白洲次郎

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しらす じろう
白洲 次郎
Yoshida en route to San Francisco 1951.jpg
サンフランシスコ講和会議へ向かう
機上の吉田茂(右)と白洲次郎
生誕 1902年2月17日
日本の旗 兵庫県武庫郡精道村
死没 1985年11月28日(満83歳没)
出身校 ケンブリッジ大学卒業
職業 実業家
配偶 白洲正子
子供 牧山桂子長女
  

白洲 次郎(しらす じろう、1902年明治35年)2月17日 - 1985年昭和60年)11月28日)は、日本実業家。しばしば「白州」と誤記されるが「州」ではなく「洲」が正しい。終戦連絡中央事務局次長経済安定本部次長、貿易庁長官東北電力株式会社会長などを歴任した。

目次

[編集] 概要

兵庫県芦屋市出身の実業家である。終戦直後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商務省外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、東北電力の会長を務めるなど、多くの企業役員を歴任した。

[編集] プロフィール

[編集] 生い立ち

1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。後に兵庫縣川邉郡伊丹町[1](のち伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居した。

1919年大正8年)、旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)時代は[2]サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時すでにペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し後のカーマニアの片鱗を見せていた。神戸一中での成績は中の下。成績表の素行欄には、『やや傲慢』とか『驕慢 』『怠惰』といった文字が並んでいる[3]。同級生には後に作家で文化庁長官となった今日出海、中国文学者で文化功労者となった吉川幸次郎がいる。

[編集] イギリス留学

神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学し西洋中世史、人類学などを学ぶ。自動車に耽溺し、ブガッティベントレーを乗り回す。7代目ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(愛称:ロビン)と終生の友となる。ロビンとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。

1925年(大正14年)、ケンブリッジ大学を卒業。

[編集] 帰国

1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のち中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国を余儀なくされる。

1929年(昭和4年)、英語新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となる。伯爵樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。 結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役(1937年(昭和12年))を歴任する。

この間、海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役を押しつけられていたこともあった。

[編集] 疎開、徴兵回避 

1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷町)の古い農家(武相荘(ぶあいそう)と名付けた)を購入し、疎開した。特権階級であった白洲は徴兵を回避し、農業に励む日々を送った。[4]一方で吉田を中心とする宮中反戦グループ(ヨハンセングループ)に加わっていたようである。同年に長女・桂子がうまれる。

[編集] 終戦連絡中央事務局

1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、民政局長コートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと褒められたことに対して"If you study a little harder, you will improve your English."(あなたももう少し勉強すれば上手くなる)と自分の英語の能力をひけらかしつつ嫌味で返すなど、[5]。 GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[6]

終戦直後、広畑製鐵所(のち新日本製鐵広畑製鐵所)のイギリスへの売却を画策したといわれる。永野重雄によってこれは免れたが、戦後復興に欠かせない日本最大・最新鋭の製鉄所の外国資本への売却は、賛否が分かれるところである[7]

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる[8]

もっとも武相荘のメールマガジンでは、『「マッカーサーを怒鳴りつけた男」 と書かれるに至っては、白洲は筋を通してもそんな失礼な男ではなかったと言いたくなります』との記述があり[9]、また、占領期のGHQ関連文章を保管しているバージニア州ノーフォークにある「マッカーサー・アーカイブ」において1945・46年12月の執務記録、面会予定表、ゲストブックの全てに白洲次郎の名前が見つからないとのことを徳本栄一郎が文藝春秋に寄稿したが[10]、このエピソードの真偽は意見が分かれる。

[編集] 憲法改正

同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年))2月13日松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。次郎は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡[11]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明される。

同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任する。

[編集] 貿易庁初代長官

1948年(昭和23年)12月1日商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。

同年、連合国軍が戦時に攻撃を避け占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の広畑製鐵所が、日本側に返還されることになった。次郎はイギリスに売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。その後、次郎と永野はその後銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなり、永野が次郎の顔を机に押さえつけた逸話も残る[12]

