日系アメリカ人の歴史

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日系アメリカ人の歴史(にっけいアメリカじんのれきし)では、主に明治維新から現代にかけて、日本からアメリカ合衆国移住した、在米日本人及びその子孫である日系アメリカ人ハワイにおける日本人移民を含める)の歴史について記述する。

移住の始まり[編集]

シアトルで開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会英語版の「日本日」におけるパレードの様子(1909年9月4日撮影)

記録上残っている北米に初めて上陸した日本人は、1587年10月にフランシスコ会宣教師であるマルティン・イグナシオ・デ・ロヨラに同行した少年だったとされている。

具体的な氏名が記録されている事例としては、1610年の田中勝介によるものが、最古のものとされている。

小栗重吉は、1815年にカリフォルニア州へ、音吉を含めた宝順丸の船員3名は、1834年にワシントン州へあたる地域に降り立った、それぞれ初めての日本人だった[1][2]

1853年のマシュー・ペリーによる黒船来航を期に、日米両国和親条約修好通商条約を締結し、鎖国は撤廃される事となった。

日本からのアメリカ合衆国への移住は、主に経済的な動機によるものだった。日本の人口密度は、1872年の91.2人から、1903年の119.3人に増加した事に伴い、労働者の失業率と生活環境は悪化の一途を辿っていた。こうした経済状況の停滞を背景に、多くの日本人がより良い生活を求めて、国外へ新天地を求めるようになった。「理想郷」において、移住者達が相次いで成功を収めているという風聞は、アメリカへの移民の増加を後押しする事となった。特に、日本では長子相続の慣例が、根強く残っているという背景もあって、海外で大金を稼ぎ、「故郷に錦を飾る」事を目的とした、農家の次男以下による移民が、増加するようになった。1870年の時点で、アメリカに居住している日本人は、僅か55名だったものの、1890年までに約2,000人が、新たに到着する事となった[3]

1882年に制定され、1902年に恒久的な措置となった『中国人排斥法』は、日本人が中国人に取って代わる「安価な労働力」としての需要を、高める要因となった。結果として、1901年から1908年にかけて、約12万7,000人の日本人が渡米する事となった[4]

特に、日露戦争後に起きた戦後恐慌の影響により、1907年には1年間当たり3万人もの日本人移民が、アメリカ本土へ渡った。彼等は、カリフォルニア州を中心とした西海岸へ居住するようになった[3][4]

排日機運の高まり[編集]

しかしながら、日本人移民を厳しく制限したアメリカの移民法は、法に基づいた同国における差別の歴史を象徴するものであった。日本人移民の数が増えるにつれ、農業分野において次々と成功を収める姿に対する反感と、「黄禍論」の台頭が、嘗て中国人移民が直面したものと類似した、反日運動の高まりに繋がる事となった[5]

アジア排斥同盟」とサンフランシスコ教育委員会からの圧力により、セオドア・ルーズベルト大統領は、1907年に「日米紳士協約」に関する交渉に取り組む事となった。これに伴い、日本国政府は、アメリカへの労働移民を目的とした日本国民には、パスポートを新規発行しない事に合意し、日本からアメリカへの新規移民を、事実上排除する事となった。同時に、アメリカ側は、

  • 既に居住している日本人移民の存在を受け入れる。
  • 日本人移民の妻・子供・両親の移民を許可する。
  • 永住を目的としない、留学生やビジネス関係者の渡米を許可する。
  • カリフォルニア州の学校における、日系人の子供に対する法的差別を回避する。

事などに同意した。

これに伴い、独身である日本人移民の男性が、アメリカにおいて家庭を築き、日系コミュニティを存続させる為には、写真・履歴書などを交換するだけで、実際には面識のないまま入籍し、ビザを取得するという法の抜け道を利用した、「写真花嫁」に頼らざるを得なくなった。これにより、1908年から1920年にかけて、『「写真結婚婦人」呼び寄せ証明書』を発給された約2万人の日本人女性が、ハワイを含めたアメリカへ渡る事となった[6]

しかし、排日論者達はこうした「写真婚」を、「愛と道徳に欠けた、野蛮・非文明的・反道徳的な習慣」と非難した。その為、「写真花嫁」を呼び寄せようとする1世の男性達は、暫くすると必然的に、自ら日本に一時帰国し、結婚の手続きを行うようになった。

それに伴う形で、日本人移民の家庭に出生する、アメリカ市民権を持つ子供が増加。また、各種宗教施設・婦人会・日本語学校などが設立されるようになった事で、日系コミュニティの生活は拡大した。こうした背景を基に、1世達の間には、アメリカに定住する決意が、芽生える事となった[7]

因みに、アメリカの日系コミュニティにおける女性の比率は、1900年には4%だったものが、1910年には12.6%、1920年には34.5%、1930年には41.1%にまで上昇した[6]

1924年に連邦議会において『排日移民法』が可決された事で、写真花嫁を含めたアメリカへの日本人移民の送出は、事実上停止される事となった。

「日本人会」の取り組み[編集]

地方日本人会[編集]

日本人移民が、アメリカにおいて「安価な労働力」として歓迎されていた時期は、これといった排日問題は起こらなかった。しかし、日露戦争を境に、日本という国家がアメリカにとっての脅威と見なされるようになると、日本人移民は一転して、排斥の対象となった。こうした情勢に対処すべく、サンフランシスコの「在米日本人連合協議会」、ワシントン州の「ワシントン州日本人会」[注釈 1]に代表される地方日本人会が、各地で多く結成された。

地方日本人会の主な業務としては、

  • アメリカへの再入国や、親族の呼び寄せに必要となる、証明保証書類の作成
  • 生活困窮者の救済
  • 日本人の為の児童養護施設や日本語学校への補助
  • 天長節奉祝行事の主催
  • 日本人墓地の整備

など、日常生活に密着したもののほか、

  • 日本から著名人や帝国海軍の練習艦隊が来訪・寄港した際、大規模な歓迎会を催す。
  • 独立記念日をはじめとした、国や州の祝祭日に、日米の友好親善をイメージした山車を曳き出す。

といった、「良き“大日本帝国臣民”かつ“定住外国人”」であろうと心掛けるその姿勢を、日米両国に周知させる為の活動にも、取り組んでいた。

また、シアトルの「北米日本人会」は、1921年にはアメリカにおける初の2世組織となる「シアトル革新市民連盟」の発足を支援。この事が、2世グループによる連絡網の整備を促進しただけでなく、後に「日系アメリカ人市民同盟(JACL)」が発足するきっかけともなった[8]

連絡日本人会[編集]

アメリカにおける太平洋沿岸地域の日本人会は、管内に住む日本人が、領事館に願い出る各種証明の保証を請け負うにあたって、互いに連絡を取る「連絡日本人会体制」を築いた。例えば、ワシントン州の地方日本人会は、「米国北西部連絡日本人会」に属していたが、同連絡日本人会は、15の地方日本人会を束ねていた。

活動内容としては、第一には、現地の日本人が領事館に提出する各種書類の記載内容を、保証する事であった。大日本帝国憲法下において、在米日本人はあくまでも「大日本帝国臣民」であった。「日米紳士協約」に基づく厳しい出入国制限を行っていた日本政府は、在米日本人への監視を怠らなかった。その為、在米日本人は、移民として渡米する事が叶っても、

  • 在留証明書 - 徴兵猶予を願い出る際、または日本に一時帰国し、アメリカへ再入国する際に必要。
  • 身分証明書 - 家族を日本から呼び寄せるに際して、身分確実である事を示す。
  • 営業証明書 - 家族を呼び寄せる、または一時帰国後に再渡米する際に、願書の住所に居住し、それ相応の事業に従事している事を証明する。

などを、必要に応じて領事館から受ける事が、義務付けられていた。こうした証明書の発行に際して、領事館は記載事項における真偽の確認を、地方日本人会と連絡日本人会に委ねた。これが、日本人会による証明保証制度である。日本人会は、申請者の記載事項に誤り無しと保証する事で、当人が領事館の査定にかなう人物である事を担保。その見返りとして、手数料を徴収した。手数料による収入は、日本人会財政の約70%にまで達し、主要な財源となっていた。こうした制度も、1926年3月を以て廃止される事となった。

第二には、帰化訴訟委員会・米化委員会・教育調査委員会などの専門委員会を設置し、日系コミュニティを取り巻く各種問題への対処にあたった事が挙げられる。帰化訴訟委員会は、上部組織である「太平洋沿岸日本人会協議会」による、小沢孝雄の帰化権訴訟を支援する決議を踏まえ、設置されたものだった。鈴木音高委員長のもと、在米日本人のアメリカにおける法的地位の向上を目指した取り組みにあたった。米化委員会は、アメリカニズム英語版というアメリカの国家主義に対応すべく設置されたものだった。アメリカ社会の文化・価値観・習慣に適応し、それらを主体的に受容する事で、自己の変革を図っていこうとする運動を進めた。1921年に、ワシントン州において外国人土地法が成立すると、その違憲性を訴える訴訟活動を展開した。教育調査委員会については、後述を参照されたし[9]

太平洋沿岸日本人会協議会[編集]

1914年には、カナダからカリフォルニア南部に至る沿岸地域における各連絡団体を結集させる協議機関として、「太平洋沿岸日本人会協議会」が発足した。

主な活動内容としては、アメリカに対するものとしては、上述した通り、小沢孝雄の帰化権訴訟への支援であった。日本に対するものとしては、アメリカに居住する「大日本帝国臣民」の法的地位の改善と保護を訴えたものが多かった。特に、アメリカで生まれた2世の日米二重国籍状態を解決する為の、当時の日本における国籍法の改正運動が、その代表例と言える。この運動は、2世は徴兵義務に関わりなく、本人の意思により、自由に日本国籍を放棄・離脱できるようにと、同法の一部改正を目指したものだった。1924年の衆議院選挙にあたっては、自身達の運動に賛同してくれる代議士を送り出すべく、数千枚の応援ビラをアメリカ西海岸から日本に送り届けるなど、地方日本人会→連絡団体→協議会→日本という、移民ネットワークを駆使したロビー活動を展開した。

こうした取り組みが功を奏し、同年11月に国籍法は、「海外でも、生後14日以内に内務大臣(あるいは日本国政府の現地出先機関)に届け出なければ、日本国籍は有しない」とされたうえ、「14歳未満の2世は両親か保護者代理が、15歳以上の2世は自らが(国籍の放棄に関する)手続きを出来る」ように改正。2世は自らを「“完全なアメリカ人”である」と言い切れる、法的な根拠を得る事となった[注釈 2]

この協議会も、小沢訴訟での敗訴が確定した事と、日本の国籍法改正という目標を達成した事で、その役割を終了。1929年のJACL発足に伴い、発展的解消を遂げる事となった[11]

「出稼ぎ」から「定住」へのシフト[編集]

上述したような、アメリカ国内における排日感情が高まり始めた情勢の中でも、当初は帰国を前提とした「出稼ぎ」を想定していた日本人移民の多くが、徐々に「定住」を想定した経済的・家庭的基盤を作る事に努めるようになった。こうした背景には、

  1. 日本の農村部における経済事情が、渡米の前と後とでは、大きく変化した。日本人移民達が、当初アメリカで稼ぐ事を想定していた貯蓄額では、仮に帰国が叶っても、渡米前に望んでいた自身や家族の生活向上には、「焼け石に水」の状態となった。これにより、目標達成の為に、滞在の延長を余儀なくされた。
  2. 日露戦争での戦勝に伴い、日本が「列強」の仲間入りを果たし、近代化を成功させた、と自負するようになった。これにより、日本人移民達の多くは、黄禍論に基づく日本人への人種差別を、そのまま聞き入れる事は、屈辱であると捉えた。加えて、上述した小沢訴訟での敗訴により、日本人は「帰化不能外国人」と認定された事で、「在米日本人」という新たなアイデンティティを獲得。逆境の中でも、敢えてアメリカに根を下ろす事を決意した。
  3. アメリカ市民権を持つ子供が生まれ、その子供達がアメリカの地で生きる事を望み、ここをおいて自分達の居場所は無いのでは、といった思いが募るようになった。

事などが挙げられる[12]

ここに至って、「手段」であったアメリカでの生活は、それ自体が長期的視野に立って、生活を維持していくという、一つの「目標」へと様変わりする事となった。

例えば、日本郵船が定期航路を開設していたシアトルでは、1930年代までに全人口368,583人のうち、日系人の人口は8,448人に達し、住民を各々が自認する出身国ごとに区分した場合、非白人としては最大、白人を含めても4番目に多い民族集団であった[13]。第二次世界大戦前の時点で、シアトルの日本町[注釈 3]は、北米西海岸では、ロサンゼルスリトル・トーキョーに次ぐ日本人街であった[15]

日本人移民による在米への指向が、「出稼ぎ」から「定住」へシフトするにつれ、日系コミュニティにおいて世代による明確なグループが形成されるようになった。排日移民法が施行される以前は、主に日本で生まれ育ち、移民として渡米した「1世」と、その1世を親に持ち、アメリカで生まれた「2世」が存在した。1世と2世は、子供時代に日米のどちらで学校教育を受けたか、といった事などに起因する母語や価値観の違い、アメリカ市民権の有無などの面で、世間一般で言われるジェネレーションギャップ以上の相違に、苛まれる事となった。そして、異人種間結婚禁止法英語版の存在といった法的側面や、人種差別の風潮から、成人した2世の多くが、同胞同士で結婚した[注釈 4]事により、生粋のアメリカ人としての「3世」が誕生するようになった[3][4][19]

日本語教育への取り組み[編集]

黎明期の在米日本人移民社会では、未成年者は出生地が日本かアメリカかを問わず、居住地の公立学校に通うのが通例であった。しかし、20世紀に入ると、当時まだ永住目的を持っていなかった日本人の子供達の教育に関して、人種事情・言語・生活習慣が異なる異国の地において、初等教育を現地のそれに一任する事への懸念の声が、親世代から挙がるようになった。その結果、1902年にシアトルで、北米では初となる日本語学校となる「シアトル日本人会付属小学校」が開校。1907年には「シアトル国語学校英語版」と改称した。こうして、在シアトル日本人移民の子供達の多くが、平日は日中にアメリカ人の育成を目的とする現地の公立小学校、放課後は日本的精神の涵養を目的とする国語学校に通うといった、二重のナショナリズム教育を受けさせられる、過酷な生活を送る事となった。

当初国語学校では、国語地理歴史においては、日本の国定教科書が使用されていた。しかし、アメリカ国内の排日機運の高まりを受け、連絡日本人会の教育調査委員会は、国定教科書に代わる独自の教科書を編纂する事を決定。ワシントン州では、1921年から全8巻に及ぶ『日本語読本』を使用するようになった。同書の特徴は、アメリカで生活する子供達の感覚に合わせた教材を、多く取り入れた事だった。例えば、金額を表記する場合は“弗(ドル)”・“仙(セント)”の単位、手紙文に関しては、日本に住む祖父母へ、アメリカの近況を知らせるものが、それぞれ用いられていた。歴史上の人物に関しては、フランクリンナイチンゲールナポレオンなどが取り上げられるなど、日本主義的なものは極力控えられていた。

その後、日本の文部省が仮名遣いと常用漢字の改訂を進めた事を受けて、1928年にワシントン州では、『日本語読本』の改訂版が編纂された。こうした、日本人移民による教科書作りから見えてくる事は、

  • 祖国である日本から、「棄民」の烙印を押されまいと、常にその動向を見据え、敏感かつ積極的に対応しながら、アメリカの地で生き抜いていこうとした生き様。
  • アメリカの教育に適応しつつ、第二言語として日本語を学んでいた2世の負担を軽減し、学習意欲を継続させたい。また、彼等を「忠実なアメリカ市民」に育て上げ、アメリカ社会にもその事を認知させたい、という思い。

を体現したものであったと言える[20]

しかし、戦後になり、日系コミュニティが、アメリカで生まれ育った2・3世の世代になると、日本は自分達の故郷ではなく、アイデンティティの拠り所として意識する事も無くなった。その為、日本語で子供達とコミュニケーションを取っていた1世とは異なり、英語本意で育った2世は、3世となる我が子達に、日本語教育を施す事は、殆ど無かった。こうした時代の流れから、1950年代に入ると、戦前の日本語学校の姿は、完全に失われる事となった[21]

第一次産業への関わり[編集]

農業分野への貢献[編集]

アメリカに渡った日本人農民達は、土壌肥料開墾灌漑排水といった、栽培に関する高度な知識と技術を持ち込んだ事により、同国の西海岸地域における農業の発展に、多大な貢献をもたらした。

ヨーロッパ系の入植者と同様に、大部分が若い成人男性であった1世は、より良い生活を求めてアメリカに移住した。その大半は、西海岸に定住し、鉄道施設製材所・缶詰工場・農場などで働くようになった[3][4]。そして、アメリカでの生活にも慣れ、ある程度の貯蓄が出来ると、その多くが州内の郊外都市に移り住み、白人地主から土地を借りる形で、農業を始めるようになった[14]

しかし期待とは裏腹に、1世達は政治・経済・社会のあらゆる面で、差別に晒される事となった。農業に従事する者達の場合は、外国人土地法によって、日本人は土地を所有できず、借用も3年以内に制限された。出生地主義に基づき、アメリカ市民権を持つ子供の名義を用い、土地を購入するといった、法の抜け道を利用する者もいた。しかし、こうした方法も、アジア系移民の排斥を目的とした各法により、制限される事となった。

土地の所有が困難な日本人移民は、主に花・果物・セロリジャガイモタマネギカブレタスキャベツといった、短期間で収穫できるものを栽培するようになった。例えばガーデナは、南カリフォルニアにおけるイチゴの一大産地として知られるようになった。1906年に、ロサンゼルス近郊の日系人農家は、新しい技術・労働力・設備などを共有する為の協会を創設し、1910年には「ロサンゼルス地域の中で、1エーカー当たり最高の収穫高」を誇るようになった。

この様に、それまで辺境だった土地を、豊かな農地へと変貌させる事に成功した要因としては、上述した栽培に関する高度な知識と技術だけではなく、自然との共生・勤勉・チームワークを尊重する、日本人の気質も大きかったと言える。中には、資金を出し合って土地をリースする事で、小作農へと移行する者もいた。また、労働力を配分し、地主に支払う地代の集金や、労働者への賃金の分配を担当する組織もあった。こうした仕組みは、地主にとっても都合が良く、土地を所有しない日本人にも、農場経営者になる道が開かれる事となった。

ニンニク畑で除草作業を行う日本人農民(1942年3月30日、ドロシア・ラング撮影)

1900年の時点では、カリフォルニア州で日本人が経営する農場は37園しかなかった。だが1910年には、同州で働く日系農家は、1816軒にまで増加した。1941年になると、日本人移民と日系人は「カリフォルニア州で栽培される商用作物の、30~35%を生産する」程の成功を収めるようになった[22]

太平洋戦争の開戦に伴い、1942年に実施された、日系人に対する強制収容(後述参照)に伴い、多くの人々がそれまでの事業と農場を失う事となった。それでも、日系人にとっての農業は、収容所においても、強いアイデンティティとしての機能を発揮する事となった。収容所での農業プログラムは、収容者による消費を前提とした食料を、生産する為に設けられた。また、戦争の為の「戦時作物」の栽培という、副次的な目的もあった。収容所は、総じて砂漠の中の荒涼とした場所に置かれていた。その為、農業を始めるにあたっては、過酷な気候条件をはじめとして、多くの課題に直面する事となった。しかし、1世達による長年の経験に基づいた熟練のノウハウは、そうした困難をもろともせず、収容所における農業への取り組みは、おしなべて成功を収める事となった[23][24]

こうした背景もあって、当時の収容者達が育てた農地の一部は、戦後敢えて元の居住地に帰還せず、収容所の近郊に居を構える事を選択した者達も含めた地元住民によって、現在でも活用され続けている。無論、西海岸に帰還した日系人農業従事者とその子孫達も、各州の農業において、今尚重要な役割を果たしている[25]

カリフォルニア州における漁業コミュニティの形成と崩壊[編集]

アメリカにおける日本人移民による漁業への従事は、1892年にカリフォルニア州のモントレー湾から始まった。

これ以降、1895年に1世の野田音三郎が、同湾が豊かなアワビの漁場である事に気付き、和歌山県出身の漁師を集め、小さな漁村を創った。そのうえで野田は、日本の農商務省に、技術者の派遣を要請する手紙を送ったところ、1897年12月に、千葉県から大日本水産伝習所(現:東京海洋大学)を卒業した技術者である小谷仲治郎と、3人の男性海人が渡米。仲治郎は、先に渡米していた兄・源之助と同地の地主であるA・M・アレンの3名で、1902年に湾の南部にあるポイントロボス英語版で、アワビ缶詰会社を創業。仲治郎自身は、1906年に帰国したものの、以降も南房総の漁業従事者を、アメリカへ送り続けた。

しかし、缶詰会社の事業は、日露戦争において日本が勝利した事で、アメリカ国内で反日感情が高まった事により、1915年にカリフォルニア州外へ、全てのアワビ製品を持ち出す事が禁じられる事となった。しかし、ドイツ系移民のポップ・アーネストが、アワビステーキを開発した事で、当時の牛肉不足も相まって、アワビ料理が同州に定着。同社は、事業を継続する事が叶った。

結果として、モントレー湾の漁業は、長らく日本人移民が独占するようになった。1930年代半ばには、日本人所有の魚市場やアワビ加工施設が、モントレー埠頭における事業の8割を占めるまでに至った[26][27][28]

ターミナル・アイランドにおける記念碑。画像では確認できないが、神額大漁と刻まれている鳥居レプリカと、巽幸雄[注釈 5]による「沖は黒潮 魚もおどる 父母の辛苦を 偲びつヽ 永遠に称えん いにしえの里」という和歌が記されているガラス製の歌碑も、並び建てられている[29][30]

また、同じカリフォルニア州のロサンゼルス郡にある人工島であるターミナル・アイランド英語版でも、和歌山県出身者を主とした日本人移民による漁業コミュニティが、1906年頃から形成されるようになった。戦前の最盛期には、約3,500人にも及ぶ漁師や缶詰工場の従業員と、その家族が居住する、アメリカ国内でも最大の日系漁村にまで発展した。

ターミナル・アイランドは、地理的に孤立している事もあって、各種商店や飲食店が軒を並べるようになり、島内で全ての事が足りていたという。また、住民の殆どが日本人移民の家族であった事から、同島で生まれた子供達は、英語と親達が話す紀州弁が合わさった「ターミナル弁」と呼ばれる、島独自のピジン言語で会話をしていた[31][32]

しかし、太平洋戦争が開戦すると、前述した通り、日系漁村の住民達は、収容所へ送致される事となった。特にターミナル・アイランドでは、海軍の乾ドックに程近い場所だった事もあり、1942年2月9日には1世の男性全員が、FBIに逮捕された。その10日後に『大統領令9066号』が発令されると、残る全ての日系人も、48時間以内に退去させられる事となった。また、残された施設の全ては、当局によって撤去・破壊された。その為、戦後に収容所から解放された元漁師達は、庭師をはじめとする他業種への転職を余儀なくされ、カリフォルニア州における日系漁業コミュニティが、その後再建される事は無かった。

1994年になると、小谷兄弟が嘗てアワビ事業を始めたポイントロボスの居住跡地が、「コダニ・ビレッジ」と命名され、アメリカにおいて日本人の名前に由来する、唯一の州立公園となった[33]。ターミナル・アイランドでも、2人の日本人漁師を象った記念碑が、2002年に建立された[34]

強制収容の実施[編集]

日系人をサンフランシスコから追い出す旨の公報(1942年4月1日撮影)

太平洋戦争大東亜戦争)の開戦に伴い、フランクリン・ルーズベルト大統領は、1942年2月19日に『大統領令9066号』へ署名。これにより、西海岸に居住する約12万人の日本人移民・日系人が、国内10ヶ所に設置された収容所に抑留される事となった。

日系人に対する抑留は、2~3世の子供までが、その対象となるなど、個々人の政治的な思想や活動ではなく、明らかに人種差別に基づくものだった。収容所の敷地は、鉄条網で包囲されているうえ、武装した兵士が監視塔から常に目を光らせながら、収容者へ向けて銃口を向けているような環境だった。

