池田勇人
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いけだ はやと
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| 生年月日 | 1899年12月3日 |
| 出生地 | (現在の竹原市) |
| 没年月日 | 1965年8月13日(満65歳没) |
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| 出身校 | 京都帝国大学 (現在の京都大学) |
| 前職 | 大蔵官僚 (大蔵次官) |
| 所属政党 | (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
| 称号 | 正二位 大勲位菊花大綬章 法学士(京都帝国大学) |
| 親族 | 広沢真臣(義祖父) 廣澤金次郎(岳父) 池田行彦(娘婿) 寺田稔(義孫) |
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| 内閣 | 第3次池田内閣 第3次池田改造内閣 |
| 任期 | 1963年12月9日 - 1964年11月9日 |
| 天皇 | 昭和天皇 |
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| 内閣 | 第2次池田内閣 第2次池田第1次改造内閣 第2次池田第2次改造内閣 第2次池田第3次改造内閣 |
| 任期 | 1960年12月8日 - 1963年12月9日 |
| 天皇 | 昭和天皇 |
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| 内閣 | 第1次池田内閣 |
| 任期 | 1960年7月19日 - 1960年12月8日 |
| 天皇 | 昭和天皇 |
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| 内閣 | 第2次岸改造内閣 |
| 任期 | 1959年6月18日 - 1960年7月19日 |
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| 内閣 | 第2次岸内閣 |
| 任期 | 1958年6月12日 - 1958年12月31日 |
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その他の職歴
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(1957年2月25日 - 1957年7月10日) |
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(1956年12月23日 - 1957年2月25日) |
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(1952年10月30日 - 1952年11月29日) |
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(1952年10月30日 - 1952年11月29日) |
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(1950年2月17日 - 1950年4月11日) |
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(1949年2月16日 - 1952年10月30日) |
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(1949年 - 1965年8月13日) |
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池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。
目次 |
[編集] 概説
大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りし、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の経済運営・安全保障政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。
首相としては所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家である。また、19世紀生まれの最後の首相でもある。
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)に父・池田吾一郎、母・うめの二男として生まれた。父は酒造りと郵便局長をやっていた[1]。生家が造り酒屋というのは、当時の政界進出者の一典型で、地元では素封家ということになる[2]。
[編集] 学生時代
旧制忠海中学校、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業。
高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作(のちの首相)と同じ宿に泊まり合わせた[3]。池田は忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。[4]。
[編集] 大蔵省時代
1925年(大正14年)に大蔵省へ入省した。入省同期に山際正道などがいる。
入省後は地方を廻り、1927年(昭和2年)から函館税務署長、1929年(昭和4年)から宇都宮税務署長を務める。しかし宇都宮税務署長の時に落葉状天疱瘡を発症したため、大蔵省を休職する。病気はなかなか治らず、1931年(昭和6年)2年間の休職期間が切れたため大蔵省を退職することとなる。
生死を彷徨った5年間には、直子夫人との死別、看病に献身した遠縁の大貫満枝との再婚といった出来事もあり、長い闘病生活は池田の人生観に大きな影響を与えた。 1934年(昭和9年)に奇跡的に病気が完治。大蔵省を退職していたため池田自身は日立製作所への転職を一度は決めていたが、大蔵省からの勧めで同年12月に新規採用という形で玉造税務署長として復職した。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。