1950年(昭和25年)、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更され、随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30mにも及ぶ巻物となり、内容には奄美諸島琉球諸島沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。

1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻る。

[編集] 実業界へ復帰

次郎は既に吉田側近であったころから公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電株式会社9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任する。就任の同年福島県只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。

また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク産業計画会議の委員に就任した。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。

[編集] 死去

兵庫県三田市心月院にある白洲次郎夫妻の墓。右が次郎、左が正子の墓。

80歳まで1968年ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じ、また、トヨタの新型車のアドバイスなども行っていた。しかし1985年(昭和60年)11月に、正子夫人と伊賀京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。83歳没。墓所は兵庫県三田市心月院である。

夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、次郎の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして次郎の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。

[編集] エピソード

  • 白洲次郎に関する一次資料はほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である[13]
  • 身長についてはNHK番組『その時歴史が動いた』では185cmと紹介されたが、武相荘ホームページメールマガジン2008年12月25日第86号によると175cmとなっている。
  • スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある[14]
  • 非常にせっかちな性格の持ち主。その為ゴルフは「プレイ・ファスト」、食事は早食い。酒も手早く済ませたと伝えられている。軽井沢ゴルフ倶楽部では「素振り禁止」と張り紙をしたり、次郎の方から食事に誘った友人よりも早く食べ終えて「早くしろよ」と急かす事もしょっちゅうだった。
  • 食べ物は基本的には肉類を好み、高齢になってからも大食漢。80歳を過ぎても250gのステーキを平らげていた。また明太子も好物だった。次郎は戦後に西鉄がプロ野球球団を設立する際の後ろ盾になったがその時、西鉄側に土産として明太子を持ってこさせた。最初に西鉄側が土産に持ってきたところ気に入ったためのようで、パンに塗って食べるのが好みだったようである。
  • コーヒーはイタリアン・ローストで細かく挽いたものを好み、青山の紀ノ国屋で良く購入していた。顔なじみだったコーヒー売り場の店員は、白洲の訃報を伝える新聞記事で初めて素性を知り驚愕するとともに、「冗談好きで素敵なおじいさんだった」と後に取材に答えている[15]
  • 神戸一中時代に、宝塚歌劇団に10歳位年上のガールフレンドがいた。
