捕鯨

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捕鯨(ほげい)とは、クジラを捕獲することである。いわゆるイルカを対象とするものも含む。主に鯨肉鯨油採取目的で行われていた。現在は国際捕鯨委員会 (IWC) 「加盟国」において管理対象の13種類の大型鯨類については日本ノルウェーアイスランドと「原住民生存捕鯨枠」によるアメリカロシアデンマークグリーンランド)の北極圏先住民族が継続している。国際捕鯨委員会「非加盟国」においては、管理対象種の捕鯨はフィリピンインドネシアが継続しており、カナダは先住民の申請があった時に行っている。その他、国際捕鯨委員会の「管理対象外」の71種類のいわゆるイルカなどの比較的小型の鯨類については、各国の自主的な水産資源管理の範囲としていて、その詳細(捕鯨を行っている国や捕獲数量など)は把握されていない。

捕鯨用の

目次

[編集] 分類

国際捕鯨委員会(IWC)は、国際捕鯨取締条約 (ICRW:The International Convention for the Regulation of Whaling) 締約国の大型捕鯨を三つに分けて表現している。

  1. 商業捕鯨 - 明確な定義は無いが、事実上2.と3.を除く全ての捕鯨。
  2. 調査捕鯨 - ICRW第8条に基づく締約国の特別許可による捕鯨。
  3. 原住民生存捕鯨 - ICRW附表第13項に基づくIWCの特別許可による捕鯨。

近代においては捕鯨方式により次のように分けられている。

  1. 母船式捕鯨 - 洋上での鯨の解体・加工能力のある船を使用して行う捕鯨。
  2. 沿岸捕鯨 - 陸上施設で解体・加工する捕鯨。基地式捕鯨。

さらに、「大型捕鯨」と「小型捕鯨」の分類があるが、これには若干異なった三つの定義が存在する。

  • 第一の定義としてIWCで用いられる業態分類があり、要求される操業記録などに異なった規律が敷かれている。
  1. 大型捕鯨 - 積極的な定義は無い。
  2. 小型捕鯨("small-type whaling")- 動力船と捕鯨砲を用いて、ミンククジラトックリクジラアカボウクジラゴンドウクジラシャチを専門的に捕獲する捕鯨(ICRW付表第1条C項)。
  • 第二の定義として捕獲の対象がIWCの管理鯨種(大型鯨)かによる区別がある。ここでの「大型鯨」と「小型鯨」は法的な定義であり、おおむねクジラの体格とも一致するが、「大型鯨」のミンククジラより大きなツチクジラは「小型鯨」に分類されるなど例外もある。
  1. 大型捕鯨 - IWCの管理鯨種を対象とした捕鯨。具体的には全てのヒゲクジラ類、マッコウクジラキタトックリクジラ及びミナミトックリクジラのいずれか1つ以上を対象とする捕鯨。
  2. 小型捕鯨 - 1.以外のクジラ(イルカを含む)を対象とする捕鯨。
  • 第三の定義として日本の漁業法にもとづく分類としての「大型捕鯨業」と「小型捕鯨業」があり、これは「母船式捕鯨業」を加えた3分類となる。使用する捕鯨船の大きさや捕鯨砲の口径(小型は50mm以下)などに異なった規律がある。
  1. 大型捕鯨業 - 動力漁船により捕鯨砲(もりづつ)を使用してミンククジラ以外のヒゲクジラ又はマッコウクジラをとる漁業で母船式捕鯨業以外のもの。
  2. 小型捕鯨業 - 動力漁船により捕鯨砲を使用してミンククジラ又はマッコウクジラ以外のハクジラをとる漁業で母船式捕鯨業以外のもの。
  3. 母船式捕鯨業 - 処理設備のある母船などと捕鯨砲を使用して鯨をとる漁業。

[編集] 捕鯨の歴史

この項では世界各地および日本における、古代から商業捕鯨モラトリアムに至るまでの捕鯨史について記述する。

[編集] 世界における捕鯨史

[編集] 先史時代

ノルウェーにおいては紀元前3000年以降と見られるイルカまたはを描いた洞窟壁画が発見されている。このうち鯨はいずれも小型のハクジラ類であるとみられ、周期的にフィヨルド内へと回遊していた個体を捕獲していたと考えられている。

朝鮮半島の南東部、慶尚南道において鯨を描いた洞窟壁画が存在する。これらの岩壁画は青銅時代から鉄器時代にかけてのものと見られ、金属器を用いて比較的大型の鯨を捕獲していたとされる。

[編集] バスク人による捕鯨

16世紀の捕鯨
18世紀グリーンランドにおける捕鯨
18世紀オランダ船によるホッキョククジラの捕鯨
後方の島はヤンマイエン島

イベリア半島北岸のビスケー湾に居住するバスク人による捕鯨は、一般的に11世紀頃にノルマン人から伝習されたのが起源であるとされている。文献としては11世紀からバスク人が独占的に捕鯨を行っていたことが分かっており、舌が貴族層の嗜好品として、鯨肉は沿岸住民の食用に饗されていた。13世紀に入ると、バスク人による捕鯨業はさらに発展拡大した。当初は日本での例と同様に、北方へと回遊する鯨を漁獲していたが、漁場はビスケー湾だけでなく大西洋にもおよび、大西洋北部のニューファンドランド島ラブラドル沖における漁場を開発するなど、1560年代にはその最盛期を迎えた。に次ぐバスク第二の輸出品として、鯨油を中心とした各部位はヨーロッパ全域へと販売された。バスク人に対して国王から独占権を与えられる代償として、種々の課税も設けられた。

