ケネディ大統領暗殺事件

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ケネディ大統領暗殺事件
Kennedyb.jpg
暗殺直前のケネディ大統領夫妻。前列がコナリー・テキサス州知事夫妻。
場所 アメリカ合衆国テキサス州ダラス
座標 北緯32度46分44.51秒 西経96度48分31.21秒 / 北緯32.7790306度 西経96.8086694度 / 32.7790306; -96.8086694座標: 北緯32度46分44.51秒 西経96度48分31.21秒 / 北緯32.7790306度 西経96.8086694度 / 32.7790306; -96.8086694
日付 1963年11月22日
概要 暗殺事件
攻撃手段 ライフル銃による狙撃
死亡者 ジョン・F・ケネディアメリカ合衆国大統領
負傷者 ジョン・コナリーテキサス州知事
犯人 リー・ハーヴェイ・オズワルド
対処 逮捕

ケネディ大統領暗殺事件(ケネディだいとうりょうあんさつじけん、John F. Kennedy assassination)とは、1963年11月22日金曜日、現地時間12:30にテキサス州ダラスで第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが市内をパレード中に銃撃され死亡した事件である。犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドが2日後に警察署管内でジャック・ルビーに撃たれて殺され、しかも大統領が後方から撃たれたとする公式見解に反して前方から撃たれたとする異説も出て、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な事件発生と犯人が殺害される意外な展開、そしてその後に暗殺の動機も背後関係も分からないまま多くの謎を残し、陰謀説も多い事件として半世紀が過ぎた現在でも論議を呼ぶ事件である。

事件概要[編集]

テキサス遊説の背景[編集]

ケネディ大統領が1963年11月下旬にテキサス州を遊説することにしたのは以下の三つの理由からであった。

  • 翌1964年11月の大統領選挙に向けて民主党選挙戦資金の寄付を求めるため。
  • その大統領選挙での再選へ向けての選挙活動の開始。南部諸州は以前は民主党の金城湯池と言われて牙城であったが、前年とこの年の夏にアフリカ系住民に対する人種差別について強硬な姿勢を取ったケネディに対する反感が渦巻き、翌年の大統領選挙で共和党から立候補が確実視されていた超保守派のゴールドウォーター[1]に南部諸州を全て勝たれるとの予想が秋頃から民主党にはあった。そこで南部の中で唯一民主党が勝利する可能性があるのがテキサス州であった。選挙人数も南部で最大の州であり、ジョンソン副大統領の地元でもあり、最初のテコ入れをテキサス州にして、最低でもテキサスだけは確保するつもりであった[2]
  • 前回1960年の大統領選挙では、ジョンソンの地元であるのにケネディ-ジョンソン組がテキサス州では辛うじて勝っただけで(ダラスでは共和党に敗北した)、しかもテキサス州の民主党が保守的なコナリー知事とヤーボロー上院議員(ケネディと親しい関係)が対立していて、このテキサスの民主党有力メンバーとの関係を修復させる狙いもあった。

行程はサンアントニオからヒューストンを経てフォートワースからダラス、最後はオースチンに行き、そしてオースティン郊外のジョンソン牧場で副大統領夫妻と週末を過ごす予定であった。11月22日の朝にフォートワースでの朝食会に出席して[3]、終了後飛行機で大統領夫妻はダラスに向かった。現地時間11:40にダラス・ラブフィールド空港に到着した。

その後は「ダラス・トレードセンター」で昼食会が予定されてスピーチを行うために、自動車パレードはダラス・ラブフィールド空港からダラス市内を通って、デイリー・プラザを含むダウンタウンを通過することが計画されていた。

防弾カバー使用拒否[編集]

透明な防弾カバーをかぶせたリンカーン・コンチネンタルのオープントップ・リムジンに乗るケネディ(1963年6月27日、アイルランド訪問時)

ケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻らがラブフィールド空港から乗車した車は、1961年式のリンカーン・コンチネンタルをオープントップに改造したパレード専用のリムジンであった。

当初、所轄のダラス市警察本部とシークレット・サービス(大統領付き護衛隊)は、狙撃や投石などに対する保安面の見地から、無防備なオープントップでのパレードではなく、透明な防弾カバーをオープントップにかぶせた上でパレードを行うよう主張した(なおこの様な防弾カバーは、これまでに数回利用されていた)。

実際に前月には、市を訪れた国連大使が暴漢に殴られたり、11月22日のダラス・モーニング・ニューズ紙上に、反ケネディ派による、ケネディ大統領を「お尋ね者」とする黒枠付きの全面広告が掲載されるなど、反ケネディ派による襲撃が懸念されたにもかかわらず、翌年に再選に向けた選挙を控え、国民に対して「親しみやすいイメージ」と「毅然としたイメージ」をアピールしたいと願っていたケネディ大統領とその側近は、ダラス市警察本部とシークレットサービスによる防弾カバー使用の主張を退けた[4][5]

国民に対するイメージ戦略を過度に重視したあまり、保安面を軽視することとなったケネディ大統領とその側近によるオープントップ・リムジンの防弾カバーの使用拒否が、その後のケネディ大統領の命運を大きく左右することとなった。

C123輸送機によりワシントンから運ばれたパレードに使用されるリムジンにバブルトップと呼ばれる防弾ガラスの屋根をつけるかどうかは、その日の天気次第とされていた。当日のダラスの天気予報は終日雨の予報であったが到着の1時間前から天候は回復し、空は晴れあがり結局リムジンにバブルトップが付けられることはなかった[6]

パレード[編集]

暗殺事件現場のデイリー・プラザ。パレードの方向は黒の矢印、赤い四角が犯人がいたとされる教科書倉庫ビル、赤いバツ印2か所が狙撃された地点

リンカーン・コンチネンタルには最後列右側にケネディ大統領、左側に妻のジャクリーン・ケネディ、その前列の右側にテキサス州知事ジョン・コナリー、左側にその妻アイダネル(通称ネリー)・コナリー、その前の運転席(左側)にホワイトハウスシークレット・サービスのビル・グリアー、その助手席(右側)に同じシークレット・サービスのロイ・ケラーマンであった[7]

ラブフィールド空港からのパレードには合計12台の車が参加して、車列のほぼ中間に大統領が乗ったリンカーン・コンチネンタル、その後ろにシークレット・サービスだけが乗った車、そしてその後ろにジョンソン副大統領とレディバード夫人が乗った車を中心にパレードの車列は 11:50 にラブフィールド空港を出発し、ダラス市内を 10マイル (16キロ) 前後のスピードを保ったまま「ダラス・トレードセンター」に向かってゆっくりと進んだ[8]。ダラスの至る所、ルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。しかし車列は、ケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために二度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。大通りに入ったリムジンの前に一人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。しかし全体としては歓迎ムードで、後にコナリー知事は「心からの温かさ、理解、敬意を示す大変な数の市民が繰り出していた。大統領もジャクリーン夫人も心から喜んでいる様子であった。」と語っている。ネリー夫人は大統領の方を振り返り「これでもうダラスがあなたを歓迎していないって、おっしゃらないでしょうね。」と言うと大統領は「もちろん。考えていませんとも。」と答えている[9]

12:30にケネディのリムジンはテキサス教科書倉庫の正面にゆっくり接近した。次にリムジンはゆっくりと120度方向を変え、教科書倉庫の直接前からわずか20メートル離れた位置にあった。

狙撃[編集]

犯人が狙撃したと言われる教科書倉庫のビル
「ザプルーダー・フィルム」で撮られた、最初の銃弾が命中し喉を押さえるケネディ大統領
後方の車からリムジンに飛び移る護衛官のクリント・ヒル

リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫を通過した時、およそ 6~9 秒の間にケネディは狙撃された。狙撃の間リムジンの時速は 9マイル(14キロ)から 13マイル(21キロ)であった。ウォーレン委員会はその後、三発の銃弾の内一発は車列を外れ、一発がケネディに命中貫通してその後コナリーを傷つけ、最後の一発がケネディの頭部に致命傷を与えたと結論を下した。ほぼ全ての者がケネディに少なくとも二発の銃弾が命中し、頭部への銃弾で死亡したことを認めている[10]

第一発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後に爆竹かバックファイアが鳴ったと思ったと証言している。リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を胸に当てて頭を下向きにして、一瞬何が起こったのか判らず大統領の顔を覗き込むジャクリーン夫人にもたれかかった。その前列では撃たれたコナリー知事が「ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!」と叫び、それによってドライバーのビル・グリアーは状況を知った。狙撃の最中にグリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認し、再び前方を見た。彼は再び後方を振り向くと(この時点でリムジンのブレーキランプが点灯している様が撮影されている)ケネディが頭部に致命傷を負う瞬間を実際に目の前で目撃することとなった。[11]

第三発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。一発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが後方のトランクに飛び乗る直前のことであった。そしてクリント・ヒルはトランク上へ這い出たジャクリーン夫人を座席に戻し、パークランド・メモリアル病院へ向かうよう指示した。

テキサス教科書倉庫ビルの前は広場で通称デイリープラザと呼ばれている。この大統領が狙撃されてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを目撃して現場はパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にデイリープラザをかけ抜けていた。地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。

沿道の負傷者[編集]

ジェームズ・ターグ(James Tague/暗殺を目撃した観衆の一人)は、ケネディが銃撃された位置から前方およそ80メートルの地点に立っていたが、発射弾の破片によると思われる傷を右の頬に受けた。

記録された暗殺[編集]

パレード車列が通過する地点は重要なものと考えられなかったため、ラジオおよびテレビは暗殺現場を生で中継しなかった。KBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。車列の後方に位置したメディアを除いて、ほとんどの報道機関は「ダラス・トレードセンター」でケネディの到着を待っていた。

しかしながら、ディリー・プラザでの暗殺現場はサイレントの 8ミリフィルムに 26.6 秒間記録されていた。アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮った物である為、後にザプルーダー・フィルムの別名で呼ばれるようになった。486 コマのこのフィルムが多くの研究に用いられたのは、暗殺の直接の資料になるからである。

ザプルーダー・フィルムはビデオ化された映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)などで容易に見ることができる。大統領の頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、後方に動いている。その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、この映像はオズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。その際、飛沫は前方に飛び散っている。直後に大統領夫人が動揺した様子で後方に目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、シークレットサービスのクリント・ヒルにすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。大統領夫人自身はその行動を認め、後方に吹き飛んだ大統領の頭部破片を拾うために這い出たことを後に裁判で証言している。実際、彼女は大統領の頭部の骨片を医師に渡している。ザプルーダー・フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある[12]

その他の目撃者[編集]