  • 神戸一中時代から車が趣味で、英国留学時代は油まみれで愛車をいじってはレースに参加したり長距離ドライブに興じたりしており、友人たちから「オイリーボーイ」と呼ばれていた。次郎の車好きは晩年まで続き、ベントレー3リッターやブガッティタイプ35、ポルシェ911Sなど数々の名車を所有していた。
  • 手先が器用で日曜大工が趣味の1つ。しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなど日用品を良く作っていた。これらは現在も武相荘に展示されている。
  • 結婚当初、正子を「薩摩の奴らは江戸に入城した時は、・・・」とからかったら正子から横っ面に一発ビンタを御見舞いされ、それ以降「薩摩」を揶揄する事はなかったそうである。
  • サンフランシスコ講和会議に講和会議主席全権顧問として出席した際、講和条約の受諾演説の草稿をGHQの了解を得た上で英文で書いてきた外務省の役人を叱り飛ばし、全文を日本語による毛筆で書き直させた。この草稿の長さは30メートル、直径は10センチにも及び、吉田茂がこれを読み上げている様子を海外メディアは”吉田のトイレットペーパー”と報じた。
  • 日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられている(サンフランシスコ講和条約締結に向かう機内で着用した)。また、ラッパズボンも愛用していた。
  • 次郎はケンブリッジ大学に留学しており、流暢なイギリス英語を話した。そのイギリス英語にはオックスフォード大学とケンブリッジ大学の学生・教員・出身者のみが喋る独特の訛があり、オックスブリッジアクセントと言われる。階級社会であるイギリスでは、オックスブリッジアクセントを喋る者は上流階級としてあらゆる場所で然るべき待遇を受ける。白洲次郎が話す英語は当然、オックスブリッジアクセントであった。アメリカでも、名門とされる大学群であるアイビーリーグですらオックスブリッジを手本に創立された。ホイットニー准将は、アイビーリーグではないジョージワシントン大学出身であり、白洲次郎の「もう少し勉強」と言う言葉は「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジに入学出来てオックスブリッジアクセントを喋る資格を所有できる」、「あなたももう少し勉強すればオックスブリッジアクセントの事が解って、そのような失礼な事を発言しなくなる」などの皮肉が入っていたとされる。
  • 貿易庁長官時代の番記者は、朝日新聞小坂徳三郎毎日新聞安倍晋太郎日本経済新聞田中六助であった。
  • 宮澤喜一は「永山時雄と私が一番一緒に付き合っていた一人じゃないでしょうか」と話している。講和問題1950年3月に池田勇人と三人で渡米したのが最初だが、一連の交渉に「白洲さんはまったく関係してない。全然仕事をしている感じはなかった」と答えている。当時、ワシントンには日本人はまだ二人しかおらず[16]池田と宮澤はアメリカの方針で安宿に泊らせられたが、白洲はイギリスの学生時代の友達の家などに泊まり歩いて、どこで何をしてたか分からなかったという。「アメリカの役人も自分たちの枠の中で動いてない白洲を嫌がったかもしれませんね」「講和のことを吉田さんは池田さんには具体的に指図していますが、白洲にはあったように思えない、この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している[17]
  • 映画『夜の蝶』(1957年(昭和32年)、大映、原作川口松太郎)の主人公、白沢一郎(演じたのは山村聡コロンビア大学卒の前国務大臣。イラン石油輸入権を持ち政界に多大な力を持つ富豪の実業家)のモデルは彼である。
  • 2009年、マッカーサー記念館の倉庫から、白洲が設計しマッカーサーに贈答された椅子と書簡が見つかった。なお、書簡の一通は白洲がマッカーサーに宛てたもの、もう一通は返信の写しだがマッカーサー本人からの物ではない。
  • 東北電力会長時代