この頃のヨーロッパにおいて鯨油は、主に灯火用として用いられていた。この他にはヒゲが甲冑帽子コルセットの骨などの装飾品に利用されている。1570年代には50隻余りの捕鯨船が北大西洋で活動し、捕鯨業に関わる人々は4000人にものぼったと推定されている。鯨の群れが発見されない場合の経済的リスクが大きかったため、バスクでは捕鯨船の船主、艤装と販売を担当する商人、船長および乗組員の三者でコストと利益を三等分する仕組みが取られていた。さらに一航海ごとに保険が掛けられており、その保険率は15%程度に定められていた。

この後三十年ほどの間にバスクでの捕鯨は激減してしまう。この原因は鯨の減少、ユグノー戦争八十年戦争の影響の他に、捕鯨業がさらに大規模化したために資本の薄いバスクが不利と成ったことなどが挙げられる。以後、バスク人は他国の捕鯨船に船員として乗船する形態になっていった。

[編集] 北大西洋における捕鯨

1590年代にオランダウィレム・バレンツ北東航路の開拓を目指し、北極海への探検航海を繰り返した。彼はこの過程でスピッツベルゲン島を発見し、その付近に大型のホッキョククジラが生息していることを確認した。北東航路開拓そのものはその後イングランドの探検家によって不可能であることが明らかとされたが、理想的な捕鯨場を発見したオランダおよびイングランドの捕鯨船団がスピッツベルゲンへと向かった。イングランド船団を運営するロンドンモスクワ会社ジェームズ1世から特許状を獲得し、バスクの熟練乗組員を用意、大砲20門あまりを装備した私掠船たる捕鯨船を急行させ、公海における漁の自由を訴えるオランダ船から、特許状を掲げて獲物を回収した。オランダ船もバスク人を雇い入れ捕鯨船を武装化し、スピッツベルゲン島周辺におけるイングランドとオランダの争いは武装捕鯨船同士の争いから軍艦の出動にまで発展したが、1618年になり島の分割とその沿岸海域での捕鯨独占権を相互に承認することが定められた。1630年代後半になると、早くもスピッツベルゲン付近のホッキョククジラが枯渇し始め、捕鯨船団はグリーンランド西部のデイディス海峡からノルウェー沖に至る北大西洋をクジラの姿を求めて彷徨った。波の高い外洋を乗り切るため、捕鯨船は大型化、補強され、捕殺したクジラは船の脇で解体されて脂皮が樽詰めされた。1650年頃以降に出船数はピークに達し、毎年250~300隻の捕鯨船が出漁して1500~2000頭のホッキョククジラを捕獲していたと見られる。

1680年代になると、一時的にオランダの優位が確立した。オランダの捕鯨会社はヨーロッパの鯨油市場を独占し、その利益はアジアとの香辛料取引を上回るまでになった。スピッツベルゲンに設けられた捕鯨基地スミーレンブルクの漁期には、港が鯨で埋め尽くされ、数千人の労働者が昼夜製油作業に従事していた。18世紀後半に捕鯨を再開したイギリスそしてアメリカの捕鯨船も加わり、20世紀に入ると大西洋におけるセミクジラとホッキョククジラはほぼ姿を消した。世界の海上覇権を握っていたイギリスの捕鯨船は太平洋へも進出し、バフィン島付近において新たな捕鯨場を発見することになる。

[編集] アメリカ式捕鯨

北米大陸東岸では17世紀中頃、マッコウクジラから良質の鯨油が採れることがわかり、セミクジラと並びこれを捕獲対象とした捕鯨が開始される。北米でも当初は沿岸捕鯨から始まったが、資源の枯渇から18世紀には大型の帆走捕鯨船を本船としたアメリカ式捕鯨へと移行する。この捕鯨は主に油を採取し肉等は殆ど捨てるという商業捕鯨であり、日本の様にクジラ全てを用いるものではない[1]。操業海域も太平洋が中心となり、新たな資源を求めて太平洋全域へ活動を拡大していった。北ではベーリング海峡を抜けて北極海にまで進出してホッキョククジラを捕獲し、南ではオーストラリア大陸周辺や南大西洋のサウス・ジョージア諸島まで活動した。日本周辺にも1820年代に到達し、極めて資源豊富な漁場であるとして多数の捕鯨船が集まった。操業海域の拡大にあわせて捕鯨船は排水量300トン以上に大型化し、大型のカッターでクジラを追い込み、銛で捕獲し、船上に据えた炉と釜で皮などを煮て採油し、採油した油は船内で制作した樽に保存し、薪水を出先で補給しながら(このような事情が日米和親条約締結へのアメリカの最初の動機であった)、母港帰港まで最長4年以上の航海を続けるようになった。捕獲用器具としては手投げ式の銛に加え、1840年代に炸薬付の銛を発射するボムランス銃 (Bomb Lance Gun、ボンブランスとも)と呼ばれる捕鯨銃が開発された。捕獲対象種にはコククジラやセミクジラ、ザトウクジラも加わり、鯨油と鯨ひげの需要に応じて捕獲対象種の重点が決定された。19世紀中頃には最盛期を迎え、イギリス船などもあわせ太平洋で操業する捕鯨船の数は500~700隻に達し、アメリカ船だけでマッコウクジラとセミクジラ各5千頭、イギリス船などを合わせるとマッコウクジラ7千~1万頭を1年に捕獲していた。南大西洋ではアザラシ猟も副業として行い、アフリカから奴隷を運んではアザラシ猟に従事させ、その間に捕鯨をしていた。捕鯨船の母港となったナンタケットニュー・ベッドフォードは大いに繁栄した。メルヴィルの『白鯨』は、この時期の捕鯨を描いたものである。

太平洋においても大西洋の場合と同様に資源の減少が起きた。カリフォルニア州沿岸のコククジラは激減し、マッコウクジラやセミクジラも大きく減少した。アメリカ式捕鯨による西太平洋でのセミクジラ資源減少は、日本の古式捕鯨の衰退にも影響したとの見方がある。

こうした資源枯渇に加え、ペンシルベニア州での油田発見による灯火用の鯨油需要減少や、北米西部でのゴールドラッシュに捕鯨労働者の多くが転向したことにより、アメリカにおける捕鯨は衰退に向かった。


  • 参考文献
地学雑誌 Journal of Geography 114(4) p.561-p.578 大崎晃 19世紀アメリカ捕鯨航海誌 ニューイングランドにおける捕鯨マニュファクチャの考察

[編集] ノルウェー式捕鯨

セミクジラなどの資源が各地で枯渇したのに対し、遊泳速度が速く捕獲が困難なうえ死亡すると水に沈んでしまうナガスクジラ科の鯨類は資源が豊富に残っていた。そこで、これらを捕獲するために、1864年ノルウェーのスベンド・フォインが開発したのが、ロープ付の銛を発射できる捕鯨砲と動力付の捕鯨船を使用するノルウェー式捕鯨である。最初にノルウェー沿岸で行われて成果を挙げた後、アイスランドやフェロー諸島でも使われ、最終的には全世界へと広まった。20世紀初頭に鯨油の硬化技術が開発されると、石鹸やマーガリン原料として鯨油需要が拡大し、捕鯨も再び栄えるようになった。ノルウェー人の捕鯨船員は各国の捕鯨船乗組員として広く採用され、1920年代後半までは多くの捕鯨国で欠かせない存在であった。

1903年には近代的な採油設備を搭載した捕鯨母船(捕鯨工船)が実用化された。これにより、基地設備の無い場所でも捕鯨を行うことが可能となった。

遊泳速度の比較的遅いザトウクジラを皮切りに、シロナガスクジラなどナガスクジラ科の鯨類も次々と捕獲され、急激に資源が減少していった。

[編集] 南極海における捕鯨

資源枯渇に対し、再び操業海域変更による産業継続が図られ、大西洋を南下した捕鯨船はサウス・ジョージア諸島やサウス・シェトランド諸島に基地を設けて活動した。20世紀初頭には、これらの島を拠点に、手付かずに近かった南極海での本格的な捕鯨が始まった。まず、ノルウェーが操業をはじめ、すぐにイギリスが続いた。1923年にはロス海にノルウェー船団が進出した。イギリスは南極周辺で領有権を主張しノルウェー捕鯨船の排除を試みたが、ノルウェーは洋上で鯨を収容して解体できるスリップウェー付の捕鯨母船を1925年に投入し、公海上での捕鯨で対抗した。この新型捕鯨母船はイギリスも採用するところとなり、1930年には両国あわせて40隻近い母船と200隻以上の捕鯨船を南極海に出漁させた。ノルウェーとイギリス以外の国も南極海での捕鯨に関心を抱き、1934年に日本、1936年にドイツが捕鯨船団を出漁させた(パナマとアメリカは便宜置籍船)。

南極海は他の漁場に比べて資源量が大きかったが、それでも乱獲により資源減少は生じた。ザトウクジラが最初の捕獲対象となり、1910/1911年期には8000頭以上が捕獲されたが、1918年には200頭以下に激減してしまった。以後は、シロナガスクジラが主たる捕獲対象となり、頂点となった1930年には3万頭近くが捕獲された。その後、シロナガスクジラは減少してしまい、1930年代後半にはナガスクジラが頭数の上では中心となった。

第二次世界大戦による2年間の中断後、1943年にはノルウェーが操業を再開した。イギリスと日本も捕鯨船団の再建を行い、1946年には新たにオランダとソ連、南アフリカも加わった。以後、1960年頃まで母船数は約20隻で、鯨油約40万トンが生産される状況が続いた。捕獲対象はシロナガスクジラの減少が止まらず完全にナガスクジラが中心となり、ナガスクジラは約2万8千頭の捕獲が続いた。南極海の通常型シロナガスクジラはついに1963年に禁漁となった。ナガスクジラも1963年以降に捕獲が激減し、代わってイワシクジラが捕獲されるようになった。

[編集] 日本における捕鯨史

日本の捕鯨{鯨漁(くじらりょう)、古くは勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)という}は、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代の3期に分けることができる。

突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨においては日本各地で近年まで行われていた。この内、突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨はイルカ漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。また受動的捕鯨(座礁したクジラやイルカの利用)についても食品衛生法に抵触する恐れがあり、原則好ましくないとされるが、一部地域では慣習(伝統文化)として積極的に恵みとして食用利用する地域も残っている。

(かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている)

[編集] 先史捕鯨時代

日本における捕鯨の歴史は、縄文時代までさかのぼる。約8000年前の縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、(やす、矠とも表記)先の石器が出土していることや、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたと見られている。