メアリー・モーマンが撮影した画像

暗殺を現場で目撃し記録した者は、ザプルーダーだけではなかった。いずれも、ザプルーダーのフィルムに比べて遠くからではあるが、狙撃の瞬間をフィルムに撮影した者は他に3人いることが知られている[13]。その他にも、暗殺時刻あたりで現場やその周辺をフィルム撮影した者は、ディーリー・プラザに多数いたことが知られているほか、暗殺時ケネディの車列が通行していたエルム通りの南側で、身元不明の青い服を着た女性がフィルム撮影を行っていたことが分かっている[14]。写真(静止画)撮影も多くの人々によって行われている。事件発生時、ディーリー・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。その中でプロの写真家は、アイク・アルトジェンというダラスのAP通信のジャーナリスト唯一人であった。アルトジェンが撮影した写真は、この暗殺事件を撮影した写真の中でも最も有名なものの一つである。

大統領が撃たれた場所の前方の丘の上(グラシー・ノール、grassy knoll)に関する複数の一般人の証言がある[15]。メアリー・モーマン(Mary Moorman、ジーン・ヒル(Jean Hill)の隣に立つ姿が、ザプルーダー・フィルムに記録されている)は、グラシー・ノールと頭部に致命傷を受けた直後(約0.17秒後)の大統領をポラロイド写真機(Polaroid Highlander Model 80A)で撮影した[16]。その際、暗殺犯とその発砲の瞬間(バッジマンと呼ばれる)が撮影されたとする説がある。研究家ゲーリー・マック(Gary Mack)は「モーマン写真」を拡大すると「バッジを付けた人物と煙かマズルフラッシュ(発射炎)のような像」が確認できることを発見した。この説は1988年にEngland's Central Independent Televisionが製作したTVドキュメンタリー「The Men Who Killed Kennedy」でも紹介された。この像は人間ではないとする説もある[17]。ゴードン・アーノルド(Gordon Arnold)の証言[18]やロスコー・ホワイト(Roscoe White 遺族によってケネディ暗殺犯とされたが、後に誤りであることが判明した警察官[19])と結びつける主張もある。

オズワルドの逮捕と射殺[編集]

オズワルドがジャック・ルビーに狙撃される瞬間を撮った写真

リー・ハーヴェイ・オズワルドは、ダラス市警察のJ・D・ティピット巡査(en:J. D. Tippit)を殺害した容疑で、ケネディ暗殺の80分後に現場近くの劇場で逮捕され、その夜遅くケネディ暗殺容疑で再逮捕された。暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。なお、この現場はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万のアメリカ人が映像でこの瞬間をリアルタイムに見た[20]

ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーンが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由であったが、ウォーレン委員会どころかマスコミさえもが、その不可解さを取り上げることはなかった。しかも、この事件と何の関係もなく、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入りこめたのか、についてウォーレン委員会は、ダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判するだけで、その理由については最終的に満足な説明はしていない。

また、事件後には、ルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を常に追いかけていたことが複数の人物から証言された。なお、ルビーは死刑判決を受け再審を待っている間精神的に不安定になり「何者かに癌細胞を注射された」「ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す」など不可解な言動が見受けられたという。4年後の1967年肺癌による肺塞栓症により獄中で死亡した。

パークランド病院[編集]

ダラス市の北西部にあるパークランド病院は隣りにテキサス大学医学部があって、病院はその付属病院であり、医師たちは全てテキサス大学の教授ないし助教授であった。また当時この病院は集団治療体制で1日に300件の急患を取り扱うことができて、全米でも屈指の設備を擁していた[21]。そこへ瀕死のケネデイ大統領らを乗せたリムジンがパトカーや白バイの先導で慌ただしく病院に到着したのは午後0:37頃で、すぐに救急室の第1手術室に運び込まれて、神経外科ウイリアム・クラーク部長、麻酔科M・T・ジェンキンス主任らが見守る中で外科手術担当のジム・カリコ医師がハイドロコーチゾンを注射した[22]。ジョーンズ医師がカテーテルを挿入するために大統領の左腕に入り口を開けて、カーチス医師が左足にも同じ処置をして、血液銀行から大統領と同じ血液型のRhマイナス型の血液が届きすぐに輸血が開始された。その時、カリコ医師が大統領の首の傷のところから泡が出ていることを見つけた。これは肺の中に穴が空いていることを意味して、急ぎマルコム・ペリー医師が気道を確保するために気管切開を行った[23][24]そしてピータース医師とチャールズ・バクスター医師が胸の右上部にチューブを挿入した。これは肺から血液と空気を取り除く処置である。神経外科のクラーク部長が大統領の両眼を見て「目が膨張して凝固している」と述べた。この時に心電図は取り付けられていたが微動だにしない状態であった。ペリー医師が心臓マッサージを行ったが、心電図の画面は空しく波がなく横にただ移動するだけであった。クラーク部長は「もう手遅れだ。手の施しようがない。」とペリー医師に語り、大統領の死亡を告げた。パーククランド病院第一外傷室の係員は、後に病院に担ぎ込まれた時にすでにケネディが「瀕死」状態だったと語った。ある医師は「我々には彼の命を救う希望が持てなかった」と語った。これは病院到着時既に生存の可能性がなかったことを意味する。[25]

大統領が瀕死状態で到着してわずか25分間の短い時間であった。そして大統領の治療に当たった医師たち[26]が銃撃による入口と出口の傷の判定や死因の法医学的な評価を十分くだせるような診断も検査測定も写真撮影も病院では行われなかった[27]。死亡が確認されてジャクリーン夫人の希望で地元ダラスのカトリック教会のヒューバー司祭とトンプソン神父が病院に呼ばれ、枕元でケネデイに病者の塗油(終油の秘蹟)を与えた後、医師団の判断で午後1:00を大統領の死亡時刻とすることが決まり、大統領の死亡診断書にはクラーク神経外科部長が署名した。ケネディに終油の秘蹟を行ったヒューバー司祭は、大統領は病院到着時既に死亡していたと後にニューヨーク・タイムズに語った。

一方大統領のリムジンに同乗していたコナリー知事[28]は救急室の第2手術室に運び込まれ、その日の内に二度の手術が行われて、一命を取り止めた[29]。コナリーの負傷はケネディの最初の負傷直後に発生した(同一の弾丸によるものと考えられたが、これには疑問が提示され議論の対象となっている。「魔法の銃弾」参照)。医師はコナリー夫人が彼女の膝の上に知事を引き上げたことで、胸の傷(傷口から直接肺へ空気が流入していた)が閉じられ、結果として知事の生命を救うこととなったとその後語った。

パークランド病院に大統領が担ぎ込まれた時に、シークレットサービスの2人が急ぎ軽機関銃を持って病院内に入り、手術室まで入って関係者以外の出入りを禁止したが、1人の平服の男が入ってきたので、あわてて胸ぐらを掴んで殴り倒す一幕があった。この殴り倒された男は直後に身分証明書を見せて「FBIだ」と名乗り、病院から急ぎFBIのフーバー長官に電話で報告した。誰もが興奮して殺気だっていた。[30]

ケネディ狙撃の速報と死去報道[編集]

ダラス市内でのパレードで大統領が狙撃されて、全米のラジオとテレビでケネデイ大統領が撃たれて重傷を負ったとの速報が相次いで出されたのが、狙撃から10分後でほぼ12:40前後であった。ここから全米で大きな混乱が巻き起こり、ほぼ1時間後にケネディの死が公表されると大きなショックと深い悲しみに包まれた。ワシントンD.C.では、12:43(東部標準時午後1時43分)から電話網が59分間散発的になった。回線はニューヨークを経由させることとなったが、結局つながらなかった。人々は最新の情報を得るためラジオやテレビに張り付いた。12:53(東部標準時午後1時53分)にはNBCテレビがスタジオから、CBSテレビとABCテレビも午後1:00頃(東部標準時午後2時頃)には通常番組を切り替えてスタジオからの報道体制に入った。この時点ですでにジャクリーン夫人付きの警護担当者がケネディが死亡した模様だと語ったとUPI通信が打電し、地元ダラスのテレビ局WFAA-TVのジェイ・ワトソン[31]が12:58に伝えている。[32]そしてケネデイ大統領に終油の秘蹟を行った司祭がパークランド病院を出た直後に、取り囲まれた報道陣の質問に答えて大統領の死亡を伝え、これが直接大統領の死去を確認したものであったのでこの情報はすぐにテレビやラジオを駆け巡った。ABCテレビではこの情報が入った時点で大統領死去(ケネディの顔写真と下に1917~1963と記されていた)と伝えた。ただ何れも非公式な情報で、生存説と死亡説が両方飛び交う状況が続いた。そして午後1:33にパークランド病院の一室で今回の大統領一行の随員であったホワイトハウスのマルコム・キルダフ副報道官が顔面蒼白で今にも泣きだしそうな表情で「ケネデイ大統領は本日午後1:00に死去しました」と公式発表を行い、死亡した同じ時刻(東部標準時午後2時)から大統領狙撃の特別ニュース番組を放送していたCBSのウォルター・クロンカイトはそれまで死亡説の情報が入っても未確認情報として慎重な姿勢で「still alive」「critical condition]と伝えていたのが、午後1:38(ダラス時間)に報道室に届いたこの公式発表の至急電を読み、途中メガネをはずして「The President kennedy died at1:00 pm」と述べて報道室の右上の掛け時計(この時午後2時38分を指していた)を見ながら、「東部標準時では午後2時ですので38分前のことです」と言って絶句し涙ぐんだ。大統領撃たれるの第一報が入ってからその対応で報道室から1人で喋り続け、寒い11月下旬なのにスーツの上着を着る余裕もなくワイシャツ姿で伝え続けたこの時のテレビ映像はその後「ケネディ暗殺」の象徴的映像となった。同じ時刻にNBCテレビではパークランド病院の電話回線を使っていたが、電話の通話がどうしてもテレビの音声に入らないのでキャスターのフランク・マギーがNBC記者の電話報告を一言一句繰り返し復唱して公式発表を伝え、レポートが終わって受話器を置いた瞬間にショックから涙をこぼした。

なおケネデイ政権最後の記者会見を行い大統領死去の発表を行ったマルコム・キルダウ副報道官は席次でいえば3番目のスポークスマンで、いつもの首席報道官ピエール・サリンジャーは東京での日米貿易経済合同委員会に出席するため飛行機でラスク国務長官らと日本に向かっている時であり(この暗殺事件で途中で急遽引返した)、次席副報道官アンドルー・ハッチャーは首都ワシントンに留守番として残り、普段はあまり記者会見の場で立つことの無い人であった。また彼が大統領死去の直後にパークランド病院内で、発表のタイミングを詰めるためジョンソン副大統領のところへ行った時に、「ミスター・・・ミスタープレジデント(大 大統領閣下)」と声をかけたことは有名な話である。

司法長官であった実弟のロバート・ケネディは自宅で、FBIのフーバー長官からの電話で、狙撃の第一報を知らされた。エドワード・ケネデイはこの日、上院本会議の議長席にいて、午後1時42分(東部標準時)に通信社からの至急電を持った議会スタッフのリチャード・リーデルより伝えられた。すぐに休会が宣言されてマンスフィールド[33]民主党院内総務の提案で議会付きの牧師を呼んで祈りを捧げ「・・・彼の命脈が未だ尽きざらんことを」で言葉を結んだ。この日の審議がなぜ中断されたのか議会議事録には何も記録されていない。