それでも、日系人達は気力を奮い起こし、殺風景な景観の改善と砂塵の防止を兼ねて、植栽に取り掛かったほか、野菜の栽培も始めるなど、居住環境の整備に着手した。また、戦時転住局(WRA)は、収容所内に売店を設け、缶詰・新聞・反物などを売った。収益は、所内の住民達に還元され、様々な活動予算に充てられた。他にも、市民保全部隊(CCC)が放出した衣類が配分され、ダルマストーブも各居所に設置された。

収容所内の設備が整ってくると、日系人達は自治会を設置し、責任者を選出したうえで、タウンミーティングを適時開催するなどして、機能する社会を収容所内で作り上げた。また、レクリエーションや趣味サークルを作ったほか、様々な教育コースも運用した。収容所内の日系人達は、学童を除く全員が労働に従事し、月に12~19ドルの報酬を得た。やがて男性達は、その大半が外出許可証を手に、現行レートの賃金を得るべく、極度の労働力不足に悩む近場の農場へ、働きに行くようになった。

アマチ収容所盆踊り大会で、太鼓を叩く日系人達(1943年8月14日撮影)

そうした中で、1942年4月にカリフォルニア州陸運局英語版を解雇された2世の遠藤“モーリーン”ミツエ英語版が、JACLとジェームズ・パーセル弁護士の支援を受け、陸軍の違法な拘留により、就労する権利を奪われたとして、同年7月12日に北カリフォルニア地区連邦裁判所英語版へ、人身保護令状を請求した。この請求は棄却されたものの、連邦最高裁に上告され、1944年10月に審議が開始された。同年12月18日に、連邦最高裁は「忠誠な市民の身体を拘束しておく事は、憲法違反である」として、遠藤の主張を全会一致で認めた(エンドー事件英語版)。

これにより、収容所に抑留されている日系人達は、1945年1月2日より、申請した行き先への片道切符と、1人当たり25ドルを渡されたうえで、順次解放され、全米各地で生活の再建を図る事となった[19][35][36]

一方で、収容所では周囲が日系人ばかりだった事もあって、戦後には「初めて周囲からの差別を気にせず生活できた。精神的にここまで楽な生活は、それまで経験した事が無かった」と証言する元収容者も、少なくなかった。特に、戦前は毎日寝る間も無く働いていた1世達は、おしなべて「3年間仕事もせずに、食べさせてもらって、あんなに楽な時期は無かった」と述懐していたという。また、1世の中には前述した通り、暇に任せて絵画俳句詩吟日本舞踊などの趣味に興じる者も多かった。マンザナー収容所では、有志者の手によって、枯山水日本庭園まで造り上げられた、との記録も残っている[37]

第二次世界大戦への従軍[編集]

日系人部隊[編集]

日本軍による真珠湾攻撃がなされた12月7日の午後に、ハワイ準州防衛隊英語版に所属する日系人兵士達が、海岸の警備・瓦礫の撤去・献血・負傷者の救援などの活動を開始した。しかし、非日系人の間における、日系人に対する不忠誠の嫌疑は、日増しに高まる事となった。1942年1月19日には、ハワイ大学においてROTCを受けていた317名の日系人学生を含めた、約2,000人の日系兵が、「4-C(徴兵不可の外国人)」という、軍から受け入れを拒否される最低の徴兵資格に落とされ、何の説明もないまま除隊させられる事となった[38]

それでも、除隊させられた2世達は、デロス・エモンズ英語版中将に、祖国への奉仕を熱望する旨の嘆願書を送付した。これを受けて、1942年2月25日に「大学勝利奉仕団(VVV)」が編成される事となった。同年6月5日には、第一陣となる1,432名の日系兵が、ハワイを出発。6月12日にカリフォルニア州オークランドに到着した事に伴い、「第100歩兵大隊」が創設された。

ヴォージュ山脈で敢行された「失われた大隊」救出作戦にて、ドイツ陸軍と交戦する442連隊の様子を描いた絵画

1943年1月28日には、本土の収容所からも志願を募る方針を掲げた「第442連隊戦闘団」が、編成される事が発表された。当初、収容所の日系人から志願兵を募集する事は、ドワイト・D・アイゼンハワー連合国遠征軍最高司令官によって反対されたものの、最終的にはマーク・W・クラーク中将が司令官を務める第5軍が、その指揮を引き受ける事となった。ヨーロッパに到着してから2週間後の1944年6月26日に、100大隊を編入した442連隊は、「失われた大隊英語版」の救出作戦や、ダッハウ強制収容所の解放を成功させた事をはじめとして、ヨーロッパ西部戦線において獅子奮迅の活躍を見せた。

特に、442連隊によって、1944年10月にナチス・ドイツによる支配から解放されたフランス北部のブリュイエールでは、同部隊の功績に敬意を表した住民達によって、戦後に町の通りの1つが、「第442連隊通り」と名付けられた。加えて、同通りの先にある、嘗ての戦場へと至る小高い丘には、「第442連隊記念碑」が建立されており、同碑には、

各々の国家への忠誠は、人種の如何に関わらないという歴史的事実を、改めて証明してくれたアメリカ陸軍第442連隊戦闘団の諸君へ。
祖先が日本人である、このアメリカ人達は、1944年10月30日、ブリュイエールでの戦闘において、ドイツの防衛主力を突破し、敵に4日間に亘って包囲された、第141歩兵大隊を救出した。

と記されている[39]

結果として442連隊は、兵士個人では、

を獲得。部隊としても、

を授与され、225日という実質戦闘期間と規模に比して、アメリカ史上最も多くの勲章を授与された部隊の栄誉に輝いた[40]。同時に、戦死者が860名、行方不明者が67名、累積戦死傷率314%を記録し、全米軍部隊中、最も損害を受けた部隊としても、記憶される事となった[41]

ビルマ戦線のジャングルにおいて、ハーバート・ミヤサキ(左)と吉村秋治(右)の両技術軍曹と共に、束の間の休息を取るフランク・メリル英語版准将(1944年5月1日撮影)

幼少期に、日本で教育を受けた「帰米2世」の多くは、主に「陸軍情報部(MIS)」に所属し、太平洋戦線において戦略的情報および戦術的情報の収集・分析へ従事した。陸軍航空軍(USAAF)へ出向した者も多く、爆撃作戦において、日本軍による通信の傍受と、その翻訳にあたった。また、ドイツ降伏後に太平洋戦線への転属を申し出た、陸軍情報部日本語学校(MISLS)で教育を受けた経験のある442連隊の兵士12名が、戦略情報局(OSS)に抜擢された。彼等は、インド・ビルマ戦線において、秘密作戦翻訳尋問シギントなどに従事した。終戦を迎えると、メンバーの多くがGHQの一員として連合国軍占領下の日本へ渡り、復興支援にあたる事となった。

前線には赴かず、国内でのみ任務を遂行した部隊としては、1944年4月26日にハワイ準州で編成された「第1399建設工兵大隊」が挙げられる。同部隊は、悪路や敵の障害物を模したものを含めた、ジャングルを想定した訓練施設をはじめとして、B-17専用の飛行場大砲、弾薬貯蔵庫の建設にあたったほか、塹壕の掘削、道路の修理、採石場での採掘といった、準州内のインフラに関するあらゆる日常業務に従事した。また、当時ワヒアワで建設にあたった、総容量100万ガロンにも及ぶ貯水槽は、現在でもホノルル水道局によって使用されている[42]

アマチ収容所出身の初戦死者6名を追悼する式典において、半旗を掲げるボーイスカウトのメンバー(1944年8月5日撮影)

女性の場合は、軍への志願が認められた1943年11月に、収容所から解放された142名が婦人陸軍部隊(WAC)に配属される事なった。以降、終戦まで約300人の日系人女性が、WACで軍務にあたる事となった。その殆どは、医療部隊や戦時情報局(OWI)において、タイピスト・事務員・調査員としての任務にあたったが、約50人が通訳としてMISに配属され、戦後に日本へ渡った者もいた[43][44]

例外的な事例[編集]

ダグラス・ワダ(和田智雄)は、1910年9月9日にホノルルで生まれ、ハイスクールを中退した後に渡日。5年間亘って、日本に滞在した。帰国後の1933年に、ハワイ大学へ入学。1937年に卒業した直後は、布哇タイムス社に勤めたが、日中戦争の勃発に伴い、日本語専門の特技兵として、海軍へ入隊。海軍情報局(ONI)へ配属された。大戦中は、アメリカ太平洋陸軍(USARPAC)司令部の参謀次長補佐官である岩井次郎[注釈 6]と共に、太平洋戦争における最初の日本人捕虜となった、酒巻和男帝国海軍少尉への尋問を担当するなど、高度に機密化された対諜報活動を従事した。終戦後の東京裁判に際しては、連合国検察団の一員として、東條英機首相をはじめとする、A級戦犯の起訴に貢献した。その後は、朝鮮戦争の勃発に伴い、アメリカ極東海軍司令部(COMNAVFE)における日本国政府保安庁(現:防衛省)・警察庁海上保安庁との情報連絡員に就任。足掛け38年間に亘ってONIに務め、中佐で定年退役を迎えた[46][47][48]。2007年4月2日に、ホノルルで逝去。96歳没。

ジミー・ドーリットル中将(右端)が見守る中で、スピーチを行う黒木

黒木勉は、真珠湾攻撃の直後にUSAAFに志願し、採用される事となった。第93爆撃群第409爆撃飛行隊に配属され、B-24の銃手として、ヨーロッパ西部戦線において30回のミッションをこなし、『TIME』誌などで大々的に取り上げられる事となった。ヨーロッパにおける最後のミッションで負った怪我の治療の為に帰国した際は、ラジオ番組に出演したほか、スピーチ後に10分間のスタンディングオベーションが起きたコモンウェルス・クラブ・オブ・カリフォルニア英語版をはじめとする、数多くの公の場に顔を出す事となった。カリフォルニア州のビジネスマン達が、黒木の活躍を称賛した事は、西海岸における対日系人感情が軟化する事への、最初のきっかけとなった。その後は、太平洋戦線へ転属。両親の祖国である日本への本土空襲作戦を含めた、計28回のミッションをこなし、太平洋戦線におけるUSAAFの戦闘に参加した唯一の日系人となった。これらの功績により、3個の殊勲飛行十字章、5つのオークリーフ・クラスター付きエア・メダルに加え、戦後の2005年8月には、ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)より、陸軍殊勲章英語版を授与されている。2015年9月1日に、カリフォルニア州カマリロで逝去。98歳没。

ハーバート・ギノザは、当初100大隊に配属されていたものの、USAAFの第15空軍部隊英語版第483爆撃群第815爆撃飛行隊へ転属させられる事となった。B-17尾部銃手として、中央ヨーロッパにおける軍事施設やインフラへの爆撃作戦に従事した。1945年2月20日に、ナチス・ドイツウィーンにある石油精製工場への爆撃中に、搭乗機が対空砲火を受け制御不能となり、パラシュートで脱出。ハンガリーバラトン湖近くに不時着したところ、4人の地元住民に拘束され、捕虜としてバイエルン州モースブルクにある捕虜収容所に送られる事となった。同年5月10日に、友軍によって解放された後は、イギリスサウサンプトンを経て、8月に帰国。12月に技術軍曹の階級で名誉除隊となった。最終的には、2つのオークリーフ・クラスター付きのエア・メダル、名誉戦傷章、戦争捕虜章英語版など、累計で5個の勲章[注釈 7]を授与される事となった[49]。2011年9月2日に、カリフォルニア州リバモアで逝去。86歳没。

