその支援機として温存され、一部を除いてB29などへの防空戦には参加しなかった。

昭和20年6月には日本海に米潜水艦9隻が侵入、7月14日には米海軍第38機動部隊(空母4隻、艦載機248機)は青函連絡船を攻撃し11隻が沈没し、北海道は孤立した[33]。同7月の国内石油在庫量は48万klで、これは開戦直前備蓄量840万klの5.7%にすぎず、ほぼ底をついた[33]。海軍艦艇は5月以降、機能を停止した[33]

この頃には、日本軍の制空権や制海権はほぼ消失し、日本近海に迫るようになった連合軍の艦艇に対して基本的な操縦訓練を終えたパイロットが操縦する特攻機による攻撃が残された主な攻撃手段となり、連合軍艦艇に深刻な被害を与えるなどしたものの日本軍の軍事的な敗北は明らかであった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦に合わせ、1945年11月1日に予定された米第6軍(兵力82万、車両14万、航空機7000)を中心とした九州志布志湾への上陸作戦「オリンピック作戦」と、1946年3月1日には九十九里浜、相模湾からの上陸コロネット作戦が計画された[33]

広島に投下された原子爆弾のきのこ雲
原子爆弾で破壊された長崎浦上天主堂

終戦[編集]

1945年7月26日に米英中の首脳の名において、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、日本政府はこれを「黙殺」した。アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、本土決戦による犠牲者を減らすためと、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、史上初の原子爆弾の使用を決定(日本への原子爆弾投下)。8月6日8時15分に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日11時2分に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人に併せ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、軍部は昭和天皇に原爆開発を禁じられたにもかかわらず開発を試みたが日本の原子爆弾開発は基礎研究の域を出なかった。

ソ連対日参戦

その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太、千島列島などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、10万人を超える死者を出した。

降伏

8月9日御前会議において昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結のことを口にした。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍と違って陸軍は、降伏を回避しようとしたので議論は混乱した。しかし鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより、議論は収束した。8月14日終戦の詔書が発されポツダム宣言を受諾(日本の降伏)することになった。 しかしその後も米軍による爆撃は続き、グアム島からの第20空軍部隊第315爆撃団B-29、134機が8月14日午後10時から8月15日午前3時まで日本石油秋田製油所まで爆弾12000発を投下し、87名の従業員らが爆死した[33]8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が放送された。

8月16日、帝国大本営は全軍隊に対して、戦闘行為を停止するよう命令を発した。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こしたり、鈴木首相の私邸を襲ったりしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。

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降伏文書調印に関する詔書
降伏文書に調印する日本全権。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣。その左後方に侍しているのは加瀬俊一大臣秘書官
降伏文書に署名するマッカーサー元帥。

翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。

日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。少しでも多くの日本領土の占領を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は南樺太千島列島・満州国への攻撃を継続し、8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃で撃沈破されている(三船殉難事件)。

8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。

9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席[75]の下、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦は終結した。

しかし、ソ連軍は9月4日歯舞諸島へ上陸した。また、沖縄南洋諸島においては、局所的な戦闘が散発的に続けられた。海外の日本軍は降伏後に武装解除されるが、日本の南方軍が締結したラングーン協定に基づいて欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動を強いられ、元日本軍将兵に多くの犠牲者が出た。その後、多くは引き揚げるが、インドネシア独立戦争ベトナム独立戦争国共内戦などに多数の元日本軍将兵(残留日本兵)が参加した。

海外在住の日系人[編集]

フランス領内を進軍するアメリカ軍日系人部隊第442連隊戦闘団

戦前から安い賃金でよく働くという日本人移民が生粋の自国民の職を奪うとしてアメリカオーストラリアカナダペルーブラジルなどをはじめに移民排斥運動が行われていた。このことは、欧米と日本の信頼関係を低下させることに繋がると共に移民者は差別や偏見を受けていた(注意:当時は白人至上主義絶世期だったため、日本人のみに限らず、有色人種に対する差別や偏見も激しかった)。太平洋戦争が始まるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北アメリカの13カ国やオーストラリアなどの連合国は、日本人移民のみならず、それらの国の国籍を持つ日系の自国民までも、「敵性市民」として財産を没収されてアメリカや自国内の強制収容所に強制収容させた(この際同じように敵国だったドイツ系の住民やイタリア系の住民は収容所に送られることが無かったことから人種差別だとする意見も存在する)。アメリカの移民日本人1世はこの行為に対し憤慨し日の丸を掲げるなど遺憾の意を示した。その一方でアメリカ育ちの移民日本人2世の若者達の中には祖国への忠誠心を示すために志願、第442連隊戦闘団が組織され欧州戦線(米軍は日系日本人が離反し日本側に付くことを恐れたため、太平洋戦線ではなく欧州戦線へ投入された)の最前線に送られた。戦線での日系部隊の活躍はすさまじく、半数以上の犠牲をはらいつつも任務を遂行し、活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上もっとも多くの勲章を受けた部隊となった。このことは2世が名実共にアメリカ人として認められた一方で1世と2世の激しい対立を生み出し禍根を残した。しかし、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別と偏見は長い間変わることはなかった。

太平洋戦争による被害[編集]

関与した各国における経済損失は莫大な規模と考えられるが、ここでは人的被害について記す[76][77]