復職後は病気での遅れもあり、税制関係の地味なポストを歩み続けたが、末っ子で気儘に育てられ呑気な性格だった池田が、復帰後は一転凄まじい勉強と仕事に打ち込み、厳しい徴税ぶりは「鬼」と渾名されるほどであった[5]。やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長、主税局経理課長を経て、1941年(昭和16年)に主税局国税課長となり、ようやく遅れを取り戻した形となった。本人は後に国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。東京財務局長を経て、1945年(昭和20年)2月に主税局長となり、そのまま終戦を迎えた。1947年(昭和22年)2月、第1次吉田内閣で石橋湛山大蔵大臣の下、主計局長だった野田卯一を飛び越す形で大蔵次官に就任。終戦、公職追放などによる人事の混乱に加え、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用したようである[6]。
[編集] 政治家として
1948年(昭和23年)に大蔵省を退官し、翌1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選を果たす。
選挙後の同年2月16日、1年生議員でありながら、吉田茂が党内の反対を押し切って第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢。宮島清次郎や桜田武といった財界人の推薦があったといわれる。第3次吉田政権は、その後内閣改造を計3回行ったが、いずれの内閣改造でも池田は大蔵大臣に留まった。大蔵大臣としては(後の所得倍増計画に見られる積極策ではなく)引き締め政策を採り、同年3月1日にジョゼフ・ドッジと会談し、6日後の3月7日に共にドッジ・ラインを実施した。また同年、吉田の密命を受けて訪米し、独立後の基地提供について米国と協議した。なお、1950年(昭和25年)2月17日から同年4月11日まで通商産業大臣を兼務した。
1952年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。
しかし、第3次吉田内閣にて大蔵大臣・通商産業大臣を務めていた1950年(昭和25年)3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」との発言が問題となる。また、第3次吉田第1次改造内閣にて大蔵大臣を務めていた同年12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言したとして話題となる(実際は、参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎の質問に答えた中で、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい」という発言を当時の新聞が改ざんして報道した言葉。)さらに、第4次吉田内閣にて通商産業大臣・経済審議庁長官を務めていた1952年(昭和27年)11月27日、日本社会党加藤勘十の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と再度発言したため、翌日に不信任案が提出・可決され辞任に追い込まれた[7]。
しかしその後も党・政府の要職を歴任する。1953年(昭和28年)に自由党政調会長に就任し、池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉を行う。1954年(昭和29年)7月26日に自由党幹事長(12月29日まで)、1956年(昭和31年)12月23日に成立した石橋内閣では大蔵大臣[8]、1958年(昭和33年)6月12日に成立した第2次岸内閣では国務大臣[9]。
1959年(昭和34年)6月18日の第2次岸内閣改造内閣では通産大臣にそれぞれ就任した[10]。岸内閣のころから、下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに「所得倍増」のもととなる政策構想を練り上げていく。1957年には自らの政策集団・派閥である宏池会を結成した。
[編集] 内閣総理大臣
日本全国を争乱の渦に巻き込んだ60年安保で岸政権が倒れると、1960年(昭和35年)7月14日に自由民主党総裁選挙に立候補して当選し、自民党第4代総裁に就任した[11]。5日後の7月19日、内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足した[11]。池田は第1次池田内閣で中山マサを厚生大臣に起用し、日本初の女性閣僚が誕生した。池田が総理となると、池田は政治的論争となりうる課題を極力避け、「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した。そして国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。「寛容」は宮澤喜一、「忍耐」は大平正芳の発案によるという[12]。
政権発足早々の同年10月12日、日比谷公会堂で行われた自由民主党、民社党、日本社会党の党首立会演説会の壇上、社会党の浅沼稲次郎委員長が暴漢によって目前で刺殺される浅沼稲次郎刺殺事件が起こった。この事件の直後に池田が衆院本会議で行った追悼演説は今日でも名演説として知られている(後述)。
同年11月20日の第29回総選挙で自民党は60年安保の影響もなく議席数を伸ばし勝利する。これを受けて同年12月8日に第2次池田内閣が発足すると、以前から言及していた「所得倍増」を目指す構想を実行に移し、12月27日に所得倍増計画の閣議決定をする。