弥生時代の捕鯨については、長崎県壱岐市原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代中期の甕棺に捕鯨図らしき線刻のあるものが発見されており、韓国盤亀台の岩刻画にみられる先史時代捕鯨図との類似性もあることから、日本でも弥生時代に捕鯨が行われていた可能性が高いと考えられるようになった。原の辻遺跡では、弥生時代後期の出土品として、鯨の骨を用いた紡錘車矢尻なども出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。もっとも、大型のクジラについては、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨[2]を解体していたと見られている。

北海道においても、イルカなどの小型のハクジラ類の骨が大量に出土している。6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から綱付きの離頭銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られ、その影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至るまで断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙うという[3]。鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていたという。

[編集] 初期捕鯨時代

奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている。

鎌倉時代鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている。

海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも12世紀には湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた。

[編集] 突き取り式捕鯨時代

突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある。

鯨記』(1764年明和元年著)によれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたの1570年頃の三河国であり6~8艘の船団で行われていたとされる。16世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては、1561年三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には1591年土佐国長宗我部元親豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする常習的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心1614年慶長15年)に著したとされる『慶長見聞集』において「関東海にて鯨つく事」という一文があり文禄期(1592~1596年)に尾張地方から鯨の突き取り漁が伝わり、三浦地方で行われていたことが記述されている。

戦国時代末期にはいると、捕鯨用のが利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾熊野水軍を始めとする各地の水軍海賊出身者たちであった。紀州熊野太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、1606年慶長11年)に、泉州堺(大阪府)の伊右衛門尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用のを使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し突組と呼称された。この後、1618年元和4年)忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸安房沖、遠州灘土佐湾相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている。

1677年に網取り式捕鯨が開発された後も突き取り式捕鯨を継続した地域(現在の千葉県勝浦など)もあり、また明治以降にも捕鯨を生業にしない漁業地において大型のクジラなどを突き取り式で捕獲した記録も残っている。

[編集] 網取り式捕鯨時代

1677年延宝5年)には、同じく太地浦の和田金右衛門頼照の次男、和田角右衛門頼治後の太地角右衛門頼治)が、それまで捕獲困難だった座頭鯨を対象として苧麻(カラムシ)製の鯨網を考案、銛と併用する網掛け突き取り捕鯨法を開発した。[4]。さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これにより捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。「抵抗が激しく危険な親子鯨は捕らず、組織捕鯨は地域住民を含め莫大な経費のかかる産業であったため不漁のときは切迫し捕獲することもあった。「漁師達は非常に後悔した」という記述も残っており、道徳的な意味でも親子鯨の捕獲は避けられていた。もっとも、子鯨を死なない程度に傷つけることで親鯨を足止めし、まとめて捕獲する方法を「定法」として積極的に行っていたとの記録もある。」という解説もあるが、1791年(寛政3年)、五代目太地角右衛門頼徳の記録では「何鯨ニよらず子持鯨及見候得者、・・・もりを突また者網ニも懸ケ申候而取得申候」とあり、また太地鯨唄にも「掛けたや角右衛門様組よ、親も取り添え子も添えて」とあり、鯨の母性本能を利用した捕鯨を行っていた。当初は遊泳速度の遅いセミクジラコククジラなどを穫っていたが、後にはマッコウクジラザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では「角右衛門組」鯨方太地浦紀州藩営鯨方古座浦新宮領主水野氏鯨方三輪崎浦を中心として、捕鯨事業が繁栄することになった。

土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門義平によって1624年寛永元年)には突き取り式捕鯨が開始されていたが、その嫡子、多田吉左衛門清平が紀州太地浦へと赴き1683年天和3年)に和田角右衛門頼治から網取り式捕鯨を習得している。この時、吉左衛門も鯨を仮死状態にする土佐の捕鯨技術を供与したことにより、より完成度の高い技術となり、太地浦では同年暮れより翌春までの数ヶ月間で96頭の鯨を捕獲した。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を習得させている。この網取り式の広まりにより、捕獲容易なコククジラなどの資源が減少した後も、対象種を拡大することで捕鯨業を存続することができたとも言われる。

『古式捕鯨蒔絵』、太地


[編集] 江戸時代の捕鯨産業

鯨の多様な用途
江戸時代の鯨は鯨油を灯火用の燃料に、その肉を食用とする他に、骨やヒゲは手工芸品の材料として用いられていた。1670年寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると[5]、鯨油は除虫材としても用いられるようになった。天保三年に刊行された『鯨肉調味方』からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は(こうがい)やなどの手工芸品に、毛は綱に、皮はに、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料に、マッコウクジラの腸内でできる凝固物は竜涎香として香料に用いられた。
組織捕鯨と産業
江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれのによる直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの加子を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英シーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる。
捕鯨を生業としない地域の紛争
鯨組などによって組織捕鯨が産業化されたため流通、用途、消費形態などが確立されたことから以前より一層、鯨の価値が高まった。島しょ部性(面積あたりの海岸線延長の比率)の高い日本において捕鯨を行っていない海浜地区でも湾や浦に迷い込んだ鯨を追い込み漁による捕獲や、寄り鯨や流れ鯨による受動的捕鯨が多く発生するため、鯨が齎(もたら)す多大な恩恵から地域間の所有や役割分担による報酬をめぐって度々紛争になった。これを危惧した江戸幕府は「鯨定」という取り決めを作り、必ず奉行所などで役人の検分を受けた後、分配や払い下げを鯨定の取り決めにより行った。