    • 当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川[18]水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。
    • ゴム長を履き自ら車を運転して各地のダム建設現場を回り、土産持参で飯場に泊まり込んで土木作業員やその家族と親しく酒を酌み交わした。普段の厳しい姿を知っている東北電力社員が畏まっているのとは対照的に作業員の子供は次郎に良く懐き、膝の上に抱かれる事も多かったという。次郎以外の社員には全く寄り付かない子供たちを見て次郎は「子供には、誰が本当にいい人か分かるんだよ」と言って笑い、周囲を悔しがらせた。
    • 出張旅費は殆ど自腹だった。
    • 株主総会では舞台上に役員席を設ける事を好まず、株主と同じ高さに役員席を設けさせた。
    • 東北電力東京支社には政財界の要人が密かに訪ねてくる事が多く、彼らが自分ひとりで仕事をする為に部屋を用意させていた。
    • また東北電力東京支社では喫煙室以外は一切禁煙とし、女子社員のお茶汲みを禁じて飲みたい者は自分で用意させる様に徹底させた。
  • 軽井沢ゴルフ倶楽部時代
    • 早朝の散歩を兼ねて場内を見回っていた時、工事のため徹夜で見張りをしていた鹿島建設の下請け会社社員に「おい爺さん、立ち入り禁止だ」と咎められた事がある。後に理事長室に呼び出され咎めた相手が理事長の次郎と知った社員はクビを覚悟したが、次郎は彼を親しく自分の隣に座らせコーヒーを勧めた上、同席していた鹿島建設役員に「一所懸命やってくれるのは有難いが、下の者に無理をさせてはいかん。そんな仕事を依頼した覚えは無い。」と諭した。
    • キャディー等のゴルフ場の裏方にも気さくに接し、慶弔時には小マメに祝いの品や香典等を贈っていた。死去して20年以上経った今でも、次郎から貰った品を大切に保管している人も多い。ある時フロント係の女性が結婚した事を知ると、倶楽部会員や知人に回状を廻して祝い金を集めて贈った。回状の署名には佐藤栄作井深大水上勉川口松太郎三益愛子夫妻など錚々たる人物名が記してあった。
    • 中曽根康弘が軽井沢ゴルフ倶楽部に立ち寄った際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡を用いて中曽根の様子をうかがっていたところ「なんだ? バードウオッチングか?」と強烈に皮肉ったといわれている(当時、中曽根は政治的立場をよく変えるため「風見鶏」と揶揄されていた)。
    • 一方で運転手にシューズの紐を結ばせている会員を見かけた時には「おい、手前ぇには手がないのか!」と一喝し、その場で追い返してしまった事もあった。
    • 以上の点から次郎はジョークのセンスもなかなかのものであり、頭は柔らかいが「うるさがたの爺様」だったようである。
  • プロ野球は親会社の社外役員を務めていた大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)を応援。同時期に日本テレビ社外役員でもあったのに何故巨人ファンでなかったかは定かではないが、日本テレビの役員会に顔を出したときには、当時の務臺光雄社長に対して「昨日の巨人はだらしなかったですな」等と冗談交じりに放言し、座を和ませる事もあった。
  • 吉田の総理退陣(1954年(昭和29年))後、長男である吉田健一に後継としての政界入りを打診する。しかし、政界への興味のなさと小りんとの再婚以後の茂との折り合いの悪さなどから、「その器ではない」と健一に断られる。これは次郎にとって痛恨事であったようで、後年に至るまでこの健一の態度についてかなりの悪口を言っていたらしい。その悪口を聞く機会があった辻井喬(堤清二)は後に著作の中で、およそ次郎に当てはまらぬ「可憐な人」との表現を用いて強烈に皮肉った。
  • 晩年、彼が政治家として最も評価していたのは英語使いとして知られた元官僚の宮澤喜一であったが、晩年の正子はこれを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。