緒方健二

緒方健二英語版は、1919年6月1日にインディアナ州ゲーリーに生まれ、幼少期をイリノイ州スターリング英語版で過ごす。ハイスクール卒業後は、ナショナル・マニュファクチャリング・カンパニー(現:NCR)でメッキ工として働く傍ら、民間パイロット操縦プログラムを受けていた。真珠湾攻撃の翌日に、USAAFに志願すべくシカゴへ向かった。一度は門前払いを受けるも、自身のアメリカへの忠誠心を頑なに訴え続け、ロックフォードにあるキャンプ・グラントに、衛生兵として配属される事となった。その後も、パイロット志願を諦めきれなかった緒方は、故郷であるスターリングの町長・警察署長・弁護士・判事に、陸軍へ自身のUSAAF転属に関する推薦状を、送付する事を嘆願した。結果として、1943年12月31日に、イタリアにある第15空軍部隊第451爆撃群第726爆撃飛行隊へ、転属させられる事となった。B-24のボールターレット砲手として、計35回のミッションをこなし、2度の撃墜を生還。最終的に、3つのオークリーフ・クラスター付きエア・メダルと名誉戦傷章を授与され、技術軍曹の階級で名誉除隊となった。戦後は、G.I.ビルによりイリノイ大学医学部へ進学。ハワイ準州で1年間、小児歯科医として勤務した後、スターリングで歯科医院を開業した。他にも、グアテマラへ2度に亘り、ボランティアに赴いた。1996年より引退生活に入る。2012年1月18日に、スターリングで逝去。92歳没[50]

4名以外にも、

の2世が、それぞれ所属していた事が確認されている[47]

第二次世界大戦中、本来なら日系人に対しては、門戸が閉ざされていた筈の海軍やUSAAFなどにおいて、上述したような事例が生じたのは、開戦直後の混乱期ゆえに、手続き上のミスの頻発したなど、様々な偶然が重なった事による側面が大きかったのではないか、と現在では推測されている[53]

因みに、太平洋戦争中に日本軍の捕虜となった日系人兵士としては、テキサス陸軍州兵英語版所属のフランク・フジタ三等軍曹と、陸軍対敵諜報部隊所属のリチャード・サカキダ(榊田元宗)英語版少尉[注釈 11]の2名がいる。

軍人以外の事例として、OWIは帰米2世であるフランク・ババ(馬場正三)の他、1世の石垣栄太郎綾子夫妻、国吉康雄八島太郎なども雇用した。八島の場合、日本への理解が浅かったOWI内部から、対日伝単の改善に尽力。彼が作成したコマ割り漫画『運賀内蔵』は、戦中最も多く撒かれた伝単とも言われ、日本兵の間でも絶大な人気を博した[54]。OSSに移った後は、ビルマ戦線における対日宣伝工作へ従事するも、間もなく終戦を迎えた。戦後、米国戦略爆撃調査団の一員として、渡米以来初めて帰国した際は、少佐相当の軍属として、アメリカ陸軍の将校制服を着用し、祖国の地を踏む事となった。

また、大戦中に商船乗組員として勤務していた日系人が、少なくとも19人死亡した事が確認されている[47]

大戦中、約33,000人の日系人達が軍務に就いたものの、アメリカ社会における日系人への偏見が解消されるのには、まだ少し時間を要する事となった。

戦後における評価[編集]

旨森“スパッド”貞夫

442連隊の一員で、イタリア戦線において戦死した旨森“スパッド”貞夫元上等兵は、アメリカ軍の勲章としては最高位となる名誉勲章を、1946年3月7日に授与された。旨森の名誉勲章は、第二次世界大戦下で活躍したアジア系兵士に授与された2つの内の1つで、日系人に授与されたものとしては、初めてだった。

ビル・クリントン大統領から名誉勲章を授与されるダニエル・イノウエ

1990年代に入ると、442連隊の元兵士に授与された勲章の再調査が行われた。結果として、ジョー・ニシモト(西本真織)元上等兵に授与された殊勲十字章が、1998年に名誉勲章へ格上げされた事をはじめとして、2000年には新たに19名に対して、同等の措置が取られた。最終的に、21個の名誉勲章が442連隊に授与される事となった。その内の1つは、連邦上院議員(当時)のダニエル・イノウエ(井上建)元大尉に対するものだった。

2010年10月5日にバラク・オバマ大統領(当時)は、442連隊・100大隊・MISに、アメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した。

現在のアメリカにおいて、2世兵士の強さは、

といった要素が、全て見事に噛み合った事に起因するものだと評されている[55][56]

日本へ渡った2世達[編集]

太平洋戦争中の日本では、約2万人の2世が、居住していたと推測されている。

彼等が、日本に渡った・留まり続けた背景としては、

  1. 親戚の訪問や、日本で教育を受ける事を目的に、短期で滞在する予定が、日米開戦により、帰国できなくなってしまった。
  2. アメリカ国内における排日機運の高まりを受け、条件の良い仕事を求めて、日本に渡る事を選んだ[注釈 12]
  3. トゥーリーレイク収容所で「忠誠登録」に“No-No”と回答し、第二次日米交換船で日本へ渡った。

が挙げられる[57]

戦時下の在日2世は、軍に召集された者[注釈 13]を除いて、その殆どが、英語力を活かした職業に就いた。特に、連合国軍向けプロパガンダ放送『ゼロ・アワー』において、「東京ローズ」の通称でDJを担当したアイバ・トグリ(戸栗郁子)を含めた2世女性達が、著名なケースだと言える。また、同番組を制作した「ラジオ・トウキョウ(現:NHKワールド・ラジオ日本)」にも、多くの2世が集い、ティーブ釜萢[注釈 14]や森山久[注釈 15]稲田“ベティ”文子などが在籍していた。他にも、同盟通信社外務省ラジオ室、国内外における日本軍の情報機関、赤十字社なども2世の多い職場だった。外務省ラジオ室には、同省が創立した2世向けの教育機関「敝之館」の国費留学生が動員された。大戦末期の広島市[注釈 16]では、第2総軍司令部情報部が2世女性を徴用し、アメリカからの短波放送傍受する「特情班」を設けた[59]

宇野“バディ”一麿(うの かずまろ)は、1913年にオークランドで生まれ、ジャーナリストを志していた事もあり、ハイスクール時代から『羅府新報』でコラムを執筆していた。1937年には、フリーランス従軍記者として、日中戦争下の中国大陸へ渡った。取材にあたっては、日本に住む伯父の人脈を利用して、最前線へ度々赴き、各日系紙の英文欄で、詳細な戦況を発信し続けた。また、多くの年長2世リーダー達と同様に、「2世は“日米の架け橋”としての役割を担うべき」という思想を提唱していた。その事から帰国後は、アメリカ社会へ向けては、日本の立場への理解を、若い2世に向けては、日本語と日本の歴史文化を学ぶべく、日本へ留学する事を、それぞれ呼び掛ける旨の講演を続けた。しかし、アメリカ社会における日系人に対する風当たりが、日を追う毎に厳しいものとなる現状を鑑みて、1939年6月に渡日。この頃から忠誠の対象が、アメリカから日本へ変わるようになった。1940年1月に帝国陸軍へ召集されると、大本営陸軍報道部の記者に抜擢され、上海へ渡る事となった。1943年4月に東京へ呼び戻されると、捕虜収容所[注釈 17]の所長に就任。連合国軍兵士の捕虜を利用して、『ゼロ・アワー』を含めた数々の謀略宣伝工作に携わった。1944年10月には、フィリピンマニラへ渡るが、同月のレイテ沖海戦で日本が大敗するなど、赴任した時点で既に、戦局は絶望的だった。1945年5月に、餓死寸前のところを抗日ゲリラに拘束され、他の日本人捕虜をと共に、ニュー・ビリビッド刑務所に収監された。そこでは、MISに志願した弟のハワード安麿と、再会する事となった。復員後は、1941年に結婚した妻と子供達が待つ日本で暮らす事を選んだが、大戦末期に罹患したマラリア結核が原因で、1954年12月10日に神戸市で逝去した[60]。41歳没。

竹宮帝次(たけみや ていじ)は、1923年にロサンゼルスで生まれ、1939年に家族で熊本市引き揚げた。九州学院中学を経て、1943年に青山学院高等商業学部へ進学したが、同年の学徒出陣に伴い、帝国海軍へ入隊し、旅順へ向かった。1945年3月には、呉鎮守府の第2特攻戦隊に転属。特殊潜航艇蛟龍」の艦長に任ぜられ、特攻出撃命令を待っていたが、英語力を買われ、1945年7月末に軍令部へ転属。慶應義塾大学日吉校舎で、アメリカからの短波放送を傍受する任務に着き、少尉の階級で終戦を迎えた。同年8月27日には、1週間後に控えた降伏文書調印式に関する事前折衝の通訳を受命。2名の軍令部参謀大佐と共に、駆逐艦初桜」に乗船し、相模湾沖に停泊中の戦艦ミズーリ」へ乗り付けた。その後は、COMNAVFEの初代司令官となったオスカー・バッジャール2世英語版少将から、専属通訳に指名される事となった。これを皮切りに、以降半世紀に亘って横須賀海軍施設に勤務し、港湾統制部最高責任者や民事部長などを歴任。1964年11月12日に、日本史上初の原子力潜水艦寄港となる、「シードラゴン」の佐世保港到着に際しては、エドウィン・O・ライシャワー駐日大使による記者会見において、通訳を担当した。また、日本におけるボーイスカウト活動推進に貢献した事もあり、日本国政府からは、1986年に藍綬褒章、1994年に勲五等双光旭日章世界スカウト機構からは、1998年に団体史上268人目となるブロンズ・ウルフ章を、それぞれ授与されている[61]。定年延長を重ねた末、1997年に退官。2010年4月30日に、脳梗塞の合併症により逝去[62]。86歳没。米海軍は、竹宮による生前の功績を称え、池子米軍住宅[注釈 18]内にレストラン&バー「クラブ・タケミヤ」を設置・運営している[64]

日米関係の好転と移民受け入れの再開[編集]

終戦を迎えると、ポツダム宣言を受諾して敗戦国となった日本は、連合国軍の占領下に置かれた。そのうえで、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支援を受け、国家の再建に取り組む事となった。因みに、占領期の日本では、元MISLS校長のジョン・アイソ(相磯藤雄)少佐や、ダグラス・マッカーサーGHQ最高司令官の副官兼個人通訳となった田上寛中尉を筆頭に、約8,000人の2世[注釈 19]が、GHQのスタッフとして勤務していたと、推測されている[44]。そして、その半分にあたる約4,000人は、G2翻訳通訳部に所属した。部員達は、憲法改正時の日米間折衝・東京裁判・BC級戦犯裁判・東條元首相の逮捕・真珠湾攻撃の総隊長だった淵田美津雄元海軍大佐への尋問・豊田副武元海軍大将の裁判など、占領史のあらゆる場面に立ち会う事となった[66]

時を同じくして、礼儀正しさ・勤勉さ・賢さ・「和」の精神といった日本的価値観が、アメリカでも広く知られるようになり、アメリカ人の対日観は、大きく変わる事となった。

こうした対日感情の好転に伴い、1952年6月27日には『移民国籍法』が成立。1世に帰化市民権が与えられると同時に、日本からの移民の受け入れが、28年振りに再開される事となった[67]

1953年8月7日には、『難民救済法英語版』が成立。1956年に失効するまで、所謂「GIベビー」として生まれた約2,500人の戦災混血児英語版と、1,005名の和歌山広島鹿児島からの農業移民が、アメリカへ渡った[68]

1965年に『移民及び国籍法英語版』が成立した事に伴い、『排日移民法』から引き継がれていた国別割当制度は、撤廃される事となった[69]エマニュエル・セラー英語版下院司法委員長が提案し、エドワード・ケネディ上院議員により強く支持された同法は、今日のアメリカにおける移民関係法の基盤となった。

リドレス運動の展開[編集]

補償請求に際しての困難[編集]

1948年7月2日に、日系人の強制収容に対する連邦政府による補償策としては、最初のものとなる『日系人退去補償請求法英語版』が、ハリー・S・トルーマン大統領によって署名された。しかし、国家補償の対象となる日系人達の損害・喪失は、文書によって証明できる不動産・私有財産に限られ、精神的苦痛や教育・職業によって見込まれた、逸失利益に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権時効期間も1年半と定められた。

1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、1950年末までに処理された請求は、僅か137件に留まった。それ以降も、1951年の修正法では、補償額を請求額の75%、または限度額より少ない額とする事とされた。更に、1956年の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で、補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、合衆国請求裁判所英語版[注釈 20]において、裁決が行われる事とされた。

同法に基づいた補償処理は、1965年に終了したものの、支払われた約3,800万ドルという賠償金の総額は、請求総額の約25%、日系人達が被った損害総額の10%未満に過ぎなかった[70]

『市民の自由法』成立に至るまで[編集]