[編集] 砲殺式捕鯨時代

江戸時代末期、ペリー来航を期として開国[6]すると、海軍養成の目的も兼ねて西洋式の新たな捕鯨法に関心が集まるようになった。難破した漁船からアメリカの捕鯨船に救助された中浜万次郎は、1863年に幕府の命令によってアメリカ式捕鯨法を試験的に試みている。この他にも福岡藩山口藩仙台藩などの地域においてアメリカ式捕鯨法が行われたが、いずれも知識や道具の不足によって失敗している。

明治時代に入ると、従来の網取法とアメリカ式捕鯨において用いる捕鯨銃を組み合わせた漁法が行われるようになった。この際に用いられた捕鯨銃は1840年代にアメリカで開発されたボムランス銃 (Bomb Lance Gun、ボンブランスとも) と呼ばれる物で、銛に爆薬が仕込まれており、手持ち式または甲板に固定して用いられた。金華山漁業株式会社などが行ったといわれる。網取法との併用は明治時代末まで続いた。捕鯨銃は改良されながら太地のゴンドウクジラ捕鯨などで1950年代まで使用されている。

ボムランス式捕鯨銃

さらに、漁港周辺の漁場では資源が不足するようになったため、ノルウェー式捕鯨法による遠中距離の漁場における捕鯨が試みられるようになる。捕鯨砲を装備した捕鯨船によるこの漁法は、朝鮮近海において操業していたウラジオストックを基地とするロシア太平洋捕鯨会社の活動に影響を受けていた。明治30年前後には捕鯨基地港において捕鯨会社が相次いで設立され、鮎川のように従来は捕鯨が行われていなかった東北や北海道にも捕鯨会社が進出した。日本近海におけるロシア、アメリカ、イギリス等の外国捕鯨船による捕鯨の活発化を懸念した明治政府も、1897年(明治30年)に遠洋漁業奨励法を発布し国内捕鯨の近代化を後押ししている。

ノルウェー式捕鯨の導入にあたっては捕鯨用具の購入はもとより、砲手もノルウェー人を雇い入れていた。乗組員には旧鯨組の漁師が多く含まれ、彼らの中から日本人の砲手も育成されていった。北九州などでは「山見」などの鯨組時代の組織がそのまま捕鯨会社に活用されていた。解体技術にも旧来の方式が引き継がれていた。

1908年(明治41年)に活動していた日本における捕鯨会社は12社28隻に達していた。政府は、日本近海における鯨の頭数を保護することが必要であると認識しており、過当競争防止の必要もあって1909年(明治42年)に鯨漁取締規則を発布し、全国の捕鯨船を30隻以下に制限している。捕獲対象はナガスクジラとマッコウクジラ、イワシクジラが中心となり、資源の減少したセミクジラやザトウクジラに替わって捕獲された。

昭和期になると母船式遠距離捕鯨が開始され、日本捕鯨株式会社(現在の日本水産株式会社)や大洋捕鯨株式会社(現在のマルハ株式会社)による南極海でのシロナガスクジラ捕鯨が行われるようになった。南極海での母船式捕鯨は、輸出用の鯨油生産が主目的で、外貨獲得源として重視された。既存の沿岸漁業との競合防止[7]のため製品の持ち帰りが制限されており、日本では冷凍輸送が未発達であったこともあって鯨肉の利用は極めて限定的だった。また、鯨油タンクや船団への補給用燃料タンクを持つ捕鯨母船は、タンカーとしての運用が可能なため、軍事上の観点からも政府の支援が行われた。

第二次世界大戦の際には捕鯨船の多くが軍に徴用され、うち捕鯨母船はタンカーに転用されて総て失われた。かくて母船式捕鯨は一旦中断したものの、1946年(昭和21年)には再建が開始され、食肉供給源および鯨油輸出による外貨獲得源として重要産業となった。捕鯨船団は急速に拡充され最大7船団に達し、1950年代の終わり頃からは世界最大の捕鯨国となった。戦前は国際的な捕鯨管理枠組みには参加していなかったが[8]、戦後に国際捕鯨委員会 (IWC) が設置されるとこれに加盟した。

捕鯨船団の構成はさまざまであった。最盛期の代表例として日新丸船団の場合は次の通りであり、数万トンに達する大船団であった。

  • 捕鯨母船日新丸(16,811トン) - 捕獲したクジラの解体作業を行う。
  • 付属捕鯨船12隻 - 600~700トン級。うち探鯨船1隻、曳鯨船2隻で残りはキャッチャーボート
  • 鯨肉冷凍工船3隻 - 計2万総トン
  • 冷凍鯨肉運搬船6隻 - いずれも1000トン級
  • タンカー(13,155トン) - 給油船と鯨油運搬船を兼ねる。

技術的発展としては、1951年(昭和26年)に「平頭銛」が開発されたことや魚群探知機の導入などがある。先端が平らな平頭銛は水中での直進性に優れ、浅い角度で命中した時の跳弾も少ない銛で、日本海軍が開発した九一式徹甲弾の技術が応用されていた。

操業は資源の減少により対象種をシロナガスクジラからナガスクジラ、さらにイワシクジラやクロミンククジラへと移しながら継続されたが徐々に縮小され、1976年(昭和51年)には水産会社ごとの操業は断念されて日本共同捕鯨株式会社に統合された。1982年(昭和57年)にIWCで商業捕鯨停止が決議されると、後に日本もこれを受け入れて、1986年(昭和61年)に南氷洋での商業捕鯨としての母船式捕鯨は完全停止された。1988年(昭和63年)には、太平洋でもミンククジラとマッコウクジラの商業捕獲が停止した(商業捕鯨モラトリアム)。