空港への遺体搬送[編集]

午後2:00前後に、遺体をダラスで解剖しようとするダラス警察のアール・ローズ検視官と、首都ワシントンに遺体を一刻も早く搬送しようとするシークレット・サービスのロイ・ケラーマンとの間で10~15分間、一悶着があった。大統領が暗殺されてもテキサス州法が適用されて遺体の解剖はテキサス州で行うと説明しても、シークレット・サービスにとっては何よりも遺体をワシントンに戻すことが優先されると考えていた。結局ローズ検視官[34]は引き下がった。そして後に彼は遺体解剖はやはりダラスで行うべきであった、遺体を州外に持ち出したことが陰謀説を生み出していると語っている。[35]

ケネディ大統領の遺体はパークランド病院からエアフォース・ワンに搬送された。搬送中の機内は、重苦しい雰囲気であった。


ジョンソン副大統領の昇格とワシントンへの帰途[編集]

ケネディ暗殺事件直後、エアフォースワン内部で臨時の就任宣誓を行う副大統領リンドン・ジョンソン

リンドン・B・ジョンソン副大統領はケネディが乗ったリムジンの2台後の車に乗っていたが難を逃れ、パークランド病院で大統領の死に接して、シークレットサービスの警護を受けながら急遽ラブ・フィールド空港のエアフォース・ワンに向かった。 機内に入ってすぐに大統領専用電話を使って、アイゼンハウアーとトルーマンの両元大統領に事態の説明をして全面的協力を求めた。そしてワシントンにいる閣僚4名[36]と大統領補佐官らに職場を離れないことを伝えた。

ジャクリーン夫人らが遺体とともに戻ってきた後に、機内でアメリカ合衆国大統領の就任宣誓を行った[37][38]

ジョンソンとジャクリーン夫人らを乗せたエアフォース・ワン[39]は、ジョンソンの大統領就任宣誓が終わった後にダラスを飛び立ち、史上初めて2人の大統領を乗せてワシントンD.C.郊外のアンドルーズ空軍基地に着陸した。ケネデイ大統領の遺体の入った棺は、空港の荷物搬送機で降ろされ、ジャクリーンと迎えに来てすぐに機内に入ったロバート・ケネディらもケネディの棺とともに同じ搬送機で降りて、ベセスダ海軍病院に搬送された。

ジョンソン新大統領は、その後、タラップを利用して降り、その場で新大統領としてのコメントを発表して「今は全ての人々にとって悲しみの時である。我々は計り知れない損失を受けた。私にとって、これは深い個人的な悲劇である。ケネディ夫人とそのご家族の悲しみを全世界が分かち合うものと思う。私は全力をつくす。神のご加護を」と述べた。ダラスからアンドルーズ空軍基地にケネディの遺体が戻り、空港でコメントを発表したジョンソン新大統領の強いテキサス訛りのある英語と、ケネディの小気味のよいボストン英語の対比に、アメリカ国民は、大統領交代を実感したという。

司法解剖[編集]

大統領の遺体が搬送されたベセスダ海軍病院[40]では、海軍医学校研究所所長ジェームズ・ヒュームズ、海軍病院病理主任ソントン・ボズウェルと射創専門の病理医ピエール・フィンクの3名の病理医によって検死が行なわれた[41]。 解剖検視台に遺体を載せて4時間にわたった検視で、大統領の傷は2つで、致命傷は頭蓋後頭部から入り頭部右側の一部15㎝位を吹き飛ばしていること、もう一つは頸部の付け根に入口があったが出口が分からなかった。[42]この2つの傷はいずれも頭蓋内側の傷口が小さく、抜け出た側に現れるそれより大きいスリ鉢状の傷が頭蓋外部につくものでなかったので、この2ヵ所で被弾したと結論を出している。また弾丸が当った時の熱や表皮が剥離して皮膚が焼け焦げたり裂けることから、後部からの狙撃であるとしている。また遺体をX線写真を14枚、白黒写真25枚、カラー写真27枚を撮影している。[43]検視報告書は、11月24日に作成されて、死因は頭部の射創で、2ヵ所にえぐられたような傷を受けて死亡した、銃弾は故人の後方の頭の位置より上の地点から撃ち込まれた、どちらの傷が最初かは不明である、頭蓋の傷は被害者が生存する可能性を全く排除するほど多大な損傷を脳に与えた、とされている。この検視報告書は24日夜にホワイトハウスでバークリー提督に手渡している。そして12月6日に補足説明書と合わせて解剖に関する一切の資料、写真や弾丸の破片などを全てバークリー提督に渡したとヒュームズは28年後に述べている。[44]

この司法解剖について、大統領死亡後にダラスではなくワシントンで行ったことで、ベセスダ海軍病院に到着した時に大統領の着衣が無かったこと[45]、頭蓋骨の欠片や脳の一部が遅れて運ばれて来たこともあって、担当したヒュームズとボズウェルはダラスで遺体解剖が行われていればその後の混乱はなかっただろうと述べている。この大統領の着衣も他の解剖資料とともに現在は国立公文書館に保存されている。[46]


時系列[編集]

暗殺事件のタイムライン(現地時間:CST
6月6日 ケネディジョンソンコナリーがテキサス遊説を提案する
9月 テキサス遊説の発表する
9月25日 オズワルドメキシコシティに行く
10月第3週 オズワルドがテキサス教科書倉庫に職を得る
11月21日 自動車パレードのコースを発表する
11月22日
Dallas Morning News紙上にケネディをお尋ね者とする広告が掲載される。大統領・副大統領一行がテキサス州フォートワースで商工会議所主催の朝食会に列席。ケネディ最後の演説を行う。
11:40 ケネディがダラス、ラブ・フィールド空港に到着する
11:50 ラブ・フィールド空港を出発して市内へパレードを開始する
12:15-20 オズワルドがカフェテリアで目撃される
12:15 武装した男が貯蔵所の西側窓で目撃される
12:16 武装した男が貯蔵所の東側窓で目撃される
12:25 パレード車列がディーリー・プラザに進入する予定時刻
12:29 パレード車列が実際にディーリー・プラザに進入する
12:30 ケネディが銃撃される
74-90秒後 オズワルドと警察の最初の遭遇
12:30-39 大通り沿いにある草深い丘の駐車場と鉄道操車場を捜索する
12:40 テレビ・ラジオでニュース速報が放送される
13:00 パークランド病院で二人の神父により終油秘蹟が行われる
13:15 ライフル銃が発見された教科書ビルの捜索を開始する
13:35頃 オズワルドが劇場に入るところを目撃される
13:38 大統領死去の公式発表がテレビ・ラジオで伝えられる
13:40 オズワルドがテキサス劇場内にいるという警察の発表
13:50 警官がテキサス劇場内のオズワルドを逮捕しようと試みる
13:56 オズワルトを逮捕、警察に送致する
14:15 ケネディの遺体がパークランド病院からエアフォース・ワンに移送する
14:38 ジョンソンが大統領就任宣誓
18:05 エアフォース・ワンがワシントンD.C.近くのアンドルーズ空軍基地に到着し、海軍病院に移送する
19:00 オズワルドがティピット殺害の罪で逮捕される
23:36 オズワルドがケネディ暗殺の罪で逮捕される
11月23日 遺体を海軍病院からホワイトハウスに移送する
11月24日
11:21
オズワルドがジャック・ルビーに射殺される
13:07 オズワルドの死亡が発表される

暗殺への反応[編集]

ワシントンD.C.で行われた葬儀

ケネディ暗殺のニュースは全米に衝撃を与えた。まずラジオから、そしてテレビから。ニューヨークを始めとして多くの都市で男女が公然と泣き、多くの人々が最初はカーラジオでの速報に耳を傾け、テレビ報道を見るためにデパートに群れをなし、祈りを捧げる者達もいた。ニュースを聞いた者は衝動に駆られたように家族や知人に電話をかけた。この日午後にはニューヨークで数十万台の電話がいっせいに使用中止となった。いくつかの地区での交通は、ケネディの死に関するニュースが車から車へと伝えられ、停止することとなった。アメリカ合衆国やカナダの学校では、学生を下校させた。ニューヨークのコンサートホールではジョージ・セルがニューヨーク・フィルを指揮していたが途中で演奏中止となった。ブロードウェイでは全ての劇場が公演中止となり、夜の社交行事は中止となった。NBC・CBS・ABCの三大ネットワーク[47]は国葬が終わる25日まで全ての定時番組とCMの放送を取りやめて特番だけになった。ワシントンポスト紙のジェームズ・レストン記者は翌日の朝刊記事で詩を掲載してその最初の一行が「今宵アメリカは泣く」[48]であった。

また「テキサス州およびテキサス人」に対する怒りの声も聞かれた。暗殺直後、ソ連が「我々が手を下したのではない」と表明を行っていることからみても、その衝撃は大きなものであった。アメリカのみならず世界中がショックを受けた(小説『オデッサ・ファイル』の冒頭でも描写されている)。

日本でも、折しも当日実施されていた通信衛星インテルサットによる初の日米間の衛星中継(当時は宇宙中継と呼ばれた)テレビ伝送実験において即座に事件の詳細が伝えられ、視聴者に大きな衝撃を与えた[49]。伝えたのは毎日放送北米支局の前田治郎記者。第一声は「日米宇宙中継という輝かしい試みの電波に乗せて、悲しいニュースをお伝えしなければならない事を残念に思います。アメリカ合衆国第35代ジョン・F・ケネディ大統領は11月22日テキサス州ダラスで暗殺されました。」だった[50]

国葬[編集]

ベセスダ海軍病院での検死後にケネディの遺体は埋葬の準備がなされ、ホワイトハウスに移送されてイーストルームに24時間安置された。翌日、国旗に覆われたマホガニー製のケネディの棺は国会議事堂まで運ばれた。昼夜に渡っておよそ250,000人の人が弔問に訪れた。ケネディの弔問をするため、10時間もの間、凍り付くほどの気温の中で行列に並び、その行列は40ブロック先にまで及んだ。

ケネディの追悼行事は直ちに世界中で行われた。合衆国政府はケネディの国葬の日、11月25日(月)を全国民が喪に服す日とすることを宣言した。葬儀にはフランスからドゴール大統領とクーヴ・ド・ミュルヴィル外相[51]、イギリスからエリザベス女王夫君のエジンバラ公とヒューム首相とウイルソン労働党党首[52]、西独からエアハルト首相とブラント市長[53]、日本から池田勇人首相と大平外相、韓国から朴正煕大統領、ソ連からミコヤン第一副首相など、92か国から首脳・政府高官等220人が参加した。国葬の後に、棺は埋葬のために砲車に載せられ葬送のドラムの音とともにアーリントン国立墓地に運ばれた。ケネディ大統領の長男であった当時3歳のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニアが目前で曵かれゆく父の棺に対し挙手の敬礼をした場面はテレビの映像に映し出され、またその写真は世界中に配信された。