そうした中で、1950年代半ば頃から黒人による公民権運動が展開され、結果として1964年に『公民権法』、翌1965年には『投票権法』が、相次いで制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達によって、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求める「リドレス運動」が、1970年代から展開されるようになった[71]

こうした動きを受け、JACLは1970年に、太平洋戦争中における日系人の強制収容に対する、謝罪と補償を要求する為の『全米補償請求委員会(NCR)』を設立し、同運動の嚆矢となった[72]

1976年2月19日[注釈 21]ジェラルド・R・フォード大統領は、『大統領令9066号』の正式な終了を確認する布告『アメリカの誓い』に署名。

「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」

と述べた[74][75]

1979年春にNCRは、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、民主党のダニエル・イノウエ上院議員とジム・ライト英語版下院議員によって、

  • 『大統領令9066号』に関する事実と、その影響に関する調査
  • 軍による指令の検証
  • 適切な救済策の提示

を目的とした、『戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会英語版(CWRIC)』の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は1980年7月31日に、ジミー・カーター大統領によって署名された[76][77]

その後、1981年7月から12月にかけて、ワシントンD.C.を皮切りに、ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・アンカレッジウナラスカシカゴ・ワシントンD.C.(第2回)・ニューヨークボストンの順で公聴会が開かれ、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった[78][79]

『市民の自由法』に署名するレーガン大統領と、その様子を見守る(左から)スパーク・マツナガ上院議員、ノーマン・ミネタ下院議員、パット・サイキ下院議員、ピート・ウィルソン上院議員、ドン・ヤング下院議員、ボブ・マツイ下院議員、ビル・ローリー英語版下院議員、ハリー・カジハラJACL会長。

CWRICは、1982年12月に『拒否された個人の正義(Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出。同報告書の内容は、翌1983年2月24日に公表され、「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けられた[80]。また、同年6月22日には、存命している約6万人の元収容者に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した[73][75][76][81]

1988年8月10日に、ロナルド・レーガン大統領は『市民の自由法英語版』に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、合衆国憲法で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明。また、1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者にのみ支払われる事と、全米の学校において、日系人の強制収容に関する教育を行う為の、総額12億5,000万ドルの教育基金を設立する事も、同時に発表された[76][77][78][82]

「日系アメリカ人」の多様化[編集]

世間一般における「日系アメリカ人」とは、戦前からの移民と、その子孫の事を指す。しかし、戦後になると、多くの日本人が定住者・半定住者・一時滞在者として、アメリカへ渡るようになった。

大まかな種類としては、

  1. アメリカで生まれ、幼少期を日本で過ごした「帰米2世」。彼等の多くは、戦後にアメリカへ帰国した。アメリカだけで過ごした2世が、小学校高学年頃から英語が第一言語となったのに対し、幼少期に日本へ渡った2世は、米英を敵視した日本の戦時体制もあって、自然の流れで日本語が第一言語となり、英語能力は衰退していった。その為「帰米2世」は、英語を第一言語とする一般的な2世ではなく、日本語を第一言語とする1世のコミュニティに溶け込む事となった。
  2. 連合国の占領下において、所謂「戦争花嫁」が夫を追う形で渡米し、アメリカ各地へ定住した。しかし、彼女達の居住地は、日系人の密集する地域とは異なり、日系コミュニティとは隔離された生活を送る事となった。
  3. 上述した通り、『移民国籍法』が成立すると、農業移民をはじめとする日本人が、少数ながらもアメリカへ渡るようになった。こうした戦後移民は、戦前と同じく、その多くが西海岸に定住する事となった。
  4. 1960年代には、日本の高度経済成長に伴い、日本企業の駐在員がアメリカの東西海岸都市に、次々と着任するようになった。70年代に入ると、駐在員とその家族も増え、特にニューヨーク・ロサンゼルス・サンフランシスコ・サンノゼなどでは、その人口が万単位にまで達した。
  5. 4.の現象に伴い、駐在員コミュニティによる様々なニーズを満たす必要性が生まれた。その事から、旅行代理店書店日本食材店・床屋美容室)・土産物店・中古車業者・弁護士医療従事者不動産紹介業者といった業務に従事する人々が、日本から移住するようになった。特にトーランスは、多くの日本企業が事業所を置いた事に伴い、日本食レストランをはじめとする、日本に関連する各種店舗が、国内の他都市と比して、人口当たりにおいて、非常に多く運営されるようになった事から、LAウィークリー英語版紙において、「実質的な日本の48番目の県」となぞらえられる事となった。
  6. 平成に入ってから増えた、「語学研修」と称しつつ、勉学には力を入れず、日本からの仕送りで気ままな「遊学」生活を送る、20歳前後の若者。

が挙げられる。

こうして、戦後にアメリカへ移住した日本人達は、「新1世」と呼ばれ、日系コミュニティに新たな要素を加える事となった。戦後からの移住者に共通している点は、日本語が母語であり、英語は後天的に習得したという事である。その為、彼等と一般的な日系人達との間は、母語や価値観の違いもあって、必然的に距離が生じる事となった。それでも、程度や形の違いがあるとは言え、どちらも日本文化を受け継いでいる以上は、交流や相互支援を強化する必要に迫られる場合もある。従来の日系コミュニティと、戦後に形成された「新日系社会」の間には、一概には語れない複雑さが横たわっていると言える。

そうした中でも、移住した地域に適応・同化しながらも、アメリカと日本を頻繁に行き来し、日本社会と強固な繋がりを保持した生活を営む戦後移民も、多く見られる。祖国の社会的・文化的習慣や価値観を有する、トランスナショナルな存在として、このような戦後移民が、アメリカ社会の一員を構成していく中で、既存の日系人達と如何にして交流を深め、新たなネットワークを構築するのか、アメリカ社会や日米関係にも影響しうる存在となるのかも、注目されている[83][84]

年表(江戸時代)[85][編集]

年表(明治時代)[85][87][編集]

1889年にハワイ島ヒロで建てられたハワイ移民集会所。現在では、愛知県犬山市博物館明治村に移築されている。
  • 1868年 - ユージン・ヴァン・リードの手引きにより、149人[注釈 22]の「元年者」が、ハワイへ到着。ただし、契約自体は江戸幕府とイギリス人ブローカーとの間で締結された3年間の労働契約であり、明治政府からは非公認だった。
  • 1869年
    • 会津藩の武器御用商人だったジョン・シュネルが、旧会津藩士ら約40人程[注釈 23]を連れ、明治政府に無許可でカリフォルニア州ゴールド・ヒルに移住。養蚕を目的とした「若松コロニー」を作るが、僅か2年で頓挫。シュネルは逃亡し、渡航した日本人は取り残されたが、詳しい消息が判明している事例は、少数である。
    • 「元年者」のうち40人程が、3年の労働契約満了を待たずに、日本へ帰国。
  • 1870年
  • 1871年 - 大日本帝国ハワイ王国との間で日布修好条約締結。「元年者」でアメリカ本土への渡航を希望する者に、明治政府がパスポートを発行。
  • 1872年 - 在ニューヨーク日本国総領事館が開設。
  • 1879年
  • 1881年 - 3月4日に、ハワイ王国(当時)のカラカウア王が訪日。明治政府にとっては、初めて迎える外国の国家元首だった。明治天皇と会見し、新たに日本からハワイへ、移民を送る事に合意する。
  • 1884年 - 在ホノルル日本国総領事館英語版が開設。明治政府が、日本人の海外渡航を正式に許可する。
  • 1885年
    • 日布政府間に協約が結ばれる。明治政府公認による、最初のハワイ官約移民943名(成人男子676名・成人女子159名・未成年108名)が、“シティ・オブ・トウキョウ”に乗船し、ホノルルに到着。
    • 石川県出身の白山谷喜太郎[注釈 25]が、オハイオ州シンシナティにあるロックウッド製陶に技師として招かれる。
    • 漁師のチャールズ・カメこと茂田浜之助が、ロサンゼルスのダウンタウン地区1番街340番地に、日本食店「カメ・レストラン」を開店。それ以降、日本人家庭25世帯が居住するようになり、日本人児童向けの学校も設立される。この事が、リトル・トーキョー発祥の基礎となる。
  • 1886年
    • 1月28日 - 『日布渡航条約』が調印される。同年3月6日より発効。
    • 4月10日 - 中村隼雄が、日本人により日本国外で創刊された日本語新聞としては、最初のものとなる『東雲雑誌』の第7号[注釈 26]を、サンフランシスコで発行する。
  • 1888年
  • 1890年 - カリフォルニア州への日本人による集団移民が、開始される。
  • 1891年 - ユニオン・パシフィック鉄道が、鉄道建設労働者に日系人の採用を開始。アイダホ州などへ、初の日本人移民が渡る。
  • 1892年
    • 福田清次郎が、マウイ島で日本語学校を開校。
    • 6月3日 - 小野目文一郎英語版が、ハワイにおける最初の日本語新聞「日本週報」を創刊。
    • 12月 - 古屋政次郎英語版が、シアトルで「古屋商店」を開業。日米両国の雑貨品・食料品の販売に加え、信託部を設置したうえで、日本人移民預金の取り扱いも開始する。後に、シアトルの本店以外にも、同市内の2店舗を含め、タコマ・ポートランド・バンクーバー・横浜・神戸にも、支店を展開するようになる。
  • 1893年
    • サンフランシスコ教育委員会が、日系人子弟の公立学校への入学を拒否する決議を採択(サンフランシスコ日本人学童隔離事件)。当時の珍田捨巳総領事の尽力により、撤回される。
    • ハワイ王国が崩壊。明治政府は邦人保護を目的に、軍艦「金剛」「浪速」をホノルルへ派遣。約130人がハワイを離れ、グアテマラへ向かう事を選ぶ。
  • 1894年
  • 1896年
  • 1897年 - 神州丸でホノルルに入港した日本人665名中587名が、無認可と50ドル不所持を理由に、税関より上陸を拒否される。再調査の結果、139名は上陸を許可されるも、残る448名は帰途につく事を余儀なくされた。
  • 1898年 - ハワイがアメリカ合衆国の属領となる。以後、ハワイからアメリカ本土への移民制限が緩和される。
  • 1899年 - 安孫子久太郎が、サンフランシスコで『日米新聞』を創刊。
  • 1900年代 - 日本人移民による土地の開墾と入植が始まる。
  • 1900年
    • 民間業者仲介によるハワイへの移民が、中止される。業者の仲介により、6年間で約3万5000人が渡航。その後は自由移民となる。
    • アメリカ本土への日本人移民の数が、初めて年間1万人に達する。
    • 3月12日 - ハワイ準州で、37名の日系人商人によって、「ホノルル日本人商人同志会(現:ホノルル日本人商工会議所)英語版」が設立される。
    • 12月22日 - 在シアトル日本国総領事館が開設。
  • 1901年
    • カリフォルニア州とネバダ州の議会が、連邦政府に対し、日系人移民を制限する建議書を送る。
    • 4月29日 - 迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が誕生する。
  • 1902年
    • 安孫子久太郎が、カリフォルニア州に日系人専門の人材派遣業「日本人勧業社」(後の日米勧業社)を設立。
    • 日系人によるアメリカでの初の出版物となる、野口米次郎による“The American Diary of a Japanese Girl”が、出版される。
    • シアトルで、アメリカ本土では初となる日本語学校が開校する。
  • 1903年
    • 西原清東が、テキサス州に移住。後年、同地における稲作を成功させる。
    • 南カリフォルニア大学在学中の山口正治・渋谷清次郎・飯島栄太郎によって、『羅府新報』が創刊される。1922年に、駒井ヘンリー豊策が編集長となって以降は、現在に至るまで、駒井家による家族経営となる。
  • 1905年
  • 1906年
    • サンフランシスコ教育委員会により、公立学校に在籍中の日系人子弟が、強制的に中国人学校へ転学させられるものの、翌年に措置は撤回される。
    • 連邦政府が帰化法を改正。司法省が全裁判所に対し、日本人の帰化申請を拒否する旨の訓令を発布。
    • 安孫子久太郎により、カリフォルニア州リビングストンに「大和コロニー」が設立される。
  • 1907年
    • 2月に施行された大統領令により、日本人によるハワイ準州・メキシコカナダからアメリカ本土への移住が禁止される。
    • 高見豊彦が、ニューヨークで「紐育日本人共済会(現:ニューヨーク日系人会)」を設立。
    • 古屋政次郎が、古屋商店信託部を移行させた「日本商業銀行」を創立。後に、「太平洋商業銀行」へ改称。
  • 1908年
    • 日米両政府間で前年から7度に亘り行われた書簡交換により、「日米紳士協約」に基づく日本人の移民制限が開始される。
    • 写真だけのお見合いをして、在米日本人男性のもとへ嫁ぐ女性、所謂「写真花嫁」の渡航が始まる。
  • 1909年
    • シアトルで「日本館劇場英語版」が、開館する。
    • 5月9日 - ハワイ準州オアフ島のサトウキビ耕地で、大規模なストライキが起こる。
  • 1910年
    • この頃から、2世の誕生が始まる。
    • シアトルで、日刊紙『大北日報』が創刊される。
    • 8月 - シアトルで、小笹三郎が設計を手掛けた「パナマ・ホテル英語版」が開業される。同ホテルは、現在でも営業しており、その一角は、シアトルの日本町にまつわる展示を行う「シアトル日系米国人博物館」となっている。
  • 1911年 - アリゾナ州において、アメリカ市民権を持たない外国人による、土地の所有及び一定年数以上の借地が禁止される。