[編集] 田中角栄に関連するエピソード

田中角栄とのエピソードも幾つか存在する。

  • 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえもルールを守るということを第一にした。次郎が理事を務めるゴルフクラブに、ある日秘書らしき若者から「これから田中がプレイしますのでよろしく」 と挨拶があった。応対した次郎が「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」と返したところ、「総理の田中です」と返答があった。「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」と次郎が尋ねると相手からは「会員ではありませんが、総理です」と返答があった。次郎は「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」と言い、そっぽを向いたとのことである。
  • クラブのトイレに「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という理事長の張り紙があったにもかかわらず無視した田中に「おい、お前は日本語が読めねえのか」と言った。
  • 田中に対してはクラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。次郎は田中に対してはその人物を認めつつ、「あの人は若いころあまりにも金に苦労しすぎた」と金銭的に貧しかった境遇に同情していた。
  • 田中を批判するばかりではなかった。ロッキード事件が起こると、各新聞は「容疑者の田中は…」と書きたてた。次郎は新聞社の社長に向かって「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は4年前彼を今様太閤として「戦後日本が生んだ英雄」とおだてていました。今、容疑者田中と書くならなぜその前に「本紙はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした」とお詫びと訂正を載せてからにしないのですか」と主張した。

[編集] 名言集

  • 「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」(Although we were defeated in war, we didn't become slaves.)
  • 「僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ」(ケンブリッジ大学に留学した理由を問われて)
  • 「Masa: You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」(交際中に正子に送ったポートレートに添えられた言葉。Jonは次郎のことである)
  • 「お嬢さんを頂きます」(正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父・樺山愛輔に言った台詞)
  • 「ネクタイもせずに失礼」(新婚当初、正子との夕食の席で)
  • 「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」(GHQによる憲法改正案を一週間缶詰になり翻訳作業を終え、鶴川の自宅に帰ったときに河上徹太郎にはき捨てた台詞)
  • 「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的の立て直しを要求しているのだと思う」(『頬冠りをやめろ―占領ボケから立直れ』より)
  • 「憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。一寸夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」(「文藝春秋」1954年臨時増刊号より、GHQ内部の人々を評して)
  • 「自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる」(日本国憲法制定を巡ってのGHQとの攻防の折、宮澤喜一に対して)
  • 「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」(『プリンシプルのない日本』より)
  • 「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
  • 「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法が出来上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マックアーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」(『プリンシプルのない日本』より)
  • 「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』より)
  • 「占領下の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人――一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいとおもい、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさら感ずる年でもないと思っている」(『「占領秘話」を知り過ぎた男の回想』より)
  • 「税金がふえて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意ならば、安保など解消すべし」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
  • 「死んだらこれに”俺の墓”と彫るんだ」(東北電力会長時代、只見川柳津ダム建設現場を訪れた際、石を見つけて)
  • 「“No Substitute”(かけがえのない)車を目指せ」(2代目トヨタ・ソアラ開発に際して開発責任者の岡田稔弘に)
  • 「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事は出来ない。」(東北電力会長時代にダム建設を請け負っていた前田建設工業社長・前田又兵衛へのアドバイス)
  • 「地位が上がれば役得ではなく“役損”と言うものがあるんだよ」(犬丸一郎帝国ホテルの社長に就任するに当たって贈った言葉。地位に固執しなかった次郎の考え方が良く表れている)
  • ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ」三宅にアドバイスとして。
  • 「わからん!」(正子の『西行』を読んで)
  • 「一緒にいないことだよ」(晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて)
  • 「Hope She will be MORE TIDY! 1979」(武相荘にあるブラシ入れの底裏のメッセージ。おそらく正子へのうっぷん)
  • 「今の日本の若い人に一番足りないのは勇気だ。「そういう事を言ったら損する」って事ばかり考えている」
  • 「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」(「週刊朝日」1976年(昭和51年)11月18日号)
  • 「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」(晩年、東京赤坂・前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女の(現・牧山)桂子に向かって)
  • 「右利きです。でも夜は左」(入院した病院で看護師に「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。ちなみに“左利き”とは“酒飲み”という意味を持つ)