ケネディの葬儀は日本ではNHKで26日午前7時-8時 (JST) に衛星中継でダイジェスト版が放送され、ビデオリサーチ・関東地区調べで38.5%の視聴率を記録した[54]

政府による公式調査[編集]

ケネディ大統領暗殺の翌日11月23日にFBIのフーバー長官からジョンソン新大統領に事件の報告が行われ、オズワルドの単独犯行の可能性が強いことが伝えられたが、11月25日にジョンソンはフーバー長官に改めて大統領暗殺事件の全容についての公式報告を求めた。これはこの時点でFBIからの詳細な公式報告を受けてそのまま国民に公表することで事件の調査を終了するつもりであった。ところがテキサス州の司法長官がケネディとオズワルドの死をめぐる事実関係を糾明する査問会議を行うことを発表し、翌26日に合衆国上院が調査特別委員会を設置することを発表し、そして翌27日には合衆国下院が独自に特別委員会の設置を発表した。大統領の衝撃的な暗殺、犯人とされた被疑者を警察署内で殺されるという異常な展開、そして動機も背後関係も一切謎のままとされて、事件があったテキサス州は連邦に対する強い州権意識から、そして議会は三権分立の立場から独自に調査に入る構えを示した。これに対してジョンソンは11月29日に暗殺事件の調査を大統領直属の委員会を設置して早急に行い、国民の間に広がる疑惑や不安を払拭することを決めた。これで上下両院の独自調査は結局延期されて、テキサス州の調査も大統領直属の委員会に資料を提出することとなった。そしてこの調査委員会の委員長に起用されたのが当時の連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンであった。[55]

この委員会はウォーレン委員会と呼ばれ、1963年12月5日にスタートして、翌1964年9月24日に調査報告をジョンソン大統領に提出した。この調査報告をウォーレン報告と言われている。委員会の構成メンバーは最高裁判所長官(ウォーレン)、上下両院の与野党議員(リチャード・ラッセル[56]、ジョン・クーパー[57]、ヘイル・ボッグズ[58]、ジェラルド・フォード[59])、前CIA長官(アレン・ダレス[60])、民間人(ジョン・マックロイ[61])の7名であった。

FBI は捜査を行った最初の機関だった。暗殺のわずか17日後、1963年12月9日にFBIの報告書はウォーレン委員会に提出された。FBIは三発だけが暗殺時に発射されたと報告して、一発目はケネディ大統領に命中し、二発目がコナリー知事に命中、三発目が大統領の頭部に命中し彼に致命傷を与えた。そして三発ともリー・ハーヴェイ・オズワルドが発射したと報告した。FBIは総計で25,000回の面接、約2,300項目と25,400頁にわたる報告書を委員会に提出[62]した。シークレットサービスについては1,550回の面接、約800項目と4,600頁にわたる報告書を委員会に提出[63]している。

委員会はこの後に独自調査として552人の証人喚問を行い(委員が出席して行う証人尋問は94名)[64]、この中には、ジャクリーヌ夫人、コナリー知事、オズワルドの母親、そして妻も喚問している。やがて1964年9月に全文約296,000語、全888ページに全26巻の膨大な関連資料が付いた報告書がまとめられた[65]

ウォーレン報告[編集]

10か月の調査後、1964年9月27日にウォーレン委員会報告書が公表された。委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。委員会の結論の骨子は

  • ケネディ大統領暗殺犯はオズワルドただ一人である。
  • オズワルドはまたダラス市警のチピット巡査をも殺害した。
  • そのオズワルドはジャック・ルビーに単独で殺害された。
  • この暗殺事件に絡む陰謀は内外を問わず一切なかった。
  • 大統領を撃った全ての銃弾はテキサス教科書倉庫ビル6階の窓から発射された。
  • 大統領に向かって発射された銃弾は合計3発である。1発は大統領の背中から胸へ抜け、前方に座っていたコナリー知事の胸、手首、左の太ももを傷つけた。もう1発は大統領の頭部に命中してこれが致命傷となった。あとの1発は命中しなかった。[66]

オズワルドの単独犯行[編集]

オズワルドの単独犯行説はローン・ガンマン・セオリー[67]と呼ばれる。

二つの公式調査が、ディーリー・プラザのテキサス教科書倉庫[68]従業員リー・ハーヴェイ・オズワルドが暗殺者だったと結論を下した。一つの調査(ウォーレン委員会)はオズワルドが単独で行動したと結論を下し[69]、1976年に別の調査(下院暗殺調査委員会)が開始されて2年後に発表された調査結果ではオズワルドには少なくとも一人の協力者がいたと結論を下した[70]

三発の銃弾[編集]

委員会は暗殺時に三つの弾丸が発射され、二発の弾丸がケネディ大統領とコナリー知事を命中した。その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫から発射した物として結論を下した[71]

委員会の判断はケネディ大統領の上背部に命中した弾丸は、首の正面近くを貫通し、コナリー知事を負傷させたと思われる。一発は車列から外れたと考えられる(三発の内の何射目かは特定できない)。そして最後の弾丸は大統領の頭部に命中し致命傷となった。委員会は教科書倉庫の6階で3つの薬莢が発見されたことに注目していた。ライフル銃は近くに隠されていたことが判明した。ケネディとコナリーは別々の弾丸で傷つけられたのではなく、両者とも同じ弾丸で傷ついたとするのが適当だと提示した。弾丸はほとんど形状を保ったまま[72]担架(stretcher)[73]から発見されたとされる。この説はシングル・バレット・セオリーとして知られるようになった。

銃弾の入口とされるコナリー知事の背部(右半身)の傷は、出口とされる胸部(右半身)の傷より小さかった。銃弾の入口とされる右手首(甲側)の傷は出口(掌側)よりも大きかった[74]。この問題について、胸部を貫通した銃弾が回転し、前後逆に手首に侵入したとする「回転説(Tumbling Theory)」がある[75]

その後の調査[編集]

1976年に、下院で60年代のケネディ兄弟とキング牧師らの相次いだ暗殺事件について真相解明のための特別委員会下院暗殺調査委員会が設置されて2年間(1976年ー78年)の調査が行われた。このケネディ暗殺から13年後の調査によると、暗殺前後の数分間、ダラス警察の白バイ警官のマクレーン(H・B・McLain)の無線は「送信」状態にされ、警察無線の通信指令席でレコーダー(プラスチックベルト)に記録されたとされる[76]。下院暗殺調査委員会は、この口述録音機用録音テープの証拠の研究から、銃声は4発であるとして、狙撃者はオズワルド以外にもう一人いた可能性が高いと結論した。このテープはアメリカ国立公文書記録管理局に保管されているが、証拠能力には議論がある[77]。下院暗殺調査委員会は音声記録の証拠認定を後に取り消している[78]

ウォーレン報告の評価[編集]

この報告書が出てから9年後の1973年1月にジョンソン前大統領が世を去ったが、亡くなる前に「自分はオズワルドが引き金を引いたことまでは承服できる。だが委員会が暗殺事件を徹底的に掘り下げたかどうかは確信がない。私のカンだが、オズワルドは失敗に終わったキューバ侵攻作戦への復讐を狙うキューバ人と関連があったのではないか」と語っている[79]。また1975年4月25日の夕方のCBSイブニングニュースでウォルター・クロンカイトは、ジョンソンがケネディ暗殺がオズワルドの単独犯行だとは一度も考えたことがないとそれよりも6年前の1969年にインタビューで述べていたことを明らかにした。[80]

陰謀論[編集]

オズワルドによる単独の犯行であったとする政府の公式説明に納得せず、何らかの陰謀があったと主張するものも多い。2003年の世論調査では、70%の人々がケネディ暗殺は単独犯ではなく複数犯による犯行であったと考えている。実行犯についてもオズワルド以外に狙撃したものがいたとする説もある。証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと主張するものもいる。リー・ハーヴェイ・オズワルドがダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺され、さらにジャック・ルビーが服役中に病死したのは口封じのためであるとする意見もある。陸井三郎は目撃証言者12人が変死または怪死していると主張している[81]

今日までに下記のような仮説、陰謀説が提示されている。

マフィア壊滅作戦に反発したサム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説[編集]

「マフィア主犯説」は、かつてジアンカーナらがケネディ本人や父のジョセフ・ケネディ・シニアによる依頼を受けて、大統領選挙におけるケネディ陣営の資金集めや不正を手伝ったにもかかわらず、その後ケネディがフーヴァーやロバートの忠告を受けてジアンカーナや共通の友人であるフランク・シナトラらとの関係を突然断った上に、ケネディ政権がロバートを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、「裏切り」への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするものである[82]。なお実際に、ケネディによる一方的な関係断絶に対しシナトラは激怒し、ジアンカーナや、ルビーやオズワルドとの面識もあったテキサス州を縄張りとするマフィアのカルロス・マルセロらは、マフィア壊滅作戦を進めるケネディの暗殺をほのめかすような発言を繰り返していたことが、FBIの盗聴により明らかになっている。

軍産複合体の意を受けた政府主犯説[編集]

「軍産複合体の意を受けた政府主犯説」は、「ケネディの南ベトナムからのアメリカ軍による軍事顧問団の縮小計画と、その後に予想された軍事顧問団の完全撤収が『軍産複合体の利益を損ねる』と恐れた政府の中の一部勢力が、大統領の警備を弱体化して犯行に及んだ」とするものである。ケネディはその大統領就任中に、ベトナム戦争からの早期撤退を計画した(ドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」、当時のマクナマラ国防長官の証言を参照)。ケネディはテレビインタビューに答えて言った、「(南ベトナム)政府がたいへんな努力をして支持されない限り、ベトナムで勝とうとは思わない。最終判断として、ベトナム戦争はベトナム人の戦争であり、勝つのも負けるのも彼らである。」 [83]。しかし、撤退計画はケネディ暗殺によって頓挫し、後任のジョンソン大統領によってベトナム戦争への介入は逆に押し進められて、ベトナム戦争は泥沼化した。ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が産軍複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある。映画「JFK」はこの可能性を追及して話題となった。

その他[編集]

上記の2つの説以外にも、

などがある。なお、1963年当時7月1日より1964年の財政年度が始まっていたが、重要な13の予算法案のうち9つが議会を通過せず、議会の議事妨害(フィリバスター)によってケネディ政権は行き詰まっていた。それゆえ、1964年の再選は絶望的とする見方も存在した[85]

クレイ・ショー裁判[編集]

ケネディ暗殺事件が法廷上で検討された唯一の例がクレイ・ショー裁判であった。ニューオリンズのジム・ギャリソン検事は、1967年3月2日、ニューオリンズの実業家クレイ・ショー(Clay Shaw)を大統領暗殺に関わる陰謀罪で逮捕した。ギャリソンはクレイ・ショーがCIA経由でケネディ暗殺事件に関わっており、事件はCIA、軍部、国家の関与するクーデターであると主張した。裁判はギャリソンが敗北するが、後に、CIAがウォーレン委員会の批判者たちへ圧力をかけたこと、クレイ・ショーが実際にCIAのために働いていたことが公的に示された[86][87]。1991年に公開された映画「JFK」はクレイ・ショー裁判をモデルにした作品である[88]