現在では、母船式捕鯨と沿岸捕鯨を併用した調査捕鯨と、IWC管理対象外の鯨種(小型鯨類)を対象とした漁業としての沿岸捕鯨のみが行われている(詳細は後述の#日本における捕鯨参照)。

[編集] 年表

鯨の料理
  • 紀元前6000年ころ、日本の千葉県館山市の稲原貝塚からイルカの骨に刺さった黒曜石のヤス先の石器が出土している。
  • 紀元前3000年ころ、日本の縄文時代三内丸山遺跡からクジラの骨が出土している。
  • 紀元前3000年以降、ノルウェーで小型ハクジラ捕鯨を描いた洞窟壁画が残される。積極的な捕鯨の証明。
  • 700年ころ、古事記神武天皇に鯨肉を奉った話がある。
  • 11世紀、ビスケー湾でバスク人が大規模な捕鯨を開始する。
  • 1200年ころ、日本でも「突取式捕鯨」が生まれる。
  • 1590年代、オランダが北極海でホッキョククジラ捕獲を開始。
  • 1606年、日本の和歌山県太地浦で捕鯨用の銛を使った「組織捕鯨」が始まる。
  • 1677年、日本の和歌山県太地浦で「網取式捕鯨」が始まる。
  • 17世紀ころまでに、欧州の国々による乱獲で北大西洋のコククジラが絶滅。
  • 1868年、ノルウェーが捕鯨砲を実用化。ノルウェー式捕鯨を開始。
  • 1903年、オランダが世界初の捕鯨用工船を就役させる。
  • 1904年、ノルウェーが南極海のシロナガスクジラ捕獲を開始。イギリスが続き1931年にピークを迎える。
  • 1925年、ノルウェーがスリップウェーを装備した本格的捕鯨母船を就役させる。
  • 1931年国際連盟の枠内でイギリス、ノルウェーなど8カ国がジュネーブ捕鯨条約を締結(1936年発効)。タイセイヨウセミクジラの禁漁や親子鯨の捕獲禁止などを定めた。
  • 1932年、鯨油生産調整のため、一部捕鯨会社の協定でシロナガス換算方式(BWU)の捕獲枠設定を開始。
  • 1934年、日本が南極海でのシロナガスクジラ捕獲を開始。
  • 1937年、イギリス、ノルウェーなどがロンドン国際捕鯨協定締結。コククジラの禁漁。南極海のシロナガスクジラ捕鯨の漁期制限開始。マッコウクジラ肉を除く鯨体の採油への完全利用などを定める。
  • 1946年、国際捕鯨取締条約 (ICRW) 締結。これにより2年後国際捕鯨委員会 (IWC) 成立(日本は1951年加盟)。
  • 1963年、IWCで南極海の通常型シロナガスクジラの商業捕獲が禁止される。
  • 1974年、IWCが「新管理方式(NMP)」採用。以後ナガスクジラやイワシクジラなど次々と商業捕獲禁止となる。
  • 1982年、IWCで商業捕鯨の一時停止決議(商業捕鯨モラトリアム)。日本も1985年に受け入れ。
  • 1987年、日本が南極海でミンククジラ捕獲調査を開始。
  • 1988年、日本が北太平洋でのミンククジラとマッコウクジラの商業捕鯨を中止。
  • 1994年、IWCが「改定管理方式 (RMP) 」採択。
  • 1997年、ノルウェーが北大西洋でのミンククジラの商業捕獲をしていることを公式に認める。
  • 2006年、アイスランドが北大西洋でのミンククジラの商業捕獲再開を宣言(翌年には再停止)。

[編集] 現代の捕鯨

現在でも、一部の国では捕鯨が継続されている。この項では日本とそれ以外の国に分けて、現代における捕鯨の実施状況について述べる(なお捕鯨継続の是非に関して議論があるが、これについては捕鯨問題参照)。

[編集] 世界における捕鯨

大型商業捕鯨
IWCの商業捕鯨モラトリアム決議に対して、国際捕鯨取締条約 (ICRW) 第5条に基づく異議申し立てを行ったノルウェーが1993年に再開を宣言し、ミンククジラを対象に沿岸捕鯨を行っている。近年の捕獲実績は年に600頭前後で、2006年は1052頭の捕獲枠に対し捕獲実績は546頭である。アイスランドも2006年に商業捕鯨再開を宣言してナガスクジラとミンククジラ各7頭を捕獲したが、翌年に再停止している。ただし、日本への輸出のめどが立てば直ちに商業捕獲を再開するとしている。
調査捕鯨
ICRW第8条に基づき加盟国の権利として認められるもので、実施国政府が科学調査目的として特別許可証を発行して行っているものである。過去にはカナダソビエト連邦などが調査捕鯨を行ったことがあるが、近時行っているのは日本(後述)のほかアイスランドのみである。アイスランドは2003年から2007年にかけてミンククジラを対象に捕獲調査を行っており、計200頭を目標にして年に約30頭を捕獲している(詳細については国際捕鯨委員会#条約第8条による特別科学許可 (scientific permit) 参照)。
原住民生存捕鯨
ICRW附表第13項に基づきIWCが設定した「原住民生存捕鯨枠」の中で行われているもの。現在設定されているのはアメリカアラスカ及びマカ族)、ロシアチュクチ)、デンマークグリーンランド)、セントビンセント・グレナディーンの各先住民族によるものである。2008-2012年の捕獲枠はアメリカ及びロシア関係のホッキョククジラが5年で280頭、コククジラが5年で620頭。グリーンランドが1年にミンククジラ約200頭とナガスクジラ20頭、ホッキョククジラ2頭。セントビンセント・グレナディーンがザトウクジラを5年で20頭(詳細は国際捕鯨委員会#2007年年次会合の結果参照)。
国際捕鯨委員会管轄外の捕鯨
ICRW締約国の小型捕鯨と、非締約国の大型捕鯨・小型捕鯨が含まれる。締約国の中ではデンマークのフェロー諸島自治領で、ゴンドウクジラなどを対象に捕獲が行われている。またICRWに拘束されない非締約国のフィリピンインドネシアレンバタ島など)、カナダ(1982年にIWC脱退)先住民も捕鯨を継続している。いずれも生産物の多くは伝統的な方法により共同体内で分配される。マッコウクジラやシャチを捕獲するインドネシアのレンバタ島の場合、分配後の鯨肉の大半は農耕部族との交易に用いられている[9]
その他
以上のような積極的な捕獲とは別に、他の漁業活動の際に混獲されてしまう場合がある。流し網漁でのイルカ混獲が、絶滅を招くおそれがあるとして問題となったことがある[10]。IWCでも資源への影響可能性について議題に取り上げている。漁獲対象外として廃棄処分になることがある一方、韓国のように、国内法で小型捕鯨を含む積極的捕獲は全面禁止しつつも、混獲鯨類の利用については許容している国もある。ただし、韓国では違法な積極的捕獲も確認され検挙されている。