[編集] 第三者による白洲次郎評

前出のように、白洲次郎についての一次資料は少ないとされる。彼自身の性格によるところもあるのだろう[19]。第三者による白洲次郎評を以下に記す。

  • メトロのライオン」―青山二郎
  • 「育ちのいい生粋の野蛮人」「次郎はあまりに野心がないから誤解を受けるんだ」「“芸術家的孤独”とでもいうかな」―今日出海
  • 「次郎さんは大変な負けず嫌いだったから、負けそうになると“おい、ちょっと待て”“お前、ほんとにそれでいいのか、いいのか?”と威嚇して相手の手を変えさせるのが得意だった」―細川護熙(子供時代、軽井沢での日々を回想して)
  • 「占領期間中、白洲さんはとにかくよく占領軍に楯ついていましたよ」「当時マスコミで言われていた“白洲の側近政治”なんていう批判はまったくあたらない」「白洲さんが外資からコミッションをとるなんていうことは絶対ありえませんね」―宮澤喜一
  • “Mr.Why”“Difficult Japanese”“Sneaking eel”―GHQ内部における次郎の渾名
  • 「日本人らしくない身ぶりで、実際、調子のいい男だったよ」―マイロ・E・ラウエル
  • 「白洲がいなかったら、吉田はその数ヶ月後に首相になることはなかったかも知れない」―古関彰一(日本国憲法制定において“汚れ役”を演じた次郎を評して)
  • 「あいつはバガボンド(放浪児)だ」―楢橋渡
  • 「ミスター・ヴィトー(拒否権)」―吉田茂が外相だった当時、外務省内で次郎がつけられた渾名
  • 「白洲は実際すばしこい男で、球をかかえてタックルをすり抜けて走るフットボールの選手に似ていた」―チャールズ・L・ケーディス
  • 「それには経済をよく知っておって、日本のことをよく知っておって、合理的にアメリカの考え、発想法にもとづいて、向うに反対できる男を見つけなければいかんということで、死に物狂いになって見つけたんだろうな」―伊藤昌哉(第二次吉田内閣の蔵相として池田勇人が抜擢された時の次郎の行動を振り返って)
  • 「あいつは天才だ。俺たちは秀才だけど」―小林秀雄
  • 「考えてみれば、僕が作文して白洲さんが『よし』と言って通産省ができちゃったんだから、乱暴な話ですがね」―永山時雄
  • 「彼は一種の文明批評家、しかも実践的な文明批評家である。日本の政界、財界の“古い政治”をブチ壊してみたいといつも思っているのだろう」―河上徹太郎
  • 「白洲天皇」「側近政治」「ラスプーチン」―吉田茂の片腕として政治に携わっていた頃の次郎に対するマスコミ評
  • 「白洲は舌たらずなところがあるから国会の答弁はちょっと無理じゃないですか。やめたほうがいいですよ」―松本重治(吉田が次郎の国務大臣就任を打診してきた時の一コマ)
  • 「東京電力のもつ水利権を事実上奪った白洲の政治力も、腰は抜けているが野心だけは人一倍の閣僚どもを側近の威光を笠に丸めこんだもので、ある意味では天晴れな力量ともいえるだろう」―『経済往来』
  • 「白洲次郎君など、外国人と話していても、それに対する勘が我々とまるっきり違うですね」―吉田茂
  • “wonderful secret weapon”―サー・シグモンド・ウォーバーグ
  • 「吉田が富士なら白洲は宝永山」―大宅壮一
  • 「昔も今も白洲次郎のような人に会ったことがない。それは、自分の感じたこと思ったことを修辞を施さずに口にして憎まれない人という意味である」―辻井喬
  • 「吉田側近として活躍していた昭和20年代後半は、元首相の威を借る「日本のラスプーチン」と呼ばれ、すこぶる評判が悪かったという。高く評価されるようになったのは、吉田氏同様、死後しばらく経(た)ってからだった」―乾正人[20]

[編集] 白洲次郎を取り上げた作品

[編集] 宝塚歌劇

宝塚歌劇団宙組(そらぐみ)は、2008年平成20年)に「黎明の風」という題名で次郎の波乱の生涯を扱った。2月、宝塚大劇場で初演。同大劇場は宝塚歌劇団の本拠地であり、兵庫県宝塚市は白洲家の出身地である三田市の隣町でもある。2~3月は宝塚大劇場で、4~5月は東京宝塚劇場で上演。5月にDVDやCDも発売される。次郎を演ずるのは同歌劇団理事で専科の轟悠。マッカーサー(大和悠河)や吉田茂(専科の汝鳥伶)をタカラジェンヌが演じ話題となった。

次郎は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男は東宝東和社長)、また前述のとおり次郎が神戸一中時代にタカラジェンヌと知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇団に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。

[編集] その他の作品

[編集] 家系

[編集] 白洲家

白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵文政12年7月15日1828年8月15日)、現・兵庫県三田市屋敷町にて出生。父(曽祖父)は白洲文五郎、母(曽祖母)は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市)一柳家の家老黒石氏の娘・里子[21])は三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。また現在の元町三宮といった神戸港周辺の神戸市の都市開発や神戸ホーム神戸女学院の前身)の創立にも尽力した。