陰謀論者が問題視する政府の公式説明[編集]

  • ザプルーダー・フィルムでは、大統領の頭部が弾丸の衝撃により破壊された直後に大統領の上半身は後方に動いている。また、脳の一部が後方にも飛んでいる[89]。この映像について、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、前方にも射撃手がいたとする議論がある。
  • 海兵隊時代のオズワルドは、特級射手 (expert)、一級射手 (sharpshooter) 、二級射手 (marksman)の資格について、1956年12月に一級射手の資格に必要な得点をクリアしており、射撃の技量が高かったとされているが、1959年5月には二級射手の資格に必要な得点はクリアしているものの一級射手の資格に必要な得点はクリアしていない[90]
  • 教科書ビルの窓の外には常緑樹が茂っており、木の葉が邪魔して狙いにくい。さらに、政府側報告(ウォーレン委員会)によるオズワルドが使用したボルトアクション方式カルカノ銃では 5-6 秒程度の間に三発発射し二発を命中させるのは非常に困難であり、事件後から現在に至るまで行われた検証実験で成功した例は皆無である。また、通常は一発目、二発目、三発目と順を追うごとに照準に狂いが生じるものだが、致命傷を与えた最も正確な射撃は3発目とされている(ザプルーダー・フィルムの分析から発射した時間は 5-6 秒より長いとする説もある)。
ウォーレン委員会の報告による致命傷を与えた銃弾の軌道
後部に座っているのがケネディ大統領、前に座っているのがコナリー知事
陰謀論者が問題視する「魔法の弾丸」
  • (大統領頸部への1銃弾を考慮すると、)大統領とその同乗者の他の被弾箇所(約5箇所)が政府見解である1発の銃弾で説明できるか(いわゆる「魔法の銃弾」の謎。アメリカのケーブルTV番組ディスカバリーチャンネルによる再現実験では、ザプルーダフィルム223コマ目における位置を再現しカルカノ銃を使用した銃創は、一直線の弾道とほぼ一致したとしている)。
  • オズワルドの両手からは硝煙反応が出たが、頬からは硝煙反応が出なかった(通常ライフルを使用すると手だけではなく顔や上半身全体に硝煙が付着する)。凶器とされたライフルからは、当初の検査では指紋、掌紋は発見されなかった。オズワルド殺害の翌日(11月25日)に掌紋が発見された。
  • 暗殺直後オズワルドは逃げもせずビル内の食堂でコーラを飲んでくつろぐなどした。狙撃地点とされる部屋から食堂へ向かう階段には女性が2人いたが、その女性はオズワルドは通っていないと証言した。食堂のオズワルドを警官が1度やり過ごしている。
  • 教科書ビルから撃たれたとした警官が包囲に10分もかかったのに対し、その後オズワルドを逮捕するまでの経緯は不自然なまでに鮮やかだった。
  • オズワルドがダラス市警察本部内で殺害されるという異常な事態が起きている。
  • 証拠物件の公開が政府によって、2029年(下院暗殺調査委員会)もしくは2039年まで不自然にも制限されている。資料はアメリカ公文書図書館に保管されているが公開されるのは2039年とされている。しかし、現在でも資料の多くが紛失しているため、2039年に公開されても完全に真実が明らかになるかどうかは未知数である。

その他の指摘された問題点[編集]

  • 事件当日、ダラス市長の指示で急にパレードのコースが変更された。また、慣例からすれば歴代大統領は直線コースをパレードしていたが、ケネディはわざわざ車の速度を落とさなければならない迂回ルートを走らされ、そこで銃撃された。なお、このときのダラス市長アール・カベルはピッグス湾事件で更迭された CIA 副長官チャールズ・カベルの弟であった(いわゆる「パレードルート変更の謎」説)。この説について、パレード後の予定地であったトレードマート (Dallas Trade Mart、2100 North Stemmons Freeway Dallas, TX 75207) に向かうには、迂回ルートのエルム通り (ELM STREET) を通過してステモンスフリーウェー (North Stemmons Freeway) に入る必要があった。直線コースのメイン通り(MAIN STREET)からは入れないとする反証がある[91]。ただし、トレードマートへは、フリーウェイを利用せずともリバーフロント・ブールバードからマーケットセンター・ブールバードを通って向かう事ができる)。
  • 事件当日のダラスは快晴だったにもかかわらず、ザプルーダー・フィルムに黒いこうもり傘をさした人物が映っている。この人物は通称アンブレラマン (The umbrella man) と呼ばれ、映画『JFK』にも登場する。アンブレラマンを暗殺グループの一員とする説もある。なお、自分がアンブレラ・マンであると主張する人物、ルイス・ウイット (Louis Witt) はケネディ暗殺下院特別調査委員会 (1978年) において証言をおこなっている。
  • 本来なら大統領の近辺にいなければならないシークレットサービスが後ろへ退くように命令された(大統領狙撃時に車に飛び乗ったクリント・ヒルによると車両間隔は 5ft≒1.5m 。大統領のリムジンには2人のシークレットサービスが同乗していた(ロイ・ケラーマン、ビル・グリアー)。後続車と白バイ警官はリムジンを追い、クリント・ヒルら4人のシークレットサービスは後続車のサイドステップに立っていた)。[92]
  • 傷口が変造されていた[93]
  • 検視の医者は弾丸の検視の専門医ではなかった。このためか、ケネディが背中の古傷のせいで猫背気味であることが失念され、命中時の入射角の判定に誤りが生じたと言われる。[94]
  • 発見された銃弾は本物か。銃弾(証拠物件399、コナリー知事の担架(stretcher)から発見された)は、垂直方向(銃弾の進行方向)には変形せず、水平方向には圧縮されたように変形していた。弾頭部分は損傷していなかった。
  • ケネディの死が確認され、大統領専用機エアフォース・ワンの機内でリンドン・B・ジョンソン副大統領が大統領宣誓を行ったが、機内でジョンソンに対し、ウインクするアルバート・トマス下院議員の姿が写真に残されている。トマスはジョンソンの旧知の友人であり、またトマスに対してジョンソンは笑いかけているようにも見える。
  • 暗殺事件発生当時、閣僚の大半は外遊しており、また、ケネディ死亡の公式発表から、ジョンソンの宣誓式までの数十分間、いわゆる「権力の空白」時間が流れている。もっと正確に言えばケネディが撃たれて即死に近い状態であったことを考えると12:30から14:38まで権力の空白が生じたことになる。[95]
  • オズワルドが狙ったのは実際には同乗していたコナリーでケネディは巻き添えになったという説もある。
  • 2013年11月21日に放送された『BS世界のドキュメンタリー』では、専門家たちによりケネディ暗殺の状況を再現する実験が行われた。この中では、ケネディの首を貫いた弾丸がコナリーの背中と右手を貫いてもほぼ変形しない状態に保たれること、オズワルドが単独でケネディとコナリーを銃撃することは可能だったことが実験によって立証されたとする[96]。ケネディに致命傷を負わせた弾丸は、背後からの銃撃によるものだったことも専門家の調査によって立証されたとしている[97]

未公表のドキュメント[編集]

暗殺の瞬間をザプルーダーよりも間近でフィルム撮影していたと思われる身元不明の女性がおり、研究家により、バブーシュカ・レディーと呼ばれている。他のフィルムや写真には、メアリー・モーマンとジーン・ヒルの右後方で、彼女がフィルム撮影をしている姿がはっきりと映っている。この女性の身許は特定されておらず、フィルムも確認されていない。1970年、ビバリー・オリバー(Beverly Oliver)は自分がバブーシュカ・レディーであると主張している[98]

暗殺当日に撮影されたそれまで未公開だったカラーフィルムが、テキサス市のSixth Floor Museumによって新たに2007年2月20日に公開された。フィルムは実際の暗殺の90秒ほど前に、ジョージ・ジェフリーズ (George Jefferies) によって現場から数ブロック離れた地点で撮影されたものである。

ロバート・ケネディ暗殺事件[編集]

ジョン・ケネディが暗殺された5年後の1968年、実弟であるロバート・ケネディも暗殺された。ロバートはカリフォルニア州で行われた民主党大統領予備選に圧勝し、同6月5日に同州ロサンゼルスのアンバサダーホテルで予備選勝利宣言を行ったが、その直後にサーハン・サーハンによって銃撃を受け倒れ、右脳を損傷し意識不明の重体となった。この模様は当時テレビが実況中継している最中に起こり、床に倒れたロバートの傷ついた姿は4時間後には衛星中継で日本にも送られた。そして意識を回復することなく翌6月6日没した。

ケネディ大統領暗殺事件を扱った作品[編集]

映画[編集]

ドラマ[編集]

  • ダークスカイ』 - Dark Skies (1996)
  • PAN AM/パンナム』 - Pan Am (2011- ) 第12話(2012年1月放送)で「ケネディ大統領狙撃」に関する当時のニュース映像が使用された。

ドキュメンタリー[編集]

  • 『疑惑の陰謀 JFK暗殺容疑者の殺害』(Conspiracy?Jack Ruby/ヒストリーチャンネル 2004年)
  • 『発掘テープが語る ケネディ暗殺』(The Lost JFK Tapes -The Assassination/NHK BS 2009年)
  • 『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』(JFK-3 Shots That Changed America/ヒストリーチャンネル 2009年)
  • 『ケネディ大統領暗殺後の24時間』(The Kennedy Assassination: 24 Hours After/ヒストリーチャンネル 2009年)
  • 『ケネディ大統領を殺した男』(Killing Kennedy/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年)
  • 『ケネディ大統領暗殺の真相』(JFK: The Lost Bullet/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年)
  • 『JFK:その時すべてが変わった』(JFK: The Day That Changed Everything/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年)
  • 『JFK:人生を変えた七つの岐路』(JFK- Seven Days That Made A President/ナショナルジオグラフィックチャンネル 2013年)
  • 『決定版:JFK暗殺 最新レポート』(JFK Assassination: The Definitive Guide/ヒストリーチャンネル 2013年)
  • 『オズワルド~最後の48時間~』(Lee Harvey Oswald: 48 Hours to Live/ヒストリーチャンネル 2013年)
  • 『JFK暗殺のシナリオ』(Capturing Oswald/ディスカバリーチャンネル 2013年)
  • BS世界のドキュメンタリー』(コールド・ケース JFK~暗殺の真相に迫る~NHK BS1 2013年)

小説[編集]

漫画[編集]

ゲーム[編集]

  • コール オブ デューティ ブラックオプス』- ラストシーンの実写映像で主人公であるメイソンがケネディ暗殺に加担したかのような描写がある。
  • JFK: Reloaded』- イギリスのゲームソフト。事件から41年目の2004年11月22日発売。ダウンロードによる販売。プレイヤーはオズワルドになり、ケネディを狙撃する。最初に「暗殺」したプレイヤーに賞金をかけたこともあり、不謹慎であると物議をかもした。2011年現在ではサイトも閉鎖されている。