外交ではアメリカ合衆国・東南アジア・ヨーロッパ・オセアニアを歴訪した。1961年(昭和36年)6月19日に訪米し、ジョン・F・ケネディ大統領と会談。同年11月11日に非公式来日した朴正煕国家再建最高会議議長と会談した後、16日から東南アジア4カ国(パキスタン・インド・ビルマ・タイ)を訪問した。1962年(昭和37年)は11月4日からヨーロッパ七カ国(西ドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・イタリア・オランダ・バチカン)を訪問した。フランスとの首脳会談の際にシャルル・ド・ゴール大統領から「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されながらも、イギリスが日本に対し最恵国待遇を保証した日英通商航海条約を11月14日に調印するなど、成果を挙げる。1963年(昭和38年)9月23日からは東南アジア(フィリピン・インドネシア)・オーストラリア・ニュージーランドの4カ国を訪問した。
また、池田政権では経済成長により日本の国際的地位も向上した。1963年(昭和38年)2月11日、OECD加盟申し込みを言明し、翌1964年(昭和39年)4月28日にOECD加盟を果たした。さらに同年、日本はIMFの8条国(国際収支上の理由で為替制限ができない国)へ移行。同年9月7日のIMF東京総会で池田は演説を行い、日本の経済成長を誇り、それを資金面で支えたIMFに対し謝意を示した。ほかに、1963年8月14日、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印し、1964年6月15日に批准した。
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 7月14日、自民党総裁選再選[14]。
- 7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第2次改造内閣[14]。
- 1963年(昭和38年)
- 7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第3次改造内閣。
- 11月5日、郡山市で遊説中、右翼に襲われる。
- 12月9日、第3次池田内閣発足。
- 1964年(昭和39年)
- 7月18日、内閣改造。第3次池田内閣改造内閣。
9月9日、国立がんセンターへ喉頭癌の治療のため入院。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に退陣を表明し、11月9日に後継総裁として佐藤栄作を指名した[15]。
その年の12月に退院するが、翌1965年(昭和40年)7月29日、東京大学医学部附属病院に再入院する。8月4日に手術を受けるものの、8月13日、術後肺炎により死去。65歳没。
葬儀は自民党葬として行われた。葬儀委員長は佐藤栄作。戒名は大智院殿毅誉俊道勇人大居士。墓所は故郷の広島県竹原市と東京都港区青山霊園にある。
[編集] 語録
池田勇人の語録には、後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い。
- 貧乏人は麦を食え
- 第三次吉田内閣で吉田は一年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。
- 1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した。
- 翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言として伝わり、各方面から強い批判を受けることになった。[16]
- 中小企業の五人や十人…
- 2年後の第三次改造内閣で池田は通産大臣になっていたが、1952年11月27日の衆院本会議で右派社会党の加藤勘十の質問に対し、池田は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と答弁した。
- これに対して野党からは「中小企業を倒産させてよいのか」というヤジと怒号が飛び、議場は一時騒然となった。翌日の新聞はまたしても「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」とこれを報道。
- これを受けて野党が提出した池田通産相不信任案が自由党反主流派の欠席によって可決されると、池田は辞任に追い込まれた。その後池田は自宅に引きこもってしまったが、宮沢喜一秘書官の証言では「これで終わった。明日は土曜日だな。週末旅行でもするか。」と話して[17]さばさばした様子であった[18]。なおこの辞任記者会見の際に「私は正直すぎた。政治家として終戦以後色々あったが政治家には向いていないのかもしれない。」という政治の道を諦めるかのような発言をしている。
- 低姿勢
- 1960年11月20日の第29回総選挙に先立っては自ら自民党のテレビCMに登場して、本音しか言えない池田というイメージを逆手に取って「私はウソは申しません」と言い切った。これらいずれもが当時の流行語となり、これが世論を背景にした政権運営という新しいスタイルに先鞭を付けるものともなった。
- 君は…
- 浅沼稲次郎暗殺事件の発生をうけて池田が衆院本会議場で行った追悼演説は、故人に対して「君」とよびかけ、大正末年に浅沼の友人が浅沼のことをうたった詩「沼は演説百姓よ、よごれた服にボロカバン、きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」を引用するなど型破りな演説で、社会党議員が涙を拭うほどだった。池田のこの演説は今日でも国会における追悼演説の傑作のひとつに数えられる名演説として知られている[19]。
[編集] 逸話
- 旧制五高在学当時、池田は趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台を開業することを発案。「池田屋」と称した。友人達にツケで飲ませ本人も飲むといった調子のため3ヶ月でつぶれた[要出典]。
- 池田が最も心を許したのは、同じ明治32年の亥年生まれで集まる亥の「二黒会」のメンバー、小林中、水野成夫、小池厚之助、堀田庄三、東畑精一で、池田が総理になってからも「おまえ」「おれ」と呼び合う仲であったが、この中でも池田が一番の酒豪であったという[20]。
- 占領時代に蔵相だった池田は、国家予算などの重要な話し合いをするためGHQを頻繁に訪問。GHQ経済科学局の局長・ウィリアム・フレデリック・マーカット少将に面会するためで、そんな時、まず約束の二時間前に白洲次郎は、マーカット少将の副官で通訳だったキャピー原田中尉に電話をかけ「マーカット少将のご機嫌はいかがなものか」と尋ねる。原田が「今日はあんまり良くないね」と答えると、白洲の横で話を聞いていた池田が電話を横取り、「今からそちらへ伺います。原田中尉、それまでに少将の機嫌を直しておいてください」と頼む。そして1時間前になると、今度は秘書官だった宮澤喜一から確認の電話があり「間もなく大臣はそちらへ伺います。よろしくお願いします」と念を押す。原田はこういう時、マーカットにさり気なく野球の話題を投げかける。往年の大リーグ選手などの話題を持ち出すと、マーカットは機嫌が悪いことも忘れてスイッチが入り、野球の話に夢中になっていく。最高潮に達するとバットを手に持って上機嫌になり、ちょうどその頃、池田がオフィスに現れて、厄介な話もうまく進むというのがお決まりの段取りであった[21]。
- 蔵相時代の池田の秘書官を務めていた頃の大平正芳は陽明学者の安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履とりを務めていた間に信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答え、以後、大平は池田の欠点を知り尽くして政治家になるための経験を積んだという[22]。
- 私邸に新聞記者を集めては、経済政策、所得倍増を熱心に語った[要出典]。
- 首相になるにあたって、放言癖や前岸内閣で傷ついた政府のイメージを払拭し、親しみやすさをアピールすることに努めた。例えば、スーツはダブルからシングル[要出典]に、メガネは黒縁から銀縁に替えたり[要出典]したことなどが挙げられる。
- 池田は各界の著名人を私邸に招いて交遊を図っていた。特に俳優の石原裕次郎を気に入り、石原裕次郎と私邸の風呂に一緒に入浴したこともあったという[23]。
- 先述のように、池田と会談したフランスのド・ゴール大統領が、池田を「トランジスタラジオのセールスマン」と評したことは良く知られている。当時は首脳が経済について語ることが珍しかったため、ド・ゴールも意外に思ったのである。しかし、今日では経済について語ることが出来ない首脳など使い物にならなくなっているし、当のフランス大統領は、エアバス機や武器のトップセールスを世界中で行っている。こうした点を捉え、八幡和郎は、池田勇人を「経済重視の首脳の先駆として、世界的な偉人である」としている。
- 1960年代にインドネシアのスカルノ大統領と池田をつなぐ仲介役を務めたのはデヴィ夫人という。デヴィ夫人は池田と家族ぐるみの付き合いがあったといい「日本外務省にはこき使われました」と話している[24][25]。
- 大平は、総理総裁たる者は「徹底的に庶民」にならなければならないとして、お茶屋とゴルフには行かないことを池田に約束させた[26]。
- 中曽根康弘は、2008年9月3日付の読売新聞朝刊(13面)に、同年9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院して生命力もないという段階においてぎりぎりまで耐え抜いて後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最後までの志、執念を持つべき、と記した。
- 首相在任中の1964年、戦後の歴代総理が果たせなかった生存者叙勲を復活させ、白羽の矢を立てた内の一人が"電力の鬼"と呼ばれた松永安左エ門。しかし松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と怒りこれを拒否。困った池田は松永に可愛がられていた永野重雄に説得を頼んだ。小田原の松永宅に尋ねた永野だが、松永に立ててもらったお茶の懐紙で鼻水をかんだ上、「あなたが叙勲を受けないと、生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたくてたまらない人たちに、迷惑がかかる。それに、あなたはどうせ老い先が短い。死ねばいやでも勲章を贈られる。それなら生きているうちにもらった方が人助けにもなりますよ」と、相当失礼なことを言った。しかし松永はこれを了承した[27]。
- かつての大蔵省の正門の銘版は昭和39年当時首相であった池田の筆によるものである[28]。
- 戦後の総理大臣の中で、東京都以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである(宇野宗佑は神戸商業大学中退)。
- 苦難の多い前半生もあって、大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。池田を「ディスインテリ」という造語で評した宮沢によれば、池田は「(本当はそんなことはないのだが)自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」。そのことが、高い地位にあっても、自然に周囲に有能な人物を集めることになった。
- 郷土広島愛が強く、広島カープ後援会の名誉会長を務め、南海入りが決定的だった山本一義を呼びだし熱心に説得してカープ入りさせたり[29][30]カープが負けると国鉄時代の豊田泰光の自宅に電話をかけ、「ワシは池田勇人じゃ。今日はよくもカープを負かしてくれたなあ」と脅したという。豊田は一国の総理が野球の試合結果について電話をかけてきたことにびっくり仰天したが、同時に自身が影響力のある仕事に携わっている喜びがこみあげたと話している[31]。
- 忠海中学校の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は竹鶴(当時寮長)に対して「こわい」という印象を抱いていたという。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続いた[32]。
- カレーライスを好物とした。
- 神奈川税務署員殉職事件の殉職税務官顕彰碑の碑文に筆を寄せるとともに慰霊祭に出席している[1]。
[編集] 栄典
- 1965年(昭和40年)8月13日:贈大勲位菊花大綬章
[編集] 家族・親族
- 前妻・直子(元伯爵で貴族院議員だった広沢金次郎の三女、元参議広沢真臣の孫、昭和4年死去)
- 後妻・満枝(医師大貫四郎吉の二女、母の従姉妹の娘にあたる)
- 満枝は医者の娘で広島の名門山中高女、名古屋の金城女専を出た才女だった[33]。
- 長女・直子(元近藤商事会長近藤荒樹の長男近藤荒一郎の妻)
- 長女・直子の嫁ぎ先は、戦後の“金融王”といわれた近藤荒樹の長男荒一郎[33]。いわゆる庶民金融の草分けで、池田が岸内閣の蔵相として活躍していた昭和32年(1957年)頃は、高額所得番付で全国六位にランクされるほどの資産家だった[33]。この2人の結婚は昭和33年(1958年)1月[33]。当然ながら世間から、“池田は資金源を身内に入れた”と見られた[33]。また、この婚姻で池田家は、荒樹の後妻が元伯爵の明治神宮宮司甘露寺受長の長女・績子という関係から旧皇族の北白川家まで繋(つな)がり箔(はく)をつけている[34]。
- 二女・紀子(官僚、政治家池田行彦(旧姓粟根)の妻)
- 三女・祥子(元日本ゴム会長石橋進一の長男で元ブリヂストンタイヤ会長石橋正二郎の甥にあたる石橋慶一の妻)
- この結婚で池田家は、さらに閨閥を広げ、鳩山一郎、石井光次郎、三井財閥の団一族とも“血の連鎖”を結ぶようになった[35]。
[編集] 系譜
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北白川宮能久 |
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甘露寺受長 |
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績子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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近藤荒樹 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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近藤荒一郎 | |||||||||||||||||||||||||
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伊久子 |
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治子 |
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児玉源太郎 |
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ツル |
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来原良蔵 |
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和田小六 |
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寿栄 |
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山尾庸三 |
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山尾三郎 |
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千代 |
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広沢真吾 |
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広沢真臣 |
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広沢金次郎 |
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直子 |
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池田吾一郎 |
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池田勇人 |
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直子 | |||||||||||||||||||||||||||||
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紀子 | ||||||||||||||||||||||||
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池田行彦 | ||||||||||||||||||||||||
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満枝 |
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祥子 | |||||||||||||||||||||||||||
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石橋進一 |
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石橋慶一 | |||||||||||||||||||||||||||
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石橋毅樹 | ||||||||||||||||||||||||
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浜口儀兵衛 |
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邦子 | |||||||||||||||||||||||||||