父・白洲文平ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。

[編集] 子孫

[編集] 略年譜

  • 1902(明治35)年 2月17日、現在の兵庫県芦屋市にて誕生
  • 1914(大正3)年  神戸一中入学
  • 1919(大正8)年  この頃、イギリスに渡航
  • 1924(大正13)年 ケンブリッジ大学入学(翌1925年卒)
  • 1928(昭和3)年  白洲商店倒産。この頃、帰国
  • 1929(昭和4)年  ジャパン・アドバタイザー入社。11月19日、正子と結婚。この頃、吉田茂と知り合う
  • 1931(昭和6)年  2月5日、長男春正誕生。セール・フレイザー商会入社、取締役となる。この頃から頻繁に渡欧
  • 1937(昭和12)年 日本食糧工業(後の日本水産)取締役就任。やがて取締役外地部長となる。この頃、近衛文麿と知り合う
  • 1938(昭和13)年 1月3日、次男兼正誕生
  • 1940(昭和15)年 6月3日、長女桂子誕生
  • 1942(昭和17)年 この頃、日本水産を退職し帝国水産理事就任。この頃、南多摩群鶴川村(現在の町田市)にて農家を購入
  • 1943(昭和18)年 この頃、鶴川村へ転居(=武相荘
  • 1945(昭和20)年 終戦連絡事務局参与に就任
  • 1946(昭和21)年 2月、日本国憲法制定作業に参加。3月1日、終戦連絡事務局次長に就任、高等官一等となる。12月、経済安定本部次長に就任。この頃、読売争議に介入
  • 1947(昭和22)年 終戦連絡事務局次長を退任
  • 1948(昭和23)年 12月、貿易庁長官に就任
  • 1949(昭和24)年 5月24日、貿易庁長官退任。翌25日、通商産業省設立。この頃、旧日本製鉄(現・新日鉄)広畑工場の外資売却問題騒動
  • 1950(昭和25)年 4月25日、吉田茂首相の特使として訪米。この頃、アメリカ大使就任の話が出るが頓挫。この頃、旧日本軍播磨造兵廠払い下げ問題。この頃、日本輸出入銀行設立に奔走
  • 1951(昭和26)年 5月1日、東北電力会長就任。9月8日、サンフランシスコ講和条約調印に立ち会う。この頃、「日本のラスプーチン」など白洲バッシング多数
  • 1952(昭和27)年 軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任。11月19日、外務省顧問に就任。吉田首相の特使として欧米視察
  • 1953(昭和28)年 2月、吉田首相の特使としてヨーロッパ視察。吉田の命を受けてチャーチルに面会しようとしたが果たせず
  • 1955(昭和30)年 旧日本軍四日市燃料廠払い下げ問題
  • 1959(昭和34)年 4月10日、東北電力会長退任
  • 1966(昭和41)年 東京赤坂に転居
  • 1982(昭和57)年 2月、軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事に就任
  • 1985(昭和60)年 11月28日、死去

[編集] 脚注

  1. ^ 牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』より
  2. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社文庫)
  3. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男 上』(講談社文庫)
  4. ^ 但し当時38歳の白洲は丙種であり、昭和20年の戦争最末期を除けば庶民でも通常は徴兵されない年齢である。白洲の際の招集は、いわゆる成人男子総赤紙の「国民兵役招集」であり、回避した人間も多い
  5. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男 上』(講談社文庫)
  6. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男 上』(講談社文庫)
  7. ^ 徳本栄一郎 「英国機密ファイルの昭和天皇」 新潮社 2007
  8. ^ 『河上徹太郎全集 第5巻「メトロのライオン 白洲次郎」』、『風の男 白洲次郎』など
  9. ^ [1] 武相荘メールマガジン
  10. ^ 文藝春秋2008年10月号 徳本栄一郎「白洲次郎知られざる素顔」
  11. ^ いわゆる「ジープウェイ・レター」。ホイットニーからの返事が国立国会図書館に保存されている(紹介ページ)。
  12. ^ 徳本栄一郎 「英国機密ファイルの昭和天皇」 新潮社 2007
  13. ^ [2] NHKドラマスペシャル白洲次郎 ホームページ
  14. ^ 平成18年(2006年)4月にNHK番組『その時歴史が動いた』でも取り上げられた。
  15. ^ 『風の男 白洲次郎』
  16. ^ 朝日新聞の中村省吾と東京新聞の酒井米夫。
  17. ^ 文藝別冊 総特集 白洲次郎 河出書房新社 2002年 62-65頁
  18. ^ 『東北電力株式会社50年のあゆみ』
  19. ^ 死の数年前、何日かにわたって古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべていたという。長女の桂子が「何を燃やしているの?」と尋ねるとそれには答えず、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたという『白洲次郎 占領を背負った男』。
  20. ^ http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090907/elc0909070818002-n2.htm
  21. ^ 高田義久 著:『三田藩の進路をリードした 大参事白洲退蔵』より[3]