アニメ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ バリー・ゴールドウォーター。共和党上院議員で、翌年共和党大統領候補となり、ケネディ暗殺後昇格した民主党ジョンソン大統領と争い大敗を喫した。その後議会での重鎮として活躍し、1973年8月にウォーターゲート事件で弾劾の発議が可決されて絶対絶命の立場に立たされたニクソンに印籠を渡したのがゴールドウオーターであった。
  2. ^ 仮に南部で票が取れなかったとしても、ケネディは東部や北部で安定した支持票で勝利していたであろう、と言われている。
  3. ^ この時のスピーチがケネディ大統領の生涯最後のスピーチとなった。
  4. ^ 『菊の御紋章と火炎瓶』文藝春秋 佐々淳行 2009年
  5. ^ 『香港領事動乱日誌』文藝春秋 佐々淳行 1997年
  6. ^ 1963年11月22日ダラスKRLD Radio、WFAA TVなどの実況中継 Prospect all day rain....
  7. ^ このロイ・ケラーマンが大統領のダラス旅行の警備責任者であった。この2時間後にパークランド病院から大統領の遺体を運び出す際に、地元ダラス警察の検視官アール・ローズがテキサス州法に則り地元での司法解剖を要求したのにもかかわらず、拒否して空港への搬送を強行したのは彼であった。
  8. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 36~37P
  9. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著 38P
  10. ^ 大統領のリムジンからは銃弾の破片が回収されており、証拠物件「CE567」および「CE569」と呼ばれている。
  11. ^ ビル・グリアーは大統領が乗った車に同乗した者ではジャクリーン夫人以外ではただ一人致命傷を負った場面を目撃している。ただ沿道でこの瞬間を目の前(3mくらいの距離)で目撃した人間は何名もいる。ザプルーダー・フィルムでも車の左側で4~5名が確認され、その内1人の男性はすぐに芝生に伏せているし、車の右側では子ども連れの若い夫婦が目撃してすぐに芝生の上に横たわっている。この若い夫婦は、現場にいた地元ダラスのテレビ局のディレクターのジェイ・ワトソンがすぐにテレビ局WFAA-TVのスタジオに運び、狙撃から15分後に地元のテレビ局WFAA-TVが定時番組を中断してすぐに速報をスタジオから報道して、この夫婦をスタジオでインタビューして狙撃の瞬間の様子を聞いている。この夫婦は名前をウィリアム(ビル)・ニューマンとゲイル・ニューマン夫妻で、この時はまだ12:50前後でケネディの生死も分からない状況であった。
  12. ^ タイム・ライフ社(『ライフ』)がザプルーダー・フィルムを借りた際にフィルムが損傷したためとされる(奥菜、関連文献 参照:en:Zapruder film)。欠落の無い完全版のフィルムはRobert J. Grodenが販売するビデオ(「The Assassination Films」)に収録されている。
  13. ^ Maria Muchmore(Muchmore Film)、Orville Nix(Nix Film)、Robert Hughes(Hughes Film)
  14. ^ いわゆる"バブーシュカ・レディー"とは別人。
  15. ^ ジーン・ヒル(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言した。1980年代には、男が銃撃したと述べている。ウォーレン委員会において、トリプル・アンダーパスの陸橋にいたサム・ホランド(Sam Holland)はアーケードの背後(behind the arcade)の木立から煙が上がったと証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。ウォーレン委員会において、ダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールでシークレットサービス(当日は配置されていなかった)を名乗る私服の男を見たと証言した。また、エイブラハム・ザプルーダーの秘書マリリン・シッツマン(Marilyn Sitzman)はジョサイア・トンプソン(Josiah Thompson)のインタビュー(1966年)において、昼食を取っていた黒人のカップルが走っていくのを見たが、他には誰もいなかったと証言した。
  16. ^ メアリー・モーマンはFBIなどに聴取を受けたが、ウォーレン委員会には呼ばれなかった。FBIによるメアリー・モーマンのインタビュー(1963年11月22日)
  17. ^ 清涼飲料のボトルとその反射光とする説など。
  18. ^ アーノルドはTVドキュメンタリー「The Men Who Killed Kennedy」に出演している。
  19. ^ ロスコー・ホワイトについては、Dave Perry's John F. Kennedy Assassination Pages Roscoe Whiteの項(The Roscoe White Curse? Who Speaks for Roscoe White?)、『Texas Monthly』1990年10月号の記事 I Was Mandarin...参照、奥菜秀次『捏造の世界史』(祥伝社、2008年)第三章参照。『月刊現代』1991年2月号(講談社)にロン・レイトナーによる記事が掲載。中日新聞 1990年8月7日に記事「ケネディ大統領暗殺「CIA命令で父が撃った」当時2歳の男性が会見」。
  20. ^ サンケイ新聞の記者小池英夫はルビーがオズワルドを射殺する瞬間を目撃した(産経新聞1963年11月25日夕刊、小池英夫 『ケネディ暗殺事件見聞録』( ラ・テール出版局、1996年))。
  21. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲 晃著 43P
  22. ^ これはケネディ大統領が副腎機能低下症にかかっていると新聞記事で読んだことを思い出したため。
  23. ^ この気管切開をした所が、大統領が被弾した第1発目の弾丸の出口であったことで、同日夜にベセスダ海軍病院での司法解剖で担当医が第1弾目の出口が分からず、後に論議を呼んだ。
  24. ^ この翌日にペリー医師に、検視を行ったワシントンのベセスダ海軍病院のヒュームズから電話が入っている。そこで弾丸の出口がこの喉の切開した所であることにヒュームズが気づくのであったが、彼はその時に気管切開をなぜしたのか尋ねている。検視した病理医から見ると、ケネディの頭の損傷からいって、気管切開したり、腕や脚の静脈から血液を送り込む必要があったのか疑問であった。頭部の状態からほぼ即死状態であった。
  25. ^ 大統領の治療に関する詳細は、「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 45~47P、及び「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 73~80Pを参照
  26. ^ 実際に医療チームとして中心的な役割を果たしたのは、カリコ、ペリー、ジェンキンス、バクスターの4名であった。後に大統領は前方から撃たれたとする説を唱えたチャールズ・クレンショーはこの時研修医として室内にいたが治療には加わっていない。それどころか彼が治療室にいたという記憶が4名とも無かった。また同じく前方から撃たれたとしたロバート・マクレラン医師は治療の最後に室内に駆けつけている。この異説に対して、治療に直接かかわった前述の4人はいずれも完全な間違いであるとして、後方上部からの狙撃であることは自分達の見解と矛盾しないと28年後に述べている。「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 76~80Pを参照
  27. ^ 「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 73P
  28. ^ 彼はこの後に民主党から共和党へ鞍替えしてニクソン政権で財務長官を務めることになる。
  29. ^ コナリー知事は被弾してすぐに意識を失い、翌日に意識を回復した時に、ネリー夫人から大統領の死を知らされた。彼は後に大統領が2発目を受けた時に大統領は助からないと感じたという。そして自分もこれで死ぬと思ったと語っている。「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 39P
  30. ^ 「ケネディ大統領暗殺事件」仲晃 著 44P
  31. ^ 彼は狙撃現場のデイリー・プラザにいた人間で、すぐに目撃したニューマン夫妻をスタジオに運び、また8ミリカメラで撮影したザブルーダーもスタジオに運んでインタビューしている。
  32. ^ このジャックリーン夫人の警護担当者が大統領が死亡したようだと語ったというUPI通信からの速報メモが手元に来た時に、思わず「少しお待ちを・・」と言ってしばらく目で速報文を確認して、心を落ち着かせてからゆっくりと伝えている。これが大統領死去の最初のテレビ報道であった。
  33. ^ 民主党の重鎮。ジョンソン政権でのベトナム戦争で反対の論陣を張り、後に駐日大使として来日した。
  34. ^ このアール・ローズ検視官は、この直後オズワルドに射殺された警官のティピット巡査の検視を行い、2日後にジャック・ルビーに殺されたオズワルドの検視を行い、そして4年後獄死したジャック・ルビーの検視も行ったとされている。
  35. ^ 「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 86~92P
  36. ^ 4名以外の閣僚はこの時に、日米貿易経済合同委員会に出席するため、飛行機で東京に向かっていた。
  37. ^ エアフォース・ワンの運用責任者であったマクヒュー空軍准将(Godfrey T. McHugh)によると、リンドン・B・ジョンソンは就任宣誓の前に機内のトイレで「殺される。これは陰謀だ。みんなやられる (They're going to get us all. It's a plot. It's a plot. It's going to get us all.)」と喚いていた(共同通信 2009年11月03日、Steven Gillon The Kennedy Assassination 24 Hours After: Lyndon B. Johnson's Pivotal First Day as President)。また、ロバート・ケネディ司法長官にジョンソン自身が電話で相談し、宣誓式は即刻、ダラスで行えとのアドバイスを受けたという主張があるが、ケネディサイドのスタッフはこれを否定している。
  38. ^ 大統領が死亡、辞職、不能力者になった場合や議会で弾劾が決議した場合は副大統領が昇格することが憲法に規定されており、また1961年8月にケネディとで「大統領職の継承に関する取り決め」を交わしており、ケネディが意識不明になった時点で「大統領代行」を自ら宣言することは可能であり、死亡した時点で自動的に昇格している。したがって宣誓式を行わなくても大統領はすでにケネディからジョンソンに受け継がれている。
  39. ^ 副大統領はエアフォース・ツーという専用機があり、ダラスに来た時も副大統領専用機に乗ってきたが、大統領死亡という緊急事態で新大統領となったことで、ケネディが搭乗してきた大統領専用機に急遽搭乗することとなった。
  40. ^ 司法解剖をこの病院で行うことになったのは、大統領主治医のバークリー提督がワシントンに戻る途中のエアフォース・ワンから連絡していた。そしてこれはジャクリーン夫人の希望であったと述べている。
  41. ^ 検視が行われた海軍病院解剖検視室は30~40人が座れる階段教室になっており、FBIとシークレット・サービスと他の医療関係者が見ていた。ジャクリーン夫人とロバート・ケネディら家族は上の階で待機して、主治医のバークリー提督も検視が始まると上の階へ行った。
  42. ^ 「二人のFBI捜査官が、ケネディは右側頭部に大きな傷を受け、別の傷はスーツのエリの部分から5.5インチ下、背骨の右部分にあり、三番目の傷は彼の喉仏の下の部分にあったことを明らかにした。」と一部で述べているが、検視の過程でも喉仏の下の部分については、あくまで気管切開口として認識していて、頸部から入った弾の出口が分からずX線でも弾丸の確認が出来なかった。ヒュームズ医師は検視の翌日にパークランド病院のペリー医師と電話して気管切開口が弾の出口であることに気がついた。この曖昧さが後にさまざまな議論になった。
  43. ^ 「数枚の写真およびレントゲン写真が検死のために撮影された(それらの数枚は公式記録から消えた)」とする情報もあるが、少なくとも合わせると66枚の写真が撮られている。また「FBIが撮影していた、あるいは病理医が撮った写真をFBIが持ち帰った」とする話についてはヒュームズは否定している。
  44. ^ 「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 47~48P