年表(大正時代)[91][92][編集]

  • 1912年 - 牧野フレッド金三郎英語版が、ホノルルで『ハワイ報知』を創刊。
  • 1913年 - 5月2日に、カリフォルニア州で、アリゾナ州と同様の法律(カリフォルニア州外国人土地法)が成立。1世による、土地の購入及び一定年数以上の借地が禁じられる。5月10日に、珍田駐米大使が抗議声明を出すも、8月10日より施行される。同時期に、アリゾナ州では期限を問わず、1世による一切の借地が禁じられる。その後、ワシントン・オレゴン・アイダホ・モンタナ・テキサス・カンザスミネソタにも波及。
  • 1914年 - アメリカ・カナダの日本人会を統括する「太平洋沿岸日本人会協議会」が発足。
  • 1915年
  • 1916年 - 住友銀行が、ホノルルで現地法人「布哇住友銀行」を設立。
  • 1917年
    • 4月6日 - アメリカが第一次世界大戦に参戦。終戦までに、約800人の1世が戦地へ出征した。
    • 8月16日 - ハワイ準州で、白人兵が西部戦線へ出征した防衛隊英語版において、596名の1世から成る日本人中隊が、留守部隊として組織される。英語を解さない隊員が大半だったため、命令等は日本語で行われた[90]
  • 1918年 - 片山潜らが、ニューヨークで「在米日本人社会主義者団」を設立。翌年にアメリカ共産党が結成されると、片山は党幹部に選出され、同志達と共に「日本人部」を構成。
  • 1919年
    • ハワイ準州で、第一次世界大戦に従軍した、1世の退役軍人約400人に、アメリカ市民権を付与される。しかし、1922年に同措置は無効化された。
    • 11月 - 住友銀行が、シアトルで現地法人「沙港住友銀行」を設立。
  • 1920年
    • 1月19日 - ハワイ準州オアフ島のサトウキビ耕地で、2度目の大規模なストライキが起こる。
    • 2月25日 - 日本政府が、「写真花嫁」に対するアメリカ行きの旅券発行を停止。
    • 11月 - ハワイ準州において、『外国語学校取締法』が成立。翌年の7月より、施行される。
    • 11月2日 - カリフォルニア州において、『対外国人土地法修正法』が成立。アメリカ市民権を持つ未成年の日系人による土地所有も禁止される。1世は、我が子である2世を、抜け道的に土地所有者にする手段も、絶たれる事となった。翌年の1月に、幣原喜重郎駐米大使が抗議声明を出すも、2月にはワシントン州でも、同様の法案が成立。2州に住む1世達は、一連の差別法の合憲性を巡って訴訟を起こすも、1923年11月に連邦最高裁は、土地法修正法は合憲であると判断。これにより、日本人移民の中には農業を諦め、都市部へ流出していくほか、アメリカでの生活そのものに見切りをつけ、日本へ帰国する人々が、続出する事となった。
  • 1921年 - 6月に、連邦議会において『移民割当法』が制定される。
  • 1922年
  • 1923年
    • 7月 - 第一次世界大戦にアメリカ兵として出征した佐藤市蔵による、ハワイ準州で獲得した市民権を、本土へ渡った際に無効化された事を不服とした請求を、連邦最高裁が棄却。
    • 9月1日 - 関東大震災が発生。ロサンゼルスでは、「南加日本人救済本部」が設置され、義援金が約85万ドルに達した。全米各地における募金活動においても、約1,200万ドルが集まった。
  • 1924年
    • 埴原正直駐米大使が、4月にチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ国務長官へ宛てた『排日移民法』に抗議する旨の書簡が、アメリカ国内で問題化。これをきっかけに、連邦議会が排日に傾き、5月26日に同法が成立。施行は7月1日からだったものの、事実上本土へは6月24日の「シベリア丸」によるサンフランシスコ入港、ハワイへは6月28日の「笠戸丸」によるホノルル入港を最後に、日本人の移民が全面的に禁止された[注釈 31]。以降の日本人によるアメリカへの入国は、再渡航者・アメリカ出生者・旅行者・官吏及びその家族・通商航海条約の規定の下に商業を行う者・留学生等に限定される事となった。
    • 11月17日 - 日本において、当時の国籍法が改正され、アメリカ生まれの2世による日本国籍の放棄・離脱が認められる事となった。
  • 1925年
    • 沿岸警備隊において、給仕として10年以上に亘って勤務していた、豊田“ハリー”秀光上等兵曹が、1921年5月にアメリカ市民権を許可されるも、1923年5月に無効化された事を不服として提訴。マサチューセッツ州州裁判所では勝訴するも、連邦最高裁で逆転敗訴。これがアメリカにおける、1世による最後の帰化訴訟となった[90]
    • 住友銀行が、サクラメントで現地法人「加州住友銀行」を設立。

年表(戦前昭和期)[91][93][編集]

  • 1927年
  • 1928年
    • 当時19歳だった2世のマイルズ・フクナガ(福永寛)が、家庭の貧困と、両親がハワイ信託会社[注釈 33]の集金人から侮辱され続けていた事を苦に、同社への復讐を果たしたうえで、両親を故郷の山口県へ帰す為の費用を工面する事を計画。9月18日に、同社副社長の息子であるジョージ・ギル・ジェミソン(当時10歳)を誘拐。4,000ドルの身代金を奪って逃走したうえで、彼を殺害。数千人の群衆が、リンチを目的にフクナガが拘留されている警察署を取り囲むなど、ハワイにおける対日系人感情が、極めて悪化。同年10月に、ホノルル巡回裁判所は、フクナガに死刑判決を下す。弁護側は、心神耗弱を理由に再審を請求するも、翌1929年10月に連邦最高裁は、それを棄却。11月12日に、ハワイ準州知事のローレンス・ジャッド英語版は、死刑執行状へ署名。11月19日に、刑が執行される。日系コミュニティにおいては、実直な文学青年・ホテルマンといったフクナガの人となりや、犯行に至った背景などから、再審運動が起きたにもかかわらず、判決からあまりにも早く死刑が執行された事に、「ハオレ(白人)は日本人を馬鹿にしている」といった憤りの声が、多く挙がった[96][97]
    • 1世の森口富士松英語版が、ワシントン州タコマで「宇和島屋」を開業。
    • 古屋政次郎が、個人所有であった古屋商店の事業を、会社組織に変更。これに伴い、同商店を「太平洋商事会社」へ改称する。
  • 1929年 - 4月に、2世の城戸三郎らの呼び掛けによって、全米規模の日系人組織となる「日系アメリカ人市民同盟(JACL)」が、設立される。これに伴い、「太平洋沿岸日本人会協議会」は発展的解消となった。
  • 1930年代 - この頃から、カリフォルニアとハワイの日系人達が、ようやく経済的に安定した生活を送れるようになる。
  • 1930年
    • この頃から、アメリカで生まれた後に、渡日して教育を受け、帰国した「帰米2世」が増える。
    • 8月29日 - シアトルで、第1回JACL全国大会が開催される。
    • 11月4日 - 何れも2世の山城“アンディ”正義(民主党)と岡多作(共和党)が、ハワイ準州議会の下院議員、三宅昇英語版[注釈 34](共和党)がカウアイ郡の参事に、それぞれ日系人として初めて当選[98]
  • 1931年
    • 2世の沖野“トム”留吉が、アジア系として初めて、ハワイ準州下級判事となる。
    • 4~5月 - 高松宮宣仁親王喜久子妃が、昭和天皇の名代として、カナダとアメリカを訪問。5月27日には、サンフランシスコにおいて、日本人移民達の前でスピーチを行う。帰路途中の6月2日には、ハワイへも寄港。
    • 10月23日 - 太平洋商事会社と太平洋商業銀行が、世界恐慌の煽りを受け、経営破綻となる。
  • 1932年
  • 1933年
  • 1934年
  • 1935年
  • 1936年
    • 2月26日~29日 - 二・二六事件
    • 5月1日 - ハワイ準州ハワイ島では初のラジオ局となる、KHBCが開局。同時に、日本語放送も開始される。
  • 1937年 - この頃から、日本へ留学する2世が、続出するようになる。
  • 1938年
    • 3月25日 - 日本・ハワイ間通話開通式が執り行われる。
    • 7月15日 - 日本国政府が、1940年に予定していた札幌東京でのオリンピックと、万国博覧会の開催中止を、正式に決定する。
    • 7月26日 - アメリカが、日米通商航海条約の破棄を通告。翌年の1月26日に失効する。
  • 1939年
  • 1940年
    • ニューヨークで、1世のメソジスト教会牧師であるアルフレッド・アカマツ(赤松三郎)を代表とした「東部日本人共護委員会」が設立される。
    • 南加中央日本人会が、“米国最大の日本人密集地に相応しい名称とするべき”という名分のもと、「米国中央日本人会」と改称される。
    • 1月 - ハワイ準州で、日本語を含めた外国語によるニュース放送が禁止される。
    • 5月11日~10月27日 - ニューヨーク万国博覧会の第2期が開催される。
    • 6月28日 - ルーズベルト大統領が、『スミス法英語版』(正式名称:外国人登録法)に署名。1世を含めた、アメリカ市民権を持たない全ての外国人に、指紋登録が義務付けられる。
    • 10月16日 - 連邦政府が、日本への屑鉄輸出を禁止する。
    • 11月 - 2世の阿部三次英語版[注釈 36](共和党)が、日系人として初めて、ハワイ準州議会の上院議員に当選。
    • 11月4日 - 東京で、紀元二千六百年記念行事の一環としての「海外同胞大会」が開催される。アメリカを含めた海外諸国から、約1,500人の1世が参加。これに伴い、有田八郎議長・南郷三郎副議長・丸山鶴吉事務総長の三役の下で、「海外同胞中央会」が設立される。
  • 1941年
    • 6月6日 - FBIが、在ロサンゼルス総領事館駐在の立花止帝国海軍中佐を、スパイ容疑で逮捕。連邦政府は、立花と在シアトル総領事館駐在の岡田貞外茂帝国海軍少佐の2名に、ペルソナ・ノン・グラータを通告し、国外退去処分を下した(立花事件)。日本による第五列活動への恐れが、日系コミュニティを含めたアメリカ社会へ広がる[100]。これに伴い、羅府新報英文欄編集長の田中董梧英語版は、6月15日付の紙面で「今や日本は敵である」と明言し、2世は日本に銃を向ける覚悟がある事を、アメリカ社会へ向けて発信した。
    • 7月25日 - 連邦政府が、在米の日本資産を凍結。
    • 8月1日 - 連邦政府が、日本への石油輸出を禁止する。
    • 8月18日 - ジョン・ディンゲル・シニア英語版連邦下院議員(ミシガン州選出)が、ルーズベルト大統領宛に、日本が 「おかしな事」 を仕出かさない為の保証として、ハワイ在住の日系人1万人を、人質として抑留するよう示唆する旨の書簡を送る[100]
    • 9月17日 - 前年6月から、ハワイ各地で情報網の構築に取りかかっていたFBIハワイ支局のロバート・シャイバーズ局長が、アメリカに忠誠的な日系人の名前を、信頼できる筋から入手。同年11月末までに、情報源1,139名・連絡係50名・(73名の日系人を含めた)秘密情報提供者172名を、協力者として確保した。この様にFBIは、日系コミュニティ内における不穏な言動を把握する準備を、抜かりなく行っていた。当然ながら、日系人自身による情報提供は、日系コミュニティ内に深刻な相互不信と亀裂を招く事となった[100]
    • 10月 - 1世で米国中央日本人会会長の仲村権五郎と、2世の田中董梧が、ワシントンD.C.を訪問。多くの要人達に、日系人の窮状を訴えたほか、日米開戦に至った場合の、日系人に対する措置などを質問した。結果として、ルーズベルト大統領からは、温かい同情の言葉が寄せられ、フランシス・ビドル英語版司法長官からは、文書による「最悪の事態が起きても、善良な市民である日系人は、合衆国憲法によって身の安全が保障されている」といった約束を、取り付けるまでに至った。
    • 10月20日 - 日本郵船が、何れも戦前最後となる、バンクーバー・シアトル向けの氷川丸を横浜から、ホノルル向けの大洋丸を神戸から、それぞれ出航させる。
    • 11月1日 - サンフランシスコで、帰米2世の弁護士であるジョン・アイソを校長に据え、4名の日系人インストラクターと60名の生徒(うち58名は日系人、2名は滞日経験のある白人)により構成された、陸軍情報部日本語学校(MISLS)が設置される。
    • 11月12日 - リトル・トーキョーにある米国中央日本人会本部が、FBIの家宅捜査を受け、記録や名簿が押収された[55]

年表(第二次世界大戦期)[100][101][編集]

ハワイ全域から集まった2,686名の志願兵の為に、イオラニ宮殿前で行われた壮行会「アロハセレモニー」の様子(1943年3月28日撮影)
トゥーリーレイク収容所での日系人女性達(1943年8月撮影)
  • 1941年
    • 12月7日
    • 12月9日 - ハワイ準州では、この日までに地元警察・FBI・軍警察によって、日本国籍者345名が、拘束される事となった[注釈 37]
    • 12月11日 - 「東部日本人共護委員会」が、「日米民主委員会(JACD)」へ改称し、2世のトーマス・コムロ(小室勉)が委員長に就任。日本の軍国主義体制を真っ向から非難すると同時に、アメリカへの忠誠を誓う。
    • 12月22日 - ハワイ軍政府が、新聞に戦時公式政策を発表。「日本と開戦したとはいえ、日系人を解雇する余裕は無い」として、民間企業における彼等の再雇用を促す。同時に、「日系人の逮捕と捜査は継続するものの、集団強制立ち退きを実施する意図は無い」とも明言。
    • 12月23日 - 陸軍を名誉除隊した2世のラリー・タサカ(田阪貫一)が、ロサンゼルスでフィリピン系住民に刺殺される。同様の日系人を狙った殺害・傷害事件は、同月の24日・25日・29日・30日・翌年1月1日と続く。

1942年[編集]

  • 1月19日 - ハワイ準州における約2,000人の日系人兵士が、「4-C(徴兵不可の外国人)」に分類され、事前通告もないまま除隊させられる[55]
  • 1月26日 - 海軍情報局(ONI)が、ケネス・リングル少佐[注釈 38]による報告書を発表。
    「2世のうち3/4は、積極的にアメリカへ忠誠を示し、1世の大多数は高齢かつ無気力で、消極的忠誠を示す」
    「西海岸とハワイで綿密な調査をしたが、2世や居住歴の長い日本人から、妨害行為・破壊行為・スパイ行為・第五列的行為の証拠は、一切出てこなかった」
    「潜在的にアメリカに不忠誠な日本人移民・日系人は、3,500人未満である。そして、その殆どが既に拘引されている、若しくはONI・FBIが事前に把握している者達である。よって、日系人が軍事的安全に及ぼす脅威は、極めて小さい」
    と結論付けた。
  • 2月3日 - ジョン・エドガー・フーヴァーFBI長官英語版が、ビドル司法長官に、日系人への集団強制立ち退きを、熱烈に求める世論に関する分析を報告。
    「集団強制立ち退きの必要性は、事実に基づいたデータではなく、主として大衆の圧力と政治的圧力に基づいている」
    と結論付けた。
  • 2月19日
    • ルーズベルト大統領により『大統領令9066号』が、発令される。「保護」の名目で、西海岸に住む日系人全員に加え、ハワイの日系コミュニティにおける指導者と見なされた人々の計約12万人が、全米10ヶ所に建設された収容所に抑留される(日系人の強制収容)。
    • ハワイで逮捕され、抑留処分となった日系・ドイツ系・イタリア系をはじめとする「敵性外国人」に対する、最初の本土移送が実施される。 日本人抑留者の移送は、1943年12月2日までにかけて、10回に分けて行われた。
  • 2月23日 - ハワイ準州で、日系人からなる「大学勝利奉仕団(VVV)」が、第34戦闘工兵連隊のもとに編成される。
  • 3月18日 - 収容所に抑留された日系人の管理を担当する「戦時転住局(WRA)英語版」が設置される。
  • 4月2日 - カリフォルニア州人事委員会が、日系人州職員の全員解雇を表明。『エンドー事件』の原因となる。
  • 5月 - 陸軍情報部日本語学校の最初の卒業生達が、アリューシャン諸島ならびに南太平洋に派遣される。
  • 6月12日 - ハワイ出身の日系人兵士によって、「第100歩兵大隊」が編成される。
  • 6月17日 - 日本側の第一次日米交換船浅間丸が、横浜から出航。
  • 6月18日 - アメリカ側の第一次日米交換船・グリップスホルム号(スウェーデン船籍)が、ニューヨークから出航。
  • 6月20日 - WRAが、日系人の出所方針を決定する。
  • 7月12日 - 遠藤“モーリーン”ミツエの弁護人であるジェームズ・パーセルが、遠藤の身柄を管轄するWRAのミルトン・アイゼンハワー英語版局長を相手取って、北カリフォルニア地区連邦裁判所に人身保護令状の請求を申請。
  • 7月27日 - ニューメキシコ州にある戦争省が管轄するローズバーグ抑留所で、何れも1世の小畠都四郎と磯村広太が、クラレンス・バールソン上等兵によって射殺される。後に、バールソンは無罪となる(ローズバーグの殺人)。
  • 9月14日 - 西部防衛司令部長官のジョン・L・デウィット英語版中将が、西海岸における日系人の立ち退き完了を発表[55]
  • 10月 - 「海外同胞中央会」を母体とした、「敵国在留同胞対策委員会」が発足。太平洋戦争開戦に伴い、アメリカを含めた交戦国に抑留された日本人・日系人の救恤事業に取り組む。
  • 12月5~6日 - マンザナー収容所で、WRAとJACLによる収容所の支配体制に反発する抑留者が、JACLの幹部である2世の田山“フレッド”勝を、襲撃する暴動を起こす。当局により武力鎮圧され、2名が死亡。これを受けてWRAは、トラブルメーカーと見なした抑留者を隔離する為の施設を、12月10日よりユタ州モアブに設置する事とした。
  • 12月16日 - 統合参謀本部が、日系人のみで編成された戦闘部隊の創設を、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長に提案。翌1943年1月1日に、マーシャルがそれを承認。1月28日に日系人による連隊規模の部隊を、編制する事が発表された。

1943年[編集]

  • 1月4日 - WRAが、シカゴソルトレイクシティに、収容所からの再定住支援を目的としたエリア・オフィスを設置する。
  • 1月31日 - VVVの兵士達の希望に伴い、同部隊は解散となり、100大隊への入隊が可能となる。
  • 2月1日 - 「第442連隊戦闘団」が編成される。
  • 2月10日 - 収容所の日系人に、“Application for Leave Clearance(出所申請書)”が、配布される。質問27・28に記載された、所謂「忠誠登録」が、論争の的となる。
  • 3月 - ラジオ・トウキョウ(現:NHKワールド・ラジオ日本)が、アイバ・トグリをはじめとする、日本に居住する2世女性達で構成された「東京ローズ」を、DJに起用した連合国軍向けプロパガンダ放送『ゼロ・アワー』の放送を開始(~1945年8月14日)。
  • 6月21日 - 日系人への強制収容に抗議すべく、夜間外出禁止令に違反した、何れも2世の安井稔ゴードン・ヒラバヤシ(平林潔)が、連邦最高裁で有罪判決を受ける(ヤスイ対アメリカ合衆国事件英語版ヒラバヤシ対アメリカ合衆国事件英語版)。
  • 9月2日 - 「忠誠登録」に“No-No”と回答した者の割合が最も高かったトゥーリーレイク収容所[注釈 39]において、日本への帰国を希望した者達の第1陣が、第二次日米交換船[注釈 40]でアメリカを離れる。ただし、帰国希望者が当局側の予想を上回った事から、終戦まで同収容所に留め置かれた者も多かった。以降は、1946年2月23日に最後の送還船が出航するまで、4,724名の「No-No組」が、日本へ帰国する事となった[105][注釈 41]
  • 9月13日 - トゥーリーレイク収容所で、「Yes-Yes組」と「No-No組」の隔離が始まる。これ以降「Yes-Yes組」は、他の収容所へ送られる。5日後には、他の収容所における「No-No組」が、同収容所に到着する[注釈 42]
  • 9月14日 - 日本側の第二次日米交換船・帝亜丸が、5万斤、味噌7,000貫、醤油8,600樽、日本語書籍・囲碁将棋53トンから成る「敵国在留同胞救恤品」を積載し、横浜から出航。アメリカ国内の日系人収容所へ届けられる。
  • 9月22日 - 100大隊がヨーロッパ西部戦線に参戦。イタリアフランス英語版を転戦し、モンテ・カッシーノの戦いなど各地で、その激闘ぶりを賞賛される。
  • 9月29日 - イタリア戦線において、100大隊の高田“ジョー”繁雄三等軍曹が、日系人兵士として初の戦死者となり、殊勲十字章を授与される。
  • 11月 - トゥーリーレイク収容所において、アメリカ生まれの2~3世が日本へ渡った後に、「日本人」として生活できる下地を整える事を目的とした、収容者達の出資・運営による8校の国民学校が設置される[104]

1944年[編集]

  • 4月26日 - ハワイ準州で「第1399建設工兵大隊」が編成される。
  • 5月10日 - 連邦最高裁が、2世のフランク・エミ(江見清司)英語版をはじめとする、ハートマウンテン収容所における徴兵忌避者63名に関する起訴を受理。同年6月24日に、有罪・実刑判決が確定する[55]
  • 6月11日 - 100大隊が442連隊に統合される。
  • 6月22日 - ルーズベルト大統領が、『1944年復員兵援護法』に署名。この法案を期に、2世の教育水準は一気に高まる事となった。
  • 6月23日 - ニューギニアの戦いにおいて、MISの水足“テリー”行隆技術軍曹が、同部隊における初の戦死者となる。死後、銀星章と名誉戦傷章を授与される。
  • 7月1日 - ルーズベルト大統領が、『1944年市民権放棄法英語版』(通称:帰化取り消し法)に署名。アメリカ市民権の放棄を希望する収容者には、その権利が与えられる事となった。
  • 7月9日 - サイパンの戦いが、アメリカ側の勝利により終結。この結果、日本の絶対国防圏が、事実上破られる事となり、7月22日に東條内閣が総辞職する。
  • 10月18日 - MISの久保“ボブ”保一三等軍曹が、同年7月26日にサイパン島で、8人の日本兵と彼等により洞窟に監禁されていた122人の民間人を、一人の死者も出さず投降させた功績により、同部隊の隊員としては初となる殊勲十字章を授与される。
  • 11月23日 - 戦争省が、アメリカ市民権を持たない1世でも、所定の条件を満たした者に限り、陸軍へ志願する資格を与える旨を発表。結果として、終戦までに40名の1世[注釈 43]が、アメリカ陸軍兵として軍務に服した。
  • 11月29日 - オレゴン州フッドリバーで、郡庁舎にある「名誉の壁」から、16名の2世兵士の名前が削除される。しかし、翌1945年1月3日に、同州出身のMIS隊員であるフランク・ハチヤ(蜂谷忠一)三等軍曹が、フィリピンの戦いにおいて、勇戦の末に戦死。技術軍曹へ2階級特進したうえで、殊勲十字章と銀星章を授与される。これを期にフットリバーには、全米中から抗議の声が寄せられる事となり、同年4月29日に、16名の名前は壁に復元された。
  • 12月18日 - 連邦最高裁が、日系アメリカ人抑留そのものの違憲性を訴えた2世のフレッド・コレマツ(是松豊三郎)の主張を退ける(コレマツ対アメリカ合衆国事件)。同日、エンドー事件においては「忠誠な市民の身体を拘束しておく事は、憲法違反である」と判断する。これらの判決以降、WRAと戦争省は、日系人への強制収容と西海岸における立ち退き命令を継続させる事が困難となる。しかし一方で、この事は一部の収容者の間で、アメリカ市民権放棄の動きを加速させる事態を招き、終戦までに5,589名の日系人が、米国籍の放棄を申し出た。