[編集] 日本における捕鯨

現在は、母船式と小型船を併用した調査捕鯨が南極海と北西太平洋で行われているほか、IWC管轄外のハクジラ類を対象とした沿岸捕鯨が漁業として行われている。

[編集] 日本の調査捕鯨

調査捕鯨の実施主体は、日本政府から特別許可証を発給された財団法人日本鯨類研究所である。捕獲を含む実際の調査活動は、母船式捕鯨に関しては共同船舶株式会社に、沿岸調査については小型捕鯨業者(後述)に委託する方式で行われている。共同船舶社は、商業捕鯨末期の共同捕鯨社の後身である。

南極海の商業捕鯨停止の翌年1987年に調査開始し、初年度は南極海のクロミンククジラ273頭を捕獲した。以後は次第に頭数・調査対象種などを拡大し、2008年現在では南極海でのクロミンククジラ850頭前後を中心に、ナガスクジラや北西太平洋のミンククジラ、イワシクジラなど総計で約1300頭を捕獲している。捕獲調査の副産物は有効利用が条約で義務付けられており、副産物として生じた鯨肉は一般販売のほか学校給食などの公益事業に供され、その収入は調査捕鯨の費用に充てられている(副産物の詳細については鯨肉#現在の流通参照)。

[編集] 日本のIWC管轄外の沿岸捕鯨

日本ではIWC管轄外の沿岸捕鯨は、農林水産大臣が認可する小型捕鯨業と、都道府県知事が認可するいるか漁業に区分され、さらに後者は捕獲方法で突きん棒漁業追い込み漁業に細分され、それぞれに捕獲枠の設定が行われている。突きん棒漁は手投げ式の銛による捕獲方法、追い込み漁は湾などに漁船で群ごと追い込んで網で閉じ込める捕獲方法で、水族館などの飼育用生体の捕獲も追い込み漁の一環として行われている。このほかに沖縄県の一部ではパチンコと通称されるクロスボウにより銛を発射する方法が行われているが、法律上の区分としては突きん棒漁に含まれている。

小型捕鯨業ではツチクジラゴンドウクジラ、いるか漁業ではイシイルカを中心にゴンドウクジラやハンドウイルカなど各種小型ハクジラ類の捕獲が行われている。このほか小型捕鯨業は1920年代から商業捕鯨モラトリアムまでの間はミンククジラを重要な捕獲対象としており、そのため小型捕鯨業用の捕鯨船は通称「ミンク船」と呼ばれていた。また、突きん棒漁師はクジラ以外にカジキなども漁獲対象としていることが多い。

母船式の商業捕鯨停止直後には、特にイシイルカ捕獲が年間で推定4万頭となるなど代替需要に応じて生産が拡大されたが、現在では約1万5千頭に減少している。調査捕鯨拡大やJAS法改正による表示の厳密化(「ミンククジラ」「イシイルカ」などの種別表示等が必要)などでハクジラ類鯨肉の市場価格が下落しているため、漁船の燃料費高騰と重なって経営難に陥る漁師も出現している。

[編集] 日本でのその他の捕鯨

以上のような積極的な捕鯨とは別に、魚網などで混獲された小型鯨について地域的な利用を許している。またシロナガスクジラなど一部の希少種を除く大型鯨についても、定置網にかかった場合に限り、DNA鑑定用の試料採取など一定の手続の下で利用を許可している[11]。小型鯨の利用実態は不明であるが、定置網での混獲大型鯨に関してはミンククジラ年間約100頭を中心に利用が行われている。なお、漂着したクジラ死体や集団座礁したクジラに関しては、食品衛生上の観点から利用は推奨されていない[12]

[編集] 現在日本にある捕鯨基地

[編集] 捕鯨と文化

捕鯨活動に関連して、捕鯨従事者など特有の文化が生まれた例がある。日本では、捕鯨従事者を中心にその地域住民に捕鯨行為に対しての安全大漁祈願や、鯨に対する感謝や追悼の文化が各地に生まれた。「鯨一頭(匹)七浦賑わう(潤う)」という言葉に象徴され、普段、鯨漁を生業としない海浜地域において鯨を捕獲してその地域が大漁に沸いた事や鯨に対しての感謝や追悼を記念し後世に伝承していた例もある。詳細は捕鯨文化を参照。鯨産品の用途一般については鯨骨鯨ひげ鯨油を参照

