杜の都

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杜の都(もりのみやこ)とは、宮城県仙台市の雅称。「杜の都・仙台」として、全国的に知られている。

この項目では、仙台が「杜の都」の異名を取るようになった経緯などについて述べる。

目次

[編集] 「杜」の由来

(ト)」とは、中国古来の意味では山野に自生する落葉果樹ヤマナシコリンゴなど)を指すが、国訓としての「杜(もり)」は、神社の「鎮守の森」、「ご神木」を意味し、漢語自然林)と国訓(人工林、二次林)の間には意味の差異がある。

仙台の場合は、「杜(もり)の都」と国訓を使っていることからも判るように、仙台藩伊達政宗の積極的な植林奨励策によって仙台城下町に植えられた「人工林」「屋敷林」の多さと美しさから、あたかも杜の中に街が出来たかのように見えたため(実際は「街に杜が」育った)、大正時代頃から一般に「杜の都」の異名が定着したとされている。

[編集] 歴史

[編集] 江戸時代の植林

伊達政宗による仙台開府以前、この土地は「宮城野」と呼ばれており、仙台平野には風雪を防ぐ木がほとんどなかったと言われている[1]。また、仙台の気候風土や地形的な特色のため、城下町を開くには積極的な植林奨励策が必要とされた。植林された樹木は、防風林防雪林防火林として機能したのであり、現在よりも森林が豊富であったであろう江戸時代に、美観のために植林されたのではない。

防風林・防雪林・防火林としての樹種は、冬季に葉が繁茂している必要があるためスギマツなどの常緑樹が中心であり、落葉樹が主である周囲の山や丘陵地の樹種とは異なった。ただし、樹勢の良いカラマツなどの落葉針葉樹も用いられた。

なお、江戸時代は小氷期にあたり、現在より気温が低かった(参照)。現在の仙台地方気候極相林については、東北大学植物園#天然記念物「青葉山」を参照。

[編集] 防風林・防雪林

仙台平野の旧来の農家は、(小山・丘も含む)と平野田んぼ)との際に立地していることが多い。山と平地との境は井戸の水位が浅いという利点もあるが、山によって冬季の北風西風ナライ)が遮られるため、強度をあまりあげなくても住宅(茅葺木造)を建てることが出来る利点があった。

山から離れた平野に建っている旧来の農家の住宅には、冬季の風雪に耐えるため、例外なく北側から西側にかけて防風林・防雪林が植えられている。これはイグネ居久根…屋敷まわりの杜)と呼ばれる。

なお、仙台平野に至る秋の台風は、ほとんど「雨台風」であって風速がそれほど大きくないため、屋敷林に台風対策の面はあまりない。

[編集] 防火林・水利

冬の仙台平野は、基本的に奥羽山脈で雪雲が遮られるため、晴天で乾燥し、空っ風が吹く。このために火事が頻発し、木造住宅が密集すると類焼が引き起こされる。江戸の場合、町人町で木造住宅が密集していたが、この冬季の火事類焼を防ぐために「火消し」集団を組織したり、防火水槽を設置したりして対応した。

仙台は河川中流域の河岸段丘上に城下町が開かれたが、一般的な河岸段丘とは異なり、地下5-10mにある不透水層のおかげで井戸の水位は浅くも深くもなかった。しかし、火災のような緊急の場合には充分な消火用水を確保できなかった。そのため侍屋敷では、建坪を200坪以上の広さにすることで屋敷同士を離し、また防火林として居久根を築くことで類焼対策とした。また、屋敷林を増やすことにより井戸の水位もさらに浅くなったと考えられている(城下町の人口増に対応するため、四ツ谷用水という上水道も整備された)。

[編集] 明治・大正期

明治時代になると、仙台では1889年市制が施行され、第二高等中学校東北帝国大学第二師団など、国の主要機関が設置されるなど、六大都市に次ぐ都市として発展していった。

日露戦争によって大量の戦死者が出ると、1904年(明治37年)8月27日仙台城天守台(本丸)に招魂社(のちの宮城縣護國神社)が建立され、第二師団管下と山形県の戦死者の一部が祀られた。この期に及び、仙台城の天守台が初めて一般開放された。天守台からの仙台の眺めは、周囲の丘陵地の森林に加え、広瀬川沿いに生えた草木、段丘崖に繁茂する樹木、そして河岸段丘上の屋敷林に囲まれた旧侍屋敷など、視野全体に広がる緑に覆われた街であった。ただし、仙台城からの眺められる範囲にある屋敷は、ほぼ全て仙台藩の上級家臣の邸宅であり(→片平丁)、庶民が住んだ現在の仙台市都心部は遠くに霞むかたちになっている。