国名 参戦期間 主戦場 犠牲者数(戦闘員) 犠牲者数(民間) 備考
大日本帝国 1941-1945 太平洋オセアニア東アジア東南アジア
インド洋インド
1,740,955人 393,000人
タイ王国 1942-1945 インドシナ 推計? 推計?
満州国 1941-1945 モンゴル、満洲 推計? 推計?
中華民国南京政府 1941-1945 中国大陸 推計? -
蒙古自治邦政府 1941-1945 モンゴル、華北、満洲 推計? 推計?
自由インド仮政府 1943-1945 ビルマ、インド、インドシナ 推計? -
ビルマ独立義勇軍 1941-1942 ビルマ、インド、インドシナ 推計? -
ドイツ 1941-1945 太平洋、東南アジア、インド洋 推計? 推計?
国名 参戦期間 主戦場 犠牲者数(戦闘員) 犠牲者数(民間) 備考
アメリカ合衆国 1941-1945 太平洋 354,523(太平洋のみ) 推計?
大英帝国 1941-1945 東南アジア、インド、インドシナ 86,838 推計?
オランダ 1941-1942 インドネシア 推計? -
中華民国(重慶政府) 1941-1945 中国大陸、ビルマ 150万人 1700万人
オーストラリア 1941-1942 ビルマ、インド、インドシナ 推計? -
ニュージーランド 1941-1942 ビルマ、インド、インドシナ 推計? -
自由フランス 1945- インドシナ 推計? -
ソビエト連邦 1945.8.28- モンゴル、満洲、樺太、千島列島 推計? なし
蒙古人民共和国 1945- モンゴル、満洲 推計? なし
他の戦闘加担勢力
加担勢力名 所属 地域 犠牲者数 備考
ニューギニア族民兵 両陣営 ニューギニア 推計? 民兵
フィリピン人義勇軍 日本 フィリピン 推計?
比島ラウエル大統領付親衛隊 日本 フィリピン 推計?
フクバラハップ 米英 フィリピン 推計? フィリピン共産党系抗日ゲリラ
郷土防衛義勇軍 日本 インドネシア 推計?
インド国民軍 日本 インド 推計?
マレー義勇隊 日本 マレー半島 推計?
マレー義勇軍 日本 マレー半島 推計?
越南青年先鋒隊 日本 ベトナム 推計?
ビルマ国民軍 日本→英米 インドシナ 推計?
抗日マラヤ人民軍 英米 マレー半島 推計? ゲリラ
フォース136 英米 マレー半島等 推計? 華僑ゲリラ
東南アジアボランティア軍 英米 中国大陸・東南アジア 推計? 華僑ゲリラ
石家荘白系ロシア人義勇軍 中国大陸 日本 推計?
皇協維新軍 日本 中国大陸 推計?
中華民国臨時政府軍 日本 中国大陸 推計?
皇協新中華救国民軍 日本 中国大陸 推計?
満洲イスラム教徒騎兵団 日本 満洲 推計?
紅軍 米英 満洲・中国大陸等 推計? 中国共産党系抗日ゲリラ
大韓民国臨時政府 米英 満洲・中国大陸等 推計? 朝鮮人ゲリラ
その他[78]
戦災国名(地域) 戦時中の人口 犠牲者数 備考
中国大陸(民衆) 4億人 推定約1700万人 両軍の戦闘の巻き添え、労務者としての徴発など
朝鮮半島 2550万人 推定約20万人 従軍(志願及び徴兵),徴用中の戦病死
ベトナム 1400万人 推定約200万人 強制供出による飢餓
インドネシア 6150万人 推定約200万人 労務者としての徴発
フィリピン 1630万人 推定約105万人 両軍の戦闘の巻き添え
シンガポール 561万人 推計約5000人
マレーシア
ビルマ 1500万人 約5万人 泰緬鉄道の労務者・戦闘の巻き添え

日本民間船員35,000〜46,000(死亡率49%)[33]

戦後処理[編集]

戦争裁判[編集]

昭和天皇との会見(1945年9月27日フェレイス撮影3枚のうち29日新聞掲載された写真
詳細は極東国際軍事裁判を参照

1946年5月から1948年にかけて日本の戦争責任を追及する東京裁判が開かれ、戦前期日本の指導者らが連合国により戦犯として裁かれた。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、指導者であっても不起訴となった者もあった。また、フィリピンや中華民国などで非公式の戦争裁判(B、C級戦犯)が行われたが、これらの裁判は、裁判の体を成しておらず、多くの無実の人が不法に処刑されたともされる。また、連合軍は無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)等の事後法ではない国際法に違反する行為に対する裁きを受けていないため、勝者による一方的な裁判であった。[要出典]

占領政策と戦後処理問題[編集]

詳細は連合国軍占領下の日本戦後改革を参照

GHQは民主化政策を進めると共に、国力を削ぎ、日本が二度と脅威となる存在にならないよう、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期基本的指令」[79]に沿って、大規模な国家改造を実施した。大日本帝国の国家体制(国体)を解体した上で、新たに連合国(特に、アメリカ合衆国)の庇護の下での国家体制(戦後体制)を確立するために、治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行った。また、内務省の廃止や財閥解体農地改革など矢継ぎ早に民主化政策を実施した。並行して日本人の意識改革のため、言論が厳しく統制プレスコードなど)されるとともに、教科書やラジオ(ラジオ放送「眞相はかうだ」等)などのメディアを通じ、情報誘導による民主化政策が実施された。GHQの政策には日本に戦犯者としての意識を植え付けるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムがあったともされる[80]。民主化政策はその後の冷戦体制構築のため路線変更され、警察予備隊の設置や共産党員の公職追放(レッドパージ)につながった。

1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約(1952年4月28日発効)により、GHQは廃止され、戦後処理は終了した。ただし、占領政策と戦後処理の結果、歴史認識問題や日の丸問題、自衛隊自衛権の行使問題、日本国憲法改正論議など国内問題や靖国神社問題日本の歴史教科書問題などへの諸外国の干渉や東アジア各国に対する弱腰外交など様々な歪みが生み出されたとする主張がある。