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 新潮文庫、平成18年(2006年)6月、初版ワイアンドエフ
  • 白洲正子 『遊鬼』、『白洲正子自伝』 各新潮社、新潮文庫、のち新潮社<全集>
  • 青柳恵介、序文白洲正子 『風の男 白洲次郎』、※元版は追悼の際の私家版
    新潮社、平成9年(1997年)11月、新潮文庫、平成12年(2000年)8月
  • 『文藝別冊 白洲次郎』 <KAWADE夢ムック>河出書房新社、平成14年(2002年)4月
  • 牧山桂子ほか 『白洲次郎の流儀』<とんぼの本> 新潮社、平成16年(2004年)9月、ISBN 4106021188
  • 白洲正子ほか 『白洲次郎』<コロナ・ブックス67> 平凡社、平成11年(1999年)
  • 北康利 『白洲次郎 占領を背負った男』 講談社、平成17年(2005年)
     講談社文庫上下、平成20年(2008年)12月、解説は櫻井よしこ
  • 北康利 『レジェンド伝説の男 白洲次郎』 朝日新聞出版 平成21年(2009年) 
  • 鶴見紘 『白洲次郎の日本国憲法』 光文社知恵の森文庫、平成19年(2007年)
    初版ゆまに書房、1989年、※最初に出された評伝
  • 徳本栄一郎 『英国機密ファイルの昭和天皇』 新潮社、平成19年(2007年)5月
     新潮文庫、平成21年(2009年)11月、ISBN 4101291810、※実際には本書の主人公は白洲次郎である。
  • 白洲信哉 『白洲次郎の青春』 幻冬舎、平成19年(2007年)※主に写真集
  • 白洲信哉 『白洲家の流儀 祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」』 小学館101新書、平成21年(2009年)
  • 牧山桂子 『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』 新潮社、平成19年(2007年)4月
  • 牧山桂子・青柳恵介・須藤孝光 『白洲次郎と白洲正子  乱世に生きた二人』 新潮社、平成20年(2008年)9月
  • 牧山桂子・野中昭夫写真 『白洲次郎・正子の食卓』 新潮社、平成19年(2007年)1月
  • 牧山桂子・野中昭夫写真 『白洲次郎・正子の夕餉』 新潮社、平成20年(2008年)12月
  • 石井妙子 『おそめ 伝説の銀座マダム』 新潮社、平成18年(2006年)1月、ISBN 489691984X
     新潮文庫(2009年4月)、※白洲はバー「おそめ」の常連だった。
  • 馬場啓一 『白洲次郎の生き方』 講談社、平成14年(2002年)(のち講談社文庫
    • 馬場啓一『白洲次郎のダンディズム なぜ男らしくありえたのか』 ぶんか社文庫、平成20年(2008年)
  • 清水将大編著 『白洲次郎名言集 男の品格2』 コスミック新書(コスミック出版)、平成19年(2007年)
  • 勢古浩爾 『白洲次郎的』 洋泉社新書y124、平成16年(2004年)

[編集] 外部リンク

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