  45. ^ 検視を担当した病理医が大統領の着衣を初めて見たのは、翌年のウォーレン委員会の調査担当官との面接の場であった。ボズウェルは遺体解剖直後に遺体のスケッチを描いていたが、これが着衣にできた穴と一致しなかったことで後に疑惑を生むことになった。この食い違いは大統領が沿道の観衆に手を振っている時に被弾したことで背広が盛り上がっていた時に起きたことによって生じたとされている。
  46. ^ 司法解剖に関する詳細は「JFK暗殺の真実」文藝春秋編 15~52P を参照
  47. ^ この当時は、現在のCNNもFOXもまだ開設されていなかった。
  48. ^ 今宵アメリカは泣く。若くして逝った大統領のためのみならずわが身のために。悲しみはすべての人のものであった。なぜならば国のなかの最悪のものが最善のものを打ち破ったがゆえに。告発されたのは暗殺者だけではない。なぜならば国民の中に存在するあるもの、狂気と暴力が法と秩序の最高のシンボルを破壊し去ったがゆえに。 ジェームズ・レストン 1963.11.23
  49. ^ 当初はケネディによる日本へのメッセージが放送予定だったが中止となった。事前に11月上旬ホワイトハウスにて収録されたもので、暗殺の翌日には日本の各局のニュースで「送られるはずだったケネデイ大統領のメッセージ」として放送された。この映像と音声メッセージはジョン・F・ケネディ図書館に現在も保管されており、その後フジテレビ系『スピーク』など後にテレビ番組で放送されたことがある。
  50. ^ 岡村黎明「テレビは変わる」岩波ジュニア新書
  51. ^ 後に1968年に首相となる。
  52. ^ 翌年10月に総選挙で勝利して首相となる。
  53. ^ この年8月にベルリンをケネディが訪問して、ベルリンの壁の前で有名な「イッヒ・ベルリーナ」の演説を行った。この時のベルリン市長がブラントで後に西独首相となった。
  54. ^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、82頁。ISBN 4062122227
  55. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」仲晃 著 63~71P
  56. ^ 民主党上院議員。上院軍事委員長。
  57. ^ 共和党上院議員。元インド大使。
  58. ^ 民主党下院議員。党院内副総務。
  59. ^ 共和党下院議員。後に1974年にニクソン大統領の辞任に伴い副大統領から昇格して第38代大統領となる。
  60. ^ 1961年春に亡命キューバ人がキューバに上陸して撃退された第1次キューバ危機当時のCIA長官で、最初からCIAの支援で行ったことで、その後に責任を取って辞任した。この人選については後に議論を呼んだ。
  61. ^ 元世界銀行総裁でケネディ政権の軍縮問題顧問。
  62. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」56P
  63. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」56P
  64. ^ この証人尋問に7人の委員が全員出席したケースは一度もない。また出席率がわずか6.4%の委員もいて、委員の最高出席率は74.5%のフォード下院議員であった。「ケネディはなぜ暗殺されたか」77P
  65. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」56~57P
  66. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」仲晃 著 58~59P
  67. ^ オズワルドの単独犯行説に対して、次のような説が主張されている。大統領が撃たれた場所の前方の丘(グラシー・ノール grassy knoll)付近から狙撃があったとする説。教科書倉庫ビル(Texas School Book Depository)にオズワルド以外の狙撃者がいたとする説。別のビル(ダルテックスビル Dal-Tex Building、カントリーレコーズビル Country Records Building など)に狙撃者がいたとする説。オズワルドを共犯者とする説と身代わりとする説がある。研究家D.ペリーは暗殺事件に関与したとされた68人の名とソースを列挙している。RASHOMON TO THE EXTREME
  68. ^ 教科書ビルで犯行に使用されたダンボール(スナイパーズ・ネストと呼ばれる)には、オズワルドとマルコム・ウォレス (Malcolm [Mac] Wallace) の2人の指紋があったする説がある。参照:バー・マクレラン『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』(文藝春秋、2005年)バー・マクレランはL・ジョンソンの顧問弁護士の一人、ブッシュ政権の大統領報道官スコット・マクレランの父。参考:JFK Breakthrough?
  69. ^ チャーチ委員会(アメリカ合衆国上院外交委員会)、ロックフェラー委員会(アメリカ合衆国 CIA 国内活動調査委員会)も調査を行った。
  70. ^ 重要な証拠とされた口述録音機用録音テープの証拠は後に証拠認定を取り消されている。
  71. ^ 『応用統計学年報』(Annals of Statistics Volume 1, Number 2,2007)に掲載された論文(Cliff Spiegelman, William A. Tobin, William D. James, Simon J. Sheather, Stuart Wexler, and D. Max Roundhill Chemical and forensic analysis of JFK assassination bullet lots: Is a second shooter possible?)は、発見された銃弾と破片の分析から、銃弾と破片は3発もしくはそれ以上の銃弾に由来する可能性もあり、科学的な再調査が必要としている。参照[1]参照ケネディ暗殺は複数犯?命中弾丸3発以上…米大チーム新説
  72. ^ 水中に向かって撃つような事をしない限り、通常弾丸は必ず変形する。弾丸は垂直方向(銃弾の進行方向)には変形せず、水平方向には圧縮されたように変形し、弾頭部分は損傷していなかった。
  73. ^ ケネディは緊急処置室で運ばれた担架から移動していないとされることから、証拠は無いものの、コナリー知事を運んだものと推定されている。
  74. ^ 一般論として銃弾の入口と出口の見分けは、入口側が小さく出口側が大きい。ケネディの場合もベセスダ海軍病院の検視で首に受けた弾の出口が分からなかったことと、頭部の致命傷となった傷について頭部の骨片がダラスから後に到着していて、不透明な部分があり、議論を呼んだ。
  75. ^ Gerald L Posner Case Closed (Random House Value Publishing ,1995)
  76. ^ 後にマクレーンは記録された音声が自分の白バイの無線によるものであることを否定している。
  77. ^ 録音された場所および時間、録音された銃声等の真実性について議論がある。司法省の依頼を受けた全米科学アカデミー(NAS)による調査(1982年)は下院暗殺調査委員会の結論("scientific acoustical evidence establishes a high probability that two gunmen fired at President John F. Kennedy" (科学的な音響の証拠は、2人の射手がジョン F. ケネディ大統領に発砲したことを高い確率で立証している))を否定した。National Academy of Sciences Report of the Committee onBallistic Acoustics ディクタベルト(Dictabelt)は磁気テープではなく針を使用するため、再生を繰り返すと破損する。Tape of Kennedy's Killing Is Getting Digital nalysis(ケネディ暗殺の録音テープ、デジタル解析へ)
  78. ^ 1979年、下院暗殺調査委員会は音声記録を証拠認定しオズワルド以外の狙撃者が存在した可能性が高いと結論したが、後に証拠認定を取り消した(Harrison Edward Livingstone , Robert J. Groden High Treason: The Assassination of JFK & the Case for Conspiracy (Carroll & Graf Publishers, 1998))。銃声の回数には議論があり、4回とする証言もある(ローズマリー・ウィルス(Rosemary Willis、ザプルーダー・フィルムの赤いスカートの少女とされる人物。)、ジーン・ヒルなど)。
  79. ^ 1973年7月に月刊誌「アトランチック」に掲載された評論家・作家レオ・ジャノスとの会見記事で述べている。
  80. ^ 「ケネディはなぜ暗殺されたか」仲晃 著 59~60P
  81. ^ 日本大百科全書』(小学館)。『ダラスの熱い日』は、事件後に3年間で18人が死亡したとする説を引用している。この説には批判もある(奥菜秀次『捏造の世界史』第三章 祥伝社、2008年)。
  82. ^ ジェイムズ・スパダ著、広瀬順弘訳『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.344 読売新聞社刊、1992年ピーター・ローフォードはジョン・F・ケネディの妹パトリシアの夫(1954年ー1966年)。
  83. ^ http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/kentv.htm
  84. ^ ソ連側も極秘裏に KGB と共に、ケネディ大統領暗殺事件を独自に調査した、結論は「オズワルドを替え玉とした複数犯行説」としている。
  85. ^ 陸井三郎の解説による(『日本大百科全書』)
  86. ^ ジム・ギャリソンとクレイ・ショー裁判については、ジム・ギャリソン(著)、岩瀬孝雄(翻訳)『JFK ケネディ暗殺犯を追え』(早川書房、1992年)、オリバー・ストーン、ザカリー・スクラー(著)、中俣真知子、袴塚紀子(翻訳)『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』(テンプリント、1993年)等参照。また、クレイ・ショー裁判を批判した著作としてEdward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)。
  87. ^ 参考:クレイショー裁判
  88. ^ 映画は事実とフィクションを織り交ぜており、様々な論争の原因となった(『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』(テンプリント、1993年参照))。
  89. ^ The Undamaged Zapruder Film
  90. ^ Warren commission report
  91. ^ Gerald L Posner Case Closed (Random House Value Publishing ,1995)
  92. ^ Globe Magazine(タブロイド誌[2])は「運転手ビル・グリアーが発砲した」とする記事を掲載した。この「説」は「Majority 12」関係者も主張したことがある(MJ-12Majestic 12参照。参考:[3][4])。 後続車に乗っていたシークレットサービスのジョージ・ヒッキー(George Hickey)が発砲したとする説(Mortal Error参照)は訴訟に発展した。
  93. ^ ディヴィッド・S・リフトンの説。関連文献参照。
  94. ^ しかし、検視したベセスダ海軍病院の病理医3人のうち、1人は銃創の専門家であり、そもそも司法解剖での検視の役割は死因の確定であって、弾道の入口と出口を確認はするが弾道の入射角の判定はしていない。判定はウオーレン委員会で行っている。それとケネディの背中には痛みを和らげる補助具が固定して装着されており暗殺時は猫背気味ではない。
  95. ^ しかしケネディとジョンソンとの間では1961年8月に「大統領職の継承に関する取り決め」を交わしており、大統領が意識不明に陥った場合は副大統領が「大統領代行」を宣言することが出来、死亡した場合は即大統領に昇格することになっている。このダラスの場合は突然の事態であったがケネディが死亡した午後1:00の段階ですでにジョンソンは大統領であった。宣誓の有無は関係なくこれはその後も同じである。なお何らかの非常事態で副大統領以下も同時に死亡した場合は、下院議長・上院仮議長・国務長官・財務長官・国防長官・司法長官・・・というように大統領を継承する順番が決められていて、権力の空白を生じないように定められている。『ケネディ暗殺事件 その背景と真実』98~99P参照 仲晃 著
  96. ^ 「ただし、『映像に残る暗殺場面では前から撃たれている』という事実は説明できていない。」という意見があるが、ザプルーダー・フィルムによっても、前から撃たれていると断定できるものではない。
  97. ^ ケネディの頭蓋骨の骨折線は前からの銃撃ではなく、背後からの銃撃によるものということを証明したとしている。
  98. ^ バブーシュカ・レディーの項目参照。