1945年[編集]

年表(連合国軍占領期[109][編集]

442連隊の連隊旗に、自らの手で大統領部隊感状を括り付けるトルーマン大統領(1946年7月15日撮影)

年表(戦後昭和期)[112][113][編集]

(左から)ゴードン・ヒラバヤシ、安井稔、フレッド・コレマツ

50年代[編集]

60年代[編集]

70年代[編集]

80年代[編集]

年表(平成以降)[119][120][編集]

1990年代[編集]

2000年代[編集]

2010年代[編集]

2020年代[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1921年には「北米日本人会」と改称。1931年には、シアトル日本人商工会議所と合併し「北米日本人会商工会議所」に再編された。
  2. ^ ただ、これ以降も1世達は、進んで2世である子供達の日本国籍を届け出た為、2世の大半は日米二重国籍のままだった。2世による日本国籍の放棄が進むのは、日米関係の悪化に伴い、反日団体が2世による二重国籍問題を、攻撃の槍玉に挙げるようになった1939年以降である[10]
  3. ^ 永井荷風は、横浜正金銀行(現:三菱UFJ銀行)のニューヨーク駐在員だった頃、シアトルへ出張した際に目の当たりにした同地の様子を、『あめりか物語』において「何から何まで日本の町を見ると少しも変わった事のないありさま」であったと描写している[14]
  4. ^ 無論、異人種間の結婚が禁止されていないワシントン州やハワイ準州などでは、日系人が非日系人と結婚したようなケースもあった。そうした背景に基づくエピソードとして、ワシントン州の場合、特に友会徒モルモン教徒である非日系人と、交際もしくは結婚している子供・孫を持つ人物が、収容所に抑留されている間に、財産管理をしてもらう事に成功した事例も、少数ながら存在した[16]。また、映画『愛と哀しみの旅路』でも、異人種間の結婚が禁じられているロサンゼルスにおいて、恋愛関係になった白人男性と日系人女性が、シアトルへ駆け落ちをする描写がある。ハワイ準州の場合、後述する酒巻和男帝国海軍少尉の第一発見者となった、ハワイ準州防衛隊第298歩兵連隊G中隊のデビッド・アクイ英語版伍長は、日系人とハワイ先住民の混血であった[17]。日系人を中心に編成された第100歩兵大隊にも、“カホロクラ”・“カレイアロハ”・“ケアロハ”の姓を持ったり、日本姓でもハワイ先住民との混血である隊員が、約20名在籍したほか、華僑・フィリピン人・ポルトガル人との混血である隊員もいた[18]
  5. ^ 同地の元住民により構成された“ターミナルアイランダーズ”の元会長。2014年には、日本国政府から旭日双光章を授与されている。
  6. ^ ハワイ大学在学中に、予備役将校訓練課程(ROTC)を履修した事に伴い、当時のアメリカにおける2世としては、初めて予備役陸軍歩兵少尉に任命された1人となった。1931年の卒業と同時に、USARPACに入隊。ハワイ準州内における、日系コミュニティ及び日本総領事館の活動を監視すべく、総領事館で働く日系人から、情報提供者を確保するなどの、対諜報活動に従事した。1957年6月30日に、中佐の階級で退役。没後の1995年に、アメリカ軍情報部殿堂英語版入りを果たした[45]
  7. ^ 所属部隊も、大統領部隊感状を授与されている。
  8. ^ 両親は、ワシントン州タコマにおいて、初めて日本人男性と白人女性で結婚した夫婦だった[51]
  9. ^ インディアナ州エバンズビル出身のジェームズ・オグラ・ジュニアなる人物である事以外の詳細は不明。
  10. ^ コロラド州ロッキー・フォード英語版の出身で、1941年にコロラド鉱山大学を卒業している[52]
  11. ^ 陸軍軍人としての最終階級。1948年にアメリカ空軍特別捜査局英語版へ転属し、1975年に空軍中佐の階級で退役している。
  12. ^ 例えば、零戦の開発に携わっていた三菱重工業には、マサチューセッツ工科大学の卒業生を含めた、6名の2世が在籍していた。
  13. ^ 3~5,000人程と推計されている[58]
  14. ^ かまやつひろしの父にあたる。
  15. ^ 森山良子の父にあたる。
  16. ^ 広島県は、全国1位の移民送出県である。
  17. ^ 文化学院の校舎を接収した設置された施設である。
  18. ^ 建設に際しては、竹宮が民事部長として、地元住民や自治体との交渉にあたった、という背景がある[63]
  19. ^ この中には、前述した在日2世も、多く含まれていた。しかし、日本人待遇だった事から、給料は一般的な2世の1/7程度で、GHQ専用の車両・宿舎・食堂などの利用も禁じられるなど、職員ヒエラルキーでは、最下層の扱いだった[65]
  20. ^ 1982年に、現在の連邦請求裁判所英語版に改編される。
  21. ^ 現在のアメリカ合衆国において、同日は『追憶の日』と称され、日系人の強制収容に関連するイベントが、各地で催されている[73]
  22. ^ 外務省の資料では、153人とされている。
  23. ^ 詳細な記録がないため、正確な人数は不明。
  24. ^ 発表は1872年。多少の誤差を含む。
  25. ^ しらやまだに きたろう。英語では“Kataro”と誤表記されたまま後年に伝わる。
  26. ^ 明確な記録は残されていないが、創刊号が発行されたのは、同年2月だったという説が、現在では有力視されている。
  27. ^ 石坂昌孝の長男にあたる。
  28. ^ 林きむ子の夫にあたる。
  29. ^ 正確な統計は無いものの、官約移民の6割以上が、出稼ぎ目標を達成し、ハワイでの蓄えを携えて帰国したと推測されている[88]
  30. ^ 設立にあたっての趣意書には、
    同会は、1911年度から在米日本人会代表者会へ代表者を送り、羅府日本人会を中心に、漸く激化してきた加州排日土地法対策、その他諸般の問題処理に当たった。1914年4月9日、南加各地の日本人会代表者が集まり、排日土地法など時局多端に鑑み、従来の単なる連絡団体にすぎなかった『南加連合日本人会』を、独立団体に改組を決定…
    と記されている。
  31. ^ 最終的に、日本からハワイへの移住者数は、先に渡った家族に呼び寄せられた62,277人を含めて、199,933人にまで及んだ。その内、約3割は本土へ渡り、2割弱は帰国を選択した。
  32. ^ 松平忠厚の次男、徳川家康及び伊達政宗の9世孫にあたる。
  33. ^ 1997年9月30日に、バンク・オブ・ハワイにより吸収合併される[95]
  34. ^ 1948年に準州下院、1952年に準州上院の議員に、それぞれ当選している。
  35. ^ a b c d e f g h i j k l 元MISの一員である。
  36. ^ 出馬した時点では、日米両国籍を保持していたが、選挙の3日前に、日本国籍を放棄した。
  37. ^ 日本国籍者以外にも、日系市民22名・ドイツ国籍者74名・ドイツ系市民19名・イタリア国籍者11名・イタリア系市民2名が、身柄を拘束された。
  38. ^ 1928年から3年間に亘って、東京駐日アメリカ大使館海軍武官として駐在し、日本語日本文化を学ぶ。1936年7月からは、第14管区の情報将校補佐として、1年間ホノルルに駐在した経験などから、海軍きっての日本・日系コミュニティ通として知られるようになる。1940年7月に、第11管区の情報将校補佐としてロサンゼルスに赴任すると、西海岸の日系人によるアメリカへの忠誠心の度合いを調査する任務を受命。JACLメンバーの間に、情報提供者のネットワークを構築し、スパイの疑いがある者の情報収集に努めた。そのうえで、ロス市警やFBIとも連携し、1941年6月に在ロサンゼルス日本国総領事館へ深夜の抜き打ち捜査を実施。結果として、日本政府によるスパイの名簿を入手する事に成功し、立花止の逮捕に至る事となった[102][103]
  39. ^ トゥーリーレイクに「No-No組」が多かった理由として、WRAは「同収容所は、他所と比較して、独身の農業労働者が多かった。彼等は概して貧しく、成功の経験が無い事から、アメリカへの反感と日本への帰属意識を持つようになった」と分析している[104]
  40. ^ 使用されたのは、第一次と同じグリップスホルム号。
  41. ^ 終戦後に日本へ帰国した「No-No組」は、総じて荒廃した祖国を目の当たりにして、愕然とする事となった。1946年2月4日付の『羅府新報』には、「鶴湖帰国者の叫び」と題して、帰国者がトゥーリーレイク収容所に残る兄夫婦に送った、
    鶴嶺湖で強硬派として鼻息の荒かった連中も、日本の現状を見て、ガッカリしております。帰国請願により、祖国日本の土を踏んだ帰国者は、異口同音に“アメリカに居住していれば良かった”と本音を吐いております。何卒、当地の皆様に呉々もお伝え下さって、再考を促すように、お計らい下さい。
    と綴られた手紙が掲載された[106]
  42. ^ トゥーリーレイク収容所に送られてきた「No-No組」は、筋金入りの親日派や、アメリカに不忠誠なトラブルメーカーばかりだった訳ではなかった。自らの祖国ないし長年暮らした第2の祖国から、財産の没収・収容所への抑留といった仕打ちを受けた事への怒り・絶望から、日本寄りになった、ただ「忠誠登録」に“No-No”と回答した親に付き従っただけだった、など様々な背景があった[107]
  43. ^ ここで言う1世とは、幼少期に両親とアメリカへ移住し、同国で教育を受けた事で、帰米2世とは正反対に、日本国籍を持ちながら英語が第一言語となった、現在で言うところの、タレントのすみれのような「1.5世」と呼称される者達が該当する。
  44. ^ 東京商科大学(現:一橋大学)卒業。海軍飛行科予備学生第14期。元山海軍航空隊所属。
  45. ^ 階級はいずれも少尉。
  46. ^ 1952年に、準州上院議員に当選している。
  47. ^ 当時はNBAではなくBAA。
  48. ^ 当時はNFLではなくAAFC
  49. ^ 何度かの改称を経て、1980年に現在の名称である「南加日系商工会議所」となる。
  50. ^ 同戦闘に従事した2世は、兵士として最前線に赴いた者と、GHQにおける後方支援に携わった者を合わせて、約5,000人にも及んだ。休戦までに256名が戦死し、その内の17名は、第二次世界大戦にも従軍した者だった[114]
  51. ^ a b c 3ヶ国とも、大日本帝国の委任統治地域としての南洋諸島から、アメリカ合衆国大統領を施政権者とする太平洋諸島信託統治領に移行した歴史を持つ地域であり、初代大統領は日系人である。
  52. ^ 主人公・天羽賢治のモデルは、前述したデイヴィッド・イタミとハリー・K・フクハラであるとされている。
  53. ^ 他にも、同校における、MISLSの関係者に纏わる建物としては、校長だったジョン・アイソの名を冠した図書館、教官だった宗方豊の名を冠したホールが、それぞれ存在している。
  54. ^ 野口米次郎の長男にあたる。
  55. ^ 対象には含まれているものの、所在が確認できなかった為、支払いが叶わなかった者が、4,000人以上いた。
  56. ^ 2007年を最後に、実施されていない。
  57. ^ ウォーレス・タシマの長男にあたる。
  58. ^ 福岡市とオークランド市は、1962年10月13日に姉妹都市提携を結んでいる。

出典[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]