詳細は連合軍軍政期 (朝鮮史)を参照

ソビエト軍アメリカ軍朝鮮半島を分割占領し、朝鮮人の手による朝鮮人民共和国‎の建国を認めず、解体を命じて弾圧を行った。1948年8月13日の韓国独立、1949年9月9日の北朝鮮独立をもって朝鮮民族は独立したが南北分離独立を認めない勢力もあり、済州島四・三事件などの鎮圧事件が起き、まもなく朝鮮戦争が勃発して南北分断が確定した。

日本人の引揚げと復員[編集]

連合国に降伏を予告した1945年8月14日当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などの旧日本領「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていた。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、戦勝民の報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ロシア国立軍事公文書館の資料によると、ソ連は満州樺太などから日本軍将兵や民間人約76万人をソ連各地に強制連行し、約2000ヶ所の収容所などで強制労働を課した[81]。(シベリア抑留[82]

軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省第二復員省が設置された。民間人の引揚げ業務については、厚生省が所管した[83]

政府は1945年9月28日にまず、舞鶴[84]横浜浦賀仙崎下関門司博多佐世保鹿児島を引揚げ港として指定した。10月7日に朝鮮半島釜山からの引揚げ第1船「雲仙丸(陸軍の復員軍人)」が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館名古屋唐津大竹田辺などでも、引揚げ者の受け入れが行われた。1946年からはNHKラジオで「尋ね人の時間」が放送された(1962年まで)。

引揚げと復員者数[85]
【注意】以下の数値は上陸地の港において引揚げ手続きを行った人のみを計上したもの
旧ソ連領(シベリアなど)
(軍人45万3787/民間人1万9165)
満州
(軍人4万1916/民間人100万3609)
北朝鮮(ソ連占領地)
(軍人2万5391/民間人29万7194)
韓国(アメリカ占領地)
(軍人18万1209/民間人41万6110)
琉球諸島(沖縄など)
(軍人5万7364/民間人1万2052)
本土近隣諸島(硫黄島など)
(軍人6万7000/民間人2382)
中国(香港を含む)
(軍人106万9662/民間人71万7009)
台湾
(軍人15万7388/民間人32万2156)
フランス領インドネシア
(軍人2万8710/民間人3593)
東南アジア
(軍人65万5330/民間人5万6177)
オランダ領東インド
(軍人1万4129/民間人1464)
オーストラリア
(軍人13万398/民間人8445)
ニュージーランド
(軍人391/民間人406)
太平洋諸島
(軍人10万3462/民間人2万7506)
ハワイ諸島
(軍人3349/民間人310)

戦争賠償と戦後補償[編集]

勝戦国に対する賠償と戦後関係
  • 中華民国・中華人民共和国

日中戦争太平洋戦争では中国大陸において中華民国軍と日本軍の間で激しい攻防戦が行われ、大量の犠牲者を出した。ただし日中間では認識の相違が存在している[86]

太平洋戦争が終わると、中華民国を率いていた蒋介石中国国民党中国共産党の間で国共内戦が勃発した。1949年には中国共産党が勝利して中華人民共和国を中国大陸に樹立し、敗北した国民党は台湾に逃れた。1952年主権を回復した日本国政府は、中華民国を「中国を代表する政府」として承認し、直ちに賠償問題の討議を行ったが、中華民国は賠償を放棄した。その後1972年に中華人民共和国の周恩来首相と日本国の田中角栄首相が会談し、日本は中華人民共和国を「中国を代表する政府」として承認し、中華民国と断交した。この会談において中華人民共和国側は中華民国と同様に賠償問題を全面的に棚上げし、日中共同声明によって賠償放棄が宣言された。代わりに「隣国として助け合うこと」、「過去の過ちと反省」などの理由から、日本が中華人民共和国の発展のため、政府開発援助(ODA)を実施することが約束された[要出典]。日本国が1979年から中華人民共和国に対し行ってきたODA総額は、2005年までに3兆円を超え[87]、近年まで年間1000億円の資金が中華人民共和国に援助されていた。

  • オランダ

オランダは、1942年の日本軍による東インド(蘭印)攻略によって、同地を長く植民地として支配し続けた蘭印軍66,219名(連合軍82,618名)が捕虜とされたほか、民間人9万人余が捕らえられ、彼らが東インド住民を懲罰するために設けた監獄に収容されるという屈辱を味わった。なおオランダ人兵士の一部は長崎の捕虜収容所に収容され、そこで被爆した。また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し慰安婦にした白馬事件が起こった。

国家補償・元捕虜や民間人への見舞金の支払い・36億円/昭和31年(1956年日蘭議定書
個人補償・2億5500万円/平成13年(2001年・償い事業1)

終戦後オランダは、捕虜虐待などの真偽が不明瞭な容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰した(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。戦後間もなくのオランダは、ドイツ軍の侵略によって社会が疲弊していた。さらにインドネシア独立戦争に敗北し最大の植民地だった東インドを失い、経済は打撃を受けた。このことから、インドネシア独立の要因を作った日本と、独立戦争の指導にあたった残留日本兵に対する評価も加わり、反日感情が長らく残った。1971年に、太平洋戦争当時の日本軍大元帥であった昭和天皇が訪蘭の際には卵が投げつけられ、1986年にはベアトリクス女王の訪日計画がオランダ世論の反発を受けて中止された。その後1991年に来日した女王は講和条約日蘭議定書で賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」と賠償を要求した。それに対して日本政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した。2007年にはオランダ下院で日本に対し元慰安婦への謝罪と補償を求める決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」[88]と述べた。