このような仙台の発展と天守台の一般開放が重なった明治時代後期から「の都」と言われるようになり、既に1909年(明治42年)の観光案内パンフレット仙臺塩釜松島遊覧の栞』に記載例が見られる[2][3]。その後、大正時代には仙台の異名として定着し、昭和初頭には「の都」と表されるようになったと言われる。

[編集] 第二次世界大戦後

第二次世界大戦の末期、1945年7月10日に仙台市街は戦略爆撃によって焼き尽くされた(仙台空襲)。この空襲によって市街地にあった屋敷林も同時に焼かれ、仙台は「杜の都」とは言えない状況になった。

戦後の復興において、市当局は市街地を縦横に貫く広幅員の街路を計画し、計画線上の家屋は取り壊された。防風林としての機能があった屋敷林が戦災で無くなったこと、広幅員の道路が風をよく通したこと、細い道も含めて道路舗装が中々行き届かなかったこと、等等のため、復興期の仙台の街では埃が舞って「仙台砂漠[4]」と言われた。「杜の都」の再生を願い、街路への植樹が段階的に行われ、青葉通りでは1950年(昭和25年)頃から1965年(昭和40年)頃までにケヤキが植えられた。

1976年3月31日になると仙台市電が廃止された。これにより、道路に余裕が出来たため、市電の通っていた道路では中央分離帯に植樹がなされたり、両脇の歩道を広げて植樹がなされた。1978年6月12日宮城県沖地震では、ブロック塀の下敷きになって死亡する例がみられた。そのため、ブロック塀から生垣への作り替えに市が助成を出すようになり、市中心部のみならず、郊外においても緑化が促進された。

1978年日本レコード大賞を受賞したさとう宗幸の「青葉城恋歌」は、仙台に「杜の都」のイメージを定着させ、その知名度を全国的に上げる契機となった。

[編集] 現在

定禅寺通りの様子
定禅寺通りの様子

戦災や都市の近代化の流れの中、屋敷林(常緑樹)は失われてゆき、替わって定禅寺通りなどの並木道(落葉樹)や緑化公園、または都心周囲の保全林などに「杜」の象徴が移った。特に定禅寺通りのケヤキ並木は市民に親しまれ、江戸時代の屋敷林に用いられたスギ・マツ・カラマツから、ケヤキへ「杜」の象徴が変化しつつある。また、宮城県沖地震の後の、ブロック塀から生垣への作り替えなどもあって、新しい「杜の都」に変貌した。現在、定禅寺ストリートジャズフェスティバル in SENDAISENDAI光のページェントなどの仙台の都市イベントは、その「杜」を想起させる定禅寺通りや勾当台公園で好んで開催され、多くの市民を惹き付けている。

[編集] 仙台を表す記号

近年、「杜」(もり)の一文字で「仙台」を表す例が増加している。「杜の囲碁サロン」「杜のホテル」、その他店舗の名前として、自然林とも人工林とも関係なく「杜」という言葉が用いられている。当然、「杜」は仙台を指しているが、仙台を指す場合は「杜の...」「~の杜」というように「杜」単独で用いられることは少ない。ただし、団体名において、「杜都」と書いて「もりと」「とと」と読ませる例も見られる。

他の地方でも「自然と共生」している施設や公園などに「杜」という言葉を使う例があるが、宮城県では「仙台」または「仙台都市圏」という意味が付加されていることが多い。公共施設の他、自然の多い住宅地や自然の中の喫茶店などに「~の杜」という命名も見られる。住宅地の場合は「~の丘」「~ヶ丘」と命名する代わりに用いられていると考えられるが、いずれにせよ、「仙台市または仙台郊外」「自然と共生」という意味あいを含んでいる。

なお、仙台を示すものを列記すると、以下のようになる。

  • 記号
    • 「杜」(←杜の都より)
      • 」「フォレスト(forest 英語)」「ラ・フォーレ(la forêt 仏語)」「セルバ(selva 西語)」
      • 」「グリーン(green 英語)」「ヴェール(vert 仏語)」
    • 青葉」 (←仙台城の雅名「青葉城」や青葉山より)
    • 「ケヤキ」(←杜の都の象徴の樹木。仙台市木。zelkova)
    • 」(←ミヤギノハギ。仙台市花。bush clover)
    • 「伊達」(←伊達氏伊達政宗
    • 「竹に雀」(←伊達家の家紋)→すずめ踊り
  • 異名(→仙台参照)
  • 異字
    • 仙臺(せんだい)
    • 千代(せんだい、ちよ)

[編集] 具体例

[編集] 杜の都

「杜の都」を企業名や通称名に用いるもの。

その他、「仙台支部」と称する代わりに「杜の都支部」としている団体もある。

[編集]

「杜」を仙台または仙台都市圏を表す記号として用いている主なもの。住宅地の名称や商店名は除く。

[編集] 脚注

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[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク