白洲次郎
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白洲 次郎(しらす じろう、1902年(明治35年)2月17日 - 1985年(昭和60年)11月28日)は兵庫県芦屋市出身の日本の実業家である。終戦直後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、貿易庁(通商産業省)長官等をつとめる。独立復興後は、東北電力会長等を歴任した。夫人は、作家・随筆家の白洲正子。しばしば「白州」と誤記されるが「州」ではなく「洲」が正しい。
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[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。後に兵庫縣川邉郡伊丹町[1](のち伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居。
1919年(大正8年)、旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)時代は[2]サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時すでにペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し後のカーマニアの片鱗を見せていた。神戸一中での成績は中の下。成績表の素行欄には、『やや傲慢』とか『驕慢 』『怠惰』といった文字が並んでいる[3]。同級生には後に作家で文化庁長官となった今日出海、中国文学者で文化功労者となった吉川幸次郎がいる。
[編集] イギリス留学
神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学し西洋中世史、人類学などを学ぶ。自動車に耽溺し、ブガッティやベントレーを乗り回す。7代目ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(愛称:ロビン)と終生の友となる。ロビンとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。
1925年(大正14年)、ケンブリッジ大学を卒業。
[編集] 帰国
1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のち中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国を余儀なくされる。
1929年(昭和4年)、英語新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となる。伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。 結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役(1937年(昭和12年))を歴任する。この間、海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役を押しつけられていたこともあった。
[編集] 「ヨハンセン・グループ」
1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷町)の古い農家を購入し、武相荘(ぶあいそう)と名付けて隠棲。徴兵回避。農業に励む日々を送る一方で吉田を中心とする宮中反戦グループ「ヨハンセン・グループ」(“よしだはんせん”に因む)に加わる。同年に、長女・桂子がうまれる。
[編集] 終戦連絡中央事務局
1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[4]。
終戦直後、広畑製鐵所(のち新日本製鐵広畑製鐵所)のイギリスへの売却を画策したといわれる。永野重雄によってこれは免れたが、戦後復興に欠かせない日本最大・最新鋭の製鉄所の外国資本への売却は、賛否が分かれるところである[5]。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。GHQ民政局長のコートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と逆襲したという[6]。
武相荘のメールマガジンでは、『「マッカーサーを怒鳴りつけた男」 と書かれるに至っては、白洲は筋を通してもそんな失礼な男ではなかったと言いたくなります。』との記述がある。[7]
また、占領期の膨大なGHQ文章を保管しているバージニア州ノーフォークにあるマッカーサー・アーカイブにおいて一九四五年と四六年の十二月の執務記録、面会予定表、ゲストブックの全てに白洲次郎の名前が見つからないことから、次郎がマッカーサーに天皇のプレゼントを届けたエピソードは創作の可能性が高いようであるとする意見もある[8]。
[編集] 憲法改正
同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年))2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。次郎は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡[9]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明される。
同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任する。
[編集] 貿易庁初代長官
1948年(昭和23年)12月1日、商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。この年、米軍が戦時に攻撃を避け、占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の広畑製鐵所が、日本側に返還されることになった。次郎はイギリスに売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。その後、次郎と永野はその後銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなり、永野が次郎の顔を机に押さえつけた逸話も残る[10]。
1950年(昭和25年)、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。
1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更され、随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30mにも及ぶ巻物となり、内容には奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。
1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻る。
[編集] 実業界へ復帰
既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた次郎は、1951年(昭和26年)5月に東北電力会長に就任する。就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(のちマルハ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。
[編集] 死去
80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じていたが、1985年(昭和60年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。83歳没。墓所は兵庫県三田市の心月院である。夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、次郎の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして次郎の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。
[編集] オイリー・ボーイ
白洲の車好きは有名である。イギリス留学中にベントレーやブガッティを乗り回し、「オイリー・ボーイ」(オイルにまみれるほどの車好き)と呼ばれていた。ロンドンから1時間ほどのレーシングコース「ブルックランド」においてベントレーで快走していた。また、2代目トヨタ・ソアラの開発に際しては事実上のアドバイザー役を務めた。
[編集] 主な車歴
- 1919年型ペイジ・グレンブルック - 中学生時代に使用。
- 1924年型ベントレー3リッター - イギリス留学中に所有。後にエンジンを4.1/2リッターに載せかえるなどされたが、その後日本に持ち込まれ、現在は株式会社ワク井商会が所有している(紹介ページ)。
- ブガッティ・タイプ35 - イギリス留学中に所有。イギリスに現存。
- ランチア・ラムダ
- ハンバー・ホーク
- ランドローバー
- 三菱・ジープ
- 1960年型メルセデス・ベンツ450
- 三菱・ミラージュ - 晩年、ショーファードリブンとして使用していた[要出典]。
- トヨタ・ソアラ
- スバル・サンバー
- 1968年型ポルシェ911S - 晩年の愛車。1968年式のエンジンは本来2リッターだが、2.4リッターのものに換装した。ソアラ(2代目)開発の為に寄贈。
[編集] Winter Vacation 1925-1926(ヨーロッパ大陸12日間の旅)
残っているノートには"where we stayed"とあるため、親友ロビンと旅したようである。[要出典]
- Southanpton
- Le Havre
- Le Mans
- Tours
- Poitier
- Bordeaux
- Biarritz
- San.Sabastien
- Victoria
- Burgos
- Valladolid
- Madrid
- Toledo
- Valdepenas - この近くでガソリン・タンクが壊れた。
- Jaen
- Granada - アルハンブラ見物をした。
- Seville - アルカサル王城の庭園への入場券が記録として残っている。
- Gibraltar
- Marseille
- Aix
- Grenoble
- Aix-les-Bains
- Grenve
- Dision
- Chatillon
- Fontainebleau
- Paris
- Amien
- Abbeville
- Boulogne
- Folkstone
[編集] エピソード
- 白洲次郎に関する一次資料はほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である[11]。
- 身長185cm、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある[12]。
- 身長についてはNHK番組『その時歴史が動いた』では185cmと紹介されたが、武相荘ホームページメールマガジン2008年12月25日第86号によると175cmとなっている。
- 非常にせっかちな性格の持ち主。その為ゴルフは「プレイ・ファスト」、食事は早食い。酒も手早く済ませたと伝えられている。軽井沢ゴルフ倶楽部では「素振り禁止」と張り紙をしたり、次郎の方から食事に誘った友人よりも早く食べ終えて「早くしろよ」と急かす事もしょっちゅうだった。
- 日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられている(サンフランシスコ講和条約締結に向かう機内で着用した)。また、ラッパズボンも愛用していた。
- 晩年、彼が政治家として最も評価していたのは英語使いとして知られた元官僚の宮澤喜一であったが、晩年の正子はこれを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。
- 結婚当初、正子を「薩摩の奴らは江戸に入城した時は、・・・」とからかったら正子から横っ面に一発ビンタを御見舞いされ、それ以降「薩摩」を揶揄する事はなかったそうである。
- 映画『夜の蝶』(1957年(昭和32年)、大映、原作川口松太郎)の主人公、白沢一郎(演じたのは山村聡、コロンビア大学卒の前国務大臣。イラン石油輸入権を持ち政界に多大な力を持つ富豪の実業家)のモデルは彼である。
- 手先が器用で日曜大工が趣味の1つ。しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなど日用品を良く作っていた。
- 2009年、マッカーサー記念館の倉庫から、白洲が設計しマッカーサーに贈答された椅子と書簡が見つかった。なお、書簡の一通は白洲がマッカーサーに宛てたもの、もう一通は返信の写しだがマッカーサー本人からの物ではない。
- 食べ物は基本的には肉類を好み、高齢になってからも大食漢。80歳を過ぎても250gのステーキを平らげていた。また明太子も好物だった。次郎は戦後に西鉄がプロ野球球団を設立する際の後ろ盾になったがその時、西鉄側に土産として明太子を持ってこさせた。最初に西鉄側が土産に持ってきたところ気に入ったためのようで、パンに塗って食べるのが好みだったようである。
- 神戸一中時代に、宝塚歌劇団に10歳位年上のガールフレンドがいた。
- 東北電力会長時代、ゴム長を履き自ら車を運転して各地のダム建設現場を回り飯場に泊まり込んで土木作業員やその家族と親しく酒を酌み交わした。普段の厳しい姿を知っている東北電力社員が畏まっているのとは対照的に作業員の子供は次郎に良く懐き、膝の上に抱かれる事も多かったという。次郎以外の社員には全く寄り付かない子供たちを見て次郎は「子供には、誰が本当にいい人か分かるんだよ」と言って笑い、周囲を悔しがらせた。
- また軽井沢ゴルフ倶楽部時代、早朝の散歩を兼ねて場内を見回っていた時、工事のため徹夜で見張りをしていた鹿島建設の社員に「おい爺さん、立ち入り禁止だ」と咎められた事がある。後に理事長室に呼び出され咎めた相手が理事長の次郎と知った社員はクビを覚悟したが次郎は彼を親しく自分の隣に座らせた上、同席していた鹿島建設役員に「一所懸命やってくれるのは有難いが、下の者に無理をさせてはいかん」と諭した。キャディー等のゴルフ場の裏方にも気さくに接し、慶弔時には小マメに祝いの品や香典等を贈っていた。死去して20年以上経った今でも、次郎から貰った品を大切に保管している人も多い。ある時フロント係の女性が結婚した事を知ると、倶楽部会員や知人に回状を廻して祝い金を集めて贈った。回状の署名には佐藤栄作、井深大、水上勉、川口松太郎・三益愛子夫妻など錚々たる人物名が記してあった。
- 次郎はジョークのセンスもなかなかのものであり、頭は柔らかいが「うるさがたの爺様」だったようである。中曽根康弘が軽井沢ゴルフ倶楽部に立ち寄った際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡を用いて中曽根の様子をうかがっていたところ「なんだ? バードウオッチングか?」と強烈に皮肉ったといわれている(当時、中曽根は政治的立場をよく変えるため「風見鶏」と揶揄されていた)。一方で運転手にシューズの紐を結ばせている会員を見かけた時には「おい、手前ぇには手がないのか!」と一喝し、その場で追い返してしまった事もあった。
- 吉田の総理退陣(1954年(昭和29年))後、長男である吉田健一に後継としての政界入りを打診する。しかし、政界への興味のなさと小りんとの再婚以後の茂との折り合いの悪さなどから、「その器ではない」と健一に断られる。これは次郎にとって痛恨事であったようで、後年に至るまでこの健一の態度についてかなりの悪口を言っていたらしい。その悪口を聞く機会があった辻井喬(堤清二)は後に著作の中で、およそ次郎に当てはまらぬ「可憐な人」との表現を用いて強烈に皮肉った。
[編集] 田中角栄に関連するエピソード
田中角栄とのエピソードも幾つか存在する。
- 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえもルールを守るということを第一にした。次郎が理事を務めるゴルフクラブに、ある日秘書らしき若者から「これから田中がプレイしますのでよろしく」 と挨拶があった。応対した次郎が「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」と返したところ、「総理の田中です」と返答があった。「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」と次郎が尋ねると相手からは「会員ではありませんが、総理です」と返答があった。次郎は「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」と言い、そっぽを向いたとのことである。
- クラブのトイレに「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という理事長の張り紙があったにもかかわらず無視した田中に「おい、お前は日本語が読めねえのか」と言った。
- 田中に対してはクラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。次郎は田中に対してはその人物を認めつつ、「あの人は若いころあまりにも金に苦労しすぎた」と金銭的に貧しかった境遇に同情していた。
- 田中を批判するばかりではなかった。ロッキード事件が起こると、各新聞は「容疑者の田中は…」と書きたてた。次郎は新聞社の社長に向かって「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は4年前彼を今様太閤として「戦後日本が生んだ英雄」とおだてていました。今、容疑者田中と書くならなぜその前に「本誌はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした」とお詫びと訂正を載せてからにしないのですか」と主張した。
[編集] 名言集
- 「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」(Although we were defeated in war, we didn't become slaves.)
- 「Masa: You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」(交際中に正子に送ったポートレートに添えられた言葉。Jonは次郎のことである)
- 「お嬢さんを頂きます」(正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父・樺山愛輔に言った台詞)
- 「ネクタイもせずに失礼」(新婚当初、正子との夕食の席で)
- 「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」(GHQによる憲法改正案を一週間缶詰になり翻訳作業を終え、鶴川の自宅に帰ったときに河上徹太郎にはき捨てた台詞)
- 「僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ」(ケンブリッジ大学に留学した理由を問われて)
- 「我々の時代に、戦争をして元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」(『頬冠をやめろ-占領ボケから立直れ』より)
- 「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』より)
- 「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
- 「“No Substitute”(かけがえのない)車を目指せ」(2代目トヨタ・ソアラ開発に際して開発責任者の岡田稔弘に)
- 「地位が上がれば役得ではなく“役損”と言うものがあるんだよ」(犬丸一郎が帝国ホテルの社長に就任するに当たって贈った言葉。地位に固執しなかった次郎の考え方が良く表れている)
- 「ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ」三宅にアドバイスとして。
- 「わからん!」(正子の『西行』を読んで)
- 「一緒にいないことだよ」(晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて)
- 「Hope She will be MORE TIDY! 1979」(武相荘にあるブラシ入れの底裏のメッセージ。おそらく正子へのうっぷん)
- 「今の日本の若い人に一番足りないのは勇気だ。「そういう事を言ったら損する」って事ばかり考えている」
- 「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」(晩年、東京赤坂・前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女の(現・牧山)桂子に向かって)
- 「右利きです。でも夜は左」(入院した病院で看護師さんに「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。ちなみに“左利き”とは“酒飲み”という意味を持つ)
[編集] 白洲次郎を取り上げた作品
[編集] 宝塚歌劇
宝塚歌劇団・宙組(そらぐみ)は、2008年(平成20年)に「黎明の風」という題名で次郎の波乱の生涯を扱った。2月、宝塚大劇場で初演。同劇場は宝塚歌劇団の本拠地であり、兵庫県宝塚市は白洲家の出身地である三田市の隣町でもある。2~3月は宝塚大劇場で、4~5月は東京宝塚劇場で上演。5月にDVDやCDも発売される。次郎を演ずるのは同歌劇団理事で専科の轟悠。マッカーサー(大和悠河)や吉田茂(専科の汝鳥伶)をタカラジェンヌが演じ話題となった。
次郎は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男は東宝東和社長)、また前述のとおり次郎が神戸一中時代にタカラジェンヌと知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇団に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。
[編集] その他の作品
- 憲法はまだか 平成8年(1996年)11月30日放送 NHK
- その時歴史が動いた 平成18年(2006年)4月5日放送 NHK
- 「マッカーサーを叱った男」として主にGHQとの交渉から通産省設立までを描く。
- その時歴史が動いた コミック版 経済立国編 にてコミック化。作画は殿塚実
- たけし・さんまの世界超偉人100万人伝説 平成6年(1994年)4月1日放送 日本テレビ
- 「風の男・白洲次郎伝説」として生い立ちから晩年までを紹介。スタイリッシュながらも気骨ある生き方に明石家さんまが興味を持った。
- 明石家さんま特番〜白洲次郎に会いに行く 平成18年(2006年)7月19日放送 TBS
- 世界超偉人伝説で白洲に興味を持ち心酔するようになった明石家さんまが、約10年越しで実現させた番組。ゆかりの人物を武相荘に招いてのトークや、白洲の人となり等を紹介。
- NHKドラマスペシャル・白洲次郎 平成21年(2009年)2月28日放送 NHK
- 男たちの肖像/風の男・白洲次郎 WOWOW
- BILLY BAT(講談社 週刊モーニング)
[編集] 家系
[編集] 白洲家
白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵(文政12年7月15日(1828年8月15日)、現・兵庫県三田市屋敷町にて出生。父(曽祖父)は白洲文五郎、母(曽祖母)は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市)一柳家の家老黒石氏の娘・里子[13])は三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。また現在の元町、三宮といった神戸港周辺の神戸市の都市開発や神戸ホーム(神戸女学院の前身)の創立にも尽力した。
父・白洲文平はハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。
[編集] 子孫
- 長男(第一子):白洲春正は元東宝東和社長
- 次男(第二子):白洲兼正
- 長女(第三子):白洲(現・牧山)桂子は旧白洲邸・武相荘館長
- 孫:白洲信哉(兼正の長男、母は小林秀雄の長女・明子)は元内閣総理大臣・細川護熙の元公設秘書でアートプロデューサー、エッセイスト、株式会社ジパング代表取締役
[編集] 脚注
- ^ 牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』より
- ^ 『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社文庫)
- ^ 『白洲次郎 占領を背負った男 上』(講談社文庫)
- ^ 『白洲次郎 占領を背負った男 上』(講談社文庫)
- ^ 徳本栄一郎 「英国機密ファイルの昭和天皇」 新潮社 2007
- ^ 『白洲次郎 占領を背負った男 上』(講談社文庫)
- ^ [1] 武相荘メールマガジン
- ^ 文藝春秋2008年10月号 徳本栄一郎「白洲次郎知られざる素顔」
- ^ いわゆる「ジープウェイ・レター」。ホイットニーからの返事が国立国会図書館に保存されている(紹介ページ)。
- ^ 徳本栄一郎 「英国機密ファイルの昭和天皇」 新潮社 2007
- ^ [2] NHKドラマスペシャル白州次郎 ホームページ
- ^ 平成18年(2006年)4月にNHK番組『その時歴史が動いた』でも取り上げられた。
- ^ 高田義久 著:『三田藩の進路をリードした 大参事白洲退蔵』より[3]。
[編集] 関連項目
- 武相荘
- 牧山桂子
- 吉田茂
- 松永安左ヱ門
- 河上徹太郎 - 昭和20年(1945年)3月の東京大空襲(ないし5月の山手空襲)で焼け出され、5月より約2年間鶴川の白洲邸に寄宿する。
- 吉田満(次郎は小林・河上徹太郎の依頼で、吉田の『戦艦大和ノ最期』の出版をGHQに働きかける)
- 白洲正子
- 三宅一生
- 軽井沢ゴルフクラブ
- 東北電力
- 芦屋市
- 伊丹市
- 町田市
- 三田市
- UBS - 旧S.G.ウォーバーグ証券。今でも受付には次郎の肖像画がウォーバーグと共に飾られている。
- 神戸女学院中学部・高等学部
- 神戸女学院大学
- 兵庫県
- 三田藩
- 九鬼隆義
- 相楽園
- 宝塚歌劇団
- 只見特定地域総合開発計画
[編集] 参考文献
- 白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ、新潮文庫、平成18年(2006年)6月
- 白洲正子 『遊鬼』、『白洲正子自伝』 各新潮社、新潮文庫、のち新潮社<全集>
- 青柳恵介、序文白洲正子『風の男 白洲次郎』 新潮社、平成9年(1997年)11月、新潮文庫、平成12年(2000年)8月
- 『文藝別冊 白洲次郎』 <KAWADE夢ムック>河出書房新社、平成14年(2002年)4月
- 牧山桂子ほか 『白洲次郎の流儀』<とんぼの本> 新潮社、平成16年(2004年)9月、ISBN 4106021188
- 白洲正子ほか 『白洲次郎』<コロナ・ブックス67> 平凡社、平成11年(1999年)
- 北康利 『白洲次郎 占領を背負った男』 講談社、平成17年(2005年) 講談社文庫上下、平成20年(2008年)12月 解説は櫻井よしこ
- 北康利 『レジェンド伝説の男 白洲次郎』 朝日新聞出版 平成21年(2009年)
- 鶴見紘 『白洲次郎の日本国憲法』 光文社知恵の森文庫、平成19年(2007年) ※初版ゆまに書房、1989年
- 徳本栄一郎 『英国機密ファイルの昭和天皇』 新潮社、平成19年(2007年)5月、ISBN 410304831X
- ※実際には本書の主人公は白洲次郎である。
- 白洲信哉 『白洲次郎の青春』 幻冬舎、平成19年(2007年)、※主に写真集
- 白洲信哉 『白洲家の流儀 祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」』 小学館101新書、平成21年(2009年)
- 牧山桂子 『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』 新潮社、平成19年(2007年)4月
- 牧山桂子・青柳恵介・須藤孝光 『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 新潮社、平成20年(2008年)9月
- 牧山桂子・野中昭夫写真 『白洲次郎・正子の食卓』 新潮社、平成19年(2007年)1月
- 牧山桂子・野中昭夫写真 『白洲次郎・正子の夕餉』 新潮社、平成20年(2008年)12月
- 石井妙子 『おそめ』 新潮社、平成18年(2006年)1月、ISBN 489691984X
- 馬場啓一 『白洲次郎の生き方』 講談社、平成14年(2002年)(のち講談社文庫)
- 馬場啓一『白洲次郎のダンディズム なぜ男らしくありえたのか』 ぶんか社文庫、平成20年(2008年)
- 清水将大編著 『白洲次郎名言集 男の品格2』 コスミック新書(コスミック出版)、平成19年(2007年)
- 勢古浩爾 『白洲次郎的』 洋泉社新書y124、平成16年(2004年)
[編集] 外部リンク
- NHKドラマシリーズ 白洲次郎 2009年2月28日放送
- 旧白洲邸・武相荘
- 伊丹人物再発見シリーズ(4)-白洲次郎と伊丹-
- 伊丹人物再発見シリーズ(5)-白洲家と伊丹-
- 関連家系図
- タカラヅカ公演『黎明の風』
- 『黎明の風』DVD・CD