参考文献 関連文献[編集]

  • 『アサヒグラフ ケネディ大統領暗殺さる 1963年12月6日号』 朝日新聞社 1963年
  • 『週刊朝日 緊急増刊 ケネディ大統領暗殺 1963年12月10日号』 朝日新聞社 1963年
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  • 陸井三郎『現代のアメリカ』 三一書房 1964年
  • AP通信社(編集)、朝日新聞社(翻訳)『ダラスの金曜日 ケネディ最後の四日間』 朝日新聞社 1964年
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  • 大森実監修『ケネディ暗殺の真相 ウォーレン報告』 弘文社 1964年
  • 仲晃『ケネディ暗殺事件 その背景と真実』 弘文堂 1964年
  • レオ・ソヴァージュ(著)、西川一郎(翻訳)『ケネディ暗殺事件』 上巻・下巻 合同出版 1967、68年
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  • 筑摩書房編集部編『現代世界ノンフィクション全集24(現代の内幕)』 ネリン・ガン「ダラスの紅いバラ」 筑摩書房 1967年
  • マーク・レーン(著)、中野国雄(翻訳)『ケネディ暗殺の謎 オズワルド弁護人の反証 』 徳間書店 1967年
  • バートランド・ラッセル「ケネディ暗殺事件に疑問を持つ」<『ラッセル自伝』(理想社,1971年)所収>
  • マーク・レーン(著)、ドナルド・フリード(著)、井上一夫 (翻訳)『ダラスの熱い日 』 立風書房 1974年(フィクション)
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  • ロバート・サム・アンソン(著)、和田敏彦(翻訳)『彼らは大統領を撃った ケネディ暗殺の謀略を追う』 角川書店 1976年
  • バート・R・シュガー(著)、長沼芳夫(翻訳)『暗殺の構図 米国指導者暗殺の系譜』 荒地出版社 1978年
  • 落合信彦『二〇三九年の真実 ケネディを殺った男たち』 集英社 1979年
  • ジェームズ・マッキンレー(著)、和田敏彦(翻訳)『アメリカ暗殺の歴史 』 集英社 1979年
  • エドワード・J・エプスタイン(著)、高田正純(翻訳)『アメリカを撃った男 オズワルドの謎 』 早川書房 1981年
  • ディヴィッド・S・リフトン(著)、土田宏(翻訳)『ベスト・エヴィデンス ケネディ暗殺の虚実』 上巻・下巻 彩流社 1985年、1986年
  • 広瀬隆『億万長者はハリウッドを殺す』 下巻 第11章 講談社 1989年
  • コンノケンイチ『ケネディ暗殺とUFO』 たま出版 1989年
  • 土田宏『ケネディ兄弟の光と影』 彩流社 1992年
  • ジェイムズ・スパダ(著)、広瀬順弘(翻訳)『ピーター・ローフォード ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』上・下 読売新聞社 1992年
  • マーク・レーン(著)、飯塚忠雄(翻訳)『大がかりな嘘 だれがケネディを殺ったのか 』 扶桑社 1992年
  • チャールズ・クレンショー(著)、岩瀬孝雄(翻訳)『JFK謀殺 医師たちの沈黙』 早川書房 1992年
  • 文藝春秋(編集)『JFK暗殺の真実 ケネディ解剖医、28年間の沈黙を破る!』 文藝春秋 1992年
  • クレイグ・ジーベル(著)、石川順子(翻訳)『テキサス・コネクション JFK暗殺 ジョンソンの最も危険な賭け』 竹書房 1992年
  • 堀田宗路『ジョン・F・ケネディの謎 権力の陰謀とアメリカの悪夢』 日本文芸社 1992年
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  • 仲晃『パクス・アメリカーナの転回 ジャーナリストの見た現代史』 岩波書店 1992年
  • オリバー・ストーン、ザカリー・スクラー(著)、中俣真知子、袴塚紀子(翻訳)『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』 テンプリント 1993年
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  • ロバート・D・モロー(著)、河合洋一郎(翻訳)『ケネディ暗殺 アメリカに殺されたJFK 』 原書房 1996年
  • 小池英夫『ケネディ暗殺事件見聞録』 ラ・テール出版局 1996年
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  • サム&チャック・ジアンカーナ(著)、落合信彦(翻訳)『アメリカを葬った男』 光文社 1997年
  • ジョン・ニューマン(著)、浅野輔、池村千秋(翻訳)『オズワルド 「ケネディ暗殺犯」と疑惑のCIAファイル』 TBSブリタニカ 1997年
  • 宮本倫好『大統領たちのアメリカ 指導者たちの現代史』 丸善 1997年
  • フリッツ・スプリングマイヤー(著)、太田龍(翻訳)『イルミナティ 悪魔の13血流 世界を収奪支配する巨大名家の素顔』第6章 ベストセラーズ 1998年
  • ジョナサン・バンキン、ジョン・ウェイレン(著)、石谷尚子(翻訳)『「超陰謀」60の真実』 徳間書店 1998年
  • 落合信彦『決定版 2039年の真実』 集英社 1999年
  • 布施泰和『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』 近代文芸社 2000年
  • 藤本一美(編)『ケネディとアメリカ政治』 EXP 2000年
  • 奥菜秀次『ケネディ暗殺 隠蔽と陰謀』 鹿砦社 2000年
  • 柘植久慶『JFKを撃った男 テロリストの眼から暗殺のナゾを解く』 小学館 2000年(フィクション)
  • 柘植久慶『歴史を変えた「暗殺」の真相 時代を動かした衝撃の事件史』第42章 PHP研究所 2003年
  • 土田宏『秘密工作 ケネディ暗殺 天国からのメッセージ』 彩流社 2003年 ISBN 4-88202-855-7
  • 三浦二三男『J・F・K ダブルステイツ』新風舎 2003年
  • 浜田和幸『黒いホワイトハウス 今なお消えぬケネディ家の呪い』 祥伝社 2004年
  • ウィリアム・レモン、ビリー・ソル・エステス(著)、広田明子(翻訳)『JFK暗殺 40年目の衝撃の証言』 原書房 2004年
  • バー・マクレラン(著)、赤根洋子(翻訳)『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』 文藝春秋 2005年 ISBN 4-16-367680-5
  • エドワード・クライン(著)、金重紘(翻訳)『ケネディ家の呪い』 綜合社 2005年
  • 渡邉良明『J.F.ケネディvs.二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘』 熊本出版文化会館 2006年
  • マイケル・コリンズ・パイパー(著)、太田龍(翻訳)『ケネディとユダヤの秘密戦争』 成甲書房 2006年
  • 海野弘『陰謀の世界史』文春文庫 2006年
  • 『世界史未解決事件ファイル』第二章 PHP研究所 2006年
  • 『未解決事件の謎と暗号』第二章 青春出版社 2007年
  • 土田宏『ケネディ 「神話」と実像』第七章 中央公論新社 2007年
  • 奥菜秀次『捏造の世界史』第三章 祥伝社 2008年
  • 大澤正道『暗殺の世界史』 第九章 PHP研究所 2008年
  • ティム・ワイナー(著)、藤田博司、山田侑平、佐藤信行(翻訳)『CIA秘録』上 第3部 文藝春秋 2008年
  • ジョン・コールマン(著)、太田龍(翻訳)『新版 300人委員会(下)陰謀中枢の正体』第14章 成甲書房 2008年
  • 週刊『歴史のミステリー』5号(歴史検証ファイル ケネディ暗殺事件の首謀者は誰だったのか)デアゴスティーニ 2008年
  • 『週刊朝日百科 週刊昭和 2009年1月18日号』 「特集 ケネディ暗殺の衝撃」朝日新聞出版 2009年
  • 『歴史108のミステリー 暗殺・闇の真実』 コスミック出版 2009年
  • 『世界中が凍りついた疑惑の大事件』第三章 河出書房新社 2009年
  • 『ケネディ暗殺 暗殺の検証と最期の2日間』(DVD) コスミック出版 2009年
  • アーサー・ゴールドワグ(著)、住友進(翻訳)『カルト・陰謀・秘密結社大事典』 河出書房新社 2010年
  • グループSKIT『世界の見方が変わる「陰謀の事件史」』PHP研究所 2010年
  • 小田桐一『歴史を震撼させた暗殺事件』彩図社 2010年
  • 『検証 陰謀論はどこまで真実か』第三章 文芸社 2011年
  • 奥菜秀次『アメリカ陰謀論の真相』第三章 文芸社 2011年
  • 小川謙治『ケネディ暗殺の真犯人とUFOアポロ疑惑』 学研パブリッシング 2013年 
  • ジム・マース(著)、 渡辺 亜矢(翻訳)『マスメディア・政府機関が死にもの狂いで隠蔽する 秘密の話』 河出書房新社 2013年
  • Josiah Thompson Six Seconds in Dallas: A Micro-Study of the Kennedy Assassination (Bernard Geis / Random House Inc; 1st edition ,1967)
  • Jim Garrison A Heritage of Stone (Berkley Medallion; 4th printing edition ,1975)
  • Edward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)
  • Alan J Weberman, Michael Canfield Coup d'Etat in America: The CIA and the Assassination of John F. Kennedy (Quick American Archives ,1992)
  • Jim Marrs Crossfire: The Plot That Killed Kennedy (Basic Books; Carroll & Graf Pub. 1993)
  • Robert J. Groden The Killing of a President: The Complete Photographic Record of the JFK Assassination, the Conspiracy, and the Cover-Up (Studio. 1994)
  • Gerald L Posner Case Closed (Anchor,2003 Random House Value Publishing ,1995)
  • L. Fletcher Prouty JFK: The Cia, Vietnam, and the Plot to Assassinate John F. Kennedy (Citadel Pr; Upd Sub, 1996)
  • Harrison Edward Livingstone , Robert J. Groden High Treason: The Assassination of JFK & the Case for Conspiracy (Carroll & Graf Publishers, 1998))
  • James H Fetzer(editor) The Great Zapruder Film Hoax: Deceit and Deception in the Death of JFK (Open Court Pub Co; illustrated edition, 2003)
  • Antoinette Giancana, John R. Hughes, Thomas H. Jobe JFK And Sam: The Connection Between the Giancana And Kennedy Assassinations (Cumberland House ,2005)
  • E Howard Hunt, Greg Aunapu American Spy: My Secret History in the CIA, Watergate, and Beyond (John Wiley & Sons Inc, 2007)
  • Steven Gillon The Kennedy Assassination 24 Hours After: Lyndon B. Johnson's Pivotal First Day as President (Basic Books, 2009)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]