なお、サンフランシスコ平和条約の締結時に、オランダの植民地であった東インドに対する日本の侵攻に対して「被害者」の立場をとり、賠償責任の枠を超えて日本に個人賠償を請求したオランダに対して、インドネシア政府は、「インドネシアに対しての植民地支配には何の反省もしていない」と批判した[89]

戦災国に対する補償と戦後関係

日本は1952年4月28日サンフランシスコ平和条約により、日本は太平洋戦争に与えた被害について、日本経済が存立可能な範囲で国ごとに賠償をする責任を負った。この賠償(無償援助)は、各国の協力に基づく日本の復興なくしては実現しなかった。またこのことは同時に東南アジアへの経済進出への糸口となり、日本の成長を助長する転機となると共に殖民地支配をした国の中で唯一、植民地化された国に対し謝罪の意を示すこととなり、結果的にアジア諸国とのその後の外交関係に寄与することになった。

サンフランシスコ平和条約14条に基づき、賠償を求める国が日本へ賠償希望の意思を示し、交渉後に長期分割で賠償金を支給したり、無償(日本製品の提供や、技術・労働力などの経済協力)支援を行った。他にも貸付方式による有償援助もあった。

補償を求めた国家と補償額
カッコ内は国交回復に至った条約の発効年
モンゴル人民共和国
無償・50億円/昭和47年(1972)
大韓民国
無償・1080億円/昭和40年(1965)
フィリピン
賠償・1980億円/昭和31年(1956)
ベトナム
賠償・140億円/昭和34年(1959)
ラオス
無償・10億円/昭和34年(1959)
タイ
無償・96億円/昭和37年(1962)
カンボジア
無償・15億円/昭和34年(1959)
ビルマ(ミャンマー)
賠償・720億円/昭和30年(1955)
マレーシア
無償・29億円/昭和43年(1968)
シンガポール
無償・29億円/昭和43年(1968)
インドネシア
無償・803億円/昭和33年(1958)
ミクロネシア
無償・18億円/昭和44年(1969)

領土返還と領土問題[編集]

詳細は領土問題#東アジアを参照

戦後、沖縄奄美群島小笠原諸島トカラ列島は日本本土から切り離されアメリカ統治下におかれた。講和条約後、小笠原諸島は1968年に、沖縄1972年にアメリカ施設下から日本に復帰した一方で、ソヴィエト連邦が占領した北方領土は、ロシア連邦と日本国が意見でくいちがい、政治問題として棚上げされ、未だに解決していない(北方領土問題)。

戦後の世界への影響[編集]

太平洋と欧州において繰り広げられた全世界規模の消耗戦は世界経済に大きな打撃を与えた。国際機構として国際連合が組織された。

  • 日本は敗戦国であることに加え、飢饉も起こり、終戦直後は混乱を極めた[90]。戦後の日本は、徐々に経済と社会の復興を実現し、さらには高度経済成長を果たし、奇跡とも称された。しかし、太平洋戦争の評価については、日本国民間でも定まっておらず、様々な論が並存している。
  • 東南アジアにおいては、大戦による欧州諸国・日本の国力低下や、太平洋戦争による経験を通じ、独立運動が高まり、終戦直後より各地で独立戦争が勃発。大航海時代以来の欧米による植民地支配(帝国主義)が崩壊する転機となった。
  • ベトナムでは多くの日本軍将兵が現地に残留し、ベトナム独立戦争に参加し、クァンガイ陸軍士官学校などの教官やベトミン軍将兵としてフランス軍と戦いベトナム独立に貢献した。戦没者は靖国神社に祭られている。
  • インドネシアではオランダ軍を放逐した日本は、オランダの圧政下で独立運動を行っていた住民に1945年9月の独立を約束していた。しかし1945年8月14日ポツダム宣言の調印が各国に予告されると8月17日スカルノは独立を宣言。オランダ軍はこれを認めずインドネシア独立戦争が勃発、オランダ軍は敗北し、オランダ領東インドは1949年インドネシアとして独立した。独立戦争に残留日本兵インドネシア軍将兵としてオランダ軍イギリス軍と戦い、戦没した日本兵はカリバタ英雄墓地に祭られている。その後残留した日本人により日本とインドネシアとの架け橋となった[89]
  • 台湾では、空襲はあったものの地上戦がなかった、他地域に比べ引き揚げ基隆港より比較的平和に行われた。が、その後当初日本統治に変わる歓迎した国共内戦に敗れた蒋介石国民党政府により二・二八事件から始まる戒厳令を布かれることにより統制の時期を迎えることになる。
  • 朝鮮半島においては、日本の敗戦に伴い在留日本人の釜山港から引き揚げが始まる。ソ連から戻った金日成率いる赤軍による朝鮮戦争が1950年より3年間はじまり、南北朝鮮は分裂することとなる。
  • 中国では日本軍将兵が国共内戦に加わるなどして、中華民国政府(白団)や中国共産党軍(東北民主連軍航空学校)の近代化に貢献した。
  • インドにおいては特にインパール作戦からなる日英の戦いはインドに独立の可能性を与え、1947年、ガンディーにより独立を果たす。なお東京裁判においてインド出身のパール判事は日本無罪を主張した。
  • アメリカにおいては、日本には勝利したものの軍需産業の活発化がはじまり、そのまま国共内戦の激化、冷戦による朝鮮、ベトナムでの赤化の抑えと超大国へと変貌していく。

戦争の評価[編集]

日本における評価[編集]

太平洋戦争の原因と評価については様々な見解と評価がある。

  1. ABCD包囲網ハル・ノートなどによって日本が追いつめられた結果の自衛戦争であったという見方、
  2. アジアを欧米の植民地から解放したとする見方、
  3. 欧米の帝国主義者と同じくアジア征服を企んだとする見方、
  4. 自衛戦争と侵略戦争の両面を持つとする見方、
  5. 米国は日本に石油・物資を販売しながら蒋介石の中国国民党へも強力な援助を継続しており、日中共に米国と対立して戦争継続は最初から困難であった。米国は日中に対して決定的な影響力を開戦前から持っているため、太平洋戦争は米国の日本・中国双方の弱体化策であるとの見方。
  6. ルーズベルト米国大統領による策略(陰謀)とする見方[91]

日本陸海軍の戦闘の反省としては、シーレーン確保、補給、護衛という観念が不足、戦闘艦中心主義であったとする見方がある[33]

欧米における評価[編集]

欧米でもこの戦争については色々な見解が存在する。著名なSF作家であり歴史研究家でもあったH・G・ウエルズは、「大東亜戦争は大植民地主義に終止符をうち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」として、この戦争が文明史的な意義を持つと評価している[92]。歴史家アーノルド・J・トインビーも、「アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間信じられてきたような不敗の神ではないことを西洋人以外の人種に明らかにした」と述べている[93]。英国の歴史家クリストファー・ソーンも、非白人種による史上初めての大規模な戦争であり、これにより、19世紀以来の人種主義(白人中心主義)が後退していく重要な契機になったとしている[94]

また、アメリカでは第二次世界大戦が米国史上はじめて経験した近代的な総力戦であったことから、国家や国家理念を象徴する戦いとして位置づけられており、特に大きな被害を出した硫黄島の戦いを題材としたモニュメントアメリカ独立戦争のモニュメントとともに並べられることもある。また、異文明との文明衝突の見地から、アメリカ人には、この戦いで見られた日本人の行動(精神)の記憶が、後にも残存しており、アメリカ同時多発テロ事件の際には、KAMIKAZEという言葉が報道記事に使用された[要出典]

また日本への原子爆弾投下の正当性の問題については、ジョン・ロールズをはじめ、その正当性(十分な必要性)が議論されている。正当性が問われる理由の根拠として、人口希薄地帯に原子爆弾を投下し、威力を理解させ降伏を迫れば日本は受け入れる以外の選択はほとんど無かった可能性が高いことが挙げられる。

ヴェノナ文書の公開以降、ルーズベルト政権はソ連中国共産党と通じていたのではないかという疑念が確信へと変わりつつあり、歴史観の見直しも進んでいる。また、日米戦争を引き起こしたのはルーズベルト政権内部にいたソ連のスパイたちだったという指摘もある[95]

アジアにおける評価[編集]

中華人民共和国、朝鮮半島

中華人民共和国(1949年以後の中国共産党政権)や朝鮮半島(現韓国北朝鮮)では、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強い。しかし、これらの国以外からは、日本を加害者とする評価だけではなく、肯定的な評価もなされている。日本軍による占領政策はおおむね否定的であり、徴用に伴う虐待[96]や徴発・軍票体制による旧経済の混乱、農産品市場の脆弱さに伴う飢餓の発生などが論点として挙げられる(反日感情も参照)。肯定的な評価としては現地人による自警団・自衛団を日本軍が組織したこと、それが有能で才能ある現地人の発掘につながり独立運動の中核を担う人材となっていったこと、日本軍の強調した民族自決と日本を長兄としたアジア連帯のうち、とくに前者が民族意識の高揚につながったことなどが挙げられる。中国は結果的に米英、ソ連の援助を利用して日本を追い出し、さらに欧米勢もほとんど駆逐して香港とマカオの返還で完全に外国勢力駆逐を完了した。

東南アジア

太平洋戦争で大日本帝国に解放されたベトナムフィリピンマレーシアインドネシアタイビルマミャンマー)など東南アジアの歴史学者の多くは、太平洋戦争とそれに続くアジア各地の独立戦争を一連の流れとして考えており、欧米の戦勝国が日本の戦争責任を追及することについて、「欧米によるアジア植民地の歴史を歪曲することだ」と断じている[97]。これは、当時のアジアにおいて大日本帝国とタイ王国の2ヶ国以外のすべてのアジア地域はヨーロッパやアメリカの植民地もしくは隷属地であったため、(1)太平洋戦争がこれらの地域の植民地支配からの解放に大きく寄与したとして肯定的に評価しているケース、(2)欧米に奴隷扱いされていたアジアの人々に、教育や政府機関、軍事力を整えたことを肯定しているケース、(3)戦後、再びアジアを植民地化しようと再上陸してきたヨーロッパ宗主国(特にイギリスフランスオランダ)に対して、旧日本軍の残党と共に戦ったことを好意的に評価しているケース、(4)日本軍の後盾で政権についた政治家(例:ベトナムのバオ・ダイ)の都合で親日的姿勢をとったケースなど様々である。

インドネシア

インドネシアでは太平洋戦争終戦後、直ぐにオランダとの独立戦争(インドネシア独立戦争)となったが、独立には残留日本兵も関与したこともあり、日本軍は独立の英雄としてたたえられた[89]。他方、日本軍による強制労働により、多くのインドネシアの若者が犠牲になった。戦後の賠償交渉では、インドネシア政府は労務者の総動員数を400万人と主張している[98]

台湾における評価

当時は日本統治下であった台湾では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われなかった。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではなかった。また戦後の国共内戦で敗北し、台湾に移ってきた中国国民党の強権統治に対する批判により、相対的に日本の統治政策を評価する人もいる。

戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴いた。これについての評価も分かれている。当時は日本国民であったのだから当然のことではあるが、不当な強制連行であったと批判する反日活動家もいる。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している反日活動家もいる。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と(講和条約により日本政府が台湾の統治権を放棄したために別の国家扱いになったため)区別して取り扱いがなされたことに対する批判もある。現在台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点の一つとなっている。

マレーシアにおける評価

多民族で構成されるマレーシアでは[99]、太平洋戦争について見解は多様であるが、典型的な意見としては、日本による統治が、イギリスフランスオランダなどのヨーロッパ諸国によるアジア植民地支配を駆逐し、アジア人自身を覚醒させたとして評価するものがある[100]。とくにマレー人の間では、イギリスによる長い植民地統治による愚民化政策と西洋文明の浸透(文化侵略)などによって、独自のアイデンティティーを喪失したという論調が強いとされる。戦争当時、マレー人は英国人と比べて極めて低い権利しか与えられず、いわゆる奴隷であった。当時のマレー系住民は自らを支配する存在である「白人」が無敵で、絶対的な存在[101]だと信じていた。しかし、英国東洋艦隊が同じ東洋人である日本人によって撃滅されたことや、イギリス帝国絶対不敗神話の象徴だったシンガポールが陥落したこと、イギリス軍が焦土作戦のため、徹底的に破壊した発電所工場などの都市設備を日本人がいとも簡単に短期間のうちに復旧させてみせたことなどを目の当たりにし、大きな衝撃を受けた。この出来事は長い間、支配に甘んじてきたマレー系住民の意識を変える転機となり、独立心を芽生えさせた[100]

ほか、植民地統治の過程で流入した華僑印橋などの異民族との抗争を経験をしたことから、ヨーロッパ各国が行った行為に対する批判が強く、ヨーロッパ(特にイギリス・フランス・オランダ)のメディアが日本軍による戦争を批判することに対しては、ヨーロッパ各国が行った植民地支配の歴史を歪曲しようとしているとして批判的な立場をとっている。チャンドラ・ムザファーは「欧州は、日本とアジアを分断するために、日本批判を繰り返しているのではないか」と発言したり、マハティール・ビン・モハマド首相は「もしも過去のことを問題にするなら、マレーシアはイギリスやオランダやポルトガルと話をすることが出来ない。…我々は彼らと戦争をしたことがあるからだ。もちろん、そういう出来事が過去にあったことを忘れたわけではないが、今は現在に基づいて関係を築いていくべきだ。マレーシアは、日本に謝罪を求めたりはしない。謝罪するよりも、もっと社会と市場を開放してもらいたいのだ。」と発言しており、ほかルックイースト政策などでも窺える。

他方、大戦中は、民族系統に問わず日本軍に協力した者や抗日活動に身を投じた者もおり、このうち抗日運動に身を投じたのは華人系の住民が圧倒的に多く、これは日中戦争が影響している。マラヤの華僑は故国のため、国民党政府軍に物心両面の援助を惜しまなかった。中国大陸に渡り抗日軍に身を投じたり、中国国民党組織に向けて情報提供する者、抗日救国運動に力を注ぐ人々もいた。華人系マレー人のオン・カティン住宅・地方自治相は、小泉純一郎首相が2001年8月13日に靖国神社に参拝した時、「私は、この歴史教科書と首相の靖国神社参拝への抗議の意思を表明する先頭に立ちたい」「侵略戦争を正しい戦争と教えることは、次の世代を誤って導くことになる」[102]と述べている。

慰霊施設[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 国際的な休戦協定の締結日は降伏文書に調印した9月2日。なお、ポツダム宣言の受諾を各国政府に通知した日が8月14日、玉音放送が8月15日、日本全軍に対する停戦指令を発したのが8月16日。
  2. ^ a b c d 「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」(昭和16年12月12日 閣議決定)、国立国会図書館
  3. ^ a b theater (military)=戦域”. 2009年8月1日閲覧。[要高次出典]
  4. ^ a b c 庄治潤一郎 2011, pp. 51.
  5. ^ a b c 庄治潤一郎 2011, pp. 48.
  6. ^ キャロル・グラック和田春樹姜尚中「戦後の「日米関係」を再考する」(『環』vol.8所収),藤原書店、2002年。およびキャロル・グラック和田春樹姜尚中『「日米関係」からの自立』藤原書店、2003年。
  7. ^ GHQ「プレス・コードにもとづく検閲の要領にかんする細則」
  8. ^ a b 庄治潤一郎 2011, pp. 47.
  9. ^ 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」SCAPIN No.448、1945年12月25日)
  10. ^ a b 庄治潤一郎 2011, pp. 46.
  11. ^ 1952年(昭和27年)4月11日ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(法律第81号)
  12. ^ 「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国有財産法中改正等ノ件」(昭和21年3月14日勅令第142号)
  13. ^ 「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」に対する答弁書(第165臨時国会答弁第197号、2006年12月8日)
  14. ^ 「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書(第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日)
    ※この質問を行った鈴木宗男衆議院議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している(太平洋戦争中の中華民国国民政府の性格に関する質問主意書(第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。
  15. ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 49.
  16. ^ 日本国際政治学会『太平洋戦争への道』1962年、児島襄『太平洋戦争』(中央公論社、1965年~ 66年)、家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)、林茂『日本の歴史 25 太平洋戦争』(中央公論社、1974年)
  17. ^ a b c 庄治潤一郎 2011, pp. 44.
  18. ^ 林房雄大東亜戦争肯定論』 番町書房 1964年,p29-41,p66-8
  19. ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 52-53.
  20. ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 61.
  21. ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 63.
  22. ^ 2006年8月13日読売新聞
  23. ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 67.
  24. ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 54.
  25. ^ a b c 庄治潤一郎 2011, pp. 67-68.
  26. ^ ピーター・カルヴォコレッシー、ガイ・ウィント、ジョン・プリチャード『トータル・ウォー 第二次世界大戦の原因と経過 大東亜・太平洋戦争編』下,河出書房1991(原著revised 2nd edition,1989。初版1972)p541
  27. ^ 佐藤卓己『八月十五日の神話-終戦記念日のメディア学』ちくま新書、2005年、p.52、第1章。孫崎享『戦後史の正体 1945-2012』創元社、2012年。pp.18-30。
  28. ^ 事実上のドイツ協力政権。マダガスカルの戦いで日本軍と一部軍事協力。
  29. ^ 仏印進駐後の日本による占領下では日本軍と協力。ただし進駐開始時および、日本軍の実権掌握(明号作戦)では若干の交戦が発生している。
  30. ^ 日本は設立を支援したが、正式な政府としての承認は最後まで行わなかった。
  31. ^ 連合国は政府としての承認を行わなかった
  32. ^ 出典:滝口岩夫著、『新版・戦争体験の真実―イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録』、1999年初版 ISBN 4-807-499181
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 岩間敏「戦争と石油(2)~太平洋戦争編JOGMEC「石油天然ガスレビュー」2006年3月
  34. ^ a b c d e 岩間敏「戦争と石油(1)太平洋戦争編JOGMEC「石油天然ガスレビュー」2006年
  35. ^ 松村劭著、『新・戦争学』、文芸春秋、2000年8月20日第1刷発行、ISBN 4166601172、49頁
  36. ^ 渡辺惣樹『日米衝突の根源』草思社 2011。ブックアサヒ書評
  37. ^ 昭和天皇独白録 新保博彦 2012年1月11日
  38. ^ 東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社、2006年、ISBN 479421488X
  39. ^ a b c 庄治潤一郎 2011, pp. 45.
  40. ^ 「世界は今や歴史的一大転機に際会」しているとの認識に立ち、「八紘一宇」のために「大東亜新秩序の建設」を目指し「国内体制の刷新」を行い、「強力な新政治体制の確立」を国策として決定した。(遠山茂樹、今井清一、藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 岩波新書(青版)355 1959年 179ページ)
  41. ^ [http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19401228a.html 昭和15年(1940年12月28日)(海外での動き)(米時間)ルーズヴェルト米大統領、「民主主義の兵器廠」談話]-インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 国立公文書館
  42. ^ Chapter III: BRITISH-AMERICAN PLANS - アメリカ軍軍事史センター(英語)
  43. ^ 当時、ホワイトハウスの前では反戦運動家や婦人団体、孤立主義者達がイギリスと蒋介石を援助するルーズベルトを批判するデモ活動が盛んに行われていた
  44. ^ もし、日米交渉が失敗し戦争を行うことになった場合、南部仏印が連合国軍によって占領されると南方進出及びビルマルートの遮断が困難になると予想されたことから南部にも進駐の必要性指摘。
  45. ^ 吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史(6) 岩波書店〈岩波新書1047〉 2007年 8ページ)
  46. ^ 7月2日の御前会議では「対米英戦も辞せず」という強硬なものだったが、アメリカ側はその際決定された事項について事前に知っていたという
  47. ^ 加瀬英明 (2011年12月5日). “【加瀬英明】アメリカはなぜ対日戦争を仕掛けたのか【桜H23/12/5】”. 日本文化チャンネル桜. 2011年12月5日閲覧。
  48. ^ 昭和16年(1941年)11月28日野村・来栖両大使、ルーズヴェルト米大統領と会談 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  49. ^ 大英帝国・フィリピンは7月26日、オランダ領東インドは27日に同様の凍結措置がとられた。
  50. ^ 佐々木類 (2011年12月7日). “「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判”. 産経新聞. 2011年12月7日閲覧。
  51. ^ 小谷賢「日本陸海軍と南進-「自存」と「自衛」の戦略 -」、『太平洋戦争と連合国の対日戦略 : 開戦経緯を中心として』、防衛省防衛研究所、2009年、 119-128頁。、123p
  52. ^ a b c 蘇聯邦年鑑 一九四二年版 日蘇通信社 1942年9月15日
  53. ^ 大本営と政府との間の開かれる会合で、重要国策に際して、国務と統帥の統合・調整を図るために創られた。出席者は、参謀総長、軍令部総長、首相、陸相、海相、外相など。最初の開催は1937(昭和12)年11月。開戦に至る過程で重要国策決定の機関として政治的比重が増した。(吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史(6) 岩波書店〈岩波新書1047〉 2007年 37・38ページ)
  54. ^ 吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史(6) 岩波書店〈岩波新書1047〉 2007年 14ページ)
  55. ^ 「開戦という日本の国家意思が最終的に確定した。(吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史(6) 岩波書店〈岩波新書1047〉 2007年 49ページ)
  56. ^ 中村粲 監修 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』 ISBN 4336041105
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  58. ^ “(purportedly) The Kingdom of the Netherlands Declares War with Japan”, (purportedly) Inter-Allied Review (Inter-Allied Review via publisher=[Pearl Harbor History Associates Inc. ,ibiblio http://www.ibiblio.org/pha/]), ((purportedly) December 15, 1941), http://www.ibiblio.org/pha/policy/1941/411208c.html 2010年6月23日閲覧。 
  59. ^ http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm
  60. ^ 米英に開戦の情報が漏れるのを防ぐため、開戦日の直前に、タイ政府に直接開戦の趣旨を伝え、日本軍の英領ビルマ・マレーシア侵攻作戦のためにタイ領内の通過する許可を得ようと手はずを整えていたが、開戦の空気を感じ取ったピブン首相は、日本に同調していると思われ、英国の恨みを買わないよう配慮し、開戦の数日前から身柄を隠していたため同意を得ることが出来なかった。作戦決行日が数時間過ぎ、マレー上陸作戦が実行する中で、痺れをきたした南方軍総軍は作戦に推移に支障をきたすとの理由から仏印を越えてタイ領内に侵攻した。この間、在泰邦人が殺害される事件が起きたり、南部では侵攻する日本軍とタイ軍の間で小規模な衝突も発生、11日に同首相が日本交渉団の前に現れ、日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定への同意したことから日泰の緊張は収束した
  61. ^ 当時はイギリスの植民地
  62. ^ 当時はアメリカの植民地
  63. ^ 「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」説明基準(1942年1月内閣作成)
  64. ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 59-60.
  65. ^ 当時はイギリスとオランダの植民地。
  66. ^ オランダの植民地
  67. ^ 正式にはドイツ占領下のフランス。
  68. ^ 戦死後元帥海軍大将となる。
  69. ^ 日本軍は、1940年のドイツによるフランス占領より、親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに進駐し続けていたが、前年の連合軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日に「明号作戦」を発動してフランス植民地政府および駐留フランス軍を武力によって解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナに駐留する日本軍は戦闘状態に置かれることが少なかったため、かなりの戦力を維持していたために連合国軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のために目立った戦闘行為を行わなかった。
  70. ^ 前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」産經新聞社、2000年,30頁
  71. ^ 長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(上)中公文庫、2011年、p64 - 65
  72. ^ 在米ソ連大使アンドレイ・グロムイコ「回顧録」。Andrei Gromyko,Memoires,1990.W.A.Harriman,&E.Abel,Special Envoy to Churchill and Stalin,1975.前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」産經新聞社、2000年,31頁
  73. ^ 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集(日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)
    • 23ページ目「ヤルタ会議における米ソ首脳発言(1945年)」
    • 24ページ目「ヤルタ協定」
  74. ^ 「囚われの日本軍気秘録」P.118 野原茂著 光人社
  75. ^ 8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も戦勝国の一員として臨席した。
  76. ^ 南アジア、日中戦争(中国戦線)も含む。中華民国と、満州国及び中華民国南京政府との分裂状態にあった中国大陸については民間人の死者数は記載せず、「その他」で記載。
  77. ^ 出典:本庄豊『新・ぼくらの太平洋戦争(2002)』ISBN 978-4-87699-688-9
  78. ^ 出典は本庄豊『新・ぼくらの太平洋戦争(2002)』。なお、戦闘や戦争が絡んだ弾圧行為、強制労働など、太平洋戦争(日中戦争も含む)に巻き込まれて亡くなった人数など、アジアなどの戦闘が起きた地域のみに限らず記載。上記の武装勢力とは区別。なお、国名については当時の国家名を記載。国家的な概念がない地域の場合は現在の国名で記載。
  79. ^ 降伏後における米国の初期対日方針[1][2]
  80. ^ 江藤淳『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、平成元年(1989年))
  81. ^ シベリア抑留、露に76万人分の資料 軍事公文書館でカード発見 産経ニュース 2009.7.24
  82. ^ 講談社出版『昭和の戦争7 引き揚げ ジャーナリストの証言』1986.3より
  83. ^ 後に第一、第二復員省は、復員庁となった後、厚生省所管の第一復員局、首相所管の第二復員局を経て共に引揚援護局に改組され、現在は一括して厚生労働省の所管となり、主に同省社会援護局が戦病者や戦没者遺族への年金、遺骨収集、中国残留邦人の帰国などを取り扱っている。
  84. ^ 舞鶴は1949年(昭和25年)以降は唯一の引揚げ港となった。
  85. ^ 出典:数値は厚生労働省社会援護局資料(平成16年1月1日現在)より
  86. ^ 【日中歴史研究】南京事件の日本側論文(要旨)2010年1月31日 産経新聞
  87. ^ [3] 出典:外務省ホームページ・中国へのODA実績概要2005年5月
  88. ^ http://mainichi.jp/select/world/archive/news/2008/10/25/20081025ddm007030117000c.html
  89. ^ a b c 吉本貞昭『世界が語る大東亜戦争と東京裁判』ハート出版 2012,p144-159
  90. ^ J・ダワー『敗北を抱きしめて』岩波書店
  91. ^ フランクリン・ルーズベルト#第二次世界大戦への参戦真珠湾攻撃陰謀説などを参照
  92. ^ H・G・ウエルズ『世界史概観』岩波新書
  93. ^ オブザーバー紙1956年10月28日付記事
  94. ^ 市川洋一訳『太平洋戦争とは何だったのか――1941-45年の国家、社会、そして極東戦争』(草思社, 1989年/普及版, 2005年)ISBN 4794203365
  95. ^ 江崎道朗「アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア赤化戦略」『別冊正論15 中国共産党野望と謀略の90年』
  96. ^ 「びんた」は多くのアジア諸国で現地語化した[要出典]
  97. ^ 吉本貞昭『世界が語る大東亜戦争と東京裁判』ハート出版 2012
  98. ^ 越田稜著「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」(p265〜p270)]
  99. ^ 日本軍がマレー半島に侵入した時、マレーシアはイギリスの植民地下にあり、マラッカ王国以来のマレー人、外来の華人系住民・インド系住民、その他に日本人イギリス人などが居住していた。現在、マレーシア人はマレー系が約65%、華人系が約25%、インド系が約7%を占める。
  100. ^ a b 吉本貞昭『世界が語る大東亜戦争と東京裁判』ハート出版 2012,p137-143
  101. ^ 現在でも東南アジアのカフェでは白人客のことをマスターと呼ぶ名残がみられる
  102. ^ しんぶん赤旗 2001年8月17日「歴史改ざん許さない」

参考文献[編集]

関連作品[編集]

Category:太平洋戦争を題材とした作品を参照。

  • 山岡荘八『小説 太平洋戦争』全9巻(講談社)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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