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石橋徳次郎 |
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石橋徳次郎 |
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鳩山一郎 |
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鳩山威一郎 |
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鳩山由紀夫 | ||||||||||||||||||||||||
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安子 |
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鳩山邦夫 | |||||||||||||||||||||
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石橋正二郎 |
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典子 | ||||||||||||||||||||||||||
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啓子 | |||||||||||||||||||||||||
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郷裕弘 |
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伊地知純正 |
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庸子 |
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宮澤裕夫 | |||||||||||||||||||||||||
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啓子 | ||||||||||||||||||||
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宮澤鹿吉 |
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宮澤裕 |
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宮澤喜一 |
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クリストファー・ ラフルア |
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宮澤弘 |
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宮澤洋一 | ||||||||||||||||||||||
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小川平吉 |
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こと |
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宮澤泰 |
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その | ||||||||||||||||||||||||||
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児島喜久雄 |
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汪子 |
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ゆり | |||||||||||||||||||||||||
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吉國兼三 |
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吉國二郎 |
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吉國一郎 | |||||||||||||||||||||||||
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[編集] 著書
- 『均衡財政‐附・占領下三年のおもいで』(中公文庫、1999年) ISBN 4122033586
[編集] 脚注
- ^ 伊藤昌哉著『池田勇人 その生と死』(1966年)56頁
- ^ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』80頁
- ^ 友人として急速に接近するのは、お互いに政界入りしてからである。池田が死亡した際、佐藤が葬儀委員長を務めている(『正伝 佐藤栄作(下)』 42頁)。
- ^ 『正伝 佐藤栄作(上)』 44-45頁。
- ^ 小林吉弥『花も嵐も』54頁
- ^ 小林吉弥『花も嵐も』70頁
- ^ 『大平正芳』 66頁。
- ^ 『大平正芳』 77頁。
- ^ 『大平正芳』 80頁。
- ^ 『大平正芳』 81頁。
- ^ a b 『大平正芳』 88-89頁。
- ^ 『大平正芳』 94頁。
- ^ 『大平正芳』 99頁。
- ^ a b 『大平正芳』 100頁。
- ^ 佐藤を「指名」したと言われていることについて、渡辺恒雄は自伝『天人天職』のインタビューの中で「抗がん剤の副作用で意識が朦朧としていた池田さんを田中角栄と大平正芳が丸め込んだのではないか」と回想している。ただし、池田は、この際に放射線照射による治療を受けているが、抗がん剤の投与は受けておらず、かつ、佐藤への後継指名は、池田が副総裁川島正次郎と幹事長三木武夫に自民党内の意向を調整するよう指示した上で行われており、この話の信憑性は薄い。