[編集] 食文化

食用・食文化に関しては鯨肉鯨骨を参照。

[編集] 伝統工芸

  • 鯨細工
  • 鯨鼈甲細工

詳細は捕鯨文化鯨骨を参照。

[編集] 鯨墓・鯨塚

日本各地に「鯨墓」(げいぼ、くじらばか)、「鯨塚」(くじらづか)などと呼ばれる記念碑がある。これは、捕鯨により食料や金銭を得られたことに対する感謝や追悼の気持ちを表して建てられたものである。捕鯨を主要な漁業として日常的に行っていた漁村には必ずといってよいほど存在するが、特定の故事をきっかけに建てられたとの伝承が残されているものもある。山口県長門市大分県臼杵市のものが有名。

詳細は捕鯨文化鯨塚鯨墓を参照。

[編集] 鯨神社・鯨寺

日本各地に鯨に纏わる神社があり、俗称として鯨神社と呼ばれているものもある。多くは鯨の遺骸の一部(骨など)が御神体になっていたり、捕鯨行為自体を神事としている神社などがある。なかには鯨のあご骨でできた鳥居を持つ神社もある。

日本各地に鯨を供養した寺があり、俗称として鯨寺と呼ばれているものもある。多くは鯨の墓や戒名を付けたりなどしているが、鯨の過去帳を詳細に記述している寺などがある。なかには鯨観音とよばれる観音をもつ寺もある。

詳細は捕鯨文化を参照。

[編集] 鯨唄・鯨踊り・鯨太鼓

日本各地に鯨に対するの感謝や追悼を表した唄がある。主に鯨漁を生業にしていた鯨組により奉納されたものであり、現在も伝承され無形文化財指定を受けるものもある。山口県長門市通の通鯨唄などが有名で、所作として鯨への哀悼の意味から合いの手は禁止されているのが特徴である。他には組織的捕鯨の発祥の地とされる和歌山県太地町の太地鯨唄や千葉県勝山浮島神社に伝わる鯨唄や佐賀県唐津市呼子町の鯨唄などが挙げられる。また鯨に対する漁の感謝や追悼を表した「鯨踊り」や「鯨太鼓」などの伝統芸能も各地で伝承されている。

詳細は捕鯨文化を参照。

[編集] 鯨絵巻・捕鯨事典

「古座浦絵巻」や「鯨志」などの鯨や捕鯨の様子を綴った絵巻や事典が古くから日本に多数存在する。

詳細は捕鯨文化を参照。

[編集] 脚注

  1. ^ マッコウクジラに関してはワックス分が機械油としては優秀な反面、それを含む肉は食用に向かず、多食すれば下痢をするという代物であり、基本的に食用に向かない。マッコウクジラ#脳油(鯨蝋)鯨肉#鯨種と食味も参照。
  2. ^ 江戸期の文献では、沖で死んでいる鯨を「流鯨」、浜に打ち上げられた鯨は「寄鯨」と呼称している。寄鯨に関しては漁師が追い込んで座礁させたものも含まれる。
  3. ^ コディアック島などの先住民にも同様にトリカブトの捕鯨への使用例がある。
  4. ^ ただし、他の地域にも独自に網取り式を開発したとの伝承もあるが、「一、延宝五丁巳年和田角右衛門頼治鯨網工風始候而・・・苧網ニ而専ら鯨を捕事太地浦より余國ニ者是迄相始り不申候」二代目太地角右衛門頼盛が記している。
  5. ^ 油を水田に注いで水の表面に被膜をつくり、イネの穂を笹などで払い害虫(ウンカ類)を落とすと、虫の表面に油が付着し、気門がふさがれて窒息死する。後には魚油や菜種油なども用いられるようになった。明治時代になると鯨油から石油へと転換され、第二次世界大戦後までウンカ類の防除法として利用された。
  6. ^ ペリー来航の目的は日本近海で捕鯨に従事する米国船への燃料・食糧・水の補給地を確保するためであった。
  7. ^ 鯨肉については沿岸捕鯨との、鯨油については鰯油などの魚油生産との競合が懸念された。
  8. ^ 交渉は行ったが、結局、参加に至らなかった。
  9. ^ 小島 曠太郎『クジラと生きる―海の狩猟、山の交換』(中央公論社,1999年)ISBN 978-4121014573,ISBN 412101457X
  10. ^ そのため、流し網漁の対象でもあるマグロの缶詰などで、イルカの保護に配慮して漁獲したことを表示した製品が存在する(en:Dolphin safe label参照)。
  11. ^ 破損した定置網の修繕費用や休漁損害、死体の処分費用などが多額となるため、それらの補償の一部に充てられる。もっとも、伝統的な寄り鯨利用と同じように地元民に無償分配されることもある。
  12. ^ 1988年には北海道で、死亡漂流していたツチクジラを食用として販売し、552人がサルモネラ菌に感染する集団食中毒が発生している。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

捕鯨史の項は以下の文献を参考に執筆した。

その他、

  • 小松正之 『よくわかるクジラ論争』(成山堂書店)
  • 喜多義人 「国際捕鯨委員会と商業捕鯨の禁止」『日本法学』第71巻4号(日本大学法学会)所収
  • 喜多義人 「商業捕鯨の合法性と必要性」『日本法学』第73巻第2号(日本大学法学会)所収

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