- ^ 1950年12月7日の参議院予算委員会の議事録を閲覧
- ^ 読売新聞1952年11月29日朝刊
- ^ 1952年11月27日の衆議院本会議の議事録を閲覧
- ^ 1960年10月18日の衆議院本会議の議事録を閲覧。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、首席秘書官の伊藤昌哉が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった。」と池田は述懐している(若宮啓文「忘れられない国会論戦」中公新書 1206 中央公論社 1994年 ISBN 4121012062 C1231)。
- ^ 『追悼 小林中』小林中追悼録編集委員会、1982年、377-385頁
- ^ 市岡弘成・福永あみ『プロ野球を救った男 キャピー原田』ソフトバンククリエイティブ、2009年、140、141頁。
- ^ 『大平正芳』 59-60頁。
- ^ 『太陽への神話』 石原裕次郎 集英社 1981年
- ^ 【外交文書公開】デヴィ夫人首脳外交に一役 池田首相の伝言取り次ぐ
- ^ 池田総理大臣の西太平洋諸国訪問の再の各国政府との共同声明
- ^ 『大平正芳』 92頁。
- ^ 永野重雄著『わが財界人生』ダイヤモンド社(1982年)、167-170頁
- ^ 2001年1月6日付産経新聞他
- ^ 【1960年代の3選手】山本 一義(やまもと・かずよし)(71) - 中国新聞
- ^ CONNOTE-ものづくり名手名言 第16回-
- ^ 豊田泰光『トヨさんの新・長幼の序』情報センター出版局 1986年、40頁
- ^ 凛として~ウイスキーの父竹鶴政孝~ニッカウヰスキーウェブサイト
- ^ a b c d e 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』85頁
- ^ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』85-86頁
- ^ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』86頁
[編集] 参考文献
- 山田栄三 『正伝 佐藤栄作 (上巻)』 新潮社、1988年/44-46頁
- 伊藤昌哉 『池田勇人とその時代』 朝日文庫で再刊、1985年 ISBN 4022603399/初版至誠堂、1966年
- 伊藤昌哉 『池田勇人 日本宰相列伝.21』 時事通信社 1985年
- 沢木耕太郎 『危機の宰相』 魁星出版 2006年/文春文庫 2008年
- 吉村克己 『池田政権・一五七五日 高度成長と共に安保からオリンピックまで』 行研、1985年
- 塩口喜乙 『聞書池田勇人 高度成長政治の形成と挫折』 朝日新聞社 1975年
- 小林吉弥 『花も嵐も 宰相池田勇人の男の本懐』 講談社 1989年
- 『池田勇人展 その人生と素顔に迫る』竹原市立「たけはら美術館」編、2005年
- 『池田勇人先生を偲ぶ』 松浦周太郎・志賀健次郎編、(非売品)、1967年-追悼文集
- 『池田さんを偲ぶ』 岡田幸雄・池田会編、財務出版(非売品)、1968年-追悼文集
- さいとうたかを画 『池田勇人と佐藤栄作の激突 歴史劇画大宰相第4巻』 講談社+α文庫 1999年
- 福永文夫 『大平正芳…「戦後保守」とは何か』 中央公論新社〈中公新書〉、初版2008年12月。ISBN 9784121019769。
- 鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』光文社・カッパブックス、1965年/62-67頁、156-158頁
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年/76-90頁
[編集] 関連項目
- 吉田13人衆
- 保守本流
- 財界四天王 - 池田内閣を支えた小林中、水野成夫、永野重雄、櫻田武を指す
- 曲淵景漸 - 江戸時代の旗本。町奉行を務めた時、天明の大飢饉が発生。この時「米が無いから犬を食え」と発言し、町民の怒りを買い打ちこわしに発展、罷免される。
[編集] 関連人物
- 伊藤昌哉 秘書
- 島桂次 - 終生の恩人と名前を挙げている(『シマゲジ風雲録』133頁、文藝春秋、1995年)
- 坂本龍一- 祖父が池田の生涯の親友であったという(坂本龍一『音楽は自由にする』23頁、 新潮社、2009年)
[編集] 外部リンク
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 岸信介 |
第58・59・60代:1960年 - 1964年 |
次代: 佐藤栄作 |
| 先代: 稲垣平太郎 高橋龍太郎 高碕達之助 |
第2代:1950年 第7代:1952年 第19代:1959年 - 1960年 |
次代: 高瀬荘太郎 小笠原三九郎 石井光次郎 |
| 先代: 創設 |
1958年 |
次代: 廃止 |
| 先代: 大屋晋三 一万田尚登 |
第55代:1949年 - 1952年 第61・62代:1956年 - 1957年 |
次代: 向井忠晴 一万田尚登 |
| 先代: 山崎猛 |
第3代:1952年 |
次代: 小笠原三九郎 |
| 党職 | ||
| 先代: 岸信介 |
自由民主党総裁 第4代:1960年 - 1964年 |
次代: 佐藤栄作 |
| 先代: 結成 |
宏池会会長 初代:1957年 - 1964年 |
次代: 前尾繁三郎 |
| 先代: 佐藤栄作 |
自由党幹事長 第6代:1954年 |
次代: 石井光次郎 |
| 先代: 木暮武太夫 |
自由党政務調査会長 第6代:1953年 - 1954年 |
次代: 水田三喜男 |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第57代 岸信介 |
第58・59・60代 1960年 - 1964年 |
第61代 佐藤栄作 |
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